第9話 城の鐘が鳴る
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あらすじ
夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第9話 城の鐘が鳴る
本文
教会では、祭司長ハイネが待っていた。
白髪の混じった黒髪を短く整えた、痩せた男だった。王都を出る前、二人を見送ることもなかった人物である。
「よく戻った」
エルナの胸に宿る五つの光を確認し、初めて表情を緩める。
「儀式は明朝。夜明けとともに、大裂を縫ってもらう」
「その前に、お見せしたいものがあります」
エルナが古い冊子を差し出した。
ハイネの顔から、わずかに色が引いた。
「どこで、これを」
「北の書庫です。最後の頁が、ここにあるはずです」
「ありません」
答えが早すぎた。
ミアは一歩前へ出る。
「内容を知っているんですね」
「知らぬほうがいい」
「エルナがすべてを忘れずに済むかもしれないのに?」
「だからこそだ」
ハイネは、二人を地下の祈祷室へ連れていった。
祭壇の奥に、古い絵が掛けられている。
星織りを囲む人々。北の書庫で見た織物と同じ光景だった。けれど、その下半分は黒い布で覆われている。
ハイネが布を外した。
そこには、糸に絡め取られた人々が描かれていた。
笑う者。泣く者。自分の名さえわからない顔で、空を見上げる者。
「二十七年前、大裂が現れた。先代の星織りは、一人がすべてを失う儀式を拒み、古い結びの術を使った」
ハイネの声に、初めて感情が滲んだ。
「百二十人が記憶を差し出した。大裂は閉じた。だが、糸は人々の心を選ばず引き出した。幼子の顔を忘れた母。言葉を失った者。帰る家を忘れ、冬の道で命を落とした者もいた」
「方法が不完全だったのでは?」
「完全な方法などない」
「最後の頁を見せてください」
ミアの言葉に、ハイネは首を振った。
「私の姉も、あの輪の中にいた」
祈祷室が静まり返る。
「姉は生き残った。だが私のことも、両親のことも、自分が何者かも忘れた。十六年、毎朝同じ説明を聞き、毎晩初めての場所で眠るように怯えていた」
押し殺した声だった。
この男もまた、失われた記憶のそばで生きたのだ。
「だから、一人ならよいと?」
エルナが問う。
「よいとは言わない」
ハイネは目を閉じた。
「だが、選ばなければならない。都には四万の民がいる。大裂が満ちれば、北の国土も夜に呑まれる。一人の犠牲で救えるのなら、私はその決断をする」
「その一人は、エルナです」
「わかっている」
「わかってない!」
声が祈祷室に響いた。
ミアは拳を握りしめた。
「エルナは祭りが好きです。蜂蜜菓子を食べると、いつも最初の一口で目を丸くする。縫い物が上手で、でも糸を切るときだけは歯を使う癖がある。馬には好かれるのに、猫にはなぜか逃げられる。春になったら、一緒に踊る約束をしてる」
ハイネは黙って聞いていた。
「一人って数えれば、それだけで終わるような人じゃない」
「ミア」
エルナの手が、震える拳を包んだ。
「わかっている。だからこそ、私たちは星織りを一人に定めた。その者を知り、愛する者が増えぬよう、教会の中で育てた」
ミアは息を呑んだ。
冷たい中庭。
初めて遠出をしたと言ったエルナ。
甘いものを慎みだと教えられ、旅が終わったあとの願いを一つも持たなかった彼女。
すべて、この日のためだった。
「そんなの……」
「ミア」
もう一度呼ばれ、振り向く。
エルナは穏やかな顔をしていた。けれどつないだ手は、冷たかった。
「最後の頁だけでも、読ませてください」
「ならない」
「祭司長」
「明朝まで休め。話は終わりだ」
祈祷室を出ると、外はすでに暗かった。
二人は中庭の石段に座った。
初めて会った花壇は、黒雪を避けるため板で覆われている。空では大裂が脈打つたび、鈍い音が鳴った。
「腹が立つ」
ミアが言った。
「はい」
「でも、あの人が嘘をついてるとも思えない」
「はい」
「だから、もっと腹が立つ」
エルナが、肩へ頭を預けた。
「私もです」
「穏やかな声で言っても、怒ってるように聞こえないよ」
「では、もう少し大きな声で言います。とても腹が立ちます」
少しだけ笑い合う。
笑いが消えると、残った沈黙は重かった。
『明日の儀式を、断って』
言いたかった。
大勢の命より、エルナを選んでほしかった。
けれど、それを口にすれば、彼女がどんな顔をするか知っていた。
「断ってほしい?」
エルナが先に尋ねた。
ミアは長く黙ったあと、首を振った。
「私は、エルナに生きてほしい。でも、誰かを見捨てた自分を抱えて生きろとは言えない」
「ありがとう」
「お礼を言わないで。諦めたわけじゃないから」
ミアは立ち上がった。
「最後の頁を探す。ハイネが持っているなら、どこかにある。古い儀式で人が傷ついたなら、傷つかなかった人もいたはず。何が違ったのか、朝までに調べる」
「私も」
「エルナは休んで。五つの光を抱えたまま、ずっと走ってきたでしょう」
「でも」
「もし方法を見つけたとき、縫うのはエルナだよ」
それでも動こうとする彼女の額へ、ミアは口づけた。
「少しだけ、待ってて」
「……はい」
小指を絡める。
「約束」
「約束します」
ミアは教会の記録庫へ向かった。
天裂に関する記録を運び出し、床へ広げる。若い修道士たちも手を貸してくれた。風渡りの仲間へ、北の書庫と古い儀式について知る者を探すよう伝書を飛ばした。
夜半を過ぎても、最後の頁は見つからなかった。
そのとき、城の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度目には、窓硝子が震えた。
予定より早い。
大裂が開く。
黒い雪が、王都へ降り始めた。
「外壁の結界が破れます!」
修道士の叫びと同時に、遠くで建物が崩れる音がした。
ミアは記録庫を飛び出した。
中庭には、すでにエルナがいた。
星織りの白い衣をまとい、五つの光を胸に宿している。
祭司たちが塔へ続く扉を開けていた。
「待って!」
駆け寄り、腕を掴む。
「まだ、時間が」
「ありません」
「一刻だけ。必ず見つけるから」
空が割れる音がした。
黒雪に触れた鐘楼の一部が崩れ、街から悲鳴が上がる。
「その一刻で、誰かが大切な人を失います」
エルナの声は震えていた。
「私は、あなたを失う」
「はい」
「怖くないの?」
「怖いです」
若葉色の瞳から、涙がこぼれた。
「あなたを忘れることが。私ではなくなることが。せっかく見つけた未来を、自分で手放すことが」
ミアの頬へ、エルナの手が触れる。
「でも、あなたがいるこの世界を、私は守りたい」
言い返せなかった。
この優しさを好きになった。
だからこそ、この優しさが彼女を連れていってしまう。