8月32日行きの線路
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
8月31日午後23時55分。 去年の夏から時間が止まったままの僕のもとに、亡くなった彼女から『終電に乗って』というメッセージが届く。 無人駅で僕を待っていたのは、ありえない日付を指す電光掲示板と、あの日と変わらない笑顔の彼女だった。 夏が終わるまでに、君とやり残した宿題を終わらせる。 止まった時間と新しい季節が交差する、一夜限りの幻想的な夏の終わりの物語。
本文
8月31日午後23時55分。
蝉の鳴き声はいつの間にか途絶え、夜風にはかすかに秋の冷たさが混じりはじめていた。
僕の止まったままの時計と画面の暗いスマートフォン。去年の夏から1ミリも前に進めていない僕の元に、光った通知が届く。
『終電に乗って』
それは一年前の夏に事故で亡くなった彼女からのメッセージだった。
最初に思ったのは、悪質な冗談だということだった。けれど画面に表示された送信者名は「水瀬 栞」、間違いなく彼女の名前だった。
亡くなった人間のアカウントがどうして——いや、もっと現実的な話誰かが彼女のスマホを拾って悪戯をしているのかもしれない。
そう結論づけようとして、僕の指は勝手に別の可能性をなぞっていた。
部屋の窓を開けると外の空気がすっと首筋に触れた。
八月の終わりの夜は、昼間の蒸し暑さが嘘のように澄んでいる。ベランダの手すりに触れると、昼間に蓄えた熱がまだ微かに残っていてそれが妙に生々しかった。
僕は迷わなかったわけじゃない。
むしろ迷いの塊みたいなものだった。
でも、あの通知を見てから体のどこかが勝手に動いていた。
ラフなTシャツにジーンズ、財布とスマホだけをポケットに入れてスニーカーを突っかける。
玄関のドアを開ける音が、やけに大きく響いた。
家を出て、誰もいない夜道を歩く。街灯の光が等間隔に落ちていて、その間の闇が妙に濃い。コンビニの明かりだけが遠くに見えて、そこに立ち寄る気力もなかった。足は自然と、あの無人駅へと向かっていた。
僕と栞が子供の頃、よく遊んだ場所。電車が一時間に一本しか来ない、小さな駅。
今はもうほとんど使われていない。
駅舎は木造で、屋根のペンキはところどころ剥がれている。ホームに続く階段は、蹴ると埃が舞う。
駅に着いたのは、0時を回る少し前だった。あたりはしんと静まり返っていて、自分の足音だけがやけに響く。切符売り場の窓は閉まっていて、古い木の匂いがした。埃と湿気と、それから昔の記憶の匂いが混ざったような、そんな匂い。
券売機の前に立つと、電光掲示板が目に入った。普段は「次発 00:12」とか表示されているはずなのに、そこには見たことのない文字が浮かんでいた。
『8月32日 00:00』
目を疑った。
瞼をこすってもう一度見ても表示は変わらない。
いや、むしろじっと見ていると、光の粒が集まってその文字が浮かび上がってくるようにさえ見えた。
ふいに遠くから、微かな振動が地面を伝わってきた。線路に耳を澄ませると、レールがカタカタと鳴り始める。電車が来る。でも、こんな時間にこんな駅に、電車なんて来るはずがない。
なのに、闇の向こうから光が近づいてきた。
眩しかった。思わず目を細めるほどの白さで、それは一直線にこちらへ迫ってくる。でも音はやけに静かで、風を切る音とレールの継ぎ目を踏む微かな振動だけが聞こえた。
入線してきたのは一両編成の小さな電車だった。だけど、普通の電車じゃない。車体は黒く窓からは柔らかな光が漏れている。その光は、まるで夜明けの空のような色をしていた。青と白と、ほんの少しのオレンジ。それは朝焼けと夜空が混ざったような、見たこともない色だった。
電車は静かに止まり、ドアが開いた。中からは古い木と、線路の鉄の匂いと、それから夏の終わりの匂いがした。どこか懐かしい、でも切ない匂い。
僕は、吸い込まれるように、その電車に乗り込んだ
ーー
車内は、思っていたより広く感じた。木の床は磨かれていて、古い電車特有の油と鉄と木の匂いがした。座席は二人掛けのボックスシートで、向かい合わせになっている。窓は大きく外の闇がゆっくりと流れていくのが見えた。
そして、彼女がいた。
水瀬 栞。
一年前と少しも変わらない姿で窓側の席に座っていた。
白いワンピースに、いつものサンダル。長い黒髪は夜風に少しだけ揺れている。
彼女は、僕が乗り込んできたのを見るとゆっくりと顔を上げて、ふっと笑った。
「遅いよ、悠真」
その声は、去年の夏に聞いたままの声だった。少し高くて、でも落ち着いていて僕の名前を呼ぶとき、いつも優しかった。
「……栞」
声が震えた。足がすくんで、その場に立ち尽くしてしまう。彼女はそんな僕を見て、少しだけ困ったように笑った。
「座ったら? ずっと立ってると、揺れるよ」
促されるまま、彼女の向かいの席に座る。座席は思ったより柔らかくて、でも冷たかった。電車がゆっくりと動き出す。窓の外の闇が、徐々に流れ始めた。
「これ、夢?」
僕がそう聞くと、栞は首をかしげて窓の外に目をやった。
「どうだろう。でも、夢にしては、ちゃんと痛いよね」
そう言って、自分の手のひらをそっと握ったり開いたりする。
その仕草が、あまりにも生前の彼女そのままで僕は胸が締め付けられるのを感じた。
電車は、闇の中を走っていた。でもただの闇じゃない。
窓の外には、時折、光の映像が浮かんでは消えていく。それは僕と栞の、過去の夏の記憶だった。
——小学三年生の夏。
二人で自転車に乗って、川沿いの道を走った。栞が転んで膝を擦りむいて、泣きそうな顔で僕を見た。
僕は自分のハンカチを水で濡らして、彼女の膝に当ててやった。
「悠真って、意外と優しいんだね」
——中学二年生の夏。
学校の屋上で、二人で花火を見た。栞は浴衣を着ていて、髪を結い上げていた。花火の光が彼女の横顔を照らしていた。
僕は、その横顔をずっと見ていたことを彼女は知らない。
「花火って、なんでこんなに切ないんだろうね」
——高校一年生の夏。
塾の帰り道二人でコンビニのアイスを食べた。
栞は、バニラ味を選んで僕はチョコ味を選んだ。
一口ずつ交換して、味を確かめ合った。
「チョコも悪くないね」
——去年の夏。
栞が事故に遭った日。
僕は、病院の待合室でただ祈ることしかできなかった。
でも、彼女は帰ってこなかった。
あの日から僕の時間は止まったままだった。
窓の映像は、どれも優しくてどれも切なかった。
まるで、フィルム映画をゆっくりと巻き戻しているような感覚。
電車の揺れが、その映像にリズムを与えていた。
「覚えてる? これ全部」
栞が、静かに言った。
僕は、うなずくことしかできなかった。
「私ね、ずっと、悠真に言えなかったことがあるの」
彼女は、窓の外の映像を見ながらぽつりぽつりと語り始めた。
「あの日、事故に遭う前悠真に渡そうと思ってたものがあって。でも、渡せなかった。それがずっと心残りだったの」
「……なにを?」
「んー、内緒。
でも、今なら渡せる気がする」
そう言って、彼女は自分の胸のあたりに手を当てた。
そこには、何もないはずなのに彼女の手のひらには、確かに何かがあるように見えた。
電車は、相変わらず闇の中を走っていた。
でも窓の外の映像は、少しずつ変わっていく。過去の記憶からもっと近い過去へ。
そして、今へ。
「悠真はさ、ずっと止まってるでしょ」
栞が、僕の目をまっすぐに見て言った。
その瞳は、生前と変わらず澄んでいて、優しかった。
「私が死んでから、悠真の時間、止まっちゃったでしょ。学校にも行かずに部屋にこもって、ずっと私のこと考えてる。違う?」
図星だった。
僕は、返す言葉が見つからなかった。
栞の言う通り、僕は一年間何もしていなかった。
学校にも行かず、友達にも会わずただ、彼女のことを考えて、後悔して自分を責めて、そんな日々を過ごしていた。
「ごめんね、私のせいで」
「違う!」
思わず、大きな声が出た。栞が少しだけ驚いた顔をする。
「栞のせいじゃない。僕が、僕が勝手に……」
「うん、わかってる。でもね悠真」
彼女は、そっと僕の手を握った。
その手は冷たかったけど、なぜか温かくも感じた。
「私は、悠真に笑ってほしいの。私のことは忘れなくていい。でも、私に縛られてほしくない。だって悠真には、これから先の人生があるんだから」
その言葉が、僕の胸に、ゆっくりと染み込んでいく。
涙が自然とこぼれた。
声を上げて泣きたかったけど、なぜか涙だけが静かに流れて声にはならなかった。
「私ね、今度は、ちゃんとお別れを言いに来たの。夏が終わるまでに、悠真とやり残した宿題を終わらせに来たの」
栞は、そう言って、窓の外を指差した。
そこにはいつの間にか、朝焼けの空が広がっていた。
藍色から紫、そしてオレンジへと変わるグラデーション。
それは、今まで見たどんな朝焼けよりも美しかった。
「ほら、見て。
朝が来るよ」
電車の速度が、少しずつ落ちていく。
窓の外の景色がゆっくりと流れ始める。
闇は消え、現実の世界が戻ってくる。
「悠真、私ね、言えなかったこと今言うね」
栞が、僕の耳元に顔を近づけてそっと囁いた。
「……大好きだったよ。ずっと、ずっと」
その言葉を聞いた瞬間電車は大きく揺れて、白い光に包まれた。
目を開けるとそこはもう、いつもの無人駅のホームだった。
——
時刻は、9月1日 06:00。
東の空は、すっかり明るくなっていた。
朝焼けの名残が、雲の端にほんのりと残っている。
空気は澄んでいて、ひんやりとしていた。
夏が終わり秋が始まる、そんな朝だった。
隣を見ると、栞の姿はもうなかった。
座席には彼女が座っていたであろう場所に、一枚の切符が置かれていた。
それは古い紙の切符で、そこにはこう印字されていた。
『またね』
たった三文字。でも、その三文字には彼女のすべてが込められているような気がした。
僕は、切符をポケットにしまい立ち上がった。足が少し痺れていたけど、そんなことはどうでもよかった。ホームを歩き、階段を降りる。
駅舎を出ると朝の光が僕を包んだ。
涙を拭って、空を見上げる。青く澄んだ空がどこまでも広がっていた。蝉の声はもう聞こえない。
代わりに、遠くから秋の虫の声が微かに聞こえた。
僕は、一歩を踏み出した。長い間止まっていた足が、ようやく前に動いた。
その一歩はとても小さくて、でも、確かに前へ進む一歩だった。
家に帰る道すがら僕はスマホを取り出して、彼女のアカウントを開いた。
最後のメッセージは、やっぱり『終電に乗って』。
でも、それでいい。
それでいいんだ。
「またね、栞」
小さく呟いて僕は空を見上げた。朝の光が、僕の頬を優しく撫でていく。新しい季節が始まろうとしていた。
それから、僕は少しずつ変わっていった。学校にも行き始めた。
友達とも話すようになった。栞のことを忘れたわけじゃない。でも、彼女の言葉を胸に前を向いて歩き始めた。
時々、あの夜のことを思い出す。
あの不思議な夜行列車と、彼女の笑顔と最後の言葉。
それは、僕の宝物になった。
8月32日行きの線路。
それは、現実には存在しない。でも僕の中には、確かに存在している。
彼女と過ごしたかけがえのない時間。そして、その時間が僕を前に進ませてくれる。
また、いつか。そう言える日まで。
僕は僕の人生を歩いていく。
彼女がくれた、あの「またね」を信じて。
——
ポケットの中の切符をそっと握りしめる。
そこには、確かに彼女の温もりが残っていた。
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