カメロールの奇跡
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
機械に頼りっぱなしの現代。 そんな現代で起きる一つの奇跡。
本文
現代人は、誰かのカメラロールの中で生きている。
渋谷のスクランブル交差点、恵比寿のカフェ、あるいは近所のスーパーのレジ待ち。自分が主役だと思って歩いているその瞬間も、誰かのスマホの広角レンズには、見知らぬ通行人としての自分が確実に収まっている。
「バックレイヤー」は、そうした“背景の人間”を回収するためのアプリだった。
主人公の蓮(れん)がそのアプリをダウンロードしたのは、退職届を出し、将来への不安からスマホの画面を延々とスクロールしていた深夜三時のことだ。SNSのタイムラインにはキラキラした知人の報告が並び、自分の人生だけがピントの合わないモブキャラのように感じられていた。そんな自虐的な気分の延長で、蓮は面白半分に「過去の背景検索」をタップした。
GPSの履歴と顔データを同期させると、AIがクラウド上の膨大なスナップ写真から、蓮が写り込んでいるものを探し出す。 画面が数秒間フリーズし、パッと表示されたのは、三年前の初夏、大学の卒業式の日に下北沢の路地裏で途方に暮れていた自分の姿だった。手には、内定辞退の通知メールを開いたままのスマホ。
そして、その写真には――蓮のすぐ後ろに、もう一人の人物が写り込んでいた。
くすんだマスタードイエローのパーカーを着た、背の低い女の子。彼女は片手でスマホをいじりながら、もう片方の手で肉まんを頬張っていた。蓮が絶望のどん底にいたその瞬間、彼女は全く関係のない顔で肉まんを食べていた。
「……なんだこれ」
蓮はなんとなく、その女の子のアイコンをタップした。アプリの仕様上、相手も登録していればプロフィールが見られる。しかし、彼女の名前は「ユーザー非公開」、アイコンはただの灰色のシルエットだった。
しかし、奇妙なことに気づく。 さらに古いデータを検索していくと、彼女が写り込んでいる写真が次々とヒットしたのだ。
二年前の冬、上野動物園の前で、大失恋した帰りに缶コーヒーを握りしめて泣きそうになっていた蓮の斜め後ろ。 一年前の秋、神田の古本屋街で、会社を辞めたいと本気で悩みながら分厚い専門書を立ち読みしていた蓮の隣の棚。
まるで、ストーカーのように――いや、そうではない。お互いに気づいていない。ただ偶然、人生の重大な岐路や、ほんの些細な躓きの瞬間に、いつもこの「マスタードイエローのパーカー」が背景にいた。蓮の人生の裏側には、常に彼女の日常が並行して走っていたのだ。
「こんな偶然、あるかよ」
蓮は苦笑した。だが、胸の奥が少しだけざわついた。孤独に押しつぶされそうだった東京のコンクリートジャングルに、自分以外のもう一人、同じように不器用で、ピントの合わない軌道を描いている人間がいるような気がしたからだ。
アプリには「クロス・シグナル」という機能があった。お互いの距離が五百メートル以内に入ったとき、相手に匿名で「近くにいます」という小さな波紋を送ることができる。もちろん、相手が拒否設定にしていなければの話だ。
翌日、蓮はなんとなくその機能をオンにしたまま、山手線に乗っていた。
午後四時、新宿駅のホーム。仕事の面接を終え、手応えのなさに溜息をつきながらドアにもたれかかった瞬間、ポケットの中のスマホが「ブルッ」と短く震えた。
画面には、通知。
【クロス・シグナル】 近くに、あなたの背景(モブ)がいます。 距離:約三十メートル
心臓が跳ね上がった。蓮は慌てて顔を上げ、周囲を見渡した。 夕暮れのホームには、帰宅を急ぐサラリーマンや学生があふれている。誰もがスマホを見つめ、あるいは疲れ切った顔で電光掲示板を仰いでいる。その中で、誰があのマスタードイエローのパーカーの女の子なのだろうか。
いや、そもそも彼女は今もあのパーカーを着ているとは限らない。
蓮は衝動に駆られて、アプリのチャット画面を開いた。機能が許すのは、一度きりの短いメッセージの送信だけだった。文字数は最大でも三十文字まで。
指先が少し震える。何と送ればいい。不審者だと思われるか。 しかし、ここで逃したら、二度とこんな奇妙な点と点は結ばれない気がした。
蓮は画面に向かって打ち込んだ。
三年前の下北沢から、ずっと一緒でしたね。
送信ボタンを押した瞬間、電車の発車メロディが鳴り響いた。 ドアが閉まりかける。乗るべきか、降りるべきか。周りの乗客に押されるように、蓮の体は半ば自動的に電車の中へと押し込まれた。閉まりゆくドアの隙間から、ホームの向こう側を見る。
その時だった。
向かい側のホームに停車していた反対方向の電車のドアが開き、一人の女性が降りてきた。 彼女の着ているコートは、マスタードイエローだった。
女性はスマホを手に持ち、まさに画面を見下ろしていた。彼女の足がピタリと止まる。 電車の窓ガラス越しに、二人の視線が交差した。
わずか数メートルの距離。窓ガラスの反射と、ガタゴトと動き出す電車の騒音の向こう側で、彼女は驚いたように目を見張り、そして――ほんの少しだけ、笑ったように見えた。
「あ――」
声はガラスにかき消された。電車はゆっくりと加速し、ホームの景色を切り裂いていく。 女性の姿はみるみるうちに遠ざかり、夕暮れのコンクリートのなかに溶けて消えていった。
ポケットの中のスマホが再び震えた。 画面を開くと、チャットの返信が一件だけ届いていた。
次は、背景じゃなくて、正面からお茶でもどうですか?
蓮は大きく息を吸い込み、次の駅で迷わず電車を降りた。 東京の空はどこまでも広く、冷たく、けれどスマホの画面の向こう側には、
確かな温度を持った未来が動き出そうとしていた。
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