第3話 雨宿りの約束
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第3話 雨宿りの約束
本文
食堂で温かいスープをもらい、部屋へ戻ってから、エルナはミアの肩を手当てした。傷は浅かったが、周囲が赤く腫れている。
「痛かったら言ってください」
「痛くないです」
消毒の酒を含ませた布を当てる。
「いっ……」
「痛いですね」
「今のは驚いただけです」
「では、次は驚かないように言います。もう一度、触れますね」
「そういう問題かなあ」
不満そうにしながらも、ミアはおとなしく背を向けていた。
旅装の下は薄い肌着一枚である。日に焼けた肩に、古い傷がいくつも走っていた。今回のような小さな傷。刃物で切られたらしい傷。左の肩甲骨には、何かに抉られた深い痕がある。
指先が止まったことに気づいたのか、ミアが言う。
「風渡りは、道が仕事場ですから」
「危険な仕事ですね」
「楽しいことも多いですよ。見たことのない景色を見て、知らない町の菓子を食べて、いろんな人に会える」
「それで、干し葡萄も?」
「あれは楽しくない出会いでした」
エルナは笑い、包帯を結んだ。
脱いだ外套も借りて、裂けた箇所を縫い直す。縫い目を見ていたミアが、ふいに尋ねた。
「星の糸じゃなくても、本当に上手なんですね」
「星織りになる前から、針仕事が好きでした。母が仕立屋だったので」
母。
そう口にすると、歌の抜け落ちた部分が胸の奥で疼いた。思い出そうとするほど、白い穴ばかりが広がっていく。
「どんな歌だったんですか」
「え?」
「王都で忘れた歌です。覚えているところだけでも、教えてもらえませんか」
なぜ、と聞く代わりに、エルナは針を置いた。
雨音に紛れそうな声で、短い旋律を口ずさむ。一番の途中はどうしても音がつながらない。けれど二番、三番へ進むうち、隣にいるミアが同じ旋律をなぞり始めた。
「知っているんですか?」
「いいえ。今、覚えました」
「どうして」
「また忘れたとき、私が歌えます」
あまりに簡単に言うものだから、返事ができなかった。
失うたびに記録は残してきた。手順も、人の名前も、好きだったものも。けれど誰かが、自分の代わりに覚えると言ったのは初めてだった。
「重くありませんか」
「歌ひとつで?」
「これから、もっと増えるかもしれません」
ミアはしばらく考え、寝台の端に腰を下ろした。
「じゃあ、私のことも覚えておいてください」
「あなたのことを?」
「私、干し葡萄が嫌いです。朝は話しかけられると機嫌が悪くなります。縫い物は苦手」
「あと、道に迷うことがありますよね?」
「ごくまれに、です」
ミアは、数え直すように指を折った。
「好きなのは、蜂蜜菓子と、知らない道と、雨が上がる直前の匂い。これで六つ。エルナ様が六つ忘れても、おあいこです」
おあいこになるはずがない。
わかっているのに、その不器用な優しさが嬉しかった。
「手帳に書いても?」
「だめです。覚えてください」
「難しい注文ですね」
「私も歌を覚えるので」
差し出された小指を、エルナは見つめた。
「これは?」
「約束するとき、こうするんです」
おそるおそる自分の小指を絡める。ミアの手は温かかった。土嚢を運んだせいで、同じところに小さな擦り傷ができている。
「覚えているあいだは、忘れません」
エルナが言うと、ミアの指に力がこもった。
「忘れたあとも、また教えます」
夜、二人は同じ寝台に入った。
背中合わせになっても狭く、少し動けば肩が触れる。ミアはいつまでも身じろぎしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「眠れませんか?」
「寝台が狭いので」
「私がもう少し端へ寄ります」
「落ちますよ」
「では、ミアさんがこちらを向けば、少し広くなるかもしれません」
「どういう理屈ですか」
それでもミアは寝返りを打った。エルナも向き直る。
暗がりのなか、思いのほか近いところに瞳があった。窓を打つ雨が弱まり、相手の呼吸まで聞こえる。
「エルナ様」
「はい」
「旅が終わったら、したいことはありますか」
考えたことがなかった。
五つの星杭を巡り、その光を王都の大裂へ運ぶ。最後に残る記憶があるのか、自分が自分でいられるのか、それすら誰も教えてくれなかった。終わったあとのことを願うのは、分不相応に思えていた。
「わかりません」
「では、この旅で探しましょう」
「見つけても、叶えられないかもしれません」
「見つけてから考えればいいです」
迷いのない声だった。
行きたいほうへ行くだけ。
中庭で聞いた言葉を思い出す。
「ミアさんは、前向きですね」
「後ろ向きに歩くと転ぶので」
「そういう意味ではありません」
「知ってます」
暗闇のなかで、彼女が笑った気配がした。
いつの間にか、雨は止んでいた。濡れた土と若い草の匂いが、わずかに開いた窓から入ってくる。
「ミアさん」
「なんですか?」
「雨が上がる直前の匂い、私も好きです」
答えの代わりに、毛布の下で手が触れた。
偶然のように重なった指を、どちらも離さなかった。
◇
北へ向かう街道は、リノアの町を前にして大きく下っていた。
丘の上から見下ろすと、夕暮れの川に無数の灯りが浮かんでいる。赤、黄、薄紅。花の形をした小舟が、ゆっくりと水面を流れていた。
「今日だったんだ」
手綱を持つミアが、弾んだ声を上げる。
「何がですか?」
「花灯り祭です。冬を送って、春を迎えるお祭り。今夜は町中が夜更かししますよ」
「詳しいんですね」
「二年前、荷を届けに来たことがあります。屋台の蜂蜜焼きが、ものすごくおいしくて」
「蜂蜜菓子が好き」
エルナが覚えていたことに、ミアの頬が緩む。
「ちゃんと六つとも言えますか?」
「朝は不機嫌。縫い物が苦手。知らない道と、雨上がりの匂いが好き。それから、迷子になる」
「最後だけ違います」
「では、干し葡萄が嫌い」
「合格です」
背後から、控えめな笑い声が聞こえた。
三日前の雨宿りから、二人で一頭の馬に乗ることが増えた。荷車の御者台は狭く、山道では揺れがひどいからだ。エルナは最初こそ遠慮していたが、今ではミアの腰へ自然に腕を回す。
触れられているところだけ、春が先に来たように温かい。
そう思ってしまう自分を、ミアはまだ持て余していた。
リノアには、五つある星杭の一つが立っている。
今は町の鐘楼に覆われ、古い柱のようにしか見えない。エルナが手を触れると、刻まれた文字に青白い光が走った。北の空から細い光が降り、彼女の胸元に吸い込まれていく。
「これで一つです」
「記憶は?」
「失っていません。星杭の光を預かっただけですから」
ミアは息を吐いた。
「よかった。何か忘れていないか、試験をします。私の好きなものは?」
「蜂蜜菓子」
「正解。嫌いなものは?」
「干し葡萄」
「朝の機嫌は?」
「とても悪い」
「少し悪い、です」
鐘楼の管理人が、声を立てて笑った。
儀式を終えたころには、祭りの楽団が広場で演奏を始めていた。宿を取ろうとしたミアの袖を、エルナがそっとつまむ。
「あの」
「どうしました?」
「お祭りを見ていっても、いいでしょうか」
おずおずとした声だった。
旅が終わったら何をしたいかと聞いた夜、エルナは何も思いつかなかった。そんな彼女が、自分から望んだのだ。
「もちろん」
ミアは即答した。
「明日の出発を少し遅らせましょう。今日は夜更かしです」