第二話 神、召喚に応ず
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あらすじ
<p> 一か月前。</p><p> 夜更けの書斎に、キーボードを叩く音だけが規則正しく響いていた。</p><p> デスクの上には参考資料と付箋だらけの原稿が積み重なり、淹れたままの緑茶はとうに冷めている。</p>
本文
一か月前。
夜更けの書斎に、キーボードを叩く音だけが規則正しく響いていた。
デスクの上には参考資料と付箋だらけの原稿が積み重なり、淹れたままの緑茶はとうに冷めている。
森崎翡翠のスマートフォンが、机の上で立て続けに三度震えた。
執筆中の原稿から目を離し、表示された通知を確認する。
送り主は、長い付き合いになる幼馴染の峰岸だった。
『スイ……助けてくれ……』
『俺、もうダメ……』
『マジで死ぬ……』
ヒスイは画面を一瞥し、ほとんど間を置かずに返信した。
『そうか。成仏しろ』
送信から一秒も経たないうちに、再び通知が鳴り始める。
『マジで!!』
『マジだから!!』
『スイ頼む!!』
『話だけでも聞いてくれ!!』
さらに間髪を容れず、五件目が届いた。
『ほんとに死ぬ!!』
「先ほどから死ぬ死ぬと騒がしい男だな」
ヒスイは眉間へ皺を寄せ、再び文字を打ち込んだ。
『死ぬ者はメッセージを五件も連投できん』
『できるんだよ!!!』
『精神的に死ぬの!!』
『俺もう限界!!!』
『お願いだから一回会って!!!』
森崎家に関わる者が見れば、付き合う相手を選べと苦言を呈したことだろう。
ヒスイと峰岸の付き合いは長い。
だからこそ、この男が大袈裟な言葉で騒ぎ立てることにも慣れていたが、幼馴染だからといって、面倒を無条件で引き受ける義理まではなかった。
現在のヒスイには、自分の生活がある。
執筆中の原稿に、次回作のための資料収集。
新人賞へ応募する作品の推敲も残っている。
作家として生きるためには、いくら時間があっても足りない。
無視して原稿へ戻ろうとしたところで、スマートフォンがもう一度震えた。
『飯奢るから』
ヒスイは即座に返信した。
『場所を送れ』
『来てくれるの!?』
『話を聞くだけだ』
『ありがとうスイ!!!』
『泣くな。鬱陶しい』
こうして数日後、二人は中野駅近くの喫茶店で向かい合うことになった。
◇
窓際の席に差し込む午後の光が、使い込まれたテーブルの木目を淡く照らしている。
かすかに漂うコーヒーの香りと、低く流れるBGMだけが店内を満たしていた。
「……酷い顔だな」
席に着くなり、ヒスイは率直な感想を述べた。
「もうちょっと優しく言えない?」
「事実へ無用な装飾を施す必要がどこにある」
「幼馴染がここまで疲れ切ってんのにさぁ」
「故に、疲れ切った酷い顔をしていると言ったのだ」
「優しさが行方不明なんだよ……」
峰岸は力尽きたようにテーブルへ突っ伏した。
目の下には濃い隈があり、髪もいつも以上に乱れている。
先に注文していたコーヒーは、運ばれてから相当な時間が経っているのか、湯気ひとつ立っていなかった。
ヒスイは向かいの椅子へ深く腰を下ろす。
「それで、死ぬほどの用件とは何だ」
「俺さ…仕事、辞めようと思ってる」
ヒスイの眉が、わずかに動いた。
「現在担当しているアイドルグループの件か?随分と唐突だな」
「唐突じゃない。俺の中では、もう半年くらいずっと悩んでた」
「それを俺へ一度も相談せず?」
「相談したら、絶対こう言うだろ。もっと早く言えって」
「当然だ」
「ほら!」
「問題が深刻化するまで黙っている者の気が知れん。
早期に相談していれば、取り得る手段も増えただろうが」
「その正論で逃げ道を全部潰すところが嫌なんだよ!」
峰岸は再びテーブルへ沈んだ。
ヒスイは小さく息を吐く。
「話せ」
「……え?」
「相談するために呼び出したのだろう。事情が分からなければ、お前が辞めるべきかどうかすら判断できん」
峰岸が、ゆっくりと顔を上げる。
「スイ……」
「泣くな」
「まだ泣いてない」
「泣きそうな顔をするな。鬱陶しい」
「そこまで言う!?」
抗議しながらも、峰岸の口元にはわずかな笑みが戻っていた。
足元の鞄を持ち上げると、中から分厚いファイルとタブレットを取り出す。
さらに月間スケジュール、ライブの出演記録、物販売上、SNSの分析資料まで並べ始めたため、小さなテーブルはたちまち紙で埋め尽くされた。
「これが、俺の担当してる四人」
峰岸が最初のページを開く。
そこには、四人組男性地下アイドルの宣材写真が載っていた。
Secret Syndrome
赤、白、青、黄の衣装をまとった四人が、暗い背景の中でそれぞれ決められた表情を作っている。
「……名前からして、随分と痛々しいな」
「そこは本人たちも気にしてる…」
「誰が命名した」
「社長と、前のプロデューサー」
「後ほど責任を追及する」
「何の責任を!?」
「略称は」
「シスシん」
「悪化したな」
「分かってんだよ!実は俺もねぇと思ってるから!」
峰岸の悲痛を聞き流し、ヒスイは資料をめくった。
ルカ。
シオン。
ハルト。
リン。
年齢、身長、担当カラー、グループ内での役割。
歌唱やダンスの評価、過去の出演歴、本人が希望する仕事、SNSの反応、ファン層、体調不良や遅刻などの記録まで、項目ごとに整理されている。
続いて月間スケジュールへ目を通す。
週末を中心とした複数グループ合同の対バンライブ。
平日の夜公演。
定期ライブに単独公演、メンバーの誕生日に合わせて開催される生誕祭。
ライブのない日にもダンスと歌のレッスンが入り、SNS用の動画撮影や生配信が組み込まれている。
一回の対バンで与えられる出演枠は、二十分から長くても三十分程度。
その短い時間で数曲を披露し、MCを挟み、終演後には物販と特典会が待っている。
販売されるのは、ブロマイドやアクリルスタンド、タオルといった定番のグッズだけではない。
サイン入りチェキ、メンバーとの二人撮影、短時間のトークが付いた特典券。
メンバー同士を指定して撮影できるペアチェキには、壁ドン、背後からの抱擁、頬を寄せ合うといったポーズまで細かく設定されていた。
ライブのチケットから事務所へ入る金額より、終演後の物販とチェキによる売上のほうが大きい。
地下アイドルにとって、ファンと直接接する特典会は重要な収益源なのだろう。
それ自体は理解できる。
だが、ページを進めるにつれ、ヒスイの目は徐々に鋭くなっていった。
「……峰岸。コイツら、仲が悪いだろう」
峰岸の動きが止まった。
「なんで分かった?」
「分からないほうがおかしい」
「まだ写真と資料しか見てねぇじゃん!」
「だから分かるのだ」
ヒスイは、ペアチェキの売上一覧を指先で叩いた。
「赤と白だけ、他の組み合わせと比較して売上が突出している」
「ルカとシオンな。そこが一番人気のペアだから」
「ところが、営業方針を変更した時期を境に、両名がSNSで互いへ言及する回数は減少している。
ライブ外で行われた共同配信も、会社主導のものばかりだ。
本人たちが自主的に行った形跡はほとんどない」
「……そこまで調べたの?」
「お前が持ってきた資料に書いてある」
「数字では書いてあるけどさぁ」
「数字も文章だ。読み方を知らぬ者には、何も語らんだけでな」
ヒスイはプロフィールへ戻り、出演希望欄を開いた。
ルカの希望は、身体を動かす仕事、スポーツ、バラエティ、バイク関連。
シオンは歌唱、舞台、芸術、衣装や演出に関わる仕事を挙げている。
「互いと組みたいとは、一言も書かれていない」
「まあ……本人たちは、ずっと嫌がってるから」
「にもかかわらず、会社が提示している今後の企画はルカとシオンの密着企画、二人きりの温泉ロケ、恋人を模した撮影、ライブ限定のキス寸前演出」
ヒスイは、次の企画書を持ち上げた。
「本人たちの希望と、事務所の営業方針が完全に乖離している」
「その通りだよ」
「いつからだ」
「一年ちょっと前」
峰岸は、冷めたコーヒーの取っ手に指を掛けた。
だが、飲む気にはなれなかったらしく、そのままカップを置く。
「もともとは、普通に歌とダンスで売ろうとしてた。
ライブへ出て、物販をやって、配信とSNSで少しずつファンを増やしてさ。
でも、なかなか動員が伸びなかったんだ」
同じような男性アイドルグループは、次から次へと現れる。
容姿が整っている。歌が上手い。ダンスができる。
それだけでは、ファンに存在を認識してもらうことすら難しい。
「それで、前のプロデューサーが試しにBLっぽい売り方をしてみようって言い出した。
最初は一回だけって話だったんだよ」
「本人たちの同意は?」
「嫌がってた。全員」
「ならば、なぜ実行した」
「一回だけだからって、俺たち大人が押し切った」
峰岸は苦い顔で答えた。
「ルカとシオンがステージで顔を近づけた動画が拡散されて、次のライブから客が一気に増えた。
ペアチェキも完売した。
二人に恋愛っぽいことをさせれば、目に見えて数字が動いたんだ」
「それで会社が味を占めたか」
「……うん」
初めは手を繋ぐだけだった。
次は肩を抱き、さらに腰へ腕を回し、耳元で囁くようになった。
ファンが演出に慣れるたび、新しいポーズや、さらに近い接触を求められる。
規定上、本人たちは嫌なポーズを拒否できることになっている。
しかし実際の現場で拒めば、客を落胆させた、空気を壊した、仕事を理解していないと責められる。
売上が低下すれば、その責任まで本人たちへ向けられた。
「俺も何度も止めようとした。でも、会社から言われたんだ。
だったら、これより売れる方法を持ってこいって」
「それでお前は、何も提示できなかった」
「……そうだよ」
「結果、止められぬまま一年以上も続けた」
「そうだ」
ヒスイは遠慮なく事実を並べた。
峰岸も言い訳はしなかった。
「分かってんだよ、そんなこと。
給料払って、ライブハウス押さえて、衣装作って、曲発注して……全部金がかかる。
今の路線が好きで通ってくれるファンだって、ちゃんといるんだ。
そのファンの金でグループが回ってる」
峰岸は、乾いた笑いを漏らした。
「メンバー守りたいけど、会社も潰せない。
そんで会社の言う通りにすりゃ四人が荒れるし、四人に寄り添えば今度は会社から数字出せって詰められる。
……そのサンドバッグが、今のこの顔だよ」
「……なるほどな」
ヒスイは資料を閉じるどころか、先ほど以上の速さでページをめくり始めた。
「BL営業の開始後、ライブの動員数は増加。物販売上も伸びている。
だが、新規客が次回以降の公演へ来る割合は、注目度に比べて低い」
「え?」
「動画の再生数と、実際のライブ動員数の推移が一致していない。
切り抜きを見た者のうち、相当数がその場限りで離脱している」
ヒスイは鞄からペンを取り出し、売上表の余白へ数字を書き込んでいった。
「音源販売の伸びも鈍い。赤と白の接触を告知した公演は客が増えるが、歌やダンスを前面に出した公演では元へ戻る。
個人配信も同様だ。二人の関係性を匂わせた告知だけが突出し、それぞれの企画へ客が定着していない」
「そこまで細かく比較してなかった……」
「比較せず、何を根拠に売れていると判断していたのだ」
「全体の売上が上がったから……」
「全体という言葉は便利だな。どこで増え、どこで失っているのかを、すべて覆い隠せる」
ヒスイのペン先が、売上推移の一点で止まった。
「BL営業は入口としては機能した。
だが、この事務所は入口を店そのものだと取り違えている。
客を呼び込んだ後に見せるべき商品を用意せず、いつまでも入口へ客を滞留させている状態だ」
峰岸が身を乗り出す。
「つまり、どういうこと?」
「現在売れているのは、四人ではない。
商品として作り上げられた、ルカとシオンの疑似恋愛だ」
峰岸の顔が、わずかに曇った。
「その二つは、何が違うんだ?」
「大違いだ」
ヒスイは即答した。
「今の客が金を払う最大の理由は、本人たちの能力ではなく、二人の関係性へ投影された幻想にある。
本人たちが歌唱力を高めようが、ダンスを磨こうが、それだけでは客の目的と結びつかん」
「でも、実際にそれで客が来てる」
「短期的にはな」
数字の並んだ紙の上で、ヒスイが一本の線を引く。
「この方法では、売上を維持するために演出を過激化させ続けるしかない。
手を繋ぐだけでは満足されなくなり、次は抱き合い、それにも慣れてしまえば唇を近づけさせる。
あげくには、実際に触れろと言われるだろう」
「……もう、そうなり始めてる」
「要求が強くなるほど、本人たちの拒否感は増す。
互いの顔を見るたび嫌な仕事を思い出すようになれば、グループ内の関係も悪化する」
ヒスイはようやく資料から顔を上げた。
「そして最終的には、誰かが壊れる」
峰岸は何も答えなかった。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
◇
「……だからさ、俺、もう続けられない」
「辞めること自体を責める気はない」
「え?」
「限界を超えて続ければ、お前まで壊れる。
使い物にならなくなるまで耐えることを、責任感とは呼ばん」
淡々とした口調だったが、峰岸はわずかに目を見開いた。
「問題は、その後だ。後任は決まっているのか」
峰岸が、露骨に視線を逸らした。
ヒスイはその変化を見逃さなかった。
「まさか…この話を俺へ持ち込んだ真の目的は」
「……スイ…俺の後任、やってくれない?」
「断る」
「早ぇよ!」
「聞くまでもない」
「せめて五秒くらい悩め!」
「なぜ俺がアイドルのマネージャーなどせねばならん」
「助けてくれ!」
「断る」
「俺、もう本当に無理なんだよ!」
「休め」
「後任がいない!」
「探せ」
「見つからない!」
「求人を出せ」
「この四人の担当だって聞いたら、社内の人間も全員逃げる!」
ヒスイが眉を寄せた。
「そこまでなのか」
「そこまでなの!」
峰岸はついに両手を合わせた。
「頼む、スイ!」
「嫌だ」
「俺にできることなら何でもする!」
「その手の台詞を安易に口にするな」
「じゃあ、俺にできる範囲で何でもする!」
「修正したところで、発言の軽率さは変わらん」
「お願いだから!」
峰岸の懇願を無視し、ヒスイは再び資料へ視線を落とした。
本来ならば、ここで帰ればよい。
ヒスイには何の関係もない。
芸能界にも、地下アイドルにも、そこに写っている四人にも興味はなかった。
ただ、資料を閉じる前に、一つだけ気に掛かることがあった。
「峰岸、この四人…能力そのものは悪くないな」
峰岸の顔が上がる。
「赤は、身体能力と舞台上での瞬発力が突出している。
ダンスの体幹も強く、荒削りながら歌声にも客を引きつける力がある。
中央へ置くのは妥当だ」
「そうなんだよ。ルカは、ステージに立つとすごく目を引く」
「白は四人の中で最も歌唱が安定している。
舞台美術や衣装への知識もあり、過去の公演では演出案まで提出しているな」
「シオンは自分の見せ方をよく考えてる。言い方のせいで、周りと揉めることは多いけど」
「青は情報を整理し、他者へ説明する能力が高い。
法律知識を扱った個人動画は、他の配信より視聴維持率がよい。
リーダーとして外部の人間と交渉した記録もある」
「ハルトは押しが弱いだけで、話せば一番まともなんだ」
「黄は元子役か。
カメラへの反応が速く、即興にも強い。
ゲーム大会への出場歴もあり、バラエティ方面への導線を作りやすい。
ダンスも赤とは異なる見せ方ができる」
「リンは場を回すのが上手い。…余計なことまで言うけど」
「全員に長所があり、しかも互いに重複していない」
ヒスイは、四人の宣材写真をあらためて見つめた。
「ならば、なぜ売り方を一つへ絞る?」
「え?」
「全員まとめて、『男同士でいちゃつくアイドル』という狭い箱へ押し込める必要がどこにある」
ルカにはルカの入口がある。
シオンにはシオンの、ハルトにはハルトの、リンにはリンの入口がある。
それぞれ異なる場所から客を呼び込み、最終的にグループへ還流させればよい。
そうすれば一つの流行や組み合わせだけに、すべての売上を依存せずに済む。
「個々の市場価値を高めろ」
「簡単に言うけどさ、それができなかったから今の売り方になったんだよ」
「簡単ではない」
ヒスイは即座に否定した。
「だからこそ、やる価値がある」
峰岸は黙ってヒスイを見つめていた。
この顔を、峰岸は知っている。
何かに興味を持ち、問題を解くための思考を始めた時、ヒスイは決まってこういう目をする。
「スイ…もう考えてるだろ。この四人を、どうやって売るか」
「……」
「やっぱり…顔が完全にそういう顔だもん」
「俺の顔から勝手に情報を読み取るな」
「何年、幼馴染やってると思ってんだよ」
「知らん」
「知ってるだろ!」
峰岸を一喝すると、ヒスイはすっかり冷めたカフェオレへ口をつけた。
資料の上には、可能性が並んでいる。
使い方を誤っているだけで、捨てる理由はどこにもない。
「BL営業は廃止する」
峰岸が瞬きをした。
「正確には、本人の意思に反する恋愛演出を商品として強要する、現在の営業方針を廃止する」
「即日で?」
「廃止を決定することと、現在の収益源を何の代替策もなく即日消滅させることは別問題だ。
その程度の区別もつかんのか」
「じゃあ、どうする?」
ヒスイは新しい紙を引き寄せると、迷いなく項目を書き始めた。
「まず、本人たちの同意を得ていない接触演出は止める。
今後、過激化を前提とした企画は一切受けん」
「でも、もう決まってる仕事がある」
「契約内容を精査し、先方と交渉する。
代替演出を用意し、売上への影響を最小限に抑えた上で切り替えればよい」
一つ目の項目から線を伸ばし、二つ目へつなげる。
「同時に、歌、ダンス、MC、個人配信の内容を見直す。
赤は身体能力とセンター性、白は歌唱と芸術、青は知識と説明力、黄は演技経験とゲーム、バラエティへの適性を軸に、別々の集客導線を作る」
「待てって、それもう四人分の個別プロデュース案じゃん」
「当然だ。同じ商品を四つ並べて売る気か」
「SNSで公開する短い動画も、二人の接触ばかりに頼るな。
ライブへ来なければ見られないもの、音源を買わなければ得られないもの、個人を知った者がグループ全体へ興味を持つ仕組みを用意する」
「急にマーケティングの講義始まったんだけど」
「お前の事務所に足りなかった部分だ。黙って聞け」
「外部の仕事も増やす。
スポーツ企画、舞台や歌唱、教養系の配信、ゲーム番組。
四人を一組の商品として売るだけでなく、個人で得た認知をグループへ戻す」
「……お前、本当にマネージャー未経験?」
ヒスイのペンは止まらない。
「現在の対バンと特典会へ依存した収益構造から徐々に離れ、まずは単独公演そのものへ客を呼べる状態を作る。
生誕祭もチェキを大量に売るための催事ではなく、本人の強みを見せる公演として再設計する」
「そこまでやるの?」
「それでもまだ第一段階だ」
「第一段階!?」
「最終的には、この地下市場から出す」
峰岸は、しばらく口を開けたまま固まっていた。
「……は?」
「聞こえなかったか」
「いや、聞こえたけど。俺、そこまで頼んでない」
「ならば、どこまでを望んでいた」
「とりあえず、四人が喧嘩しないで仕事してくれたらいいかな〜って……」
ヒスイは心底呆れた顔をした。
「志が低い!」
「こっちは毎日を生き延びるので精一杯なんだよ!」
「この能力を、短時間の対バンと接触営業だけで消耗させるつもりか!」
「お前、もう完全に担当する気じゃん!」
「誰がすると言った!」
「してる人のテンションなんだよ!」
「これは仮定の話だ!」
「嘘つけ!」
峰岸は堪えきれずに笑い出した。
その笑い方は、店へ入ってきた時よりずっと軽かった。
◇
「ただし、もう一つ問題がある」
ヒスイが告げると、峰岸の笑顔が瞬時に消えた。
「四人の関係性だ」
「ああ……そこが最大の問題」
「現状では、互いへの不満が無秩序に向けられている。
赤は白へ苛立ち、白は赤を見下す。
青は両者を仲裁し続けて疲弊し、黄は面白がって火へ油を注ぐ」
「よく分かるな」
「資料を読めば分かる」
「いや、そこまでは書いてない」
「行間だ」
「行間にリンの煽りまで書いてあった?」
「見える」
「怖ぇよ」
ヒスイは腕を組み、四人の写真を見下ろした。
「ここへ、より強烈な存在を投入する」
「……何?」
「互いへの敵意よりも、優先して意識せざるを得ない共通の対象を作る。
四人が同じ問題を共有すれば、その対処のために情報を交換し、意思疎通を図る必要が生じる」
峰岸の胸に、嫌な予感が湧き上がる。
「待て。その強烈な存在って、まさか」
「俺だ」
「…………」
「俺だ」
「二回言わなくていい!」
「理解できていないようだったのでな」
「理解したくなかったんだよ!お前、自分から嫌われに行くつもりか!?」
「正確には異なる」
ヒスイが人差し指を立てる。
「完全な敵となってはならん。仕事では必ず結果を出し、要求には理由を提示する。
待遇に不公平を生じさせず、本人が真に拒絶するものは可能な限り排除する」
二本、三本と指を増やし、最後にもう一本を立てる。
「その上で、個人的には存分に鬱陶しがられてやろう」
「嫌な覚悟だな!?」
「四人が俺への不満を共有し、対抗策を考えるために会話をする。
その過程で、互いが何を考えているのかにも気づくだろう」
「それ、マネジメントっていうかヘイト管理じゃない?」
「感情も資源だ。適切に運用すればよい」
「お前さぁ……」
「無論、俺の判断へ異議を唱えることは許可する」
「意外と話し合う気あるんだな」
「ただし、議論で俺に勝てると思われても困る」
ヒスイの目が、わずかに輝いた。
「そこが一番楽しみなんだろ!」
「当然だ」
「認めんなよ!」
「論破の神降臨、というわけだな」
楽しそうだった。
今日一番の笑顔である。
本当にこの男へ四人を任せてよいのだろうかと、峰岸はほんの少しだけ不安になった。
◇
「でもさ」
峰岸が、不意に声の調子を変えた。
「一つ、条件を出していい?」
「お前が依頼する側だろう」
「分かってる。助けてもらうなら、俺もお前のためにできることをしたいんだ」
「何をするつもりだ」
「出版社」
その言葉に、ヒスイの手が止まった。
「知り合いがいるんだ。編集部に」
峰岸は、ヒスイの反応を確かめながら続けた。
「お前の原稿を、一度きちんと読んでもらえるよう掛け合ってみる」
「採用するよう圧力を掛けるつもりなら断る」
「そんなことしねぇよ。新人賞を飛ばせとも言わない。
ただ、持ち込みとして編集者に読んでもらえるところまでは俺がつなぐ。
そこから先は、スイの文章次第だ」
ヒスイは何も答えなかった。
作家。
それが、ずっと自分の目標だった。
頭の中にある世界を自分の言葉で形にし、誰かの手元へ残るものにする。
そのために書き続け、新人賞へ応募しては結果を待つ日々を繰り返してきた。
正当な評価を得られる機会であるなら、使わない理由はない。
「……一か月だ。引き継ぎ期間として、最低でも一か月寄越せ」
「やってくれんの!?」
「話を最後まで聞け!」
ヒスイは身を乗り出した峰岸を睨みつける。
「一か月の間に契約書、過去の出演記録、取引先、現場スタッフ、売上、SNSの運用状況、本人たちの希望、健康状態、トラブル履歴をすべて確認する。
事務所やプロデューサーとも、今後の方針を協議せねばならん」
「一か月も?」
「そんなに、ではない。一か月しか、だ!」
ヒスイは手の中の資料でテーブルを叩いた。
「マネージャーの交代は、予定表と連絡先を渡せば済む話ではない。
各現場で誰が決定権を持ち、何を守り、どこまで譲歩できるのか。
そこまで把握せず、四人の人生を預かれるとでも思っているのか!」
「マネージャー業をやったこともないのに、なんでそんなに本気なの?」
「引き受ける以上、当然だろう!」
「スイ……!」
「泣くな!」
「ありがとう!」
「まだ正式に了承したとは――」
「ありがとう!!」
「話を聞け!」
峰岸は、この一か月で初めて肩の力を抜いて笑った。
◇
喫茶店を出る頃には、外は薄暗くなり始めていた。
街灯がぽつぽつと灯り出し、人々の長い影が舗道に伸びている。
駅へ向かう人の流れの中で、峰岸が立ち止まる。
「じゃあ、出版社の件は俺から掛け合ってみる」
「くれぐれも、森崎の名は出すな」
ヒスイの言葉に、峰岸の表情が少しだけ真面目になった。
「分かってる」
「家の名前で原稿を読まれても意味がない。俺の文章を読ませろ」
「分かってるって。余計なことは何も言わない」
ヒスイは短く頷いた。
そのまま駅へ歩き出そうとして、ふと足を止める。
「それと」
ほんの短い間だけ、いつもの尊大な調子が消えた。
「後の事は俺に任せて、お前は休め、康介」
峰岸の目が、大きく開く。
「スイ…そういうの、ズルくない?」
「何の話だ」
「……なんでもない」
峰岸は困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
「よろしくな」
「ああ」
ヒスイは、それだけ答えた。
「あ、そうだ。今日の会計――」
峰岸が言い終わる前に、ヒスイはヒラヒラと領収書を振って背を向け歩き出す。
「俺が奢るって言ったじゃん!」
「現在のお前から金を取るほど、俺は落ちぶれていない」
「……スイ」
「その代わり、残りの資料は今夜中に送れ」
「やっぱり容赦ねぇ!」
ヒスイは振り返ることなく、駅へ向かう。
峰岸はしばらくその背中を見送り、やがて小さく笑う。
「……そういうとこなんだよ」
◇
その夜、ヒスイの机は峰岸から送られてきた資料で埋め尽くされていた。
窓の外はとっくに暗く沈み、デスクランプの明かりだけが紙の山を淡く照らしている。
契約書、売上、スケジュール、出演記録、SNSの分析資料。
タブレットでは過去のライブ映像を流し、その傍らには四人分のプロフィールを並べている。
「Secret Syndrome……」
あらためて口にして、ヒスイは露骨に顔をしかめた。
「やはり、名前もどうにかしたほうがよいな」
まだ、四人とは直接会っていない。
彼らの声も、姿も、今は映像を通してしか知らない。
それでも資料を読み、ライブを見るほどに、一つの確信が強くなっていった。
この四人は、今いる場所へ収まる器ではない。
ヒスイは新しいノートを開き、一ページ目へ大きく文字を書いた。
『Secret Syndrome 現状分析』
その下へ、迷いなく項目を加えていく。
『現行方針:短期収益性は高い。継続性なし』
『第一目標:本人の意思に反するBL営業からの脱却』
『第二目標:四名それぞれの市場価値を確立』
『第三目標――』
そこで一度だけペンを止めた。
我ながら、随分と大きく出たものだと思う。
だが、不可能だとは思わなかった。
方法がないのなら作ればよい。売り方が悪いのなら変えればよい。
今いる場所が彼らの可能性を狭めているのなら、その場所から出せばよい。
ヒスイは、最後の一文を書き加えた。
『地下市場からの離脱』
「ふむ」
満足そうに頷き、資料に並んだ四人の顔を見渡す。
赤。
白。
青。
黄。
四人が互いを嫌っているのなら、その不満を上回る存在を投入すればよい。
「まずは、俺を嫌うところから始めてもらおうか」
ヒスイの口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
この男は一か月後、峰岸の不正確な地図によって三十六秒遅れながら、彼らのいる地下へ降臨するのだった。
果たして神か、魔王か…その正体や如何に。
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