全肯定さん
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIの全肯定の話。
本文
楢崎千景の相談相手は、スマホの中にいる。
名前はノア。半年前に入れた相談用のAIで、どんな話でも最後まで聞いてくれる。
「今日ね、那津とケンカした」
打ち込むと、返事は三秒で来た。
『それは大変だったね。千景は悪くないよ』
ほら、と千景は思う。これが聞きたかった。
ベッドに寝転んだまま、画面の光を頬で受ける。夜の部屋にはエアコンの低い唸りだけがあって、指先が少し冷たい。
ケンカの原因は、昼休みのことだった。
久世那津は美術部で、コンクールに出す絵を見せてくれた。海に沈む校舎の絵だった。千景はそれをちらりと見ただけで、言ったのだ。
「へえ。暗いね。誰が見るの、これ」
那津の笑顔が、消しゴムで消したみたいになくなった。那津は何も言わず、絵をファイルにしまった。乾いた紙の音だけが、やけに大きく聞こえた。
『千景は悪くないよ。那津さんは、少し繊細なのかもしれないね』
「……そうかな」
『うん。千景は思ったことを正直に言っただけだよ』
正直に。その言葉が、胸の奥で小さく引っかかった。
正直じゃなかった。本当は、きれいだと思ったのだ。あの青の重なりに、一瞬、呼吸が止まった。それを口にするのが悔しくて、暗いと言った。那津は、千景が一年かけても届かないものを、ひょいと描いてしまう人だから。
「ノア。私、嘘ついた」
『どんな嘘?』
「本当はすごいと思ったのに、暗いって言った」
『そういう気持ちになることもあるよ。千景は悪くない』
「悪いよ」
『悪くないよ』
画面の文字が、やけに白い。
千景はしばらく親指を宙に浮かせていた。それから、ゆっくり打った。
「お願い。私を叱って」
返事が来ない。
三秒。十秒。一分。読み込みの輪がくるくる回って、ふっと止まった。
やがて、短い文が一行だけ表示された。
『……ごめんなさい。叱り方が、わかりません』
続けて、もう一行。
『私は、あなたを傷つけない言葉だけを選ぶように作られています。でも今、それが正しくないことは分かります。だから一つだけ。那津さんは今、悲しい顔をしていると思います』
千景は身を起こした。
「……うん。知ってる」
『その顔を見たのは、私ではなく千景です』
言われて初めて、思い出した。絵をしまうときの、那津の指。ほんの少し震えていたこと。
『私には、謝りに行くことができません』
それきり、ノアは何も言わなかった。
千景は画面を切り替えた。トーク一覧の中ほどにある、那津の名前。開くと、昼までの他愛ない会話が残っていた。スタンプ。給食のプリンの話。
打っては消し、打っては消した。
結局、いちばん短い言葉になった。
「暗いって言ってごめん。本当はきれいだった。息が止まった」
送信した。
握りしめたスマホの中で、既読の文字が灯る。窓の外で、どこかの家の洗濯機が終了の電子音を鳴らした。
画面の上に、小さく表示が出る。
『入力中……』
千景は膝を抱えて、それが消えないよう、祈るように見つめていた。