第5話 白嶺の塔
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第5話 白嶺の塔
本文
「お母さんのこと、聞かせてください」
「……顔を思い出せないのに?」
「エルナ様が覚えていることを、全部。私も覚えます」
「また、重くなりますよ」
「二人で持てば、半分です」
エルナの腕が、おそるおそるミアの背へ回った。
川を流れる花灯りが、二人の影を揺らしていた。
「母は、針に糸を通すのが、とても速かったんです」
胸に顔を埋めたまま、エルナが話し始める。
「でも、急ぐと必ず指を刺して。何度やっても、直らなくて」
「エルナ様は?」
「私は一度も刺しません」
「そこは似なかったんですね」
「はい。だから、母は悔しがっていました」
泣き声に、小さな笑いが混じった。
ミアはそれを、腕のなかで聞いていた。
この人の記憶を、ひとつも奪わせたくない。
この人の明日に、自分もいてほしい。
まだ恋とは呼べなかった。ただ、その願いが胸の奥へ根を張るのを、止められなかった。
◇
花灯り祭から五日目、二人は白嶺の麓へ着いた。
山の上には、二つ目の星杭がある。
春を迎えたリノアとは違い、こちらの道にはまだ雪が残っていた。馬車を麓の村へ預け、必要な荷だけを背負って登る。ククはついてくる気だったらしく、置いていかれるとわかるとひどく不満そうに嘶いた。
「帰りには、林檎を買ってあげますから」
エルナが鼻先を撫でると、ククはすぐに機嫌を直した。
「私には何もないんですか」
「昨日、最後の蜂蜜菓子を譲りました」
「あれは半分ずつの予定だったのでは?」
「ミアさんが、私の分まで食べていいと言ったんですよ」
「そうでしたっけ」
「手帳に書いてあります」
「都合の悪いことまで書かないでください」
エルナは笑って手帳を閉じた。
祭りの夜から、彼女はよく笑うようになった。
母の顔を失った痛みが薄れたわけではない。ときおり何もない場所を見つめ、静かに目を伏せる。それでも悲しみを隠すためではなく、嬉しいときにも笑ってくれるようになった。
ミアは、そのたび目を離せなくなる。
「何ですか?」
「いえ。髪の花、今日もつけてくれているなと思って」
淡い金髪に、青い硝子が揺れている。
「旅の記念ですから」
「落とさないでくださいね」
「落としたら、また買ってくださいますか?」
「同じものを見つけたら」
「では、大切にします」
何気ない言葉に、胸が騒ぐ。
リノアを出てから、ずっとこんな調子だった。肩が触れる。名前を呼ばれる。笑いかけられる。それだけで落ち着かなくなる。
自覚してしまえば、簡単なことだった。
ミアは、エルナに恋をしている。
問題は、それを伝えていいのか、まるでわからないことだった。
旅が終わるころ、エルナの記憶がどれだけ残るのか。好きだと告げた翌日に、忘れられるかもしれない。そもそも大裂を縫ったあと、彼女が無事でいられる保証すらない。
明日が見えないからこそ、今すぐ伝えるべきなのか。
明日が見えない人へ、自分の想いまで背負わせるべきではないのか。
「ミアさん」
声に顔を上げると、手袋をした指が頬に触れた。
「冷たい」
「え?」
「頬が真っ赤です。寒いなら、もう一枚巻きますか?」
エルナが自分の襟巻きを解こうとする。
「だ、大丈夫です。歩いていたら暑くなりますから」
「でも」
「本当に。それより急ぎましょう」
逃げるように先へ進むと、後ろでエルナが首を傾げていた。
二つ目の星杭は、山腹の古い見張り塔にあった。
かつては北方を守る砦だったが、今では屋根の半分が落ちている。石壁の内側には雪が吹き込み、折れた柱が白く埋もれていた。
「嫌な匂いがする」
ミアは足を止めた。
「何の匂いですか?」
「天裂が開く前と同じです。鉄が腐ったような……」
風を読む。
山を下る冷気のなかに、淀んだものが混じっていた。見上げても空にひびはない。けれど塔の内部だけ、昼だというのに暗すぎる。
「今日は戻りましょう」
「星杭を置いたまま?」
「村で人を集めてから来ます。急いで一日を惜しんで、残りの旅を失うよりいい」
エルナは塔を見たまま、少し考えた。
「わかりました」
引き返そうとした瞬間、入口が崩れた。
轟音とともに雪煙が上がる。積み重なった石の隙間から、黒い影が這い出した。
一頭ではない。
夜獣が、塔の暗がりを埋め尽くしていた。
「走って!」
ミアは杖を振り、風の壁を作った。
先頭の夜獣が弾き飛ばされる。だが後ろから押し寄せた群れが、その身体を踏み越えてくる。
星杭の根元に黒い霧がまとわりついていた。天裂を通れない夜獣が、残された細い穴から少しずつ入り込み、ここで増えていたのだ。
「ミアさん、杭を起こせば、この霧は消えます」
「何秒?」
「二十」
「今度こそ三十数えます。先に上へ!」
崩れ残った階段を、エルナが駆け上がる。
ミアは入口へ風を集中させた。狭い場所なら、一度に相手をする数を減らせる。杖で顎を打ち、風刃で脚を切る。倒しきれなくても、動きを止めればいい。
一、二、三。
背後で、星杭が淡く光り始める。
七、八。
壁を蹴って飛んだ夜獣が、ミアの頭上を越えた。
「エルナ!」
初めて、敬称のない名を叫んだ。
振り返ったエルナへ、夜獣が迫る。
ミアは風を蹴って階段を飛び、一段上から彼女を突き飛ばした。
脇腹に、熱いものが入った。
夜獣の爪が身体を貫いている。
痛みはすぐには来なかった。雪の上に倒れたあとで、呼吸ができないほどの激痛が押し寄せた。
「ミアさん!」
遠くで声がする。
星杭から、青い光が噴き上がった。
塔を覆っていた闇が剥がれ、夜獣の群れが一斉に燃える。黒霧が空へ吸い込まれ、雪の上に静けさが戻った。
エルナが駆け寄ってくる。
「目を閉じないでください。ミアさん、私を見て」
その声が震えていることを、指摘してやりたかった。
「二十……間に合いましたね」
「話さないで」
「怒ってます?」
「怒っています」
「エルナも、怒るんだ」
敬称をつける力がなかった。
エルナの手が傷口を押さえる。白い指の隙間から、赤ではなく黒い血が溢れた。夜獣の爪に触れた傷は、影に食われていく。
「ごめん」
「謝らないでください」
「泣かないで」
「泣いていません」
「嘘だ」
頬に落ちた雫は、雪より温かかった。
ミアはそれを拭おうとした。けれど指が届く前に、世界が暗くなった。