第8話 セラの休養日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
貴族フェルン家に仕える住み込みメイド、セラ・ミルト。飛び抜けて器用ではないけれど面倒見が良く、頼まれごとには何でも即答してしまう性分。主人一家に振り回され、時にはドジも重ねながら、新人指導や屋敷の困りごとを人と人の繋がりでほどいていく。小妖精の噂も囁かれるこの屋敷で、セラは今日も手一杯の一日を駆け回る、心温まる日常物語。
本文
茶会の翌朝、セラはいつもより早く洗濯場で仕事を始めていた。
盥に水を張っていると、廊下からマルタの声がした。
「セラ。ちょっと来てくれ」
いつもの視察の声とは、どこか違っていた。セラは濡れた手を布巾で拭い、マルタのもとへ向かった。
マルタの部屋は、使用人棟の一角にある。机の前に立ったまま、マルタはセラの顔をじっと見た。
「あんたは、この一週間、いつ寝てる」
「え……朝は五時前には起きて、夜は」
「夜は何時に寝てる」
セラは言葉を濁した。正直に答えれば、マルタの眉間の皺がもっと深くなる気がした。
「あんたの顔を見ればわかる」
マルタは、それだけ言うと、結論を告げた。
「明日から数日、屋敷を出て休め」
「え」
セラは反射的に反論した。
「奥様の茶会も終わったばかりですし、エルシーの指導も、明日からまた」
「ノーラとエルシーで回す」
マルタは、その一言で退けた。
「あんたがいなくても、屋敷は回る。そのくらい、理解しておけ」
「ですが」
「断言する。大事には至らない。あんたは休め」
マルタの言い方に、セラは逆らう言葉を失った。七年働く中で、マルタがこれほど強く命じることは、数えるほどしかなかった。
「実家に帰れ。母親にでも会ってきなさい。三日ほどでいい」
「……かしこまりました」
セラは、小さく頭を下げた。
馬車が屋敷から遠ざかるにつれ、セラの心は逆に屋敷へ引き寄せられていった。
洗濯場の繕い物は、今朝の分は終わったはずだが、週末に向けてまだ溜まっている。エルシーは洗濯物の干し方で、まだ確認が必要な場面がある。それから、二階の南窓のカーテンの裾が擦り切れかけていて――
頭の中で、仕事の一覧が、勝手に編み始まった。
セラは、両手を膝の上で握った。マルタは「屋敷のことは考えるな」と言った。だが、何度断ち切っても、思考は同じところへ戻ってくる。
窓の外を、秋の畑が流れていった。
実家の門へ着いたのは、昼過ぎだった。
母は庭で野菜を洗っており、セラを見ると驚いた表情になった。
「セラか。どうしたんだい、こんな時間に」
「マルタさんが、少し休めと」
「そうか。ちゃんと言ってくれるんだな。悪いことじゃない」
母は手を拭いて、セラの顔をじっと見た。
「顔色、悪いな。中へ入れ」
台所には、いつもの匂いがしていた。味噌と麦と、干した野菜の匂い。セラは幾度となくその匂いの中で育ったが、久しぶりに嗅ぐと、身体の力が少し抜ける感覚があった。
夕方まで、セラは母と弟の手伝いをした。田の仕事は、もともと農家出身だから手になじんでいる。だが作業をしながら、心の片隅では、相変わらず屋敷のことを考えていた。
夜、煮込み料理をしながら、母がセラに話しかけた。
「館の仕事、大変なんだろう」
「いいえ。いつも通りです」
セラは、その返答をしながら、自分がどれほど上滑りした言葉を口にしているか、薄々気づいていた。
「そんなじゃないって、顔に書いてある」
母は、火を見ながら、静かに続けた。
「お前は昔から、頼まれたことを断らん。それで、いつも自分を追い詰める」
セラは、野菜を刻む手を止めた。
「それでな。聞きたいんだが」
母が、セラの方を向いた。
「お前は、役に立つためだけに生きてるのか」
その問いかけは、柔らかい口調で投げられたが、セラの心にまっすぐ刺さった。
「……」
セラは、返答ができなかった。何か違う答えを言わねばならないような気がして、だから黙っていた。
母は、それ以上、言葉を足さなかった。ただ、火をやさしく調整し、煮込みを混ぜ続けるだけだった。
その夜、セラは実家の自分の部屋に戻った。小さな部屋で、屋敷のそれより荷物が少ない。窓からは畑が見え、どこかで犬が鳴いていた。
天井を見つめながら、セラは母の言葉を反芻していた。
役に立つためだけに生きているのか。
その答えは、簡潔だ。――いいえ、と言いたい。だが、自分が本当にそう思っているのか、確信が持てなかった。
もしセラが、何もできない状態になったら、自分に、何が残るのか。
その考えが、セラの胸を圧していた。
翌日、村の物売りを手伝った。かごを持ちながら母や弟と歩く間も、頭の中は依然として屋敷にあった。ノーラは、菓子作りの時のように自分の判断で動くだろう。エルシーは、まだ不慣れだから、ノーラが指示をするだろう。
セラが三日間ここにいなくても、屋敷は回る。
その事実は、奇妙に、安心と不安を同時にもたらした。
屋敷に戻ったのは、三日目の夕方だった。
玄関へ入ると、いつもと変わらぬ香りがした。床の蝋も、ちゃんと引かれている。
洗濯場では、ノーラとエルシーが積まれた布を畳んでいた。
「あ、先輩、おかえりなさい」
エルシーが顔を上げた。
「お疲れさま。何か、大変なことはありませんでしたか」
「ん? 特にはな」
ノーラが答えた。手を止めずに。
「あんたがいなくても、結構、回っちゃったよ。朝食の支度も、鍋なんか自分で洗ったし。客間の花も、もう枯れてきたから昨日片づけた」
セラは、その言葉を受け止めた。
屋敷は回った。自分がいなくても。
安堵と、同時に、何か取り残されたような感情が、胸の奥で絡み合った。
「そうですね」
セラの声は、思ったより小さくなった。
その夜、マルタから呼ばれた。
侍女長室へ向かう足取りは、朝よりも重かった。
マルタは、机の前に座ったまま、セラを見上げた。
「三日は、どうだった」
「ゆっくりできました」
セラは、それだけ答えた。
「屋敷のことは、気がかりか」
セラは、少し間を置いてから答えた。
「……最初は、心配でした。ですが、ノーラとエルシーがちゃんと対応していたんだと、分かりました」
マルタは、そこで小さく頷いた。
「屋敷は回った。あんたが抱え込む必要はない」
その言葉は、聞きようによっては冷たいものにも聞こえた。だが、続く言葉の中に、別の意味が込められていた。
「助けを求めるのは、無能の証明なんかじゃないんだ」
セラの中に、何かが静かに動いた。
以前、マルタが「早めに言いなさい」と言った時、セラはそれを指示として受け取っていた。だが今、その言葉の向こうにあるものが、少しだけ見えた気がした。
セラは、戸惑いながらも、自分の言葉で、それを言い直してみた。
「……助けを求めることは、無能の証明じゃないんですね」
マルタは、その言葉を聞くと、少し目を細めた。
「そうだ」
その一言の中には、承認と、何か別の感情も含まれていた。セラには、それが何かは、まだ言葉にできなかった。
夜、セラは自分の部屋で、編みかけのリボンを取り出した。
ミレイユのために編んでいるもので、実家へ行く前も、茶会の準備の最中も、手をつける日数は限られていた。今夜は、心が静かに落ち着いている感覚があって、針を持つことができた。
窓の外は、館の夜景で、廊下には、時折、誰かの足音が通る。
母の問い「役に立つためだけに生きてるのか」に、まだ答えは出ていない。
ノーラの淡々とした「結構、回っちゃった」という言葉も、まだ完全には腑に落ちきっていない。
マルタの「助けを求めるのは無能の証明じゃない」も、頭では分かったが、心がそれを全部、受け入れたわけではない。
だが、それでいいのだと思えた。
完全に確信する必要はない。考え直すこと。その過程の中にいることで、十分だった。
廊下の向こうから、マルタの足音が近づいてくるのが聞こえた。だが今夜は、部屋の前で止まることもなく、静かに通り過ぎていった。
その足音の余韻を聞きながら、セラは編みかけのリボンに、また一針を通した。
翌朝、洗濯場でセラがノーラに会った。
「おはようございます」
「おす」
ノーラが返す。セラは、洗濯物を広げながら、少し言葉を選んで言った。
「ノーラ、あたし、考え直したことがあります」
「ん? 何だ」
「これまで、あたしが全部やらなくちゃって思ってました。でも、三日いなくても、屋敷は回ったんですね」
ノーラは、洗濯物を畳む手を止めて、セラの顔を見た。
「あたし、無能なんじゃなくて、誰かに頼ってもいいんだって……少しだけ、そう思えるようになりました」
セラの言葉は、それでもたどたどしかった。
ノーラは、その言葉を聞いて、小さく笑った。
「そっか。いいじゃん」
その返答に、セラは胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。
完全に変わったわけではない。明日、また別の頼みごとが重なれば、同じように焦り、同じように一人で背負おうとするかもしれない。抱え込む癖も、即答してしまう性分も、今日一日で消えてなくなったわけではない。
けれど、「助けを求めることは無能の証明ではない」という言葉を、自分の口で言えたことで、何かが、ほんのわずかに動いた。
セラは、洗濯物を盥に入れながら、その小さな感覚を、大事にしようと思った。
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