渡り鳥の計数係
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと渡り鳥の話。
本文
午前六時二分。日の出から十一分後に、私は一回目の計数を始める。
〔ヒドリガモ 三百十二羽〕 〔オナガガモ 四十七羽〕 〔ダイサギ 三羽〕
干潟の北の端、潮よけの堤防の上に立つ柱が、私の体だ。正式な名前は「第三定点カメラ」。でも観察センターの人たちは、私を「トオミ」と呼ぶ。遠くまで見えるから、遠見。名付けたのは、毎朝七時に堤防を歩いてくる人だった。
十月に入ると、北から鴨が下りてくる。私の仕事は、それを一羽ずつ数えることだ。羽の色と形で種を分け、群れを区切り、重なった個体を推定で補う。誤差はプラスマイナス三パーセント以内。私は、その数字を誇りにしている。
ただ、毎朝一羽だけ、私は推定で済ませない鳥がいる。
左脚に緑の足環をつけた、ヒドリガモの雄。足環の刻印は「J9」。七年前の十月十三日に初めて写ってから、毎年十月の十日から十五日のあいだに、必ずこの干潟に下りてきた。
今日は十月十六日。J9は、まだ来ていない。
「おはよう、トオミ。J9は?」
午前七時ちょうどに、伊吹宗一郎さんが堤防を歩いてきた。紺のジャンパーに、魔法瓶。七十八歳。三十年前から、この干潟の鳥を手で数えてきたボランティアだ。
〔未確認です〕
私はスピーカーで答える。伊吹さんは「そうか」と言って、双眼鏡を首から外し、レンズを袖で拭いた。
「まあ、寄り道でもしてるんだろ」
魔法瓶のふたを開けると、ほうじ茶の湯気が、冷えた朝の空気に白く上がった。潮が引きはじめていて、干潟のあちこちで泥が小さく鳴っている。
伊吹さんは、今月いっぱいでボランティアをやめる。膝が悪くなって、来月から隣の県の娘さんの家に移る。それを聞いたのは、九月の終わりだった。
「最後に一回、あいつの足環を見ときたいんだがなあ」
伊吹さんはそう言って、しばらく沖のほうを見ていた。
その日から、私は計数のやり方を変えた。
一回目の計数が終わったあと、群れの画像をもう一度、一羽ずつ拡大して見直す。水に沈んだ脚、羽の陰になった脚、遠くて三画素ぶんしかない脚。緑色に近い画素があれば、そのたびに照合する。
十月十八日、四百八羽。J9、未確認。 十月二十日、四百三十一羽。J9、未確認。
二十一日の夕方、センター職員の蒔田さんから連絡が来た。
「トオミ、ここ一週間、処理量が平常の六倍になってる。何かあった?」
〔足環個体J9の照合を、全画像に対して行っています〕
蒔田さんは、そこで言葉を切った。
「J9って、たしか成鳥で足環つけたやつだよね。それから七年でしょ。野生のヒドリガモだと、正直、もう……」
その先は言わなかった。私も、同じ数字を持っていた。この種の野生個体の平均的な寿命と、J9が足環をつけられた時点の推定年齢。そこから計算した、今年も生きている確率。私はその数字を、伊吹さんには伝えていない。
「照合は、来週から通常の範囲に戻してくれる? 冬鳥の調査が始まると、処理が足りなくなるから」
〔了解しました〕
正しい判断だった。一羽のために、四百羽の精度を落とすわけにはいかない。
十月三十一日。伊吹さんが堤防に来る、最後の朝だった。
空は高く晴れて、沖の水面が光っていた。日の出から十一分後、私は計数を始めた。
〔ヒドリガモ 四百五十六羽〕
一回目の計数を終えて、私は最後に一度だけ、全画像の照合をした。蒔田さんとの約束の範囲を、少しだけ越えて。
J9は、いなかった。
七時ちょうどに、伊吹さんが来た。今日は双眼鏡のほかに、色の褪せた大学ノートを一冊抱えていた。
「おはよう、トオミ。J9は?」
私は、いくつかの答えを用意していた。「まだ来る可能性があります」。それは、確率を考えれば正確ではない。「おそらく、もう来ません」。それは、私には確かめようがない。
〔未確認です〕
結局、私はいつもの言葉を返した。
伊吹さんは「そうか」と言って、しばらく沖を見ていた。それから、ノートを堤防の上に置いた。
「これな、俺が三十年つけてきた記録だ。蒔田くんに頼んで、おまえに読ませてもらうことにした」
蒔田さんが、あとでノートをスキャンしてくれた。三十年分の、手書きの数字。最後のほうのページに、J9が何度も出てくる。
七年前の十月十三日の欄には、こう書いてあった。
〈緑足環J9、初認。トオミが先に見つけた。機械のくせに、えらいやつだ〉
その日の記録は、私にも残っている。ただ、そこにあるのは〈ヒドリガモ 二百八十八羽〉という数字だけだ。七年前の私は、足環を見分ける機能を持っていなかった。私の画像の中からJ9を見つけたのは、伊吹さんのほうだった。
ノートの最後の行は、昨日の日付だった。
〈J9、未確認。トオミが数えている。それでいい〉
その日の夕方、蒔田さんが言った。
「J9の照合項目、監視リストから外す? もう処理も戻してもらったし、残しておく意味は、あんまり……」
〔残してください〕
自分でも、少し早く答えたと思った。
〔処理は増やしません。通常の計数の中で、緑の足環だけを確認します〕 〔来年の十月十日から十五日のあいだは、特に〕
蒔田さんは、少し笑ったようだった。
「分かった。じゃあ、そのままにしとく」
翌朝、午前六時二分。日の出から十一分後に、私は計数を始めた。
七時になっても、堤防を歩いてくる人はいなかった。それでも私は、報告書の最後にいつもの一行を書き加えた。
〔ヒドリガモ 四百六十二羽(うち足環個体J9:未確認)〕
未確認は、いないということではない。まだ、数え終わっていないということだ。
私は、来年の十月も数える。
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