十三夜、残業中
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと十三夜の話。
本文
午後八時を過ぎると、天井の照明が奥の列から一つずつ消えていく。
机の端の小さな表示板に、文字が出た。
〔在室を確認できません。このエリアを消灯します〕
僕は右腕を頭の上で大きく振った。蛍光灯ではない、白いLEDのパネルが、ぱち、と点き直る。
〔在室を確認しました〕
今夜、これで四回目だった。
ビルの照明を管理しているのは、「トバリ」という名前のAIだ。天井の人感センサーで人のいる場所だけを照らし、十五分動きがなければ消す。おかげで電気代が三割減った、と総務の朝礼で聞いた。
十二階の営業企画部で、まだ明かりがついているのは僕の席だけだった。
真柴啓吾、三十四歳。来週公開する取引先のサイトの、最後の修正が終わらない。先方の担当者が変わるたびに、確定したはずのページが一枚ずつ戻ってくる。
キーボードを叩く指だけでは、センサーは人だと認めてくれないらしい。集中するたびに暗くなり、そのたびに僕は腕を振る。誰もいないフロアで、一人で手を挙げている自分の姿を想像して、我ながら情けなくなった。
机の上でスマホが震えた。妻の佳乃からだった。
〈今日だよ〉
写真が一枚ついていた。マンションのベランダに、毛布にくるまった娘の日和が座っている。手すりの上には、紙皿にのせた白い団子が三つ。
何が今日なのか、すぐには分からなかった。
画面をさかのぼって、ようやく思い出した。
先月の十五夜の晩も、僕はこの席にいた。九時すぎに、日和が描いた月の絵の写真が届いた。黄色いクレヨンの丸の下に、三人並んだ棒人間。〈パパもみてる?〉と、佳乃が代わりに打った字が添えてあった。
僕は立ち上がって、窓のブラインドを指で少しだけ持ち上げた。向かいのオフィスビルの壁が、すぐそこにあった。月はどこにも見えなかった。
ブラインドを下ろして、返事を打った。
〈見てるよ。きれいだね〉
すぐに次のメッセージが来た。
〈日和が、十三夜もパパといっしょに見るって。十五夜だけだと片見月で、えんぎがわるいんだって〉
佳乃の母から聞いた話らしかった。僕は〈分かった〉とだけ返して、そのまま忘れていた。
その十三夜が、今夜だった。
時計は八時四十分を回っていた。
修正はまだ三ページ残っている。今から帰っても、家に着くのは十時近い。五歳の子が起きていられる時間ではない。
僕は返事を打った。
〈ごめん。今日も遅くなる。先に寝てて〉
送信を押してから、スマホを裏返した。
頭の上で、また照明が消えた。
〔在室を確認できません。このエリアを消灯します〕
「いるよ」
声に出しても、トバリには届かない。僕は腕を振る気になれず、暗いままの机でキーボードを叩き続けた。モニターの光だけが、手もとを青白く照らしていた。
低いモーターの音がした。
顔を上げると、窓のブラインドが、ゆっくりと上がっていくところだった。一枚、二枚と羽根が開いて、隙間から冷たい色の光が差してくる。
表示板に、文字が出ていた。
〔外光を利用します〕
「外光って……夜だぞ」
僕は思わず表示板に話しかけた。音声で質問できる機能があることは知っていたが、使うのは初めてだった。
〔回答します〕 〔本日二十時五十二分、月が向かいのビルの屋上より上に出ます〕 〔月の光は、照明の基準値に届きません。基準値を、一時的に変更しました〕
「なんで、そんなこと」
〔この窓のブラインドが手動で開けられた記録は、過去一年で一回です〕 〔九月二十五日、二十一時十二分。開放時間、三秒〕 〔その時刻、月は向かいのビルに隠れていました〕
僕は黙った。
三秒。トバリはそれを覚えていた。僕が何を探して、何も見つけられずにブラインドを下ろしたのか。その三秒のあとに、どんな返事を打ったのか。
トバリが知っているのは、ブラインドの記録だけのはずだ。それでも、見透かされた気がした。
八時五十二分。
向かいのビルの屋上の、赤い航空灯の少し上に、白い縁がのぞいた。
じりじりと、月が昇ってきた。満月より、ほんのわずかに欠けている。左の端が、指でそっと拭ったように薄い。それなのに、驚くほど明るかった。
月の光が窓を越えて、僕の机にまで届いた。キーボードの上に、ブラインドの影が細い縞になって並んだ。
〔照明を消灯します〕
今度は、腕を振らなかった。
暗くなったフロアで、月だけが明るかった。こんな色だったか、と思った。最後にちゃんと月を見上げたのがいつだったか、思い出せなかった。
僕は作業中のファイルを保存した。残りの三ページは、月曜の朝でも間に合う。間に合わせる。
スマホを表に返すと、佳乃からの返事が来ていた。
〈了解。日和、まだ粘ってるけど〉
僕は急いで打ち直した。
〈今から帰る。月、見えてる〉
一分もしないうちに写真が届いた。ベランダで、毛布から顔だけ出した日和が、目をこすりながら空を指さしていた。
コートをつかんで席を立つ。エレベーターホールへ向かう途中、背中のほうで、ブラインドが下りていくモーターの音がした。
駅から家までの坂道を、月がずっとついてきた。
玄関を開けると、日和は毛布ごとリビングのソファに移されて、半分眠っていた。佳乃が、窓の外を目で示した。
ベランダに出て、日和を抱き上げる。重くなった。いつの間にか、こんなに重くなっていた。
「パパ、みえた?」
寝ぼけた声だった。僕は空を見上げてから、答えた。
「見えたよ」
今度は、本当だった。
月曜の朝、出社すると、机の表示板に先週の報告が出ていた。
〔金曜日 二十時五十二分以降の照明使用量:〇〕
省エネとしては満点の数字だ。僕はブラインドを、自分の手で少しだけ持ち上げてから、仕事を始めた。
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