ふたりに夏は来ない
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
北半球と南半球。 同じ時間を生きているのに、二人の季節はいつも反対側にある。 「夏が来たよ」 彼女が送るその言葉を、彼は冬の部屋で受け取る。 やがて季節が巡れば、今度は彼の夏を彼女が冬の中で受け取る。 写真、音、光、温度。 画面越しに季節を送り合う二人が願ったのは、「同じ夏で会うこと」。 けれど、二人が最後に選んだのは、どちらかの夏へ行くことではなく、二人の写真にまだ写っていない場所で会うことでした。 夏とは季節なのか。 場所なのか。 それとも、大切な誰かと「ここが夏だ」と思えた瞬間なのか。 すれ違う季節を通して、距離と時間、そして二人だけの「夏」を描いた短編小説です。
本文
七月十八日、十六時十二分。自動販売機の脇だけ、誰かの吐息みたいに熱かった。彼女はラムネを一本買い、瓶の青を空にかざした。白すぎる歩道の向こうで、信号が陽炎に揺れていた。
写真を撮って送る。
夏が来たよ
栓を押し込むと、ころん、と硝子玉が鳴った。瓶の底で一度跳ね、次には歩道の目地のどこかへ逃げた。しゃがんで覗いたが、光しか見えなかった。蝉は、見つけられないものまで鳴き声にしてしまう。
返信は、栓の音がまだ耳に残っているうちに届いた。
曇った窓。濃い色のコートの肩。窓の外は白く滲んでいて、雨なのか、息なのか、写真だけではわからない。端に写った彼の指は、紙コップを持つところだけ赤かった。
こっちは、まだ来てない
彼女は瓶の首を握り直した。水滴が掌に落ち、すぐにぬるくなった。夏が来た、ともう一度打ちかけて消す。代わりに、蝉の声と、ラムネ玉が見えなくなるまでの短い沈黙を録音した。
ほどなく、傘に細かな雨が当たる音が返ってきた。そこに彼の声はなかった。雨の向こうで、なにか硬い扉が閉まった。
それから、毎週ひとつずつ、季節らしいものを送ることになった。
夕立の前、ベランダのサンダルが風でひっくり返ったこと。洗濯物を取り込む腕に、薄い汗が膜を張ったこと。氷の減ったグラスの底で、レモンの輪が傾いたこと。彼女はそれらを写し、決まって同じ文を添えた。
夏が来たよ
彼からは、霜の浮いた車のガラスや、白い息に鼻先を寄せる犬の写真が来た。朝の光は低く、冷蔵庫を開けたときの明かりより青く見えた。ある日、手袋を外した彼の手が写っていた。指の関節が、赤というより、冷えた金属のような色だった。
彼女はその写真を保存した。自分でも理由はわからず、ファイル名を「夏が来たよ」にした。画面を指で広げると、霜の粒のあいだに彼の息が残っているような気がした。冷房の効いた部屋で見ているのに、指先だけがかすかに冷えた。
彼はすぐには同じ言葉を返さなかった。彼女が送った音声の背後には、蝉、雷、扇風機、夜の踏切が順に混じった。既読がついてから少し経つと、短い返信が来た。ときどき、文字のかわりに暖房のかすかな唸りが入った録音が届いた。彼女はそれを聞くたび、彼がどこに座っているのかを考えた。けれど、想像した部屋にはいつも、彼のいない椅子が一脚あった。
八月の終わり、彼女は河原で、薄くなった麦茶を飲んだ。水筒の口に唇をつけたまま、彼に電話をかけた。向こうで呼び出し音が鳴るあいだ、草の匂いがした。
「同じ夏で会えたらいいね」
言ってから、彼女は自分の声が、少しだけ子どもじみて聞こえるのを待った。
彼はすぐに答えなかった。受話口の奥に、布が擦れる気配がした。
「うん」
それだけだった。
十二月の朝、窓には結露が薄く張っていた。彼女は指で丸を描き、外の灰色を覗いた。丸の縁から水が垂れて、すぐに景色を曇らせる。マフラーに残った洗剤の匂いが、部屋の加湿器の白い息と混じっていた。
生姜湯は、口をつける前に冷めた。
通知が鳴った。
彼の写真には、強い光を受けて色の抜けた道路があった。画面の端に、半袖の腕。手首の近くに、日焼け止めの白い跡が残っている。開け放した窓から、小さな虫の羽音が入り込んでいた。写真の下に、見慣れた四つの音が並んでいた。
夏が来たよ
彼女は返信欄を開いたまま、しばらく動けなかった。指が冷えていたのか、画面が冷えていたのかはわからない。
自分が夏を送っていた日々、彼もこうして画面を見ていたのだろうか。蝉の声を再生する部屋に、彼の暖房の音が混じっていたのは、返事ではなく、待っている時間の音だったのかもしれない。
彼女は過去の音声を開いた。明るい自分の声が、夏が来たよ、と言った。その直後に蝉が鳴く。暖房の風が足首を撫でる部屋では、その鳴き声はどこか遠すぎた。彼女は窓を少しだけ開けた。細い冷気が手の甲を刺し、すぐに閉めた。
来たね
それだけ送った。
送信したあと、彼の写真を何度も拡大した。道路に落ちる影は濃く、彼のものか、電柱のものか、途中から判別できなくなった。彼女は航空券を検索した。出発地と到着地を入れ、指を止める。彼の夏へ行けば、自分の冬を置いていくようだった。彼がこちらへ来れば、彼の光を持ち去らせるようだった。画面を閉じると、検索窓だけがしばらく瞼の裏に残った。
長いメッセージを、彼女は何度か書いて消した。次に夏が来た方へ、という一行も消した。
二人の写真にまだ写っていない場所で会おう、と最後に書いた。
返事は、短かった。
うん
空港の乗り換え表示は、彼女の知らない文字を何度も切り替えた。冷房の強い通路を抜けて外へ出ると、肌がいったん何を感じればいいのかわからなくなった。海から来る塩気に、車の排気が薄く混じっている。石畳は雨を吸ったように暗く、けれど雲の隙間から落ちる光は、肩に触れると軽かった。
薄い上着をバッグにしまうと、首筋に汗が浮いた。少し歩いて日陰へ入ると、その汗だけが急に冷えた。
彼女は売店を覗いた。知らない果物の切り口が、透明なケースに並んでいる。冷たい飲み物を買うつもりだったのに、夏の証拠のようなラムネはどこにもなかった。代わりに常温の水を一本買い、蓋を開けずに持った。
待ち合わせの時刻を過ぎても、彼は見えなかった。人波の肩越しに、彼女は濡れた袖口を折り返す男たちを何人も見た。写真の中のコートの肩と、半袖の腕が、交互に頭に浮かんだ。
通知音が鳴った。
すぐそばで、同じ音が重なった。
画面には、彼女の背中が写っていた。少し癖のある髪が風に持ち上がり、バッグの口から薄い上着が覗いている。写真の下には、彼女が何度も送った言葉があった。
夏が来たよ
顔を上げるより先に、彼女は石畳に落ちる影を見つけた。人の影に何度も切られながら、彼の足元からまっすぐ伸びていた。彼女の数歩前で、その影が止まる。
彼は写真より少し背が高く見えた。あるいは、画面のなかではいつも、彼の肩が少し縮こまっていたのかもしれない。彼の手には紙コップがあった。湯気はもう消えていた。
「来たね」
彼女が言うと、彼は小さく頷いた。
抱きしめる前に、彼女は彼の手に触れた。待っているあいだ、何度も想像した手だった。けれど掌は、汗ばんでも凍えてもいなかった。彼女の指先に触れた瞬間だけ、少し驚いたように固くなり、それからゆっくりほどけた。
二人のスマートフォンが、どちらからともなく伏せられた。彼女は自分の水をベンチに置いた。彼の紙コップの縁が、風にかすかに震えた。
「ねえ、ここって夏かな」
彼女は空を見なかった。彼の指を、自分の指のあいだに一本ずつ入れていった。日向から外れた首筋がひやりとし、そのすぐ下では、歩いてきた熱がまだ消えずにいた。
彼はしばらく、繋いだ手を見ていた。彼女には、その横顔が何を考えているのか読めなかった。読めないまま、待った。
「君が夏だと思ったなら、夏だよ」
声は低く、言い終えたあとに少しだけ息が混じった。
彼女は笑わなかった。ただ、彼の掌を握る力を少し強くした。自分たちに夏が来たのかどうかは、まだわからなかった。けれど、そのわからなさは、遠くの画面を見ていたころのものとは違った。彼の親指が、彼女の手の甲を一度だけなぞった。その熱は、言葉より遅れて届いた。
店先の丸いテーブルに座ると、彼女は伏せたままのスマートフォンを開いた。返信欄には、さっきの写真への文字が残っていた。
夏が来たよ
彼女はそれを送らなかった。消しもしなかった。画面を暗くして、隣に置いた。氷の入っていないグラスが、卓上で彼の紙コップに触れ、小さな音を立てた。