第1話 風渡りと星織り
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
「また忘れたとき、私が歌えます」空の裂け目を縫い、人々を守る星織りのエルナ。その力の代償は、彼女自身の記憶だった。五つの星杭を巡る旅で彼女を守るのは、明るい風渡りのミア。雨宿り、花灯りの祭り、雪の山。旅の先を望むことさえ諦めていたエルナは、「私が覚えている」と言うミアと過ごすうち、初めて自分の明日を願うようになる。けれど王都を覆う大裂を縫えば、エルナは自分が誰かも、愛する人のことさえも忘れてしまうかもしれない。これは、失われる記憶を二人で抱え、何度でも互いを選び直す、切なくも温かな百合ファンタジー。※本作は本文作成に生成AIを利用しています。作者がプロット作成、方向性の指定、加筆修正、最終確認
本文
空に、細いひびが走っていた。
冬晴れの青を、爪の先で引っかいたような黒い線だった。王都の人々はもう慣れてしまったのか、足を止める者もいない。けれどミアには、その無関心のほうがよほど不気味に思えた。
天裂は、初めはああして一本の線にしか見えない。けれど放っておけば枝を伸ばし、空の向こうから黒霜を降らせる。さらに広がれば、星のない夜から異形の獣まで這い出してくる。街ひとつを呑み込むほど育ったものは、大裂と呼ばれる。
小さいうちに星織りが閉じる。王都の人々にとっては、それが当たり前になっているのだろう。
「あれ、昨日より伸びてない?」
荷車を引く栗毛の馬に話しかけると、馬は面倒そうに鼻を鳴らした。
「だよねえ。私もそう思う」
「馬と意見が合ったのか」
暁教会の門番が、槍を手にしたまま笑う。ミアは荷台から飛び降り、外套についた砂埃を払った。
「この子は見る目がありますから。人を見る目は特に」
「では、私は合格らしい」
「餌をくれそうな人には愛想がいいんです」
門番の笑顔が少しだけ引きつった。ミアは馬の首を叩いてから、胸元に下げた風渡りの証を見せた。
風を読み、荷や人を遠くへ運ぶ。それが風渡りの仕事だ。速さには自信があったが、今回ほど責任の重い依頼は初めてだった。
「ミア・レイン。教会からの依頼で来ました。星織り様を北の星杭までお送りするように、と」
口にした途端、門番の顔から笑いが消えた。
星杭は、国の各地に五本ある。
遠い昔、空を地上につなぎ留めるために打たれたという石柱だ。大裂が生じたときには、五本の光を一つに集め、空を縫う星織りを支える。王都の上で育ちつつあるひびを閉じるには、眠っている杭をすべて起こさなければならない。
まず向かうのが、北の街道にある一本だった。
重い扉が、音もなく開く。
教会の奥は、春が来るのを拒んでいるように冷たかった。磨かれた白い床。高い窓。壁に並ぶ、名も知らない聖人たちの像。案内役の修道士は一度も振り返らず、靴音だけを長い廊下に響かせた。
星織りは、空のほころびを直す。
子どもでも知っている話だ。天裂を閉じ、人の暮らす場所を守る、星の女神に選ばれた聖女。絵本では銀糸の衣をまとい、夜空を背負って微笑んでいる。
だからミアは、案内された中庭でしゃがみ込んでいる女性が、目当ての人だとは思わなかった。
銀糸の衣どころか、灰色の質素な旅装である。淡い金色の髪をうなじで束ね、花壇の隅に手を伸ばしていた。
「エルナ様。風渡りが到着いたしました」
呼びかけられた女性は立ち上がった。白い指のあいだに、小さな青い花が一輪挟まっている。
「ありがとうございます」
声は静かで、よく通った。
こちらを見た瞳は、雨上がりの若葉に似た色をしていた。年はミアより二つか三つ上だろう。聖女らしい威厳より、町の薬屋で穏やかに客の話を聞いていそうな親しみがある。
「あなたが、ミアさん?」
「はい。北の星杭まで、責任を持ってお連れします」
ミアは背筋を伸ばした。普段ならもっと気の利いた挨拶をするところだが、相手はこの国にただ一人残った星織りだ。さすがに最初から馴れ馴れしくするわけにはいかない。
エルナは、なぜか少し困ったように笑った。
「よかった。怖い方だったらどうしようかと思っていました」
「私がですか?」
「教会の方から、最も足の速い風渡りだと伺っていたので。風のように気難しい方を想像していたんです」
「風は気難しくないですよ。行きたいほうへ行くだけです」
「では、ミアさんも?」
「だいたいは。今回はエルナ様の行きたいほうへ行きます」
今度の笑みは、先ほどより自然だった。
大切に囲われた聖女というより、旅を前に緊張している一人の女性なのかもしれない。そう気づくと、ミアの肩からも余計な力が抜けた。
「ところで、その花は?」
「踏まれそうだったので」
エルナは青い花を見下ろした。
「摘んでしまったら、同じことですね」
「持っていけば、少なくとも無駄にはなりません。栞にするとか」
「栞……」
「旅の記念に」
エルナはひとつ瞬きをして、それから花を胸元の小さな手帳に挟んだ。
「ええ。そうします」
そのとき、鐘が鳴った。
一度、二度。穏やかな時刻の鐘ではない。短く打ち鳴らす警鐘だった。
中庭にいた修道士たちが、いっせいに空を見上げる。
先ほどの黒いひびが、枝を伸ばしていた。
青空が硝子のように割れ、その向こうから夜がにじむ。真昼だというのに星のない暗闇が口を開け、黒い雪が舞い落ちた。
「中へ!」
誰かが叫んだ。
黒雪が花壇に触れる。春を待っていた芽が、音もなく灰になった。
ミアは腰の短杖を抜いた。杖の先を振り抜くと、風が渦を巻いて黒雪を押し返す。
「エルナ様、下がって!」
返事がない。
振り向けば、エルナは空を見上げていた。穏やかだった顔から血の気が引いている。それでも足は、裂け目の真下へ向かっていた。
「ちょっと、どこへ!」
「縫います」
「あれを?」
「そのために、私はここにいますから」
風が唸った。
裂け目から、細長い脚がのぞく。夜獣だ。影に骨を埋め込んだような獣が、空を掻き分けて這い出そうとしている。
ミアは舌打ちし、エルナの前へ出た。
「何をすればいいですか」
「三十数えるあいだ、近づけないでください」
「二十でお願いします」
「努力します」
こんなときにも声が柔らかい。けれど、握り合わせた指先はわずかに震えていた。
エルナが目を閉じる。
胸元に淡い光が灯り、一本の糸になって引き出された。月明かりより白く、朝日より細い糸。それを彼女は何もない空へ通す。
夜獣が落ちてきた。
ミアは地を蹴った。足元に起こした風が身体を押し上げる。大きく開いた顎をかわし、杖を横薙ぎに振る。風の刃が夜獣の首を裂いたが、血は出ない。切り口から煙が噴き、ちぎれた影が再びつながっていく。
「十!」
「もう十ですか?」
「景気づけです!」
二頭目が塀を越える。ミアは着地と同時に風を叩きつけ、石壁へ押し戻した。爪が肩をかすめ、外套が裂ける。
背後では、エルナの指が空を縫っていた。
一針ごとに、黒いひびが白い光で結ばれていく。そのたび彼女の唇から色が失われた。
あと少し。
最後の夜獣が、エルナへ跳んだ。
間に合わない。
ミアは杖を放り、彼女を抱えて地面へ転がった。爪が石畳を抉る。頬のすぐそばで、腐った鉄のような息がした。
「二十!」
「はい」
エルナの指が、最後の一針を引いた。
裂け目が閉じる。
差し込んだ青い光のなかで、夜獣たちは風に散る煤のように崩れた。黒雪が消え、灰になりかけていた草の色が戻っていく。
静けさが落ちた。
「……終わった?」
ミアはエルナを抱えたまま空を見た。黒い筋は、もうどこにもない。
「終わりました」
腕のなかで答えたエルナが、ふっと力を抜く。
「エルナ様?」
「大丈夫です。少し、疲れただけで」
「大丈夫な人は、立っているのを諦めたりしません」
抱き起こすと、エルナの手帳が胸元から滑り落ちた。挟んだばかりの青い花が、開いた頁に貼りついている。
そこには細かな文字で、いくつものことが書かれていた。
朝の祈りの手順。
食堂の席順。
よく話す修道女たちの名前。
好きな茶葉は、林檎と野薔薇。
ミアは読むつもりなどなかった。ただ、目に入ってしまった。
「これは……」
エルナが青ざめた指で、手帳を拾う。
「忘れないためのものです」
鐘楼から駆けつけた年嵩の祭司が、低い声で言った。
「星織りの糸は、記憶から紡がれる。一度使えば、元には戻らない。裂け目が大きいほど、必要な糸も増える」