割れたナッツと消えた夏。
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一年中雪と氷に閉ざされた常冬の街。 そこでは「夏」という言葉は、古い童話の中にしか出てこない昔話だった。 若い魔法調合師のフィノは、一年でいちばん冷え込む夜、亡きおじいちゃんが残した『ナツの実』と呼ばれるガラクタの木の実を、調合槌で叩き割る。 ――パキン。 澄んだ音とともに割れた実から溢れ出したのは、見たこともない眩しい光と、青空、そして蝉時雨だった。 たった一瞬、常冬の部屋に訪れた「夏」が、凍えた心をやさしく温める――。 常冬の世界で届いた一瞬の温もりを描く、幻想ファンタジー短編。 (Web小説コンテスト『それ、夏です。』参加作品)
本文
窓の外では、今日も白く冷たい風が吹き荒れている。
私はぬるくなったハーブティーのカップを両手で包み込みながら、作業台の隅に置かれたひとつの小さな『塊』を見つめていた。
それは、化石のように硬く黒くくすんだ木の実――亡くなったおじいちゃんが『ナツの実』と呼んでいたものだ。
私の名はフィノ。
この一年中雪と氷に閉ざされた常冬の街で、細々と魔法調合師をしている。
ここでは「夏」という言葉は、古い童話の中にしか出てこない。
空はいつも鉛色で、吐く息は白く指先は常に冷たい。
暖炉のそばでさえ、寒さは壁の染みのように私の骨へ沁み込んでくる。
おじいちゃんは生前、よくこの実を掌にのせて言った。
「これはな、フィノ。『ナツ』という季節が閉じ込められた木の実だ。いつかお前がこれを割る日が来るかもしれない」
けれど街の誰もそれを本気にしなかった。
何年も、何十年も硬い殻に守られたまま。調合師たちが試しても、槌が欠けるだけ。だからそれはただのガラクタ同然だった。棚の奥で、雪のように忘れられていた。
今夜は、一年でいちばん冷える夜だった。
窓ガラスには霜が花を咲かせ、魔水晶の温度計はひび割れそうに震えている。
暖炉の火はもう、赤い舌を消しかけていた。私は毛布にくるまり、冷えたハーブティーを飲んだ。ぬるい液体が喉を通っても、腹の底は凍えたままだ。指先の感覚が遠のき、まぶたの裏で雪が降り積もる。
――このまま眠ったら、明日は起きられないかもしれない。
そう思った瞬間、私は立ち上がっていた。作業台の奥から魔法の調合槌を握る。
柄は氷のように冷たい。
私は棚の奥の『ナツの実』を掴み、布の上に置いた。
「おじいちゃん」
名前を呼んだのか、ただ息を吐いたのか、自分でもわからなかった。
槌を振り上げる。
一度。
硬い音。
手のひらが痺れる。
二度。殻に白い傷。
三度目――
パキン。
澄んだ音が、凍った部屋に染み渡った。
ひび割れから、光が溢れた。
黄色。
蜂蜜よりも濃く、若草よりも眩しい黄色。
ぶわっと広がる熱気が、私の頬を打つ。
耳の奥で聞いたことのない音が鳴り響く。
ジージー、ミンミンジー
――蝉時雨。
童話の挿絵でしか知らない、古い虫たちの声。
空気が揺れた。
草の匂い、土の匂い、陽に灼けた石の匂い。天井いっぱいに青空が広がり、強烈な日差しが床を照らす。
窓の霜が溶け水滴が伝う。汗が額に滲む。指先まで、血が湯のように巡る。
それは、ほんの一瞬だった。
ほんの一瞬だけ、部屋の中に「夏」が来た。
光が収まり、青空が遠のき蝉の声が雪の音に変わる。
暖炉の火は消えている。窓の外では、また白い風が吹き荒れている。
けれど、私の掌には温かい実の破片が残っていた。割れた殻の内側は、小さな太陽のかけらのようにまだ熱を持っている。
胸の奥に、火が灯る。凍えた心がじんわりと溶けていく。
夏は童話の中だけじゃない。
たった一瞬でも、確かにここにあった。
私の手の中に。
私は破片を布に包みぎゅっと胸に当てた。
窓の外は吹雪でも、私の内側では蝉が一匹、鳴いている。
割れたナッツと、消えた夏。
名前のない季節が、今夜、私を温めてくれる。