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小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p> カチ、カチ……と、遠くで古時計が時を刻む。けれど、今の私には彼の吐息と、その狂おしいほどに優しい瞳しか見えない。</p><p> 私はカゴの中に閉じ込められた小鳥のように、彼の甘い言葉の鎖に、自ら進んで繋がれていくのを感じていた——。</p><p> 重厚なクラシック音楽の重低音の隙間を切り裂くように、耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほどに繊細で、硬質な音が薄暗い店内に響いた。</p>
本文
カチ、カチ……と、遠くで古時計が時を刻む。けれど、今の私には彼の吐息と、その狂おしいほどに優しい瞳しか見えない。
私はカゴの中に閉じ込められた小鳥のように、彼の甘い言葉の鎖に、自ら進んで繋がれていくのを感じていた——。
重厚なクラシック音楽の重低音の隙間を切り裂くように、耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほどに繊細で、硬質な音が薄暗い店内に響いた。
——チリン……。
まるで冷たい氷か銀の鈴が鳴ったかのような、あまりにも涼やかで美しい『クリスタル・チャイム』の響き。
それは、万年雪の白磁のような純白のデミタスカップが、目の前のテーブルへと静かに置かれた音だった。
その音にハッとして、彼女は現実のソファの上で息を呑み、目を開けた。
頬には、融(と)けていく黒い涙とともに、どうしようもない切なさと絶妙な安心感の余韻が伝わっている。あまりの甘美な深淵の幻影に、彼女の心は完全に囚われ、激しく咽(むせ)び泣いていた。
そこへ、真鍮のサイフォンの中で琥珀(こはく)色の液体を不穏に沸き上がらせていたジェラルドが、音もなく近づく。
前腕の『抽出の魔法陣』を仄赤(ほのあか)く明滅させながら、彼はカウンター越しに、包み込むような温かみのある笑顔を彼女へと向けた。
「……ふふ、少しお疲れのようですね。あなた様の魂の渇きに、最も深く寄り添う一杯を淹(い)れましょう。さあ、この温かい闇をお飲みなさい。大丈夫、シルヴェスター様のあの優しく病んだ熱なら、この私がいくらでも調合してあげますから」
純白のカップに口をつけた彼女が、はっと息を呑んで顔を上げた。涙に濡れたその瞳で、ジェラルドの中にあの美貌の宰相の面影を狂おしそうに探し、その衣服の袖へ震える指先を伸ばそうとする。
しかしジェラルドは、温和な微笑みを崩さないまま、触れられる前に音もなく一歩後ろへと身を引いた。
「――お気持ちは分かります。ですがお客様、私はただのバリスタに過ぎません。どうか、その愛しい呪い(珈琲)を最後の一滴まで飲み干し、あなた様だけの現実へお戻りください」
優しく、けれど決定的に冷たい『 Le Poison de la Réalité ――現実という名の毒』の壁を突き崩された彼女は、力なくカウンターへ突っ伏していく。最後の一滴を飲み干した彼女の瞳からは、もう完全に光が消え失せていた。
ジェラルドは冷え切ったカップを引き離し、出口の扉をそっと開け放つ。
すりガラスの向こうから、色褪せた現実の生温い风が吹き込んでくる中、彼は胸元に手を当てて深々とお辞儀をした。
「お客様、お帰りの際、どうか足元にお気をつけください。あなたの現実に、まだほんの少し、カカオの闇と、甘い深淵の影が残っていますから。月がまた影に呑まれる夜に、いつでもお待ちしております――」
作品統計
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