血と本能と指切り
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あらすじ
血液売買で生計を立てる草食動物とそれを買う肉食動物の話です。
本文
「ほい、5000円」
ピューマの男性は、使い古された革財布から折り目のついた千円札を五枚、無造作に差し出した。
ガゼルの少女――リリーはそれを受け取ると、両手で札の縁を掴み、天井のライトへ向けてかざす。透かしの模様が正しく浮かび上がるのを確認し、視線を落とした。
「……確かに」
リリーが短く呟くと、ピューマの男性はあからさまに不快感を露わにし、小さく舌打ちをした。金を受け取る手つき、偽札を警戒するような疑り深い目つき。その一つひとつが、彼のプライドを逆撫でしたのだろう。男性はそれ以上何も言わず、安ホテルの重いドアを乱暴に開けて立ち去っていった。
バタン、とドアが閉まり、廊下を遠ざかる足音が消える。
部屋の中に残されたのは、リリーただ一人だった。
シンと静まり返った室内で、リリーは倒れ込むようにベッドへうつ伏せになり、抱きかかえた枕に顔を埋めた。シーツからは、直前までここにいた肉食動物の獣臭さと、消毒液の匂いが混ざり合った不快な香りが漂っている。
枕の脇に置いたスマートフォンに目をやるが、新しい通知は来ていない。次の「客」からの連絡はまだなかった。
リリーは自分の右手の薬指を立て、その腹をじっと見つめた。
そこには、出来たばかりの小さな赤い傷口がある。室内で自分でデザインナイフを走らせて作ったものだ。親指の腹でその傷口をギュッ、ギュッと力任せに押してみる。
「……っ」
じわじわとした痺れるような痛みが脳に達する。傷口から滲み出た鮮血が、指先を赤く染めていく。あのピューマは、この指先に口をつけ、餓えたように血を吸い上げていったのだ。
リリーは湧き上がる不快感から逃れるようにスマホをベッドへ放り投げると、憂鬱な溜息とともに再び枕深くに顔を埋めた。
血液売買――それが、今のリリーの唯一の収入源だった。
草食動物の血を、肉食動物が買い取る。
肉食動物の中に眠る、肉への生々しい欲求を満たすためだけに成り立つ裏の取引。
草食動物と肉食動物が、現代の都市で平然と肩を並べて暮らすこの世界。だが、どれほど文明が発達しようと、どれほど法律が整備されようと、「肉食動物が肉を食すこと」は絶対の禁忌とされていた。
見る気もなく、ただ沈黙を埋めるためだけに点けていた壁掛けテレビからは、アナウンサーの淡々としたニュースの声が流れている。
『――本日未明、市内の路地裏にて草食動物の遺体が発見されました。警察は肉食動物による捕食目的の殺人事件とみて……』
法律による本能の強制的な禁止。何十世代も前から続くその「しきたり」は、確かに肉食動物から食肉への欲求を衰退させてきた。しかし、血肉に刻まれた原始的な本能を完全に消し去ることなどできるはずもない。その抑圧された本能が、この社会にどんな歪みを生み出しているかは明白だった。
身寄りのない草食動物の死体の横流し。
本能に耐えかねた肉食動物による惨劇。
そして、リリーが足を踏み入れているような、法律の抜け穴を縫う血液売買。
世界は一見すると平和で清廉に保たれているように見えて、その足元はどろどろとした欲望と歪みで満ち満ちていた。
「……何がそんなに、いいんだろ」
指先の血を自嘲気味に眺めながら、リリーはぽつりと呟いた。
まぶたが重くなり、泥のような疲労感が体を覆っていく。冷め切った安ホテルのベッドの上で、彼女は吸い込まれるように、束の間のみじめな眠りについた。
ーーーー
「ただいま……」
錆びついたドアノブを回すと、軋んだ音とともに冷たい隙間風が吹き抜けた。玄関の狭い土間は、そのまま小さなキッチンへと繋がっている。
「お帰りなさい、リリー」
奥のコンロから、お鍋の出汁が煮立つ湯気とともに母親の穏やかな声が響いた。リリーは使い古したスニーカーを脱ぎながら、素早く母親の背中に視線を送る。
「お母さん、寝てていいのに。夕飯は私が作るよ」
「大丈夫よ。今日はすごく調子がいいの」
そう言って振り向いた母親は、力なくニコリと微笑んだ。
「こういう調子がいい日くらい、私にも何かやらせて頂戴。いつも苦労ばかりかけているんだから」
確かに、今日の母親の顔色はここ最近の中では幾分か血色が良く見えた。だが、その背中は年々小さくなり、着古したカーディガンの中で肩の骨が痛々しく浮き出ている。
二人で小さなこたつテーブルを囲み、温かい汁物と簡素な惣菜で晩ごはんを食べる。狭い室内には、鍋の湯気とテレビの微かな音だけが流れていた。
「バイトの方は、上手くいってるの?」
母親がレンゲを止め、心配そうに尋ねてきた。
「うん、問題ないよ。店長も優しいし」
リリーは努めて明るい声を出し、小さく頷いた。
母親には「夜間の飲食店で接客のバイトをしている」と伝えてある。もちろん、本当の収入源が法律の裏をかく「血液売買」だなんて、死んでも言えなかった。
病気がちで日常生活すら満足に送れなくなった母親を見捨て、父親はさっさと別の若い女性のもとへ去っていった。あの背信の瞬間から、リリーの肩には二人分の生活費と医療費という重い重圧がのしかかっている。普通のバイトの時給では、とうてい追いつかないのだ。
「そう、良かった……。リリー、そこで良いお友達が出来るといいわね」
「……うん」
リリーは短く返事をし、視線を自分の手元に落とした。
(友達、か……)
少なくとも、今の仕事で友人などできるはずがなかった。
リリーが怪しげなホテルで取引する肉食動物の男性たちは、どれも自分の原始的な欲求を満たすことしか頭にない。
薄暗い密室で二人きりになり、傷をつけた指先の血を直接貪るように舐めさせたり、時には割り増し料金で二の腕に噛みつかせ、流れる血を直接吸わせることもある。
それほどまでに肉体的に距離の近い、生々しい行為をしているというのに、リリーは彼らの名前すら知らない。相手もまた、リリーというガゼルの少女のプライベートなど一切興味がないのだ。
互いに匿名であり、金と血の提供者でしかないこと。それだけが唯一の救いであり、お互いにとって都合の良い「ルール」だった。
リリーは箸を動かしながら、ふと思い立ったように尋ねてみた。
「ねぇ……お母さんは、肉食動物の知り合いっているの?」
「そうねぇ。私が昔働いていた頃は、仲良くしていた同僚が何人かいたわね。それに、今の病院の肉食動物の看護師さんや先生たちも、みんなすごく親切にしてくれるわよ」
「……怖くなかった?」
「怖い? 何でかしら」
不思議そうに首をかしげる母親に、リリーは「だって……」と言葉を詰まらせ、俯いた。あのホテルで見る、獣の目を剥き出しにして自分の血を吸い上げる男性たちの顔がフラッシュバックする。
「ふふ、みんな優しかったわよ」
「本当に……?」
「ええ。ほら、リリーが小学生の頃、担任だったクマの先生がいたでしょう?」
「……オレン先生?」
「そうそう! オレン先生だって、すごく優しい先生だったじゃない」
母親の言葉に、リリーの脳裏に大きな体のクマの姿が浮かんだ。
確かにオレン先生は、草食動物も肉食動物も分け隔てなく接し、リリーが困っている時も親身になって相談に乗ってくれた。事実、幼い頃のリリーは先生のことが大好きだった。
「肉食動物だから怖い、なんていうのは、少し先入観じゃないかしら」
「そう……なのかな」
「私がやるから」と言い張る母親を優しくなだめて布団へ向かわせると、リリーは一人、狭い台所で食器を洗い始めた。
冷たい水を流しながら、自分の右手の薬指を見る。
血液売買で頻繁につける指の傷は、絆創膏など貼っていれば母親に不審がられるため、いつもプロ用の瞬間接着剤で傷口を固めて誤魔化していた。
確かに、リリーのこれまでの人生の中でも、心から信頼を寄せた肉食動物の大人は何人かいた。
温かかったオレン先生。
父親が出て行った後、母子でこの古いアパートへ引っ越してくる時に、嫌な顔一つせず重い荷物を運んでくれたワニのおじさん。
あの人たちは、血を欲したり、本物の肉を食べたいという衝動に駆られたりしないのだろうか?
それとも、あの優しさの裏側で、リリーが相手をしている客たちと同じような暗い欲求を必死に隠しているだけなのだろうか?
(客の人たちと、あの親切な人たちは……何が違うんだろう)
カチカチに固まった指先の接着剤の感覚を確かめながら、リリーは深い思索と割り切れない不満の中に、静かに沈んでいった。
ーーーー
翌朝。まぶしい日差しが古いカーテンの隙間から差し込む中、リリーは目を覚ますと真っ先にスマートフォンを手にとった。
毎朝のルーティン。画面に灯る通知を確認する。
案の定、血液売買の取引アカウントに件のメッセージが一件届いていた。
通常、この手の取引メッセージは無機質なテンプレートだ。
日時、希望金額、待ち合わせの服装、部位の指定、そして割り増しオプションの確認。互いに余計な会話を嫌うため、必要な情報だけが淡々と箇条書きのように書き連ねられているのが常だった。
しかし、画面に映し出された文面は、あまりにも異質だった。
『おはようございます。突然のメッセージ失礼いたします。本日の12時、ご都合はよろしいでしょうか。血の提供をお願いしたくご連絡いたしました。ご検討いただけますと幸いです』
丁寧な語尾。配慮に満ちた挨拶。
リリーの指が、画面の上でぴたりと止まった。
(……何これ?)
今まで対応してきた客の誰とも違う。この異常なまでの丁寧さが、リリーには逆に不気味で怪しく感じられた。警察の囮捜査だろうか、あるいは何か別の危険な罠だろうか。
だが――リリーには客を選り好みする余裕などない。今月末の医療費の支払いは迫っているのだ。
「……承知しました。指定の場所に向かいます」
疑問を押し殺し、いつも通りの淡々とした返信を送った。
部屋を出る準備を整え、リリーは横になっている母親の布団の脇にひざまずいた。そして、痩せこけた母親の手を両手で優しく包み込む。
「お母さん、仕事に行ってくるね」
「いってらっしゃい、リリー。気を付けてね」
母親は愛おしそうに、リリーの手をギュッと握り返して微笑んだ。
病床の母親にずっとつき続けている「飲食店のバイト」という嘘。自分を送り出してくれるその優しい手と言葉に触れるたび、胸の奥がチクチクと不快な後ろめたさで痛んだ。
---
待ち合わせ時間の五分前。リリーは指定された駅前のロータリーに到着した。
相手の指定した服装は「グレーの上下のスーツに、紺色のトートバッグ」。こちらの服装も事前に伝えてある。
リリーは周囲に警戒の視線を走らせた。
グレーのスーツを着た男性を探すが、それらしい人物は見当たらない。
(ちょっと早すぎたかな……)
少し待とうとロータリーのベンチに腰を下ろした、その瞬間だった。
「――お待たせしてしまいましたか? 待ち合わせの約束をしていた者ですが」
不意に頭上から柔らかい声が降り注ぎ、隣にすっと誰かが座り込んできた。
リリーは弾かれたように隣を向いた。そして言葉を失う。
そこにいたのは、背筋の伸びた一人のライオンの女性だった。
先ほど周囲を見回した際、確かに彼女の姿は目に入っていた。だが、グレーのスーツに紺色のバッグという条件が完全に一致していたにもかかわらず、リリーは相手が「女性」というだけで無意識に視界から除外していたのだ。
「っ……あっ……ひょっとして、警察……ですか!?」
ガタッと肩を揺らし、リリーは咄嗟に身構えた。
女性客など見たことがない。警察の囮捜査に違いないと、心臓が早鐘のように鳴り響く。
「いいえ。……ふふ、私、そんな風に見えます?」
ライオンの女性は自嘲気味にクスクスと小さく笑った。その笑顔には威圧感など微塵もなく、どこか困ったような柔らかさがあった。
「少しの間ですが、よろしくお願いしますね」
女性はリリーの目をまっすぐに見つめると、丁寧にお辞儀をした。
「あ……はい。おねがい、します……」
不意を突かれたリリーは面くらってしまい、まともな返信すらできなかった。
そのまま二人で、駅から少し離れた路地裏のホテルへと歩き出す。
警察ではなかった安心感と、相手が「女性の肉食動物」であるという強烈な違和感。リリーの思考は現実からふわふわと浮き立ち、頭の中がぼんやりとしていた。
今まで、血や肉への生々しい欲求を持つのは男性の肉食動物だけだと思い込んでいた。それは単に、裏の血液売買で出会う客が男性ばかりだったからに過ぎない。
だが、冷静に考えれば肉食動物は肉食動物だ。本能の飢えに、性別など関係ないはずだった。
自分の半歩前を歩く、ライオンの女性。
歩幅に合わせて揺れる、手入れの行き届いた綺麗な黄金色の髪。
(こんな人まで……)
リリーの胸の中に、冷たい失望とやり場のない悲しみが広がっていく。
自分の中で必死に区別しようとしていた「まともな肉食動物」と「裏の客」という境目。その曖昧な境界線が、静かに、そして音もなく崩れ去っていった。
ーーーー
安ホテルの客室。綺麗に清掃された無機質な室内に、ただ一つの目的のためだけに置かれた大きなダブルベッド。
リリーにとって何度も見てきた見慣れた光景だったが、今日ばかりは全く違った部屋のように感じられた。
二人は入り口のドアの前で、ぽつんと立ち尽くしていた。
「……えっと、私はどのようにしたら良いでしょうか?」
ライオンの女性は少し気まずそうに、眉を寄せて尋ねてきた。その問いかけに、リリーはハッと我に返る。
「あっ……じゃあ、脱衣所で歯を磨いたり、マウスウォッシュをしたりしておいてください」
「分かりました」
女性は素直に頷き、脱衣所へと向かった。しばらくすると、シャカシャカと歯を磨く規則的な音が聞こえ始める。
リリーはベッドの端に腰を下ろし、鞄からアルコール消毒液やデザインナイフ、ティッシュなどの道具を取り出してベッドの上に並べた。ふと、ソファーに目をやる。
そこには、彼女の紺色のトートバッグが無造作に置かれていた。
警戒心など微塵もない、あまりにも不用心な佇まい。
今朝の丁寧すぎるメッセージ。ホテルに入ってからの不慣れな仕草。彼女のその挙動が演技などではなく、本当にこれが「初めての血液売買」なのだとリリーは確信した。
本来なら、相手が扱いやすい素人であることはリリーにとって安心材料のはずだった。しかし、目の前の品のある女性までもが、裏で血を買い求める側に立っているという事実は、リリーの胸を重く締め付けた。
「お待たせしました」
洗面所からライオンの女性が戻ってきた。
「じゃあ……私の前に座ってください」
リリーが手でベッドの脇の床を示すと、彼女はなぜかピンと背筋を伸ばし、綺麗な正座で腰を下ろした。その几帳面な動作に、リリーは少し毒気を抜かれそうになる。
「……今から指を切って血を出すので、それを飲んでください。血が止まったら終わりです」
「分かりました」
リリーは左手の小指の腹に、消毒済みのデザインナイフの刃先をあてがった。
すうっと息を止め、一瞬の躊躇のあと、薄い皮膚の上を滑らせるように刃を引く。
ライオンの女性は息を呑み、膝の上で両拳をギュッと握りしめた。
切創から鮮血がじわりと溢れ出し、指の腹を覆うように小さく丸い赤の玉を作る。
「……どうぞ」
リリーは血が零れ落ちないよう、慎重に彼女の目の前に手を差し出した。
彼女は恐る恐る顔を近づけると、そっと開いた唇でリリーの小指を咥え込んだ。
とても優しく、痛みを与えないよう探るような力加減。爪を立てることもなく、繊細な熱量で傷口の血をそっと吸い上げていく。
三十秒ほど経っただろうか。彼女は一度、小さく口を離した。
リリーの小指は唾液で濡れ、部屋のチープなライトを反射して光っていた。だが、傷口からはまだじわりと赤が滲み出し、唾液に溶け込むように広がり始めている。
「あ……まだ早いですよ。そんなにすぐには血は止まらないので」
「あっ! そうなんですね……ごめんなさい、ちょっと勝手が分からなくて……」
リリーが教えると、ライオンの女性は顔をほころばせ、少し照れたように耳を伏せた。
「では……失礼します」
彼女は再び、リリーの小指を口に含んだ。
舌の上で唾液と血液を滑らせ、味わうようにゆっくりと飲み込んでいく。
男性の客であれば、興奮のあまり切った指以上の深さまで強引に口に含んだり、傷口を押し広げるように強く吸い上げたり、粘ついた舌で執拗に舐め回してくるのが常だった。そこには草食動物を「モノ」として扱う搾取の欲望しかなかった。
だが、目の前の彼女は違った。
自分を「欲望を満たすための道具」ではなく、「血を提供する一人の生命」として扱っている。その指先から伝わってくるのは、申し訳なさそうなほどの敬意と配慮だった。
いつもなら気味悪さと不快感しか抱かない「血を吸われる」という行為。
しかし今だけは、彼女の口内のじんわりとした温もりと、しっとりとした粘膜の感触が、不思議と心地よくさえ思えてしまった。
ライオンの女性は目を閉じ、うっとりと幸せそうに血の余韻を感じている。
(……そんなに、美味しいのかな)
(そんなに、満たされるのかな……)
目の前の彼女を、欲望に身を任せるだけの醜い獣だと見下すことはできなかった。
だが同時に、どれほど誠実に振る舞おうと、彼女もまたリリーたちの生きる平和な世界を裏で歪める「加害者」であることには変わりないのだ。
優しさと搾取が同居する矛盾。
リリーは彼女の口内の温もりを感じながら、胸が張り裂けそうなほどの複雑な感情に苛まれていた。
ーーーー
静寂のなか、数分間の生々しくもどこか神秘的な時間が過ぎていった。
「……たぶん、血は止まったと思います」
口の中に血の味が広がらなくなったのを確認したのか、ライオンの女性は名残惜しそうに、けれど慎重にリリーの指から口を離した。
リリーは小指の腹を持ち上げ、状態を確認する。確かに血のにじみは収まり、細い傷口が閉じていた。
「……あの、次の予約は入っていないので、もしご希望なら追加料金で別の指や二の腕からもう一回分お出しできますけど、どうしますか?」
リリーはいつもの営業トークを口にした。相手が男性客であれば、ほぼ間違いなく目を輝かせて財布を開く場面だ。
「いえ……充分に満足しました」
ライオンの女性は静かに首を横に振った。
「満足した」と言ったものの、その整った顔立ちにはどこか深みのある憂いと自責の念が漂っていた。
リリーはティッシュで指先の唾液を拭うと、箱ごと彼女へ差し出した。
「あ、すみません……ありがとうございます」
彼女は恐縮しながらティッシュを受け取り、唇の端を丁寧に拭う。その間、リリーは鞄から取り出した瞬間接着剤を傷口に薄く塗り、痛みを力任せに封じ込めた。
互いに目的を果たし、それぞれ荷物をまとめ始める。
いつもなら一刻も早く立ち去りたいと思う、この独特な居心地の悪さと沈殿した空気。どれほど場数を踏んでも、こればかりは慣れることがなかった。
「……結構、広く切るんですね」
荷物を整理していた彼女が、ふとリリーの手元を見つめて尋ねてきた。
「え? ああ……針で突くような小さな傷だと、すぐ血が止まっちゃうので」
「痛い……ですよね?」
「まぁ。でも、もう慣れました」
何気なく答えたリリーに、ライオンの女性は胸を痛めたような、困ったような悲しい笑みを向けた。
彼女は紺色のバッグから上品な長財布を取り出し、そこからお札を何枚か引き抜いた。財布をしまって向き直ると、「ご確認ください」と両手でお札をリリーへ差し出してきた。
丁寧すぎるその所作につられ、リリーも思わず両手でかしこまりながらお札を受け取る。
指先でお札をめくり、枚数を数える。
「……あれ? 一枚多いですよ」
「ええ。それは、私からの感謝の気持ちです」
まっすぐな瞳でそう言われ、リリーはいつも客の前でやっている「透かしの偽札チェック」をすることがどうしても憚られた。
「……ありがとう、ございます」
リリーがお札をポケットにしまうと、ライオンの女性は部屋の出口であるドアの前で足を止め、振り向いた。
「あの……」
「はい?」
「もし次の機会があれば、またあなたを指名させていただいてもよろしいでしょうか?」
不快な言動や横暴な振る舞いは一切ない。それどころか、心付けとして指名料以上の金額を上乗せしてくれた。深く考えずとも、客としては文句なしの「良客」だ。
「……構いませんよ」
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
彼女は深々とお辞儀をした。
「どうも……」と、リリーもペコリと頭を下げる。荒々しい男性客相手には、こんな丁寧な挨拶の交わし合いなど一度として経験したことがなかった。
バタンと重いドアが閉まり、静寂が戻ってくる。
彼女が去った部屋で、リリーはあらかじめ自販機で買っておいたペットボトルのお茶を口に含んだ。冷たい液体が喉を通っていく。
――全てが、これまでの客と違っていた。
一番の違いは、彼女がリリーを「金を払えば血を出すだけの道具」として扱うのではなく、傷つき、痛みを感じる「一人の生き物」としてしっかりと見つめていたことだった。
かといって――
やっていることの本質である「肉食動物が草食動物へ欲望をぶつける」という事実だけは、何一つとして変わっていないのだ。
優しく血を吸われた小指の熱っぽさを感じながら、リリーはいつまでも冷めた部屋の中で佇んでいた。
ーーーー
あの日からひと月。リリーは相変わらず血液売買の仕事を続けていた。
あのライオンの女性以降、肉食動物の女性から依頼が来ることはなく、リリーの中でも彼女の記憶は日々の雑多な日常の中に埋もれつつあった。
そんな折、スマホの画面に見覚えのある形式のメッセージが届く。
相変わらずの丁寧な敬語。「ご都合はよろしいでしょうか」「何卒よろしくお願いします」という文末の言葉。送信者の名前はなくとも、それが彼女からのものであることは一目瞭然だった。
彼女が指定してきた日時には、すでに別の男性客から「首筋からの出血」という危険で高額な条件の相談が入っていた。
リリーは下唇に人差し指を当て、数秒ほど画面を見つめた。
そして、迷うことなくその高額な依頼を断り、彼女への返信を打ち込んだ。
『依頼、お受けします。よろしくお願いします』
単なる「良客」だから、という理由だけではなかった。
リリー自身、どこか心の奥底で、あのライオンの女性に再び会ってみたいという衝動を抑えきれずにいたのだ。
---
「お受けしていただいて、本当にありがとうございます」
ホテルの部屋で、ライオンの女性は柔らかく微笑んだ。前回のようなガチガチの緊張感は薄れ、その声にはほのかな親しみすら込められている。
「いえ……これが商売ですので」
ベッドの上で膝を突き合わせながら、リリーは意識して冷ややかな、ビジネスライクな態度を貫いた。
今回も前回同様、指先からの血液提供だ。
普通、血液売買のリピーターになれば、回数を重ねるごとに要求がエスカレートしていく。より多くの血を求めたり、首筋や太ももといった致命的、あるいは性的なニュアンスを帯びた部位を求めてくるのが常だった。リリーも自分で「上半身は肩まで、下半身は膝下まで」とラインを決めて防衛していたが、彼女は今回も指先だけでいいと言った。
すっかり傷口が塞がり、跡も消えていた右手の人差し指を、デザインナイフで躊躇なく引き裂く。
彼女は相変わらず、痛ましそうに眉をひそめた。
それでも、指先からふつふつと湧き出る赤を口に含むと、愛おしくてたまらないといった様子で、大切そうに吸い上げていく。
男性客のように傷口を押し広げることもなければ、卑しい舌遣いで舐め回すこともない。ただ静かに、敬意をもって血を飲み干す。
「……終わりました」
指を離した彼女に、リリーは機械的に声をかけた。
「追加はいかがですか?」
「いえ……やめておきます」
“やめておきます”――その言葉の響きに、どこか引っかかるものがあった。まるで、自分の中の恐ろしい欲望を必死に押し留めようと葛藤しているかのような、悲痛なニュアンス。
道具を片付けながら、リリーは耐えかねて口を開いていた。この血液売買の世界ではタブーとされる禁忌の質問を。
「……あの、お仕事は何をされているんですか?」
相手は裏社会に疎い素人だ。リリーの純粋な疑問が、言葉となって漏れ出ていた。
「あ……はい。私……恥ずかしながら、看護師をしています」
「……看護師」
リリーは呆然と、その言葉を復唱した。
看護師が。人を救うはずの聖職者が、裏で金を払って草食動物の血を買っている。
頭の中が冷えていくと同時に、強烈なショックがリリーを襲った。
病院――手術室で輸血パックを準備する時。事故で運ばれてきた患者の大怪我や流血。あらゆる場面で、彼女は日常的に草食動物の血を目にしているはずだ。
患者が苦しみ流すその血を見て、この女性は裏で欲欲望を刺激され、興奮していたのだろうか?
リリーの中で、冷ややかな失望が激しい怒りへと変わっていく。
「看護師さんが……こんな違法なことをしてて、いいんですか?」
自分の置かれている立場を棚に上げた、あまりにも攻撃的な問いかけ。
「……もちろん、絶対にダメなことだと分かっています」
ライオンの女性は視線を落とし、握りしめた拳を震わせた。
「じゃあ、なんで!?」
責め立てるようなリリーの声に、彼女は涙を堪えるように消え入りそうな声で語り始めた。
「私……幼い頃から、肉や血に対する欲求が人一倍強かったんです。仕事を始めて、毎日血を見る環境になってから、その気持ちがどうしようもなく膨れ上がってしまって……」
「……っ」
「怪我をした患者さんが運ばれてきた時は、絶対にこの人を助けなきゃって、心からそう思うんです。でも……後になって一人になると、その時見た血の記憶が嫌な方向に膨らんでしまって……本能が抑えきれなくなるんです」
彼女は苦しそうに胸をかきむしるようにして、続けた。
「だから……患者さんや誰かを襲ってしまう前に、こうやって……この抑えきれない気持ちを鎮めるために、利用させていただきました。本当に……ごめんなさい……」
頭を深く下げ、うなだれる姿。
「……仕事を、変えればいいのに」
リリーは掠れた声で、吐き捨てるように呟いた。
「です……よね。分かっています。私の身勝手で、わがままな言い分です」
ポロポロと、彼女の目から大粒の涙が零れ落ち、膝の上のスーツを濡らしていく。
「でも……看護師は、私の子供の頃からの……ずっと叶えたかった夢だったんです」
泣きじゃくるライオンの女性を前に、リリーはもうそれ以上、何も言えなくなった。
彼女の言い分は勝手だ。だが、その涙も、葛藤も、人を救いたいという心も、すべて偽りのない本物なのだと分かってしまうことが、何より残酷だった。
「……どうぞ、ご確認ください」
彼女から差し出されたお札を、リリーは枚数すら確かめず、逃げるようにポケットへ突っこんだ。
部屋のドアノブに手をかけ、ライオンの女性が最後に振り返る。
「私……エマって言います」
「え……?」
「何の罪滅ぼしにもならないですが……私の名前だけでも、あなたに教えさせてください」
そう言うと、エマと名乗った彼女は深々と頭を下げ、静かに部屋を去っていった。
一人残された客室で、リリーは立ち尽くしていた。
血に飢えた肉食動物が、看護師として病院に潜んでいる。
『エマ』という名前、ライオンという種族、そして看護師という職業。少し調べれば、彼女の勤務先など容易に特定できるだろう。匿名性がすべてのこの裏取引において、彼女はリリーに自分の首輪を預けていったのだ。自分へのけじめとして。
だが――それを警察や病院に告発して、一体何になるというのだ?
告発すれば、彼女は社会的に抹殺され、夢を奪われるだろう。
けれど、それに何の意味がある?
正義の告発? それとも、自分のやり場のない鬱憤晴らし?
目の前のエマだけではない。
リリーがこれまで信頼してきた親切な肉食動物たち――幼い頃に優しかったクマのオレン先生も、引越しを手伝ってくれた親切なワニのおじさんも。彼らもまた、裏ではこんな惨めな苦悩を抱え、欲望と戦っていたのだろうか?
自分たちの生きる平和な社会のすぐ裏側に潜む、あまりにも深い歪み。
誰を責めることもできず、救いもない現実の重みに押し潰され、リリーの頬を冷たい涙が一筋、静かに伝っていった。
ーーーー
「乗せるぞ! せーのっ!」
「聞こえますか!? 落ち着いてください、今から病院に搬送しますからね!」
意識の底から、慌ただしい怒号のような声が響いてくる。
視界が大きく揺れ、ぼやけていた。同じような格好をしたストレッチャーの周囲の人々が、入れ替わり立ち替わり自分の顔を覗き込んでいる。
手足に力を入れようとするが、指一本すら動かない。感覚そのものがどこか遠い世界の出来事のように麻痺していた。
(私……どうしたんだろう。なんで、ここに……?)
疑問を抱く余裕すら与えられないまま、周囲の音がどんどん水中に沈んでいくようにくぐもっていく。世界から色彩が失われ、リリーの視界は冷たい闇の中へと溶けていった。
---
「リリー! リリー!」
「……お、母さん……?」
再びまぶたを開くと、そこは静かなベッドの上だった。
鼻を突くツンとした消毒液の匂い。
機械が刻む規則的な点滴の動作音。
直視するには少し眩しすぎる、天井の白い蛍光灯。
自分の右腕に視線を送ると、肩から手首にかけてぶ厚い包帯とギプスでガチガチに固定されていた。
(そうか……ここは、病院か)
感覚が戻ってくるにつれて、リリーの頭の中にあの惨劇の記憶が鮮明に蘇ってきた。
あの日も、いつもの血液売買だった。相手は何度か対応したことのあるリピーターの男性客。
いつも以上に強引で、執拗に迫ってくる相手だったが、これまでは強く拒否すればどんな客でも一線は超えなかった。「いざとなれば止めてくれる」――その甘い認識が間違いだったのだ。
腕の傷口から血を提供していた時、客は突如として本能を剥き出しにし、傷口に直接牙を突き立ててきた。
痛みと恐怖でパニックになり、リリーは強い言葉で拒否して強引に腕を引き抜こうとした。だが、それが裏目に出た。皮膚を貫き肉まで突き刺さっていた牙によって、腕の至る所が悲惨なまでに引き裂かれてしまったのだ。
半ば狂乱状態でホテルの部屋から逃げ出そうとしたが、背後から腕を強く掴まれて阻止された。肉食動物の圧倒的な筋力。そして栄養状態が悪く骨の脆くなっていたリリーの右腕は、その強烈な力に耐えかね、鈍い音を立ててヒビが入った。
激痛と、ズタズタに裂けた腕に想像を絶する大量出血。
リリーの意識はそこで途絶えたのだった。
後から知ったことだが、客は事態の重さに恐れをなし、フロントへの通話受話器だけを外した状態にしてその場から逃亡したらしい。不審に思ったホテルのスタッフが部屋に駆けつけ、血の海で倒れていたリリーを発見したのだった。
「リリー……大変だったわね」
ベッドの脇で、母親が目もとを真っ赤に腫らし、ポロポロと涙を流していた。
「こんな……こんな危険なことをしていたなんて……」
その言葉に、リリーの心臓が跳ね上がった。
自分が何をしてお金を稼いでいたのか。隠し続けてきた最低な「裏の仕事」が、警察や病院の手によってすべて母親に伝わってしまったのだと悟った。
冷や汗が吹き出し、どんな言い訳をすべきかと言葉を詰まらせかけた、その時だった。
「ごめんなさい……っ! ごめんなさいリリー……! 私がこんな体になってしまったばかりに、あなたにそんな無理をさせて……っ!」
母親はリリーを責めるどころか、病気になった己の弱さを呪い、自分を責めて激しく泣きじゃくっていた。
その姿を見た瞬間、リリーの胸に巨大な後悔と自責の念が押し寄せ、心が張り裂けそうになった。
「ううん……! ごめんね、お母さん! ずっと嘘なんてついて……っ!」
溢れ出す涙で視界を濡らしながら、リリーは必死に声を絞り出した。
「お母さんは何も悪くないよ! 私が……私が勝手にやったことなの! だから自分を責めないで……っ!」
母親は堪えきれずにリリーの胸元へ顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
右腕を固定されているリリーは、動く左腕を伸ばし、愛おしい母親の頭を壊れものを扱うように力一杯抱きしめた。
暗く狭い病室の中に、互いを想い合い、許し合う二人の慟哭がいつまでも響き渡っていた。
ーーーー
しばらくして、二人はようやく落ち着きを取り戻していた。
互いに涙で目を真っ赤に腫らしながらも、どこか憑き物が落ちたような穏やかな笑みを交わし合う。
「……じゃあ、そろそろお家に戻るわね」
母親は使い古したショルダーバッグを細い肩にかけた。
「明日もお見舞いに来るからね。何か欲しいものがあったら、後でメールしてちょうだい」
「うん、ありがとう。でも、お母さんも体調第一なんだから、無理しないでね」
リリーも動く方の左手を小さく振って見送る。
母親が病室の引き戸の取っ手に手を掛けようとした、その時だった。反対側からふいに声が掛けられ、戸が開いた。
「失礼します。点滴の交換と、経過観察を――」
入ってきた看護師が、目の前の二人を見た瞬間に言葉を失い、その場に立ち尽くした。
リリーも、思わず息を呑む。
そこに立っていたのは、整えられた白い看護師服に身を包んだ、ライオンの女性――エマだった。
「あら、エマさん! お陰様で、たった今娘が目を覚ましたんですよ」
母親が目元の涙をハンカチで拭いながら、嬉しそうに力なく微笑んだ。
「リリー、こちらのエマさんよ。お母さんが病院でいつも担当してもらっている看護師さんなの。すごく優しくて、とっても頼りになる方なのよ」
あまりにも皮肉で、残酷すぎる巡り合わせだった。
裏で自らの血を買い、肉食動物の本能に苦しんでいたあの女性が、いま病床にある母親の命と健康を支える一番の恩人だったのだ。
エマは一瞬、顔を硬直させたが、すぐに取り繕うようにしてリリーへ初対面を装う会釈を返した。
「……そうですか。目を覚まされて、本当に良かったです」
エマはそう呟くと、逃げるように病室の隅にある棚の扉を開け、中をまさぐり始めた。だが、そこには医療器具など何もない。あるのは患者用のおしぼりやティッシュペーパーのストックだけだった。
エマの手が、カサカサと袋を鳴らしながら激しく震えている。
その顔は、今にも潰れてしまいそうなほどの激しい苦悶に満ちていた。二人に対して己の動揺と罪悪感を悟られるわけにはいかない一心で、彼女は必死に壁に向かって背中を向けていたのだ。
ガゼルの母親と、その娘。
母親は自分を親切な看護師として信頼し、命を委ねてくれている大切な患者。
そして娘は、自分自身も欲望のために買い叩いていた、血液売買の提供者。
その娘が――自分と同じ肉食動物の暴力的な本能によって無惨に噛みちぎられ、痛々しい包帯とギプスの姿となっている。
一連の事実のすべてが鋭い刃となって、エマの胸を根元まで深く刺し穿っていた。
カチャン、と棚の扉を閉じ、エマが向き直る。
心の整理など、当然できているはずもなかった。顔色は蒼白で、唇は力なく震えている。
「……処置を、させていただきますね」
絞り出すような擦れ声でそう言うと、エマはリリーのベッド脇へと近づいた。
震える指先で点滴のチュービングを手際悪く交換し、リリーの体温と血圧を測っていく。その手袋越しの手が、痛々しいほど冷たかった。
リリーは終始、俯いたまま静かに処置を受けていた。エマの顔を直視することができなかった。
そんな二人の重苦しい沈黙を埋めるように、母親は嬉しそうにエマとのエピソードを語り続ける。
「エマさんはね、リリー。お母さんが検査で不安な時も、ずっと手を握って励ましてくれたのよ。本当に良い看護師さんに出会えて、お母さん幸せだわ」
母親の純粋な感謝の言葉が、部屋の空気をいっそう重く歪めていく。
リリーもエマも、胸の奥底に吐き気すら覚えるほどの苦い塊を抱えながら、ただ黙って母親の話に耳を傾けていた。
温かな親愛の情と、泥のような裏の闇。
母親の目の前で、二人は最後まで一言も「裏での関係」を口にすることはなかった。いや――あまりの残酷さに、口にすることなど到底できなかったのだ。
ーーーー
夜になり、消灯時間を過ぎた病室は薄暗い闇と静寂に包まれていた。
カーテンで仕切られた空間には、リリーとエマの二人だけがいた。
エマは無言でリリーの右腕の包帯を静かにほどき、ぬるま湯で湿らせた清潔な布で、痛々しい肌をそっと拭っていく。
露わになった右腕。
外科手術によって深く縫い合わされた糸の跡と、肉食動物の牙が肉を裂いた生々しい痕跡。現代の医療技術をもってしても、この傷跡が完全に消えることはないだろう。
「うっ……うう……っ」
静寂を破ったのは、エマの押し殺した咽び泣く声だった。
布を持つ手が激しく震え、彼女の目から溢れ出た大粒の涙が、ベッドのシーツにポタリと染みを作っていく。
昼間、母親の前で必死に耐え続けていた感情の堤防が、ついに決壊したのだった。
「……ごめんなさい……っ」
エマは手袋をはめた指先で、リリーの傷口の周りを愛おしむように、そして祈るように優しく撫でた。
「私たちが……肉食動物の抑えきれない本能が、あなたをこんな目にあわせたのですね……。本当に、ごめんなさい……っ」
「エマさん……」
「……どうか、私を告発してください」
エマは涙で濡れた顔を上げ、すがるような目でリリーを見つめた。
「あなたがこんな凄惨な目に遭ってもなお、自分の夢を盾にして、病院や警察に自首することすらできない……そんな醜い私を、どうか断罪してほしいんです」
エマは床にバタリと両膝をつくと、リリーの手を両手で包み込み、ベッドの端に深く顔を伏せた。その姿は、神に許しを乞う罪人の祈りそのものだった。
「それが……私にできる唯一の罪滅ぼしなんです……!」
リリーは、深く縫合された己の右腕をじっと見つめた。
エマの望み通りに彼女を告発すれば、自分を痛めつけた肉食動物という存在への、ささやかな復讐にはなるかもしれない。彼女は社会的な信用も、幼い頃からの夢もすべて失い、裏の世界へ叩き落とされるだろう。
だが――
「……告発は、しません」
暗闇の中に、リリーの静かな声が落ちた。
エマはハッと息を呑み、涙で爛れた顔を上げた。
「どうしてですか……!? 私はあなたから血を買い、身勝手な欲望をぶつけた加害者のひとりですよ……!?」
「私ね……今まで、血を欲しがる肉食動物の人たちはみんな、自分の欲望のことしか頭にない、下劣で恐ろしい人たちなんだって思ってた」
リリーは逃げることなく、エマの揺れる瞳をまっすぐに見つめ返した。
「でも……エマさんと会って、分かったの。自分の中にある本能が怖くて、誰かを傷つけないために必死で苦しんでいる人もいるんだって。……エマさんのおかげで、それを理解できた」
「リリーさん……っ」
「だから、あなたを警察に突き出しても、私を襲ったあの男の罪が消えるわけじゃない。それに、この世界から血液売買が無くなるわけでもないわ。……それにね、私のお母さんが、あなたの優しさに救われていること。これは紛れもない本当のことなの」
「私も、エマさんも……お母さんにたくさんの嘘をついてきた。だからもうこれ以上、お母さんが心から信じていることまで『嘘』にしたくないの」
エマは胸をかきむしるようにして言葉を詰まらせ、子供のようにしゃくりあげて泣いた。
「エマさん。……私の、この傷を見て」
リリーは右腕を少しだけ持ち上げ、自分たちの視線の間に晒した。
「私は、あの時の恐怖と痛みを一生忘れない。そして、この消えない傷跡を抱えて生きていきます。……これは、楽をして金を稼ごうとした私自身の選択の結果で、私が背負うべき責任だから」
リリーは一息つき、力強い眼差しで言葉を紡ぐ。
「私はもう、血を売るのをやめます。……お母さんを泣かせるような逃げ道は、二度と選びません。どんなに泥臭くても、ちゃんとしたバイトをして生きていきます。だから……」
リリーはエマの目をじっと見つめた。
「エマさんは、この傷を『自分がつけたかもしれない結果』だと思って、一生忘れずにいてほしいの。そして……その苦しい本能と戦いながら、私のお母さんみたいな患者さんを救い続ける、看護師でいてください」
罪を暴いて破壊することではなく、罪を背負ったまま正しく生き抜くこと。
それが、リリーが出した唯一の答えだった。
エマは鼻をすすり、溢れる涙を拭うと、リリーの目をしっかりと見据えて答えた。
「……分かりました……! 約束します……!」
その言葉を聞き、リリーは固定された右腕の先から、ちょこんと小指だけを突き出した。
「……約束だよ」
「……もしまた自分の中の本能が怖くて苦しくなった時は、いつでも私に話を聞かせて。もう血をあげることは出来ないけれど……ただ会って、お喋りするくらいなら、いつでもできるから」
エマは驚いたように目を見張ったあと、愛おしそうに破顔した。そして自身の震える小指を伸ばし、リリーの小さな小指としっかりと絡め合わせた。
「ええ……! 絶対に、約束です!」
暗い病室の中、包帯と点滴に繋がれた二人は、互いのぬくもりを感じながら、涙の混じった清々しい笑みを交わし合った。
かつて欲望と金銭のために傷つけ合っていた指先は今、未来を共に生き抜くための、固い絆を結んでいた。
ーーーー
あの大怪我と事件から、半年が過ぎた。
空は雲ひとつない青空が広がり、頬を撫でる風が少しずつ季節の移ろいを告げている。秋のやわらかな日差しが、賑わう街並みを優しく照らし出していた。
「――それでね、最近バイト先で狼のハンナって子とよく喋るようになったの」
車道沿いの歩道を並んで歩きながら、リリーは隣の母親へ楽しそうに語りかけた。
「お菓子作りが趣味なんだって。今度、クッキーを作って持ってきてくれるんだって! お母さんの分もあるからね」
「まぁ、嬉しい!」
母親は嬉しそうに目を細めた。
あの日以来、リリーは血液売買を完全にやめ、昼間の健全な接客のアルバイトを始めていた。そして、母親との間には以前にも増して隠し事のない、温かな会話があふれるようになっていた。
母親は病状のこともあり、まだ一度に長い距離を歩くことはできない。数十メートル進んではベンチで休み、またゆっくりと歩き出す。そんな歩幅を繰り返しながらも、季節の景色とおしゃべりを楽しみながら目的地へ向かうこの時間が、いまの母娘にとって何よりかけがえのない宝物だった。
通り沿いに出ていたキッチンカーで温かいコーヒーを二人分買い、街路樹の木漏れ日が落ちるベンチに腰を下ろす。
「ふぅ……おいしいね、お母さん」
「ええ、本当にねぇ」
心地良い風が頬を撫でる。ふいに何かを思い出したように、母親が微笑みながら口を開いた。
「そういえば、引っ越しの時に助けてくれたワニのアグマさん、覚えている? 先週病院の帰りに久しぶりにお会いしたのよ」
「へえ……おじさん、元気にしてた?」
「ええ。相変わらず身体に力が溢れている感じでね。今は休みの日に『格闘技のジム』に通っているんですって」
「えっ! あの人、そこそこいいお歳でしょ?」
「ふふ、びっくりでしょう? 『肉食の本能が疼くこともあるけれど、汗を流して上手に手なずけてるんだ』って笑っていらしたわ」
「あはは、おじさんらしいね」
紙コップから立ち上る湯気を眺めながら、リリーは微笑んだ。
肉食動物だからといって欲求がないわけじゃない。みんな、欲望を持たないのではなく、自分の中の獣と真摯に向き合い、抑えるのではなくコントロールして生きているのだ。
何気なく行き交う雑踏に目を向けた――その時だった。
人混みの少し向こう側、横断歩道の手前で信号待ちをしている人影に、リリーの視線が止まった。
背筋の伸びたライオンの女性――エマだった。
彼女の隣には、親しそうに肩を並べる男性のライオンの姿がある。恋人だろうか、あるいは家族や友人だろうか。エマは彼に向かって親しみのある柔らかい横顔を見せていた。
ふと、エマがこちらに気づいたように視線を巡らせた。
雑踏を挟んで、リリーとエマの視線が静かに重なり合う。
隣の母親は、まだ向かいの二人には気づいていない。
リリーは、かつて薄暗い安ホテルの部屋では一度も見せたことのなかった――嘘も偽りもない、陽光のような満面の笑みをエマへ向けた。
それを見たエマも一瞬目を見開き、そして胸に手を当てるようにしながら、どこまでも穏やかで、温かな笑顔を返してくれた。
互いに誓い合ったあの夜の約束を胸に、それぞれが己の葛藤と向き合い、新たな一歩を確かに歩み始めている。それだけで、目と目で通じ合うには十分だった。
――アグマおじさんも、エマさんも、そしてきっと幼い頃大好きだったオレン先生も。みんな、自分の本能と戦い、苦しみながらも正しくあろうと努力し続けているんだ。
信号が青に変わり、人波が動き出す。
エマたちは互いに笑い合いながら、雑踏の中へと静かに姿を消していった。
「さて、リリー。目当てのお店まであともう少しね。頑張って歩きましょうか!」
カップを飲み干した母親が、膝に手を当ててゆっくりと立ち上がった。
右腕の服の袖の下には、今も消えることのない傷痕が静かに刻まれている。
けれど、それはもう彼女を縛り付ける絶望の証ではなく、自分の足で正しく生きていくための誇りある標(しるし)だった。
「うん!」
リリーは元気よく応えると、母親の手をしっかりと握りしめ、澄み渡る秋空の下を笑顔で歩き出した。
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