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コオロギは歌わない

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/13 📝 1,101文字 ✅ 全年齢

あらすじ

ごく短いノワール小説。

本文

 男は自分のコオロギにリチャード三世という名前をつけて飼っていた。陳龍眠は、その名が気に入っていた。王になるためなら兄も甥も踏み越える。そんな芝居の悪党に、自分のコオロギはよく似ていた。黒く、醜く、小さいくせに、やたらと喧嘩が強かった。

 雨が止んだばかりの夜だった。裏路地には赤や緑のネオンが滲み、排水溝からは腐った果物の匂いが上がっていた。

 酒場の奥にある鉄の扉の向こうで、男たちが輪になっていた。煙草の煙。安酒。汗。卓上の小さな土俵を囲み、皆が虫に賭けていた。

 陳龍眠はポケットの中身をすべて差し出した。

「全部だ。」

 胴元が片眉を上げた。

「ずいぶん自信があるな。」

「王様だからな。」

 陳龍眠は虫籠を軽く叩いた。中でリチャード三世が触角を震わせた。

 相手は無敗の黒虫だった。

 勝負が始まると、観客たちは怒鳴り声を上げた。二匹は激しく組み合った。触角が絡み、顎が鳴る。黒虫が押す。リチャード三世が下がる。

 陳龍眠は息を止めた。

 次の瞬間、黒虫の体が裏返った。

 歓声が爆発した。

 勝負あり。

 陳龍眠は初めて笑った。借金が消える。明日の飯が食える。もしかすると、この街から出られるかもしれない。

 胴元が勝ち虫を摘み上げた。そして顔をしかめた。

「妙だな。」

 歓声が少し静まった。

「何がだ?」陳龍眠が言った。

 胴元は虫を卓上に置き、別の籠を引き寄せた。

「お前の王様、右の後脚が欠けてたはずだ。」

 陳龍眠の笑みが消えた。

 胴元が受け取った籠の蓋を開ける。そこには右脚の先端を欠いたコオロギがいた。リチャード三世だった。

 土俵の上で勝者として鳴いているのは、別の虫だった。誰かが試合前にすり替えたのだ。

 観客たちはざわめき、すぐに興味を失った。次の勝負の札が飛び交う。絶え間ない怒号が上がる。

 胴元は肩をすくめた。

「なんで」

「運がなかったな」

「俺は……」

「勝ったもんが勝者だ」

 胴元が言った。

「だけど勝ったのはお前じゃない。」

 それだけだった。

「俺がルールだ。諦めな」

 陳龍眠は何も言わなかった。ただ籠を受け取った。中では本物のリチャード三世がじっとしていた。王になれなかった王だった。

 酒場を出ると、路地はまだ濡れていた。遠くで船の汽笛が鳴った。ネオンが水たまりに砕けている。

 陳龍眠は籠を胸に抱えた。

 そのとき、リチャード三世が小さく鳴いた。負け犬の吠え声にも似ていたし、王の最後の演説にも似ていた。

 陳龍眠は立ち止まらなかった。

 この街では、王冠はいつも誰かの頭上から盗まれる。

 酔っ払いが走っていく。水たまりが砕ける。

 何かに躓いたのか。

 けん、けん、ぱ。

 背後の暗がりで、もう一度だけコオロギが鳴いた。

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々不狼児

々不狼児

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