第1章 ― 朔夜、あるいは壊れやすい朝
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
五時四十分。起床の鐘が鳴るまで、あと二十分ある。
橘朔夜は、鐘より先に目を覚ましていた。
天井板の木目が、窓のカーテンの隙間から差し込む薄青い光に、ゆっくりと浮かび上がってくる。節が一つ、渦を巻くように黒ずんでいて、入寮して最初の夜に「これは目玉に見えるなあ」と思ってから、毎朝その目と睨めっこをするのが朔夜の習慣になっていた。目玉は今朝も何も言わない。朔夜は口の中でだけ「おはよ」と言った。
吐く息が、白かった。
十月も半ばを過ぎると、北の山裾に建つこの寮舎は、夜のあいだに石の床から冷えを吸い上げる。毛布の外へ出した指先がじんと痺れ、鼻の頭が冷たい。けれど朔夜はこの冷たさが好きだった。眠気の膜を、一枚ずつ剥がしてくれるような気がするからだ。
彼女は身体を起こさず、まず仰向けのまま両手を握っては開いた。
一度。二度。三度。
指の関節が、ぱきりと小さく鳴る。手首を回す。肘を曲げ、肩甲骨を寄せる。足の指を折り畳み、足首を回す。身体の末端から順に、眠っていた筋肉へ「起きて」と合図を送っていく。昨日の訓練で酷使した左の前腕が、鈍く重い。右膝の内側にも、軽い熱が残っている。
(うん、悪くない。ちょっと張ってるくらい)
そう確かめてから、朔夜は勢いよく毛布を跳ね上げた。
冷気が全身に噛みついた。「ひゃっ」と声が漏れる。それがおかしくて、一人で笑ってしまう。二段ベッドの下段では、同室の訓練生が丸くなって寝息を立てていた。朔夜は音を殺して床に降りる。素足の裏に、石の冷たさが真っ直ぐに突き刺さった。
ひやり、を通り越して、じん、と来る。
その痛いほどの冷たさが踵から脹脛、膝、腿へと駆け上がり、背骨を撫でて後頭部へ抜けていく。眠気が、完全に蒸発した。
朔夜は爪先立ちで洗面所へ向かった。
廊下は暗く、長い。非常灯だけが緑がかった光を床に落としていて、等間隔に並んだ扉が、歯の抜けた櫛のように奥へ奥へと続いている。壁には額装された訓示が掛かっていた。
――『秩序は、美しさに先立つ』
初代の長官が書いたのだという墨痕の太い文字は、朔夜にはいつまで経ってもよく分からない。秩序と美しさと、どっちが先でも別にいいじゃないか、と思ってしまう。それを以前うっかり口にしたら、上級生に三十秒間、無言で睨まれた。
洗面所の蛇口をひねると、水が管の奥でごぼりと鳴ってから、勢いよく流れ出した。
両手で受ける。冷たい。冷たいなんてものじゃない。指の骨まで凍みる。朔夜は歯を食いしばって、その水を顔に叩きつけた。
「――っ、ぷはあっ!」
頬が熱くなる。まぶたの裏で火花が散る。もう一度、二度、三度。水滴が顎から喉へ伝い落ちて、寝間着の襟を濡らしていく。顔を上げると、曇り気味の鏡の中に、見慣れた少女がいた。
黒髪のボブカットが、寝癖で右側だけ外へ跳ねている。濡れた前髪の下で、琥珀色の瞳が、まだ薄暗いなかでもほのかに明るく光って見えた。小柄で、肩幅も狭くて、首も細い。ぱっと見には、どこにでもいる十八の女の子だ。
朔夜は鏡の自分に向かって、にっと歯を見せた。
「今日もよろしく」
鏡の中の少女も、同じ顔で笑い返す。
それだけ済ませると、朔夜は濡れた手でぐしゃぐしゃと寝癖を撫でつけ、洗面所を出た。
――この建物が何のためにあるのか、朔夜は正確に知っている。
国立女子警察機関・第三寮舎。表向きには、治安維持を担う女性警察官を養成する全寮制の教育機関だ。制服、規律、早朝点呼、銃器取扱いの座学、逮捕術の実技。どれも本物で、どれも嘘ではない。入寮者の大半は、その表の顔のためだけに三年間を過ごし、卒業して各地の署へ散っていく。
だが、彼女たちの中から、ほんの一握りだけが選ばれる。
巫女の素質を持つ者。
夜に生きる「あれら」――怪異、化け物、人の理屈の外側から這い出してくるもの――を、人知れず退けるための、もう一つの顔。その存在を知る者は、組織の内側でもごく限られている。そして外に漏らした者、あるいは偶然に「見てしまった」者には、記憶の改竄か、もっと冷たい処置が待っている。
朔夜は、そのことを知っている。知った上で、ここにいる。
(重たい話だよね、ほんと)
自室へ戻る廊下の途中で、朔夜は小さくため息をついた。ため息をついてから、すぐに「いやいや」と首を振る。重たい話を重たい顔で背負っていたら、肩が凝ってしまう。重たいものは、軽く持つ。それが朔夜の流儀だった。
部屋に戻り、音を立てないよう衣装箱を開ける。
取り出したのは、訓練用の黒いトレーニングウェアだった。上は長袖の伸縮素材で、下は動きやすい細身のパンツ。肌に吸い付くような生地の感触が、指先に心地いい。寝間着を脱ぐと、冷気が裸の背中を舐めた。一瞬だけ肩をすくめて、素早く袖を通す。
ウェアの下に隠れた身体は、見た目の華奢さに反して、驚くほど引き締まっている。
腹筋には薄く縦の線が走り、肩から二の腕にかけての筋肉は、細いながらも硬く張っていた。脹脛は、小柄な体格には不釣り合いなほど発達している。幼い頃から体術ばかりをやってきた身体だ。無駄な脂肪が最初からほとんどなくて、そのぶん冬は寒さがよく染みる。
髪をゴムで括ろうとして、ボブの長さでは束ねきれないことを思い出し、朔夜は短く舌を出した。仕方なく、額に巻くヘアバンドで前髪だけ押さえる。
そして、ベッドの足元に立てかけてあった長い布袋へ、手を伸ばした。
布の上から握っただけで、掌に馴染む重みが返ってくる。
紐を解く。中から現れたのは、二本の木製の棒だった。
トンファー。
樫の木を削り出した、長さ五十センチほどの棒に、側面から直角に短い握りが突き出している。長年の使用で、握りの部分は朔夜の掌の形に合わせて、艶やかに黒ずんでいた。木肌には、細かな傷がいくつも走っている。その一本一本に、いつ、どこで、誰と打ち合って付いた傷なのか、朔夜は大抵覚えていた。
握りを持って、くるりと回す。
風を切る、鋭くも柔らかな音が、薄暗い室内に響いた。
「しーっ」
朔夜は自分に向かって人差し指を立てた。二段ベッドの下から、もぞりと身じろぎする気配がしたが、寝息はすぐに元の調子に戻った。胸を撫で下ろす。
彼女は二本のトンファーを腰の後ろに差し、扉をそっと引いた。
――そのときだった。
廊下の暗がりの向こうから、柔らかな足音が近づいてくる。
ゆったりとした、迷いのない足取り。床を踏む音がほとんど立たないのは、慣れた者だけが持つ歩き方だ。朔夜は、その足音の主を、顔を見る前から言い当てることができた。
「おはよう、朔夜ちゃん。やっぱり、もう起きてた」
声は、低く落ち着いていて、耳の奥にすとんと落ちる。
一条芹香が、廊下の角から姿を現した。
十九歳。朔夜より一つ年上で、背は頭半分ほど高い。長い栗色の髪を、緩い三つ編みにして肩から前へ流している。寝起きのはずなのに、制服の襟元には皺ひとつなく、薄明かりのなかで、穏やかな灰茶色の瞳がこちらを見ていた。目尻がわずかに下がっていて、笑っていなくても、どこか笑っているように見える顔立ちだ。
その手には、湯気の立つマグカップが二つ、握られていた。
「おはよっ、セリカ先輩! ……って、ええ、なんでバレたの?」
「バレるも何も。毎朝、五時四十分に洗面所の水を最大まで出す人がいるもの。管が鳴るのよ、あれ。隣の部屋まで聞こえてるわ」
「うそっ!? ごめん! 起こしちゃった!?」
「いいえ。私も、どうせ起きる時間だったから」
芹香はくすりと笑い、片方のマグカップを朔夜に差し出した。
「はい。白湯に、ほんの少し蜂蜜。朝の稽古の前は、これを入れておきなさい」
朔夜は両手で受け取った。陶器の側面から、じわじわと熱が掌へ染み込んでくる。冷えきっていた指の先が、ぴりぴりと痺れながら解けていく。顔を近づけると、ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「……あったかい」
「でしょう? 冷たい水で顔を洗うのはいいけれど、身体の内側まで冷やしたままだと、筋を痛めるわよ」
「うん。……ありがと、先輩」
一口、飲む。
熱い液体が喉を通り、胸の真ん中へ落ちていく。蜂蜜の甘さが、舌の奥にゆっくりと残った。その熱が腹の底に辿り着いたとき、朔夜は思わず、ふうう、と長い息を吐いていた。肩の力が、知らないうちに少し抜けている。
芹香はその様子を、黙って眺めていた。
視線が、朔夜の腰の後ろ、トンファーの握りが覗いているあたりへ、ほんの一瞬だけ流れる。それから、また朔夜の顔に戻る。
「今朝も、道場へ?」
「うん。身体、慣らしておきたくて。昨日の座学でずっと座りっぱなしだったから、背中が固まっちゃった」
「そう。……手首は?」
「手首?」
「昨日の対人訓練のとき、左をかばっていたでしょう」
朔夜は、一瞬、言葉に詰まった。
マグカップを持つ左手に、視線を落とす。確かに、昨日の訓練の最後、相手の木刀を受けたとき、手首にぴしりと軽い痛みが走った。ほんの小さな違和感だった。朔夜自身、そのことを誰にも言わなかったし、顔にも出していないつもりだった。
「……見てたの?」
「見ていたわ」
芹香は静かに言った。責める調子は少しもなかった。ただ、事実を事実として告げる、凪いだ声だった。
「痛みは、残っている?」
「ちょっとだけ。曲げると、ぴりってする程度」
「なら、今朝は軽めにしておきなさい。トンファーの打ち込みは、半分の速さで。いいわね?」
「えー……」
「いいわね?」
灰茶色の瞳が、じっと朔夜を見る。
声は優しい。笑みも崩れていない。けれど、その瞳の奥に、押しても引いても動かない、静かな芯があった。朔夜は、この目に逆らえたためしがない。
「……はあい」
「いい子ね」
芹香の手が、すっと伸びてきた。朔夜の頭の上、跳ねた寝癖のあたりを、掌でふわりと押さえる。温かい。指先が髪をすくい、一度だけ撫で下ろした。
「ほら、ここ。ヘアバンドの下から、まだ跳ねているわ」
「えっ、直したのに!」
「直ってないわ。……じっとしていて」
朔夜は言われるままに、ぴたりと動きを止めた。
芹香の顔が、すぐ近くにある。長い睫毛の影が、頬に落ちているのが見えた。ほのかに石鹸と、乾いた紙のような匂いがした。芹香はいつも、どこか書庫の匂いがする。その匂いを嗅ぐと、朔夜はなぜか、ひどく安心するのだった。
細い指が、跳ねた髪を、ゆっくりと、丁寧に押さえつけていく。
「……はい。これで、少しはましね」
「ありがと」
「どういたしまして。……さ、行ってらっしゃい。私も、後で顔を出すわ」
「え、先輩も来るの?」
「ええ。今朝は私も、少し身体を動かしたい気分なの。それに」
芹香は、ほんの少しだけ口の端を持ち上げた。
「朔夜ちゃんを一人にしておくと、約束を忘れて、一時間も二時間も打ち込みを続けるでしょう? 点呼に遅れたら、困るのは私なのよ」
「うっ。……そんなこと、ない、はず」
「あるのよ」
はっきりと言い切られて、朔夜は返す言葉を失った。ぐうの音も出ない、とはこのことだ。マグカップの縁で口を隠しながら、「……行ってきます」と小さく呟く。
芹香は、声に出さずに笑った。
朔夜は、まだ半分ほど残った白湯を一息で飲み干し、空のカップを芹香の手に返した。その指先が、一瞬だけ触れ合う。芹香の指は、細くて長くて、少し乾いていて、そして温かかった。
「じゃ、行ってくる!」
「走らないでね。廊下は」
「走らないっ!」
言った端から、朔夜の足は半歩、駆け出しかけていた。慌てて踵に力を込めて、早歩きに切り替える。背後から、くつくつと抑えた笑い声が聞こえてきて、耳の先が熱くなった。
*
道場は、寮舎の東端、渡り廊下を抜けた先の別棟にあった。
古い建物だ。外壁は黒ずんだ木板で、屋根の瓦は苔むしている。入口の引き戸は重く、朔夜が両手をかけて力を込めると、ごろごろと低く唸りながら横へ滑った。
途端に、冷えた空気が顔を撫でた。
匂いが、違う。
寮舎の廊下にあるのは、洗剤と古い石の匂いだった。けれど道場の中には、もっと濃密な、幾重にも積み重なった匂いが満ちていた。長年染み込んだ汗の酸っぱさ。樫の床板に擦り込まれた蝋の、重たく甘い匂い。畳の乾いた草の匂い。そして、わずかに混じる、金属と古い血のような、鉄錆の気配。
朔夜は、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「……ん、いい匂い」
誰にともなく呟いて、草履を脱ぐ。
靴下を脱いで、素足で床板に降りた。
冷たい。
寮舎の石床とは別の冷たさだった。石の冷たさが「刺す」ものなら、板の冷たさは「染みる」ものだ。足の裏から、じわじわと冷えが侵入してくる。けれど同時に、磨き込まれた木の滑らかさが、足指の一本一本を柔らかく受け止めてくれた。
道場は、がらんとしていた。
高い天井に、太い梁が何本も渡っている。壁際には、木刀と竹刀と、訓練用の長柄の武器が整然と立てかけられていた。奥の一面には、大きな姿見が嵌め込まれている。天窓から差し込む朝の光はまだ弱く、薄青い光が、床板に長い影を作っていた。
誰もいない。
そのがらんどうの静けさのなかで、朔夜は、ゆっくりと中央まで歩いていった。
足裏が、床の木目をひとつずつ踏む。
とん、とん、と、自分の足音だけが、高い天井へ昇って、吸い込まれていく。
中央で立ち止まり、朔夜は目を閉じた。
深く、息を吸う。
肺の底まで冷気が満ちる。鼻の奥がつんとする。吐く。白い息が、薄闇に溶けていく。もう一度、吸う。吐く。心臓の鼓動が、耳の裏で、とく、とく、とく、と数えられる。
(……よし)
目を開けた。
腰の後ろへ手を回し、トンファーを引き抜く。
左右の手に、一本ずつ。握りを掌に収め、棒身を前腕に沿わせて構える。樫の重みが、腕の骨へ、確かな手応えとして伝わってきた。
まずは、型。
朔夜は足幅を肩より少し広く取り、膝をわずかに折って、腰を落とした。
右腕を前へ。
トンファーが、空を滑る。
ひゅっ。
短く鋭い風切り音が、道場の静寂を裂いた。続けて、左。ひゅっ。腰を回し、肩を入れ、拳の延長として棒を突き出す。突いて、引いて、回す。くるり、と握りを軸にトンファーが半回転し、今度は長い棒身が、肘の外側を守る盾になる。
ひゅ、ひゅ、ひゅ、ひゅ。
一定の間隔で、風が鳴る。
足が床を擦る音。衣擦れ。呼気。それらが少しずつ、一つのリズムに溶け合っていく。朔夜の意識は、次第に、手首の鈍い痛みも、寒さも、遠くへ押しやっていった。残るのは、動きと、呼吸と、重みだけだ。
(半分の速さ、だったっけ)
芹香の声が、頭の隅で響く。
(……半分、半分)
自分に言い聞かせながら、朔夜は速度を落とした。
ゆっくり、ゆっくり。
けれど、それは存外に難しかった。速く動くより、遅く動くほうが、筋肉への負荷は大きい。身体の重心を、ほんのわずかでもぶれさせれば、すぐに型が崩れる。腿の筋が、じりじりと焼ける。腹の底が、きしきしと軋む。
肩の上から、汗がひとすじ、背中へ伝い落ちた。
熱が、全身に回り始めている。ウェアの内側が、じっとりと湿ってくる。額のヘアバンドが、汗を吸って重くなってきた。吐く息は、まだ白い。けれど、さっきほど冷たくは感じない。
朔夜は、ふと、足を止めた。
右足を軸に、ゆっくりと身体を回転させる。
トンファーを順手から逆手に持ち替える。握りの先に付いた、短い突起が、掌の中で擦れて、小さく鳴った。逆手に構えたトンファーは、肘から先を覆う装甲のようになる。この持ち方は、相手の打撃を受け流し、懐へ潜り込むための形だ。
想像する。
目の前に、木刀を振りかぶった相手がいる。
右上段から、斜めに打ち下ろされる。
朔夜は、半歩、左へ滑る。
左腕のトンファーで、受ける――ではなく、いなす。棒の側面を、相手の刃筋に添わせて、力を横へ逃がす。ぱん、と鳴る幻の音。同時に右足を踏み込み、相手の内側へ入る。肩口。腹。膝。幾通りにも枝分かれする攻めの道筋のうち、朔夜が選ぶのは、いつも一番、泥臭いやつだ。
右の拳が、握りごと、相手の脇腹へめり込む。
――ごっ。
実際には何も当たらない空間に、朔夜の拳が突き刺さる。だが、その感触を、朔夜の腕は、まざまざと覚えていた。肉と骨を打つ、鈍くて重い、あの手応え。
(これが、好きなんだよなあ)
朔夜は、唇の端を持ち上げた。
汗が目に入って、染みた。ぱちぱちと瞬きをして、袖で拭う。それでも笑みは消えない。
派手な術なんて、いらない。
光る札も、飛び交う呪文も、空に描く陣も。ああいうものは、確かに便利で、確かに強い。けれど朔夜には、ああいうものよりも、自分の拳と脚が相手に届いた、その確かな感触のほうが、ずっと「生きている」と思えるのだった。
殴れば、殴り返される。
蹴れば、受けられる。
汗をかいて、息を切らして、痣を作って、それでもなお立ち上がる。その泥臭さが、朔夜は好きで好きで、たまらなかった。
型の最後に、朔夜は大きく踏み込んだ。
右足が、床板を、どん、と鳴らす。
その衝撃が、足の裏から脛、膝、腰、背骨を伝って、肩へ、肘へ、手首へ、トンファーの先端へと、一気に駆け抜けた。
ぶん、と、空気が悲鳴を上げる。
朔夜は、その姿勢のまま、ぴたりと静止した。
呼吸だけが、荒い。
胸が上下する。汗が顎の先から滴り、床板に、ぽつ、と小さな染みを作った。その染みが、薄青い光のなかで、一瞬だけ、きらりと光る。
静寂。
そして。
「……ほう」
背後で、低い声がした。
朔夜は、構えを解かないまま、ゆっくりと首だけを巡らせた。
道場の入口、引き戸の陰に、一人の女が立っていた。
濃紺の教官服。背筋がまっすぐに伸びていて、両腕を後ろで組んでいる。年は三十代の半ばほどか。短く切り揃えた髪に、細い銀縁の眼鏡。レンズの奥の目は、鋭く、感情を読ませない。
鬼塚教官。
格闘術の主任教官だった。朔夜の入寮以来、最も多く、竹刀や木刀を交わしてきた相手でもある。
「おはようございます、鬼塚教官!」
朔夜は、構えを解いて、勢いよく頭を下げた。
汗がぱっと飛び散る。
鬼塚は、答えなかった。
ただ、静かに、道場の中へ足を踏み入れてくる。草履を脱ぎ、床板を踏む。その歩き方には、音がない。眼鏡のレンズが、薄明かりを反射して、一瞬、白く光った。
「……今朝は、随分と早いな、橘」
「はい! 身体が目を覚ましちゃって!」
「そうか」
鬼塚の視線が、朔夜の足元から、腰、肩、腕、トンファーへと、ゆっくりと這い上がっていく。まるで、肉の一片、骨の一本までを、見積もるような目だった。
「左手首をかばっているな」
「うっ。……芹香先輩にも言われました」
「だろうな。バレバレだ」
鬼塚は、ふん、と鼻を鳴らした。
それから、朔夜の前、三メートルほどの距離で立ち止まる。
そこで、鬼塚は、ほんの少し、顎を引いた。
その動きに、朔夜は気づいた。
気づいてしまった。
――教官が、距離を取った。
いつもなら、鬼塚は、もっと近くまで寄ってくる。肩を叩き、姿勢を直し、鋭い言葉を浴びせる。それが彼女のやり方だった。けれど今朝、鬼塚は、三メートル手前で立ち止まった。それは、他の訓練生と話すときの、ごく標準的な距離だ。
けれど、朔夜に対しては、少しだけ、遠い。
(……あれ?)
一瞬、胸の奥に、細い棘のようなものが刺さった。
でも、朔夜は、それを意識の外へ追い出した。きっと気のせいだ。きっと、朝だから、眼鏡が曇って見えにくいだけだ。
「橘」
「はい!」
「……お前の型は、悪くない」
唐突な言葉だった。
朔夜は、目を丸くした。
「えっ」
「悪くない、と言った。腰の入れ方も、足の運びも、基本に忠実だ。逆手の持ち替えも、昨日より滑らかになっている。……手首の痛みを押して、よくここまで動けるな」
「あ、ありがとうございますっ! 教官にそう言ってもらえると、嬉しいです!」
朔夜の顔が、ぱあっと輝いた。
それは、混じりけのない、素直な笑顔だった。頬が上気し、琥珀色の瞳が、きらきらと光っている。小さな身体全体から、陽だまりのような温かさが、ふわりと放たれていた。
鬼塚は、その笑顔を、見た。
見て、それから、わずかに、目を逸らした。
ほんの、一瞬だった。
眼鏡の奥の瞳が、朔夜の顔から、道場の隅へ、すっと滑る。そして、ごく小さく、息を吸った。その吸い方は、何かを飲み込むときの、あの、喉の奥が動く仕草に似ていた。
「……だがな、橘」
「はい?」
「お前は、本気を出さない」
空気が、変わった。
道場の冷えが、一段、深くなったような気がした。
朔夜は、笑顔を保ったまま、首を傾げた。
「本気、ですか? 出してますよ! 今朝だって、汗びっしょりです!」
「そういう意味ではない」
鬼塚の声が、低く、平坦になる。
「お前の本気は、身体の外側にあるのだろう。型の中にはない。……そうだな?」
朔夜は、答えなかった。
いや、答えられなかった。
笑みが、ほんの少しだけ、固くなる。口の端が、持ち上がったまま、止まった。トンファーを握る指に、無意識に力が入る。握りの木が、汗で滑りかけて、慌てて握り直した。
鬼塚は、それ以上、追及しなかった。
ただ、静かに、言った。
「……私は、お前を責めているのではない。お前が、そういうふうに『作られて』いることは、知っている。だが」
そこで、言葉を切る。
眼鏡の奥の目が、まっすぐに、朔夜を射抜いた。
「あまり、近づきすぎるな。自分にも、他人にも」
「……え?」
「それだけだ。朝の稽古を続けなさい。点呼には遅れるな」
鬼塚は、踵を返した。
引き戸のほうへ、静かに歩いていく。その背中は、まっすぐで、少しも揺れなかった。けれど、朔夜には、その背中が、ほんの少しだけ、強張っているように見えた。
引き戸が、ごろごろと閉まる。
道場に、また、静寂が戻ってきた。
朔夜は、しばらく、動かなかった。
構えを解いた姿勢のまま、トンファーを握りしめ、床の一点を見つめている。さっきまで熱かった身体が、少しずつ、冷えていく。汗が肌の上で冷たくなって、背筋を、ぞくり、と撫でた。
(……近づきすぎるな、か)
声に出さずに、呟く。
(自分にも、他人にも)
掌の中で、トンファーが、重い。
朔夜は、ふっと息を吐いて、それから、ぶんぶんと頭を振った。
「よしっ!」
自分で自分の頬を、ぱん、と叩く。
じんと痛みが走った。その痛みが、胸の奥に引っかかった棘を、ほんの少し、押し流してくれたような気がした。
「考えても、しょうがないもんね! 続き、続き!」
声は、明るかった。
その明るさが、がらんとした道場に、少しだけ、虚ろに響いた。
朔夜は、構え直した。
腰を落とし、トンファーを握り、足幅を広げる。ゆっくり。ゆっくり。半分の速さ。
ひゅ。
風が、鳴る。
ひゅ。
その風の音の向こう側で、道場の高い天井の隅、誰にも気づかれない梁の影のあたりで、何かが、かすかに、軋んだ。
木が鳴ったのか。
それとも、空間そのものが、ほんの少しだけ、悲鳴を上げたのか。
朔夜は、気づかなかった。
気づかないまま、トンファーを振り続けた。琥珀色の瞳に、天窓から降りはじめた朝の光が、きらきらと映り込む。その光は、少女の頬を、肩を、汗に濡れた黒髪を、あまりにも無邪気に、あまりにも美しく、照らしていた。
*
打ち込みを続けること、二十分あまり。
朔夜の身体は、完全に温まっていた。
頬は赤く染まり、息は荒く、けれど目は、爛々と輝いている。ウェアは汗で濡れて背中に張りつき、額のヘアバンドは、すっかり重たくなっていた。床板には、足の運んだ跡が、うっすらと汗の染みとして残っている。
ひゅ、ひゅ、と、風を切る音だけが、規則正しく続いていた。
そのとき、引き戸が、ごろごろと開いた。
「あ、ほんとにいた」
「うわ、早っ……」
数人の話し声が、入口のほうから流れ込んでくる。
朔夜は、動きを止めずに、視線だけをちらりと向けた。
訓練生が三人、入口に立っていた。同じ濃紺の訓練服を着た、同じ年頃の少女たち。三人とも、手に竹刀や木刀を提げている。朝の自主練習に来たのだろう。
「おはよー!」
朔夜は、トンファーを振りながら、大きな声で挨拶した。
「お、おはよう、橘さん……」
「おはようございます……」
三人の返事は、ぎこちなかった。
その声の調子に、朔夜は、いつもの感覚を覚えた。
薄い膜のようなもの。
悪意ではない。敵意でもない。けれど、確かにそこにある、透明な壁のようなもの。ほんの少しだけ高くなった声。ほんの少しだけ短くなった返事。ほんの少しだけ、合わない視線。
三人は、道場の端のほうへ、そそくさと歩いていった。
そして、朔夜から一番遠い壁際に、竹刀を置いた。
その距離は、およそ十五メートル。
道場は広い。その気になれば、朔夜のすぐ隣で稽古をすることも、できたはずだ。けれど、三人は、まるで申し合わせたように、一番遠い場所を選んだ。
朔夜は、気づいていた。
気づいていて、気づいていないふりをした。
トンファーを振る。ひゅ、ひゅ、と風が鳴る。
(……今日も、いい天気になりそうだなあ)
頭の中で、どうでもいいことを考える。
朝の光が、天窓から斜めに差し込んで、床板に、四角い光の模様を描いていた。埃が、その光の中で、きらきらと舞っている。綺麗だ。朔夜は、その光の中へ、トンファーを突き出した。
埃が、ふわりと散った。
壁際で、三人の訓練生が、小声で話している。
「……ねえ、あの子の隣、やっぱり、怖くない?」
「しっ。聞こえるって」
「だって、昨日の話、聞いた? 第二演習場の、あの――」
「やめなって」
声は、ひそやかで、けれど、静かな道場の空気の中では、驚くほどよく通った。
朔夜は、聞こえないふりをして、トンファーを振り続けた。
けれど、耳は、聞いていた。
聞こえてしまう。朔夜の耳は、昔から、そういうものを拾いやすい。
「……適合率が、桁違いなんでしょ」
「うん。上の人たちが、扱いに困ってるって」
「一回、制御が外れたら、この寮ごと、吹き飛ぶかもって――」
「やめなさいってば!」
最後の声は、ひときわ強く響いた。
三人は、はっと口をつぐんだ。
沈黙が落ちる。竹刀を握る手が、気まずげに、握り直される。誰かが、小さく咳払いをした。
朔夜は、トンファーを止めた。
ゆっくりと、三人のほうへ、振り向く。
三人は、びくり、と肩を震わせた。
朔夜は、にっこりと笑った。
それは、いつも通りの、屈託のない、太陽のような笑顔だった。
「ね、よかったら、一緒に打ち込みしない?」
声が、明るく道場に響いた。
「…………」
三人は、顔を見合わせた。
その視線の交差のなかに、言葉にならない、たくさんのものが詰まっていた。恐れ。戸惑い。申し訳なさ。そして、ほんの少しの、好奇心。
「あ、えっと……」
「わ、私たち、まだ、準備運動が……」
「そっか! じゃあ、終わったら声かけてね!」
朔夜は、また笑って、くるりと背を向けた。
トンファーを構え直す。ひゅ、と風が鳴った。
その背中は、小さくて、華奢で、あまりにも、軽やかに見えた。
三人の訓練生は、その背中を、じっと見つめていた。
一人が、小さく、呟いた。
「……あんなに、普通の子なのにね」
その声は、誰にも、届かなかった。
朔夜は、トンファーを振り続けている。
ひゅ。
ひゅ。
ひゅ。
笑顔のまま。
汗のしずくが、朝の光を、きらりと弾いた。
*
「朔夜ちゃん」
呼ぶ声が、道場の入口から聞こえた。
朔夜は、手を止めて、振り向いた。
芹香が、立っていた。
制服ではなく、動きやすい黒の訓練着に着替えている。三つ編みは、後ろでひとつにまとめ直されていた。腰には、細身の革のホルスターが下がっている。その中には、まだ弾の込められていない、訓練用の魔導銃が収められていた。
「先輩! 来てくれたんだ!」
「ええ、約束したでしょう」
芹香は、ゆっくりと道場の中央へ歩いてきた。
その途中で、壁際の三人の訓練生に、ふわりと会釈をする。三人は、慌てて、頭を下げ返した。芹香の笑みは、柔らかく、あたたかく、そして、どこまでも自然だった。
朔夜の前に立った芹香は、その顔を、じっと覗き込んだ。
「……汗、すごいわね」
「えへへ。気持ちよくて」
「手首は?」
「大丈夫! ちゃんと、半分の速さにしたよ!」
「そう。……どれ、見せなさい」
芹香の手が、朔夜の左手首を、そっと取った。
指先が、袖口をまくる。白い手首が、露わになった。薄く、赤みが差している。芹香の親指が、手首の内側を、ゆっくりと押した。
「ここ?」
「あ、うん。そこ、ちょっとだけ、ぴりってする」
「……そう」
芹香は、眉を、わずかに寄せた。
けれど、すぐに表情を戻す。
「大きな炎症ではないわ。でも、今日の午後の演習は、サポーターを巻いておきなさい」
「はーい」
「返事は、短く」
「はいっ」
「よろしい」
芹香は、満足げに頷いて、朔夜の手首を離した。
その瞬間、朔夜は、気づいた。
芹香の視線が、一瞬だけ、道場の高い天井へ向けられたことに。
梁の影のあたり。
さっき、何かが軋んだ、あの場所。
芹香は、すぐに視線を戻した。何事もなかったかのように、穏やかな笑みを浮かべている。けれど、朔夜には、その灰茶色の瞳の奥に、ほんの一瞬、細い警戒の光が宿ったのが、見えた。
「……先輩?」
「なあに?」
「今、何か、見てた?」
「いいえ」
芹香は、あっさりと首を振った。
「天井が、高いなと思っただけよ。……さあ、準備運動をしましょう。私も、身体を温めておきたいわ」
「うん!」
朔夜は、頷いた。
疑問は、すぐに、霧のように消えた。芹香が「何でもない」と言うなら、きっと、何でもないのだ。朔夜は、芹香を、疑ったことがなかった。
二人は、並んで、柔軟を始めた。
朔夜が前屈をすると、芹香が、その背中を、そっと押してくれる。ぐぐ、と身体が折り畳まれていく。腿の裏が、じんわりと伸びて、気持ちいい。
「あ、あああ、そこ、効く……」
「固いわよ、朔夜ちゃん。昨日、座りっぱなしだったでしょう」
「ごめんなさい……」
「謝ることではないわ。ほら、息を吐いて」
ふう、と、朔夜は息を吐いた。
身体が、さらに、深く沈む。
額が、膝に、ぴたりとついた。
その姿勢のまま、朔夜は、ふと、床板を見つめた。
光沢のある、古い樫の板。無数の傷。無数の染み。無数の、足跡。この道場で、何十年も、何百人もの少女たちが、汗を流し、血を流し、涙を流してきた。その全部を、この床板は、黙って受け止めてきたのだ。
(……私も、この床の、一部になれるかな)
そんなことを、ふと、思った。
すぐに、頭を振って、その考えを追い払う。
「よっし、次は、先輩の番!」
「ええ。……お手柔らかにね」
芹香が、くすりと笑って、床に座った。
朔夜が、その背中を、押す。
芹香の背中は、細くて、けれど、しなやかな筋肉が、確かに息づいていた。長い髪の三つ編みが、肩から前へ、ふわりと流れ落ちる。朔夜は、その背中に、掌を当てた。
温かい。
とく、とく、と、鼓動が、掌に伝わってくる。
「……先輩、心臓の音、聞こえる」
「あら。恥ずかしいわね」
「落ち着いてる。いつも、おんなじリズム」
「そう?」
「うん。……私ね、先輩のこの音、好きなんだ」
芹香の背中が、ほんの少しだけ、強張った。
それから、ゆっくりと、緩んだ。
「……ありがとう」
声は、静かだった。
静かで、そして、どこか、深いところで、何かを堪えているような響きがあった。朔夜は、その響きに気づいて、首を傾げた。
「先輩?」
「なんでもないわ。……ほら、もう少し、押して」
「う、うん」
朔夜は、掌に力を込めた。
芹香の身体が、ぐぐ、と前へ倒れていく。
その様子を、壁際の三人の訓練生が、遠くから、じっと見つめていた。
彼女たちの目には、二人の少女の姿が、どう映っていたのだろう。
仲のいい、先輩と後輩。
微笑ましい、朝の光景。
――あるいは。
一人の少女の、すぐ隣に立ち続ける、ただ一人の、人間。
世界を壊せる少女の、そのすぐそばで、微笑んでいられる、唯一の人。
その視線には、尊敬と、恐れと、そして、ほんの少しの、憐れみが、混じっていた。
朔夜は、その視線に、気づかなかった。
朝の光が、天窓から、ゆっくりと、道場の床を、金色に染めはじめていた。
ひゅう、と、どこからか、冷たい風が吹き込んだ。
梁の影が、ほんのわずかに、揺れた。
――第1章 Part 2/4 へ続く
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