第3話 雨宿りの約束

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/12 📚 シリーズ: 夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 📝 2,858文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第3話 雨宿りの約束

本文

食堂で温かいスープをもらい、部屋へ戻ってから、エルナはミアの肩を手当てした。傷は浅かったが、周囲が赤く腫れている。

「痛かったら言ってください」

「痛くないです」

 消毒の酒を含ませた布を当てる。

「いっ……」

「痛いですね」

「今のは驚いただけです」

「では、次は驚かないように言います。もう一度、触れますね」

「そういう問題かなあ」

 不満そうにしながらも、ミアはおとなしく背を向けていた。

 旅装の下は薄い肌着一枚である。日に焼けた肩に、古い傷がいくつも走っていた。今回のような小さな傷。刃物で切られたらしい傷。左の肩甲骨には、何かに抉られた深い痕がある。

 指先が止まったことに気づいたのか、ミアが言う。

「風渡りは、道が仕事場ですから」

「危険な仕事ですね」

「楽しいことも多いですよ。見たことのない景色を見て、知らない町の菓子を食べて、いろんな人に会える」

「それで、干し葡萄も?」

「あれは楽しくない出会いでした」

 エルナは笑い、包帯を結んだ。

 脱いだ外套も借りて、裂けた箇所を縫い直す。縫い目を見ていたミアが、ふいに尋ねた。

「星の糸じゃなくても、本当に上手なんですね」

「星織りになる前から、針仕事が好きでした。母が仕立屋だったので」

 母。

 そう口にすると、歌の抜け落ちた部分が胸の奥で疼いた。思い出そうとするほど、白い穴ばかりが広がっていく。

「どんな歌だったんですか」

「え?」

「王都で忘れた歌です。覚えているところだけでも、教えてもらえませんか」

 なぜ、と聞く代わりに、エルナは針を置いた。

 雨音に紛れそうな声で、短い旋律を口ずさむ。一番の途中はどうしても音がつながらない。けれど二番、三番へ進むうち、隣にいるミアが同じ旋律をなぞり始めた。

「知っているんですか?」

「いいえ。今、覚えました」

「どうして」

「また忘れたとき、私が歌えます」

 あまりに簡単に言うものだから、返事ができなかった。

 失うたびに記録は残してきた。手順も、人の名前も、好きだったものも。けれど誰かが、自分の代わりに覚えると言ったのは初めてだった。

「重くありませんか」

「歌ひとつで?」

「これから、もっと増えるかもしれません」

 ミアはしばらく考え、寝台の端に腰を下ろした。

「じゃあ、私のことも覚えておいてください」

「あなたのことを?」

「私、干し葡萄が嫌いです。朝は話しかけられると機嫌が悪くなります。縫い物は苦手」

「あと、道に迷うことがありますよね?」

「ごくまれに、です」

 ミアは、数え直すように指を折った。

「好きなのは、蜂蜜菓子と、知らない道と、雨が上がる直前の匂い。これで六つ。エルナ様が六つ忘れても、おあいこです」

 おあいこになるはずがない。

 わかっているのに、その不器用な優しさが嬉しかった。

「手帳に書いても?」

「だめです。覚えてください」

「難しい注文ですね」

「私も歌を覚えるので」

 差し出された小指を、エルナは見つめた。

「これは?」

「約束するとき、こうするんです」

 おそるおそる自分の小指を絡める。ミアの手は温かかった。土嚢を運んだせいで、同じところに小さな擦り傷ができている。

「覚えているあいだは、忘れません」

 エルナが言うと、ミアの指に力がこもった。

「忘れたあとも、また教えます」

 夜、二人は同じ寝台に入った。

 背中合わせになっても狭く、少し動けば肩が触れる。ミアはいつまでも身じろぎしていたが、やがて小さく息を吐いた。

「眠れませんか?」

「寝台が狭いので」

「私がもう少し端へ寄ります」

「落ちますよ」

「では、ミアさんがこちらを向けば、少し広くなるかもしれません」

「どういう理屈ですか」

 それでもミアは寝返りを打った。エルナも向き直る。

 暗がりのなか、思いのほか近いところに瞳があった。窓を打つ雨が弱まり、相手の呼吸まで聞こえる。

「エルナ様」

「はい」

「旅が終わったら、したいことはありますか」

 考えたことがなかった。

 五つの星杭を巡り、その光を王都の大裂へ運ぶ。最後に残る記憶があるのか、自分が自分でいられるのか、それすら誰も教えてくれなかった。終わったあとのことを願うのは、分不相応に思えていた。

「わかりません」

「では、この旅で探しましょう」

「見つけても、叶えられないかもしれません」

「見つけてから考えればいいです」

 迷いのない声だった。

 行きたいほうへ行くだけ。

 中庭で聞いた言葉を思い出す。

「ミアさんは、前向きですね」

「後ろ向きに歩くと転ぶので」

「そういう意味ではありません」

「知ってます」

 暗闇のなかで、彼女が笑った気配がした。

 いつの間にか、雨は止んでいた。濡れた土と若い草の匂いが、わずかに開いた窓から入ってくる。

「ミアさん」

「なんですか?」

「雨が上がる直前の匂い、私も好きです」

 答えの代わりに、毛布の下で手が触れた。

 偶然のように重なった指を、どちらも離さなかった。

     ◇

 北へ向かう街道は、リノアの町を前にして大きく下っていた。

 丘の上から見下ろすと、夕暮れの川に無数の灯りが浮かんでいる。赤、黄、薄紅。花の形をした小舟が、ゆっくりと水面を流れていた。

「今日だったんだ」

 手綱を持つミアが、弾んだ声を上げる。

「何がですか?」

「花灯り祭です。冬を送って、春を迎えるお祭り。今夜は町中が夜更かししますよ」

「詳しいんですね」

「二年前、荷を届けに来たことがあります。屋台の蜂蜜焼きが、ものすごくおいしくて」

「蜂蜜菓子が好き」

 エルナが覚えていたことに、ミアの頬が緩む。

「ちゃんと六つとも言えますか?」

「朝は不機嫌。縫い物が苦手。知らない道と、雨上がりの匂いが好き。それから、迷子になる」

「最後だけ違います」

「では、干し葡萄が嫌い」

「合格です」

 背後から、控えめな笑い声が聞こえた。

 三日前の雨宿りから、二人で一頭の馬に乗ることが増えた。荷車の御者台は狭く、山道では揺れがひどいからだ。エルナは最初こそ遠慮していたが、今ではミアの腰へ自然に腕を回す。

 触れられているところだけ、春が先に来たように温かい。

 そう思ってしまう自分を、ミアはまだ持て余していた。

 リノアには、五つある星杭の一つが立っている。

 今は町の鐘楼に覆われ、古い柱のようにしか見えない。エルナが手を触れると、刻まれた文字に青白い光が走った。北の空から細い光が降り、彼女の胸元に吸い込まれていく。

「これで一つです」

「記憶は?」

「失っていません。星杭の光を預かっただけですから」

 ミアは息を吐いた。

「よかった。何か忘れていないか、試験をします。私の好きなものは?」

「蜂蜜菓子」

「正解。嫌いなものは?」

「干し葡萄」

「朝の機嫌は?」

「とても悪い」

「少し悪い、です」

 鐘楼の管理人が、声を立てて笑った。

 儀式を終えたころには、祭りの楽団が広場で演奏を始めていた。宿を取ろうとしたミアの袖を、エルナがそっとつまむ。

「あの」

「どうしました?」

「お祭りを見ていっても、いいでしょうか」

 おずおずとした声だった。

 旅が終わったら何をしたいかと聞いた夜、エルナは何も思いつかなかった。そんな彼女が、自分から望んだのだ。

「もちろん」

 ミアは即答した。

「明日の出発を少し遅らせましょう。今日は夜更かしです」

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