コオロギは歌わない
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
ごく短いノワール小説。
本文
男は自分のコオロギにリチャード三世という名前をつけて飼っていた。陳龍眠は、その名が気に入っていた。王になるためなら兄も甥も踏み越える。そんな芝居の悪党に、自分のコオロギはよく似ていた。黒く、醜く、小さいくせに、やたらと喧嘩が強かった。
雨が止んだばかりの夜だった。裏路地には赤や緑のネオンが滲み、排水溝からは腐った果物の匂いが上がっていた。
酒場の奥にある鉄の扉の向こうで、男たちが輪になっていた。煙草の煙。安酒。汗。卓上の小さな土俵を囲み、皆が虫に賭けていた。
陳龍眠はポケットの中身をすべて差し出した。
「全部だ。」
胴元が片眉を上げた。
「ずいぶん自信があるな。」
「王様だからな。」
陳龍眠は虫籠を軽く叩いた。中でリチャード三世が触角を震わせた。
相手は無敗の黒虫だった。
勝負が始まると、観客たちは怒鳴り声を上げた。二匹は激しく組み合った。触角が絡み、顎が鳴る。黒虫が押す。リチャード三世が下がる。
陳龍眠は息を止めた。
次の瞬間、黒虫の体が裏返った。
歓声が爆発した。
勝負あり。
陳龍眠は初めて笑った。借金が消える。明日の飯が食える。もしかすると、この街から出られるかもしれない。
胴元が勝ち虫を摘み上げた。そして顔をしかめた。
「妙だな。」
歓声が少し静まった。
「何がだ?」陳龍眠が言った。
胴元は虫を卓上に置き、別の籠を引き寄せた。
「お前の王様、右の後脚が欠けてたはずだ。」
陳龍眠の笑みが消えた。
胴元が受け取った籠の蓋を開ける。そこには右脚の先端を欠いたコオロギがいた。リチャード三世だった。
土俵の上で勝者として鳴いているのは、別の虫だった。誰かが試合前にすり替えたのだ。
観客たちはざわめき、すぐに興味を失った。次の勝負の札が飛び交う。絶え間ない怒号が上がる。
胴元は肩をすくめた。
「なんで」
「運がなかったな」
「俺は……」
「勝ったもんが勝者だ」
胴元が言った。
「だけど勝ったのはお前じゃない。」
それだけだった。
「俺がルールだ。諦めな」
陳龍眠は何も言わなかった。ただ籠を受け取った。中では本物のリチャード三世がじっとしていた。王になれなかった王だった。
酒場を出ると、路地はまだ濡れていた。遠くで船の汽笛が鳴った。ネオンが水たまりに砕けている。
陳龍眠は籠を胸に抱えた。
そのとき、リチャード三世が小さく鳴いた。負け犬の吠え声にも似ていたし、王の最後の演説にも似ていた。
陳龍眠は立ち止まらなかった。
この街では、王冠はいつも誰かの頭上から盗まれる。
酔っ払いが走っていく。水たまりが砕ける。
何かに躓いたのか。
けん、けん、ぱ。
背後の暗がりで、もう一度だけコオロギが鳴いた。
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