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いつかまた、あの場所で

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/17 📝 5,268文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

出張先のフィラデルフィアの美術館で、男は20年ぶりに大学の同級生である女性と再会する。短い歓談の末に別れた翌朝、男は彼女が殺人事件の被害者となったことを新聞で知る。理由も説明されぬまま連行され、不条理な拘留の日々を過ごす男の視点から、死と記憶の非情さを描いた掌篇ノワール。

本文

 第一章

 六月のフィラデルフィアは薄曇りだった。

 朝の雨が上がったあとで、街路樹の葉はまだ濡れていた。石造りの建物の壁は湿気を吸い込み、歩道の敷石は鈍く光っている。

 男は予定より一日長く滞在することになった出張の空白を埋めるため、美術館へ入った。

 広い展示室をあてもなく歩き回った。

 絵画を見た。

 彫刻を見た。

 いくつもの部屋を抜けた。

 どこからでも大ガラスが見える。花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも見えない、とジョークを言ったのは誰だっけ。

 そして最後にデュシャンの《遺作》の前へ来た。

『1.落下する水、2.照明用ガス、が与えられたとせよ』というのが長ったらしい題名だ。

 木の扉だった。

 覗き穴がある。

 男は順番を待った。

 前の観客が離れる。

 男は穴に目を当てた。

 裸の女が草の上に横たわっている。

 脚を開き、片手にはガス灯。背後には滝。

 女の性器は見えるが顔は見えない。

 男はしばらく眺めていた。

 それから離れた。

 他の展示室を歩き、土産物売り場を見て、窓から外の空を眺めた。雲は高く流れていた。

 しばらくして、なぜかもう一度戻ってきた。

 扉の前に女が立っていた。

 覗き穴を覗いている。

 黒い髪が肩にかかっていた。

 淡いベージュのジャケット。

 黒いロングスカートに真新しいレザーのローファー。

 細い首筋。少しかがんだ肩から背中のライン。

 男は足を止めた。

 どこかで見たことがある。

 そう思った。

 いや、そんなはずはない。

 二十年も経っている。

 だが見覚えがあった。

 女が顔を上げた。

 振り返った。

 目が合った。

 女の目が少しだけ大きくなった。

 そして笑った。

「ひさしぶり」

 男も笑った。

「二十年ぶりかしら」

 女が言った。

「嘘みたい」

 本当に嘘みたいだった。

 大学を卒業して以来、一度も会っていない。同級生だ。

 それだけだった。

 恋人ではなかった。

 特別な関係でもなかった。

 それでも若いころに同じ時間を過ごした人間には、妙な親しさが残る。

 二人は館内のカフェへ入った。

 窓際の席だった。

 外では雲が切れ、陽が差し始めていた。

 噴水の水が白く光っている。

 女はシフォンケーキを頼んだ。

 フォークで小さく切り分けながら食べた。

 コーヒーを飲みながら近況を語った。

 天気の話をすると、またそんなことをと言って笑った。

「あなたは、いつも私を笑わせる」

 初夏の風が窓ガラスを震わせた。

 女は昔より痩せていた。

 だが笑うと変わらなかった。

 どこか憂いを帯びた顔立ちなのに、それが妙に愛嬌がある。

 若いころからそうだった。

 思い出した。

 うたた寝をしていた男の鼻を羽ぼうきでくすぐって、目を覚ますと彼女が言った。

「なぜくしゃみをしない?」

 男はカップを持ちながら女を見た。

 今なら羽飾りのついた帽子が似合いそうだと思った。

 一時間ほど話した。

 立ち上がった。

 出口まで一緒に歩いた。

 美術館の階段の上で別れた。

「じゃあ」

 女が手を振った。

「またどこかで」

 男も手を振った。

「いつかまた」

 女は歩き去った。

 男も反対方向へ歩いた。

 また雨が降ってきた。

 ふと気になって振り返った。

 女の姿はなかった。

 道路には車が流れている。

 信号機が変わる。

 集団が道路を渡る。

 観光用の馬車が通り過ぎる。

 高層ビルのガラス窓が夕方の光を反射している。

 街路樹の葉が風に揺れていた。

 女はいなかった。

 まるで最初からいなかったみたいに。

 男はそのままホテルへ戻った。

 第二章

 翌朝、男はホテルのロビーで新聞を手に取った。

 見出しの下に女の写真があった。

 男は最初、それが誰なのか分からなかった。

 写真は古かった。二十年前の面影に近い。

 昨日の彼女が男の記憶を更新していた。

 記事を読んだ。

 公園で死体となって発見された。

 性的暴行を受けた形跡があり、首を絞められていた。

 裸の遺体。噴水に投げ込まれた衣服。

 ガス灯に向かって伸ばされた腕。

 記事は事細かに犯行の状況を伝えている。

 誰かが?

 誰が?

 見知らぬ女を絞め殺す。

 あてにならない憶測ばかりだ。

 男は新聞を畳んだ。

 窓の外では朝の光がビルの壁を白く照らしていた。

 誰かがエスプレッソマシンを動かしている。

 食器の触れ合う音がした。

 その音だけがやけに遠かった。

 警察が来たのは、それから一時間もしないうちだった。

 ロビーの椅子に座っていると目の前に二人の刑事が現れた。

 背広姿だった。

 片方は若く、もう片方は白髪混じりだった。

 どちらも髭を生やしていない。剃り跡から安っぽいローションが匂う。

 何かを告げられた。

 男は頷いた。

 英語は分かった。

 だが言葉は頭に入らなかった。

 パトカーの後部座席に乗せられた。

 フィラデルフィアの街並みが窓の外を流れていく。

 レンガ造りの家。

 雑貨店。

 書店。

 コインランドリー。

 教会の尖塔。

 古い倉庫街。

 高架橋の下の落書き。

 すべてがゆっくり後ろへ流れていった。

 警察署は思っていたより古かった。

 石の階段。

 磨り減った手すり。

 曇ったガラス。

 中へ入ると冷房が効きすぎていた。

 誰かが書類を運んでいる。

 誰かが電話をしている。

 誰かが笑っている。

 誰も男を見ていないようで、少しだけ見ていた。

 受付の女が書類を受け取った。

 男の顔を見た。

 何も言わなかった。

 別の職員が現れた。

 男を奥の部屋へ連れていった。

 そこでしばらく待たされた。

 アナログ時計の秒針だけが動いている。

 通訳は来なかった。

 弁護士も来なかった。

 刑事も戻ってこなかった。

 廊下を行き交う人間の足音だけが聞こえた。

 昼頃になると別の部屋へ移された。

 また待たされた。

 窓のない部屋だった。

 壁の塗装が剥げている。

 数日前のコーヒーの匂いが残っていた。

 その部屋にも誰も来なかった。

 夕方近くになると再び移動した。

 職員たちは男を見る。

 だが興味を持っているようには見えない。

 無関心とも少し違う。

 まるで駅のベンチや消火器を見るような目だった。

 そこにあるものを見る目。

 ただそれだけだった。

 一度、廊下で若い女が手錠をかけられているのを見た。

 別の場所では痩せた黒人の青年が壁にもたれていた。

 薬ヤクの売人かもしれなかった。

 売春婦は男を一度見ただけで目を逸らした。

 ほんの一瞬だけ。

 好奇心でもなかった。

 非難でもなかった。

 恐怖でもなかった。

 ただ視線が交差した。

 それだけだった。

 夜になった。

 男は留置場へ連れていかれた。

 金属の扉が閉まった。

 鍵の音がした。

 誰も何も説明しなかった。

 第三章

 ベルが鳴っている。

 うるさいよ。何のベルだ?

 人は来ない。

 体を起こして、耳を澄ます。

 もう何も聞こえない。

 繭玉まゆだまの中で羽虫がたてるかすかな音だけが耳の底に残っている。

 いつのまにか朝になっていた。

 誰も何も聞かない。

 取調室にも入れられない。

 供述調書も作られない。

 ただ留置場へ入れられる。

 いったい何なのだろう、と考えるのさえ無駄な気がする。

 朝食が運ばれてきた。

 食べた。

 昼になった。

 食べた。

 夜になった。

 食べた。

 誰も話しかけなかった。

 二日目も同じだった。

 ただ、ときどき気まぐれのように独房から出された。

 廊下を歩かされる。

 別の階へ行く。

 ベンチに座らされる。

 職員たちが行き来する。

 電話が鳴る。

 笑い声が聞こえる。

 誰も男に話しかけない。

 やがて別の独房へ入れられる。

 しばらくするとまた移動する。

 それの繰り返しだった。

 まるで置き場所を探している荷物みたいだった。

 監房の小さな窓から空が見えた。

 曇っている時もあれば晴れの時もあった。

 雲が流れていく。

 それを眺めていた。

 風が強いのだろう。

 天気のことを考えると、女のことを思い出す。

 エナメルを塗った古いスチームのパイプに足を乗せた。

 壁に額を押しつける。

 冷たかった。

 男は《遺作》を思い浮かべた。

 覗き穴。

 裸の女。

 ガス灯。

 滝。

 見る者は、自分が何を見ているのか知っているつもりになる。

 だが実際には何も知らない。

 何が起こったのか。

 どうしてそうなったのか。

 見えるものの向こう側に何があるのか。

 何かを理解するには既成事実が必要だ。

 それでも人は覗き込む。

 テレビも。

 新聞も。

 警察も。

 世間も。

 底なしの穴の底は見えない。

 男は思った。

 俺なら既製品レディ・メイドの犯人役にうってつけだ。

 第四章

 五日目の夕方だった。

 男は眠っていた。

 金属の扉が鳴った。

 制服姿の職員が立っていた。

 男の名前を呼んだ。

 男は立ち上がった。

 連れ出された。

 廊下を歩く。

 階段を下りる。

 また廊下を歩く。

 何人もの職員とすれ違った。

 誰も男を見なかった。

 あるいは見ても何も感じていなかった。

 事務室を通った。

 誰かがコーヒーを飲んでいる。

 誰かがパソコンを叩いている。

 誰かが電話口で笑っている。

 男はそこを通り過ぎた。

 説明はなかった。

 謝罪もなかった。

 署名も求められなかった。

 最後の扉が開いた。

 夕方の風が吹き込んできた。

 男は外へ出た。

 背後で扉が閉まった。

 それだけだった。

 マスコミはいなかった。

 見物人もいなかった。

 男は警察署を見上げた。

 五日間、自分を飲み込んでいた場所は何事もなかったような顔をしていた。

 少し震えた。

 六月の風は涼しかった。

 通りの向こうで信号が変わった。

 バスが停まり、人が降りる。

 車が走る。

 自転車が横切る。

 日常は続いていた。

 男は角の売店で新聞を買った。

 近くのベンチに腰を下ろした。

 紙面を開く。

 女の事件の記事は一面から三面へ移されていた。

 それでも大きな見出しがあった。

 犯人逮捕。

 男は記事を読んだ。

 逮捕された男は護送中に自殺した。

 一メートル近い針金を飲み込み、その先端で胃の中に隠していたコンドームを破った。コンドームには毒薬が入っていた。

 病院へ運ばれたが死亡。

 男の携帯電話からは大量の写真が見つかった。

 事件現場の写真。

 女の顔。女の体。並べた衣服。噴水とガス灯の写真。

 死体にポーズを取らせた写真。

 記事によれば犯人は退職したドアマンだった。

 長年、市内のホテルで働いていた。

 雪の日も雨の日も。夏の日も、曇った朝も、パレードの宵も。入口に立ち続けた。

 車を迎えた。客を見送った。

 街を眺めた。

 制服を着て立ち続けた。

 瞬間と、瞬間と、瞬間の堆積。

 いくら重ねても厚みはない。

 極薄の記憶。

 男は新聞から目を上げた。

 通りを歩く人々が見えた。

 若い母親。犬を連れた老人。スーツ姿の男。観光客の一団。

 俺は彼らを知らない。

 どこへ向かっているのか。

 忙しく、あるいはのんびりと、それぞれがそれぞれの場所を目指して動いている。

 そして光を反射する艷やかなボディの無数の自動車。

 彼らは知らない。

 数日前まで生きていた女のことも。

 護送車の中で死んだ男のことも。

 男は再び記事に目を落とした。

 おそらく自分だけの景色が欲しかったのだ。

 男は考えた。

 彼女は不運だった。

 その考えにも重みはない。

 紙一枚より薄い記憶がわずかにたわみもしないほど。

 新聞を折り畳んだ。

 空は晴れていた。ちぎれた雲が流れている。

 まだ十分に明るかった。

 最終章

 そのまま、男は公園へ行った。

 事件のあった場所。新聞に載った写真を覚えていた。

 公園は静かだった。

 小道の砂利は乾いていた。

 人だかりはない。散歩する人の姿も見えない。

 ベンチには誰も座っていなかった。

 はるか遠くで機械がうなる低い音がした。

 男はゆっくり歩いた。

 庭園のバラが満開だ。

 赤。白。黄色。橙にピンク。

 それぞれの色は薄明に溶け込み重なり合う。

 小道を照らす街灯が、花園に靄をかけていた。

 生きているバラを見て死んだ女のことを考える。

 バラが香る。

 女は香水をつけていなかった。

 樹木の影が濃くなった。

 あるはずもない規制線の向こう側で展開する景色。

 ガス灯はLEDの模造品だ。

 噴水の岩肌はコンクリートだ。

 頂上から噴き上がる水が飛沫をあげ、高所に溜まった水が岩をつたって落下する。

 彼女はいない。

 それがかえって奇妙な感覚だ。

 手を伸ばす。

 女の不在が誘うのか。

 小鳥のさえずりがすぐ間近い。

 風が吹いたのだろう。

 噴水の飛沫が顔にかかった。

 涙がしょっぱいというのは本当だ。

 思い出はもう遠くなる。

 男は振り返った。

 歩き出した。

 公園の出口が近づく。

 道路の音が聞こえる。

 車のクラクション。

 誰かの笑い声。

 初夏の街の匂い。

 排気ガス。

 靴音。

 店の音楽。

 そのとき、女の最後の言葉を思い出した。

「またどこかで」

 男は小さく笑った。

「会ったじゃないか」

 声に出してみた。

 誰も聞いていなかった。

「あの場所で」

 そのまま振り返らなかった。

 男は歩き続けた。

 雲は鈍色に暮れる。

 闇がくる。

 背後の景色は消える。

 誰の記憶にも残らない。

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々不狼児

々不狼児

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