第四話 神、甘き幻想を民に与えず

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/20 📚 シリーズ: アイはペンより強いのか 📝 11,792文字 ✅ 全年齢

あらすじ

<p> 恋人を演じなくても客は呼べる―</p><p> ―それを証明することが、Secret Syndromeのマネージャーへ就任して初めてライブを担当する森崎翡翠が、自らへ課した目標だった。</p><p> 目指すものは実に単純である。</p>

本文

 恋人を演じなくても客は呼べる―

 ―それを証明することが、Secret Syndromeのマネージャーへ就任して初めてライブを担当する森崎翡翠が、自らへ課した目標だった。

 目指すものは実に単純である。

 ただし、単純であることと、容易であることは同義ではない。

       ◇

 開演三十分前の中野のライブハウスは、すでに人の熱で湿り始めていた。

 狭いロビーには、使い古した照明機材の焦げたような匂いと、開場待ちの客が纏う汗と香水の匂いが入り混じっている。

 天井近くのスピーカーからは開演前のBGMが低く流れ、壁一面に貼られた過去公演のポスターの下で、列を成す客たちが時折スマートフォンの画面を覗き込んでいた。

 そこへ、物販スペースの一角に真新しい告知が貼り出される。

『本日の終演後特典会について』

『従来のメンバー同士による指定ポーズ付きペアチェキの一部を休止し、代わりに参加型ミニゲーム企画を実施いたします』

「ええー!?」

 文字を読み終えた客の間から、堰を切ったように不満の声が広がった。

「ルカシオの壁ドンないの!?」

「え、今日それ目当てだったんだけど!」

「ペアチェキ自体が減るってこと?」

「参加型ミニゲームって何するの?」

 予想どおりの反応だった。

 ライブハウス後方の関係者用スペースで客席を確認していたヒスイは、不満と戸惑いの混じった声を聞きながら腕を組む。

「当然だな」

「当然なんですか……?」

 隣にいたハルトが、不安そうに苦笑した。

「結構、文句が出ていますけど」

「従来の商品を変更すれば反発は起こる。

 むしろ、この程度の反応すら予測できない者に営業方針を変える資格はない」

「マジで大丈夫なん?」

 舞台袖から顔を出したリンも、ざわつく客席を眺めている。

「俺ら、あの売り方をやめたら客が減るって、ずっと言われてたじゃん。今日の告知見て帰る人とか出ない?」

「すでに入場した客が、特典内容の一部変更のみを理由にライブまで見ず帰る可能性は低い。

 問題は、公演後の満足度と物販売上、そして次回公演へつながるかどうかだ」

「相変わらず自信満々だねぇ」

 シオンは壁へ背を預け、腕を組んでいた。

 今日の衣装は、白を基調とした細身のジャケット。

 胸元には銀色の薔薇が咲き、動くたび、裾に縫い込まれた細い銀糸が光を返す。

 シオンが提出した最初の案をヒスイが予算超過で三度突き返し、四度目にしてようやく許可した衣装だった。

「もし失敗したら、どうするんだい?」

「原因を分析し、改善する」

 ヒスイは間を置かず答えた。

 シオンの片眉が上がる。

「失敗しない、とは言わないんだねぇ」

「未来を予知する能力は持っていない。検証前の仮説を事実として扱うほど、俺は愚かではない」

「神なのにかい?」

「神であっても、存在しない結果を捏造はせん」

「……ふふ」

 シオンが喉の奥で小さく笑った。

「何だ」

「いや。随分と変わった神様だと思っただけさ」

「感想は後にしろ」

 ヒスイは手元の進行表へ視線を落とした。

「開演五分前だ。ルカはどこにいる」

「ここにいんだろ」

 背後から声が聞こえ、振り返る。

 赤い衣装を身につけたルカが、当然のようにヒスイの隣へ立った。

「ヒスイ、今日終わったら飯行こうぜ」

「本番五分前に話すことか?」

「忘れられたら困るし」

「業務終了予定は二十一時四十分。その後に撤収と反省会がある」

「じゃあ、全部終わってから」

「遅い。就寝時刻がずれれば、明日の朝食と仕事へ影響する」

「お前、俺のお袋かよ!」

「君の母親になる予定はない」

「じゃあ恋人!」

「万に一つもあり得ん」

「即答すんな!」

「もうすぐ本番だ!」

 ハルトが二人の間へ割って入った。

「ルカ、集中しろ!」

「してんだろ!」

「森崎さんを口説くことにじゃない!」

「そっちも大事だろ!」

 ルカとハルトの怒声が舞台裏へ響き、リンが腹を抱えて笑う。シオンは呆れたように息を吐いた。

「駄犬は相変わらずだねぇ」

「んだと、白蛇!」

「本番前だと言っている!」

 ヒスイが一喝すると、三人は揃って口を閉じた。

 少なくとも、声だけは止まった。

「時間だ」

 ヒスイはあらためて四人へ視線を向ける。

「本日の目標は、予定されたライブを事故なく完遂し、客を満足させることだ。

 その後の新企画については、俺が責任を持つ。余計な懸念は捨て、諸君は舞台上の役割へ集中しろ」

 その言葉に、四人の表情がほんのわずかに変わった。

 ヒスイの指示を聞く時、以前よりも彼らがまっすぐこちらを見るようになったことを、ヒスイ自身はまだ自覚していない。

「では、諸君の新たな一面を見せつけてこい」

「上等!」

 最初にルカが笑った。

「任せとけ、ヒスイ! あとで飯デートしろよな!」

「命令されずとも、与えられた役割は果たすさ」

 シオンが髪を払い、その後へ続く。

「お前ら、くれぐれも喧嘩するなよ!」

 ハルトが念を押しながら二人を追い、最後にリンが元気よく腕を振り上げた。

「そんじゃ、新生シスシん第一戦、やりますかぁ!」

「その略称を自ら使うな!」

「そこ今ツッコむ!?」

 四人が舞台へ向かう。

 狭い通路を抜ける背中が暗がりへ消えるのと同時に、客席のざわめきが一段大きくなった。

 開演を告げるブザーが鳴る。

 その背中を見送りながら、ヒスイは小さく息を吐いた。

「……さて」

 今日、最初の数字が出る。

       ◇

 暗転した客席へ、四条の光が切り込んだ。

 赤、白、青、黄。

 それぞれの色を纏った光が交差し、重なり、一瞬の静寂の後、四人の姿が照明の中へ浮かび上がる。

 イントロが鳴った瞬間、先ほどまで楽屋で軽口を叩いていた四人の輪郭が消えた。

 ルカの跳躍は、床板を踏み抜くほどの勢いで客席の熱を呼び込む。

 シオンの伸びやかな歌声は天井の低い会場を真っ直ぐに貫き、ハルトの揃った振りが全体の形を支え、リンの笑みはカメラよりも先に最前列の客を射抜いていた。

 披露する楽曲そのものは変わらない。

 だが、曲間の演出からは、恋愛を匂わせる接触が消えていた。

 ルカがシオンの腰を抱くことも、シオンがルカの頬へ触れることもない。

 顔を近づけ、壁へ追い詰め、互いへ甘い言葉を囁く場面も作られていなかった。

 一曲目が終わった瞬間、客席の空気が僅かに迷った。

 期待していた型が来ない。

 その戸惑いの隙間を縫うように、ルカが客席へ身を乗り出し、真正面から問いかけた。

「今日の俺、どうよ!」

「前髪切ったー?」

「そこじゃねぇ!」

「眉毛!」

「もっと他にあんだろ!」

 客席から笑いが起こる。

「ルカ、今日いつもより振り大きくない?」

「そう、それ!」

 ようやく望んでいた答えが飛んできて、ルカが嬉しそうに客席を指差した。

「今日、サビ前の振りをちょっと変えてんだよ。よく気づいたな!」

 次に前へ出たシオンには、衣装を褒める声が次々と掛かった。

「シオン様、今日の衣装好きー!」

「当然だろう?」

 シオンは白いジャケットの裾を優雅に広げる。

「僕が監修しているからねぇ」

「えー!?」

「シオン様が決めたの?」

「衣装だけでなく、照明も一部ね。僕の髪と銀糸が最も美しく見える角度を計算してもらったのさ」

 それまでとは異なる種類の歓声が、客席から湧き上がった。

 先ほどまでの戸惑いが、少しずつ興味へ変わっていく。

 ハルトは近く再開する法律解説動画について告知し、専門用語を使わず身近な事例を一つだけ紹介した。

 リンは次回のゲーム配信を宣伝すると、その場で客席からおすすめのタイトルを募り始める。

「ホラーやって!」

「無理!」

「えー!?」

「俺が叫んでるとこ見たいだけじゃん!」

「見たーい!」

「需要が悪意100パーなんだけど!」

 これまでなら、MCの途中で必ずルカとシオンの関係へ話題が移っていた。

 だが、今日はそれがない。

 最初は物足りなさそうにしていた客席も、気づけばペンライトを大きく振り、メンバー一人一人へ向けて声を飛ばしていた。

 それでも笑いは起こり、声援は飛んだ。次の曲が始まれば、色とりどりのペンライトが以前と変わらず大きく揺れる。

 ヒスイは舞台袖から、そのすべてを観察していた。

 誰の言葉に、客席のどの辺りが反応したか。

 歓声が大きくなった箇所、客の視線が散った瞬間、MCから楽曲へ戻る際の空気の変化まで、進行表の余白へ細かく記録していく。

 スタッフへ依頼していた事前物販と特典券の販売状況も、随時タブレットへ送られてきていた。

 従来のペア演出を減らした影響は確かに出ている。

 しかし、売上が崩れたと呼ぶほどではない。

「……よし」

 ヒスイは、誰にも聞こえない声で呟いた。

 まだ成功とは呼べない。

 だが少なくとも、失敗ではなかった。

       ◇

 ライブ終了から十五分後、簡単な転換を終えたステージへ、四人が再び姿を現した。

「それでは、本日の特別企画!」

 中央に立ったハルトがマイクを掲げる。

「Secret Syndrome対、ファンの皆さん――じゃんけん勝ち抜きバトル!」

 リンが勢いよく横から飛び出し、客席を煽った。

「イェーイ!」

 拍手は起こったが、反応は決して一様ではない。

「えー、じゃんけん?」

「普通じゃない?」

 そんな声が混じっているのも、舞台袖のヒスイには聞こえていた。

 それも予想の範囲内である。

「ルールは簡単です」

 ハルトが説明を続けた。

「抽選で選ばれた方に、好きなメンバーを一人指名して、一対一で勝負してもらいます。

 勝った方には、本日限定のサイン入り写真をプレゼント!」

「俺らは、誰が一番連勝できるかで勝負だからね!」

 リンがにやりと笑う。

「ただし、俺らもガチでやるんで、そのつもりで!」

「じゃんけんにガチも何もあるかよ」

 ルカが鼻で笑った。

「あんだろ! 心理戦だぞ?」

「なら、お前が最初にやれよ」

「りょーかい! トップバッター、リン様いっきまーす!」

 最初の参加者は、若い女性だった。

 リンはステージ中央で向かい合うと、相手の右手をじっと見つめる。

「お姉さんさぁ、さっきから右手をグーにしたままじゃん」

「え?」

「次もグー出す気っしょ?」

「えぇ!?違うし!」

「はい、今目逸らした! 動揺確認!」

「ちょっと!」

「心理戦、もう始まってるからね?」

「リン、長い!」

 ハルトが横から遮った。

「早く勝負しろ!」

「へいへ〜い。最初はグー!」

 二人が同時に手を出す。

 リンはチョキ。

 相手はグー。

「…………」

 一秒、二秒と沈黙が流れた後、ハルトが容赦なく宣言した。

「はい、リン初戦敗退!」

「ちょちょちょ、待って待って!!今の心理戦では俺が勝ってたじゃん!」

「じゃんけんで負けてるだろ!」

「そこは別判定じゃね!?」

「別じゃない!」

 客席が一斉に笑い出す。

「リン弱ーい!」

「煽って負けたー!」

「うっせー! 今のは乱数が悪かっただけだから!」

「現実のじゃんけんに乱数を持ち込むなよ?!」

 続いてルカが前へ出た。

「俺は負けねぇからな」

 じゃんけんとは思えないほど真剣な顔で手を構える。

 一人目に勝利。

 二人目にも勝ち、三人目まで危なげなく退けた。

「おっしゃあ!」

「何でそんなに強いんだよ……」

 司会席のハルトが呆れる。

「勝負事で負けるわけねぇだろ!」

「じゃんけんだぞ!?」

 四人目の挑戦者は、小学生くらいの少女だった。

「ルカくん、パー出して」

「なんで出す手を教えるんだ?」

「いいから!」

「お、おう」

「最初はグー、じゃんけんぽん!」

 少女はチョキ。

 ルカは、言われたとおりパーを出していた。

「…………」

「やったー!」

「おい今、俺を騙しただろ!?」

「うん!」

「もう一回!」

「駄目です!」

 ハルトがすかさずルカの肩を掴んだ。

「なんでだよ!」

「子供相手に本気になるな!」

「ルカ、子供に負けてるー!」

「卑怯だろうが!正々堂々勝負しろよ!」

 必死な抗議が、さらに客席の笑いを誘った。

 続いて、シオンが優雅な足取りで中央へ進み出る。

「まったく。この程度の単純な遊戯で、僕が本気になる必要など――」

「最初はグー、じゃんけんぽん!」

 相手が出した手はグー。

 シオンはチョキだった。

「…………」

「シオン様、負けた!」

「もう一度。今のは、まだ準備ができていなかっただけさ」

「始まってたぞ!?」

 二人目にも、またチョキを出して敗れる。

「確率論的に考えて、この連敗は異常だよ」

「普通に弱ぇだけだろ、白蛇!」

「黙るがいい駄犬!」

 その後も敗北は続いた。

 三人目、四人目と、シオンの手はなぜか判で押したようにチョキばかりを選び続け、客席の笑いはやがて悲鳴に近い応援へ変わっていく。

「シオン様、めっちゃ弱い!」

「そこもかわいいー!」

「かわいいという感想は撤回したまえ」

 シオンのこめかみに、かすかに青筋が浮かぶ。

「ハルト…君、少し楽しんでいるね?」

「気のせいだよ」

 否定しているが、目は明らかに笑っていた。

「シオン様、もう一回!」

「次こそ勝って!」

 客席から飛んでくる声に、シオンは一瞬だけ黙り込んだ。

 やがて気を取り直したように顎を上げる。

「……ふっ。次でこの茶番を終わらせてあげよう」

 五戦目にしてようやく勝利。

「おおおおお!」

 本人以上に客席が沸いた。

 シオンは満足そうに髪を払い、勝者の顔で胸を張る。

「当然の結果だねぇ」

「四連爆死だけどねー?」

 リンが余計な事実を口にした。

「黙れと言っている」

       ◇

 企画は十五分で終了する予定だった。

 ところが、客席から「早口言葉もやって」「ジェスチャー当てが見たい」と次々に声が上がり、四人もすっかり乗り気になっている。

 舞台監督が、袖にいるヒスイへ次の使用予定まで余裕があると伝えた。

 ヒスイは撤収時間と追加費用が発生しないことを確認し、予定表を見直した上で、十五分の延長を許可した。

 じゃんけんの後には早口言葉、ジェスチャー当て、一問一答と続き、四人もファンも、いつの間にか純粋に遊んでいた。

 恋人を演じる者はいない。

 求められた関係性を無理に作る者もいない。

 開演前、不満の声を上げていたはずの客たちの顔から、いつしか戸惑いの色は消えていた。

 拍手は惜しみなく、笑い声は絶えず、予定を延長した三十分は瞬く間に過ぎていった。

 そしてその日、ルカとシオンは一度も、仕事上の演出を巡って本気で揉めなかった。

       ◇

「……終わった」

 楽屋へ戻った途端、ハルトは力尽きたように椅子へ腰を下ろした。

「めちゃくちゃ疲れた……」

「司会、お疲れー」

 リンが隣へ座り、労うようにハルトの肩を叩く。

「でもハルトニキ、メッチャ上手かったじゃん。予定外の展開も全部拾ってたし」

「お前らが予定どおり進めてくれれば、もっと楽だったよ!」

「それ無理じゃね?」

 ルカはソファへ腰を下ろすと、ペットボトルの水を一息に飲んだ。

「でもよ、今日……普通に面白かったよな」

「……あぁ、確かに俺たち、今日はちゃんと仕事を終えられた気がするな」

 ハルトも少しだけ目を見開いた。

「失礼な、いつも仕事は終えているだろう?」

 シオンが不機嫌そうに髪を払う。

「そういう意味じゃなくてさ」

 ハルトは苦笑した。

「誰も本気で険悪にならずに、最後までやれたっていうか」

 四人は顔を見合わせ、そのまま黙り込んだ。

 以前なら、ライブを終えるたびにルカとシオンが接触演出を巡って苛立ち、リンが面白がって煽り、ハルトが止めていた。

 それが、いつもの光景だった。

 今日は違う。

 身体は疲れている、だが胸の中へ重く残るような、嫌な疲れではなかった。

「ファンもめっちゃ書いてる」

 リンがスマートフォンを取り出しSNSの画面を開くと、投稿を次々にスクロールしながら読み上げていく。

「『ルカ、小学生相手にガチで草』」

「誰が書いた!」

「『シオン様がじゃんけん激弱なの、解釈違いすぎて逆に好き』」

「……黒歴史もいいところさ」

「『ハルト、司会適性高すぎ』『リン、煽り散らかして即負けるのダサかわいい』」

「ダサかわいいって何!? 褒めるか貶すか、どっちかにしろよ!」

「あと、今日初めて来た人が、次のライブも行きたいって結構書いてる」

「……マジかよ?」

 ルカがリンの画面を覗き込む。

「マジマジ。じゃんけんの切り抜き、もう回り始めてるし。シオン四連敗が一番伸びてる」

「消したまえ」

「俺に言われても無理だって!」

 そこへ、平然とした声が割って入った。

「当然だ」

 いつの間にか楽屋へ戻ってきたヒスイが、手にしたタブレットで数字を確認している。

「従来のペア演出を主軸とした投稿と比較すると、初動の拡散数は約八割。ただし、四人全員への個別言及率は上昇している。新規アカウントから次回公演ページへの遷移数も、前回を上回った」

 指先で画面を切り替え、次の資料を表示する。

「さらに、本日の物販売上は、従来の同規模公演と比較して九十二パーセント。ペアチェキを削減した分を考慮すれば、予測より高い」

「九十二……」

 ハルトが小さく呟いた。

「つまり、第一回の検証結果としては十分だ」

 ヒスイは四人を見渡した。

「次回以降はゲーム内容を変える。毎回じゃんけんでは飽きられるからな。

 ルカには競技性の高いものを、シオンには多少の思考力を要求するものを用意する」

「僕は今日、十分に思考していたが?」

「じゃんけんでか?」

「君は僕へ喧嘩を売っているのかい?」

「事実確認だ」

「ねえ、神ー」

 リンが不満そうに頬を膨らませる。

「そこはもっとさ、『みんなよくやった』みたいなの、ねーわけ?」

「結果が出るよう分析し相応の処置を施した。君たちの実力ならば当然だろう」

「普通に褒めろっての!」

「必要なら言う」

「必要だっつってんの!」

 ヒスイの眉が、わずかに上がった。

「ほう。嫌っている俺からの賞賛がそれほど欲しいか?」

「ムキィィィ!やっぱコイツ、クソムカつくぅぅ!」

 喚くリンを相手にせず、ヒスイはタブレットを閉じる。

「撤収するぞ。いつまで楽屋にいるつもりだ」

「余韻ってモンがあんだろ!」

「帰宅してから味わえ!」

 四人は顔を見合わせた。

 そして、ほとんど同時に笑い出した。

       ◇

 ライブハウスを出る頃には、外はすでに夜だった。

 搬入口へ続く細い路地には昼間の熱がまだ残り、コンクリートの壁から立ち上る微かな湿り気が、機材を運び出すスタッフの靴音と混じっている。

 表通りの喧騒は遠く、聞こえてくるのはトラックの荷台が閉まる音と、どこかで響く乾いた笑い声だけだった。

 出演者とスタッフの大半が引き上げた後も、ヒスイは搬入口近くの廊下に残り、壁際で進行表へ書き込みをしていた。

「ねぇ、君」

 聞き慣れ始めた声に顔を上げる。

「シオンか」

「少し話をしようじゃないか」

「手短にしろ。帰宅予定時刻を遅らせたくない」

「本当に君は色気がないねぇ」

「業務に必要性を感じない」

「そういうところだよ」

 シオンは小さく笑い、向かいの壁へ背を預けた。

「今日の件だけれど、君は随分と満足そうじゃないか」

「満足はしていない。初回検証として、許容できる結果が得られただけだ」

「謙虚なのか傲慢なのか、よく分からない男だねぇ」

「用件を言え」

 シオンの目が、わずかに細くなった。

「今日、客が楽しんだからといって、君のやり方が正しかったことにはならないよ?」

 ヒスイのペン先が止まる。

「続けろ」

「僕たちは人気商売だ。客が望むものを見せることも、仕事のうちだろう?

 以前の売り方を求めている人間は、まだ大勢いる。

 それを、本人が嫌がっているという理由だけで捨ててしまうのは、本当に正しいのかい?」

 問いかける声には、明らかな挑発が含まれていた。

 シオン本人こそ、誰よりもこれまでの売り方を嫌っている。

 それでもあえて客と会社の側に立ち、ヒスイがどのように答えるかを試しているのだ。

 ヒスイは数秒間黙った後、進行表を閉じた。

「…俺を試しているな?」

 シオンの唇が、薄い笑みを描く。

「さて、どうだろうねぇ」

「愚問だ。俺が客の需要を捨てたと思っている時点で、前提から誤っている」

 シオンの目に、かすかな光が宿った。

「ほう?」

「俺は需要を消したのではない。需要の対象を変えた」

 ヒスイが人差し指を一本立てる。

「昨日まで、客はルカと君が疑似恋愛を演じる姿へ金を払っていた。

 今日はじゃんけんで四回連続敗北し、不機嫌になる君へ金を払った」

「……君は、その話を何度蒸し返すつもりだい?」

「重要な観測結果だ」

「僕にとっては汚点だよ」

「だが、客は喜んだ」

 ヒスイはまっすぐシオンを見る。

「客が求めたのは、君がルカへ恋愛めいた言葉を吐く姿ではない。

 演出から外れ、負けず嫌いを露わにした君自身だ」

 シオンは何も言わなかった。

「本人の人格を削らなければ維持できない需要より、本人の能力や性質そのものから新たな需要を作る。

 そのほうが長く活動を続けられる。それだけの話だ」

「人間を商品として扱うとは、随分と無粋だねぇ」

「今は芸能を商売として論じているから、便宜上商品と呼んだ」

 ヒスイは眉一つ動かさない。

「だが、商品である以前に人間だという事実は変わらん」

「綺麗事だね」

「違う、効率の話だ」

 即答され、シオンが一瞬だけ目を瞬いた。

「本人が消耗し、関係性が破綻し、最終的に活動不能となる売り方を長期的に優れているとは評価できん。

 君の意思を削り続けなければ成立しない商品に、持続性はない」

 ヒスイは一歩、シオンへ近づいた。

「それだけだ」

「僕らを守っているつもりは?」

「ない」

 シオンの目が、わずかに大きくなる。

「……ない?随分と冷たいじゃないか」

「君の人生は君のものだ。俺が勝手に守ると決める筋合いはない」

 あまりにも当然のことのように、ヒスイは言った。

「俺の仕事は、君たちが自分で選択できる環境を整えることだ。

 客に求められたから、会社に命じられたから、他に方法がないからという理由で、選択肢を奪わせはしない」

 シオンは黙ったまま、目の前の男を見つめている。

「無論、君が愚かな選択をすれば俺は全力で止める」

「それは矛盾していないかい?」

「助言と支配は別物だ。最終的な決定権を奪わぬ限り、俺には意見を述べる権利がある」

「なら、僕が君の判断を拒絶したら?」

「理由を聞く」

「それでも、君を納得させられなければ?」

「議論する」

「僕が勝ったら?」

「君の主張が論理的に正しいのであれば、判断を変更する」

 シオンは疑うように目を細めた。

「……本当に?君が、自分の負けを認める?」

「俺の感情と事実の正誤に何の関係がある。相手の主張が正しいと証明されたなら、認めるのが当然だろう」

 しばらくヒスイを見つめていたシオンが、やがて喉の奥で小さく笑った。

「ふふ……」

「何がおかしい」

「君を屈服させるのは、存外楽しそうだと思ってねぇ」

 シオンが一歩近づく。

 さらにもう一歩。

 二人の間から、ほとんど距離がなくなった。

 搬入口から差し込む非常灯の青白い光が、シオンの銀の髪を縁取っている。

 それでもヒスイは退かない。

 むしろ挑発されたと理解した瞬間、その口元へ不敵な笑みが浮かんだ。

 峰岸ならば最も嫌な予感を覚える、論戦を前にした神の笑みだった。

「ならば、やってみせるがいい」

 ヒスイは胸を張る。

「論破の神たるこの俺に、挑む覚悟があるならばな!」

 今度はヒスイのほうから、一歩距離を詰めた。

 シオンの目がわずかに見開かれる。

 背筋を駆け抜けたのは、怖気でも怒りでもない。

 久しく感じていなかった、甘い痺れにも似た昂揚だった。

 自信に満ち、命令されても屈せず、シオンの美貌にも媚びない。

 それでいて、自分の意思を奪おうとはしない。

 屈服させられるものなら、やってみろ。

 真正面からそう言い放った男を前に、シオンの唇がゆっくりと弧を描く。

「いいだろう。気に入ったよ…君をさ」

「意味が分からん」

「いずれ分かるさ」

「非効率的な謎掛けはやめろ」

「ふふ……」

 ヒスイは不満そうに鼻を鳴らした。

「議論で俺へ挑もうなど、百万年早い」

 勝った。

 完全に論破した。

 そう確信したヒスイは、満足げに踵を返す。

 シオンはその尊大な背中を見送りながら、笑みを抑えるため、ほんのわずかに唇を噛んだ。

「ククク……いいねぇ」

 誰にも聞こえない声で、静かに呟く。

「実にいいじゃないか。僕の后にふさわしい……」

       ◇

 翌朝。

「おーっす、ヒスイ」

「遅い! 三分遅刻だ!」

「三分くらいよくね?」

「いいわけがなかろう! 怠惰な生活は改めろと言ったはずだ!」

 事務所へ入るなり叱られたルカは、不満そうに口を尖らせた。

「朝食は摂ったか?」

「パン食った」

「種類は」

「お前さぁ、ホント俺のお袋みてぇだな」

「生憎、俺に息子を持った覚えはない」

「じゃあ嫁だな!」

「あり得ん話だ」

「即答すんなっつってんだろ!」

 騒いでいると、事務所の扉が静かに開いた。

「ごきげんよう、諸君」

 現れたのはシオンだった。

「珍しく遅刻していないな」

「君から言われたくはないねぇ」

「俺は遅刻などしない」

「はいはい」

 ヒスイは分厚いファイルを片腕に抱え、廊下へ向かう。

「本日の最初の現場は、ここから徒歩七分だ。全員、直ちに移動するぞ」

「后」

 聞き慣れない呼びかけに、ヒスイが足を止めた。

「……何だ。俺のことか?」

 階段の手前で、シオンが片手を差し出している。

「何をしている」

「足元に気をつけたまえ。この階段は、一段だけ高さが不揃いだろう?」

「階段程度で転ぶと思っているのか」

「君は片腕で資料を抱えている。万一落とせば、拾うために時間を浪費することになるよ」

 ヒスイは階段と資料を見比べ、わずかに考えた。

 安全性と効率だけを考えるならば、手を借りることに不利益はない。

「……うむ」

 何の警戒もなく、シオンの手を取る。

「…………」

 その光景を見た瞬間、ルカの顔から表情が消えた。

「では、行こうか」

 シオンは優雅に微笑み、わざとゆっくりとヒスイの指へ自分の指を絡める。

「待てよ、何してんだテメェ」

「見て分からないかい?」

 シオンはヒスイの手を取ったまま、笑みを深くした。

「エスコートだよ」

「離せ」

「嫌だね」

「離せっつってんだろ!」

「お前が決めることではないよ?」

「ヒスイ!俺の手も取れ!」

「なぜだ!?」

 ルカはヒスイの反対側へ回り、自分の手を勢いよく差し出した。

「俺が先だろ!」

「何がだ!」

「全部!」

「意味が分からん!」

「ほら、手!握れ!」

「なぜだと聞いている!」

 シオンが鼻で笑った。

「駄犬は、飼い主から『お手』と命じられなければ握手もできないらしい」

「テメェぇぇぇ!」

「朝から騒ぐな!」

 ヒスイの怒声とルカの怒鳴り声、そしてシオンの愉快そうな笑いが狭い廊下へ響き渡る。

 そこへ事務所からリンが顔を出した。

「何してんの? 朝から修羅場?」

「修羅場ではない!」

「いや、どう見ても修羅場じゃん。赤と白の神様争奪レース始まってんだけど」

「何が争奪レースだ!」

 最後に出てきたハルトは、目の前の状況をしばらく無言で眺めた。

 一秒。

 二秒。

 やがて諦めたように眼鏡を押し上げる。

「……面倒なことになったな」

「何がだ!」

「森崎さんは知らなくていいですから!」

「説明しろ!」

「知ったら余計に面倒になるんです!」

 結局、ヒスイはシオンの手を振り払い、全員を急かして階段を下り始めた。

「グズグズするな! 遅刻するぞ!」

 ルカはすぐにその背中を追った。

 だが、ヒスイの横へ並ぶより早く、シオンが一歩先にその位置を取る。

「白蛇テメェ、昨日までンなことしてなかっただろ……」

「人の心は変化するものだよ」

「一晩で変わりすぎだろ!」

 シオンの笑みがさらに深くなる。

「僕は昨日、とても面白いものを見つけたのでねぇ…それだけのことさ」

 ルカのこめかみが引きつった。

 俺が先に見つけた。

 最初に階段ですれ違ったのも、かわいいと思ったのも、口説いたのも、すべて自分だ。

 それなのに、なぜシオンが当然のような顔でヒスイの隣を歩いている。

「クソ白蛇……!」

 低く唸る声を聞き、シオンは横目でルカを見た。

 そして、わざと見せつけるようにヒスイへ顔を寄せる。

「Szeretett királynőm」

「……今、何と言った?」

「ふふ……秘密だよ」

「テメェ、ヒスイに何言いやがった!?」

いちいち騒ぐんじゃないとヒスイの叱責を受けても、シオンは涼しい顔のままだった。

 ただ、その視線だけはヒスイへ向けられている。

 僕の愛しい后。

 日本語に移し替えず、母国の言葉で告げたその意味を、本人へ教えるつもりはまだなかった。

       ◇

 その日の夜、ヒスイは業務記録へ次のように記している。

『営業方針変更後、初回公演終了』

『集客、物販ともに許容範囲』

『四名の個性を用いた交流企画に、一定の有効性を確認』

『シオンより営業方針への異議あり。議論の末、理解を得たものと判断』

 最後の一文を書き終えると、ヒスイは満足げに頷いた。

「ふむ。今回も完璧だな」

 少なくとも、森崎翡翠本人はそう思っていた。

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甲斐ミキヤ

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