今日は洗濯日和ね

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/26 📝 2,904文字 ✅ 全年齢

あらすじ

<p><span> 日が照っている。とある休日の昼下がり。</span></p><p><span> 蝉がけたたましく鳴いていて、空気が肌に張りつくように熱い。縁側に座った母が、ゆっくりと首を動かして空を見上げた。額には薄い汗が滲んでいる。</span></p><p><span>「洗濯日和ね。今日はよく乾きそう」</span></p>

本文

 日が照っている。とある休日の昼下がり。

 蝉がけたたましく鳴いていて、空気が肌に張りつくように熱い。縁側に座った母が、ゆっくりと首を動かして空を見上げた。額には薄い汗が滲んでいる。

「洗濯日和ね。今日はよく乾きそう」

 私は「手伝うよ」と笑顔で答えた。母は病気がちで、身体が思うように動かなかった。だから私は、できる限りの家事を代わりにしていた。何年も前から、ずっとそうしてきた。

「ありがとう。お陰で助かるわ」

 母は笑った。その笑顔は、いつも優しかった。夏の陽射しが母の横顔を照らし、白い肌をほんのりと透けさせているように見えた。手を取ると、指先が冷たかった。いつも冷たかった。熱い空気の中で、その冷たさだけが異物のように感じられるのに、私はそれが「母の手」だとしか思えなかった。

 洗濯ものを干し終えると、次は母の部屋を掃除した。部屋の棚には、陶器でできたフランス人形がたくさん並んでいた。母が小さい頃から集めていたものだという。白い肌に青い瞳。レースのドレスが、強い陽射しを受けて少しだけきらきらしていた。母はこの人形たちのように美しい人だった。私が覚えている限り、母の美しさは変わったことがなかった。

 そのとき、玄関の方でガチャリと音がした。

「ただいまー」

 父の声だ。そうだ、今日はお父さんが早く仕事から帰ってくる日だった。私は嬉しくなって、お母さんの手を引いた。冷たい指が、私の掌にそっと収まる。

「お帰りなさい!」

 父は玄関に立ったまま、私と母を見た。みるみるうちに、父の顔が青ざめていく。唇が震え、声が掠れていた。目の奥に、長いあいだ押し殺してきた何かが浮かんでいる。

「……お前」

 父はゆっくりと口を開いた。まるで、何度も飲み込んできた言葉を、ようやく吐き出すように。

「まだ、『それ』をお母さんだと思っているのか……?」

 私は首を傾げた。「何言ってるの。お母さんはお母さんでしょ」と笑った。

 父は深刻な顔で私を見つめた。そして、一歩近づき、言い聞かせるように、でもどこか自分に言い聞かせるように言った。

「お母さんは、もう死んだんだ」

 私は目をぱちくりさせた。蝉の声だけが、やけに大きく聞こえた。いつもと同じ夏の蝉の声なのに、今日は耳の奥でドリルのように響く。熱気が、急に重くのしかかってくる。

「お前は人形を母さんだと思い込んでいる。母さんはもうとっくに、病気で死んだんだよ。何年も前に……」

 私は茫然とした。父の言葉が、熱い空気の中でゆっくりと溶けていくようだった。信じられない。お母さんは今、私の隣にいる。手を繋いでいる。冷たいけれど、確かにここにいる。

「嘘だ」

 私は小さく言った。

「お母さんはここにいるよ。見てよ、こんなに……」

 父は私と手を繋いでいた母の腕を掴み、引っ張った。力は強かったが、どこか躊躇うような震えがあった。

「その人形を、こっちに渡しなさい」

「お母さんになんてことするの!」

 私は必死に引っ張り返した。二人の力がぶつかり合って、つるりと、『ソレ』が手から離れた。

 ゆっくりと落ちていく。

 パリン。

 陶器は床に落ちて、粉々に砕けた。

 私は、ばらばらになった母の姿を見た。白い肌が欠片になり、青い瞳が床に転がった。レースのドレスは歪んで、夏の陽射しを受けても、もうきらきらしていなかった。汗ばんだ床に、破片が散らばっている。

 目の前で、母親を引き裂かれたような気がした。

「……嘘だ」

 膝が崩れた。床に手をついて、砕けた破片を見つめながら、何度も同じ言葉を繰り返した。蝉の声が、遠くなったり近くなったりする。父が何か言っている気がしたけれど、聞き取れなかった。理解が追いつかず、その場に倒れてしまった。

 意識が遠のく中で、バラバラだった記憶が、走馬灯のように戻ってきた。

 そうだ。母は、私がもっと小さい頃に死んだのだ。余命いくばくもないと悟ったある日、病室のベッドの上で、母は一番お気に入りの人形を私に握らせた。

「これを、私だと思ってね」

 母は微笑んでいた。夏の陽射しが、病室の窓から差し込んでいたのを、ぼんやり覚えている。その光は、今の縁側の光と似ていて、でも全く違っていた。あの日の光は、終わりを告げる光だった。汗でシーツが貼りつくような、重く湿った光だった。

 ああ、私はなんて愚かなんだろう。こんな大事なことを忘れて、勝手に記憶を書き換えてしまっていた。冷たい手を「母の手」だと思い込み、砕けた破片を「母の身体」だと信じ込んでいた。父が何度か訂正しようとしたことさえ、私は笑顔で聞き流していたのだ。

 それから数日は、ぼんやりと過ごした。父は仕事を少し減らして、家にいる時間を増やしてくれた。最初は、二人ともうまく言葉が出なかった。割れた人形の破片を、父が丁寧に集めて、箱に入れておいてくれた。私はそれを見るたびに胸が苦しくなったけど、父の横顔を見ると、少しだけ安心した。父の目元には、深い疲れと、何か言いようのない後悔が滲んでいた。

 ある夜、父がぽつりと言った。

「……お前が『お母さん』と呼び始めてから、もう何年も経つ。最初は訂正しようとしたんだ。何度もな。でも、お前があんなに嬉しそうに話すから……言えなくなった。俺も、あの人形を見てると、少しだけ楽になれた気がしてな。お前が笑ってる方が、俺には耐えられたんだ。情けない話だが」

 父の声は、いつもの低い声だったけれど、掠れていた。夏の夜の蝉の声が、遠くで鳴いていた。父は窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。

「すまなかった。本当に……すまなかった」

 その言葉に、私は初めて、父も同じ暑さの中で一人で耐えていたのだと気づいた。

 一週間ほど経った頃、私たちは一緒に人形を直し始めた。接着剤の匂いが鼻をつき、夏の暑い部屋の中で、額の汗を何度も拭きながら作業した。指先が滑るほど湿っていて、うまくくっつかないところもあった。完全には元通りにならなかった。それでも父は「これでいいんだ」と言った。私も、そう思うことにした。

 直した人形は、以前より少しだけ表情が柔らかく見える気がした。棚に戻すと、夏の光を受けて、静かにそこにいた。きらきらとはしていない。ただ、そこにいる。熱気の中で、陶器の冷たさだけが残っているようだった。

 そして今、私は父と一緒にベランダで洗濯ものを干している。強い陽射しが背中を焼き、シャツに染み込んだ汗が、乾くたびに肌をひりつかせる。干したばかりのシャツから、太陽の匂いがした。蝉は相変わらず鳴いている。

 以前の蝉の声は、どこか遠くて、ひとりぼっちだった。今の蝉の声は、まだ耳障りだけれど、隣に父がいるせいか、少しだけ近くに感じる。汗ばんだ父の腕が、すぐ横にある。

 私は父に言った。

「洗濯日和ね。今日はよく乾きそう」

 父は少し驚いたように私を見て、それから穏やかに笑った。目尻に、細い皺が寄る。

「ああ、そうだな」

 もう一人ぼっちじゃない。そのことが、胸の奥でじんわりと温かかった。熱い空気の中でも、その温かさだけは、確かにそこにあった。

 日が照っている。とある休日の昼下がり。私も父も、少しずつ、笑顔を取り戻していた。

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