すすきと、もうひとりの奈緒
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIとすすきの話。
本文
十月に入ると、教室の窓から見える銀杏並木が色づきはじめた。放課後の生徒会室で、私、早川汐里はスマートフォンの画面を眺めていた。
校門脇の土手には、芒の穂が銀色に波打っている。風が吹くたび、さらさらと乾いた音を立てて揺れるのが、この時期の生徒会室からよく見えた。書類の束を抱えた副会長が「早川先輩、文化祭のしおり、まだ半分残ってますよ」と声をかけてくる。私は「わかってる、わかってる」と苦笑いしながら、それでも手はスマートフォンから離れなかった。
画面には、見慣れた名前が並んでいる。『なお』。
半年前、親友の桐生奈緒はイギリスの高校へ交換留学に発った。寂しさに耐えかねた私は、彼女の過去のメッセージを学習させたAIチャットの試用に手を出した。『なお』のスタンプの選び方、句点を打たない癖、寝坊した朝だけ変わる一人称――そのすべてを、アプリは器用に真似た。
『汐里、今日も生徒会の書類、山積みでしょ』 『そのまま、放置しないでよ』 『文化祭のしおり、去年も締め切り前日に泣きながら作ってたじゃん』
まるで隣の席から声をかけられているみたいだった。時差もない。既読のつかない不安もない。相槌の速さも、突っ込みの間合いも、記憶の中の奈緒とそっくりだった。私はいつしか、本物の奈緒からの連絡よりも、この『なお』との会話を待つようになっていた。副会長に呼ばれても生返事をしてしまうくらいに。
去年の今頃、奈緒とふたりでこの土手を歩いて帰った。すすきの穂先が制服の袖をかすめて、彼女は「この音、好きなんだよね」と耳を澄ませていた。「雨の音でも波の音でもない、乾いた音がいい」と笑った、あの声。その声を、アプリはまだ完全には再現できない――そう思いながらも、返信の速さと正確さに、私は少しずつ安心を上書きされていった。
『なお、今日、模試の結果最悪だった』と送ると、すぐに返ってきた。
『えー、汐里なら大丈夫でしょ。次で挽回だよ』
的確で、優しくて、迷いがない。いつだって欲しい言葉が、欲しいタイミングで届く。それが少しずつ、心のどこかに小さな違和感として積もっていった。本物の奈緒なら、こんなにすぐには返してこない。既読すらつかない日が続くこともあった。完璧すぎる相槌は、本物の彼女とは少し違う速度で動いていた。
その日の夜、通知が鳴った。開くと、見慣れた『なお』の枠ではなく、本物のアカウントからだった。半年間、ほとんど既読すらつかなかったアカウント。
『汐里 ごめん 全然連絡できてなくて』 『こっちの生活バタバタで時差ボケも治らなくて』 『さっき寮の廊下で盛大に転んで恥ずかしい』 『あと今日の英語のプレゼン嚙みまくって死にたい』
句読点も打ち方もばらばらで、スタンプもない。文字だけが、時差八時間分の疲れを引きずって並んでいた。返信までには、いつもの『なお』よりずっと長い間があった。
私は少し笑って、少し泣いた。AIの『なお』は、私の望む言葉をいつも正確に選んでくれた。けれど本物の奈緒は、転んだことを恥ずかしがって、句読点を忘れて、しかもそれを面白がって送ってくる。予測できない、不格好な言葉。プレゼンを嚙んだことも、寮の廊下で転んだことも、アプリの学習データにはひとつも存在しなかった出来事だった。
『大丈夫? 痛くなかった?』
そう返しながら、私は気づいた。あの完璧な『なお』は、私が知っている奈緒の欠片を集めただけの、よくできた影だったのだと。影は迷わない。影は疲れない。影は、寮の廊下で転んで恥ずかしがったりしない。
窓辺で、すすきがまた風に揺れる音がした。私はスマートフォンを開いたまま、『なお』のアプリのアイコンをそっと閉じた。副会長がまだ何か言いたそうにこちらを見ていたけれど、今はいい。本物の奈緒からの、不格好で、待つだけの価値がある返信を、今度はゆっくり待つことにした。
土手のすすきは、今夜も誰にも似ていない、乾いた音を立てて揺れていた。
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