私は今回も逃げました

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/26 📝 1,879文字 ✅ 全年齢

あらすじ

<p><span> 夏の夕暮れは、いつまでも終わらない。<br> 湿った空気が教室に重く沈んでいて、窓を全開にしても熱は逃げない。蝉の声だけが、やけに大きく、壁に反響していた。黒板消しを叩くたびに白い粉が舞い、汗ばんだ私の腕にべっとりと張りついてくる。制服の袖が肌に吸い付く感触が、気持ち悪い。</span></p><p><span>「世界征服がしたい」</span></p><p><span> 彼がまた、いつものように呟いた。転校してきてからずっと繰り返している口癖だ。夕焼けに染まった教室を、二人だけで掃除していた。本当は双子の妹と三人でやるはずだった。でもあいつは、またサボった。完璧な妹が、完

本文

 夏の夕暮れは、いつまでも終わらない。

 湿った空気が教室に重く沈んでいて、窓を全開にしても熱は逃げない。蝉の声だけが、やけに大きく、壁に反響していた。黒板消しを叩くたびに白い粉が舞い、汗ばんだ私の腕にべっとりと張りついてくる。制服の袖が肌に吸い付く感触が、気持ち悪い。

「世界征服がしたい」

 彼がまた、いつものように呟いた。転校してきてからずっと繰り返している口癖だ。夕焼けに染まった教室を、二人だけで掃除していた。本当は双子の妹と三人でやるはずだった。でもあいつは、またサボった。完璧な妹が、完璧に欠席する日もあるんだな、と皮肉に思う。

「はぁ? 馬鹿じゃないの」

 いつものように言い返した。この転校生は、人と少しずれている。変わった形の靴を履いていて、歩くたびにカツリ、カツリ、と乾いた音を響かせる。その音が、静かな教室にやけに耳についた。先週も、彼が黒板に触れた瞬間だけ、チョークの粉が空中で止まったように見えた。湿った空気の中で、粉だけが不自然に長く浮いていた。気のせいだと笑って済ませたけれど、あの時の違和感がまだ胸の奥に残っている。

 彼は靴音を立てながら近づいてきた。

「じつは僕、明日から世界征服できるんだ」

 いたずらっ子のような笑顔。でも目は、妙に真面目だった。窓の外で鳴いていた蝉の声が、一瞬だけ途切れた気がした。熱気が、彼の足音に合わせてわずかに歪んだようにも思えた。

「ねえ、世界征服したら何かプレゼントしてあげる。何がいい?」

 真面目に聞いている。私も、真面目に答えなきゃいけない気がした。喉が渇いていた。夏の終わりみたいな、どこか焦る気持ちが胸の奥で小さく揺れていた。

 先週の放課後が、ふと蘇る。彼が妹にノートを貸してくれた時、妹は自然に微笑んで「ありがとう」と言った。その笑顔は少しも作っていなかった。声のトーンも、仕草も、全部が滑らかで、嫌味ひとつなかった。私は隣で、ただ俯いていた。同じ顔なのに、同じ制服を着ているのに、彼の視線が妹に吸い寄せられるのが、痛いくらいよくわかった。妹の席はいつも綺麗に整えられていて、教科書もノートも完璧に並んでいる。消しゴムのカス一つ落ちていない。成績は学年一位を譲らず、朝のホームルームでは先生に褒められ、彼の前でも自然に笑える。私は彼の前で、いつも少しだけ情けない顔をしてしまう。比べられて惨めになるのが怖かった。これ以上、彼の前で落ち込んではいけない。

「……プレゼントなんていらない。消してほしい人がいる」

 ぽつりと呟く。世界を征服できるなら、一人くらい消しても、誰も咎めないだろう。私は少し黙ってから、ゆっくり指を差した。指の先には、「あの子」の席があった。いつも綺麗に整えられていて、教科書もノートも完璧に並んでいる席。

 彼女はいつも完璧だ。私は彼の前で、いつも少しだけ情けない顔をしてしまう。

 手をパンッと鳴らして、いつもの調子を取り戻す。

「これでいいでしょ! 掃除も終わり! これにて解散!」

 元気な声を作って、教室から逃げるように飛び出した。廊下に出た瞬間、外の熱気と蝉の大合唱が押し寄せてきた。なんで逃げたのか、自分でもわからなかった。私はいつも、逃げてばかりだ。本音を言ってしまった自分が恐ろしかったし、それを本気で願ってしまった自分がもっと嫌だった。

 家に着くと、すぐにベッドにダイブした。エアコンの冷たい風に包まれながら、泣いた。泣きまくった。妹の完璧さに負けている自分も、彼に本音を言ってしまった自分も、全部嫌だった。泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまった。

 気付くと朝になっていた。カーテンの隙間から、すでに強い日差しが差し込んでいる。慌ててリビングに降りると、妹が呆然とテレビの前に立ち尽くしていた。画面に映っているのは、彼だった。

「こんにちは、世界中の皆さん! 今日から僕が世界征服をします!!」

 笑顔で宣言している。背後には見知らぬ街並みが映り、どこか現実離れしている。まったく理解できない。ドッキリなのか、何かの番組なのか。

 彼は話し続けた。

「まずは好きな子の願いを叶えます」

 私の体が、小さく震えた。昨夜、私が「消してほしい」と願ったのは、目の前にいる妹だった。完璧な、あの子。

 テレビの向こうから、はっきりと聞こえた。

 カツリ、カツリ。

 変わった形の靴が、床を叩く音。

 リビングの空気が、急に夏の夕暮れのように湿って重くなった。妹がゆっくりと私の方を振り返る。その顔は、もう完璧ではなかった。血の気がすっと引き、唇が小刻みに震えて、目だけが虚ろに私を映していた。

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