魚の皿
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あらすじ
海辺の寂れた商店街で、母の古道具屋を手伝う美月。 ある夜、店じまいの間際に、ひとりの男の子がやってくる。 探しているのは、青い地に赤い魚が描かれた一枚の皿。 その皿は、海で亡くなった母の姉・ナツエのものだった。 そして奇妙なことに、誰かに売っても、いつの間にか店へ戻ってくるという。 男の子は皿を持ち帰る。 ところが翌日、激しい雨のなか、再び店に現れた。 「おばあちゃんが、いらないって」 男の子が指さしたのは、海だった。 何度も戻ってくる一枚の皿と、止まったままの商店街の時計。 海辺の古道具屋を舞台に、母娘の記憶と小さな怪異を描く物語。
本文
商店街の時計は、午後八時五分を指したまま止まっている。
いつから止まっているのか、正確に知っている人はいない。少なくとも私がこの町に戻ってきた三年前には、もう八時五分だった。
駅前から海へ延びる銀天街は、百メートルほどの短いアーケードだ。昔は魚屋、八百屋、玩具屋、喫茶店、洋品店、写真館まであったらしいが、いま残っているのは六軒だけだった。
その六軒のうちのひとつが、母の古道具屋だった。
「じゃ、閉めるよ」
私は店の奥へ声をかけた。
返事はなかった。
「閉めますよー」
もう一度言う。
やはり返事はない。
店内には古時計、食器、花瓶、木彫りの熊、誰が買うのかわからない外国の人形、昭和の観光地で売られていた提灯などが所狭しと並んでいる。その奥に母がいるはずなのだが、物が多すぎて姿が見えない。
「お母さん?」
古い柱時計の脇を抜けると、母は小さな丸椅子に座り、帳簿を見ていた。
「なに」
「閉めるよ」
「ああ」
「さっきから言ってた」
「聞こえてた」
「だったら返事してよ」
母は帳簿から顔を上げなかった。
昔からこういう人だった。
無視しているわけではない。聞こえている。だが、返事をする必要を感じないらしい。
私は店先へ戻り、商品を入れた籠を引っ込めた。
商店街はすでに暗かった。
向かいのクリーニング店も、その隣の文房具屋もシャッターを下ろしている。
海のほうから湿った風が吹いてきた。
アーケードの天井に吊るされた広告旗が、ぱたぱたと鳴る。
そのときだった。
「すみません」
背後から声がした。
振り返ると、店の入口に男の子が立っていた。
十歳くらいだろうか。白いTシャツに紺色の半ズボン。肩から黄色い水筒を下げている。
「まだ、やってますか」
「もう閉めるところだけど」
「あの、ちょっとだけ」
男の子は店内を覗き込んだ。
「何か探してるの?」
「お皿です」
「皿?」
「青いやつ」
「青い皿ならいっぱいあるけど」
「魚が描いてあるやつです」
私は少し考えた。
「お母さん、魚の皿ってある?」
奥から母の声がした。
「いっぱいある」
「だよね」
私は男の子に向き直った。
「どんな魚?」
「赤い魚です」
「青い皿に赤い魚?」
「はい」
「大きさは?」
男の子は両手で丸を作った。
「これくらい」
二十センチくらいだ。
「ちょっと待って」
私は店内を探した。古道具屋というのは、一見すると何でもあるように見えて、客が欲しがる物に限って見つからない。
青い皿はたくさんあった。
白い魚の皿。
黒い魚の皿。
船が描かれた皿。
鯛らしき赤い魚の小皿もあったが、地は白だった。
「ないなあ」
私が言うと、男の子は少しだけ肩を落とした。
「そうですか」
「急ぎ?」
「今日じゃないとだめなんです」
「なんで?」
男の子は黙った。
私は余計なことを聞いたと思った。
「ごめん。いいよ、言わなくて」
すると、奥から母が出てきた。
手には一枚の皿を持っている。
藍色の地に、赤い魚が一匹描かれていた。
「あった」
私は思わず言った。
男の子の顔が明るくなる。
「それです!」
母は皿を見た。
「これ?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
妙な聞き方だった。
母は男の子の顔をじっと見た。
「誰に頼まれたの」
男の子は答えなかった。
「お母さん」
私は小声で言った。
母は構わず続けた。
「その皿、誰に頼まれたの」
男の子はしばらく迷ってから、言った。
「おばあちゃんです」
「名前は?」
「え?」
「おばあちゃんの名前」
「ナツエ」
母の手から、皿が滑り落ちそうになった。
私は慌てて受け取った。
「危ないな」
母は何も言わなかった。
「いくらですか」
男の子が聞いた。
母はまだ男の子を見つめている。
「いい」
「え?」
「持っていきなさい」
「でも」
「いいから」
「お母さん、それは」
「いい」
強い声だった。
男の子は頭を下げた。
「ありがとうございます」
私は新聞紙で皿を包み、紙袋に入れた。
「割らないようにね」
「はい」
男の子は紙袋を大切そうに抱えた。
そして店を出ていった。
黄色い水筒が、背中で小さく揺れていた。
しばらくして、私は母に言った。
「知ってる子?」
「知らない」
「じゃあ、ナツエって人を知ってるの?」
母は店の外を見ていた。
「姉さん」
「え?」
「私の姉」
初耳だった。
「お母さん、お姉さんいたの?」
「いた」
「いたって」
「死んだ」
母はそう言って、奥へ戻った。
私は追いかけた。
「いつ?」
「だいぶ前」
「だいぶ前っていつ」
「お前が生まれる前」
「なんで今まで聞いたことないの」
「話す必要がなかったから」
母らしい答えだった。
「でも、さっきの子のおばあちゃんが、その人なんでしょ?」
「違う」
「名前同じじゃん」
「違う」
「じゃあなんであんな顔したの」
「閉めなさい」
「もう閉めるけど」
「戸締まりも」
「するよ」
それ以上は何も話さなかった。
その夜、私は母の家に泊まった。
店の二階が住居になっている。
私にもここで暮らしていた時期があったが、三年前に町へ戻ったとき、小さなアパートを借りた。
母と一緒に暮らすと、一週間以内にどちらかが死ぬと思ったからだ。
もちろん比喩である。
たぶん。
夕飯は冷やし中華だった。母は錦糸卵をやたら細く切る。昔からそこだけ几帳面だった。
「お姉さんって、どんな人だったの」
私はキュウリを噛みながら聞いた。
「普通」
「何歳で亡くなったの」
「二十四」
「若いじゃん」
「そうね」
「病気?」
母は箸を止めた。
「海」
「海?」
「流された」
私は黙った。この町では、海で亡くなったという話は珍しくない。漁師。釣り人。子ども。台風の日に様子を見に行った人。
この町の海は、観光ポスターでは青く穏やかに写っているが、町の人間はあまり信用していない。
「事故?」
「そう」
「ナツエさんは結婚してた?」
「してない」
「じゃあ、さっきの子のおばあちゃんではないね」
「だから言ったでしょう」
「でも皿は?」
母は黙った。
「知ってたんでしょ、あの皿」
「姉さんの皿だった」
「え?」
「あれは姉さんが使ってた」
私は箸を置いた。
「なんで店にあったの」
「売るため」
「お姉さんの形見を?」
「古道具屋だから」
「いや、そういう問題?」
母は冷やし中華を食べ続けた。
「いつから売ってたの」
「ずっと」
「誰も買わなかった?」
「買われた」
「買われた?」
「何度も」
私は意味がわからなかった。
「じゃあ、なんで今日あったの」
「戻ってくるから」
「……戻ってくる?」
「誰かが買っても、しばらくすると戻ってくる」
母はあまりにも普通の声で言った。
「返品?」
「そういうときもある」
「他は?」
「店先に置いてある」
「誰が?」
「知らない」
「それ、怖いやつじゃない?」
「別に」
「別にって」
「皿でしょう」
母は紅生姜を口に入れた。
私は急に冷やし中華がまずく感じられた。
「何回戻ってきたの」
「七回くらい」
「充分怖いよ」
「八回かも」
「増えた」
「数えてない」
「それを子どもにあげたの?」
母はようやく私を見た。
「あの子が欲しがったから」
「だからって」
「欲しい人が持っていけばいいの」
「戻ってきたら?」
「また売る」
「商魂たくましいな」
「タダであげたでしょう」
「そこじゃない」
母は少し笑った。珍しいことだった。
「明日、探しに行く」
「何を」
「さっきの子」
「なんで」
「気になるから」
「やめなさい」
「なんで?」
「帰ってくるから」
私は聞き返した。
「皿が?」
母は答えなかった。
翌朝、私は早く目を覚ました。
母はまだ寝ていた。古道具屋の朝は遅い。
私は昨日、男の子が歩いていった方向へ向かった。
銀天街を抜けると、道は海へ下っていく。
途中に小学校がある。
校門の前で、登校中の子どもたちを眺めてみたが、昨日の男の子はいなかった。校門に立っていた教師に写真でも見せられれば早かったが、もちろん撮っていない。
「すみません」
私は教師に声をかけた。
「黄色い水筒を持った、十歳くらいの男の子ってわかります?」
教師は困った顔をした。当然か。
「名前は?」
「わかりません」
「学年は?」
「たぶん四年生くらい」
「何か特徴は?」
「普通です」
自分で言っていて絶望的だった。教師は愛想笑いをした。
「それだけだとちょっと」
「ですよね」
私は諦めた。そのまま海へ向かった。
防波堤の手前に、小さな食堂がある。
まだ開店前だったが、店主のおばさんが表を掃いていた。
「あら、ミツキちゃん」
「おはようございます」
「珍しいね、朝から」
「ちょっと聞きたいんだけど、この辺にナツエっていうおばあさんいる?」
おばさんは箒を止めた。
「ナツエ?」
「うん」
「名字は?」
「わかんない」
「それじゃあねえ」
「昔でもいいんだけど」
おばさんは少し考えた。
「あんたのお母さんのお姉さん、ナツエさんじゃなかった?」
私は驚いた。
「知ってるの?」
「そりゃ知ってるよ。あたしより少し上だったけど」
「どんな人だった?」
「美人だったねえ」
母は「普通」と言った。姉妹というものは、そういう評価になるのかもしれない。
「海で亡くなったんだよね」
「そう」
「事故?」
おばさんは箒を動かし始めた。
「そういうことになってるね」
「どういう意味?」
「昔の話だから」
「教えてよ」
「お母さんに聞きな」
「教えてくれないんだよ」
「なら、あたしから言うことじゃないね」
地方の町には、こういう暗黙の協定がある。みんな知っている。
本人が話さないことは、他人も話さない。プライバシーを尊重しているというより、面倒事に巻き込まれたくないのだと思う。
「じゃあ、もう一個だけ。ナツエさんが使ってた青い皿、知ってる?」
おばさんの箒が再び止まった。
「魚の?」
「知ってるんだ」
「知ってるよ」
「有名なの?」
「有名っていうか」
おばさんは海のほうを見た。
「あれ、二枚あったんだよ」
「二枚?」
「姉妹で一枚ずつ」
私は嫌な感じがした。
「もう一枚は?」
「お母さんが持ってるんじゃない?」
店に戻ると、母は開店準備をしていた。
「皿、二枚あったんだって?」
母は私を見た。
「誰に聞いたの」
「食堂のおばさん」
「あの人は口が軽い」
「ぜんぜん軽くなかったよ。ほとんど教えてくれなかった」
私は店内を見回した。
「もう一枚どこ?」
「知らない」
「お母さんが持ってるんじゃないの」
「捨てた」
「なんで」
「割れたから」
「いつ?」
母は答えなかった。
「お姉さんが亡くなったとき?」
「違う」
「じゃあいつ」
「あなたが小さいころ」
私は首をかしげた。
「私?」
「覚えてないでしょうね」
「何を」
「あなたが割ったの」
私は何も覚えていなかった。
「何歳?」
「五つ」
「なんで割ったの」
「知らない」
「怒った?」
「怒った」
「だろうね」
「すごく怒った」
母はそう言ってから、手を止めた。
「悪かったと思ってる」
「え?」
「皿なんかで、あんなに怒ることなかった」
母が昔の自分について反省するのを、私は初めて聞いた。
「覚えてないよ」
「でしょうね」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
母は古時計の埃を払った。
「あなた、泣きながら言ったの」
「なんて?」
「返してあげようと思ったって」
「誰に?」
「姉さんに」
店内の時計が一斉に鳴った。十時だった。
古道具屋には、動く時計と動かない時計が混在している。だから毎正時、違う時間を示す時計たちが好き勝手に音を立てる。
カン。
ボーン。
ピピピ。
鳥の声までした。私はそれらが鳴り終わるまで、何も言えなかった。
「私、お姉さんに会ったことないよね」
「ない」
「じゃあなんで」
「知らない」
「そのあと皿は?」
「捨てた」
「破片も?」
「捨てた」
「もう一枚だけ残った」
「そう」
「それが何度売っても戻ってくる」
「そう」
「昨日、ナツエっておばあちゃんに頼まれた子が来た」
「そう」
「で、お母さんは平気なの?」
「平気じゃないから、あげたの」
母は初めて苛立ったような声を出した。
「返したかったのよ」
「誰に?」
「知らないわよ」
その日の夕方、雨が降った。夏の終わりの激しい雨だった。商店街の屋根を雨粒が叩き、話し声が聞こえないほどだった。
客は一人も来なかった。
午後七時半。
母が言った。
「今日はもう閉めよう」
「うん」
私はシャッターに手をかけた。
そのとき、外に誰かが立っていた。
昨日の男の子だった。髪も服もびしょ濡れだった。黄色い水筒だけがやけに鮮やかに見えた。
「どうしたの!」
私は外へ出た。
男の子は紙袋を抱えていた。濡れて、形が崩れている。
「これ」
差し出された袋を受け取る。
中には、あの皿が入っていた。
「なんで?」
「いらないって」
「誰が?」
「おばあちゃん」
母も店先へ出てきた。
「おばあちゃん、どこにいるの」
私が聞くと、男の子は海のほうを指さした。
「海?」
男の子は頷いた。
「家は?」
「海」
背中が冷たくなった。
「君の名前は?」
「ユウタ」
「名字は?」
男の子は答えない。
「お母さんは?」
「いない」
「お父さんは?」
「いない」
「誰と暮らしてるの?」
「おばあちゃん」
「そのおばあちゃんは、どこに住んでる?」
「海」
母が私の腕を掴んだ。
「もういい」
「でも」
「いいから」
母は男の子に言った。
「それ、いらないのね?」
「うん」
「わかった」
男の子は頭を下げた。
そして雨の中を走っていった。
「待って!」
私は追いかけた。
母が呼び止めたが、無視した。
男の子は速かった。商店街を抜け、海へ向かう坂を下っていく。
雨で視界が悪い。
「ユウタ!」
男の子は振り返らない。
海が見えた。灰色だった。風が強く、白い波が防波堤に砕けている。
男の子は海沿いの道を走った。
私は追いかけた。
「危ないって!」
男の子は古い倉庫の脇を曲がった。
私も曲がった。
誰もいなかった。
行き止まりだった。倉庫と防波堤の間に、細い空間があるだけだ。
「ユウタ?」
返事はない。隠れる場所もなかった。
地面には大きな水たまりができている。黄色い水筒も見えない。
私は海を見た。
まさか。
防波堤へ近づこうとしたとき、後ろから母の声がした。
「行くな!」
驚くほど大きな声だった。
母が走ってきた。
「お母さん」
「戻るよ」
「でも、あの子が」
「いない」
「海に落ちたかも」
「いないの」
「だから探さないと」
「最初からいない!」
雨の音に負けない声だった。
私は母を見た。母は泣いていた。私は、母が泣くところをほとんど見たことがなかった。
「どういうこと?」
「いないのよ」
母は息を切らしていた。
「ユウタなんて子はいない」
「昨日からいるじゃん」
「知らない」
「じゃあ何なの」
「知らない!」
母は叫んだ。その瞬間、沖で雷が光った。遅れて大きな音がした。
母は私の腕を掴んだ。
「姉さんには子どもがいた」
私は言葉を失った。
「結婚してなかったんじゃ」
「してない」
「じゃあ」
「子どもだけいた」
「その子がユウタ?」
「違う。女の子」
母の指が震えていた。
「五歳だった」
五歳。
私は、自分が皿を割った年齢を思い出した。
「姉さんが海で死んだ日、あの子も一緒だった」
「事故?」
母は答えなかった。
「事故じゃなかったの?」
「姉さんは、ずっと苦しかった」
「何が」
「知らない。私にはわからなかった。誰にもわからなかった」
母は海を見た。
「あの日、姉さんは娘を連れて海へ行った」
それ以上は言わなかった。言う必要もなかった。
雨が顔を流れた。
「私は姉さんが嫌いだった」
母は言った。
「なんでも姉さんのほうが上だった。顔も、成績も、友達の数も。私はずっと比べられてた」
海が唸っていた。
「だから姉さんが苦しいって言っても、私は聞かなかった。大げさだと思った。自分だけ不幸みたいな顔するなって」
私は黙っていた。
「最後に会った日、姉さん、私に皿を返したの」
「青い皿?」
「二枚一組だったから。子どものころ、父が買ってくれた。姉さんが赤い魚で、私は白い魚」
「昨日のは赤い魚」
「そう」
「白い魚は、私が割った」
「そう」
母は鼻をすすった。
「姉さんは赤い魚の皿を置いて、もういらないって言った。私は腹が立って、好きにすればって言った」
雨が少し弱くなってきた。
「次の日、姉さんと娘がいなくなった」
私は海を見た。
暗くなりかけていた。
「じゃあ、お母さんはずっとあの皿を店に?」
「捨てられなかった」
「売ったじゃん」
「捨てられないから売ったの」
思わず私は母を見た。
「それ、だいぶ意味わかんないよ」
「私だってわかんないわよ」
母が怒鳴った。
それから二人とも笑った。なぜ笑ったのかわからない。雨の中、海の前で、昔死んだ人の話をしながら。笑うようなところではなかった。でも母が笑ったので、私も笑った。
「戻ろう」
母が言った。
「うん」
店へ戻る途中、私は聞いた。
「お姉さんの娘、名前なんていうの」
「美月」
私は立ち止まった。母は歩き続けた。
「え?」
母が振り返った。
「私と同じ?」
「そう」
「なんで?」
「私がつけた」
「なんで?」
「好きな名前だったから」
「いや、そうじゃなくて」
母は少し考えた。
「忘れたくなかったのかも」
「誰を」
「二人とも」
その夜、皿を店の奥の棚に戻した。
翌朝、なくなっていた。母は驚かなかった。
「外じゃない?」
探してみたが、店先にもなかった。
それから一週間たっても、一か月たっても、皿は戻ってこなかった。ユウタという男の子にも、二度と会わなかった。私は小学校へ行き、念のため尋ねた。黄色い水筒を持ったユウタという四年生くらいの男の子。
該当する児童はいなかった。だから幽霊だったのだ、と決めることもできる。母の姉がよこした使者だったのだ、と考えることもできる。あるいは、たまたま名前が一致した知らない男の子だったのかもしれない。私はどれでもいいと思っている。
その秋、商店街の時計が修理された。市が直したわけではない。文房具屋のおじさんが、勝手に時計屋を呼んだのだ。
「八時五分のままじゃ縁起悪い」
理由はそれだけだった。
時計は午後三時十二分から動き始めた。何年も八時五分だった文字盤の針が、ゆっくり進み始める。
商店街の人が何人か集まり、それを眺めた。拍手する人もいた。
私は母と店先に立っていた。
「動いたね」
「そうね」
「ちょっと寂しい?」
「別に」
「ずっと八時五分だったから」
「時計は動くものでしょう」
「古道具屋がそれ言う?」
母は鼻で笑った。
その日、店に若い夫婦が来た。来月、この町へ引っ越してくるという。
「何か食器ありますか」
女性が聞いた。
「ありますよ」
私は答えた。
「どんなのがいいですか」
「青いお皿とか」
一瞬、母と目が合った。
「青いのはたくさんあります」
私は棚を指さした。
「魚じゃないやつも」
女性は笑った。
「じゃあ、魚じゃないやつで」
「そのほうがいいかもしれません」
「何かあるんですか?」
「いえ、特には」
母が奥から口を挟んだ。
「魚もいいわよ」
「お母さん」
「何よ」
「商売だからって何でも勧めないで」
「魚に罪はないでしょう」
若い夫婦が笑った。私も笑った。
店の外では、商店街の時計が動いている。
海から風が吹いてきた。いつもと同じ、少し塩の匂いがする風だった。
私は棚の奥に、青い皿がないことを確かめた。
それから客に向き直った。
「じゃあ、ゆっくり見ていってください」
時計は午後三時十三分になった。
作品統計
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