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第2話 やわらぐ土

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/26 📚 シリーズ: 手の中の土、歪んだ器 📝 2,653文字 ✅ 全年齢

あらすじ

保存会代表の倉橋清太郎 68歳は、来たい日に来ればいいと笑う。その一言に実麗は返事を失う。初心者の実麗は土練りで手をこわばらせ、少し強い物音にも身をすくめる。中学で笛が鳴るたび整列した記憶が断片でよみがえる。会には沢村文江 74歳もいた。初作の器が焼けると道に迷いにくいという噂がある。土が手に残る感触だけが、帰り道の呼吸をゆっくりにした。次の夜、実麗は自分から戸を開ける。

本文

「来たい日に来ればいいよ」

倉橋清太郎が笑った。

目尻のしわが、ふっとやわらぐ。

土のついた手を軽く振って、実麗の前の丸椅子を引いた。

「ほら、そこ。無理に何かしなくていいから」

実麗は立ったまま、椅子と倉橋の顔を見比べた。

返事が喉の奥でつかえる。

来たい日に。

来ればいい。

それだけの言葉が、すぐに飲みこめない。

「……あ」

声が、そこで止まった。

倉橋は急かさなかった。

「うん」とだけ言って、もう一度笑った。

「今日は見てるだけでもいいし、触ってみたくなったら土もある」

実麗は、ゆっくり座った。

膝をそろえて、鞄を抱える。

背中がかたい。

肩が上がったまま下りない。

奥で、ことり、と何かが置かれた。

その小さな音だけで、実麗の指先がぴくっと跳ねる。

笛。

並べ。

早く。

喉の奥がひゅっと細くなる。

「寒い?」

不意に倉橋の声が近くでして、実麗ははっと顔を上げた。

「い、いえ」

「そうか。ならよかった」

倉橋は土の塊を台の上に置いた。

ずしり、と鈍い音。

実麗の肩がまた小さくすくむ。

「びっくりしたねえ」

申し訳なさそうでもなく、からかうでもなく、ただ気づいたままの声だった。

実麗は視線を落とした。

「……すみません」

「謝らなくていいよ」

倉橋は土を両手で押した。

ぐっ、と前へ。

返して、また押す。

土がしずかに折れて、重なって、つやを帯びる。

「土練り、やってみる?」

実麗は土を見る。

茶色いかたまり。

濡れていて、少し光っている。

やわらかそうなのに、重そうだった。

「……初心者でも」

「初心者だからやるんだよ」

その言い方がやさしくて、実麗はほんの少し目を見開いた。

「失敗しても?」

「土は逃げない」

倉橋が言うと、近くで誰かがふふっと笑った。

「ほんとほんと」

振り向くと、小柄な女の人が布で手をぬぐっていた。

白い髪がきれいにまとめられている。

目が合うと、その人はにこっとした。

「沢村文江です。こんばんは」

「……こんばんは」

実麗はあわてて頭を下げた。

「いいのよ、そんなにかしこまらなくて」

文江は実麗の手元を見て、少し首をかしげた。

「冷えてるわねえ、その手」

言われて、実麗は自分の指を見た。

たしかに、こわばっていた。

指先がそろわない。

鞄の持ち手に食いこんだ跡が、うすく赤い。

「触るとあったかいわよ、土」

文江がそう言って、土のほうへあごをしゃくった。

実麗はためらいながら立ち上がった。

倉橋の隣に行く。

台の上の土が近くなる。

湿った匂いがした。

雨のあとみたいな、でももっと深い匂い。

「手、こう」

倉橋がゆっくり見せる。

押す。

返す。

また押す。

そのたび、腕の筋がゆるく動く。

「力、いりそう……」

実麗の声は小さい。

「少しね。でも喧嘩するほどじゃない」

文江がまた笑った。

「ほら、やってごらん」

実麗は土に手を置いた。

ひやり、とした。

思っていたより冷たい。

その冷たさに、肩がきゅっと上がる。

「大丈夫、大丈夫」

倉橋の声が、すぐそばにある。

「前に押してみようか」

実麗は唇を引き結んで、体重をかけた。

ぐ、と手のひらに土の重みが返ってくる。

押しきれない。

止まる。

もう少し。

腕が震える。

「……かたい」

「最初はね」

倉橋が土の端を支えてくれる。

実麗はもう一度押した。

今度は少し動く。

ぬる、と形が変わった。

その感触に、実麗の目がわずかに揺れる。

「動いた」

「うん、動いた」

文江がうれしそうに言う。

それだけのことで胸がざわつく。

褒められた、というほどでもない。

なのに、変に熱い。

奥で、ぱたん、と板が倒れる音がした。

実麗の体が先に反応した。

背筋がぴんと張る。

顔が強ばる。

足が一歩、下がりかける。

笛。

整列。

走れ。

遅い。

何してる。

音のないはずの声が、耳の奥で重なった。

「実麗さん」

低く、落ち着いた声。

倉橋だった。

「大丈夫。板が倒れただけ」

実麗は息を止めていたことに気づいて、細く吐いた。

吐いた息が、途中でふるえる。

「……すみません」

「ここ、笛は鳴らないよ」

倉橋がそう言って、土をぽんと軽くたたいた。

「鳴るのは、せいぜい窯の音くらいだ」

文江がくすっと笑う。

「それも怒らないしねえ」

実麗は少しだけ口元をゆるめた。

うまく笑えたかは分からない。

でも、頬の力が少し抜けた。

「もう一回、押してみようか」

倉橋に言われて、実麗はうなずいた。

両手を土に置く。

さっきよりも、少しだけ深く触れる。

押す。

返す。

押す。

爪のあいだに土が入りこむ。

手のひらに重さがひろがる。

指のつけ根がじんとする。

「そうそう」

「焦らなくていいのよ」

「……はい」

声が、今度は消えなかった。

何度か押しているうちに、呼吸が土の動きに合ってくる。

前へ。

戻して。

前へ。

肩の高さが少し下がる。

首すじの力がほどける。

「そのくらいでいい」

倉橋が言うと、実麗ははっとして手を止めた。

手のひらも指も、土の色になっていた。

「すごい手」

文江が目を細める。

実麗はおそるおそる、自分の手を見た。

土が薄くひびみたいに張りついて、線のあいだを埋めている。

制服の袖口にも、少しついていた。

「汚れた」

そう口にしたのに、声は暗くなかった。

「いい汚れよ」

文江が言う。

「初めての土は、残るから」

「残る……」

「洗っても、今日はちょっとだけ覚えてるの」

文江は自分の手を見せた。

節のある指。

爪のきわに、うすく色が残っている。

「そういう日、あるでしょう」

実麗は黙ってうなずいた。

時間が過ぎる。

時計の針の音は聞こえないのに、灯りの色だけが少しずつ深くなる。

誰かが器を持ち上げる。

誰かが布をしぼる。

水の音。

土の音。

低い話し声。

帰るころ、文江が棚のほうを見ながら言った。

「最初の器が焼けるとね、道に迷いにくいって昔から言うのよ」

実麗は靴を履く手を止めた。

「道に……」

「迷いにくい」

文江はいたずらっぽく笑う。

「ほんとかどうかは知らないけど、私は好きよ、そういう話」

倉橋が戸を少し開けた。

外の夜気が、すうっと入る。

「帰り、気をつけて」

実麗は土のついた指先を見た。

洗ったはずなのに、手のひらの奥にまだ感触がいる。

押した重さ。

湿り気。

ひんやりしたやわらかさ。

「……ありがとうございました」

戸口で頭を下げる。

倉橋は「またね」と言った。

文江は「来たい日にね」と手を振った。

夜道に出る。

商店街の灯りが少しにじんで見えた。

息を吸う。

吐く。

また吸う。

いつもみたいに急がない。

足音がひとつ、ひとつ、ちゃんとついてくる。

手を握る。

ひらく。

土の気配が、まだそこにある。

次の夜。

実麗は路地の前で立ち止まらなかった。

灯りの見える先までまっすぐ歩く。

引き戸の前で、ひとつ呼吸をして、

今度は自分から戸を開けた。

「こんばんは」

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作者について

津組セナ

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