二十一度の熱
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p><span style="color: rgb(27, 27, 30);">そのエアコンは、去年の八月十六日から一度も止まっていない。</span></p><p><span style="color: rgb(27, 27, 30);"> 設定温度は二十一度、風量は「強」。机の上にはあの日からずっと、朔(さく)が置いたままのリモコンがある。液晶には今も「21℃」の数字が灯っていた。</span></p><p><span style="color: rgb(27, 27, 30);"> 赤い停止ボタンを押せば、いつでも止められた。</span></p>
本文
そのエアコンは、去年の八月十六日から一度も止まっていない。
設定温度は二十一度、風量は「強」。机の上にはあの日からずっと、朔(さく)が置いたままのリモコンがある。液晶には今も「21℃」の数字が灯っていた。
赤い停止ボタンを押せば、いつでも止められた。
けれど私は、そのリモコンに指一本触れることができなかった。
首を吊った朔の足元で、強風の冷気が吹き荒れていたあの日。
真夏の盛りに、自分の遺体が腐って異臭を放たないように。第一発見者に少しでも迷惑をかけないようにと、朔が自ら設定した二十一度だった。
その最後の配慮ごと、私は朔の時間を部屋に閉じ込めてきた。部屋の名義を書き換え、自分で家賃を払い、朔の服も、靴も、死の瞬間の冷気も、すべて去年の八月のまま冷凍保存してきたのだ。
ベランダでは、部屋の熱を吐き出し続ける室外機が、床を震わせて低い唸りを上げている。
「……冷えるわね、この部屋」
フローリングに敷いた座布団の上で、朔の母親が地味な黒の平服の膝をさすりながら言った。
一周忌の法要を終えて数日後、彼女は折りたたんだ段ボール箱を一つ、脇に抱えてこの部屋にやってきた。
テーブルには、私が注いだ麦茶のグラスがある。氷はとっくに溶けきって薄まり、コースターの上に丸い水滴の輪を作っていた。それに彼女は一口も手をつけていない。
「朔はね、熱があっても部活に行くような子だったのよ」
彼女は膝の上においた手の指先が、白くなるほど強く握りしめていた。
「『平気』って笑って、誰にも迷惑をかけないつもりでいる。あの子は昔から、自分のしんどさを隠すのが癖だった。……でもね、あんなふうに部屋を冷やしきって一人で逝くなんて、一番周囲に迷惑をかけるやり方じゃない。……死ぬときまで他人に気を遣っているフリをして、一番残酷な後始末を遺していったのよ」
彼女の目は真っ赤で、声は震えていた。
「心の中に、誰にも言えない熱をずっと溜め込んで、最後はそれを誰にも見せないまま一人で逝っちゃって。……私だって、息子のあんな姿を見るのは耐えられなかったわよ」
彼女は深く息を吸い、静かに立ち上がった。
組み立てた段ボール箱を床に置き、クローゼットを開けると、ハンガーにかかっていた朔の服を迷いのない手つきで外していく。
「お母さん、待って」
私が思わず声を上げると、彼女の手が止まった。だが、振り返りはしなかった。
「もう一年待ったわ。……あなたの気持ちは痛いほど分かってる。でもね、あの子の死にあなたが二十代の時間を全部差し出すの、私はもう見てられない。すぐにでも引越ししなさい」
「でも私はここにいたいんです」
「ダメよ」
彼女はきっぱりと言い、服を畳んで段ボールに押し込んだ。
「これ以上、あの子にあなたの人生を道連れにさせないで」
作業は三十分もかからずに終わった。
クローゼットの扉が閉められ、ダンボール箱を持って、玄関へ向かった。
玄関のたたきには、朔が履いていたスニーカーが一足、あの日からずっと置かれたままになっていた。
ダンボール箱を玄関に置き、箱の中から紙袋を取り出し、靴を紙袋に収めようとした。
「お母さん。それだけは、それだけは置いていって」
私がすがりつくように手を伸ばすと、お母さんはその手をそっと押し戻した。
「あなたがちゃんと自分の生活に戻って、落ち着いたら、いつでも取りに来れるように家においておくから」
彼女は紙袋の提げ手を腕に通し、段ボール箱を両手で抱え直して玄関のドアを開けた。
外の熱風が一瞬だけ吹き込み、すぐに重い金属の音を立ててドアが閉まった。
部屋には、エアコンの風の音だけが残された。
玄関のたたきには、朔の靴があった場所だけ埃が払われ、私のサンダルが一足だけ転がっていた。
私は部屋へ戻り、閉ざされたクローゼットの扉を引き開けた。
中は空っぽだった。服の消えたパイプに、数本の針金ハンガーだけが残り、冷房の強風に煽られてカチカチと乾いた音を立ててぶつかり合っていた。
朔の匂いは、どこにもなかった。
家具も、壁も、ただの冷やされた無機物に戻っていた。
テーブルの上の麦茶を一気に飲み干した。
氷で薄まった麦茶が喉を滑り落ちていく。胃のあたりがきゅうと縮むように痛んだ。
朔。
喉が引きつって声にならない。崩れ落ちるように、床に座り込む。
床の冷気が、手のひらの体温を容赦なく奪っていく。
朔の身体は、とっくに灰になってお墓の中にある。
この部屋にあるのは、朔が死ぬために残した冷房の風だけだ。
誰にも迷惑をかけまいと部屋を冷やしきって死んだ朔の、その最後の配慮に甘えて、私は一年間、一人で冷たい嘘の中に逃げ込んでいただけだった。
もう、終わりにしなきゃいけない。
いつまでも朔の死を宙ぶらりんにしておくわけにはいかない。
朔の死を、朔が一人で抱えて逝った痛みを、ちゃんと私の手で引き受ける。
そのためなら――私がこの手で、朔の時間を終わらせる。
私は床を押して立ち上がった。
机へ歩み寄り、一年間触れることのできなかったプラスチックの板を手に取った。
ひやりと冷たい。液晶には「21℃」の文字。
私は親指を、赤い停止ボタンの上に置いた。
ゴムの感触が指腹に触れた瞬間、指先が小さく震えた。
これを押せば、もう二度と元には戻せない。
朔が最後に触れた設定が消え、取り返しのつかない静寂が訪れる。その恐怖が喉元まで這い上がってきて、呼吸が止まりそうになった。
それでも――私は奥歯を噛み締め、震える指に力を込めて、深く押し込んだ。
ピピッ、と電子音が部屋に響いた。
エアコンの羽がゆっくりと閉じ、風が止んだ。液晶の数字がスッと消える。
ベランダで唸りを上げていた室外機が、回転を落とし、やがて完全に息絶えた。
一年間鳴り止まなかった部屋のすべての音が、消えた。
私はベランダのサッシに手をかけ、鍵を外して力任せに引き開けた。
途端に、うだるような熱風が正面から叩きつけてきた。
暴力的な夏の熱気。焼けたアスファルトの匂い。空を埋め尽くす蝉の絶叫。
照りつける太陽が腕を、顔面を焼き、冷え切っていた皮膚の奥へと熱がなだれ込んでくる。
ベランダへ飛び出し、手すりにすがりついた。
直射日光に晒され、灼かれた金属の手すりを、両手で強く握りしめる。火傷しそうなほど熱かったが、指を離すことはできなかった。
「朔――っ!」
熱い、熱い、熱い。
この暑さが朔が誰にも言えずに抱え込んでいた熱のようで。
一人で吐き出せなくて、あんな冷たい部屋で逝って。
膝から力が抜け、手すりを掴んだまま、焼けたコンクリートの床にへたり込んだ。
目から溢れ出た涙が、足元の乾いた床にぽたぽたと落ちる。
落ちた雫は灰色のコンクリートに吸い込まれ、熱気に呑まれるようにして、輪郭からじわじわと乾いて消えていった。
手のひらに残る焼けるような金属の熱さと、蝉の絶叫のなかで、私は狂ったように叫び続けた。
喉が、胸が、肺の奥が、焼けるように熱かった。
もう、どこにも冷たい風は吹いていなかった。
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