言葉の体温
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIの連絡アプリの話。
本文
夕方五時のチャイムが鳴ると、教室に残っているのはもう僕、深町総司だけになる。黒板の日直欄には、今日も水無瀬環の名前が空欄のままだった。
環は二学期に入ってから、ほとんど学校に来ていない。担任の勧めで、学校側が導入した連絡アプリ――生徒の負担を減らすためという触れ込みの、AI要約・翻訳機能つきのメモアプリ――を通してだけ、彼女とやり取りできるようになっていた。
『今日のプリントの範囲を教えてほしいです』
画面に表示される環の言葉は、いつもこんな調子だった。丁寧で、簡潔で、無駄がない。長い文章を打っても、アプリが自動で要約し、整った敬語に変換してから僕の画面に届く仕組みらしい。最初は「これなら気を使わずやり取りできる」と思っていた。けれど、続けるうちに、何かが引っかかるようになった。
小学生のころの環は、こんな喋り方をしなかった。休み時間、僕の消しゴムのカスを机から払い落としながら「総司、字きたなすぎ」と笑っていた声を覚えている。うろこ雲を指差して「あれ、魚の骨みたいだね」とくだらないことを延々と話す子だった。
『体調が優れないため、来週も欠席予定です』
その一文にも、体調不良の重さがどれくらいなのか、寂しさがあるのかどうか、何も滲んでいなかった。アプリは正確なはずなのに、正確であればあるほど、環の輪郭がぼやけていく気がした。
ある日、アプリの調子が悪かったのか、要約前の生データが画面の下に一瞬だけ表示された。
『来週も欠席すると思う……たぶん もう最初の分厚いプリントに追いつける気しない みんな先行ってるだろうし 総司も忙しいだろうから 気にしないで』
三点リーダーの後の「たぶん」で、指が一度止まったのが想像できた。要約されて消えていたのは、敬語じゃなく、この迷いと弱さのほうだった。
僕はアプリを閉じて、代わりに自分のスマートフォンから、彼女の個人アカウントに直接メッセージを打った。
『プリント、僕が土曜に届けに行っていい? ついでにうろこ雲の写真撮ってきたから見せたい』
既読がつくまで、いつもより少し長い時間がかかった。それでも、返ってきたのは短い、句読点の抜けた一言だった。
『いいよ 待ってる』
アプリを通していない、たった八文字。僕はそれだけで、半年ぶりに環の体温を受け取った気がした。