セミの抜け殻を煮る女
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>東京の夏は、暴力だった。</p><p> 三十九度を優に超えたアスファルトの照り返しは、歩く人間の皮膚を直接ジリジリと炙り、窓の外からは、頭の血管がブチ切れるのではないかと思うほどの蝉の絶叫が降り注いでいる。ジー、ジジジジジ……と、やかましい金属音が、脳の髄まで焦げ付かせる。</p><p> 私は、アパートの床に大の字で転がっていた。</p>
本文
東京の夏は、暴力だった。
三十九度を優に超えたアスファルトの照り返しは、歩く人間の皮膚を直接ジリジリと炙り、窓の外からは、頭の血管がブチ切れるのではないかと思うほどの蝉の絶叫が降り注いでいる。ジー、ジジジジジ……と、やかましい金属音が、脳の髄まで焦げ付かせる。
私は、アパートの床に大の字で転がっていた。
仕事はなくなり、三股をかけられていた男にはLINEでブロックされ、銀行口座の残高はついに三桁になった。電気代を滞納したせいで、我が家のボロいエアコンはすでに二ヶ月前から沈黙している。
部屋の中は温室のようで、息をするだけで肺が焼けた。Tシャツは汗でぐっしょりと皮膚に張り付き、体温はとっくに四十二度くらいまで跳ね上がっている気がした。
暑い。溶ける。死ぬ。 いや、死ぬより先に、この頭のなかの不快感が限界だった。蝉の声が、まるで私の脳みそを直接つついてかき回しているようにうるさい。
「……もう、どうにでもなれよ」
私は這うようにして台所へ行き、ガタガタと揺れる錆びた鍋を引っ張り出した。
水を入れて火にかける。しかし、水道から出る水すらうるま湯のようにぬるかった。これでは涼むどころか、余計に茹で上がってしまう。
私はふらふらとベランダへ出た。 直射日光に晒されたコンクリートの床には、夏の盛りを謳歌して力尽きた無数の「それ」が転がっていた。
茶色くて、カサカサで、空っぽの殻。蝉の抜け殻だ。
ふと、奇妙な考えが頭をよぎった。
あれだけ大量にいる抜け殻なのだから、きっと何か、別の物質に似ている気がする。たとえば、漢方薬の生薬とか、あるいは――深い山の底に眠る、冷たい氷の化石とか。
「……煮てみようか」
狂っていたのだと思う。暑さのあまり、脳のタンパク質が変性していたのだろう。
私はベランダの隅に散らばっていた数百匹の蝉の抜け殻を、レジ袋にかき集めた。カサカサ、カサカサと、乾いたプラスチックがこすれ合うような気味の悪い音がする。
それらをすべて、ぐつぐつと沸騰した錆びた鍋に放り込んだ。
――異臭がすると思った。 だが、違った。
お湯のなかで抜け殻がふやけていくにつれて、鍋から立ち上ったのは、どこか懐かしい、深い森の土と、朝露の匂いだった。カサカサの茶色い殻はみるみるうちに溶け出し、お湯は透き通った淡い翡翠色に染まっていく。
私は恐る恐る、そのスープをマグカップに注ぎ、ひと口飲んだ。
「――っ!」
舌の先が、キーンと凍てついた。 喉を通った瞬間、胃の腑から全身の毛穴へ向かって、冷蔵庫のなかに飛び込んだかのような猛烈な冷気が駆け抜けた。
あれほど全身を狂わせおった熱気が、嘘のようにスッと消えていく。汗が引き、火照った肌がみるみるうちに冷却されていく。体の芯から、吸い込まれそうなほどの深い透明な涼しさが広がっていった。
「……なに、これ……美味しい……」
生き返るとはこのことだ。私はマグカップのスープを一気に飲み干した。 頭のなかの蝉の声が遠ざかり、世界が驚くほど静かになった。
それから、私の毎日は一変した。 仕事などどうでもよかった。恋人の裏切りも忘れていた。私の関心はただ、「いかに良質な抜け殻を手に入れるか」だけに集中した。
近所の大きな公園には、何万匹もの蝉が生息している。木の幹を這い上がり、脱皮したばかりの新鮮な抜け殻が、毎朝わんさか取れた。
私は毎朝、レジ袋を持って公園をパトロールし、採取した抜け殻を自宅で大量に煮詰めた。
翡翠色のスープを一日中飲み続ける私の部屋は、エアコンなどなくても、常に冷蔵庫の中のようにひんやりと冷えていた。
夏は地獄だと思っていた。けれど、このスープさえあれば、夏はいくらでも美しく、涼しい楽園に変わる。
変化に気づいたのは、スープを飲み始めて三週間目のことだった。
お風呂上がりに鏡を見ると、鎖骨のあたりに、うっすらと産毛のようなものが生えていた。
いや、毛ではない。それは光を反射してキラキラと輝く、ごく小さな、半透明の「薄い膜」だった。
触ってみても痛くも痒くもない。ただ、そこには確かな手触りがあった。透き通った、蝉の羽の質感にそっくりな、美しい膜が。
翌日になると、その膜は少しずつ大きくなり、両肩から背中にかけて、しなやかに広がり始めた。
服を着ると少し窮屈だったが、気にしなかった。むしろ、服など纏わないほうが、風通しが良くて心地よかった。
私の体温はどんどん下がり、今はもう平熱が十五度くらいしかなかった。
けれど、不思議と寒さは感じない。体中が透明な樹脂でコーティングされたように軽やかで、窓の外で狂ったように鳴き叫ぶ蝉たちの声が、なんだか「おいでよ」と呼んでいる仲間たちの合唱のように聞こえた。
七月の終わり。 私はついにアパートの服をすべて脱ぎ捨て、ベランダの柵の上に裸足で立った。
背中には、翡翠色に透き通る、見事な一対の羽が生えていた。 太陽の光を浴びて、それは虹色のプリズムを放っている。
窓の外は相変わらず、じりじりとアスファルトを焦がす殺人的な猛暑だった。 でも、私にとって、世界はどこまでも涼しく、美しかった。
私は大きく背中の羽を広げ、熱気と蝉の絶叫が渦巻く青空へと、軽やかに身を躍らせた。
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