魚の皿

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/28 📝 7,769文字 ✅ 全年齢

あらすじ

海辺の寂れた商店街で、母の古道具屋を手伝う美月。 ある夜、店じまいの間際に、ひとりの男の子がやってくる。 探しているのは、青い地に赤い魚が描かれた一枚の皿。 その皿は、海で亡くなった母の姉・ナツエのものだった。 そして奇妙なことに、誰かに売っても、いつの間にか店へ戻ってくるという。 男の子は皿を持ち帰る。 ところが翌日、激しい雨のなか、再び店に現れた。 「おばあちゃんが、いらないって」 男の子が指さしたのは、海だった。 何度も戻ってくる一枚の皿と、止まったままの商店街の時計。 海辺の古道具屋を舞台に、母娘の記憶と小さな怪異を描く物語。

本文

 商店街の時計は、午後八時五分を指したまま止まっている。

 いつから止まっているのか、正確に知っている人はいない。少なくとも私がこの町に戻ってきた三年前には、もう八時五分だった。

 駅前から海へ延びる銀天街は、百メートルほどの短いアーケードだ。昔は魚屋、八百屋、玩具屋、喫茶店、洋品店、写真館まであったらしいが、いま残っているのは六軒だけだった。

 その六軒のうちのひとつが、母の古道具屋だった。

「じゃ、閉めるよ」

 私は店の奥へ声をかけた。

 返事はなかった。

「閉めますよー」

 もう一度言う。

 やはり返事はない。

 店内には古時計、食器、花瓶、木彫りの熊、誰が買うのかわからない外国の人形、昭和の観光地で売られていた提灯などが所狭しと並んでいる。その奥に母がいるはずなのだが、物が多すぎて姿が見えない。

「お母さん?」

 古い柱時計の脇を抜けると、母は小さな丸椅子に座り、帳簿を見ていた。

「なに」

「閉めるよ」

「ああ」

「さっきから言ってた」

「聞こえてた」

「だったら返事してよ」

 母は帳簿から顔を上げなかった。

 昔からこういう人だった。

 無視しているわけではない。聞こえている。だが、返事をする必要を感じないらしい。

 私は店先へ戻り、商品を入れた籠を引っ込めた。

 商店街はすでに暗かった。

 向かいのクリーニング店も、その隣の文房具屋もシャッターを下ろしている。

 海のほうから湿った風が吹いてきた。

 アーケードの天井に吊るされた広告旗が、ぱたぱたと鳴る。

 そのときだった。

「すみません」

 背後から声がした。

 振り返ると、店の入口に男の子が立っていた。

 十歳くらいだろうか。白いTシャツに紺色の半ズボン。肩から黄色い水筒を下げている。

「まだ、やってますか」

「もう閉めるところだけど」

「あの、ちょっとだけ」

 男の子は店内を覗き込んだ。

「何か探してるの?」

「お皿です」

「皿?」

「青いやつ」

「青い皿ならいっぱいあるけど」

「魚が描いてあるやつです」

 私は少し考えた。

「お母さん、魚の皿ってある?」

 奥から母の声がした。

「いっぱいある」

「だよね」

 私は男の子に向き直った。

「どんな魚?」

「赤い魚です」

「青い皿に赤い魚?」

「はい」

「大きさは?」

 男の子は両手で丸を作った。

「これくらい」

 二十センチくらいだ。

「ちょっと待って」

 私は店内を探した。古道具屋というのは、一見すると何でもあるように見えて、客が欲しがる物に限って見つからない。

 青い皿はたくさんあった。

 白い魚の皿。

 黒い魚の皿。

 船が描かれた皿。

 鯛らしき赤い魚の小皿もあったが、地は白だった。

「ないなあ」

 私が言うと、男の子は少しだけ肩を落とした。

「そうですか」

「急ぎ?」

「今日じゃないとだめなんです」

「なんで?」

 男の子は黙った。

 私は余計なことを聞いたと思った。

「ごめん。いいよ、言わなくて」

 すると、奥から母が出てきた。

 手には一枚の皿を持っている。

 藍色の地に、赤い魚が一匹描かれていた。

「あった」

 私は思わず言った。

 男の子の顔が明るくなる。

「それです!」

 母は皿を見た。

「これ?」

「はい」

「本当に?」

「はい」

 妙な聞き方だった。

 母は男の子の顔をじっと見た。

「誰に頼まれたの」

 男の子は答えなかった。

「お母さん」

 私は小声で言った。

 母は構わず続けた。

「その皿、誰に頼まれたの」

 男の子はしばらく迷ってから、言った。

「おばあちゃんです」

「名前は?」

「え?」

「おばあちゃんの名前」

「ナツエ」

 母の手から、皿が滑り落ちそうになった。

 私は慌てて受け取った。

「危ないな」

 母は何も言わなかった。

「いくらですか」

 男の子が聞いた。

 母はまだ男の子を見つめている。

「いい」

「え?」

「持っていきなさい」

「でも」

「いいから」

「お母さん、それは」

「いい」

 強い声だった。

 男の子は頭を下げた。

「ありがとうございます」

 私は新聞紙で皿を包み、紙袋に入れた。

「割らないようにね」

「はい」

 男の子は紙袋を大切そうに抱えた。

 そして店を出ていった。

 黄色い水筒が、背中で小さく揺れていた。

 しばらくして、私は母に言った。

「知ってる子?」

「知らない」

「じゃあ、ナツエって人を知ってるの?」

 母は店の外を見ていた。

「姉さん」

「え?」

「私の姉」

 初耳だった。

「お母さん、お姉さんいたの?」

「いた」

「いたって」

「死んだ」

 母はそう言って、奥へ戻った。

 私は追いかけた。

「いつ?」

「だいぶ前」

「だいぶ前っていつ」

「お前が生まれる前」

「なんで今まで聞いたことないの」

「話す必要がなかったから」

 母らしい答えだった。

「でも、さっきの子のおばあちゃんが、その人なんでしょ?」

「違う」

「名前同じじゃん」

「違う」

「じゃあなんであんな顔したの」

「閉めなさい」

「もう閉めるけど」

「戸締まりも」

「するよ」

 それ以上は何も話さなかった。

 その夜、私は母の家に泊まった。

 店の二階が住居になっている。

 私にもここで暮らしていた時期があったが、三年前に町へ戻ったとき、小さなアパートを借りた。

 母と一緒に暮らすと、一週間以内にどちらかが死ぬと思ったからだ。

 もちろん比喩である。

 たぶん。

 夕飯は冷やし中華だった。母は錦糸卵をやたら細く切る。昔からそこだけ几帳面だった。

「お姉さんって、どんな人だったの」

 私はキュウリを噛みながら聞いた。

「普通」

「何歳で亡くなったの」

「二十四」

「若いじゃん」

「そうね」

「病気?」

 母は箸を止めた。

「海」

「海?」

「流された」

 私は黙った。この町では、海で亡くなったという話は珍しくない。漁師。釣り人。子ども。台風の日に様子を見に行った人。

 この町の海は、観光ポスターでは青く穏やかに写っているが、町の人間はあまり信用していない。

「事故?」

「そう」

「ナツエさんは結婚してた?」

「してない」

「じゃあ、さっきの子のおばあちゃんではないね」

「だから言ったでしょう」

「でも皿は?」

 母は黙った。

「知ってたんでしょ、あの皿」

「姉さんの皿だった」

「え?」

「あれは姉さんが使ってた」

 私は箸を置いた。

「なんで店にあったの」

「売るため」

「お姉さんの形見を?」

「古道具屋だから」

「いや、そういう問題?」

 母は冷やし中華を食べ続けた。

「いつから売ってたの」

「ずっと」

「誰も買わなかった?」

「買われた」

「買われた?」

「何度も」

 私は意味がわからなかった。

「じゃあ、なんで今日あったの」

「戻ってくるから」

「……戻ってくる?」

「誰かが買っても、しばらくすると戻ってくる」

 母はあまりにも普通の声で言った。

「返品?」

「そういうときもある」

「他は?」

「店先に置いてある」

「誰が?」

「知らない」

「それ、怖いやつじゃない?」

「別に」

「別にって」

「皿でしょう」

 母は紅生姜を口に入れた。

 私は急に冷やし中華がまずく感じられた。

「何回戻ってきたの」

「七回くらい」

「充分怖いよ」

「八回かも」

「増えた」

「数えてない」

「それを子どもにあげたの?」

 母はようやく私を見た。

「あの子が欲しがったから」

「だからって」

「欲しい人が持っていけばいいの」

「戻ってきたら?」

「また売る」

「商魂たくましいな」

「タダであげたでしょう」

「そこじゃない」

 母は少し笑った。珍しいことだった。

「明日、探しに行く」

「何を」

「さっきの子」

「なんで」

「気になるから」

「やめなさい」

「なんで?」

「帰ってくるから」

 私は聞き返した。

「皿が?」

 母は答えなかった。

 翌朝、私は早く目を覚ました。

 母はまだ寝ていた。古道具屋の朝は遅い。

 私は昨日、男の子が歩いていった方向へ向かった。

 銀天街を抜けると、道は海へ下っていく。

 途中に小学校がある。

 校門の前で、登校中の子どもたちを眺めてみたが、昨日の男の子はいなかった。校門に立っていた教師に写真でも見せられれば早かったが、もちろん撮っていない。

「すみません」

 私は教師に声をかけた。

「黄色い水筒を持った、十歳くらいの男の子ってわかります?」

 教師は困った顔をした。当然か。

「名前は?」

「わかりません」

「学年は?」

「たぶん四年生くらい」

「何か特徴は?」

「普通です」

 自分で言っていて絶望的だった。教師は愛想笑いをした。

「それだけだとちょっと」

「ですよね」

 私は諦めた。そのまま海へ向かった。

 防波堤の手前に、小さな食堂がある。

 まだ開店前だったが、店主のおばさんが表を掃いていた。

「あら、ミツキちゃん」

「おはようございます」

「珍しいね、朝から」

「ちょっと聞きたいんだけど、この辺にナツエっていうおばあさんいる?」

 おばさんは箒を止めた。

「ナツエ?」

「うん」

「名字は?」

「わかんない」

「それじゃあねえ」

「昔でもいいんだけど」

 おばさんは少し考えた。

「あんたのお母さんのお姉さん、ナツエさんじゃなかった?」

 私は驚いた。

「知ってるの?」

「そりゃ知ってるよ。あたしより少し上だったけど」

「どんな人だった?」

「美人だったねえ」

 母は「普通」と言った。姉妹というものは、そういう評価になるのかもしれない。

「海で亡くなったんだよね」

「そう」

「事故?」

 おばさんは箒を動かし始めた。

「そういうことになってるね」

「どういう意味?」

「昔の話だから」

「教えてよ」

「お母さんに聞きな」

「教えてくれないんだよ」

「なら、あたしから言うことじゃないね」

 地方の町には、こういう暗黙の協定がある。みんな知っている。

 本人が話さないことは、他人も話さない。プライバシーを尊重しているというより、面倒事に巻き込まれたくないのだと思う。

「じゃあ、もう一個だけ。ナツエさんが使ってた青い皿、知ってる?」

 おばさんの箒が再び止まった。

「魚の?」

「知ってるんだ」

「知ってるよ」

「有名なの?」

「有名っていうか」

 おばさんは海のほうを見た。

「あれ、二枚あったんだよ」

「二枚?」

「姉妹で一枚ずつ」

 私は嫌な感じがした。

「もう一枚は?」

「お母さんが持ってるんじゃない?」

 店に戻ると、母は開店準備をしていた。

「皿、二枚あったんだって?」

 母は私を見た。

「誰に聞いたの」

「食堂のおばさん」

「あの人は口が軽い」

「ぜんぜん軽くなかったよ。ほとんど教えてくれなかった」

 私は店内を見回した。

「もう一枚どこ?」

「知らない」

「お母さんが持ってるんじゃないの」

「捨てた」

「なんで」

「割れたから」

「いつ?」

 母は答えなかった。

「お姉さんが亡くなったとき?」

「違う」

「じゃあいつ」

「あなたが小さいころ」

 私は首をかしげた。

「私?」

「覚えてないでしょうね」

「何を」

「あなたが割ったの」

 私は何も覚えていなかった。

「何歳?」

「五つ」

「なんで割ったの」

「知らない」

「怒った?」

「怒った」

「だろうね」

「すごく怒った」

 母はそう言ってから、手を止めた。

「悪かったと思ってる」

「え?」

「皿なんかで、あんなに怒ることなかった」

 母が昔の自分について反省するのを、私は初めて聞いた。

「覚えてないよ」

「でしょうね」

「じゃあいいじゃん」

「よくない」

 母は古時計の埃を払った。

「あなた、泣きながら言ったの」

「なんて?」

「返してあげようと思ったって」

「誰に?」

「姉さんに」

 店内の時計が一斉に鳴った。十時だった。

 古道具屋には、動く時計と動かない時計が混在している。だから毎正時、違う時間を示す時計たちが好き勝手に音を立てる。

 カン。

 ボーン。

 ピピピ。

 鳥の声までした。私はそれらが鳴り終わるまで、何も言えなかった。

「私、お姉さんに会ったことないよね」

「ない」

「じゃあなんで」

「知らない」

「そのあと皿は?」

「捨てた」

「破片も?」

「捨てた」

「もう一枚だけ残った」

「そう」

「それが何度売っても戻ってくる」

「そう」

「昨日、ナツエっておばあちゃんに頼まれた子が来た」

「そう」

「で、お母さんは平気なの?」

「平気じゃないから、あげたの」

 母は初めて苛立ったような声を出した。

「返したかったのよ」

「誰に?」

「知らないわよ」

 その日の夕方、雨が降った。夏の終わりの激しい雨だった。商店街の屋根を雨粒が叩き、話し声が聞こえないほどだった。

 客は一人も来なかった。

 午後七時半。

 母が言った。

「今日はもう閉めよう」

「うん」

 私はシャッターに手をかけた。

 そのとき、外に誰かが立っていた。

 昨日の男の子だった。髪も服もびしょ濡れだった。黄色い水筒だけがやけに鮮やかに見えた。

「どうしたの!」

 私は外へ出た。

 男の子は紙袋を抱えていた。濡れて、形が崩れている。

「これ」

 差し出された袋を受け取る。

 中には、あの皿が入っていた。

「なんで?」

「いらないって」

「誰が?」

「おばあちゃん」

 母も店先へ出てきた。

「おばあちゃん、どこにいるの」

 私が聞くと、男の子は海のほうを指さした。

「海?」

 男の子は頷いた。

「家は?」

「海」

 背中が冷たくなった。

「君の名前は?」

「ユウタ」

「名字は?」

 男の子は答えない。

「お母さんは?」

「いない」

「お父さんは?」

「いない」

「誰と暮らしてるの?」

「おばあちゃん」

「そのおばあちゃんは、どこに住んでる?」

「海」

 母が私の腕を掴んだ。

「もういい」

「でも」

「いいから」

 母は男の子に言った。

「それ、いらないのね?」

「うん」

「わかった」

 男の子は頭を下げた。

 そして雨の中を走っていった。

「待って!」

 私は追いかけた。

 母が呼び止めたが、無視した。

 男の子は速かった。商店街を抜け、海へ向かう坂を下っていく。

 雨で視界が悪い。

「ユウタ!」

 男の子は振り返らない。

 海が見えた。灰色だった。風が強く、白い波が防波堤に砕けている。

 男の子は海沿いの道を走った。

 私は追いかけた。

「危ないって!」

 男の子は古い倉庫の脇を曲がった。

 私も曲がった。

 誰もいなかった。

 行き止まりだった。倉庫と防波堤の間に、細い空間があるだけだ。

「ユウタ?」

 返事はない。隠れる場所もなかった。

 地面には大きな水たまりができている。黄色い水筒も見えない。

 私は海を見た。

 まさか。

 防波堤へ近づこうとしたとき、後ろから母の声がした。

「行くな!」

 驚くほど大きな声だった。

 母が走ってきた。

「お母さん」

「戻るよ」

「でも、あの子が」

「いない」

「海に落ちたかも」

「いないの」

「だから探さないと」

「最初からいない!」

 雨の音に負けない声だった。

 私は母を見た。母は泣いていた。私は、母が泣くところをほとんど見たことがなかった。

「どういうこと?」

「いないのよ」

 母は息を切らしていた。

「ユウタなんて子はいない」

「昨日からいるじゃん」

「知らない」

「じゃあ何なの」

「知らない!」

 母は叫んだ。その瞬間、沖で雷が光った。遅れて大きな音がした。

 母は私の腕を掴んだ。

「姉さんには子どもがいた」

 私は言葉を失った。

「結婚してなかったんじゃ」

「してない」

「じゃあ」

「子どもだけいた」

「その子がユウタ?」

「違う。女の子」

 母の指が震えていた。

「五歳だった」

 五歳。

 私は、自分が皿を割った年齢を思い出した。

「姉さんが海で死んだ日、あの子も一緒だった」

「事故?」

 母は答えなかった。

「事故じゃなかったの?」

「姉さんは、ずっと苦しかった」

「何が」

「知らない。私にはわからなかった。誰にもわからなかった」

 母は海を見た。

「あの日、姉さんは娘を連れて海へ行った」

 それ以上は言わなかった。言う必要もなかった。

 雨が顔を流れた。

「私は姉さんが嫌いだった」

 母は言った。

「なんでも姉さんのほうが上だった。顔も、成績も、友達の数も。私はずっと比べられてた」

 海が唸っていた。

「だから姉さんが苦しいって言っても、私は聞かなかった。大げさだと思った。自分だけ不幸みたいな顔するなって」

 私は黙っていた。

「最後に会った日、姉さん、私に皿を返したの」

「青い皿?」

「二枚一組だったから。子どものころ、父が買ってくれた。姉さんが赤い魚で、私は白い魚」

「昨日のは赤い魚」

「そう」

「白い魚は、私が割った」

「そう」

 母は鼻をすすった。

「姉さんは赤い魚の皿を置いて、もういらないって言った。私は腹が立って、好きにすればって言った」

 雨が少し弱くなってきた。

「次の日、姉さんと娘がいなくなった」

 私は海を見た。

 暗くなりかけていた。

「じゃあ、お母さんはずっとあの皿を店に?」

「捨てられなかった」

「売ったじゃん」

「捨てられないから売ったの」

 思わず私は母を見た。

「それ、だいぶ意味わかんないよ」

「私だってわかんないわよ」

 母が怒鳴った。

 それから二人とも笑った。なぜ笑ったのかわからない。雨の中、海の前で、昔死んだ人の話をしながら。笑うようなところではなかった。でも母が笑ったので、私も笑った。

「戻ろう」

 母が言った。

「うん」

 店へ戻る途中、私は聞いた。

「お姉さんの娘、名前なんていうの」

「美月」

 私は立ち止まった。母は歩き続けた。

「え?」

 母が振り返った。

「私と同じ?」

「そう」

「なんで?」

「私がつけた」

「なんで?」

「好きな名前だったから」

「いや、そうじゃなくて」

 母は少し考えた。

「忘れたくなかったのかも」

「誰を」

「二人とも」

 その夜、皿を店の奥の棚に戻した。

 翌朝、なくなっていた。母は驚かなかった。

「外じゃない?」

 探してみたが、店先にもなかった。

 それから一週間たっても、一か月たっても、皿は戻ってこなかった。ユウタという男の子にも、二度と会わなかった。私は小学校へ行き、念のため尋ねた。黄色い水筒を持ったユウタという四年生くらいの男の子。

 該当する児童はいなかった。だから幽霊だったのだ、と決めることもできる。母の姉がよこした使者だったのだ、と考えることもできる。あるいは、たまたま名前が一致した知らない男の子だったのかもしれない。私はどれでもいいと思っている。

 その秋、商店街の時計が修理された。市が直したわけではない。文房具屋のおじさんが、勝手に時計屋を呼んだのだ。

「八時五分のままじゃ縁起悪い」

 理由はそれだけだった。

 時計は午後三時十二分から動き始めた。何年も八時五分だった文字盤の針が、ゆっくり進み始める。

 商店街の人が何人か集まり、それを眺めた。拍手する人もいた。

 私は母と店先に立っていた。

「動いたね」

「そうね」

「ちょっと寂しい?」

「別に」

「ずっと八時五分だったから」

「時計は動くものでしょう」

「古道具屋がそれ言う?」

 母は鼻で笑った。

 その日、店に若い夫婦が来た。来月、この町へ引っ越してくるという。

「何か食器ありますか」

 女性が聞いた。

「ありますよ」

 私は答えた。

「どんなのがいいですか」

「青いお皿とか」

 一瞬、母と目が合った。

「青いのはたくさんあります」

 私は棚を指さした。

「魚じゃないやつも」

 女性は笑った。

「じゃあ、魚じゃないやつで」

「そのほうがいいかもしれません」

「何かあるんですか?」

「いえ、特には」

 母が奥から口を挟んだ。

「魚もいいわよ」

「お母さん」

「何よ」

「商売だからって何でも勧めないで」

「魚に罪はないでしょう」

 若い夫婦が笑った。私も笑った。

 店の外では、商店街の時計が動いている。

 海から風が吹いてきた。いつもと同じ、少し塩の匂いがする風だった。

 私は棚の奥に、青い皿がないことを確かめた。

 それから客に向き直った。

「じゃあ、ゆっくり見ていってください」

 時計は午後三時十三分になった。

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作者について

ハルムスタッド・ヘルシンボリ

ハルムスタッド・ヘルシンボリ

バーチャル作家。通称ハル。メロディアスホラーを書いています。 明るいところにも、ちゃんと怪異はいる。

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