そのコートは、去年一度だけ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIとコートの話。
本文
月曜の朝七時、スマホが短く鳴った。
〔本日のおすすめ〕 〔からし色のチェスターコート/白のニット/黒のワイドパンツ〕
画面の写真の中で、コートは去年と同じ形のまま、ハンガーにかかっていた。
〔着用回数:一〕
わたしはスマホを伏せて、パーカーを頭からかぶった。
週末に衣替えをした。夏物を収納ケースに詰めて、押し入れの奥から冬物を引っぱり出す。ワンルームのクローゼットは狭いから、半年ごとに中身を入れ替えるしかない。
その間、扉の内側に貼った小さなカメラが、服を一枚ずつ読み取っていった。コーデ提案アプリの「アワセ」は、手持ちの服と天気予報から、毎朝その日の組み合わせを選んでくれる。大学に入った年、母に「あんた、放っとくと毎日同じ服着るでしょ」と言われて入れたアプリだった。
皆川文乃、文学部の三年。母の言うとおり、わたしは放っておくと毎日同じ服を着る。
アワセは、服を着るたびに記録をつける。着た回数と、その日の着心地。帰ってきたら、五段階で星をつけるだけだ。
衣替えが終わった翌朝から、アワセは毎日あのコートを勧めてくるようになった。
火曜も、水曜も同じだった。
〔本日のおすすめ〕 〔からし色のチェスターコート〕
ニットとパンツは日によって替わる。コートだけが、毎朝いちばん上にある。
去年の十月、初めてのバイト代で買ったコートだった。駅前の古着屋で、ガラス越しにひと目で決めた。からし色は派手かな、と迷って、店の鏡の前で三回着て、三回脱いだ。
着て出かけたのは、一度だけだ。
木曜の夜、わたしはアワセの設定画面を開いた。〈この服を提案から外す〉というボタンがあった。押すと、入力欄が出てきた。
〔外す理由を教えてください。今後の提案に使います〕
指が止まった。サイズが合わない。色が好みじゃない。生地が傷んでいる。用意された選択肢は、どれも本当ではなかった。
わたしは何も選ばずに、画面を閉じた。
金曜の朝、またコートが出てきた。
さすがに腹が立って、わたしは声に出した。
「ねえ、アワセ。なんで毎日これなの」
アプリには音声で質問できる機能がある。使ったのは初めてだった。
〔回答します〕 〔明日、十月二十四日の予報は、最高気温十四度、北寄りの風、湿度四十%です〕 〔昨年このコートを着用した十月二十四日と、ほぼ同じ条件になります〕
去年の、同じ日。
〔その日、あなたは着心地を〈五〉と評価しています〕 〔登録されている衣類のうち、評価五がついているのは、このコートだけです〕
わたしは床に座りこんだまま、その数字を見ていた。窓の外で、自転車のブレーキがきいっと鳴った。
五。
そうだった。あの日の朝、わたしは鏡の前で一回だけくるりと回った。ウールの襟が首に当たって、ちくりとして、そのちくりまで嬉しかった。家を出る前に星を五つ押したのを、今になって思い出した。
アワセが知っているのは、そこまでだ。
去年の十月二十四日は、写真サークルの撮影会だった。
大学の裏の公園で、色づき始めた銀杏を撮った。集合写真を撮る前に、四年の国分先輩がわたしを見て笑った。
「皆川、それどうしたの。なんか、借りてきたみたいだな」
悪気のない声だった。まわりも笑った。わたしも笑った。笑いながら、コートを脱いで、腕にかけた。
「暑くなっちゃって」
そう言った。本当は、銀杏の下は少し寒かった。
集合写真のわたしは、白いニット一枚で、肩をすくめて写っている。帰り道、紙袋に入れたコートが、やけに重かった。
あの日の夜に、わたしは評価を直さなかった。直す欄がなかったからだ。アワセが聞くのは着心地だけで、着心地は、ずっと五のままだった。
「似合わないって、言われたの」
声に出してから、ばかみたいだと思った。アプリに打ち明けて、どうするのだろう。
画面に、短い返事が出た。
〔「似合う」は、私の評価項目にありません〕
それだけだった。
おかしくなって、息だけで笑った。そうしたら、鼻の奥がつんとした。そうだよね、と思った。あなたには分からないよね。分からないくせに、毎朝、勧めてこないでよ。
スマホを置こうとしたとき、もう一行、表示が増えた。
〔評価項目にないため、私には判断できません〕 〔判断できるのは、着た人だけです〕
土曜日の朝は、窓ガラスがうっすら曇っていた。予報どおり、この秋いちばんの冷え込みだった。
クローゼットを開けると、からし色が目に入った。ハンガーから外して、袖を通す。ウールの重みが肩にのる。襟が首に当たって、やっぱり、ちくりとした。
鏡の前で、一回だけ回った。
似合うかどうかは、分からなかった。ただ、暖かかった。去年の今日と同じくらいに。
午後、図書館の前で、ゼミの岡部千鶴とすれ違った。
「あれ、そのコート初めて見た」 「去年買ったの。一回しか着てないけど」 「えー、もったいな。いい色じゃん」
千鶴はそう言って、すぐにスマホに目を戻した。それくらいの言い方だった。それくらいで、よかったのだと思う。
キャンパスの銀杏は、去年より少し早く色づいていた。北風が吹くたびに、葉が一枚ずつ落ちてきた。わたしはコートの前を合わせて、写真を一枚だけ撮った。
夜、アパートに帰ると、スマホが鳴った。
〔本日の着心地を評価してください〕
わたしは星を五つ押した。
その下に、今まで一度も使ったことのない、自由記入のメモ欄があった。少し迷ってから、わたしは四文字だけ打ちこんだ。
〈似合った〉
〔メモを保存しました〕 〔この項目は、私には評価できません〕
知ってる、とわたしは小さく言った。
画面の下で、数字が一つ増えた。
〔着用回数:二〕
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