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第1話 夜の土間

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/25 📚 シリーズ: 手の中の土、歪んだ器 📝 3,155文字 ✅ 全年齢

あらすじ

蘭実麗 16歳は高校で部活勧誘の声を聞くだけで肩が跳ねる。中学では休むな辞めるな、社会では通用しないと叱られ、大会も出場も顧問が決めた。夜、商店街で十九時から二十一時の陶芸保存会の張り紙を見つける。継承仲間募集の文字に足が止まる。窯の火は迷う人を呼ぶという噂があった。欠席自由と聞き、胸がほどける。見学先の土間で、代表の声が実麗を待っていた。

本文

「入部どうですかー!」

びくっ、と蘭実麗の肩が跳ねた。

廊下の真ん中で足が止まる。

細い指が、鞄の肩ひもをぎゅっと握る。

笑い声。拍手。チラシの擦れる音。

白い蛍光灯が、床に長く光っていた。

「見学だけでも!」

「初心者歓迎でーす!」

実麗は目を伏せた。

そのまま人の波の端を、壁に沿って抜ける。

すれ違いざま、明るい声が背中に当たるたび、首がすくんだ。

「蘭、大丈夫?」

教室の前で声をかけられて、実麗は小さく肩を揺らした。

振り向いて、すぐに口元を引いた。

「……平気」

「顔、白いけど」

「平気だって」

言ってから、唇をかんだ。

強く言いすぎたと思っても、もう遅い。

相手は「あ、ごめん」と笑って手を振り、別の子のほうへ行ってしまった。

実麗はその場に立ったまま、浅く息を吸った。

吸っただけで、胸の奥がきしんだ。

休むな。

辞めるな。

それくらいで音を上げるな。

社会では通用しない。

耳の奥で、怒鳴り声が重なる。

「立て」

「動けるだろ」

「みんなやってる」

「叱られるようなことをするな」

実麗はきゅっと目を閉じた。

次の瞬間、誰かの笑い声が近くで弾けて、はっとまぶたを上げる。

目の前には、もう高校の廊下しかなかった。

放課後。

教室の窓が茜色を飲みこんで、黒板の端だけ赤く染めていた。

残っている生徒は少ない。

部活へ急ぐ足音が、廊下を次々に遠ざかっていく。

実麗は机の中を、必要もないのにもう一度見た。

筆箱。ノート。プリント。

それを順に鞄へしまって、また出して、しまう。

教室の外から、また声がした。

「新入部員まだまだ募集中です!」

ぱちん、と心のどこかが縮む。

実麗は鞄を抱えて立ち上がると、誰もいない反対側の階段へ向かった。

外に出るころには、空はすっかり薄青く沈んでいた。

商店街の入口の看板に灯りがつく。

夕飯の匂い。

自転車のベル。

店じまいのシャッターの音。

実麗は制服のまま、ゆっくり歩いた。

帰るだけ。

そのつもりだったのに、ふと、八百屋と時計店のあいだの掲示板に目が止まった。

紙が一枚、画びょうで留められている。

少し黄ばんだ白い紙。

手書きの太い文字。

十九時から二十一時 陶芸保存会

継承仲間募集

実麗は、ぴたりと足を止めた。

「継承……」

かすれた声が、自分の口から落ちる。

紙の端が夜風にかすかに揺れた。

陶芸。

保存会。

その二つの言葉は、部活の勧誘みたいに押してこなかった。

ただそこに、置かれていた。

実麗は一歩、掲示板に近づいた。

開催場所。曜日。時間。

指でなぞるみたいに目を動かす。

十九時から二十一時。

「夜……」

家に帰ってからでも行ける時間だった。

学校じゃない。

大会もない。

ユニフォームもない。

整列も、声出しも、きっとない。

そのとき、商店街の店先で荷物を片づけていたおばさんが、実麗のほうを見た。

「ああ、それ気になる?」

実麗はびくっとして、背筋を伸ばした。

けれど怒鳴られたわけではないと気づいて、そっとうなずく。

「はい……ちょっと」

「焼きものの会よ。昔からあるの。見学の子もたまに来るわよ」

「……見学」

「うん。欠席も自由だって。仕事の人もいるからねえ」

その一言で、実麗の胸の奥がふっとゆるんだ。

「欠席、自由……」

「そうそう。来られる日に来ればいいって」

実麗は、もう一度紙を見た。

欠席自由。

たったそれだけのことが、信じられないくらい遠い言葉に見えた。

「変な噂もあるけどねえ」

「噂、ですか」

おばさんはくすっと笑って、商店街の奥を指さした。

「窯の火は迷う人を呼ぶんだって」

実麗は目を瞬いた。

「迷う人……」

「ふらっと見つけて、そのまま居ついちゃうんだってさ」

おばさんは冗談めかして言って、段ボールを抱えた。

でも実麗は笑えなかった。

紙から目が離せなかった。

迷う人。

その言葉だけが、妙にまっすぐ胸に入ってきた。

十九時少し前。

実麗は店のガラスに映る自分を見て、スカートのしわを手でのばした。

一度、来た道を振り返る。

帰ろうと思えば帰れた。

まだ間に合う。

「……見学だけ」

自分に言って、うなずく。

それから小さく息を吸って、細い路地へ入った。

商店街のざわめきが一枚向こうに遠のいていく。

土の匂いがした。

雨上がりみたいな、湿った匂い。

その先に、低い灯りがひとつ見える。

引き戸の向こうから、話し声がこぼれていた。

笑う声。

器の触れ合う小さな音。

何かをこねる、やわらかい水音。

実麗は土間の前で止まった。

靴先がきちんとそろっている。

内側のたたきは少し黒く光り、長く使われてきた跡があった。

戸は少しだけ開いていて、中の橙色の明かりが細く漏れている。

帰るなら今だ。

手をかけなければ、誰にも気づかれない。

実麗の指先が、制服の裾をつまむ。

それから離す。

またつまむ。

喉が上下した。

そのとき、中から声がした。

「外、冷えるでしょう。どうぞ」

実麗は、はっと顔を上げた。

戸の隙間の向こう、土間の奥。

灯りの中に立つ人影が、まっすぐこちらを見ていた。

「見学の子だよね」

やわらかな声だった。

追い立てるでもなく、試すでもなく、ただ待っていたみたいな声。

実麗の唇が、少しだけ開く。

声はすぐには出なかった。

「……あの」

手のひらに、じんわり汗がにじむ。

鞄の持ち手が、きしっと鳴った。

「はい」

「その……張り紙、見て」

「うん」

「見学、だけでも、いいって……」

「いいよ」

間を置かずに返ってきたその一言に、実麗はまばたきをした。

「ほんとに?」

言ってから、しまった、と思う。

変な聞き返し方だった。

けれど相手は笑わなかった。

「ほんとに」

その声に、実麗のこわばった肩がわずかに下がる。

「来る日も休む日も、自分で決めていいから」

実麗は動けなかった。

土間の縁の前で、立ち尽くしたまま、目だけが揺れる。

来る日も。

休む日も。

自分で。

胸の奥に、じわっと熱いものが広がった。

泣くほどではない。

でも、泣く少し手前の熱さだった。

「……怒られませんか?」

声が細くなる。

聞こえないかもしれないと思うくらい、小さかった。

それでも、その人はちゃんと聞き取ってくれた。

「何を?」

「休んだら、とか……向いてなかったら、とか……」

最後のほうは、ほとんど息だった。

少しの沈黙。

土をこねる音だけが、奥で続いている。

それから、その人は静かに言った。

「ここは、怒鳴る場所じゃないよ」

実麗の喉が、ひくっと鳴った。

「……っ」

笑おうとしたのに、うまくいかなかった。

口元がゆがんで、目の縁が熱くなる。

慌てて下を向く。

前髪が頬に落ちた。

「ごめんなさい」

「謝らなくていいよ」

「でも」

「寒いから、まず入ろう」

その一言に背中を押されて、実麗はやっと靴を脱いだ。

たたきに足を下ろす。

ひやりとした感触が、靴下越しに伝わる。

中は、土と火の匂いがした。

強くない。

深く息をすると、胸の奥まで静かになる匂いだった。

棚には、色も形も少しずつ違う器が並んでいる。

丸い皿。細長い花瓶。小さな湯のみ。

どれも少しずつ不揃いで、でも、置かれている姿はまっすぐだった。

実麗はそっと見回した。

誰かと目が合うたび、小さく会釈をする。

相手も軽くうなずく。

それだけだった。

名前を聞かない。

どこの高校かも聞かない。

何部だったかも聞かない。

そのことに、また少しだけ驚く。

「こっち、座れる?」

声をかけられて、実麗は土間の脇の丸椅子に腰を下ろした。

膝の上で、指を組む。

ほどく。

また組む。

「緊張してるね」

実麗は、困ったようにほんの少し笑った。

「……はい」

「初めて来る場所って、そうだよね」

「はい」

うなずいてから、実麗はそっと顔を上げる。

「でも」

「うん」

「ちょっとだけ、安心してます」

灯りの下で、その人がやわらかく目を細めた。

「それならよかった」

奥で、こぽり、と水の音がした。

誰かの手の中で、土が形を変えていく。

実麗はその音を聞きながら、膝の上の手から少しだけ力を抜いた。

十九時の針が、どこかで静かに進んでいた。

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作者について

津組セナ

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