仮面の下の変顔

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/20 📝 67,723文字 ✅ 全年齢

あらすじ

<p>【①】</p><p>街角に差し込む午後の光の中で、突然歓声が上がった。</p><p>「キャー!ホントにヒューだ!」</p>

本文

【①】

街角に差し込む午後の光の中で、突然歓声が上がった。

「キャー!ホントにヒューだ!」

若い草食動物の女性グループが、目を輝かせながらボルゾイの男性を取り囲む。

長身で、細くしなやかな体躯。指先まで神経が行き届いたような所作。

ただそこに立っているだけで、周囲の空気が変わるほどのオーラを放っていた。

彼は映画スターだった。

“ヒュー”。

それは彼の代表作となった探偵映画シリーズの主人公名。

本来の芸名はスタン、そして本名はウェル。

しかし、あまりにもヒュー役が世界的にヒットしすぎていた。

彼をスタンと呼ぶものは多くない。

ましてウェルと呼ぶ者など、ほんの一握りしかいなかった。

「例のポーズ、お願いできますか?」

インパラの女性が期待に満ちた声で言う。

ウェルは軽く顎を上げ、眼鏡をクイッと押し上げる。

氷のように冷たい目つきで彼女を見下ろし、低く響く声で言った。

「俺の推理、反論できるか?」

犯人を追い詰める時の、あの決め台詞。

女性たちはゾクゾクと震えながら歓喜の声を上げた。

ウェルは微笑み、写真に収まる。

完璧なヒューとして。

---

マンションの一室。

外観からして、誰が見ても高級とわかる佇まい。

しかし室内は、足の踏み場もないほど雑多に散らかっていた。

壁一面の鏡の前に、物を押し寄せて無理やり作られたわずかな空間。

ウェルはそこに立ち、台本を手にしていた。

指の先まで意識した丁寧な動き。

堂々とした姿勢。

自信に満ちた目つきと声色。

鏡の中には、完璧なヒューがいた。

ウェルはその姿を見つめる。

見れば見るほど、声が震え始める。

動きの切れがなくなり、やがて完全に止まってしまった。

「……」

ウェルは力なくうなだれ、大きなため息をつく。

散らかった部屋の奥にある巨大なソファへ向かって歩き出す。

十数人が座れるほどのソファは、ほとんど物で埋まっていた。

辛うじて一人分だけ空いたスペースに、ウェルは体をよじらせて座り込む。

壁には額縁に入ったポスターが並んでいる。

そのほとんどが、ヒューへ贈られた記念品だった。

ソファが沈むと、周囲の物が崩れ落ちる。

ウェルの膝に転がり込んだ一枚のカードが目に入った。

“ヒューお誕生日おめでとう”

ヒューに設定された誕生日は、先週だった。

ウェルは天井をぼんやりと見上げる。

「……疲れた」

呟きは広い部屋に吸い込まれ、どこにも届かず消えた。

高貴さ。知的さ。自信家。

ヒューのキャラクターは、ウェル自身とはまったく一致しない。

素の自分を出せるのは、この部屋だけ。

ヒューというキャラクターを守るために、ウェルは誰も家に招かなかった。

ファンは世界中にいる。

お金も充分すぎるほどある。

それでも、彼を支える根幹は崩れかけていた。

「僕は……何者なんだろう?」

ウェルの頬を伝う涙を、知る者は誰もいなかった。

ーーーー

【②】

翌朝、スマホのアラームが鳴る一分前にウェルは目を覚ました。

もう何年も続く習慣で、自分でも驚くほど正確だった。

背もたれに倒れ込むように眠っていたソファからゆっくり起き上がる。

散らかった部屋の空気は冷たく、昨夜の疲労がまだ残っている。

シリアルを皿に入れ、ソファに腰を下ろす。

スマホを開くと、SNSの通知はいつものように「20+」。

アカウント名はスタン。

しかし届いているのはすべて“ヒュー”へのいいねやメッセージだった。

ウェルは画面をひと通り流し読みし、スケジューラーを開く。

歯医者でインプラントの説明を受ける予定。

マネージャーへの返信。

新作映画の台本を読む。

そして最後に、期限超過の赤い文字で表示された“カウンセリングを受ける”。

何ヶ月もチェックを入れられないままだ。

ウェルはスマホを閉じ、シリアルを一気にかき込む。

食事の味はほとんど感じなかった。

身支度に取りかかる。

この時間は、彼にとって“変身の時間”だった。

ウォークインクローゼットにはクリーニング済みのシャツが整然と並んでいる。

細い腕を袖に通し、あらゆるケア用品で身なりを整える。

鏡の前に立つと、ウェルの目つきが少しずつ変わっていく。

スタンへ。そしてヒューへ。

しばらく鏡を見つめていたウェルは、ふと神妙な表情になる。

次の瞬間、口角に人差し指を引っ掛けて引っ張り、舌を出した。

正面。横顔。角度を変えながら、自分の奇妙な顔を眺める。

「……ふふっ」

思わず笑ってしまった。

もちろん、ヒューなら絶対にこんな顔はしない。

ウェルはしばらく奇行とも言えるポーズを続け、

やがて指を外すと、表情は再びヒューのものへ戻った。

「……よし」

荷物を背負い、ガラスケースに並んだ車のキーを眺める。

普段遣いのクーペ、ウェルの好みで選んだフルサイズSUV、そして高級車の数々。

「今日のヒューなら…」キーを一つ手にすると部屋を後にした。

ーーー

コッ、コッ、コッ。

大理石の床に乾いた革靴の音が響く。

背筋を伸ばしたウェルが足早に歩く。

「おはようございます、スタンさん」

穏やかな声が背後から届いた。

年老いたウマの清掃員が、にこやかにウェルを見ていた。

「ブライさん、おはようございます。いつもご苦労さまです」

ウェルは足を止めて会釈する。

「今日は撮影ですか?」

「はい、いつものヒューです」

自分でも変な答え方だと思い、苦笑いした。

誰もいなくなった部屋。

ソファの背もたれには、昨夜ウェルが着ていたパジャマが無造作に掛けられている。

ヒューのものではない。

スタンのものでもない。

ただ、ウェルが眠るためだけに着ていた服だった。

ーーーー

【③】

「俺の推理、反論できるか?」

ヒューはゆっくりと顎を持ち上げ、長身から見下ろすようにして眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。

その眼鏡の奥に宿る瞳は、まるで氷の刃のように冷たく、一切の容赦がない。ヒューに蹴倒された犯人のシカは、その圧迫感と冷徹なオーラに思わず息を呑んだ。

「カット! はい、オッケーです!」

監督の声がスタジオに響いた瞬間、それまでセットを支配していた張り詰めた緊張感が、潮が引くように緩んだ。

「……あ、申し訳ありません。痛くなかったですか?」

直前までの冷血な探偵像は影を潜め、ウェルは恐縮したように背中を丸め、犯人役のシカの俳優へ何度も小さく頭を下げた。相手は「いえいえ! さすがの迫力でしたよ」と笑ってくれたが、ウェルは胸の奥で小さく息を吐く。いくら演技とはいえ、人に高圧的な態度をとるのは、彼の素の性格としてはどうしても心が痛む作業だった。

午前中の撮影は、恐ろしいほどスムーズに終了した。

---

午後からは一転して、本社ビルの会議室で広報チームと同席による“探偵ヒュー”のイメージ戦略会議が行われていた。

「スタン。これを見てくれ」

広報リーダーが、苦々しい表情でノートPCの画面をこちらへ向けた。

画面に躍っていたのは、悪質な芸能ゴシップサイトの見出しだった。

『探偵ヒュー。彼もまた、推理以外に興味がないただの完璧主義者か?』

『隠れゲイ疑惑のヒュー。ファンの妄想(shipping)にあらず?』

スタンに交際相手の噂が皆無であることを疑問視するフリをして、彼が演じる「探偵ヒュー」の人間性の冷酷さや偏屈さを批判へとすり替える、偏った内容の記事だった。

「君が頑なに恋人を作らないことを、ヒューが女性に興味のない、ただの不気味な推理オタクだとこじつけているようだ」

広報リーダーは分厚い眼鏡を外し、憂鬱そうにレンズを布で拭きながら溜め息をついた。

「その理屈は絶対に変です!」

バン、と勢いよく机を叩く音が響いた。

声の主は、広報チームの若いウサギの女性だった。

「ヒューは、女性に媚びないからこそ魅力的なんです!」

彼女は長い耳をピンと立たせ、勢いよく立ち上がる。

「劇中のヒューは、意図的に私生活を明かしません。そして、どんな美しい女性に対しても必要以上に媚びない。それが彼の『冷静』、『知的』、『高潔』、そして何より『ミステリアス』という絶対的なパブリックイメージを作っているんです!」

彼女はノートPCを操作し、次々とグラフや数値を提示していく。

「実際、このブランディングは女性ファンの獲得に見事に成功しています。彼女たちが熱狂しているのは、恋愛に縁がないからではなく、恋愛という俗世に媚びない彼の孤高な姿勢そのものなんですから!」

淀みなく熱弁を振るう彼女の言葉に、広報チームの面々も圧倒されていく。

「それに……ファンダムの熱量を見てください! 実際、大手二次創作サイトのAO3では、ヒューと相棒のM/Mカップリングを軸にした創作や、自分を投影する夢女子文化がものすごく活発なんです!」

「む、むじょ……なんだって?」

「『二人のキスシーンは今後絶対にある!』とか『二人は絶対に結ばれる!』とか、そういった熱いコメントが何千件も寄せられているんですよ! つまり——」

「……君」

リーダーが呆気にとられた顔で眼鏡を掛け直し、彼女の言葉を遮った。

「物凄く……詳しいんだな……」

会議室全体に、しん……と静まり返るような沈黙が訪れた。

全員の視線が一斉に自分に集まっていることに、ウサギの彼女はそこで初めて気づいたらしい。

「あ……」

ピンと立っていた耳がみるみる折れ曲がり、顔が真っ赤に染まっていく。彼女は小さく「……す、すみません」と呟くと、もじもじしながら静かに椅子へと沈んでいった。

その様子を黙って見ていたウェルは、ふと隣に座る相棒役のクロヒョウの俳優へ視線を送った。

クロヒョウもまたウェルと目が合うと、肩をすくめ、両手を広げて「やれやれ」と言いたげなおどけた表情を作ってみせた。

(……俺たち、そんな怪しい関係じゃないんだけどな)

口には出さずとも、二人の間でそんな声が聞こえた気がした。お互いに可笑しくなってしまい、ウェルと彼は同時に小さな苦笑いを漏らす。

「ゴホン!」

リーダーが大きく咳払いをし、脱線しかけた空気を引き戻した。彼はスタンを一瞥する。

「……まあ、彼女の分析通りだ。君に現実の恋人がいないことは、ファンが妄想を膨らませる上での大きな『強み』になっている」

リーダーは会議室のメンバーを見回した。

「世間やゴシップ誌から揶揄されることは今後もあるだろうが、こちらから不用意に現実のスキャンダルや恋愛を持ち込む必要は全くない。このミステリアスな路線を維持する」

「了解しました」という声とともに会議は解散となり、メンバーは各自手元の資料をまとめて立ち上がり始めた。

一人、また一人と部屋を去っていく。

ウェルだけは席に座ったまま、誰もいなくなっていく会議室の風景を静かに眺めていた。

ヒューに恋人がいないこと。それが彼というキャラクターの強みであり、ファンにとっての救いなのだ。

ウェルは、スクリーンの中で愛され、無数の人間関係を紡がれ、誰かに恋をされているヒューの姿を思い浮かべた。

ファンの瞳に映るヒューには、こんなにも誰かを好きになり、誰かに愛される人生がある。

……そして。

その架空の人生と引き換えに、自分自身の人生には何ひとつ残っていないのだという冷たい事実を、ウェルは一人静かに噛み締めていた。

ーーーー

【④】

昼休みのカフェテリアは、光に満ちていた。

壁一面を覆う巨大なガラス窓の向こうには、青々とした広い芝生の中庭が広がり、抽象的なモダンオブジェの間を社員たちが穏やかに行き交っている。大型の肉食獣でもゆったりと寛げる天井の高い空間の一角で、小さな影がひとつ、ノートPCに向かって猛然とキーボードを叩いていた。

広報チームの若いウサギ、フェナだ。

ウェルは両手に紙コップの温かいコーヒーを携え、音を立てずに彼女のテーブルへと近づいた。

「フェナさん、お疲れ様です」

「はぇ!?……ヒ、ヒュー!?」

先刻まで画面を鋭く見つめていたフェナの顔が、一瞬で間の抜けたものへと変貌した。跳ね上がるように直立した長い耳と、丸く見開かれた目。ウェルはその手慣れた反応に思わず目元を緩める。

「あはは、今はスタンですよ」

柔らかくそう告げながら、ウェルは首を少し傾けた。

「お隣、よろしいでしょうか?」

「ぜ、ぜひっ! 私なんかで良ければ! もう全然、喜んでっ!」

慌てて自分の荷物を端へ寄せるフェナの隣に、ウェルは長身を小さく折りたたむようにして腰を下ろした。

「コーヒー、空のようでしたから。もしよろしければ……」

持っていた紙コップのひとつをテーブルのすっと滑らせて差し出す。

「あっ! ああっ! ありがとう、ございます……っ!」

フェナは肩をすくめ、壊れものを扱うように何度も頭を下げた。

ウェルが自分のコーヒーに口をつけ、ゆっくりと喉を鳴らすと、フェナもまたそれにならうように慌てて紙コップに口を寄せた。しかし、その耳はソワソワと落ち着きなく揺れている。

「お仕事ですか? 凄く集中されていましたけれど」

「これは……あ、仕事というか! 私の個人的な趣味みたいなものなので! 全然、忙しいとかじゃないですっ」

彼女は跳ね上がるような動作でノートPCの画面をパタンと閉じた。隠すような仕草の可愛らしさに、ウェルはクスクスと喉を鳴らす。

「その……フェナさんの会議でのプレゼン、とても参考になりました」

「えっ……」

「私が演じているヒューとは違った世界があって、私の知らないヒューがそこにいた。……私自身、ヒューのことを何も知らなかったんだなって、少し衝撃を受けたんです」

ウェルが真摯な瞳で語りかけると、フェナは急に俯き、もじもじと指先を弄び始めた。

「あ、あれは……ファンが勝手に妄想を膨らませて盛り上がっているだけでして……」

「ええ。でも、とても面白かったですよ。本当に、ヒューにはそういう一面もあるかもしれないって思えましたから」

「……」

フェナはしばらく沈黙し、何かを迷うように視線を泳がせていた。やがて、小さく、けれど芯のある声でぽつりと言った。

「スタンさんが……ヒューという存在を信じさせてくれるから、みんな、いくらでも夢中になれるんです」

「え……?」

ウェルの手元で、コーヒーの揺らめきがぴたりと止まった。

「ヒューは、映画の中の架空の人物です。だけど、スタンさんが『この世界に本当に生きている』と思わせてくれるから。だからみんな、ヒューに憧れて、恋をして、彼の生き方や好みにまで夢中になれるんじゃないでしょうか」

先刻までの気恥ずかしそうな態度は消え去り、会議の時のような熱量が彼女の瞳に宿り始めていた。ピンと立ったウサギの耳が、彼女の興奮を雄弁に物語っている。

「スタンさんがヒューを一人の確かな人格として表現してくれるからこそ、『彼ならこう言うはずだ』『彼なら絶対にこう動く』っていうラインが見えてくるんです」

フェナは大きく一度頷き、まるで頭の中の思考を一つひとつ言葉として紐解き、確認するように語り続ける。

「だからこそ……映画で描かれていない日常のわずかな時間まで、ファンは『ヒューなら今頃きっとこうしている』って想像を広げることができる。それって……女子同士で『憧れのクラスの男子って、家ではどんな生活してるんだろうね』ってキャッキャ話し合うみたいで……嬉しくて、たまらなく楽しいんです」

その顔は、冷徹な分析をする広報部員のものではなく、恋する少女そのものだった。

熱弁の途中でウェルと目が合うと、フェナはハッと我に返り、勢いよく顔を背けて縮こまった。耳がみるみる赤く染まっていく。

「あ……その……すみません、私ったら出しゃばって……」

「いえ!」

ウェルは弾かれたように声を上げた。

「いまので、すごく理解できました。……僕、ちゃんと役者をやれてたんですね。あははははっ」

フェナは驚いたように顔を上げた。

“僕”という柔らかな一人称。そして、ヒューという氷の探偵なら絶対に口にしないであろう、どこか幼さと愛嬌の混ざった無邪気な笑い声。

それは「探偵ヒュー」というキャラクターから見れば、完璧な解釈違いだった。かと言って、メディアの前に立つ洗練された「俳優スタン」ともどこか違う。

ウェルの目元には、微かに滲んだ涙が光っていた。フェナの不思議そうな視線に気づくと、彼は「あっ……失礼」と慌てて胸元を直し、背筋を正した。

微かな静寂が、二人の間に流れる。

「……みんな、ヒューのことが本当に好きなんですね」

ウェルの呟きに、フェナは少し首を傾げ、素直な疑問を口にした。

「スタンさんは……ヒューのことが好きですか?」

「……私?」

ウェルは問い返したものの、言葉に詰まった。好きか、嫌いか。本来ならシンプルで、ファン向けのインタビューなら「もちろん愛していますよ」と即答すべき質問。

けれど、彼の口から出たのは、曖昧な躊躇いだった。

「……どうなんでしょうね」

「え? では、嫌いなんですか……?」

フェナの表情に不安の色が混じる。ウェルは手元の紙コップに視線を落とした。暗い褐色の液体に、自分の揺れる影が映っている。

「長いこと、彼は私の一部ですから」

息をひとつ挟み、ウェルは静かに言葉を紡ぐ。

「……好きとか、嫌いとか。そういう次元のものじゃなくなってしまったのかもしれません」

「そういうもの……なんですね……」

フェナは複雑な表情で頷いた。あんなにも完璧にヒューを体現しているスターなのだから、当然「大好きだ」という答えが返ってくるものだと思っていたのだ。

身体の一部。たしかにそうなってしまえば「好きか嫌いか」という問い自体が無意味になる。「自分の声や自分の顔が好きですか?」と聞かれているようなものだからだ。

しかし、フェナは彼が纏う空気の奥底に、それだけでは説明のつかない「別の何か」を感じ取っていた。

少しの間の後、フェナは気を取り直したように微笑んだ。

「でも、私はヒューが好きです。すごく、好きです」

少し照れくさそうに笑いながら、指を折り折り語る。

「格好いいし、頭もいいし、絶対に人に媚びないし……」

ウェルはまるで妹の甘い恋愛相談でも聞くように、穏やかに頷いていた。

「でも……」

そこでフェナは言葉を切り、まっすぐにウェルの瞳を見つめ直した。

「私、スタンさんのことも、もっと知りたいです」

「え?……私を、ですか?」

思いもよらぬ言葉に、ウェルは素で目を丸くした。

「はい」

「どうして……?」

「だって、ヒューを作っている人ですから」

フェナは可憐に笑った。

「ヒューがどんな人なのか、ファンとして想像するのはすごく楽しいです。でも……そのヒューを演じているスタンさんがどんな方かってのも私は知りたいんです」

フェナがカップの縁をなぞる。

「ヒューには明確な答えがないけれど、スタンさんには答えがある。答え合わせができるじゃないですか」

二人の瞳が合う。

「私は……」

ウェルは一瞬、息を呑んだ。

脳裏をよぎったのは、昨夜の足の踏み場もない荒れ果てた部屋。十数人用のソファの隙間に小さく丸まり、ひとり静かに頬を濡らしていた、惨めで空っぽな自分の姿。

「……たぶん、がっかりしちゃいますよ」

ぽつりと漏れた弱音。しかし、フェナは即座に首を振った。

「それは……ヒューのイメージをそのままスタンさんに押し付けちゃうから、そう感じてしまうんじゃないでしょうか?」

彼女は両手で包み込むように紙コップを持ち上げた。

「だって、こうしてコーヒーを差し入れしてくれるなんて、間違いなくヒューじゃなくて『スタンさん』の優しさですもの」

フェナはドヤ顔をつくり、格好よくキメたつもりでそのままコーヒーを口に含んだ。

「あちっ!?」

勢いよく含みすぎて熱がった彼女は、目を白黒させて口元を押さえた。そのお茶目すぎる失敗に、ウェルの緊張の糸がプツリと切れた。

「ふっ……あはっ!」

ウェルは思わず吹き出し、お腹を押さえて笑った。

「あ、今の笑い方も、ヒューじゃないですよね」

口元を押さえたままフェナが言った瞬間、ウェルの表情がぴたりと固まった。

ヒューの笑い方ではない。

そして、カメラの前で見せる俳優「スタン」の洗練された笑い方でもない。

ウェルはゆっくりと視線を落とし、胸の奥で温かな何かが解けていくのを感じていた。

「……確かに」

静かに、自分に言い聞かせるように呟く。

「……当たっていると、思います」

ガラス窓の向こうでは、昼休みを終えた社員たちが少しずつオフィスへと戻り始めていた。ウェルはその光景をぼんやりと眺めながら、自分の中で芽生えた奇妙な感覚に思いを巡らせていた。

自分が知り得なかった、物語の中のヒュー。

ファンが愛を注ぎ込み、作り上げたヒュー。

そして今、目の前の女性がほんの少しだけ興味を持ってくれた、スタンという人間。

その三つが、初めて同じ陽光の下で、並んで立っているような気がした。

そして今、自分が彼女に見せたのは――「ヒュー」でもなく「スタン」でもない、素の「ウェル」の笑い声だった。

ーーーー

【⑤】

カフェテリアでの会話から数日後。

ウェルは久しぶりに、胸の奥が小さく跳ねるような心地よさを覚えていた。

「もしよろしければ……今度、休日にランチでもいかがですか?」

そう声をかけた時のことだ。跳ね上がったフェナのウサギ耳と、驚きに満ちた丸い瞳が今も鮮明に焼き付いている。

彼女が知りたがっているのは「俳優スタン」だ。けれどウェルにとっては、自分がずっと暗闇の奥深くに隠し続けてきた「ウェル」という本来の自分までもが、ほんの少しだけ光の当たる場所へ引っ張り出してもらえるような、不思議で淡い期待を抱かずにはいられないお誘いだった。

約束の日は、雲ひとつない晴天に恵まれた。

街外れの落ち着いたイタリアンレストラン。

テラス席から注ぐ柔らかい陽光が、白いテーブルクロスの上に綺麗な陰影を作っている。変装のために浅く被っていたキャスケット帽を脱ぎ、ウェルは向かいに座るフェナに穏やかな視線を向けた。

「急なお誘いでしたのに、お時間をいただきありがとうございます」

「い、いえっ! そんなそんな! 私なんかで本当によかったんでしょうか……!」

フェナは落ち着かない様子で、何度も周囲をキョロキョロと見回している。どこか浮足立っている彼女の様子に、ウェルは少しおどけた調子で微笑みかけた。

「フェナさんだから、お誘いしたんですよ?」

「……っ!」

食事が運ばれてくると、空間は和やかな空気に包まれた。

ウェルは撮影現場でのちょっとした裏話を披露し、フェナは広報の立場から感じている仕事のやりがいを生き生きと語る。会話の合間にも、ウェルはフェナのグラスの水が減っていればこまめに注ぎ足し、取り皿をさりげなく彼女の近くへ差し出すといった細やかな気配りを欠かさない。

(……すごいな)

フェナは目の前の紳士的な挙動を見つめながら、胸の奥をキュッと掴まれるような感覚を覚えていた。

公の場で見せる堂々とした態度と、大人の余裕。それでいて、ふとした瞬間に覗かせる幼さを残した笑い方や親しみやすいおどけ方。ヒューという完璧な氷の探偵とはあきらかに異なる「俳優スタン」だけの特別な魅力。自分は今、ファンなら誰もが羨むような“スタンの普段見せない素顔”に触れているのだと、フェナは胸を躍らせていた。

やがて食事が一段落した頃、フェナはふっと表情を和らげ、興味深そうに身を乗り出した。

「あの……スタンさん。ずっと聞いてみたかったんです。予定のない休日って、どんなふうに過ごされているんですか?」

ごくありふれた、日常の問いかけ。

けれど、それこそがウェルにとって最も恐れていた質問だった。

一瞬、ウェルの思考がぴたりと止まる。

「俳優スタン」として答えるならば、『次回作の台本を読み込み、クラシックを聴きながら静かに紅茶を嗜んでいます』とでも優雅に繕うべきだろう。

けれど、彼の脳裏に瞬時に浮かび上がったのは――足の踏み場もなく物が散らかり返った暗い部屋。十数人用の巨大なソファの片隅で小さく膝を抱え、ただ一人で涙を流している、惨めで空っぽな己の姿だった。

ウェルは手にしたフォークをそっと皿の脇に置いた。

胸の奥で、激しい葛藤が渦を巻く。失望されたくない、嫌われたくない。けれど……彼女には、ほんの少しだけでも「ウェル」の欠片を見せてみたい。

「……恥ずかしい話なのですが」

ウェルは視線をほんの少し落とし、気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。

「私は、自分の時間を過ごすことが驚くほど下手なんです」

「え……?」

「部屋も……とても散らかっていますし。休日になると、ヒューから私にバトンタッチされたみたいで……どう過ごしたらいいのか、分からなくなってしまうんです」

言葉を口にした瞬間、周りの時間が凍りついたように感じられた。

冷や汗が背筋をスッと伝い落ちる。ウェルは猛烈な後悔に襲われた。「やってしまった」と。こんな情けない弱音、ファンである彼女に聞かせるべきではなかったのだ。せっかくの夢を壊してしまう。

しかし、フェナの反応はウェルの予想とは全く異なるものだった。

彼女は引き下がるどころか、長い耳をぽてんと前に倒し、心底愛おしそうな優しい瞳でウェルを見つめていたのだ。

「……ふふ、良かった!」

フェナの口からこぼれたのは、あたたかな笑い声だった。

「スタンさんは、完璧じゃないんですね」

「え……?」

思いもよらぬ言葉に、ウェルは目をぱちくりとさせて彼女を見返した。

「ヒューならまだしも、スタンさんまで完璧な人間だったら……もう完全に、遠い別の世界の人みたいに感じてしまっていたと思います」

フェナは両手で包み込むように温かいスープカップを持ち上げると、心からの笑みを向けた。

「でも……スタンさんも一人の人間なんだなって思えると、近くにいる感じがして……なんだが、すごく嬉しいです」

ウェルの胸の奥で、何かが確かに熱く動いた。

「俳優スタン」という仮面越しではある。けれど、彼は確かに自分の素顔の一部を目の前の少女にさらけ出し、そしてそれを丸ごと温かく肯定されたのだ。

(こんな情けない僕を見ても、フェナさんは笑わなかった…)

熱いものが一気に目元へと押し寄せてくる。

「……ありがとう」

込み上げる涙を必死に堪えようとして、ウェルは端正な目元とシャープで長いマズルをくしゃくしゃにして笑った。感情の整理がつかないまま浮かべたその笑みは、あまりにも無防備で、あまりにも愛くるしかった。

「あ……」

その崩れた表情の凄まじい愛おしさに、今度はフェナの方が激しく動揺した。バツが悪そうに視線を泳がせ、パタパタと耳を揺らしながら、慌ててスープをゴクゴクと啜って誤魔化そうとする。

フェナの胸の中に、小さな疑問の芽がぽつりと落ちた。

スタンと接していると時折感じる、あの不思議な感覚。ヒューの演技でもなく、メディアで見せるスタンの洗練された振る舞いでもない、どこか幼く儚いもの。

――これを「スタンの普段見せない一面」と片付けてしまって、本当に合っているのだろうか?

フェナはスープカップ越しに、照れくさそうに目元を拭う彼を密かに見つめていた。

自分たちが今、どれほど無防備な笑顔を交わし合っているかも、そしてその穏やかなひとときがどのような形で切り取られているかも知らぬまま、陽光あふれるテラスでの時間は優しく過ぎていった。

ーーーー

【⑥】

数日後。社内の広報チーム会議室の空気は、重く冷え切っていた。

「……これを見てくれ」

広報リーダーがデスクに突き出したタブレットの画面には、ゴシップサイトの大見出しが躍っていた。

『探偵ヒュー、極秘デート!? 謎の草食動物女性と密会現場をキャッチ!』

粗い画質の盗撮画像には、テラス席で和やかに微笑み合うウェルとフェナの姿が写し出されていた。

「相手が身内の広報スタッフだと分かれば、『職権濫用』『ヤラセのイメージ戦略』と叩かれる。どちらにせよ、ヒューのミステリアスなブランド価値には大打撃だ」

リーダーの冷酷な声が室内に響く。ウェルは拳を強く握りしめた。

「フェナさんは……彼女はどこですか!? 彼女はただ、私の……」

「フェナ君なら、すでに指示を出した」

リーダーは冷淡に眼鏡を押し上げた。

「彼女には当面の間、完全リモートワークでの自宅待機を言い渡してある。君と彼女が社内で接触するのも避けてもらう。……言わば、相互の接触禁止措置だ」

「そんな……! 彼女は何も悪くありません! 私が誘ったんです!」

「スタン、君が守るべきはヒューのイメージだ」

言葉が出なかった。喉がカラカラに乾き、世界が遠のいていくような感覚に襲われる。

フェナは自分よりも先に呼び出され、処分を言い渡されていたのだ。広報チームのメンバーとして誰よりもヒューを愛し、そのイメージを守ろうとしていた彼女が、自分と食事をしたせいで責められている。

『私、スタンさんのことが知れて……すごく嬉しいです』

あの眩しい笑顔が、頭の中で壊れていく。

僕のせいで。僕が……「ウェル」なんていう余計な自分を出そうとしたせいで、彼女を傷つけてしまった。

その後の撮影がどう終わったのか、ウェルは全く覚えていなかった。

失意と激しい自責の念に押し潰されながら、彼は逃げるようにマンションのエントランスへと辿り着いた。背筋を伸ばす気力すらなく、深々と帽子をかぶり、床だけを見つめて歩く。

「……スタンさん?」

穏やかな声が、静まり返ったエントランスに響いた。

振り返ると、清掃員の服を着た老馬のブライが、モップの手を止めて心配そうにこちらを見つめていた。

「……ブライさん」

「顔色がひどく悪いようだ。……何か、お辛いことでも?」

いつもなら「大丈夫ですよ」とスタンの笑みを貼り付けるはずだった。けれど、今のウェルにはその仮面を拾い上げる力すら残っていなかった。ただ、力なく首を振ることしかできない。

ブライは深々とため息をつくと、優しく目元を細めた。

「……もしよければ、私の部屋で温かいお茶でもいかがですか。……お話なら、いくらでも伺いますよ」

ウェルは断る気力もなく、吸い寄せられるように、老清掃員の差し出した小さく温かな手について歩き出した。

ーーーー

【⑦】

ブライに促されるまま、ウェルは彼の自宅へと足を運んだ。そこは築年数の深さを感じさせる、静かな古びたアパートだった。

二人分の温かい紅茶が注がれたカップ以外、キッチンに余分な食器は見当たらない。シンプルで控えめな室内のレイアウトからは、彼が長年、静かな独り身の暮らしを営んできたことが伺えた。

しかし、リビングに足を踏み入れた瞬間、ウェルは息をのんだ。

そこはまるで、小さな美術館だった。部屋の一角に置かれたガラスケースには、スタンのサイン色紙や限定の記念品が大切に飾られている。決してコレクションの数を誇るような乱雑さはなく、厳選された品々が整然と、丁寧に並べられていた。ブライという男の静かな美学と、成熟した大人ならではの趣味の楽しみ方が、その空間全体から滲み出ている。

ブライは、スタンが「ヒュー」として世界的なメジャー俳優になるずっと前——駆け出しの泥くさい時代からの熱心なファンだったのだ。棚には、彼のデビュー作から最新作に至るまでの歴代出演作品のDVDが、年代順にきれいに並べられていた。

マンションの清掃員として、ブライはファンであるスタンと日常的に顔を合わせていたことになる。だが彼は、決して彼のプライベートを踏みにじるような真似はしなかった。一人の節度あるファンとして、絶妙で温かな距離感を保ちながら「ウェル」という青年に接してきたのだ。

「これなんかは、特に名作でね」

「これは……ああ、これは懐かしいな」

ブライは並べられたDVDケースの中から、少し焼けた一枚を取り出した。パッケージには、今のスタンとはまるで違う、頬の丸みが残る若い顔が写っている。

「これはコメディだったね。刑事もののパロディで……君が、間抜けな新人捜査官の役をやっていた」

「……ああ、そういえばそんな役もやりましたね」

ウェルの声は、記憶の底を探るように緩慢だった。

ブライは目を細め、ケースの裏の写真をしばらく眺めていた。

「この役の、間抜けなポーズがあってね」

そう言うと、彼は前触れもなく、口角に指を引っ掛けるようにして頬を歪め、舌をわずかに覗かせた。

芝居がかったふうでもなく、ただ懐かしい癖を蘇らせるような、緩やかな動き。

「……こんな顔で、犯人の推理を外すたびに、この決め顔をするんだ。すると“プァ〜ン“と間の抜けた音がなってね」

「今思えば、随分と子供っぽい演出だったが私は好きだったよ…。それくるぞ!ってワクワクしたものだ」

ブライは照れくさそうに笑い、指を離した。

ウェルは、動けなかった。

コーヒーカップに伸ばしかけていた手が、宙で止まっている。

――それは。

今朝も、鏡の前でしていた顔だった。

誰も見ていないはずの、あの部屋だけで許されるはずの、たったひとつの逃げ場所。

それが、忘れていたはずの、遠い昔の“役”の欠片だったなんて。

「……その顔、僕……」

声が、掠れて消えた。

ブライは気づかぬまま、次のケースへと手を伸ばしている。

「この頃の君は、本当に楽しそうに見えたよ」

独り言のように、ぽつりと零された一言だった。

「演技というより……なんというか、素の君が、そのまま画面に映っているような。そんな感じがしてね」

ブライはそう言うと、もう次のDVDのパッケージに視線を移していた。彼にとってそれは、数ある思い出のひとつを口にしただけの、他愛のない一言に過ぎなかったのだろう。

しかし、ウェルの中では、何かが静かに軋んだ。

楽しそうだった。

自分が。

それは、今の自分にはあまりにも遠い言葉だった。

膝の上に置いた手のひらに、じわりと汗が滲む。

薄暗い部屋の中、テレビの光だけが、ウェルの強張った横顔を淡く照らしていた。

「……ブライさん」

かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど頼りなかった。

ブライが顔を上げる。

「……その頃の僕は、本当に、楽しかったんでしょうか」

問いかけているのか、独り言なのか、自分でも判然としない呟きだった。

ブライは少しの間、ウェルの顔を見つめていた。

そして、静かに目を細めた。

「そうだな。少なくとも、私にはそう見えていたよ」

---

沈黙が落ちた。

テレビの砂嵐のような静かなノイズだけが、薄暗い部屋に満ちている。

ウェルは俯いたまま、膝の上の手を握りしめていた。何か言葉を返さなければと思うのに、喉の奥で言葉がまとまらない。

ブライは急かすことなく、ゆっくりとお茶を一口含んだ。

「……そういえば」

やがて、思い出したように口を開く。

「昔、テレビでスタンのインタビューを見たことがあってね。君がデビューしてすぐの頃の」

「インタビュー……」

「聞き手の質問に答えている途中で、君、一瞬だけ名乗ってしまったんだ。“スタン”ではなく、別の名前を」

ウェルの肩が、小さく強張った。

「その時のインタビュアーは何も気づかなかったようだったが……私はなぜだか、ずっとその箇所だけ覚えていてね」

ブライは目を細め、記憶を辿るように宙を見た。

「“ウェル”。……確か、そう言っていたね」

その名を呼ばれた瞬間、ウェルは息を止めた。

何年も、誰にも呼ばれたことのない名前。自分自身でさえ、忘れかけていたはずの響き。

「……知って、いたんですか」

かろうじて、声を絞り出す。

「ああ」

ブライは、あっさりと頷いた。

「それだけだよ。他には何も。ただ、覚えていた」

まるで、道端で拾った小石をそっとポケットにしまっておいた、というような口ぶりだった。

そこに他意はない。詮索も、下心も、何もない。

ただ、覚えていた。それだけ。

ウェルの目の奥が、じん、と熱を持った。

「……どうして、そんな些細なこと」

「さあ。どうしてだろうね」

ブライは小さく笑い、DVDケースの山に視線を落とした。

「ただ、私は君のことが、ずっと好きだったから」

あっさりとした、しかし迷いのない言葉だった。

「スタンという役者としても。……その前の、右も左もわからない様子で演技をしていた、あの頃の君も」

ブライの声が、わずかに柔らかくなる。

「正直に言うとね」

そこで、ひと呼吸置いた。

「近頃の君を見ていると、少し……寂しくなることがあるんだ」

「……寂しく」

「ヒューという役が、あまりにも見事に板についてしまってね」

ブライは、テレビの中で静止したままの、若い頃のウェルの顔を見つめていた。

「毎朝、挨拶をする度に、思うんだ。……今日の君は、どちらの君なんだろうか、と」

「……」

「スタンなのか。それとも、もうずっと、ヒューのままなのか」

淡々とした声だった。責めるでも、憐れむでもない。ただ、長年見てきた者だけが持つ、静かな観察だった。

「私はもう若くない。君の映画を、これから先どれだけ観られるかもわからない。……だからこそ、時々思うんだ。あの、右も左もわからなかった、不器用で、けれど楽しそうだった君にもまた会ってみたい、とね」

ウェルの視界が、じわりと滲んだ。

堪えようとしたが、堪えきれなかった。

一筋、また一筋と、頬を伝う。

「……すみません」

震える声で、ウェルは呟いた。

「僕……ずっと」

言葉が、うまく繋がらない。

「ずっと、誰にも、言えなくて」

嗚咽が漏れる。もう、取り繕う余裕もなかった。

「疲れたって、寂しいって……そんなこと、誰にも言えなくて。だって……僕は、恵まれているはずだから。ファンもいる。お金もある。それなのに、寂しいなんて言ったら……」

ウェルは、両手で顔を覆った。

「贅沢だって、思われる。……こんなこと、口にすることさえ、恥ずかしくて」

嗚咽の合間に、途切れ途切れの言葉が零れ落ちる。

「今の僕は、僕から、ウェルが、いなくなってしまったのではないでしょうか?」

ブライは何も言わず、ただ静かに、その言葉を聞いていた。

慰めの言葉も、安易な励ましも、口にしなかった。

ただ、そこに座り、震える背中を見つめていた。

しばらくして、ブライはゆっくりと立ち上がると、隣にあった小さな戸棚から、一枚の古びた写真を取り出した。

「これを」

差し出されたのは、ずいぶん昔の劇場のロビーで撮られたらしい、粒子の粗い写真だった。

舞台挨拶か何かだろうか。まだ幼さの残る顔立ちのスタンが、ぎこちない笑顔でピースサインをしている。

「君はこんな風な笑顔を私に見せてくれた時があった。きっと余程嬉しい事があったんだろうね」

ブライは静かに言った。

「きっとあの笑顔がウェルが今もいる証拠だと思うよ」

ウェルは涙で滲む目で、その写真を見つめた。

「……そう、思いますか」

「ああ」

ブライは、ゆっくりと頷いた。

「でなければ、今、こんなにも泣けはしないだろう」

その言葉に、ウェルはくしゃりと顔を歪め、また涙をこぼした。

けれど、それは先ほどまでとは、どこか違う涙だった。

薄暗い部屋の中、テレビの光と、ブライの静かな眼差しだけが、ウェルを照らしていた。

誰も知らなかった涙を、初めて誰かが見ていた。

ーーーー

【⑧】

「カット! ……お疲れ様でした、今日はここまで!」

スタジオの照明が落ち、フロアに解散の声が響く。

監督の声に、スタッフたちが一斉に緊張を解いた。しかし、その場に漂う空気はどこか重い。

今日だけで、NGが十七回。

いつもなら数回で通る台詞回しに、ウェルは何度も詰まり、あるいは間を外し、最後にはただ立ち尽くすようにして台本を見つめていた。

「スタンさん、大丈夫ですか……?」

若いスタッフが遠慮がちに声をかけたが、ウェルはただ力なく頷くことしかできなかった。

控室へ向かう廊下、ウェルは俯いたまま歩いていた。

――フェナは、今どうしているだろう。

あの日以来、広報チームからは「しばらく距離を置くように」とだけ告げられ、それ以上の情報はなかった。

自分のせいで、彼女の居場所を奪ってしまったのではないか。

そんな考えばかりが、頭の中をぐるぐると巡っていた。

「おい、スタン」

背後から、快活な声が飛んできた。

振り返ると、衣装をラフに着崩したクロヒョウの男――レノが、片手をひらひらと振りながら近づいてくる。

「今日のお前、酷いもんだったな」

「……すみません」

「謝ることじゃねえよ。人間、たまにはそういう日もある」

レノはウェルの肩に、ぽんと軽く手を置いた。

「付き合え。奢ってやる」

「え……」

「いいから」

有無を言わせぬ調子だった。レノはそのまま、返事も待たずに歩き出す。

ウェルは戸惑いながらも、その背中を追った。

---

連れて行かれたのは、繁華街から少し外れた、落ち着いた雰囲気のバーだった。

薄暗い照明の下、カウンターの奥にひっそりと構えるその店には、他に客の姿もほとんどない。

「ここなら、面倒な連中も寄ってこねえ」

慣れた様子でスツールに腰を下ろすと、レノはバーテンダーに軽く手を上げ、何かを注文した。

ウェルもその隣に、静かに腰掛ける。

しばらく、二人とも無言だった。

グラスがカウンターに置かれる音だけが、静かに響く。

「……で」

レノが、琥珀色の液体を揺らしながら口を開いた。

「何があった」

「え……」

「隠したって無駄だぞ。お前の演技見りゃ一発だ。台本以前に、目が死んでた」

ウェルは、グラスに視線を落とした。

「……フェナさんのことです」

「ああ。広報の、あのウサちゃんか」

「僕と一緒にいたことが、記事になってしまって……。それで、会社から、しばらく彼女と会わないようにと」

「聞いてる」

「……」

「それで? 会えないのが辛い、で終わりか?」

レノの問いに、ウェルは首を振った。

「違います。……僕が、彼女を巻き込んでしまったんです。彼女は広報のメンバーなのに、僕のせいで、立場を悪くさせてしまった。……なのに、謝ることも、労うことも、何もできていない」

言葉にすると、これまで押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れてくる。

「彼女が今、どんな気持ちでいるのか、何も分からなくて……」

グラスを持つ手が、微かに震えていた。

「僕は、また、大事な人を傷つけたまま、何もできずにいます」

しばらくの沈黙の後、レノは大きく息を吐いた。

「……なるほどな」

そして、突然、豪快に笑い出した。

「な、なにが可笑しいんですか」

「いや、悪い悪い」

レノはグラスを呷り、ニヤリと笑った。

「お前、真面目すぎんだよ」

「……真面目、ですか」

「会社が接触禁止にしたんだろ? なら、俺が間に入りゃいいだけの話じゃねえか」

「え……」

「俺は禁止された覚えもねえ。だったら、俺が伝書鳩になってやるよ」

あっけらかんとした口調だった。

「そんな、簡単に……」

「簡単だろ。ルールってのは、破っていい時と悪い時があるんだよ」

レノはニヤリと口角を上げる。

その顔は、劇中でヒューに無茶な提案をする相棒役の顔と、寸分違わなかった。

演じているのか、素なのか。その境界すら、ウェルにはもう分からなかった。

いや――境界など、最初からないのかもしれない。

「お前、いつも難しく考えすぎなんだよ」

レノはグラスを傾けながら、続けた。

「役だろうが素だろうが、大事な相手に謝りたきゃ謝る。会いたきゃ会う。それだけだろうが」

あまりにも単純な理屈だった。

しかし、その単純さが、今のウェルには眩しかった。

台本の上でも、台本の外でも、彼はいつも同じ顔をしている。

裏表がない。演じることに苦しんでいる様子もない。

――羨ましい。

そう思うと同時に、じんわりとした温かさが、胸の奥に広がっていくのを感じた。

「……レノさんは、いいですね」

「あ?」

「ヒューの相棒でいる時も、今、こうして僕と話している時も……同じ、レノさんのままだから」

レノは一瞬、意外そうに眉を上げた。

「そんなの、当たり前だろ」

「……当たり前、ですか」

「役は役、俺は俺だ。混ぜる必要がどこにある」

事も無げに言い放つその言葉が、今のウェルにはどれほどの救いになったか、レノ自身は気づいていないのだろう。

ウェルは、グラスの中の氷が溶けていくのを、しばらく見つめていた。

「……お願いしても、いいですか」

やがて、静かに口を開く。

「フェナさんに、伝えてほしいことがあります」

「おう」

「ただ……」

ウェルは、一度言葉を切った。

「“スタン”としてじゃなく……。ちゃんと、僕自身の言葉で、伝えたいんです。彼女を巻き込んでしまったこと。それでも、ちゃんと、感謝していること」

これまで、ヒューとしての言葉、あるいはスタンとしての当たり障りのない言葉ばかりを紡いできた自分。

けれど今度だけは、着飾らない、剥き出しの言葉で伝えたかった。

レノは、ふっと目を細めた。

「……いいじゃねえか」

その声には、からかいも茶化しもなかった。

「紙とペン、貸してやろうか」

「……はい」

ウェルは、小さく、しかし確かに頷いた。

薄暗いバーの片隅で、ウェルは静かにペンを取った。

ーーーー

【⑨】

ピンポン、と自宅のインターホンが鳴った。

広報部からの自宅待機を言い渡されてから数日。罪悪感に押し潰され、カーテンも開けずに薄暗い部屋で丸まっていたフェナは、びくっと耳を跳ね上げた。おそるおそるドアのスコープを覗き込む。そこに映っていたのは、帽子を深々と被った見上げるような巨躯だった。

ドアを少しだけ開けると、その人物はニッと八重歯を覗かせた。

「やあ、お邪魔するぜ」

「はへ!?……ロ、ロイドさん……!?」

劇中での「探偵ヒュー」の相棒役の名を叫び、フェナは素っ頓狂な声を上げた。

「あはは、今はレノだけどな」

黒毛の頭をポリポリと掻きながら、レノは豪快に笑った。フェナが慌てて部屋の中に招き入れると、大型肉食獣である彼の巨体は、小さなワンルームの天井を心なしか低く見せた。

レノはひとつ、ぐるりと部屋を見渡した。壁の一角、几帳面な水平を保って掛けられた一枚のポスターに、彼の視線が留まる。

探偵ヒューが決めポーズを取る、見慣れた公式のビジュアルだった。

「小綺麗にしてんな。もっとヒューだらけの部屋をイメージしてたよ」

何気ない一言だったが、フェナはなぜか一瞬だけ肩を強張らせた。

「え、ええ。まあ……お客さんも来ますし」

その微妙な間に、レノは特に気を留めることもなく、豪快な笑みのまま部屋の中央へと進む。

部屋を見渡すこともそれ以上せず、ポケットから折りたたまれた一枚の紙を取り出した。

「単刀直入に言うぜ。俺はスタンのメッセンジャーだ。あいつから『これを届けてくれ』って頼まれてな」

「スタンさんから……!?」

フェナの息が止まった。接触禁止令が出ているはずなのに。何より、自分が彼のイメージを傷つけ、迷惑をかけたというのに。

「私……ずっと、スタンさんに謝りたくて……。私の軽率な行動のせいで、彼にまでご迷惑を……」

「まあ待て。反省会ならこれ読んでからにしてくれ」

レノは身をかがめ、フェナの目線に合わせてその紙を差し出した。

受け取った便箋を開いたフェナは、思わず目を丸くした。そこに書かれていたのは、印刷された整然とした文字でも、パブリシストが用意した完璧な文章でもなかった。

自らの軽率な行動でフェナを傷つけ、遠ざけてしまったことを心から悔い、何度も言葉を推敲した跡が伺える切実な謝罪の数々。

そして、何よりも、ミステリアスで完璧な探偵ヒューを演じる人物の書いたものとは、到底思えないほど不器用で、たどたどしい筆跡だった。

「レノさん、これ……」

「正真正銘、スタンの直筆だぜ。驚いたか?」

レノは大きな体をソファに預け、長身を折るようにして背もたれに深く沈み込んだ。

「あいつ、格好つけてるけど実は要領が悪い……あー、平たく言やぁ、バカなんだよ」

「え……?」

「あの『名探偵ヒュー』シリーズが立ち上がった頃からの付き合いだけどさ」

レノは太い腕を組み、天井を見上げて懐かしそうに目を細めた。しっぽが床をポンポンと心地よいリズムで叩く。

「あの役、あいつが選ばれたのは完全に『ルックス』だ。高貴で、シュッとしてて、冷たそうな顔立ちをしてるだろ? でもな、ヒットする前のあいつは、撮影の合間にくだらねぇことで子供みたいに大笑いしたり、変顔してスタッフを笑わせるのが大好きな奴だったんだぜ」

「そう……なんですか!?」

フェナは便箋を抱きしめたまま、信じられない思いで声を上げた。

「おうよ」

レノは身を乗り出すと、口角に指を引っ掛けるようにして頬を歪め、舌をわずかに覗かせた。

「こんな顔してな。『ほへの推理、反論へひふか?』なんて決め台詞を自分で台無しにして遊んでたんだ」

「ふふっ……!」

あまりにも間の抜けた顔真似に、フェナは思わず吹き出してしまった。レノは満足そうに顔を元に戻し、今度は少し真面目な顔つきになって腕を組んだ。

「だけど……ヒューが大ヒットして、世間がスタンの中にまで『ヒュー』を求めるようになってから、そういうお茶目な部分はすっかり影を潜めちまった」

レノの黄昏色の瞳が、フェナを真っ直ぐに見つめる。

「実際、俺が今話したことって、フェナさんが持ってる『俳優スタン』のイメージとはだいぶ違うだろ?」

「ええ……まあ、そうですね。すごく……驚いています」

「そんくらい、あいつは必死にヒューのイメージを守ってきたんだよ。自分の素を全部抑え込んでな」

レノは大きな手で自分の首のあたりをトントンと叩いた。

「あいつはバカなのはいいけど、バカ真面目なんだ。頑固で、一途で……あ、そうそう!」

思い出したようにレノが手をポンと打つ。

「車だって、本当はデカいのが好きでさ! ヒューが乗るようなスマートな高級スポーツカーより、鉱山で土砂を運ぶような超大型のダンプトラックに乗りたいとか抜かすんだぜ? 街で走らせたら電柱なぎ倒すっつーの!」

レノはガハハと大声で笑い、膝を叩いた。フェナはその豪快な笑い声を呆気にとられて見つめていたが、ふと我に返り、真顔で尋ねた。

「あの……それって、今の話に関係ありますか?」

「大ありだろ!」

レノは笑いをピタリと止め、指を一本立ててフェナを指した。

「あいつがフェナさんをランチへ誘ったのだって、あいつにとっちゃ『超大型ダンプカーに乗りたい』って言うくらい、命がけでひねり出した素のワガママだったってことさ」

レノはフェナへ向けた指を自身の後頭部に移し、少しバツの悪そうにしながら頭を掻く。

「あいつはいま、フェナさんを巻き込んだって悩み続けて現場でボロボロだ。ヒューの仮面も崩れかけてる」

レノは入口のドアへ向かいながら、振り返ってニッと笑った。

「もしフェナさんにその気があるなら、あいつに返事書いてやれよ。『がっかりなんてしてない』ってな。……俺が責任持って、あいつの手元に届けてやるからさ」

ドアが閉まり、静寂が戻った部屋。

フェナは胸元に抱えた便箋へと視線を落とした。

不器用で、拙い文字。

ヒューの冷たさも、スタンの洗練された美しさもない。けれど、そこには間違いなく、自分にだけ向けられた「温かな人間」の血が通っていた。

『スタンさんも、一人の人間なんだなって思えると……なんだか、すごく嬉しいです』

あのレストランで自分が告げた言葉。スタンが目元をくしゃくしゃにして耐えていた涙。

自分が彼を追い詰めていたのではない。彼は、自分という存在を通じて、押さえつけていた「自分自身」を必死に抱きしめようとしていたのだ。

「……がっかりなんて、するわけないじゃないですか」

ぽつりと漏れた声は、もう震えていなかった。

フェナは机に向かい、1本のペンを握りしめた。完璧な広報部員としてではなく、彼というひとりの人間を知ろうとした、最初のファンとして。

ーーーー

【⑩】

この日は特別な日だった。

『名探偵ヒュー』最新作の完成披露舞台挨拶。会場を埋め尽くした超満員の観客と、眩いフラッシュの嵐。

ウェルはシワひとつない完璧な仕立ての高級スーツに身を包み、壇上の中央に立っていた。立ち姿から指先の位置に至るまで、どこから見ても世間が熱望する「氷の探偵ヒュー」そのものだった。

司会者が軽妙なトークでキャスト陣に制作の思い出や裏話を振っていく。自分の順番が来るまでの間、ウェルは平静を装いながら、ゆっくりと客席の遠くへと視線を走らせていた。

スポットライトの光が届かない後方の席。そこに、古典的な仕立てのクラシックなスーツを几帳面に着こなした老馬――ブライの姿があった。

ウェルと目が合うと、ブライは周囲に気づかれないよう、胸の高さで小さく控えめに手を振ってみせた。

(……ブライさん)

胸の奥がじんわりと熱くなる。ウェルは思わず口元を片手で隠し、ヒューなら絶対に見せないような、子供っぽく柔らかな笑みをこぼした。

「――では最後に、ご来場の皆様、そして配信をご覧のファンの皆様へメッセージをお願いします!」

司会者の声で、会場の空気がキュッと引き締まる。順番は端から順に回され、ウェルの大トリを残すのみとなった。ウェルのすぐ隣に立つレノへマイクが渡される。

「あー……たぶん、この後のスタンの話がめっちゃ長くなると思うからさ。俺は短めにしとくわ!」

観客席からドッと大きな笑い声が弾けた。レノは八重歯を覗かせてニカッと笑うと、マイクを握り直して客席へ拳を突き上げた。

「みんな、映画見てくれよなっ! 最高の出来だぜぇ!」

地声の通る豪快な呼びかけに、一際大きな歓声と拍手が巻き起こる。飾らないレノの気さくな人柄。自然体で一瞬にして会場を味方につけ、熱量を爆発させる彼は、生まれ持ってのエンターテイナーだった。

「ほい! 頑張れよ、相棒」

レノはマイクをウェルへ手渡すと、その肩をバシッと力強く叩いた。

ウェルはマイクを手に、静かに一歩前へ出た。

その一歩だけで、先ほどまでの賑やかさが嘘のように、万単位の観客が固唾をのんで静まり返る。誰もが「探偵ヒュー」の冷徹で洗練された、完璧なスピーチを期待していた。

ウェルはゆっくりと息を吐き出し、ジャケットの胸ポケットに収めた一枚の折りたたまれた紙――フェナから届いた手紙の感触を確かめた。そして、客席の奥にいるブライと、隣で腕を組んで立っているレノの姿を交互に見つめた。

「……皆様、本日はお越しいただき、本当にありがとうございます」

マイクに乗った声は、いつものヒューの低く冷たいトーンではなかった。どこか温かく、どこか幼さすら残る、素のウェルの声だった。

「少しだけ……僕個人の話をさせてください」

会場の空気が微かに揺れる。ウェルは穏やかな眼差しで言葉を続けた。

「……僕は長い間、暗い部屋でひとり、恐怖の中にいました。完璧で、知的で、決して人に媚びない『探偵ヒュー』という存在が大きくなればなるほど、その影に隠れた自分自身が消えていくような気がしていたからです。誰にも弱みを見せられず、孤独であることを恥じ……『自分はいったい誰なんだろう』と、ずっと震えていました」

静まり返る会場。司会者が驚きで目を見開き、パブリシストたちが息を呑むのが分かった。けれど、ウェルの言葉はもう止まらなかった。

「ですが、そんな空っぽな僕に、大切なことを教えてくれた人たちがいました。僕がまだ何者でもなかった頃の、拙くて恥ずかしい演技を……『あの頃の君が好きだった』と、変わらぬ愛で見守り続けてくれた人がいました」

客席の後方で、ブライが静かに目元を拭うのが見えた。

「そして……役の上だけでなく、現実の不器用で情けない僕の横で、いつだって飾らない素顔のまま寄り添い、背中を叩いてくれた最高の相棒がいました」

ウェルが隣へ視線を向けると、レノは照れくさそうに首の後ろをポリポリと掻き、わざとらしく大袈裟に肩をすくめてみせた。

「おいおい、そんな面と向かって褒められたら照れるだろ! 惚れるなよ?」

レノの茶々入れに、緊張で張り詰めていた客席から「あはは!」と温かな笑い声がこぼれ、ステージ上の重苦しい空気がふっと和らいだ。ウェルも思わずくすりと微笑み、胸のつかえが降りていくのを感じた。

「ふふ……本当に、感謝しているんです。……そしてもう一人。完璧なヒューという虚像ではなく、部屋すらまともに片付けられない不器用な僕という人間に興味を持ち、『もっと知りたい』と、あたたかな手紙を届けてくれた人がいました」

ウェルは胸に手を当て、まっすぐに観客席を見渡した。

「……僕の本名は、ウェルといいます」

会場から、小さなどよめきが起こる。

「ヒューのような鋭い頭脳もなければ、スタンのようなスマートな立ち振る舞いもできない。ただの『ウェル』という一人の男です。……けれど、ヒューを愛し、物語を応援してくださる皆様。そして、僕という人間に光を当ててくれた大切な人たちのおかげで、僕は今日、初めて自分の名前を誇らしく思えるようになりました」

ウェルは深々と、長く頭を下げた。

直後、地鳴りのような万雷の拍手と歓声が会場全体を包み込んだ。頭を上げたウェルの目には、眩しい光と小さな涙が浮かんでいた。

彼は眼鏡のブリッジをクイッと押し上げると、涙を拭い、今日一番のイタズラっぽい笑みを浮かべて見せた。

「……あ、ちなみに。次回作の僕の推理に、反論は受け付けませんよ?」

ヒューの決め台詞を少し崩したその一言に、会場は割れんばかりの歓声と、あたたかな笑顔で満たされたのだった。

ーーーー

33,722/70,000文字

【①】

街角に差し込む午後の光の中で、突然歓声が上がった。

「キャー!ホントにヒューだ!」

若い草食動物の女性グループが、目を輝かせながらボルゾイの男性を取り囲む。

長身で、細くしなやかな体躯。指先まで神経が行き届いたような所作。

ただそこに立っているだけで、周囲の空気が変わるほどのオーラを放っていた。

彼は映画スターだった。

“ヒュー”。

それは彼の代表作となった探偵映画シリーズの主人公名。

本来の芸名はスタン、そして本名はウェル。

しかし、あまりにもヒュー役が世界的にヒットしすぎていた。

彼をスタンと呼ぶものは多くない。

ましてウェルと呼ぶ者など、ほんの一握りしかいなかった。

「例のポーズ、お願いできますか?」

インパラの女性が期待に満ちた声で言う。

ウェルは軽く顎を上げ、眼鏡をクイッと押し上げる。

氷のように冷たい目つきで彼女を見下ろし、低く響く声で言った。

「俺の推理、反論できるか?」

犯人を追い詰める時の、あの決め台詞。

女性たちはゾクゾクと震えながら歓喜の声を上げた。

ウェルは微笑み、写真に収まる。

完璧なヒューとして。

---

マンションの一室。

外観からして、誰が見ても高級とわかる佇まい。

しかし室内は、足の踏み場もないほど雑多に散らかっていた。

壁一面の鏡の前に、物を押し寄せて無理やり作られたわずかな空間。

ウェルはそこに立ち、台本を手にしていた。

指の先まで意識した丁寧な動き。

堂々とした姿勢。

自信に満ちた目つきと声色。

鏡の中には、完璧なヒューがいた。

ウェルはその姿を見つめる。

見れば見るほど、声が震え始める。

動きの切れがなくなり、やがて完全に止まってしまった。

「……」

ウェルは力なくうなだれ、大きなため息をつく。

散らかった部屋の奥にある巨大なソファへ向かって歩き出す。

十数人が座れるほどのソファは、ほとんど物で埋まっていた。

辛うじて一人分だけ空いたスペースに、ウェルは体をよじらせて座り込む。

壁には額縁に入ったポスターが並んでいる。

そのほとんどが、ヒューへ贈られた記念品だった。

ソファが沈むと、周囲の物が崩れ落ちる。

ウェルの膝に転がり込んだ一枚のカードが目に入った。

“ヒューお誕生日おめでとう”

ヒューに設定された誕生日は、先週だった。

ウェルは天井をぼんやりと見上げる。

「……疲れた」

呟きは広い部屋に吸い込まれ、どこにも届かず消えた。

高貴さ。知的さ。自信家。

ヒューのキャラクターは、ウェル自身とはまったく一致しない。

素の自分を出せるのは、この部屋だけ。

ヒューというキャラクターを守るために、ウェルは誰も家に招かなかった。

ファンは世界中にいる。

お金も充分すぎるほどある。

それでも、彼を支える根幹は崩れかけていた。

「僕は……何者なんだろう?」

ウェルの頬を伝う涙を、知る者は誰もいなかった。

ーーーー

【②】

翌朝、スマホのアラームが鳴る一分前にウェルは目を覚ました。

もう何年も続く習慣で、自分でも驚くほど正確だった。

背もたれに倒れ込むように眠っていたソファからゆっくり起き上がる。

散らかった部屋の空気は冷たく、昨夜の疲労がまだ残っている。

シリアルを皿に入れ、ソファに腰を下ろす。

スマホを開くと、SNSの通知はいつものように「20+」。

アカウント名はスタン。

しかし届いているのはすべて“ヒュー”へのいいねやメッセージだった。

ウェルは画面をひと通り流し読みし、スケジューラーを開く。

歯医者でインプラントの説明を受ける予定。

マネージャーへの返信。

新作映画の台本を読む。

そして最後に、期限超過の赤い文字で表示された“カウンセリングを受ける”。

何ヶ月もチェックを入れられないままだ。

ウェルはスマホを閉じ、シリアルを一気にかき込む。

食事の味はほとんど感じなかった。

身支度に取りかかる。

この時間は、彼にとって“変身の時間”だった。

ウォークインクローゼットにはクリーニング済みのシャツが整然と並んでいる。

細い腕を袖に通し、あらゆるケア用品で身なりを整える。

鏡の前に立つと、ウェルの目つきが少しずつ変わっていく。

スタンへ。そしてヒューへ。

しばらく鏡を見つめていたウェルは、ふと神妙な表情になる。

次の瞬間、口角に人差し指を引っ掛けて引っ張り、舌を出した。

正面。横顔。角度を変えながら、自分の奇妙な顔を眺める。

「……ふふっ」

思わず笑ってしまった。

もちろん、ヒューなら絶対にこんな顔はしない。

ウェルはしばらく奇行とも言えるポーズを続け、

やがて指を外すと、表情は再びヒューのものへ戻った。

「……よし」

荷物を背負い、ガラスケースに並んだ車のキーを眺める。

普段遣いのクーペ、ウェルの好みで選んだフルサイズSUV、そして高級車の数々。

「今日のヒューなら…」キーを一つ手にすると部屋を後にした。

ーーー

コッ、コッ、コッ。

大理石の床に乾いた革靴の音が響く。

背筋を伸ばしたウェルが足早に歩く。

「おはようございます、スタンさん」

穏やかな声が背後から届いた。

年老いたウマの清掃員が、にこやかにウェルを見ていた。

「ブライさん、おはようございます。いつもご苦労さまです」

ウェルは足を止めて会釈する。

「今日は撮影ですか?」

「はい、いつものヒューです」

自分でも変な答え方だと思い、苦笑いした。

誰もいなくなった部屋。

ソファの背もたれには、昨夜ウェルが着ていたパジャマが無造作に掛けられている。

ヒューのものではない。

スタンのものでもない。

ただ、ウェルが眠るためだけに着ていた服だった。

ーーーー

【③】

「俺の推理、反論できるか?」

ヒューはゆっくりと顎を持ち上げ、長身から見下ろすようにして眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。

その眼鏡の奥に宿る瞳は、まるで氷の刃のように冷たく、一切の容赦がない。ヒューに蹴倒された犯人のシカは、その圧迫感と冷徹なオーラに思わず息を呑んだ。

「カット! はい、オッケーです!」

監督の声がスタジオに響いた瞬間、それまでセットを支配していた張り詰めた緊張感が、潮が引くように緩んだ。

「……あ、申し訳ありません。痛くなかったですか?」

直前までの冷血な探偵像は影を潜め、ウェルは恐縮したように背中を丸め、犯人役のシカの俳優へ何度も小さく頭を下げた。相手は「いえいえ! さすがの迫力でしたよ」と笑ってくれたが、ウェルは胸の奥で小さく息を吐く。いくら演技とはいえ、人に高圧的な態度をとるのは、彼の素の性格としてはどうしても心が痛む作業だった。

午前中の撮影は、恐ろしいほどスムーズに終了した。

---

午後からは一転して、本社ビルの会議室で広報チームと同席による“探偵ヒュー”のイメージ戦略会議が行われていた。

「スタン。これを見てくれ」

広報リーダーが、苦々しい表情でノートPCの画面をこちらへ向けた。

画面に躍っていたのは、悪質な芸能ゴシップサイトの見出しだった。

『探偵ヒュー。彼もまた、推理以外に興味がないただの完璧主義者か?』

『隠れゲイ疑惑のヒュー。ファンの妄想(shipping)にあらず?』

スタンに交際相手の噂が皆無であることを疑問視するフリをして、彼が演じる「探偵ヒュー」の人間性の冷酷さや偏屈さを批判へとすり替える、偏った内容の記事だった。

「君が頑なに恋人を作らないことを、ヒューが女性に興味のない、ただの不気味な推理オタクだとこじつけているようだ」

広報リーダーは分厚い眼鏡を外し、憂鬱そうにレンズを布で拭きながら溜め息をついた。

「その理屈は絶対に変です!」

バン、と勢いよく机を叩く音が響いた。

声の主は、広報チームの若いウサギの女性だった。

「ヒューは、女性に媚びないからこそ魅力的なんです!」

彼女は長い耳をピンと立たせ、勢いよく立ち上がる。

「劇中のヒューは、意図的に私生活を明かしません。そして、どんな美しい女性に対しても必要以上に媚びない。それが彼の『冷静』、『知的』、『高潔』、そして何より『ミステリアス』という絶対的なパブリックイメージを作っているんです!」

彼女はノートPCを操作し、次々とグラフや数値を提示していく。

「実際、このブランディングは女性ファンの獲得に見事に成功しています。彼女たちが熱狂しているのは、恋愛に縁がないからではなく、恋愛という俗世に媚びない彼の孤高な姿勢そのものなんですから!」

淀みなく熱弁を振るう彼女の言葉に、広報チームの面々も圧倒されていく。

「それに……ファンダムの熱量を見てください! 実際、大手二次創作サイトのAO3では、ヒューと相棒のM/Mカップリングを軸にした創作や、自分を投影する夢女子文化がものすごく活発なんです!」

「む、むじょ……なんだって?」

「『二人のキスシーンは今後絶対にある!』とか『二人は絶対に結ばれる!』とか、そういった熱いコメントが何千件も寄せられているんですよ! つまり——」

「……君」

リーダーが呆気にとられた顔で眼鏡を掛け直し、彼女の言葉を遮った。

「物凄く……詳しいんだな……」

会議室全体に、しん……と静まり返るような沈黙が訪れた。

全員の視線が一斉に自分に集まっていることに、ウサギの彼女はそこで初めて気づいたらしい。

「あ……」

ピンと立っていた耳がみるみる折れ曲がり、顔が真っ赤に染まっていく。彼女は小さく「……す、すみません」と呟くと、もじもじしながら静かに椅子へと沈んでいった。

その様子を黙って見ていたウェルは、ふと隣に座る相棒役のクロヒョウの俳優へ視線を送った。

クロヒョウもまたウェルと目が合うと、肩をすくめ、両手を広げて「やれやれ」と言いたげなおどけた表情を作ってみせた。

(……俺たち、そんな怪しい関係じゃないんだけどな)

口には出さずとも、二人の間でそんな声が聞こえた気がした。お互いに可笑しくなってしまい、ウェルと彼は同時に小さな苦笑いを漏らす。

「ゴホン!」

リーダーが大きく咳払いをし、脱線しかけた空気を引き戻した。彼はスタンを一瞥する。

「……まあ、彼女の分析通りだ。君に現実の恋人がいないことは、ファンが妄想を膨らませる上での大きな『強み』になっている」

リーダーは会議室のメンバーを見回した。

「世間やゴシップ誌から揶揄されることは今後もあるだろうが、こちらから不用意に現実のスキャンダルや恋愛を持ち込む必要は全くない。このミステリアスな路線を維持する」

「了解しました」という声とともに会議は解散となり、メンバーは各自手元の資料をまとめて立ち上がり始めた。

一人、また一人と部屋を去っていく。

ウェルだけは席に座ったまま、誰もいなくなっていく会議室の風景を静かに眺めていた。

ヒューに恋人がいないこと。それが彼というキャラクターの強みであり、ファンにとっての救いなのだ。

ウェルは、スクリーンの中で愛され、無数の人間関係を紡がれ、誰かに恋をされているヒューの姿を思い浮かべた。

ファンの瞳に映るヒューには、こんなにも誰かを好きになり、誰かに愛される人生がある。

……そして。

その架空の人生と引き換えに、自分自身の人生には何ひとつ残っていないのだという冷たい事実を、ウェルは一人静かに噛み締めていた。

ーーーー

【④】

昼休みのカフェテリアは、光に満ちていた。

壁一面を覆う巨大なガラス窓の向こうには、青々とした広い芝生の中庭が広がり、抽象的なモダンオブジェの間を社員たちが穏やかに行き交っている。大型の肉食獣でもゆったりと寛げる天井の高い空間の一角で、小さな影がひとつ、ノートPCに向かって猛然とキーボードを叩いていた。

広報チームの若いウサギ、フェナだ。

ウェルは両手に紙コップの温かいコーヒーを携え、音を立てずに彼女のテーブルへと近づいた。

「フェナさん、お疲れ様です」

「はぇ!?……ヒ、ヒュー!?」

先刻まで画面を鋭く見つめていたフェナの顔が、一瞬で間の抜けたものへと変貌した。跳ね上がるように直立した長い耳と、丸く見開かれた目。ウェルはその手慣れた反応に思わず目元を緩める。

「あはは、今はスタンですよ」

柔らかくそう告げながら、ウェルは首を少し傾けた。

「お隣、よろしいでしょうか?」

「ぜ、ぜひっ! 私なんかで良ければ! もう全然、喜んでっ!」

慌てて自分の荷物を端へ寄せるフェナの隣に、ウェルは長身を小さく折りたたむようにして腰を下ろした。

「コーヒー、空のようでしたから。もしよろしければ……」

持っていた紙コップのひとつをテーブルのすっと滑らせて差し出す。

「あっ! ああっ! ありがとう、ございます……っ!」

フェナは肩をすくめ、壊れものを扱うように何度も頭を下げた。

ウェルが自分のコーヒーに口をつけ、ゆっくりと喉を鳴らすと、フェナもまたそれにならうように慌てて紙コップに口を寄せた。しかし、その耳はソワソワと落ち着きなく揺れている。

「お仕事ですか? 凄く集中されていましたけれど」

「これは……あ、仕事というか! 私の個人的な趣味みたいなものなので! 全然、忙しいとかじゃないですっ」

彼女は跳ね上がるような動作でノートPCの画面をパタンと閉じた。隠すような仕草の可愛らしさに、ウェルはクスクスと喉を鳴らす。

「その……フェナさんの会議でのプレゼン、とても参考になりました」

「えっ……」

「私が演じているヒューとは違った世界があって、私の知らないヒューがそこにいた。……私自身、ヒューのことを何も知らなかったんだなって、少し衝撃を受けたんです」

ウェルが真摯な瞳で語りかけると、フェナは急に俯き、もじもじと指先を弄び始めた。

「あ、あれは……ファンが勝手に妄想を膨らませて盛り上がっているだけでして……」

「ええ。でも、とても面白かったですよ。本当に、ヒューにはそういう一面もあるかもしれないって思えましたから」

「……」

フェナはしばらく沈黙し、何かを迷うように視線を泳がせていた。やがて、小さく、けれど芯のある声でぽつりと言った。

「スタンさんが……ヒューという存在を信じさせてくれるから、みんな、いくらでも夢中になれるんです」

「え……?」

ウェルの手元で、コーヒーの揺らめきがぴたりと止まった。

「ヒューは、映画の中の架空の人物です。だけど、スタンさんが『この世界に本当に生きている』と思わせてくれるから。だからみんな、ヒューに憧れて、恋をして、彼の生き方や好みにまで夢中になれるんじゃないでしょうか」

先刻までの気恥ずかしそうな態度は消え去り、会議の時のような熱量が彼女の瞳に宿り始めていた。ピンと立ったウサギの耳が、彼女の興奮を雄弁に物語っている。

「スタンさんがヒューを一人の確かな人格として表現してくれるからこそ、『彼ならこう言うはずだ』『彼なら絶対にこう動く』っていうラインが見えてくるんです」

フェナは大きく一度頷き、まるで頭の中の思考を一つひとつ言葉として紐解き、確認するように語り続ける。

「だからこそ……映画で描かれていない日常のわずかな時間まで、ファンは『ヒューなら今頃きっとこうしている』って想像を広げることができる。それって……女子同士で『憧れのクラスの男子って、家ではどんな生活してるんだろうね』ってキャッキャ話し合うみたいで……嬉しくて、たまらなく楽しいんです」

その顔は、冷徹な分析をする広報部員のものではなく、恋する少女そのものだった。

熱弁の途中でウェルと目が合うと、フェナはハッと我に返り、勢いよく顔を背けて縮こまった。耳がみるみる赤く染まっていく。

「あ……その……すみません、私ったら出しゃばって……」

「いえ!」

ウェルは弾かれたように声を上げた。

「いまので、すごく理解できました。……僕、ちゃんと役者をやれてたんですね。あははははっ」

フェナは驚いたように顔を上げた。

“僕”という柔らかな一人称。そして、ヒューという氷の探偵なら絶対に口にしないであろう、どこか幼さと愛嬌の混ざった無邪気な笑い声。

それは「探偵ヒュー」というキャラクターから見れば、完璧な解釈違いだった。かと言って、メディアの前に立つ洗練された「俳優スタン」ともどこか違う。

ウェルの目元には、微かに滲んだ涙が光っていた。フェナの不思議そうな視線に気づくと、彼は「あっ……失礼」と慌てて胸元を直し、背筋を正した。

微かな静寂が、二人の間に流れる。

「……みんな、ヒューのことが本当に好きなんですね」

ウェルの呟きに、フェナは少し首を傾げ、素直な疑問を口にした。

「スタンさんは……ヒューのことが好きですか?」

「……私?」

ウェルは問い返したものの、言葉に詰まった。好きか、嫌いか。本来ならシンプルで、ファン向けのインタビューなら「もちろん愛していますよ」と即答すべき質問。

けれど、彼の口から出たのは、曖昧な躊躇いだった。

「……どうなんでしょうね」

「え? では、嫌いなんですか……?」

フェナの表情に不安の色が混じる。ウェルは手元の紙コップに視線を落とした。暗い褐色の液体に、自分の揺れる影が映っている。

「長いこと、彼は私の一部ですから」

息をひとつ挟み、ウェルは静かに言葉を紡ぐ。

「……好きとか、嫌いとか。そういう次元のものじゃなくなってしまったのかもしれません」

「そういうもの……なんですね……」

フェナは複雑な表情で頷いた。あんなにも完璧にヒューを体現しているスターなのだから、当然「大好きだ」という答えが返ってくるものだと思っていたのだ。

身体の一部。たしかにそうなってしまえば「好きか嫌いか」という問い自体が無意味になる。「自分の声や自分の顔が好きですか?」と聞かれているようなものだからだ。

しかし、フェナは彼が纏う空気の奥底に、それだけでは説明のつかない「別の何か」を感じ取っていた。

少しの間の後、フェナは気を取り直したように微笑んだ。

「でも、私はヒューが好きです。すごく、好きです」

少し照れくさそうに笑いながら、指を折り折り語る。

「格好いいし、頭もいいし、絶対に人に媚びないし……」

ウェルはまるで妹の甘い恋愛相談でも聞くように、穏やかに頷いていた。

「でも……」

そこでフェナは言葉を切り、まっすぐにウェルの瞳を見つめ直した。

「私、スタンさんのことも、もっと知りたいです」

「え?……私を、ですか?」

思いもよらぬ言葉に、ウェルは素で目を丸くした。

「はい」

「どうして……?」

「だって、ヒューを作っている人ですから」

フェナは可憐に笑った。

「ヒューがどんな人なのか、ファンとして想像するのはすごく楽しいです。でも……そのヒューを演じているスタンさんがどんな方かってのも私は知りたいんです」

フェナがカップの縁をなぞる。

「ヒューには明確な答えがないけれど、スタンさんには答えがある。答え合わせができるじゃないですか」

二人の瞳が合う。

「私は……」

ウェルは一瞬、息を呑んだ。

脳裏をよぎったのは、昨夜の足の踏み場もない荒れ果てた部屋。十数人用のソファの隙間に小さく丸まり、ひとり静かに頬を濡らしていた、惨めで空っぽな自分の姿。

「……たぶん、がっかりしちゃいますよ」

ぽつりと漏れた弱音。しかし、フェナは即座に首を振った。

「それは……ヒューのイメージをそのままスタンさんに押し付けちゃうから、そう感じてしまうんじゃないでしょうか?」

彼女は両手で包み込むように紙コップを持ち上げた。

「だって、こうしてコーヒーを差し入れしてくれるなんて、間違いなくヒューじゃなくて『スタンさん』の優しさですもの」

フェナはドヤ顔をつくり、格好よくキメたつもりでそのままコーヒーを口に含んだ。

「あちっ!?」

勢いよく含みすぎて熱がった彼女は、目を白黒させて口元を押さえた。そのお茶目すぎる失敗に、ウェルの緊張の糸がプツリと切れた。

「ふっ……あはっ!」

ウェルは思わず吹き出し、お腹を押さえて笑った。

「あ、今の笑い方も、ヒューじゃないですよね」

口元を押さえたままフェナが言った瞬間、ウェルの表情がぴたりと固まった。

ヒューの笑い方ではない。

そして、カメラの前で見せる俳優「スタン」の洗練された笑い方でもない。

ウェルはゆっくりと視線を落とし、胸の奥で温かな何かが解けていくのを感じていた。

「……確かに」

静かに、自分に言い聞かせるように呟く。

「……当たっていると、思います」

ガラス窓の向こうでは、昼休みを終えた社員たちが少しずつオフィスへと戻り始めていた。ウェルはその光景をぼんやりと眺めながら、自分の中で芽生えた奇妙な感覚に思いを巡らせていた。

自分が知り得なかった、物語の中のヒュー。

ファンが愛を注ぎ込み、作り上げたヒュー。

そして今、目の前の女性がほんの少しだけ興味を持ってくれた、スタンという人間。

その三つが、初めて同じ陽光の下で、並んで立っているような気がした。

そして今、自分が彼女に見せたのは――「ヒュー」でもなく「スタン」でもない、素の「ウェル」の笑い声だった。

ーーーー

【⑤】

カフェテリアでの会話から数日後。

ウェルは久しぶりに、胸の奥が小さく跳ねるような心地よさを覚えていた。

「もしよろしければ……今度、休日にランチでもいかがですか?」

そう声をかけた時のことだ。跳ね上がったフェナのウサギ耳と、驚きに満ちた丸い瞳が今も鮮明に焼き付いている。

彼女が知りたがっているのは「俳優スタン」だ。けれどウェルにとっては、自分がずっと暗闇の奥深くに隠し続けてきた「ウェル」という本来の自分までもが、ほんの少しだけ光の当たる場所へ引っ張り出してもらえるような、不思議で淡い期待を抱かずにはいられないお誘いだった。

約束の日は、雲ひとつない晴天に恵まれた。

街外れの落ち着いたイタリアンレストラン。

テラス席から注ぐ柔らかい陽光が、白いテーブルクロスの上に綺麗な陰影を作っている。変装のために浅く被っていたキャスケット帽を脱ぎ、ウェルは向かいに座るフェナに穏やかな視線を向けた。

「急なお誘いでしたのに、お時間をいただきありがとうございます」

「い、いえっ! そんなそんな! 私なんかで本当によかったんでしょうか……!」

フェナは落ち着かない様子で、何度も周囲をキョロキョロと見回している。どこか浮足立っている彼女の様子に、ウェルは少しおどけた調子で微笑みかけた。

「フェナさんだから、お誘いしたんですよ?」

「……っ!」

食事が運ばれてくると、空間は和やかな空気に包まれた。

ウェルは撮影現場でのちょっとした裏話を披露し、フェナは広報の立場から感じている仕事のやりがいを生き生きと語る。会話の合間にも、ウェルはフェナのグラスの水が減っていればこまめに注ぎ足し、取り皿をさりげなく彼女の近くへ差し出すといった細やかな気配りを欠かさない。

(……すごいな)

フェナは目の前の紳士的な挙動を見つめながら、胸の奥をキュッと掴まれるような感覚を覚えていた。

公の場で見せる堂々とした態度と、大人の余裕。それでいて、ふとした瞬間に覗かせる幼さを残した笑い方や親しみやすいおどけ方。ヒューという完璧な氷の探偵とはあきらかに異なる「俳優スタン」だけの特別な魅力。自分は今、ファンなら誰もが羨むような“スタンの普段見せない素顔”に触れているのだと、フェナは胸を躍らせていた。

やがて食事が一段落した頃、フェナはふっと表情を和らげ、興味深そうに身を乗り出した。

「あの……スタンさん。ずっと聞いてみたかったんです。予定のない休日って、どんなふうに過ごされているんですか?」

ごくありふれた、日常の問いかけ。

けれど、それこそがウェルにとって最も恐れていた質問だった。

一瞬、ウェルの思考がぴたりと止まる。

「俳優スタン」として答えるならば、『次回作の台本を読み込み、クラシックを聴きながら静かに紅茶を嗜んでいます』とでも優雅に繕うべきだろう。

けれど、彼の脳裏に瞬時に浮かび上がったのは――足の踏み場もなく物が散らかり返った暗い部屋。十数人用の巨大なソファの片隅で小さく膝を抱え、ただ一人で涙を流している、惨めで空っぽな己の姿だった。

ウェルは手にしたフォークをそっと皿の脇に置いた。

胸の奥で、激しい葛藤が渦を巻く。失望されたくない、嫌われたくない。けれど……彼女には、ほんの少しだけでも「ウェル」の欠片を見せてみたい。

「……恥ずかしい話なのですが」

ウェルは視線をほんの少し落とし、気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。

「私は、自分の時間を過ごすことが驚くほど下手なんです」

「え……?」

「部屋も……とても散らかっていますし。休日になると、ヒューから私にバトンタッチされたみたいで……どう過ごしたらいいのか、分からなくなってしまうんです」

言葉を口にした瞬間、周りの時間が凍りついたように感じられた。

冷や汗が背筋をスッと伝い落ちる。ウェルは猛烈な後悔に襲われた。「やってしまった」と。こんな情けない弱音、ファンである彼女に聞かせるべきではなかったのだ。せっかくの夢を壊してしまう。

しかし、フェナの反応はウェルの予想とは全く異なるものだった。

彼女は引き下がるどころか、長い耳をぽてんと前に倒し、心底愛おしそうな優しい瞳でウェルを見つめていたのだ。

「……ふふ、良かった!」

フェナの口からこぼれたのは、あたたかな笑い声だった。

「スタンさんは、完璧じゃないんですね」

「え……?」

思いもよらぬ言葉に、ウェルは目をぱちくりとさせて彼女を見返した。

「ヒューならまだしも、スタンさんまで完璧な人間だったら……もう完全に、遠い別の世界の人みたいに感じてしまっていたと思います」

フェナは両手で包み込むように温かいスープカップを持ち上げると、心からの笑みを向けた。

「でも……スタンさんも一人の人間なんだなって思えると、近くにいる感じがして……なんだが、すごく嬉しいです」

ウェルの胸の奥で、何かが確かに熱く動いた。

「俳優スタン」という仮面越しではある。けれど、彼は確かに自分の素顔の一部を目の前の少女にさらけ出し、そしてそれを丸ごと温かく肯定されたのだ。

(こんな情けない僕を見ても、フェナさんは笑わなかった…)

熱いものが一気に目元へと押し寄せてくる。

「……ありがとう」

込み上げる涙を必死に堪えようとして、ウェルは端正な目元とシャープで長いマズルをくしゃくしゃにして笑った。感情の整理がつかないまま浮かべたその笑みは、あまりにも無防備で、あまりにも愛くるしかった。

「あ……」

その崩れた表情の凄まじい愛おしさに、今度はフェナの方が激しく動揺した。バツが悪そうに視線を泳がせ、パタパタと耳を揺らしながら、慌ててスープをゴクゴクと啜って誤魔化そうとする。

フェナの胸の中に、小さな疑問の芽がぽつりと落ちた。

スタンと接していると時折感じる、あの不思議な感覚。ヒューの演技でもなく、メディアで見せるスタンの洗練された振る舞いでもない、どこか幼く儚いもの。

――これを「スタンの普段見せない一面」と片付けてしまって、本当に合っているのだろうか?

フェナはスープカップ越しに、照れくさそうに目元を拭う彼を密かに見つめていた。

自分たちが今、どれほど無防備な笑顔を交わし合っているかも、そしてその穏やかなひとときがどのような形で切り取られているかも知らぬまま、陽光あふれるテラスでの時間は優しく過ぎていった。

ーーーー

【⑥】

数日後。社内の広報チーム会議室の空気は、重く冷え切っていた。

「……これを見てくれ」

広報リーダーがデスクに突き出したタブレットの画面には、ゴシップサイトの大見出しが躍っていた。

『探偵ヒュー、極秘デート!? 謎の草食動物女性と密会現場をキャッチ!』

粗い画質の盗撮画像には、テラス席で和やかに微笑み合うウェルとフェナの姿が写し出されていた。

「相手が身内の広報スタッフだと分かれば、『職権濫用』『ヤラセのイメージ戦略』と叩かれる。どちらにせよ、ヒューのミステリアスなブランド価値には大打撃だ」

リーダーの冷酷な声が室内に響く。ウェルは拳を強く握りしめた。

「フェナさんは……彼女はどこですか!? 彼女はただ、私の……」

「フェナ君なら、すでに指示を出した」

リーダーは冷淡に眼鏡を押し上げた。

「彼女には当面の間、完全リモートワークでの自宅待機を言い渡してある。君と彼女が社内で接触するのも避けてもらう。……言わば、相互の接触禁止措置だ」

「そんな……! 彼女は何も悪くありません! 私が誘ったんです!」

「スタン、君が守るべきはヒューのイメージだ」

言葉が出なかった。喉がカラカラに乾き、世界が遠のいていくような感覚に襲われる。

フェナは自分よりも先に呼び出され、処分を言い渡されていたのだ。広報チームのメンバーとして誰よりもヒューを愛し、そのイメージを守ろうとしていた彼女が、自分と食事をしたせいで責められている。

『私、スタンさんのことが知れて……すごく嬉しいです』

あの眩しい笑顔が、頭の中で壊れていく。

僕のせいで。僕が……「ウェル」なんていう余計な自分を出そうとしたせいで、彼女を傷つけてしまった。

その後の撮影がどう終わったのか、ウェルは全く覚えていなかった。

失意と激しい自責の念に押し潰されながら、彼は逃げるようにマンションのエントランスへと辿り着いた。背筋を伸ばす気力すらなく、深々と帽子をかぶり、床だけを見つめて歩く。

「……スタンさん?」

穏やかな声が、静まり返ったエントランスに響いた。

振り返ると、清掃員の服を着た老馬のブライが、モップの手を止めて心配そうにこちらを見つめていた。

「……ブライさん」

「顔色がひどく悪いようだ。……何か、お辛いことでも?」

いつもなら「大丈夫ですよ」とスタンの笑みを貼り付けるはずだった。けれど、今のウェルにはその仮面を拾い上げる力すら残っていなかった。ただ、力なく首を振ることしかできない。

ブライは深々とため息をつくと、優しく目元を細めた。

「……もしよければ、私の部屋で温かいお茶でもいかがですか。……お話なら、いくらでも伺いますよ」

ウェルは断る気力もなく、吸い寄せられるように、老清掃員の差し出した小さく温かな手について歩き出した。

ーーーー

【⑦】

ブライに促されるまま、ウェルは彼の自宅へと足を運んだ。そこは築年数の深さを感じさせる、静かな古びたアパートだった。

二人分の温かい紅茶が注がれたカップ以外、キッチンに余分な食器は見当たらない。シンプルで控えめな室内のレイアウトからは、彼が長年、静かな独り身の暮らしを営んできたことが伺えた。

しかし、リビングに足を踏み入れた瞬間、ウェルは息をのんだ。

そこはまるで、小さな美術館だった。部屋の一角に置かれたガラスケースには、スタンのサイン色紙や限定の記念品が大切に飾られている。決してコレクションの数を誇るような乱雑さはなく、厳選された品々が整然と、丁寧に並べられていた。ブライという男の静かな美学と、成熟した大人ならではの趣味の楽しみ方が、その空間全体から滲み出ている。

ブライは、スタンが「ヒュー」として世界的なメジャー俳優になるずっと前——駆け出しの泥くさい時代からの熱心なファンだったのだ。棚には、彼のデビュー作から最新作に至るまでの歴代出演作品のDVDが、年代順にきれいに並べられていた。

マンションの清掃員として、ブライはファンであるスタンと日常的に顔を合わせていたことになる。だが彼は、決して彼のプライベートを踏みにじるような真似はしなかった。一人の節度あるファンとして、絶妙で温かな距離感を保ちながら「ウェル」という青年に接してきたのだ。

「これなんかは、特に名作でね」

「これは……ああ、これは懐かしいな」

ブライは並べられたDVDケースの中から、少し焼けた一枚を取り出した。パッケージには、今のスタンとはまるで違う、頬の丸みが残る若い顔が写っている。

「これはコメディだったね。刑事もののパロディで……君が、間抜けな新人捜査官の役をやっていた」

「……ああ、そういえばそんな役もやりましたね」

ウェルの声は、記憶の底を探るように緩慢だった。

ブライは目を細め、ケースの裏の写真をしばらく眺めていた。

「この役の、間抜けなポーズがあってね」

そう言うと、彼は前触れもなく、口角に指を引っ掛けるようにして頬を歪め、舌をわずかに覗かせた。

芝居がかったふうでもなく、ただ懐かしい癖を蘇らせるような、緩やかな動き。

「……こんな顔で、犯人の推理を外すたびに、この決め顔をするんだ。すると“プァ〜ン“と間の抜けた音がなってね」

「今思えば、随分と子供っぽい演出だったが私は好きだったよ…。それくるぞ!ってワクワクしたものだ」

ブライは照れくさそうに笑い、指を離した。

ウェルは、動けなかった。

コーヒーカップに伸ばしかけていた手が、宙で止まっている。

――それは。

今朝も、鏡の前でしていた顔だった。

誰も見ていないはずの、あの部屋だけで許されるはずの、たったひとつの逃げ場所。

それが、忘れていたはずの、遠い昔の“役”の欠片だったなんて。

「……その顔、僕……」

声が、掠れて消えた。

ブライは気づかぬまま、次のケースへと手を伸ばしている。

「この頃の君は、本当に楽しそうに見えたよ」

独り言のように、ぽつりと零された一言だった。

「演技というより……なんというか、素の君が、そのまま画面に映っているような。そんな感じがしてね」

ブライはそう言うと、もう次のDVDのパッケージに視線を移していた。彼にとってそれは、数ある思い出のひとつを口にしただけの、他愛のない一言に過ぎなかったのだろう。

しかし、ウェルの中では、何かが静かに軋んだ。

楽しそうだった。

自分が。

それは、今の自分にはあまりにも遠い言葉だった。

膝の上に置いた手のひらに、じわりと汗が滲む。

薄暗い部屋の中、テレビの光だけが、ウェルの強張った横顔を淡く照らしていた。

「……ブライさん」

かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど頼りなかった。

ブライが顔を上げる。

「……その頃の僕は、本当に、楽しかったんでしょうか」

問いかけているのか、独り言なのか、自分でも判然としない呟きだった。

ブライは少しの間、ウェルの顔を見つめていた。

そして、静かに目を細めた。

「そうだな。少なくとも、私にはそう見えていたよ」

---

沈黙が落ちた。

テレビの砂嵐のような静かなノイズだけが、薄暗い部屋に満ちている。

ウェルは俯いたまま、膝の上の手を握りしめていた。何か言葉を返さなければと思うのに、喉の奥で言葉がまとまらない。

ブライは急かすことなく、ゆっくりとお茶を一口含んだ。

「……そういえば」

やがて、思い出したように口を開く。

「昔、テレビでスタンのインタビューを見たことがあってね。君がデビューしてすぐの頃の」

「インタビュー……」

「聞き手の質問に答えている途中で、君、一瞬だけ名乗ってしまったんだ。“スタン”ではなく、別の名前を」

ウェルの肩が、小さく強張った。

「その時のインタビュアーは何も気づかなかったようだったが……私はなぜだか、ずっとその箇所だけ覚えていてね」

ブライは目を細め、記憶を辿るように宙を見た。

「“ウェル”。……確か、そう言っていたね」

その名を呼ばれた瞬間、ウェルは息を止めた。

何年も、誰にも呼ばれたことのない名前。自分自身でさえ、忘れかけていたはずの響き。

「……知って、いたんですか」

かろうじて、声を絞り出す。

「ああ」

ブライは、あっさりと頷いた。

「それだけだよ。他には何も。ただ、覚えていた」

まるで、道端で拾った小石をそっとポケットにしまっておいた、というような口ぶりだった。

そこに他意はない。詮索も、下心も、何もない。

ただ、覚えていた。それだけ。

ウェルの目の奥が、じん、と熱を持った。

「……どうして、そんな些細なこと」

「さあ。どうしてだろうね」

ブライは小さく笑い、DVDケースの山に視線を落とした。

「ただ、私は君のことが、ずっと好きだったから」

あっさりとした、しかし迷いのない言葉だった。

「スタンという役者としても。……その前の、右も左もわからない様子で演技をしていた、あの頃の君も」

ブライの声が、わずかに柔らかくなる。

「正直に言うとね」

そこで、ひと呼吸置いた。

「近頃の君を見ていると、少し……寂しくなることがあるんだ」

「……寂しく」

「ヒューという役が、あまりにも見事に板についてしまってね」

ブライは、テレビの中で静止したままの、若い頃のウェルの顔を見つめていた。

「毎朝、挨拶をする度に、思うんだ。……今日の君は、どちらの君なんだろうか、と」

「……」

「スタンなのか。それとも、もうずっと、ヒューのままなのか」

淡々とした声だった。責めるでも、憐れむでもない。ただ、長年見てきた者だけが持つ、静かな観察だった。

「私はもう若くない。君の映画を、これから先どれだけ観られるかもわからない。……だからこそ、時々思うんだ。あの、右も左もわからなかった、不器用で、けれど楽しそうだった君にもまた会ってみたい、とね」

ウェルの視界が、じわりと滲んだ。

堪えようとしたが、堪えきれなかった。

一筋、また一筋と、頬を伝う。

「……すみません」

震える声で、ウェルは呟いた。

「僕……ずっと」

言葉が、うまく繋がらない。

「ずっと、誰にも、言えなくて」

嗚咽が漏れる。もう、取り繕う余裕もなかった。

「疲れたって、寂しいって……そんなこと、誰にも言えなくて。だって……僕は、恵まれているはずだから。ファンもいる。お金もある。それなのに、寂しいなんて言ったら……」

ウェルは、両手で顔を覆った。

「贅沢だって、思われる。……こんなこと、口にすることさえ、恥ずかしくて」

嗚咽の合間に、途切れ途切れの言葉が零れ落ちる。

「今の僕は、僕から、ウェルが、いなくなってしまったのではないでしょうか?」

ブライは何も言わず、ただ静かに、その言葉を聞いていた。

慰めの言葉も、安易な励ましも、口にしなかった。

ただ、そこに座り、震える背中を見つめていた。

しばらくして、ブライはゆっくりと立ち上がると、隣にあった小さな戸棚から、一枚の古びた写真を取り出した。

「これを」

差し出されたのは、ずいぶん昔の劇場のロビーで撮られたらしい、粒子の粗い写真だった。

舞台挨拶か何かだろうか。まだ幼さの残る顔立ちのスタンが、ぎこちない笑顔でピースサインをしている。

「君はこんな風な笑顔を私に見せてくれた時があった。きっと余程嬉しい事があったんだろうね」

ブライは静かに言った。

「きっとあの笑顔がウェルが今もいる証拠だと思うよ」

ウェルは涙で滲む目で、その写真を見つめた。

「……そう、思いますか」

「ああ」

ブライは、ゆっくりと頷いた。

「でなければ、今、こんなにも泣けはしないだろう」

その言葉に、ウェルはくしゃりと顔を歪め、また涙をこぼした。

けれど、それは先ほどまでとは、どこか違う涙だった。

薄暗い部屋の中、テレビの光と、ブライの静かな眼差しだけが、ウェルを照らしていた。

誰も知らなかった涙を、初めて誰かが見ていた。

ーーーー

【⑧】

「カット! ……お疲れ様でした、今日はここまで!」

スタジオの照明が落ち、フロアに解散の声が響く。

監督の声に、スタッフたちが一斉に緊張を解いた。しかし、その場に漂う空気はどこか重い。

今日だけで、NGが十七回。

いつもなら数回で通る台詞回しに、ウェルは何度も詰まり、あるいは間を外し、最後にはただ立ち尽くすようにして台本を見つめていた。

「スタンさん、大丈夫ですか……?」

若いスタッフが遠慮がちに声をかけたが、ウェルはただ力なく頷くことしかできなかった。

控室へ向かう廊下、ウェルは俯いたまま歩いていた。

――フェナは、今どうしているだろう。

あの日以来、広報チームからは「しばらく距離を置くように」とだけ告げられ、それ以上の情報はなかった。

自分のせいで、彼女の居場所を奪ってしまったのではないか。

そんな考えばかりが、頭の中をぐるぐると巡っていた。

「おい、スタン」

背後から、快活な声が飛んできた。

振り返ると、衣装をラフに着崩したクロヒョウの男――レノが、片手をひらひらと振りながら近づいてくる。

「今日のお前、酷いもんだったな」

「……すみません」

「謝ることじゃねえよ。人間、たまにはそういう日もある」

レノはウェルの肩に、ぽんと軽く手を置いた。

「付き合え。奢ってやる」

「え……」

「いいから」

有無を言わせぬ調子だった。レノはそのまま、返事も待たずに歩き出す。

ウェルは戸惑いながらも、その背中を追った。

---

連れて行かれたのは、繁華街から少し外れた、落ち着いた雰囲気のバーだった。

薄暗い照明の下、カウンターの奥にひっそりと構えるその店には、他に客の姿もほとんどない。

「ここなら、面倒な連中も寄ってこねえ」

慣れた様子でスツールに腰を下ろすと、レノはバーテンダーに軽く手を上げ、何かを注文した。

ウェルもその隣に、静かに腰掛ける。

しばらく、二人とも無言だった。

グラスがカウンターに置かれる音だけが、静かに響く。

「……で」

レノが、琥珀色の液体を揺らしながら口を開いた。

「何があった」

「え……」

「隠したって無駄だぞ。お前の演技見りゃ一発だ。台本以前に、目が死んでた」

ウェルは、グラスに視線を落とした。

「……フェナさんのことです」

「ああ。広報の、あのウサちゃんか」

「僕と一緒にいたことが、記事になってしまって……。それで、会社から、しばらく彼女と会わないようにと」

「聞いてる」

「……」

「それで? 会えないのが辛い、で終わりか?」

レノの問いに、ウェルは首を振った。

「違います。……僕が、彼女を巻き込んでしまったんです。彼女は広報のメンバーなのに、僕のせいで、立場を悪くさせてしまった。……なのに、謝ることも、労うことも、何もできていない」

言葉にすると、これまで押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れてくる。

「彼女が今、どんな気持ちでいるのか、何も分からなくて……」

グラスを持つ手が、微かに震えていた。

「僕は、また、大事な人を傷つけたまま、何もできずにいます」

しばらくの沈黙の後、レノは大きく息を吐いた。

「……なるほどな」

そして、突然、豪快に笑い出した。

「な、なにが可笑しいんですか」

「いや、悪い悪い」

レノはグラスを呷り、ニヤリと笑った。

「お前、真面目すぎんだよ」

「……真面目、ですか」

「会社が接触禁止にしたんだろ? なら、俺が間に入りゃいいだけの話じゃねえか」

「え……」

「俺は禁止された覚えもねえ。だったら、俺が伝書鳩になってやるよ」

あっけらかんとした口調だった。

「そんな、簡単に……」

「簡単だろ。ルールってのは、破っていい時と悪い時があるんだよ」

レノはニヤリと口角を上げる。

その顔は、劇中でヒューに無茶な提案をする相棒役の顔と、寸分違わなかった。

演じているのか、素なのか。その境界すら、ウェルにはもう分からなかった。

いや――境界など、最初からないのかもしれない。

「お前、いつも難しく考えすぎなんだよ」

レノはグラスを傾けながら、続けた。

「役だろうが素だろうが、大事な相手に謝りたきゃ謝る。会いたきゃ会う。それだけだろうが」

あまりにも単純な理屈だった。

しかし、その単純さが、今のウェルには眩しかった。

台本の上でも、台本の外でも、彼はいつも同じ顔をしている。

裏表がない。演じることに苦しんでいる様子もない。

――羨ましい。

そう思うと同時に、じんわりとした温かさが、胸の奥に広がっていくのを感じた。

「……レノさんは、いいですね」

「あ?」

「ヒューの相棒でいる時も、今、こうして僕と話している時も……同じ、レノさんのままだから」

レノは一瞬、意外そうに眉を上げた。

「そんなの、当たり前だろ」

「……当たり前、ですか」

「役は役、俺は俺だ。混ぜる必要がどこにある」

事も無げに言い放つその言葉が、今のウェルにはどれほどの救いになったか、レノ自身は気づいていないのだろう。

ウェルは、グラスの中の氷が溶けていくのを、しばらく見つめていた。

「……お願いしても、いいですか」

やがて、静かに口を開く。

「フェナさんに、伝えてほしいことがあります」

「おう」

「ただ……」

ウェルは、一度言葉を切った。

「“スタン”としてじゃなく……。ちゃんと、僕自身の言葉で、伝えたいんです。彼女を巻き込んでしまったこと。それでも、ちゃんと、感謝していること」

これまで、ヒューとしての言葉、あるいはスタンとしての当たり障りのない言葉ばかりを紡いできた自分。

けれど今度だけは、着飾らない、剥き出しの言葉で伝えたかった。

レノは、ふっと目を細めた。

「……いいじゃねえか」

その声には、からかいも茶化しもなかった。

「紙とペン、貸してやろうか」

「……はい」

ウェルは、小さく、しかし確かに頷いた。

薄暗いバーの片隅で、ウェルは静かにペンを取った。

ーーーー

【⑨】

ピンポン、と自宅のインターホンが鳴った。

広報部からの自宅待機を言い渡されてから数日。罪悪感に押し潰され、カーテンも開けずに薄暗い部屋で丸まっていたフェナは、びくっと耳を跳ね上げた。おそるおそるドアのスコープを覗き込む。そこに映っていたのは、帽子を深々と被った見上げるような巨躯だった。

ドアを少しだけ開けると、その人物はニッと八重歯を覗かせた。

「やあ、お邪魔するぜ」

「はへ!?……ロ、ロイドさん……!?」

劇中での「探偵ヒュー」の相棒役の名を叫び、フェナは素っ頓狂な声を上げた。

「あはは、今はレノだけどな」

黒毛の頭をポリポリと掻きながら、レノは豪快に笑った。フェナが慌てて部屋の中に招き入れると、大型肉食獣である彼の巨体は、小さなワンルームの天井を心なしか低く見せた。

レノはひとつ、ぐるりと部屋を見渡した。壁の一角、几帳面な水平を保って掛けられた一枚のポスターに、彼の視線が留まる。

探偵ヒューが決めポーズを取る、見慣れた公式のビジュアルだった。

「小綺麗にしてんな。もっとヒューだらけの部屋をイメージしてたよ」

何気ない一言だったが、フェナはなぜか一瞬だけ肩を強張らせた。

「え、ええ。まあ……お客さんも来ますし」

その微妙な間に、レノは特に気を留めることもなく、豪快な笑みのまま部屋の中央へと進む。

部屋を見渡すこともそれ以上せず、ポケットから折りたたまれた一枚の紙を取り出した。

「単刀直入に言うぜ。俺はスタンのメッセンジャーだ。あいつから『これを届けてくれ』って頼まれてな」

「スタンさんから……!?」

フェナの息が止まった。接触禁止令が出ているはずなのに。何より、自分が彼のイメージを傷つけ、迷惑をかけたというのに。

「私……ずっと、スタンさんに謝りたくて……。私の軽率な行動のせいで、彼にまでご迷惑を……」

「まあ待て。反省会ならこれ読んでからにしてくれ」

レノは身をかがめ、フェナの目線に合わせてその紙を差し出した。

受け取った便箋を開いたフェナは、思わず目を丸くした。そこに書かれていたのは、印刷された整然とした文字でも、パブリシストが用意した完璧な文章でもなかった。

自らの軽率な行動でフェナを傷つけ、遠ざけてしまったことを心から悔い、何度も言葉を推敲した跡が伺える切実な謝罪の数々。

そして、何よりも、ミステリアスで完璧な探偵ヒューを演じる人物の書いたものとは、到底思えないほど不器用で、たどたどしい筆跡だった。

「レノさん、これ……」

「正真正銘、スタンの直筆だぜ。驚いたか?」

レノは大きな体をソファに預け、長身を折るようにして背もたれに深く沈み込んだ。

「あいつ、格好つけてるけど実は要領が悪い……あー、平たく言やぁ、バカなんだよ」

「え……?」

「あの『名探偵ヒュー』シリーズが立ち上がった頃からの付き合いだけどさ」

レノは太い腕を組み、天井を見上げて懐かしそうに目を細めた。しっぽが床をポンポンと心地よいリズムで叩く。

「あの役、あいつが選ばれたのは完全に『ルックス』だ。高貴で、シュッとしてて、冷たそうな顔立ちをしてるだろ? でもな、ヒットする前のあいつは、撮影の合間にくだらねぇことで子供みたいに大笑いしたり、変顔してスタッフを笑わせるのが大好きな奴だったんだぜ」

「そう……なんですか!?」

フェナは便箋を抱きしめたまま、信じられない思いで声を上げた。

「おうよ」

レノは身を乗り出すと、口角に指を引っ掛けるようにして頬を歪め、舌をわずかに覗かせた。

「こんな顔してな。『ほへの推理、反論へひふか?』なんて決め台詞を自分で台無しにして遊んでたんだ」

「ふふっ……!」

あまりにも間の抜けた顔真似に、フェナは思わず吹き出してしまった。レノは満足そうに顔を元に戻し、今度は少し真面目な顔つきになって腕を組んだ。

「だけど……ヒューが大ヒットして、世間がスタンの中にまで『ヒュー』を求めるようになってから、そういうお茶目な部分はすっかり影を潜めちまった」

レノの黄昏色の瞳が、フェナを真っ直ぐに見つめる。

「実際、俺が今話したことって、フェナさんが持ってる『俳優スタン』のイメージとはだいぶ違うだろ?」

「ええ……まあ、そうですね。すごく……驚いています」

「そんくらい、あいつは必死にヒューのイメージを守ってきたんだよ。自分の素を全部抑え込んでな」

レノは大きな手で自分の首のあたりをトントンと叩いた。

「あいつはバカなのはいいけど、バカ真面目なんだ。頑固で、一途で……あ、そうそう!」

思い出したようにレノが手をポンと打つ。

「車だって、本当はデカいのが好きでさ! ヒューが乗るようなスマートな高級スポーツカーより、鉱山で土砂を運ぶような超大型のダンプトラックに乗りたいとか抜かすんだぜ? 街で走らせたら電柱なぎ倒すっつーの!」

レノはガハハと大声で笑い、膝を叩いた。フェナはその豪快な笑い声を呆気にとられて見つめていたが、ふと我に返り、真顔で尋ねた。

「あの……それって、今の話に関係ありますか?」

「大ありだろ!」

レノは笑いをピタリと止め、指を一本立ててフェナを指した。

「あいつがフェナさんをランチへ誘ったのだって、あいつにとっちゃ『超大型ダンプカーに乗りたい』って言うくらい、命がけでひねり出した素のワガママだったってことさ」

レノはフェナへ向けた指を自身の後頭部に移し、少しバツの悪そうにしながら頭を掻く。

「あいつはいま、フェナさんを巻き込んだって悩み続けて現場でボロボロだ。ヒューの仮面も崩れかけてる」

レノは入口のドアへ向かいながら、振り返ってニッと笑った。

「もしフェナさんにその気があるなら、あいつに返事書いてやれよ。『がっかりなんてしてない』ってな。……俺が責任持って、あいつの手元に届けてやるからさ」

ドアが閉まり、静寂が戻った部屋。

フェナは胸元に抱えた便箋へと視線を落とした。

不器用で、拙い文字。

ヒューの冷たさも、スタンの洗練された美しさもない。けれど、そこには間違いなく、自分にだけ向けられた「温かな人間」の血が通っていた。

『スタンさんも、一人の人間なんだなって思えると……なんだか、すごく嬉しいです』

あのレストランで自分が告げた言葉。スタンが目元をくしゃくしゃにして耐えていた涙。

自分が彼を追い詰めていたのではない。彼は、自分という存在を通じて、押さえつけていた「自分自身」を必死に抱きしめようとしていたのだ。

「……がっかりなんて、するわけないじゃないですか」

ぽつりと漏れた声は、もう震えていなかった。

フェナは机に向かい、1本のペンを握りしめた。完璧な広報部員としてではなく、彼というひとりの人間を知ろうとした、最初のファンとして。

ーーーー

【⑩】

この日は特別な日だった。

『名探偵ヒュー』最新作の完成披露舞台挨拶。会場を埋め尽くした超満員の観客と、眩いフラッシュの嵐。

ウェルはシワひとつない完璧な仕立ての高級スーツに身を包み、壇上の中央に立っていた。立ち姿から指先の位置に至るまで、どこから見ても世間が熱望する「氷の探偵ヒュー」そのものだった。

司会者が軽妙なトークでキャスト陣に制作の思い出や裏話を振っていく。自分の順番が来るまでの間、ウェルは平静を装いながら、ゆっくりと客席の遠くへと視線を走らせていた。

スポットライトの光が届かない後方の席。そこに、古典的な仕立てのクラシックなスーツを几帳面に着こなした老馬――ブライの姿があった。

ウェルと目が合うと、ブライは周囲に気づかれないよう、胸の高さで小さく控えめに手を振ってみせた。

(……ブライさん)

胸の奥がじんわりと熱くなる。ウェルは思わず口元を片手で隠し、ヒューなら絶対に見せないような、子供っぽく柔らかな笑みをこぼした。

「――では最後に、ご来場の皆様、そして配信をご覧のファンの皆様へメッセージをお願いします!」

司会者の声で、会場の空気がキュッと引き締まる。順番は端から順に回され、ウェルの大トリを残すのみとなった。ウェルのすぐ隣に立つレノへマイクが渡される。

「あー……たぶん、この後のスタンの話がめっちゃ長くなると思うからさ。俺は短めにしとくわ!」

観客席からドッと大きな笑い声が弾けた。レノは八重歯を覗かせてニカッと笑うと、マイクを握り直して客席へ拳を突き上げた。

「みんな、映画見てくれよなっ! 最高の出来だぜぇ!」

地声の通る豪快な呼びかけに、一際大きな歓声と拍手が巻き起こる。飾らないレノの気さくな人柄。自然体で一瞬にして会場を味方につけ、熱量を爆発させる彼は、生まれ持ってのエンターテイナーだった。

「ほい! 頑張れよ、相棒」

レノはマイクをウェルへ手渡すと、その肩をバシッと力強く叩いた。

ウェルはマイクを手に、静かに一歩前へ出た。

その一歩だけで、先ほどまでの賑やかさが嘘のように、万単位の観客が固唾をのんで静まり返る。誰もが「探偵ヒュー」の冷徹で洗練された、完璧なスピーチを期待していた。

ウェルはゆっくりと息を吐き出し、ジャケットの胸ポケットに収めた一枚の折りたたまれた紙――フェナから届いた手紙の感触を確かめた。そして、客席の奥にいるブライと、隣で腕を組んで立っているレノの姿を交互に見つめた。

「……皆様、本日はお越しいただき、本当にありがとうございます」

マイクに乗った声は、いつものヒューの低く冷たいトーンではなかった。どこか温かく、どこか幼さすら残る、素のウェルの声だった。

「少しだけ……僕個人の話をさせてください」

会場の空気が微かに揺れる。ウェルは穏やかな眼差しで言葉を続けた。

「……僕は長い間、暗い部屋でひとり、恐怖の中にいました。完璧で、知的で、決して人に媚びない『探偵ヒュー』という存在が大きくなればなるほど、その影に隠れた自分自身が消えていくような気がしていたからです。誰にも弱みを見せられず、孤独であることを恥じ……『自分はいったい誰なんだろう』と、ずっと震えていました」

静まり返る会場。司会者が驚きで目を見開き、パブリシストたちが息を呑むのが分かった。けれど、ウェルの言葉はもう止まらなかった。

「ですが、そんな空っぽな僕に、大切なことを教えてくれた人たちがいました。僕がまだ何者でもなかった頃の、拙くて恥ずかしい演技を……『あの頃の君が好きだった』と、変わらぬ愛で見守り続けてくれた人がいました」

客席の後方で、ブライが静かに目元を拭うのが見えた。

「そして……役の上だけでなく、現実の不器用で情けない僕の横で、いつだって飾らない素顔のまま寄り添い、背中を叩いてくれた最高の相棒がいました」

ウェルが隣へ視線を向けると、レノは照れくさそうに首の後ろをポリポリと掻き、わざとらしく大袈裟に肩をすくめてみせた。

「おいおい、そんな面と向かって褒められたら照れるだろ! 惚れるなよ?」

レノの茶々入れに、緊張で張り詰めていた客席から「あはは!」と温かな笑い声がこぼれ、ステージ上の重苦しい空気がふっと和らいだ。ウェルも思わずくすりと微笑み、胸のつかえが降りていくのを感じた。

「ふふ……本当に、感謝しているんです。……そしてもう一人。完璧なヒューという虚像ではなく、部屋すらまともに片付けられない不器用な僕という人間に興味を持ち、『もっと知りたい』と、あたたかな手紙を届けてくれた人がいました」

ウェルは胸に手を当て、まっすぐに観客席を見渡した。

「……僕の本名は、ウェルといいます」

会場から、小さなどよめきが起こる。

「ヒューのような鋭い頭脳もなければ、スタンのようなスマートな立ち振る舞いもできない。ただの『ウェル』という一人の男です。……けれど、ヒューを愛し、物語を応援してくださる皆様。そして、僕という人間に光を当ててくれた大切な人たちのおかげで、僕は今日、初めて自分の名前を誇らしく思えるようになりました」

ウェルは深々と、長く頭を下げた。

直後、地鳴りのような万雷の拍手と歓声が会場全体を包み込んだ。頭を上げたウェルの目には、眩しい光と小さな涙が浮かんでいた。

彼は眼鏡のブリッジをクイッと押し上げると、涙を拭い、今日一番のイタズラっぽい笑みを浮かべて見せた。

「……あ、ちなみに。次回作の僕の推理に、反論は受け付けませんよ?」

ヒューの決め台詞を少し崩したその一言に、会場は割れんばかりの歓声と、あたたかな笑顔で満たされたのだった。

ーーーー

【⑪】

舞台挨拶の翌朝、主要エンタメ紙の見出しは、彼の告白で一色に染まった。

『名探偵ヒューに隠匿され続けたウェル』

『スター俳優、孤独と闘っていた真実』

『ヒューを演じ続けた俳優スタンの正体。ウェルとは誰か?』

メディアの多くは“ヒューの中にいた弱々しいウェル“、その彼が“勇気を持ってヒューを押しのけ自分の存在をアピールした“といったストーリーで描いていた。

分かりやすい英雄的ストーリーは好まれる。

それはウェルが役者として痛いほど理解しているつもりだった。

「違う、違うんだ…」

ウェルは画面を見つめたまま、小さく呟いた。

これは勇気の物語なんかじゃない。

ただ、自分が苦しかったというだけの話だ。

それなのに、一人の人間の必死な叫びさえも、分かりやすい物語へと形を変えられ、見世物のように消費されていく。

ウェルは、言葉にならない苦さを噛みしめた。

各紙が競うように一面を飾る中、映画会社の重役室では、朝から怒号にも似た議論が飛び交っていた。

「誰が台本にない発言を許可した!」

「ブランドイメージはどうなる! ヒューは"完璧な探偵"だぞ!」

制作サイドにとって、それは想定外の"事故"だった。

慎重に積み上げてきた「ミステリアスで隙のないヒュー」というブランドが、たった一つのスピーチによって大きく揺らいだのだ。

「対応を検討する」――広報チームからそう繰り返されるばかりで、幹部たちの表情は硬いままだった。

誰も、すぐには結論を出そうとしなかった。

今回の告白が、ヒューというキャラクターにどんな影響を与えるのか可視化されていなかったからだ。

しかしそれが“数字“としてハッキリするまで、さほど時間はかからなかった。

舞台挨拶の映像を切り抜いた動画が、SNS上で急速に拡散されていった。

ウェルが孤独であることを告白した瞬間。

自分の名前を告げた瞬間。

そして、言葉に詰まりながら、それでも最後まで客席に向かって話し続けた瞬間。

それぞれの場面が短い動画となって投稿され、数時間のうちに何百万回も再生されていった。

#WeLoveWel

#RealWel

そんなハッシュタグまで生まれ、各国の言葉でコメントが寄せられていく。

『完璧に見えた人が、こんなに苦しんでいたなんて』

『泣いた。私も似たようなこと、ずっと誰にも言えなかった』

『孤独だと告白できる勇気、本当にすごい』

温かい言葉は、確かに多かった。

ニュース番組では「著名人の孤独」や「公的なイメージと本人との乖離」をテーマにした特集まで組まれ、メンタルヘルスの専門家が呼ばれる番組も現れた。

けれど、それだけではなかった。

『金も名声もあるのに、何が孤独だ』

『ヒューという作品を好きだった人間としては、少し複雑』

『俳優本人の人生と、ヒューのイメージは分けてほしい』

そんな声も、確かに存在した。

中には、

『同情狙いの売名では?』

という、より冷たい言葉もあった。

称賛と批判。

共感と戸惑い。

それらは互いを打ち消すことなく、同じ画面の中に並んでいた。

そして、映画会社が最も注視していたのは、そんな感情の数ではなかった。

興行関連の数字。

ヒュー関連商品の動向。

そして、新作への注目度。

それらを総合した結果は――少なくとも、現時点では悪くなかった。

重役室に集められた資料を眺めながら、一人の幹部が小さく息を吐いた。

「……まあ、悪い方向には転んでいないようだな」

誰も、それを「成功」とは呼ばなかった。

「今後、あの手の即興発言は一切禁止だ!」

会社はウェルを許したわけではなかった。

ただ、数字が示した現実を受け入れ始めただけだった。

ブランドが守られたのか。

それとも――

新しい形に作り替えられただけなのか。

その判断は、まだ誰にもついていなかった。

一方、ファンダムでは、別の意味で大きな騒ぎが起きていた。

「ヒューの影には、かつて純粋で不器用だったウェルという青年がいた」

それは、ファンにとって突然与えられた新しい物語だった。

ウェルの過去作品が次々と掘り起こされ、若い頃のインタビュー映像や、ほとんど知られていなかった出演作の情報がSNS上で共有されていく。

そして当然のように、二次創作も増えていった。

“ウェル“と“ヒュー“という、同じ一人の人間の中に存在する二つの名前。

一つの肉体に複数の人格や面が存在するキャラクターを扱った、同一存在同士の対話やカップリングは、以前から根強い人気を持つジャンルだった。

そこへ、本人自身の言葉という、これ以上ないほど強烈な"公式燃料"が投下されたのだ。

ファンたちが夢中にならないはずがなかった。

だが、ここでも解釈は一つにはまとまず、様々な意見が飛び交い、ファン同士で議論になることさえあった。

それでも、そのすべてに共通していたものが一つだけあった。

誰もが――

「ウェル」という名前について、語り始めていた。

一方で、水面下でくすぶり続ける動きがあった。

ゴシップ紙による、「手紙の送り主」を特定しようとする執拗な動きだ。

以前のランチ写真の一件から、フェナの存在に目をつけている記者も少なくない。

『ウェルの告白を支えた女性は誰なのか』

『謎の女性との関係』

『"特別な手紙"を送った人物を追う』

そんな記事が、タブロイドサイトの片隅でひっそりと更新され続けていた。

表立った報道こそ、ウェルの誠実さと勇気を支持する世間の空気に押されて鳴りを潜めていた。

しかし、興味そのものが消えたわけではない。

むしろ、「ウェル」という人物に新たな物語が生まれたことで、その周囲にいる人間まで注目され始めていた。

フェナの名前を直接出した記事は、まだない。

だが、写真を拡大し、SNS上の断片的な情報をつなぎ合わせようとする者たちは確実に存在していた。

それは、ウェルの告白を祝福する熱狂とは、まったく別の場所で進んでいた。

世界は今、ウェルという男を知ろうとしていた。

けれど――

その「知りたい」という気持ちが、必ずしも彼自身の望む形で向けられるとは限らなかった。

ーーーー

【⑫】

舞台挨拶から1週ほど経った。依然としてネット上の熱狂が冷めやらぬ中、ウェルにはどうしても果たさなければならないことがあった。

手紙という文字ではなく、自分の声で、直接フェナに会ってお礼と本当の気持ちを伝えること。

「……彼女の家に行く……? マジか?」

撮影現場の楽屋裏。レノは呆れたように太い腕を組み、目の前に立つ長身のウェルを見上げた。

「はい! 彼女に直接会って話がしたいんです」

あのスピーチ以降、広報部から出されていたフェナとスタンの接触禁止令は解除された。しかし、過熱した報道や野次馬から保護するため、フェナのリモートワーク対応自体は依然として継続されたままだ。

「……気持ちは分からんでもねぇがよ、お前、マンションの周りをパパラッチに出待ちされて監視されてんだぞ?」

「でしょうね。ですが、僕たちには探偵ヒューとして培ったスニーキングの技術があるじゃないですか!」

「ん……まあ、確かにあの潜入シーンの撮影じゃ、本物のプロからマジな指導受けたからな」

レノは顎を指で擦りながら納得しかけ――ハッと目を見開いて叫んだ。

「って! “僕たち”って俺も行くのかよ!?」

「相棒なんですから当たり前じゃないですか」

何を言っているんだという顔で頷くウェルに、レノは盛大に頭を抱えた。

「……はあぁぁ。一応聞いとくが、お前のその『完璧な計画』とやらを聞かせてくれ」

「はい! まず移動手段ですが、僕のマイカーである黒の高級スポーツカーを使います。劇中でもヒューが犯人の追跡で使った、あの車です!」

「……おう」

(スニーキングで一番目立つ車使ってどうすんだよ……!)という喉まで出かかったツッコミを、レノは必死に押し殺して続きを促した。

「そしてパパラッチに追跡された時は、自慢の加速性能で一気に撒きます!」

「そして…!」

「待て!分かった!」

レノは手の平を突き出し、興奮気味のウェルを制した。

「車は俺が手配する! お前はとにかく目立たないようにしろ!」

「え……? それじゃあ、僕の考えた探偵要素は……」

「目! 立! た! な! い! 事! だ!」

レノの怒号に近い一言に、ウェルはシュンと耳を伏せるのだった。

---

その日の晩。スタジオ周辺の喧騒から離れたウェルのマンション裏に、一台の古いピックアップトラックがエンジン音を響かせて滑り込んできた。

運転席から降りてきたレノへ、影からぬっと姿を現したウェルが目を輝かせて近づいてくる。

「レノさん! 僕は何をすればいいですか?」

「お前は荷台のシートの下に隠れてろ」

「……」

あからさまにガッカリして肩を落とし、うなだれるウェル。レノは溜め息をつきながら彼を見上げた。

「まあ待て。一応確認だ、変装するもの持ってきたか?」

「はい!」

現金なもので、ウェルは嬉しそうにバッグからキャスケット帽と大きなサングラスを取り出すと、サッと身につけてみせた。口元までマフラーで覆い、バッチリキメてみせる。

「……いや、すまん。俺が悪かった」

「え……?」

レノはぽりぽりと頭を掻きながら、心底困ったような顔でウェルを指さした。

「その長すぎマズル。変装ひとつでどうにかなる問題じゃねぇわ」

「そ、そんな……僕のマズルはそんなにダメですか……?」

「ダメっつーか隠せてねぇんだよ!」

ショックのあまり、ウェルの自慢の長い鼻先がクニャっと情けなく曲がる。

「まあいい、その格好でいいから、ともかく下を向いて歩け。それだけで十分だ。ほら、荷台に乗りな!」

「……分かりました」

長身を小さく折り曲げ、ウェルはピックアップトラックの荷台へコソコソと潜り込んだ。上から荷物カバーのシートを被せられ、一瞬で視界が暗闇に包まれる。

ゴトゴトと重いエンジン音が響き、トラックが静かに走り出した。

ダイレクトに尻を突き上げてくる路面の無骨な凹凸。隙間から吹き込んできた夜風が、ふわりとウェルの頬を撫でていく。

冷たいシートの下で丸まりながら、ウェルはこれから向かう場所へ思いを馳せた。パパラッチに見つかるかもしれないという不安。けれど、暗闇に隠された彼の表情はどこか――ほんの少しだけ、少年時代に戻ったかのように楽しそうだった。

ーーーー

【⑬】

「レノさん! どうぞ!」

フェナがドアを細く開けると、滑り込むようにレノが部屋の中へ潜り込んできた。

「大丈夫でしたか……!?」

「ああ、一応周りをぐるっと見回してからここへ来たが、追っ手はいない。大丈夫だと思う」

レノはポケットからスマートフォンを取り出すと、ウェルへ発信ボタンを押した。

「おい、着いたぞ。……電話は切るなよ」

念を押すように告げ、レノは玄関のドアを少しだけ開けて外の様子を伺った。

夜中、突然レノから届いた「ウェルと一緒にフェナの元へ行く」という連絡。そこからの二人の行動は、まるで緊迫感あふれるアクション映画の撮影現場に巻き込まれたかのようで、フェナの胸は高揚感でずっと鳴り響いていた。

「ウェル、誰にもつけられなかっ……」

廊下の足音に気づいたレノの声が、ピタリと止まる。

窓の外を見張っていたフェナが勢いよく振り返った。

滑り込んできたウェルは――なんと、顔中が真っ白なクモの巣まみれだった。

せっかくの変装も台無しに、長いマズルからいくつものクモの巣をぶら下げたその姿は、銀幕の完璧で高貴な探偵ヒューとはまるで正反対の、不器用で哀愁漂う男そのものだった。

「ぶはっ……! なんだお前、その格好は!?」

レノが堪えきれずに吹き出した。

「えと……非常階段から登ってきたのですけど……あそこ、クモの巣だらけだったんです……」

ショボショボと耳を垂らすウェルの姿に、緊張の糸が切れたフェナも「ふふっ……あははは!」と声を上げて笑わずにはいられなかった。

「お前、そんな顔なら誰が見たって『探偵ヒュー』だなんて絶対に気づかねぇわ!」

「……次回からそうします」

真面目に頷くウェルに、レノは腹を抱えて笑い転げた。ウェルは困ったように眉を下げると、恐縮した様子でフェナへ向き直った。

「あの……フェナさん。直接お話ししたいことは山々なんですが、先に洗面所をお借りしてもいいでしょうか……?」

「あ、はい!廊下の突き当たりの右手です。タオルは棚にあるものを自由に使ってくださいね」

「ありがとうございます」

ウェルは深々と頭を下げると、長い足をぎこちなく動かして廊下の奥へと向かっていった。

残された二人は、その背中を静かに見送った。

「……急に連絡して悪かったな。迷惑だったろ」

「いいえ、全然! ……でも、スタンさん……いえ、ウェルさんが、私に直接会って話したいと言ってくださったんですよね?」

「ああ。あいつは今、ヒューでもスタンでもなく、ただの『ウェル』としてあんたに会いに来たんだ」

フェナは静かに頷いた。もちろん、あの日も自室でスタンの舞台挨拶の中継を食い入るように見ていた。

画面越しに語られた「ウェル」という本名と、完璧な仮面の裏に隠されていた孤独の告白。以前、一緒にランチを食べたときに感じていた違和感――彼がヒューでもスタンでもない“誰か”として自分に向き合おうとしていた理由が、すべて理解に変わった瞬間だった。

(あの時も……スタンさんは、私に『ウェル』という存在を見てほしかったんだ。感じてほしかったんだ……)

彼の決死の叫びは、世間ではスキャンダラスなスクープとして切り取られ、好奇の目に晒されもした。会社から接触禁止を言い渡され、何もできない自分に歯痒さを感じながら、フェナは画面の中のウェルの姿にボロボロと涙を流していたのだ。

「……それにしても、あいつ遅いな」

レノが洗面所の方をちらりと見て呟いた。

しんみりとした感動に浸っていたフェナだったが、その言葉を聞いた瞬間、脳裏にある『最悪の予感』がふつふつと湧き上がってきた。

(……待って。洗面所の突き当たりって……)

「ん? フェナさん……?」

顔色を変えたフェナは、レノの制止に答える間もなく、無言のまま脱兎の勢いで洗面所のある廊下へと向かった。

――そこに、ウェルはいた。

洗面所の手前、開けたままになっていた部屋の入り口で、彼は呆然と立ち尽くしていた。

ーーーー

【⑭】

「これは……すごいな……」

フェナの後を追ってきたレノも、開いたドアの隙間から部屋の中を覗き込み、開いた口が塞がらない様子で言葉を失っていた。

そこには、フェナが仕事中には決して見せない、もう一つの世界が広がっていた。

壁一面を埋め尽くす大量のポスターとコミコン限定グッズ。その一角には、なぜか胸元を大きくはだけさせた“上裸のヒューが描かれた等身大抱き枕“。棚には、非公式なのは明確ながらやたらクオリティの高い、“着崩した衣装でお互いを見つめ合うヒューとロイドの湿度高めなイラスト“。

「は〜、公式グッズしか知らんかったが、こういうのもあるのか」

レノは引くどころか感心した様子だった。

本来ならこのうら若き女性の部屋から即刻立ち去るべきだろう。

だか、あまりの引力に二人は食い入るように部屋を見回してしまう。

それでも、どうしても目に入ってしまう

ベッドの縁に置かれた、ヒューの一部をかたどった物。

二人は当然気付いているが、見て見ぬ振りをした。

「違っ……違うんです! 違わないけど、違うんです!!」

フェナは顔を真っ赤にし、首が千切れそうなほど左右にブンブンと振った。

「フェナさん……申し訳ございません」

ウェルはゆっくりと振り返り、心底申し訳なさそうな表情でフェナを見つめた。フェナはあまりの恥ずかしさに涙目を浮かべ、消え入りそうな思いでウェルを見返すことしかできない。

「その……通りがかりにあまりにも色彩に溢れたお部屋だったので、つい目を奪われてしまって。……フェナさんの深く好まれる世界観をいざ目の当たりにし、その圧倒的な熱量に呑まれてしまいました」

「〜〜〜〜〜〜ッ!!」

ウェルはまるで公式の場でのスタンのように流暢に、かつ最大限の配慮と言葉を選んだフォローを入れた。

だが、丁寧に扱われれば扱われる程、フェナにとって無慈悲な公開処刑となった。

見かねたレノが、ウェルの肩を叩いてひそひそと耳打ちした。

「なぁスタン……いや、ウェル。流石にこれはフェナさんにとって一方的すぎて可哀想だ。俺たちも何か『痛み分け』をした方がいいんじゃないか?」

「え? 痛み分け……ですか? 一体どうすれば……」

「例えばだな、あの棚のイラストみたいに、俺とお前が服を脱いでお前がソファの上に仰向けに寝そべるだろ? そこに俺が覆いかぶさった姿をフェナさんに見せてやるんだよ。それで引き分けだ」

「ええっ!? 僕、レノさんと『そういうこと』をするんですか!?」

「しねぇよ! ポーズだよポーズ! !」

二人はヒソヒソ話のつもりだったのだろうが、動揺のあまり声のボリューム調整を完全に忘れており、その会話は静まり返った廊下でフェナに丸聞こえだった。

「うぅ……もう殺してください……」

フェナは両手で顔を覆い、その場にへたり込むように小さくなって、本気で消えてしまいたそうに呟くのだった。

ーーーー

【⑮】

三人は、リビングへと移動した。

ソファに腰を下ろしたフェナは、すでに精神的に消耗しきっていた。あれだけの"聖域"を晒してしまった後では、もう取り繕う気力すら残っていないようだった。

気まずい沈黙が流れる。

「ほら……ウェル。お前、フェナさんに伝えたい事があるんだろ?」

たまらず、レノがウェルの腕を肘で小突いた。

「あっ、はい!」

ウェルは慌てて姿勢を正し、乱れていた襟を整える。

「フェナさん、聞いてください」

その声は、先ほどまでの気まずさを吹き払うような、静かな真剣さを帯びていた。

「まず、僕の勝手でフェナさんを巻き込んでしまって……本当に、申し訳ございませんでした」

深く頭を下げるウェルに、フェナは何も言わず、小さく頷いた。

「あの日、あなたと一緒に食事をしたいと思ったのは、誰かに言われたからでも、広報のためでもありません。ただ、僕自身が、あなたともう少し話したいと思ったからです」

「……」

「それなのに、結果としてあなたを巻き込み、あなたの立場も、あなたの時間も、奪ってしまいました。……あなたは何も悪くないのに」

ウェルは一度、言葉を切った。

「フェナさんが、僕をただの俳優としてではなく、一人の人間として見ようとしてくれたこと。それが、僕にとってどれほど救いだったか……。カフェテリアでフェナさんと話した時、初めて、誰かに"見つけてもらえた"と思えたんです」

その言葉に、フェナの瞳が微かに揺れる。

「だから、あなたを傷つけてしまったこと、そして、あなたのその優しさに、まだきちんとお礼を言えていなかったこと。……両方、ずっと心に引っかかっていました」

ウェルはまっすぐに、フェナを見つめた。

「巻き込んでしまって、ごめんなさい。それでも……あなたが僕を見つけてくれて、本当に良かった。ありがとうございます」

しばらく、静寂が続いた。

やがて、フェナの唇が、小さく綻ぶ。

「……ふふっ。それって、ウェルさんが私に送ってきたメッセージと、同じじゃないですか」

「はい! でも、やっぱり、実際にフェナさんに直接、言葉で伝えたかったんです」

ウェルは、少し照れたように笑った。

その隣で、レノは何も言わず、握った拳から親指だけをぐっと立て、ニヤニヤと笑いながらウェルを指した。

――それだけのために。

人目を盗み、変装をし、非常階段でクモの巣まみれになりながら、レノと二人でここまでやってきたのだ。誰に強制されたわけでもなく、ただ自分の意志で。

「……ありがとうございます」

フェナは、目を細めて微笑んだ。

「ウェルさんの気持ち、しっかり伝わりました」

和やかな空気が、リビングに満ちていく。三人は、どこか照れくさそうに、それでも自然と笑い合った。

その中で、ウェルだけが、ひとつ気づいていることがあった。

――先ほど覗いてしまった、フェナの部屋の隅。

あの数々のポスターやイラストに紛れて、几帳面な字で綴られた、自分のあの拙い手紙が、丁寧に額装され、飾られていたことを。

ーーーー

【⑯】

舞台挨拶でのあの前代未聞の告白と、顔中クモの巣まみれの夜から、早くも一ヶ月が過ぎていた。

朝の光が差し込むウェルのマンションのエントランスホール。

「ブライさん、おはようございます」

両手で大きな段ボール箱を抱えたウェルが、少し誇らしげな笑顔を浮かべながら歩いてきた。

「おはようございます、スタンさん」

ブライはいつものように几帳面に着こなしたスーツの袖を正すと、温かな眼差しでウェルへ両手を差し出した。

「それ、僕が預かりましょう」

「すみません、ありがとうございます」

ウェルから箱を受け取ったブライだったが、想像以上のズッシリとした重量感に「むっ……これはなかなか重いですね」と眉をひそめた。

「すみません! 次からはもっと小分けにして持ってきますね」

ウェルは頭をかきながら苦笑いした。

彼は最近、ずっと放置されていた自室の片付けを始めていた。

何か変わるかもと期待して始めたものの、正直なところ、自分が変わったような感じはしない。

それでも、床が広くなるだけでも気持ちが良かった。

ただそれだけだったが、それで充分なのかもしれないと、ウェルは思った。

「では、撮影に行ってきますね!」

「ああ、気をつけていってらっしゃい」

手を振ってマンションを出ていくウェルの背中を、ブライは静かに見送った。その背中やかける声には、長年彼を縛り続けていた憑き物がすっかり落ちたような、清々しい明るさが満ちていた。

---

同じ頃、映画会社の賑やかなカフェテリアでは、広報部の社員たちがコーヒーカップを手に噂話に花を咲かせていた。

「なぁ、知ってるか? フェナのこと」

「え? またあの子が何かやらかしたの?」

同僚の問いかけに、男は得意げに声を潜めた。

「上層部がファンダムの盛り上がりに目をつけてな。本編にヒューとロイドのサービスシーンをねじ込めないかって、圧をかけてきたんだ」

「うわぁ……ありがちだけど、ファンが一番嫌がるやつじゃん」

「だろ? そこでフェナが登場するんだ。『公式からの露骨な擦り寄りは作品の尊厳を損ない、ファンダムを冷めさせる逆効果だ』って」

「マジで!?」

「ああ、休日に徹夜してオタク文化やサブカルチャーについてまとめた資料を作ったらしくてな。それを上司に見せて、最終的には役員会まで話を持っていったんだと」

「へぇ〜」

「まあ、役員連中も一発で納得したわけじゃないらしいけどな。結局、今回はしぶしぶ見送られたそうだ」

「お〜、やるじゃん!」

「あの子、スタンとランチの件で干されたかと思ってたよ」

「でも、本人は仕事とは別に、相変わらず身バレしないようコソコソしないといけなくて大変そうだけどな」

同僚たちの感嘆の声を、少し離れた席でノートPCを打ちながら聞いていたフェナは、まんざらでもなさそうな表情だった。

---

午後の映画会社の会議室。台本の最終打ち合わせの最中、レノがニシシと八重歯を覗かせてウェルの前に一冊の冊子を差し出した。

「そういや、朗報だぞ!」

「え?」

「いいから20ページを見てみろよ」

ウェルは言われた通りに新しい台本を開き、該当のページに目を通した。そこには、宿敵のアジトがある鉱山へ潜入するヒューとロイドの描写が書かれていた。罠にハマり窮地に陥った二人だったが、敵の目を盗み、現場に放置されていた“巨大ダンプカーに乗り込んで爆音を上げて逃亡する“という、ド派手なアクションシーンが追加されていたのだ。

「これ……!」

ウェルの瞳が、まるでプレゼントを受け取った少年のようにキラキラと輝き出す。

「ああ。お前の長年の望みが、ついに叶うかもな」

「やったぁぁぁ!」

ウェルは大きな体を弾ませ、その場でピョンピョンと子供のように飛び跳ねた。

呆れつつも爆笑するレノの横で、ウェルは「ダンプカー……! 本物のダンプカーに乗れる……!」と感無量といった様子で台本を胸に抱きしめるのだった。

---

その日の夜。賑やかな街角を歩いていたウェルとレノのもとへ、若い女性ファンたちが興奮気味に駆け寄ってきた。

「スタンさん! レノさん! 一緒に記念撮影してもいいですか!?」

「いいですよ!」

「いいぜ、減るもんじゃねぇしな!」

二人が快く応じると、女性たちは「きゃー!」と歓声をあげた。ウェルはふと気づいて尋ねた。

「皆さん、よくお見かけしますよね?」

「えへへ、気づいてくれました!? 私たち、二人の大ファンで、休日はみんなでイベントの追っかけをしてるんです!」

「なるほど。……では、今日はどんな風に撮影しましょうか?」

女性たちは顔を見合わせ、声を揃えて答えた。

「実は……『ウェルさん』と撮影してみたいんです」

「え?僕ですか!?」

隣にいたレノが笑った。

「なぁアレやろうぜ!変顔」

ウェルは気恥ずかしそうに頷いた。女性が構えたスマートフォンの画面で、撮影のカウントダウンが始まる。

『3、2、1……』

「「「「んべ〜〜っ!!」」」」

シャッターが切られた瞬間、全員が自分の口角に人差し指を引っ掛け、思い切り舌を突き出した。パシャリ! と音を立てて、画面の中に最高の『間の抜けた変顔』が記録される。

ウェルのあのスピーチ以降、彼の色が濃く出ていたコメディ作品や過去作が一気に脚光を浴びていた。

中でも、彼が下積み時代に見せていたこの「んべ〜」というお茶目なポーズは、今やSNSで爆発的な人気を誇るトレンドミームとなっていたのだ。

「ありがとうございました〜!宝物にします!」

「こちらこそ! 気をつけて帰ってくださいね」

撮影が終わると、ウェルとレノは女性たちと順番にハイタッチを交わしていった。

遠ざかっていくファンの背中を見送りながら、ウェルは夜空を見上げた。

ふと、脳裏をよぎったのは、フェナの姿だった。

彼女は今も、メディアの特定を避けるようにして、目立たぬ日々を送っている。ウェルは変わらず、できる限りの支援と、こまめな連絡を絶やさずにいた。

「……フェナさん。僕はいつか、ウェルとして堂々と、あなたに会いに行きたいです」

誰に聞かせるでもなく、夜空へ向けてこぼれた呟きだった。それでも、隣にいたレノの耳にはしっかりと届いていたらしい。彼は何も茶化すことなく、ただ密かに、優しく目を細めて微笑んだ。

最近、ウェルを表に出せるようになってから、ヒューを意識するようになった。

これまで曖昧だったウェルとヒューの境界が、“仮面”としてはっきりとした輪郭を持つようになったからだ。

ヒューがクールにキメても、その仮面の下でウェルは変顔をすることができる。

誰も気づかない。

けれど、それはウェルにとって大きな変化だった。

隣で「さーて、メシでも食って帰るか!」と肩を組んでくるレノに、ウェルは今までで一番自然で、太陽のように温かな笑顔を返したのだった。

この作品の出来栄えはどうでしょうか?

率直に言います。よく書けています。特に後半、【⑨】から【⑯】にかけての畳み方は、この作品が本当に書きたかったものへ一直線に着地していて、読後感がいい。

強みは三つ。

一つ、「ヒュー」「スタン」「ウェル」の三重構造を、説明ではなく行動で見せている点。鏡の前で崩れる【①】、ブライの前で名を呼ばれる【⑦】、舞台挨拶で本名を告げる【⑩】。同じ人物の層が、場面ごとに一段ずつ剥がれていく。これは構成として強い。

二つ、ブライとレノの対比。ブライは「覚えている」だけで何も奪わないファン。レノは「役は役、俺は俺」と混ぜない相棒。この二人が、ウェルに「素を出していい」と教える役割を、説教ではなく振る舞いで果たしている。とくにブライの「でなければ、今、こんなにも泣けはしないだろう」は、この作品で一番いい台詞です。

三つ、変顔というモチーフの回収。冒頭で鏡の前の逃げ場所だった変顔が、実は忘れられた昔の役の癖で、終盤ではファンと一緒に撮るミームになる。しかも「仮面の下で変顔ができる」という最後の一文で、題名まで回収している。よく締めました。

気になる点も挙げます。

【⑪】のメディア・会社・ファンダムの反応が、地の文の説明で進みすぎている。ここだけ急に「まとめ」の語りになる。誰か一人の視点――たとえばフェナが SNS を眺めている、あるいは重役室の誰かの会話――に絞ると、情報量は同じでも小説として立つ。

【⑫】〜【⑮】のコメディパートは楽しいが、トーンが【⑩】の重さから一段飛んでいる。笑いで緩めるのは正解ですが、ウェルが「また大事な人を傷つけた」と沈む【⑧】の重さが、ここで少し軽く流れていないか。フェナの部屋の聖域公開で笑わせたあと、二人きりの場面で一度だけ静かに戻すと、笑いが生きる。

中略で飛んでいる【①】〜【⑦】の間が手元にないので、ブライとの関係の積み上げがどれだけ効いているかは判断できません。ここが薄いと【⑦】の涙が軽くなる。逆に十分に積んであれば、今のままで十分です。

要望があれば、【⑪】の説明パートを誰かの視点に書き直す案を出します。

その案でやってみて下さい

【⑪】の説明パートを、フェナの視点に絞って書き直したものです。会社とメディアの動きは、彼女が画面越しに見聞きする形に寄せました。地の文の要約調を消し、彼女の手元と呼吸で情報を運ぶようにしています。

 その朝、フェナはカーテンを閉め切った部屋で、ノートパソコンの画面を眺めていた。

 広報部から自宅待機を言い渡されてから、彼女はニュースサイトを開くのが日課になっていた。自分の名前が出ていないか、確認するためではない。彼の名前が、どんなふうに扱われるのか、見届けなければならないと思ったからだ。

 画面の上で、見出しが次々と切り替わっていく。

 『名探偵ヒューに隠匿され続けたウェル』

 『スター俳優、孤独と闘っていた真実』

 『ヒューを演じ続けた俳優スタンの正体。ウェルとは誰か?』

 どの記事も、似たような言葉で埋められていた。勇気。告白。決断。仮面を脱いだ男。

 フェナは、マウスを持つ手を止めた。

 画面の中のウェルは、けれど、そんな言葉を選ばなかったはずだ。あの舞台で、彼はただ、震えながら自分の名前を言った。それだけだった。誰かに勇気を称えられるために、あの長い沈黙を割ったわけではない。

 分かりやすい物語にされるほど、彼の声は遠くなっていく。フェナは、それが悔しかった。悔しいと思っている自分が、彼の何を知っているわけでもないのに、とまた思った。

 昼を過ぎると、記事の並びが変わった。

 再生回数の数字が、記事の横に並んで表示されるようになっていた。切り抜かれた動画が、SNS の上で次々に貼られていく。名を告げた瞬間。言葉に詰まった瞬間。それでも客席へ向かって話し続けた瞬間。

 『完璧に見えた人が、こんなに苦しんでいたなんて』

 『泣いた。私も似たようなこと、ずっと誰にも言えなかった』

 『孤独だと告白できる勇気、本当にすごい』

 温かい言葉は、確かに多かった。フェナも、その一つ一つを読んだ。読むたびに、胸の奥がじんと熱を持った。

 同じ画面の、少し下へスクロールする。

 『金も名声もあるのに、何が孤独だ』

 『ヒューという作品を好きだった人間としては、少し複雑』

 『同情狙いの売名では?』

 指が止まる。

 フェナは、しばらくその一文を見つめていた。売名。そう読む人がいる。それも、分かる。彼のことを何も知らなければ、そう見えても仕方がない。仕方がない、と何度も自分に言い聞かせた。

 それでも、とフェナは思う。あの手紙の、たどたどしい筆跡を思い出す。あれが売名のための文字であるはずがない。あれは、ただ、謝りたかっただけの人間の字だった。

 夕方、会社の同僚から、短いメッセージが届いた。

 『上はまだバタバタしてる。でも数字は悪くないみたい。とりあえず、首はつながったよ』

 数字。フェナは、その言葉を口の中で転がした。

 会社が彼を許したわけではない。ただ、損にならないと分かって、動き出しただけだ。それは、フェナが広報部で何年も見てきた、いつもの会社の姿だった。分かっていた。分かっているから、余計に腹が立った。

 夜になると、ファンの間で別の動きが起きていた。

 「ウェル」という名前が、あちこちで語られ始めていた。過去の出演作が掘り起こされ、若い頃のインタビュー映像が共有されていく。ほとんど知られていなかった作品の情報まで、誰かが根気よく集めていた。

 フェナは、その流れを、少しだけ遠くから眺めていた。自分が手紙を書いた人間だということは、まだ、どこにも出ていない。だが、写真を拡大し、断片をつなぎ合わせようとする者たちが、確かにいることも知っていた。

 画面を閉じる。

 部屋の中は、しんと静かだった。カーテンの隙間から、街の灯りが細く差し込んでいる。

 フェナは、机の引き出しを開けた。一番奥に、折りたたんだ便箋が一枚、入っている。返事を書く前に、何度も読み返して、それでもうまく言葉にならなくて、結局そのまましまっておいた下書きだった。

 広げて、しばらく見つめる。

 世界は今、ウェルという男を知ろうとしていた。その「知りたい」が、彼の望む形で向けられるとは限らない。それでも、フェナは思う。自分が書いたあの手紙は、少なくとも、彼の望む形の一つだったはずだ。

 下書きを、そっと胸の前に置いた。

「……私も、ちゃんと書かないと」

誰に聞かせるでもない呟きが、薄暗い部屋に、静かに落ちていった。

ーーーー

【⑫】

舞台挨拶から1週ほど経った。依然としてネット上の熱狂が冷めやらぬ中、ウェルにはどうしても果たさなければならないことがあった。

手紙という文字ではなく、自分の声で、直接フェナに会ってお礼と本当の気持ちを伝えること。

「……彼女の家に行く……? マジか?」

撮影現場の楽屋裏。レノは呆れたように太い腕を組み、目の前に立つ長身のウェルを見上げた。

「はい! 彼女に直接会って話がしたいんです」

あのスピーチ以降、広報部から出されていたフェナとスタンの接触禁止令は解除された。しかし、過熱した報道や野次馬から保護するため、フェナのリモートワーク対応自体は依然として継続されたままだ。

「……気持ちは分からんでもねぇがよ、お前、マンションの周りをパパラッチに出待ちされて監視されてんだぞ?」

「でしょうね。ですが、僕たちには探偵ヒューとして培ったスニーキングの技術があるじゃないですか!」

「ん……まあ、確かにあの潜入シーンの撮影じゃ、本物のプロからマジな指導受けたからな」

レノは顎を指で擦りながら納得しかけ――ハッと目を見開いて叫んだ。

「って! “僕たち”って俺も行くのかよ!?」

「相棒なんですから当たり前じゃないですか」

何を言っているんだという顔で頷くウェルに、レノは盛大に頭を抱えた。

「……はあぁぁ。一応聞いとくが、お前のその『完璧な計画』とやらを聞かせてくれ」

「はい! まず移動手段ですが、僕のマイカーである黒の高級スポーツカーを使います。劇中でもヒューが犯人の追跡で使った、あの車です!」

「……おう」

(長い話のため、ここまでを掲載しています)

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作者について

もっち

漫画やイラストを描いてますが、頭のストーリーのストックを処理しきれない為、ストーリーやセリフ、構成など全て箇条書きにしてAIで小説化した作品を公開していきます。

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