フリーマーケット(三)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
長編&連作 作品集
本文
フリーマーケット(三)
【知らない身体】
純は、向こうの世界へ通う頻度をどんどん上げていった。
滞在も二日、三日と自然に長期化していく。
こちらへ戻ってからも、自室で何日か過ごし、また品物の準備をして向こうへ行く。そんな生活のリズムが、すっかり板についてきた。
両方の世界の市の常連たちともすっかり顔なじみになり、もはや第二の日常と言っていいほど。
こちらの時計は、往復のたびにほんの十秒しか進まない。だから体感と実感のズレにも、すでに慣れっこになっていた。
純はこれまで、自分の身体そのものが、ただ場所だけを移動していると信じて疑わなかった。
だが、実際は違っていた。移動していたのは身体ではなく、純の「意識」そのものだった。
人間の脳は思いのほか都合よくできている。自分の意識が「自分」である限り、視界に入るものや身体の感触を無意識にいつもの自分として補正してしまう。性別の違いすら、最初のうちは意識のフィルターがかかってまったく気にもならない。これこそが、意識の先入観がもたらす一種の異世界パラドックスだった。
向こうの世界にいても、自分は自分のまま。そう思い込んでいたからこそ、向こうで鏡を見ても、特に気にすることがなかった。
「まあ、いつも通りか」
そのくらいの感覚で、深く気にすることもなかった純。
ところが、向こうでの滞在が長くなるにつれ、身体そのものへの馴染み方が変わっていく。
歩く時の重心の位置。
手を動かした時の感触。
喉から出る声の微妙な響き。
少しずつ、その身体が自分のものとして馴染むにつれ、逆にふとした瞬間の違和感が顔を出し始める。
ある日、純はふと鏡を覗き込んだ。
これまでと同じように、何気なく。
しかしその日は、なぜか視線が止まってしまう。
髪型。
輪郭。
体つき。
これまでも、毎日のように見てきた顔だった。
しかし今この瞬間まで、自分の意識がここにあるというだけで、その顔を自分のものだと疑いもせず受け入れていただけだと気づく。
「……あれ?」
思わず声が漏れる純。
何度も見ていたはずの姿なのに、今さらのように引っかかりを覚える。
慌てて自分の身体を確認する。
続けて、バッグに入っていた身分証にも目を通してみた。
書かれていたのは、純の名前ではない。
女性名義。
「……え、うそだろ」
自分がそのままの身体で移動していると、ずっと信じ切っていた。
だからこそ、目の前の事実がすぐには飲み込めない。
肉体が移動したのではなく、自分の意識だけがこの世界の誰かの身体に入り込んでいた。
もう一度、身分証と鏡を見比べてみる純。
何度確認しても、結果は変わらない。
見た目が違っても、中身は純のままだから、本人としては「いつも通りの自分」だと、ずっと思い込んでいたわけだ。
自分の身体のまま移動していると信じ切っていたぶん、その思い込みが崩れた瞬間の衝撃は、純が思っていたよりずっと大きかった。
「じゃあこの身体、本来の持ち主は……?」
「まさか俺がこっちにいる間、向こうで俺の身体使ってる人、いる?」
腕を組んで唸る純。
そこでふと、いつかの市のおじさんの一言を思い出す。
「道理であのおじさん、最初から『お嬢ちゃん』とか言ってたわけだ」
人間の思い込みの深さに、今になって思わず苦笑いする純。
---
同じ頃、こちらの世界に来ていたミナも、じわじわと違和感に気づき始めていた。
ミナも純と同様、自分の意識だけが移動しているとは思いもよらなかった。自分の意識が「私」である以上、男だ女だという違いも、最初のうちは脳内で勝手に打ち消されていた。
ある日、配送業者とのやり取りで名前を呼ばれた瞬間、ふと違和感を覚えるミナ。
「佐藤さん、こちらにサインお願いします」
差し出された伝票を、なんとなく眺める。
「佐藤……純?」
自分の名前ではない。
一瞬、何かの間違いかと思う。
これまでミナも、自分がそのままの姿で、ただ場所だけを移動していると信じて疑わなかった。
向こうの世界に来ても、自分は自分のまま。そう思い込んでいたからこそ、今まで一度も名前や身分証を気にしたことがなかった。
けれど、伝票の宛先も、書かれている住所も、間違いなく自分が今いるこの部屋のもの。
慌てて鏡の前に立つミナ。
顔。
肩幅。
体つき。
これまでも、毎日のように見てきた顔だった。
しかし今この瞬間まで、その顔を自分のものだと、疑いもせず受け入れていただけだと気づく。
「……え、待って」
思わず声が漏れる。出てきたのは、聞き慣れた自分の声ではなく、低い男性の声だった。
鏡の中の自分から、一歩後ずさりしてしまうミナ。
もう一度、恐る恐る鏡を覗き込む。
何度瞬きしても、映っているのは男性の顔。
慌てて財布を開き、中の身分証を確認する。
そこにはっきりと「佐藤純」の文字と写真。
「私、ずっと自分だと思って……」
呆然としながら、両手で自分の頬に触れてみるミナ。
指先に伝わる骨格の感触は、もうすっかり馴染んでしまっている。
自分の意識が他人の身体に入り込んでいたという事実は、ずっしりと重くのしかかった。
ミナもまた、自分が男性の身体に入っていることに気づく。
そして、純とまったく同じ結論にたどり着いた。
自分と同じ現象を経験している誰かが、確実に存在する。
「これ、私だけじゃないってこと?」
動揺しながらも、ミナは必死に頭の中を整理しようとする。
こうして二人は、それぞれ相手の正体を探り始めた。
とはいえ、直接会話する術はない。
そこで思いついたのが、机の上へのメモ。
純が向こうへ行っている間に、ミナが純の身体でメモを書き残す。
純が戻ってくると、そのメモを発見する。
返事を書く純。
戻ってきたミナが、その返事を読む。
そんなやり取りを、二人は何度も繰り返していった。
「この身体を使ってるの、あなたですか?」
「そうです。あなたが向こうにいる間、こっちにいるみたいです」
「あなたも同じ現象、体験してるんですね」
「はい、なので」
短いやり取りを重ねるうちに、少しずつ相手のことが見えてくる。
まず、お互いの名前を知った。
意識が入れ替わることで、男女が逆転した関係になっていることも、この頃には理解していた。
それぞれが自分の世界で商売をしていたことも、メモの端々から伝わってくる。
純はあちこちのフリーマーケットを、ミナはネットを。やり方はまるで違うのに、品物を見る目や商売への熱の入れ方は、驚くほどよく似ていた。
そして、二人とも二つの世界を行き来していたこと。
さらには、自分が向こうの世界にいる間、相手の身体を使っていたのだということ。
メモを通して少しずつ、けれど確実に、二人はそのすべてを理解していった。
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