カミソリを捨てた夏休み
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
カミソリを捨てたその日から、世界の「当たり前」が少しずつ変わっていく。 期末テストが終わり、待ちに待った夏休み。 高校生の葵は、ツルツルに手入れした脇を確かめ、夏を楽しむ準備万端で親友の結衣と下校していた。 空を見上げると、そこには当たり前のようにそびえ立つ一本の「光の柱」。 隕石から地球を守るシステムのはずなのに、葵はなぜか小さな違和感を覚える。 「あの柱って……いつからあったっけ?」 違和感を抱えたまま始まった夏休み。 「まあ今日は剃らなくていいか」と放置した初日から、葵の心と体に小さな変化が訪れる。 伸びていく毛、テレビの中のアイドル、プールの友達、そして街ゆく人々――。 異物感がやさしく溶けていく、少し不思議で爽やかなSF日常ショートストーリー。
本文
セミの声が降り注ぐ、七月の午後。期末テスト最後のチャイムが鳴り響いた瞬間、教室全体に解放感という名の熱気が弾けた。
「終わったー! 夏休みだー!」
隣の席の結衣が、勢いよく腕を伸ばす。夏服の袖口から覗く脇は、今朝念入りにカミソリをあてたばかりで、傷ひとつないツルツルの肌が夏の日差しを弾いていた。
「結衣、声大きいって。ほら、早く行こ、アイス食べたい」
私もバッグを肩にかけ、自分の脇の下をこっそり手で確かめる。準備はバッチリだ。毛穴ひとつない滑らかな肌。これでいつプールに誘われても、どんなノースリーブを着ても恥ずかしくない。女子高校生にとって、夏を迎えるための完璧な身だしなみだ。
校門を出て、駅へ向かう坂道を二人で下る。コンビニで買ったソーダ味のアイスキャンディーをかじりながら、青空を見上げた。
「……ねえ、結衣」
アイスを舐めながら、私は街の向こう、水平線のかなたの上空を指差した。真夏の眩しい空に、一本の太い「光の柱」が垂直にそびえ立っている。クリアな青空の中に溶け込むような、透明感のある淡いエメラルドグリーンの光。
「あの柱って、なんだっけ?」
結衣はアイスをモグモグさせながら、不思議そうに私を見た。
「は? なに言ってんの、葵。隕石から地球を守るバリアの柱でしょ。教科書にも載ってるじゃん」
「あ……そっか。隕石防衛システム、だっけ」
「そうそう。あれがあるから巨大隕石が降ってきても大丈夫なんだって」
私はアイスの棒を咥えたまま、じっとその光を見つめた。喉の奥に、小さな魚の骨が引っかかったような感覚。
「……あれって、いつからあったっけ?」
「え? 昔からじゃん。私が生まれたときにはもうあったよ。……葵、期末テストで頭バグった?」
「あはは、かも。なんか一瞬、急に気になっただけ。そうだよね、昔からだよね」
気のせいだ。夏の暑さのせいか、テスト終わりの解放感で頭がぼーっとしているのだろう。私は喉の引っかかりをソーダ味の冷たさで飲み込み、結衣と笑い合いながら坂道を下っていった。
夏休み初日。
昼過ぎに目を覚まし、クーラーの効いた部屋でぬくぬくとベッドから這い出た。鏡の前でノースリーブの部屋着に着替える。ふと鏡に映る自分の脇を見ると、昨日剃ったばかりの肌に、小さな黒いポツポツが顔を覗かせていた。
いつもなら、すぐにバスルームへ走ってカミソリを手に取るところだ。けれど今日、私の手は動かなかった。
「……まあ、今日はどこにも出かけないし。剃らなくてもいいか」
誰に見せるわけでもない。私はそのままカミソリを置き、リビングへ向かった。
夏休み三日目。
脇の毛は順調に育ち、数ミリほどの柔らかい生え始めになっていた。
普通なら「汚い」「早く剃らなきゃ」と焦るはずの段階だ。なのに、鏡の中の自分を見つめながら、妙な心地よさを感じていた。
なんだか、剃りたくない気分。
無理にツルツルに整えるよりも、こうして自然に生えてくるものをそのままにしておく方が、体に余計な力が入らない気がする。理由はわからないけれど、カミソリを握る気にはどうしてもなれなかった。
夏休み七日目。
部屋で冷えた麦茶を飲みながらテレビをつけていると、今大人気の7人組アイドルグループ「ルミナス」が新曲を披露していた。
眩しい照明の中、ノースリーブの衣装を着たセンターの女の子が、弾けるような笑顔で手を高く掲げる。
その脇の下には、うっすらと柔らかい毛が生え揃っていた。
カメラがアップになっても、彼女は隠す素振りすら見せない。それどころか、そのナチュラルな姿がどこか誇らしげで、健康的で、とても魅力的だった。
「……あれ、なんか……すごく素敵かも」
以前の自分なら「アイドルの癖に処理してないの?」なんて思ったかもしれない。でも今の私は、テレビ画面に向かって素直に見とれていた。うっすらと生えた脇毛は、ちっとも嫌な気分にさせない。むしろ、人間らしくて、すごく可愛い。
夏休み十日目。
結衣に誘われて、地元の市民プールへ行くことになった。
着替えのとき、一瞬だけ「あ」と思った。この十日間、私は一度も脇を剃っていない。お気に入りのセパレート水着を着ると、しっかり生え揃った毛がはっきりと見えてしまう。
(結衣に引かれたらどうしよう……)
少し緊張しながら更衣室で上着を脱ぐ。そして、となりにいた結衣が水着姿になり、両手を伸ばして髪を結い直した瞬間――私は目を見張った。
結衣の脇にも、私と同じように柔らかい毛がしっかりと生えていたのだ。
結衣は私の視線に気づくと、へへっと照れくさそうに笑った。
「あ、見ちゃった? 実はさ……夏休み入ってから、なんか剃る気になれなくてさ」
「えっ……私も! 私も一度も剃ってない!」
「えーっ、本当!? なんだ、葵も? 良かった~! なんかさ、剃らない方がラクだし、自然で良くない?」
「うん! すごくわかる! 気が合うね!」
私たちは顔を見合わせて爆笑した。不安なんて一瞬で吹き飛び、二人はプールサイドへ駆け出した。見渡せば、ビキニを着た他の女子高生も、タンクトップ姿の男の子も、大人たちも、みんな思い思いに自分の脇毛を生やしたまま、夏の日差しを楽しんでいた。
夏休み二十日目。
私の脇には、すっかり柔らかく立派な毛が揃っていた。
街へ買い出しに出かけると、ノースリーブのワンピースを着た女性たちが、風に揺れる髪と同じように、ごく自然に脇をのぞかせて歩いている。
「ツルツルに処理する」というかつての常識は、まるで最初からこの世に存在しなかったかのようだった。誰も他人の脇を気にしないし、卑下もしない。むしろ髪型やファッションと同じように、ありのままの身体を愛おしんでいる。
一度もカミソリを握らなかったこの二十日間で、私の心も体も、すっかりこの「当たり前」に馴染んでいた。
夏休み三十日目、夜。
昼間の熱気が残りつつも、どこか秋の気配を含んだ夜風が吹く頃。私と結衣は、街を見下ろせる高台の公園の芝生に寝転がっていた。
今夜は、数千年に一度の「大規模隕石群」が地球に接近する夜だった。
「ねえ、葵。本当に大丈夫なのかな、隕石」
結衣が横になりながら、缶ジュースをコトリと置く。
「大丈夫でしょ。ずっと昔から、あの柱があるんだから」
私は上空を見上げた。夜空の闇の中に、あのエメラルドグリーンの光の柱が、静かに、けれど力強く凛とそびえ立っている。
やがて、夜空の向こうから「それ」はやってきた。
重なるように流れてくる、無数の光の尾。地球へ向かって猛スピードで降下してくる巨大な隕石の群れ。思わず息を呑む。
その瞬間――。
上空の光の柱から、ぬくもりのある光のベールが波紋のように広がり、地球全体を包み込んだ。
降り注ぐ隕石群は、その光のベールに触れた瞬間、音もなく静かに砕け散り、キラキラと輝く光の粒子となって夜空に溶けていった。
ドーンという爆音も、破壊の恐怖もない。
ただただ美しく、夜空全体に光の雨が降っているかのような、幻想的で圧倒的な光景。
「うわぁ……すごい……綺麗……」
結衣が感嘆の声を漏らす。
私は頭の後ろで両手を組み、その光のショーを見つめていた。ノースリーブのシャツの脇から、夜風がすうっと通り抜けて、生え揃った毛を優しく撫でていく。その感触が、たまらなく心地よかった。
ふと、夏休みの初日に感じた「喉の引っかかり」を思い出しそうになった。
(あの柱って、いつからあったんだっけ……?)
けれど、その疑問はすぐに霧のように消えていった。違和感なんて、もうどこにもなかった。
光の柱は昔からそこにあって、地球を守ってくれていて。私たちはこうして生きていて、身体に毛を生やして、季節の移り変わりを感じている。それが世界の当たり前で、何ひとつ間違っていない。
「綺麗だね、葵」
「うん。本当に、綺麗だね」
私は深呼吸をして、夏の終わりの風を胸いっぱいに吸い込んだ。
光のベールが夜空を優しく包み込む下で、私たちはいつまでも、どこまでも満ち足りた気持ちで夜空を見上げ続けていた。