第11話 夜明けを縫う
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あらすじ
夜明けを縫う、あなたの隣で〜記憶を失う星織りと、忘れないと誓った風渡りの旅〜 - 第11話 夜明けを縫う
本文
ハイネの顔が歪んだ。
「よいわけがない!」
初めて、彼が声を荒らげた。
「私が平気であの娘を送り出したと思うのか。幼いころから見てきた。針を持てずに泣いた日も、母親を亡くした夜も知っている。それでも私が命じなければならない。可能性に賭けて、再び百人を壊すより、一人を」
言葉が途切れた。
風に乗った声が届く。
『ハイネ、聞こえるかい』
老いた女性の声だった。
ハイネが息を呑む。
『あなたのお姉さんと、三人で夏至祭へ行った日のことを覚えているよ。あの子は踊りが下手で、あなたの足を何度も踏んだ』
「マルタ……」
『私とあなたは、同じものを見ていた。違うかい?』
ハイネは答えない。
『明日、あの子の好きだった林檎酒を飲もう。今度こそ、笑って思い出そうじゃないか』
長い沈黙のあと、ハイネが両手を握り合わせた。
「姉は、三度も私の足を踏んだ」
『四度だよ』
「三度だ」
彼の胸から、細い糸が伸びる。
北西の風へ消え、やがて二本を撚った光となって戻ってきた。
ハイネの頬を、涙が伝った。
「明日、確かめよう」
『ああ』
祭司長は目元を拭い、ミアへ向き直った。
「最後の頁は、私の祈祷室にある。中央の棚、女神像の裏だ」
「持ってきます」
「いや、時間がない。私が手順を伝える」
大裂が轟いた。
塔から伸びていた白い糸が、一本切れた。
「星織りの記憶が尽きかけている」
ハイネが顔を上げる。
「集めた糸を、あの娘へ届けねばならない。五つの風鐘を星杭の光へ重ねろ」
「どうやって?」
「風渡りなのだろう」
「急に雑ですね」
「私も星織りではない」
「そうでした」
ミアは杖を両手で握った。
風鐘の音を一つずつ探る。五つの町から届く風と、エルナの胸に宿る星杭の光。形は違っても、どちらも遠くを結ぶものだ。
「行って」
声をかける。
風が渦を巻く。
無数の記憶糸が持ち上がり、夜空へ昇った。
赤、青、金、緑。
人の数だけ色の違う光が、大裂の下に立つ塔へ流れていく。
「届いた」
けれど、胸騒ぎは消えなかった。
青い花を握る。
エルナの顔が浮かんだ。
「私も行きます」
ミアは階段へ向かった。
「儀式の最中だ。扉は封じられている」
「風は、行きたいほうへ行くんです」
答えを待たず、塔へ走った。
◇
どこからか、光が降ってきた。
エルナの指へ、色とりどりの糸が絡む。
泥だらけの水門。
川を流れる花灯り。
凍った湖と、雪の森。
知らないはずの景色の中に、自分がいる。
誰かが覚えているエルナだった。
土嚢を運び、子どもを抱き、赤い外套の女性と手をつないでいる。
「ミア」
名前が、胸の奥からこぼれた。
顔は思い出せない。
どんな声だったのかも、もうわからない。
それでも、その名だけは糸にならずに残っていた。
届いた記憶を束ねる。
大裂を縫う糸が、太くなる。
一針。
街を覆っていた黒雪が止まる。
二針。
夜獣たちが空を見上げ、光の粒になって崩れる。
三針。
裂け目の半分が閉じた。
だが、中央の闇が残っている。
最後の結び目には、星織り自身の最も大切な記憶が必要だった。
エルナは、胸の底に残った光へ触れる。
雪の夜。
一枚の毛布。
初めて重ねた唇と、好きだと言ってくれた人。
顔が見えた。
焦げ茶の瞳。泣きながら笑う、愛しい人。
これを渡せば、縫い終わる。
指先へ、白い糸を引き出した。
「それは渡さない約束でしょう」
風が吹いた。
閉ざされていた扉が、内側へ弾ける。
赤い外套の女性が立っていた。
頬に煤をつけ、息を切らし、それでも笑っている。
「ミア」
「覚えてる?」
「名前だけ。今、顔を思い出しました」
「上出来」
ミアが祭壇へ駆け上がる。
その手には、青い硝子の花があった。組紐をエルナの手首へ巻き、自分の手首と結ぶ。
「何を」
「糸に両端を作る。二人で同じ記憶を出して、同じ明日を約束する」
「失敗したら、あなたまで」
「一人で決めないで。私は、エルナと一緒に明日へ行きたい」
エルナの手を取る。
触れたところから、記憶が重なった。
雪の書庫。消えかけた暖炉。一枚の毛布。
一度目の短い口づけ。
二度目に、どちらからともなく近づいたこと。
同じ記憶を、二人で糸にする。
「明日、何をする?」
ミアが尋ねた。
「明日……」
「何でもいい。教会を出る。蜂蜜菓子を食べる。ククに林檎をあげる」
「全部、したいです」
「もっと先は?」
エルナは、大裂の向こうに夜明けを見た。
「次の花灯り祭で、踊りたい」
「二人で?」
「二人で。今度こそ、少し上手に」
「約束」
絡めた小指が、青白く光る。
「約束します」
二人で糸を持った。
エルナが針を導き、ミアが風で糸を運ぶ。
最後の一針を、大裂の中央へ通す。
闇が抵抗するように膨らんだ。
記憶糸が引かれる。
祭りの夜が、母の手が、雪の書庫が、エルナの中から抜けていく。
「ミア!」
「離さない!」
結んだ組紐が、二人の手首へ食い込む。
遠くから無数の声が届いた。
明日は屋根を直す。
青い花灯りを作る。
林檎酒を飲む。
パンを焼く。畑へ行く。喧嘩した相手に謝る。生まれた子に名前をつける。
誰かと迎えたい明日が、糸の結び目を一つずつ強くする。
ミアの風が、最後の糸を引いた。
裂け目が閉じる。
夜が割れた。
地平から朝日が差し込み、王都の屋根を金色に染める。
空から、光の粒が降ってきた。
誰かに預けられた記憶が、それぞれの胸へ帰っていく。
エルナの中にも、雪の夜が戻った。
温かい唇。
好きだと言った声。
何度忘れても、また好きになると笑った人。
「ミア」
名を呼んだ。
「ここにいるよ」
抱きしめられる。
エルナはその背へ腕を回そうとした。
もう、指一本動かなかった。
「眠っても、いいですか」
「うん」
「起きたときも、いてください」
「いるよ。絶対に」
朝日のなかで、ミアの顔が滲んだ。
「愛しています」
「私も」
唇に、柔らかなものが触れる。
それを最後に、エルナの意識は静かに途切れた。