第2話 やわらぐ土
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
保存会代表の倉橋清太郎 68歳は、来たい日に来ればいいと笑う。その一言に実麗は返事を失う。初心者の実麗は土練りで手をこわばらせ、少し強い物音にも身をすくめる。中学で笛が鳴るたび整列した記憶が断片でよみがえる。会には沢村文江 74歳もいた。初作の器が焼けると道に迷いにくいという噂がある。土が手に残る感触だけが、帰り道の呼吸をゆっくりにした。次の夜、実麗は自分から戸を開ける。
本文
「来たい日に来ればいいよ」
倉橋清太郎が笑った。
目尻のしわが、ふっとやわらぐ。
土のついた手を軽く振って、実麗の前の丸椅子を引いた。
「ほら、そこ。無理に何かしなくていいから」
実麗は立ったまま、椅子と倉橋の顔を見比べた。
返事が喉の奥でつかえる。
来たい日に。
来ればいい。
それだけの言葉が、すぐに飲みこめない。
「……あ」
声が、そこで止まった。
倉橋は急かさなかった。
「うん」とだけ言って、もう一度笑った。
「今日は見てるだけでもいいし、触ってみたくなったら土もある」
実麗は、ゆっくり座った。
膝をそろえて、鞄を抱える。
背中がかたい。
肩が上がったまま下りない。
奥で、ことり、と何かが置かれた。
その小さな音だけで、実麗の指先がぴくっと跳ねる。
笛。
並べ。
早く。
喉の奥がひゅっと細くなる。
「寒い?」
不意に倉橋の声が近くでして、実麗ははっと顔を上げた。
「い、いえ」
「そうか。ならよかった」
倉橋は土の塊を台の上に置いた。
ずしり、と鈍い音。
実麗の肩がまた小さくすくむ。
「びっくりしたねえ」
申し訳なさそうでもなく、からかうでもなく、ただ気づいたままの声だった。
実麗は視線を落とした。
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
倉橋は土を両手で押した。
ぐっ、と前へ。
返して、また押す。
土がしずかに折れて、重なって、つやを帯びる。
「土練り、やってみる?」
実麗は土を見る。
茶色いかたまり。
濡れていて、少し光っている。
やわらかそうなのに、重そうだった。
「……初心者でも」
「初心者だからやるんだよ」
その言い方がやさしくて、実麗はほんの少し目を見開いた。
「失敗しても?」
「土は逃げない」
倉橋が言うと、近くで誰かがふふっと笑った。
「ほんとほんと」
振り向くと、小柄な女の人が布で手をぬぐっていた。
白い髪がきれいにまとめられている。
目が合うと、その人はにこっとした。
「沢村文江です。こんばんは」
「……こんばんは」
実麗はあわてて頭を下げた。
「いいのよ、そんなにかしこまらなくて」
文江は実麗の手元を見て、少し首をかしげた。
「冷えてるわねえ、その手」
言われて、実麗は自分の指を見た。
たしかに、こわばっていた。
指先がそろわない。
鞄の持ち手に食いこんだ跡が、うすく赤い。
「触るとあったかいわよ、土」
文江がそう言って、土のほうへあごをしゃくった。
実麗はためらいながら立ち上がった。
倉橋の隣に行く。
台の上の土が近くなる。
湿った匂いがした。
雨のあとみたいな、でももっと深い匂い。
「手、こう」
倉橋がゆっくり見せる。
押す。
返す。
また押す。
そのたび、腕の筋がゆるく動く。
「力、いりそう……」
実麗の声は小さい。
「少しね。でも喧嘩するほどじゃない」
文江がまた笑った。
「ほら、やってごらん」
実麗は土に手を置いた。
ひやり、とした。
思っていたより冷たい。
その冷たさに、肩がきゅっと上がる。
「大丈夫、大丈夫」
倉橋の声が、すぐそばにある。
「前に押してみようか」
実麗は唇を引き結んで、体重をかけた。
ぐ、と手のひらに土の重みが返ってくる。
押しきれない。
止まる。
もう少し。
腕が震える。
「……かたい」
「最初はね」
倉橋が土の端を支えてくれる。
実麗はもう一度押した。
今度は少し動く。
ぬる、と形が変わった。
その感触に、実麗の目がわずかに揺れる。
「動いた」
「うん、動いた」
文江がうれしそうに言う。
それだけのことで胸がざわつく。
褒められた、というほどでもない。
なのに、変に熱い。
奥で、ぱたん、と板が倒れる音がした。
実麗の体が先に反応した。
背筋がぴんと張る。
顔が強ばる。
足が一歩、下がりかける。
笛。
整列。
走れ。
遅い。
何してる。
音のないはずの声が、耳の奥で重なった。
「実麗さん」
低く、落ち着いた声。
倉橋だった。
「大丈夫。板が倒れただけ」
実麗は息を止めていたことに気づいて、細く吐いた。
吐いた息が、途中でふるえる。
「……すみません」
「ここ、笛は鳴らないよ」
倉橋がそう言って、土をぽんと軽くたたいた。
「鳴るのは、せいぜい窯の音くらいだ」
文江がくすっと笑う。
「それも怒らないしねえ」
実麗は少しだけ口元をゆるめた。
うまく笑えたかは分からない。
でも、頬の力が少し抜けた。
「もう一回、押してみようか」
倉橋に言われて、実麗はうなずいた。
両手を土に置く。
さっきよりも、少しだけ深く触れる。
押す。
返す。
押す。
爪のあいだに土が入りこむ。
手のひらに重さがひろがる。
指のつけ根がじんとする。
「そうそう」
「焦らなくていいのよ」
「……はい」
声が、今度は消えなかった。
何度か押しているうちに、呼吸が土の動きに合ってくる。
前へ。
戻して。
前へ。
肩の高さが少し下がる。
首すじの力がほどける。
「そのくらいでいい」
倉橋が言うと、実麗ははっとして手を止めた。
手のひらも指も、土の色になっていた。
「すごい手」
文江が目を細める。
実麗はおそるおそる、自分の手を見た。
土が薄くひびみたいに張りついて、線のあいだを埋めている。
制服の袖口にも、少しついていた。
「汚れた」
そう口にしたのに、声は暗くなかった。
「いい汚れよ」
文江が言う。
「初めての土は、残るから」
「残る……」
「洗っても、今日はちょっとだけ覚えてるの」
文江は自分の手を見せた。
節のある指。
爪のきわに、うすく色が残っている。
「そういう日、あるでしょう」
実麗は黙ってうなずいた。
時間が過ぎる。
時計の針の音は聞こえないのに、灯りの色だけが少しずつ深くなる。
誰かが器を持ち上げる。
誰かが布をしぼる。
水の音。
土の音。
低い話し声。
帰るころ、文江が棚のほうを見ながら言った。
「最初の器が焼けるとね、道に迷いにくいって昔から言うのよ」
実麗は靴を履く手を止めた。
「道に……」
「迷いにくい」
文江はいたずらっぽく笑う。
「ほんとかどうかは知らないけど、私は好きよ、そういう話」
倉橋が戸を少し開けた。
外の夜気が、すうっと入る。
「帰り、気をつけて」
実麗は土のついた指先を見た。
洗ったはずなのに、手のひらの奥にまだ感触がいる。
押した重さ。
湿り気。
ひんやりしたやわらかさ。
「……ありがとうございました」
戸口で頭を下げる。
倉橋は「またね」と言った。
文江は「来たい日にね」と手を振った。
夜道に出る。
商店街の灯りが少しにじんで見えた。
息を吸う。
吐く。
また吸う。
いつもみたいに急がない。
足音がひとつ、ひとつ、ちゃんとついてくる。
手を握る。
ひらく。
土の気配が、まだそこにある。
次の夜。
実麗は路地の前で立ち止まらなかった。
灯りの見える先までまっすぐ歩く。
引き戸の前で、ひとつ呼吸をして、
今度は自分から戸を開けた。
「こんばんは」
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