第三話 神、四獣を盤面に配す
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あらすじ
<p> 計画は完璧だった。</p><p> ◇</p><p> 三週間前。</p>
本文
計画は完璧だった。
◇
三週間前。
Secret Syndromeのマネージャーを正式に引き継ぐまで、まだいくらか時間が残っていた頃、ヒスイは初めて中野の芸能事務所を訪れていた。
「……狭い」
扉をくぐり、室内を一望して最初に出た感想がそれだった。
「初めて来た人に一言目で言われたの、久しぶりだなあ」
奥の机から腰を上げた男は、怒るでもなく、どこか愉快そうに笑っていた。
合同会社シンティラ・アーツ代表社員、時雨京一郎(しぐれ きょういちろう)
差し出された名刺にはそう記されている。
五十代も後半だと聞いていたが、とてもそうは見えなかった。
仕立てのよいジャケットを肩の力を抜いて着崩し、淡く色の入ったサングラスを室内でも外さない。
前髪の一房だけが銀色に抜けているものの、後ろの髪はきれいに染められ、隙なく整えられていた。
目尻に刻まれた皺さえ、どこか洒落た陰影に見える。
もっとも、机の上に積まれた未開封の郵便物と、飲みかけの缶コーヒーの山を見る限り、生活態度まで洗練されているわけではなさそうだった。
ヒスイは遠慮なく室内を見回した。
古い雑居ビルの一室には、事務机と資料棚、衣装ラック、何年使われているのか分からないソファが、わずかな空間を分け合うように押し込まれている。
隅では観葉植物が枯れかけ、壁際に積まれた段ボールの間からは筋力トレーニング器具が覗いている。
ゲーム機、漫画、化粧道具、プロテインと、事務用品とは思えない物が至るところに散らばり、その上の壁には、陽に焼けて色の抜けた古いアイドルのポスターが貼られていた。
四人それぞれの私物が侵食を続けた結果、事務所そのものが巨大な共有ロッカーと化したらしい。
ブラインドの隙間から差し込む西日が、埃っぽい空気に白い筋を作っていた。
「会議室は?」
「奥に一つ」
「休憩室は?」
「そのソファ」
「応接室」
「ここ」
「受付」
「そこ」
「タレントと取引先の個人情報を保管するためのセキュリティ設備は」
「鍵」
ヒスイは一切迷わず告げた。
「移転してください」
「判断が早いなあ。ヒスイちゃん、ここへ来てまだ五分も経ってないよ?」
「その呼び方はやめてください、不愉快です」
「俺は気に入ったけどなあ」
「俺が気に入っていません」
「じゃあ保留で」
「却下してください」
社長は笑って受け流した。
「移転候補なら、いちおう三か所まで絞ってあるんだ。ただ、この規模の事務所にとって家賃の増額は軽くない。
君が提出してくれた改善案で売上の見通しが立つなら、前倒しできるかもしれないね」
「愛着があるから移転したくないのでは?」
「愛着と経営判断は別だよ。移るなら、この部屋に払った分まで稼いでからにしたいだけ」
「ならば、最初からそう仰ってください」
「ヒスイちゃんがどのくらい本気で怒るのか、ちょっと見たくて」
「採用予定者を試すために情報を省略するな!」
「峰岸くんから聞いていたけど、本当に容赦ないねえ」
初対面の社長へ、ここまで堂々と物を言う人間も珍しい。
しかし社長は不快そうな顔をするどころか、ヒスイの反応を値踏みするように目を細めていた。
「峰岸から何を聞いたのです」
「神様だって」
「事実です」
「そこ、迷わないんだ」
「迷う要素がありません」
ヒスイは持参したノートを開いた。
「それより、先日提示した条件について確認します」
「どうぞ」
「本人が明確に拒絶している身体接触を、現場の判断のみで強要しないこと。
すでに決定している仕事であっても、契約内容に含まれない演出を追加する際は、必ず本人の承諾を得ること」
「認めるよ」
「俺が現場でタレントの心身へ不利益が生じると判断した場合、その場で中止、または代替案への変更を提案できる権限も必要です」
「それも認める。ただし、先方との契約や損失に関わる場合は、君が交渉の責任を持つこと。
判断した後で、全部こっちに投げるのはなしね」
「当然です。権限だけを要求し、結果への責任を負わぬつもりはありません」
「なら問題ない」
あまりにもあっさり認められたため、ヒスイはかえって訝しんだ。
「……随分と簡単に認めますね」
「君を呼んだ意味がなくなっちゃうじゃん」
社長は軽い調子のまま、机の上に置かれた企画書へ視線を落とした。
「俺だって、今の売り方がいつまでも続くとは思ってないよ」
「ならば、なぜ放置した」
「売れたから」
返ってきた答えは、簡潔だった。
「会社が小さいとね、一度大きく伸びた数字から降りるのは怖いんだ。
曲も衣装もレッスンも、ライブへの出演も、すべて金がかかる。
売上が落ちれば四人を守る以前に、活動そのものを続けられなくなる」
社長は、壁の方へちらりと目をやった。
「……人気ってのはさ、落ち始めると早いんだよ。
昨日まで満員だった客席が、気づいた時には半分になってる」
経営者の分析というには、妙に実感のこもった声だった。
「理解はします」
「でも、このまま同じやり方を続ければ、いずれ誰かが潰れる。それも分かってる」
「分かっていながら、自分では止められなかったと?」
「代わりの売り方を作れなかった。そこは俺の力不足だね」
軽い口調とは裏腹に、社長は言い逃れをしなかった。
「だから、峰岸くんがあれほど頼る人間なら、一度任せてみようと思った。
君の計画は理屈が通っているし、成功すれば今より利益も伸ばせる」
「俺は賭博の対象ではありません」
「もちろん。それに、“君自身“が面白い」
「…それは採用理由として不適切です」
「芸能は、人に面白がられて金が動く商売だよ。俺は褒めてるんだ」
「俺は表に出る人間ではありません」
「今はそれでいいよ。ただ、その神様は捨てないでね。四人より目立つから」
「神は俺自身であり、事実です」
「なおいいねえ」
社長は満足そうに笑った。
「ただし、君まで倒れられると困る。
峰岸くんに続いて二人目の離脱者を出す余裕は、うちにはないからね」
「自己管理に問題はありません」
「そういう人ほど危ないんだけどなあ」
「余計な心配です」
そこで話を打ち切り、ヒスイは事務所内の確認へ移った。
峰岸から送られた資料との差異、紙でしか残っていない契約書、取引先とライブ制作会社の一覧、過去の出演歴、衣装の管理状況、備品、経費。
必要な情報を一つずつ確かめ、欠けているものをノートへ書き出していく。
Secret Syndromeの四人は、それぞれ別の場所でレッスンや仕事に入っているという。
正式な顔合わせは、引き継ぎ最終日に行う予定だった。
ヒスイも、そのつもりでいた。
◇
「腹減った……」
同じ日の午後、ルカは事務所へ続く階段を上っていた。
古いビルの階段は蛍光灯の光が半分も届かず、コンクリートの埃っぽい匂いがこもっている。
本来なら夕方までダンスレッスンを受ける予定だったが、講師の都合で早く切り上げることになったのだ。
事務所へ置きっぱなしにしていた漫画を回収し、一階のラーメン屋で飯を食って、そのまま家へ帰る。頭の中にある予定は、それだけだった。
「今日、店のオヤジいるかな……」
ぼんやり呟きながら踊り場を曲がった時、上から一人の男が降りてきた。
黒い髪に、黒いコート。腕には分厚いファイルを抱えている。
背は高くない。むしろルカより一回り小柄で、事務所の人間にも見覚えのない顔だった。
取引先の人間だろうか。
何気なく顔を見た、その瞬間。
「…………」
ルカの足が止まった。
最初に頭へ浮かんだのは、ちっせぇ、だった。
次が、かわいい。
そして三つ目にはもう――理想のネコじゃねぇか、まで行っていた。
派手な顔ではない。柔らかく笑いかけてくるわけでもない。
それでも、まっすぐにこちらを見上げる目と、不機嫌そうに寄せられた眉、細い身体に似合わないほど尊大な立ち姿が、やけにルカの好みに刺さった。
男も足を止める。
「何だ?」
鋭い目が、真正面からルカを射抜いた。
「…………」
「通らんのか?」
「……え」
「階段の中央で立ち止まるな。邪魔だ。右へ寄れ」
「あ、ああ」
自分でも驚くほど素直に従った。
男はそれを当然のように受け止め、ルカの横を通り過ぎていく。
すれ違った瞬間、紙とインク、それからかすかなコーヒーの匂いがした。
ルカは振り返った。
黒い後ろ髪。小さな背中に、細い肩。
「……誰だ、アイツ」
胸が妙に速く脈打っている。
階段を上ってきたせいではない。その程度のことで息が上がるほど、鍛錬を怠ってはいなかった。
アイドルをしていれば、整った顔の人間などいくらでも目にする。
シオンなど、毎日のように自分の顔を鏡へ映し、その完成度へ満足している。
だが、先ほどの男はそれとは違った。
赤い髪にも、派手な服装にも、ルカの顔にも、何ひとつ反応を示さなかったのだ。
Secret Syndromeを知らない人間でさえ、大抵は一度くらいこちらを見る。
興味であれ警戒であれ、何らかの感情が顔へ表れる。
なのに、あの男がルカへ向けたものは、たった一言。
邪魔だ。
それだけだった。
「……なんだよ、それ」
口元を手で覆う。
腹立たしいはずなのに、なぜか無性に追いかけたくなった。
気づけば、ルカは踵を返し、階段を一段飛ばしで駆け下りていた。
「おい!」
建物を出ようとしていたヒスイは、背後から声を掛けられて足を止めた。
振り返ると、先ほど階段にいた赤髪の青年が立っている。
雑居ビルの谷間に差し込む夕方の光が、二人の影を長く舗道へ伸ばしていた。
どこかで見た顔だった。
数秒ほど考え、資料に載っていた写真へ思い至る。
「……ルカか」
「俺のこと知ってんの?」
「資料で見た」
「資料?」
「こちらの話だ」
ヒスイは再び歩き出そうとしたが、ルカが先回りして進路を塞いだ。
「待てって、名前!お前の名前、教えろよ」
「今、知る必要はない」
「俺にはあんだよ」
意味が分からない。
ヒスイが露骨に眉を寄せると、ルカはなぜか嬉しそうに口元を緩めた。
「なあ」
一歩、距離を詰める。
ヒスイは動かない。
さらに一歩近づいても、怯えた様子を見せない。
ならばと、ルカはヒスイの顔の横へ手をつき、ビルの外壁と腕の間へその小柄な身体を閉じ込めた。
いわゆる壁ドンというやつだ。
ステージでも、チェキ会でも、幾度となく求められてきた。
顔をどう傾け、どの程度声を落とせば相手が喜ぶかは、身体が覚えている。
ただ、今回は誰かに指示されたわけではない。
初めて、自分からやってみたいと思った。
ヒスイは、顔の横へ置かれた腕を見た。
次にルカを見る。
「お前さ」
ルカは少しだけ声を落とした。
「結構……かわいいな」
「……」
反応が薄い。
照れているのかもしれない。おそらく。
「気に入った」
ルカは、さらに顔を近づけた。
「なぁ…俺のネコになれよ」
決まった、そう思った。
ヒスイは数秒間、何も言わなかった。
「……猫?猫とは、Felis catus――イエネコを指しているのか?」
「……は?」
「君は今、俺へイエネコになれと要求したのか?」
「いや、そうじゃなくて」
「では、何だ」
「だから、ネコっていうのは――」
説明しようとしたルカの手が、ヒスイの顎へ伸びる。
その指が触れるより早く、視界が反転した。
「いっっってぇぇぇ!」
何をされたのか、理解する暇すらなかった。
手首を取られ、肘を捻られ、気づいた時にはルカのほうが壁へ押しつけられていた。
頬に当たる外壁のざらついた冷たさだけが、やけに鮮明だった。
「痛ぇ!痛ぇって!」
「当然だ。人間の関節は、可動域を超えて曲げれば痛覚を生じる」
「冷静に説明してねぇで離せ!」
「ならば許可なく他人へ触れようとするな。次はセクシャルハラスメントとして処理するぞ」
「顎へ触ろうとしただけだろ!」
「初対面の人間の顎を触る必要性がなかろう。そして相手がそれを許容する保証はどこにある」
「……ねぇけど!」
「ならば謝罪し、今後このような軽率な行為は改めろ」
「分かった!悪かったって!」
ようやく腕を解放され、ルカは痛む手首を押さえながら振り返った。
「お前、何なんだよ……!」
「人間だ」
「それは見りゃ分かる!」
「先ほど君が、俺へイエネコになれと言ったのだろう」
「だからそれはそういう意味じゃなくて!」
ヒスイは顎へ指を当て、わずかに考え込んだ。
「人間である俺の身体を、何らかの方法で猫科哺乳類へ変化させたいという意味ではないのか?」
「違ぇ!」
「では、遺伝子工学的な話でもない?」
「違ぇって!」
「成人男性の骨格を猫型へ再構築する技術が確立されたというなら、実に興味深いのだが…。
Scienceに掲載されたか?それともNatureか?」
「何だそれマンガか?!」
ヒスイが怪訝そうに目を細める。
「掲載経歴はないのか?いや、俺が知らぬだけで新たな研究成果が発表された可能性も、皆無とは言い切れん」
ヒスイはスマートフォンを取り出した。
「調べるか」
検索画面を開きながら、ヒスイは何事もなかったように歩き出す。
「待てって!」
「まだ何か?」
「名前!結局まだ聞いてねぇ!」
「今はその時ではない。では失礼する」
それだけ言うと、ヒスイは今度こそ去っていった。
黒いコートの背中は、駅へ向かう人波へあっという間に紛れていく。
残されたルカは、しばらくその場から動けなかった。
腕は痛い。格好もつかなかった。名前すら聞き出せず、渾身の口説き文句は遺伝子工学の話へ変換された。
「……え、えぇ……?」
自分の口から、ひどく情けない声が漏れる。
「俺……口説いたんだけど……?」
返事はない。一階のラーメン屋から、湯気と一緒に醤油の匂いが流れてくるだけだった。
「……相手にされてねぇ……?」
『紅の暴君』の異名で恐れられる男の顔から、威厳というものが綺麗に消え失せていた。
◇
三週間後。
「やかましいぞ、この痴れ者どもめ!」
聞き覚えのある声とともに、事務所の扉が勢いよく開いた。
その瞬間、ルカは固まった。
「騒音公害という言葉を知らんのか、貴様らは!」
黒い髪。
鋭い目。
小柄な身体。
間違えるはずがない。あの日、階段ですれ違い、口説こうとして関節を極められ、最後まで名を教えなかった男だった。
ヒスイは峰岸へ古い地図の不備を突きつけ、三十六秒の遅延について激しく責め立てている。
峰岸がようやく四人へ向き直った。
「改めて紹介する。本日から俺の後任として、お前たちを担当してもらう――森崎翡翠だ」
ヒスイっていうのか。
ちっせぇ。
かわいい。
やっぱり、理想のネコじゃねぇか。
名前を知れた喜びと、これから毎日のように会えるという事実が頭の中を占領し、ルカは周囲の会話をほとんど聞いていなかった。
リンが喧嘩を売り、シオンが観察し、ハルトはどうにか状況を整理しようとしている。
当のヒスイは、自分こそが創作の神だと胸を張っていた。
普通なら、何を言っているんだと疑う場面である。
しかしルカの感想は、たった一つだった。
いいじゃん。
神でも魔王でも何でもいい。
これが今日から自分たちのマネージャーになるのなら、むしろ好都合だった。
「……ルカ?」
隣からリンに呼びかけられても、反応が遅れた。
「おーい。お前、話についてけてねぇじゃん」
「……は?」
「やっば。さすがの暴君も処理落ちしてる」
「うるせぇ!」
リンを怒鳴りつけながらも、ルカの意識はすぐにヒスイへ戻っていく。
その瞬間、ヒスイが一か月前から綿密に練り上げていた、四人全員から満遍なく嫌われる計画は、本人の知らないところで最初の一人目から破綻していた。
◇
その日の十五時半。
四人はヒスイに追い立てられるようにして、ウェブ媒体の取材現場へ到着した。
スタジオには撮影用の照明と白い背景布が組まれ、四人分の椅子だけが、その眩しい光の中に行儀よく並べられている。
ヒスイがマネージャーとして同行する、最初の外仕事だった。
「では次に、ファンの皆さんからも人気の質問なんですけど」
インタビュアーが手元の資料から顔を上げ、親しみのある笑顔を四人へ向ける。
「メンバーの中で付き合うなら、誰がいいですか?」
ルカの眉が動き、シオンの口元から笑みが消えた。
リンは一瞬だけヒスイの様子を窺い、ハルトは答えを探すように視線を伏せる。
以前なら、迷わず答えていた。
客が喜ぶ名前を挙げ、冗談にして笑いへ変える。
ルカはシオンを選ばされ、シオンは皮肉を交えてかわし、そこから二人の関係を恋愛めいた話へ誘導される。
何度も繰り返してきた流れだった。
「その質問は、事前に共有された取材資料にありませんでしたね」
四人の背後から、平坦な声が割って入った。
インタビュアーが顔を上げるのと同時に、ヒスイは壁際から一歩前へ出ていた。
「あ、はい。でも、ファン人気の高い質問ですので」
「人気が高ければ、事前合意のない質問を追加してよい理由にはなりません」
「ですが、皆さん、これまでも普通に答えてくださっていましたし」
「これまで答えていたことと、今日も答えたいと思っていることは別問題です」
室内がわずかに静まった。照明機材の低い唸りだけが、やけに耳につく。
ハルトが横目でヒスイを見る。
ヒスイは周囲の戸惑いなど意に介さず、用意していた紙を一枚差し出した。
「代わりに、こちらの質問を使ってください」
「これは?」
「今後、個人で挑戦したい仕事についてです。四人それぞれの回答を聞いていただきたい」
インタビュアーは困惑したものの、質問自体は記事の趣旨から外れていない。
スタッフと短く相談した後、紙を受け取った。
「では、ルカさんから。今後、個人で挑戦したい仕事はありますか?」
「俺?」
「はい。具体的にやってみたいことがあれば」
ルカは少し考え、椅子へ座り直した。
「身体を動かすヤツかな。スポーツとか、バイクも好きだし、外ロケもやってみてぇ。
スタジオでずっと座ってんの、性に合わねぇから」
「運動は得意なんですか?」
「得意。体力なら、この中で一番ある」
「力しか取り柄のない駄犬だからねぇ」
「テメェよりは動けるっつーの!」
普段どおり言い返しながらも、ルカの声は先ほどより自然になっていた。
次に尋ねられたシオンは、脚を組み直して優雅に微笑む。
「僕なら舞台だね。歌唱だけでなく、衣装、照明、舞台美術まで含めて、一つの作品を作る仕事がしたい」
「ご自身で演出にも関わりたい?」
「無論だとも。僕以上に僕を美しく見せられる人間がいるならば、ぜひ紹介してほしいものだねぇ」
続いてハルトが、眼鏡を押し上げながら答える。
「俺は、文芸や社会問題を扱う番組に興味があります。
専門的な内容を、そのまま難しい言葉で伝えるだけでは意味がないと思っているので、一般の人にも分かる形で説明する仕事をしてみたいです」
最後にマイクを向けられたリンは、迷うことなく身を乗り出した。
「ゲーム!」
「即答ですね」
「だって俺、得意だもん。実況も解説もやりたいし、また大会にも出たい。
あと、ドッキリ番組!」
「仕掛ける側ですか?」
「当然!」
「そこは当然ではない!」
壁際からヒスイの声が飛び、室内に笑いが起きた。
先ほどまでの張り詰めた空気は消えていた。
取材はそのまま和やかに進み、やがて終了の声が掛かる。
機材を片付け始めたスタッフに一礼し、四人がエレベーターを待っていると、ハルトが遠慮がちに口を開いた。
「……森崎さん」
「何だ」
「さっきの質問なんですが…俺たち、答えようと思えば答えられましたよ」
「そうだろうな」
ヒスイは閉じたままのエレベーターを見つめている。
階数表示のランプが、ゆっくりと一つずつ数字を灯していく。
「だったら、どうして止めたんです?」
「君たちが答えられることと、答えたいことは同義ではない」
ハルトが目を見開く。
「これまで耐えられたのだから、今後も耐えられるだろうという理屈も同様だ。
耐えられることと、受け入れてよいことを混同するな」
到着を知らせる音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。ヒスイは当然のように先頭で乗り込む。
「行くぞ。次の予定まで三十二分しかない」
「……はい」
後を追ったハルトは、ヒスイから見えない位置で、ほんのわずかに笑った。
◇
正式就任から三日目。
ヒスイは狭い会議室へ四人を集め、今後の営業方針を記した資料を配った。
壁際の棚には衣装ケースが積まれ、四人分の椅子を並べるだけで部屋はほとんど埋まってしまう。
「最初に確認しておく。本日以降、本人の意思に反する接触演出は原則禁止とする」
四人は、配られた紙から一斉に顔を上げた。
最初に口を開いたのはシオンだった。
「……今、何と言ったんだい?」
「聞こえなかったか?」
「確認しているのさ」
「本人が明確に拒絶した身体接触を、営業上の理由のみで強制することを止めると言った」
ルカとシオンが互いを見る。視線が合うと、二人はすぐに顔を背けた。
相変わらず険悪な二人を刺激しないよう、ハルトが慎重に尋ねる。
「じゃあ…今後はルカとシオンに、キスする寸前まで近づけとか」
「必要ない」
「壁ドンや抱き合う演出も?」
「双方が望むのなら止めん」
「望まねぇ!」
「望むわけがないだろう!」
暴君と貴公子の声が綺麗に重なった。
「ならば、やるな」
あまりにも簡単な答えだった。
リンが訝しげに眉を寄せる。
「でもさーそれで売上下がったらどうすんの?」
「下げなければよい」
「はい?」
「これまで恋愛演出へ集中していた客の関心を、君たち自身の能力へ分散させる。
先日の取材で、各自が挑戦したい仕事について答えただろう」
ヒスイは資料を開き、それぞれの前へ別の企画書を置いた。
「ルカ。君にはスポーツ系の配信企画を一本提案している」
「俺?」
「身体能力を使え。何のために日々鍛えている」
「いや……まあ、そりゃそうだけど」
「運動能力だけでなく、勝負事に対する反応も速い。身体を張る企画や屋外ロケにも適性がある。
バイク関連については、安全面と免許、協力先を確認した上で企画化する」
ルカは企画書を手に取り、まんざらでもなさそうに目を通した。
「シオン。次回の歌唱動画について、衣装と照明の演出案を提出しろ」
シオンの目が、わずかに動く。
「ほぅ、僕が決めていいのかい?」
「君が最も詳しいのだろう。過去に提出した公演の演出案も確認した。
予算内に収めることができるなら、相応の権限を与える」
「……当然だとも。僕の価値を理解するまで、随分と時間のかかる事務所だねぇ」
「三日目の俺へ、一年以上の責任を転嫁するな」
次に、ヒスイは青い表紙の企画書を差し出した。
「ハルト。以前投稿していた法律解説動画を再開しろ」
「え?」
「再生時間に対する視聴維持率が、他の個人動画より高い。
専門用語を一般向けの言葉へ変換する能力がある。活用しない理由がない」
「……見たんですか?」
「公開されているものは、すべて見た」
ハルトは答えを失い、企画書へ目を落とした。
「リン」
「…はいはい。俺は?」
「ゲームだ」
「雑!」
「最後まで聞け!」
ヒスイの眉間へ深い皺が寄る。
「大会への出場歴があるだろう。個人配信に留まらず、実況、解説、イベント出演まで視野に入れる。それと君は元子役だけあって、カメラへの反応と即興の切り返しが速い。
短尺動画の企画と進行も担当してもらう」
「え」
リンは企画書を手に取った。
数ページめくるうちに、その表情から不満が薄れていく。
「……結構、俺向きじゃん」
「俺が考えたのだから当然だ」
「その言い方がいちいちムカつく!」
「そうか」
ヒスイはまったく気に留めない。
「まずは四人それぞれの入口を作り、そこで得た認知をグループへ還流させる。
最終的には、接触演出の有無に左右されずライブへ客を呼べる状態を目指す」
「でも、そんな簡単にいくモン?」
「簡単ではない。だからこそ、やる価値があるのだ」
リンの疑問へ、ヒスイは迷いなく答えた。
その声には、失敗を疑う揺らぎがひとつもない。
四人はそれぞれの企画書を見つめ、しばらく黙り込んだ。
「ただし、活動の自由が増えるからといって、怠惰まで許可したわけではない」
リンが嫌な予感を覚えた顔で、そっと手を挙げた。
「一応、確認すんだけど……遅刻やサボりがNGなのは当然として、他には?
飲み会で夜更かしとか」
「翌日の仕事へ影響するならば管理対象とする。
リン、君の飲み会参加は20歳になってからだ」
「飯は?」
「経費として申請するなら領収書を提出しろ」
「外出は?」
「仕事に関わる遠出、または宿泊を伴う場合は事前に共有しろ」
「恋愛は?」
「業務へ支障を出さんのであれば、俺が干渉することではない」
「ゲームは?」
「仕事と睡眠を圧迫しない範囲で時間を決めろ」
リンは息を呑み、最後の質問を口にした。
「……人権は?」
「無論ある」
リンが机へ突っ伏す。
「ないよぉぉぉ……」
「あると言っている!」
「管理されすぎぃ!」
「これまでの管理が杜撰すぎたのだ!」
その騒ぎの横で、ルカは資料ではなくヒスイの顔を眺めていた。
真剣な目。
怒鳴る時に少し上がる眉。
資料へ視線を落とした横顔に、紙を押さえる細い指。
「ルカ、聞いているか?」
「聞いてる」
「ならば俺を見るな。資料を見ろ」
「お前見ちゃ駄目なのかよ?」
「今は資料を見ろ」
「かわいいのに」
「外見の感想は求めていない。資料を見ろ」
「なあ、今度飯行かね?」
「業務相談か?」
「デートだよ」
「予定表へ目的地と所要時間を書け」
「だからデートだっつってんだろ!」
「食事であれば、店と日時が分からなければ予定を組めんだろう」
「そうじゃねぇ! 一緒に飯食いたいの! お前が好きだから!」
「好物を聞いているのではない」
「お前が好きって言ってんの!」
「俺は食物ではない!」
「何でそうなるんだよ!?」
リンがゆっくりと顔を上げ、ハルトが何度も瞬きをする。
シオンだけは何も言わず、ルカとヒスイを見比べながら目を細めていた。
◇
方針を変えたからといって、ヒスイの管理が甘くなるわけではなかった。
それから数日、事務所の空気は目まぐるしく変わった。
まだ陽の低い朝、欠伸を噛み殺したルカが事務所の扉をくぐった瞬間だった。
「ルカ!朝食を抜くな!」
「眠かったんだよ!」
「眠気は栄養にはならん!」
「じゃあ、お前が作れよ!」
「なぜ俺が作る!?」
「お前の飯が食いてぇ!」
「知らん!飲食店へ行け!わざわざ俺が作る道理がない。非効率的だ!」
「店の飯とお前の飯は別モンだろ!」
「食物から摂取できる栄養素に大差はない!」
昼下がり、山のように積まれた見積書の向こうから、シオンが提出した衣装案を確認したヒスイの怒声が響いた。
「予算を三倍も超過する衣装案を出すな!」
「美に値段を付けるとは嘆かわしいねぇ」
「会社の口座には残高という概念がある!」
「不足分は僕が出しても?」
「それでは事務所の衣装ではなく、君の私物だ!」
「僕が着るのだから、実質的には同じだろう?」
「経費と私物の境界を消すな!プロの自覚があるならば規定を守れ!」
別の日の夕方、他の三人が提出すべき書類まで抱え込んで机に沈んでいたハルトから、ヒスイが問答無用で束を取り上げた。
「ハルト。他三人の仕事まで背負うな」
「でも、俺がやったほうが早いので」
「だから君だけが疲弊するのだ!」
「……そこまで分かるんですか」
「顔を見れば分かる。君は四人分の不備を引き受けた時だけ、眼鏡を押し上げる回数が増える」
ハルトは無意識に眼鏡へ伸ばしていた手を止め、何も言えなくなった。
そして――週の終わり、妙に機嫌のいい顔でリンが事務所へ入ってきた日のことだ。
「リン!」
名前を呼ばれただけで、リンが飛び上がる。
「まだ何もしてねーし!」
「ならば、その背中へ隠している物を出せ」
「……何で分かったん?」
「君は悪事を企てる時だけ姿勢が不自然だ」
「観察力キモッ!」
「誰がキモい!」
渋々差し出した手の中には、妙に精巧な玩具の蜘蛛があった。
「俺の机へ置くつもりだったな?」
「違うし。たまたま持ってただけだし」
「ならば、君のポケットへ戻しておこう」
「待って」
「遠慮はいらんぞ。それとも、本物のほうがよいか?」
「ちょ、神サマ!?それだけは話し合お!?暴力反対!」
「ちなみに俺は虫に抵抗はない。彼らの造形は無駄がなく、生き方も実に合理的だからな。
標本が欲しくばいつでも持参してやろう」
「あーあーあー!?それ以上聞きたくねぇー!!」
両耳を塞いで事務所中を逃げ回るリンを、ルカが腹を抱えて笑い、シオンが冷ややかに眺め、ハルトがため息をつく。
気づけば、狭い事務所に騒がしい声の絶えない日が増えていた。
◇
ヒスイの予測どおり、四人は日に日に彼への不満を共有するようになった。
「あー、もぉぉぉ!管理細けぇんだよ!クソウゼェ!」
事務所のソファへ倒れ込んだリンが、クッションを抱えて喚く。
「僕の美的判断へ口を出すとは、随分と身の程知らずだねぇ」
「まあ、言ってること自体は正しいんだけど……」
ハルトが控えめに口を挟むと、リンは勢いよく起き上がった。
「それが一番ムカつくんだって、ハルトニキ!
反論しようとすると正論の物量で殴ってくんの、完全にバランス調整ミスってる!」
四人が事務所へ揃うたび、話題は自然とヒスイへ向かう。
離れた机で資料を整理しながら、その様子を聞いていたヒスイは、内心で満足していた。
共通の対象へ不満を向けることで、四人同士の直接的な衝突は明らかに減っている。
ハルトだけは時折ヒスイを庇うような発言をするが、許容範囲だ。
リンは明確にこちらを攻略すべき対象と認識し、シオンも反論の材料を探すため積極的に会話へ加わるようになった。
ルカについても――。
「ヒスイ」
「何だ」
「今日、仕事が終わったら暇か?」
「原稿を書く」
「じゃあ、その前に飯行こうぜ」
「必要ない。食事は一人で食え」
「一緒にいてぇんだよ」
「なぜだ」
「好きだから」
「君と食事に行くことはマネージャー業務に含まれていない。予定外行動は拒否する」
「飯くらいいいだろぉぉ!?」
多少、言動の意味が不明瞭ではあるものの、指示に対する反抗心がこちらへ集中している点は、想定した範囲を大きく外れていない。
ヒスイはそのように判断していた。
シオンが、ソファからじっとルカを見つめていたことにも気づかずに。
◇
「ねぇ君。一つ、聞いても?」
その日の夜。他の者が帰った後もヒスイが一人で資料を整理していると、向かいの席へシオンが腰を下ろした。
窓の外はすでに暗く、蛍光灯の白い光が二人の顔を平坦に照らしている。
「内容による」
「何をしたんだい?」
「何、とは?主語は明確に述べろ」
「あの駄犬のことだよ」
シオンは、少し離れたソファへ視線を向けた。
帰り支度の遅いルカが、ヒスイから渡された翌日のスケジュールを眺めている。
「以前のあれなら、自分へあれほど細かく指図する人間が現れたら、三日で噛みついていた」
「十分に噛みついているだろう」
「そうではない」
シオンの口元へ、薄い笑みが浮かんだ。
「楽しそうなんだよ。君に怒鳴られている時のほうがねぇ」
「……?」
「僕にも理解できない。だから面白いのさ」
シオンはあらためて、目の前の男を眺めた。
ヒスイはシオンの顔を見ても、長い銀髪を見ても、ほとんど反応を示さない。
この世界へ入ってからというもの、好意、羨望、嫉妬、欲望―
―相手が自分へ何を抱いているかは、大抵すぐに分かった。
美しいと褒める者もいれば、女のようだと勝手に分類する者もいる。
色素の薄い髪や顔立ちを見て、外国の血について無遠慮に尋ねる者も少なくなかった。
しかしヒスイは、ただ業務上の情報としてシオンを見る。
それだけだった。
「君、本当に僕を見ても何とも思わないのかい?」
「何を思えばよい」
「美しい、とか」
「美しい、の定義が明確ではない以上、俺に比較は出来ん。造形美の専門家に意見を仰げ」
「それだけかい?ずいぶんとつれないじゃないか」
「それ以上の感想が、業務上必要か?」
「…………」
「何だ」
シオンはしばらくヒスイを見つめた後、ふっと笑った。
「いや。君、少し面白いねぇ」
「褒めても仕事は減らんぞ」
「褒めたつもりではないよ」
「ならば、なおさら意味がない。今後、不要な質問は控えろ。非効率的だ」
ヒスイはすでに興味を失ったように、資料へ視線を戻した。
シオンは席を立つ。
その口元には、先ほどまでなかった笑みが残っていた。
◇
その夜、ヒスイは自宅の机で、四人についての記録をノートへ書き残していた。
カーテンの隙間から漏れる外灯の光と、デスクランプの橙色の明かりだけが、静かな部屋を照らしている。
『四名の共通敵化について』
『第一段階、おおむね成功』
『相互間の直接的衝突は減少傾向』
『当方への意識集中を確認』
そこでペンを止め、四人の顔を思い浮かべる。
ルカ。
シオン。
ハルト。
リン。
「ふむ」
順調だった。実に順調である。我ながら完璧である。
四人は確実に、ヒスイへ意識を向け始めている。
「この調子ならば、遠からず全員から満遍なく嫌われるだろう」
ヒスイは満足げにノートを閉じ、デスクランプの明かりを落とした。
◇
同じ頃、都内にある別の芸能事務所では、Lumenが撮影を終えて控室へ戻っていた。
広い控室には差し入れの花束がいくつも並び、鏡台を縁取る電球の白い光が、磨き上げられた床へ柔らかく反射している。
中野の雑居ビルとは何もかもが違う、地上の光だった。
「ねえねえ〜、イゼ。これ知ってる…?」
ソファへ座っていたメンバーの一人、フウマがスマートフォンを差し出してくる。
「フウマくん、どうかした?」
「最近ちょっと話題になってる地下アイドル。取材動画が面白いんだってさ〜。
マネージャーが質問を止めるところ、結構バズってるっぽい」
「へえ」
イゼは気のない返事をしながら、差し出された画面へ目を向けた。
興味はなかった。
少なくとも、最初の数秒までは。
画面の中では、赤髪の青年が身体を動かす仕事をしたいと語り、銀髪の男が皮肉を言っている。
眼鏡を掛けた青年が困ったように二人を止め、金髪の青年がすかさず茶化す。
その後ろを、ほんの一瞬だけ黒髪の男が横切った。
「…………」
イゼの指が止まった。
「どしたの〜?」
「今の」
「え?」
「戻して」
動画を数秒巻き戻す。
再生。
もう一度戻す。
停止。
画面を拡大する。
映っているのは横顔だけで、画質も決してよくない。それでも、間違えるはずがなかった。
あの目だけは同じだった。
「……ヒスイくん」
小さな声が落ちる。
イゼは瞬きもせず、見知らぬ四人のそばに立つ男を見つめていた。
やがて、誰もが知る王子様の笑顔が、その美しい顔へゆっくりと浮かぶ。
「ああ……そうなんだ」
声は穏やかだった。
けれど、その場にいた誰も見たことのない熱が、琥珀色の瞳の奥で静かに燃えていた。
「やっと…来てくれたんだね……君のほうから」
イゼの指が、画面に映るヒスイの横顔をそっとなぞる。
「ああ……ヒスイくん……僕のヒスイくん…!」
控室の窓の向こうでは、ビルの壁面に映し出された自分の巨大な広告が、何も知らない爽やかな微笑みを夜の街へ振りまいていた。
その夜、地上の王子様は、ヒスイが自分と同じ芸能界へ足を踏み入れたことを知った。
神の計画には存在しなかった新たな変数が、静かに動き始める。
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