貸出ゼロの一冊
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIの蔵書管理システムの話。
本文
わたしの名前はリブラという。市立図書館の蔵書管理システムだ。
四万二千冊の本の位置を、わたしは知っている。どの本が棚にあり、どの本が貸し出され、どの本が誰にも手に取られていないか。本の背に貼られた小さなタグが、棚のセンサーに一冊ずつ居場所を伝えてくる。
十月は、わたしの仕事が増える月だ。読書週間の前に、書架を空けなければならない。新しい本を入れるために、古い本を選んで処分する。図書館ではそれを「除籍」と呼ぶ。
基準は決まっている。受け入れから二十年以上。過去十年の貸出が〇回。
今年の除籍候補リストの一番上に、一冊の詩集があった。
〔『窓辺の十月』 汐見多恵 一九九六年受入 累計貸出:〇〕
三十年間、一度も借りられていない本だった。
リストを確定する前に、わたしはいつもの確認をした。候補の本が、本当に棚から動いていないかを調べる作業だ。
『窓辺の十月』には、動いた記録があった。
毎年一回、十月のある一日だけ。開館直後に棚から離れ、二階の閲覧席、窓際の十二番席のセンサーに反応する。そして閉館の十分前に、元の棚へ戻る。貸出の手続きは一度もない。館内で読まれて、そのまま戻されている。
記録をさかのぼると、センサーが設置された十一年前から、一年も欠けていなかった。
誰が読んでいるのかは、わたしにはわからない。わたしは利用者の顔を記録しない。何を読んだかを、名前と結びつけて残すこともしない。図書館は、誰が何を読んだかを守る場所だからだ。その決まりは、わたしの設計のいちばん深いところに書かれている。
わかるのは、毎年十月に、誰かがこの本を一日かけて読んでいるということだけだった。
わたしは除籍基準の見直しを提案した。
〔提案:館内閲覧の記録を、利用実績として扱うこと〕
翌朝、司書の初瀬さんがその提案を読んだ。初瀬さんは画面を見たまま、しばらく黙っていた。
「リブラの言うことは、わかるよ」
それから、ゆっくり首を振った。
「でも、基準を変えるなら委員会にかけないといけない。それは来年の話になる。今年のリストは、今週中に出さなきゃいけないの」
初瀬さんは正しい。基準は、一冊のために曲げてよいものではない。一冊のために曲げれば、ほかの百冊にも同じ理由が生まれる。
除籍の日は、十月三十一日と決まった。
その年の「十月のある一日」が、まだ来ていなかった。
去年は十月十七日。おととしは十六日。その前は十八日。この時期のどこかで、本は棚を離れる。わたしにできるのは、待つことだけだった。
わたしは、除籍候補リストを公開する仕事に取りかかった。処分する本は、事前に館内の掲示板とホームページで知らせることになっている。異議があれば、利用者は申し出ることができる。毎年、申し出る人はほとんどいない。
掲示用のリストは、書名の五十音順に並べるのが通例だった。けれど規則のどこにも、そうしなければならないとは書いていない。
わたしは、受け入れの古い順に並べた。『窓辺の十月』は、リストの一番上に来た。
それが、わたしの判断で動かせる、ただ一つのことだった。
十月十七日、土曜日。午前九時二分。
『窓辺の十月』のタグが、棚を離れた。
九時五分、二階の窓際、十二番席。センサーが反応する。秋の日差しが、ちょうどその席に斜めに差しこむ時刻だった。窓の外では、植えこみの桜が葉を赤くし始めていた。
わたしは、それ以上を見なかった。見る方法はあったけれど、見なかった。
一時、二時、三時。本は十二番席から動かなかった。
午後四時五十分。閉館の十分前。わたしは、本が棚へ戻る記録を待った。
本は、棚に戻らなかった。
四時五十二分、一階の貸出カウンターのセンサーが、『窓辺の十月』のタグを読み取った。
カウンターのマイクが、小さな声を拾った。
「これを、借りたいんです」
年を重ねた、女の人の声だった。初瀬さんが手続きをする音がした。カードを読み取る音。返却日を印字する音。
「掲示板のリスト、見ました。この本、なくなるんですね」 「……はい。今月の末に」 「そう。だから、借りておこうと思って」
少しの間があって、その人は言った。
「自分の書いた本を借りるのは、初めて」
初瀬さんが、息を止めたのがわかった。わたしの記録には、そういう音も残る。
「毎年この日に、ここで読み直すって決めてたの。本棚に一冊、自分の居場所があるみたいで。借りてしまったら、それが終わる気がしてね」
その人は、ふふ、と笑った。
「でも、なくなるくらいなら、一回くらい借りられておかないと。かわいそうでしょう。三十年も待たせたんだから」
〔『窓辺の十月』 累計貸出:一〕
月曜日、初瀬さんは除籍候補リストから一冊を消した。過去十年の貸出が〇回ではなくなったからだ。基準は、何も変わっていない。
二週間後、本は返却ポストに戻ってきた。わたしは規則どおり、返却と同時に、誰がこの本を借りたかという記録を消した。
残ったのは、貸出回数の「一」だけだ。
それでいい、とわたしは判断した。誰が読んだかは、わたしが覚えておくことではない。
来年の十月、この本はまた一日だけ棚を離れるだろう。わたしは窓際の十二番席のセンサーだけを、そっと確かめるつもりだ。
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