第1章 ― 朔夜、あるいは壊れやすい朝2
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
柔軟の最後の一呼吸を吐き終えたとき、道場の引き戸が、ごろ、と短く鳴った。
朔夜は前屈の姿勢のまま、膝の間から逆さに入口を見た。
逆さまの視界のなかで、一人の女が、敷居の手前に立っていた。鬼塚教官のような濃紺の教官服ではない。灰色の事務官の制服だ。胸元に、銀色の小さな徽章がひとつ。両手で薄い黒革のファイルを胸に抱え、草履を脱ごうとはせず、敷居の線の、ちょうど外側で足を揃えている。
床板の上へは、決して上がらない。
朔夜は、その立ち方に見覚えがあった。道場の「内側」に入りたくない者の立ち方だ。ここで流された汗や血の匂いが、自分の制服に移るのを、あるいは、ここに立つ一人の少女の近くへ寄るのを、避けている者の。
「橘朔夜訓練生」
事務官の声は、平坦だった。紙の上を滑る定規のような声だった。
「はいっ!」
朔夜は上体を跳ね起こした。勢いが良すぎて、目の前が一瞬ちかちかした。ヘアバンドの下で、汗に濡れた前髪が額に張りついている。
「本日午前の『適合測定および術式訓練』は、予定が繰り上げられました。〇七三〇までに、第三地下階の第二測定場へ。随行者として一条芹香訓練生の同行が認められています」
「繰り上げ、ですか。朝ごはんの前に?」
「朝食は、測定後に支給されます」
事務官は、そこで初めて、朔夜の顔を見た。
見た、というより、視線の端を、ほんの一瞬だけ顔の輪郭にかすらせた。それからすぐに、黒革のファイルの上へ目を落とす。眼鏡の奥で、まばたきが一回、多い。
「測定着は、地下の更衣室に用意してあります。……以上です」
「分かりました! ありがとうございます!」
朔夜は、深々と頭を下げた。
事務官は、答礼をしなかった。踵を返し、足音を立てずに去っていく。引き戸が閉まりきらないうちに、廊下の石を打つ硬い靴音が、遠ざかっていった。
道場に、静けさが戻る。
壁際の三人の訓練生は、いつの間にか、会話をやめていた。竹刀を握ったまま、床の一点を見つめている。誰も、朔夜のほうを見ていない。見ていないことが、見ているよりも、はっきりと分かった。
「……繰り上げ、かあ」
朔夜は、わざと明るい声を出した。
「朝ごはん、お預けだね。今日の献立、確か焼き鮭だったのに」
「朔夜ちゃん」
芹香が、隣で立ち上がった。
衣擦れの音がして、三つ編みの先が背中で揺れる。灰茶色の瞳が、朔夜を静かに見下ろしていた。笑みは、まだ口元に残っている。けれど、さっき手首を診ていたときよりも、ほんの少し、目の奥が冷えていた。
「まず、汗を拭きなさい。そのまま地下へ降りたら、冷えて風邪をひくわ」
「あ、うん」
「タオルは?」
「えっと……あっちの、壁際の」
「取ってくるわ。動かないで」
芹香は、足早に道場の隅へ向かった。三人の訓練生の脇を通り過ぎるとき、柔らかく会釈をする。三人が、また慌てて頭を下げる。その様子を、朔夜は、少し離れた場所から眺めていた。
芹香が戻ってくる。白いタオルが、一枚。朔夜の首筋へ、ふわりと掛けられた。ごわごわとした綿の感触と、洗剤の乾いた匂い。それから、芹香の指が、汗に濡れた襟足を、そっと拭った。
「くすぐったいっ」
「じっとして。……首の後ろは、冷えやすいのよ」
「先輩、ほんとにお母さんみたい」
「聞き飽きた台詞ね。……はい、顔」
タオルが、今度は額へ押し当てられた。ヘアバンドごと、ぐいと拭われる。視界が白く塞がって、石鹸と、乾いた紙の匂いがいっぱいに満ちた。その白の向こうで、芹香の声が、低く、聞こえた。
「……大丈夫よ」
「え?」
「何も、変わったことはないわ。いつもの測定。いつもの手順。ただ、時間が少し早まっただけ」
朔夜は、タオルの下で、目を瞬いた。
「……うん。分かってる」
「そう」
「ほんとだよ? 私、測定、そんなに嫌いじゃないし」
それは、嘘だった。
そして、芹香は、それが嘘であることを、知っていた。
タオルが外されたとき、芹香の瞳は、何も言わずに、朔夜の顔をじっと見ていた。責めることも、暴くことも、しなかった。ただ、その嘘を、嘘のまま、そっと受け取ってくれた。
「……行きましょうか」
「うんっ!」
朔夜は、トンファーを腰の後ろへ差し込んだ。
二本の樫の棒が、背骨の両脇で、こつん、と小さく鳴った。
*
寮舎へ戻る渡り廊下は、さっきよりも明るくなっていた。
朝の光が、斜めに差し込んで、石の床に、窓枠の影を長く引いている。十月の空気は澄んでいて、遠くの山の稜線が、薄い橙色に縁取られていた。鳥が、どこかで鳴いている。それが、なぜか、ひどく遠い世界の音のように聞こえた。
二人は、並んで歩いた。
朔夜の足音は、軽い。芹香の足音は、ほとんどしない。二つの音が、廊下の石に、ことん、ことん、と吸い込まれていく。
すれ違う訓練生が、何人かいた。
点呼の準備をする者。洗面所へ向かう者。制服の襟を直しながら、あくびを噛み殺している者。彼女たちは、朔夜と芹香に気づくと、一様に、背筋を伸ばした。
「おはようございます、一条先輩」
「おはよう。今朝は冷えるわね」
「はい。……あ、橘さんも、おはよう」
「おはよー!」
朔夜が手を振ると、相手の少女は、ぎこちなく口の端を持ち上げた。それから、すぐに視線を逸らして、足早に去っていく。その背中が、廊下の角を曲がって見えなくなるまで、朔夜は手を振り続けていた。
振り上げた手の、指先だけが、少し、冷たかった。
「朔夜ちゃん」
「ん?」
「……手、おろしていいのよ」
「あ、あはは。そうだね」
朔夜は、手をおろした。
おろした手で、トンファーの握りを、無意識に探った。指が、樫の木肌に触れる。慣れ親しんだ、ざらりとした感触。それだけで、胸の奥の、ほんの小さな曇りが、少しだけ、薄まった気がした。
寮舎の中央階段を、通り過ぎる。
いつもなら、ここで食堂へ向かう。長い廊下の奥から、味噌汁と炊きたての米の匂いが漂ってくる時間だ。厨房の湯気が、窓ガラスを曇らせている頃だ。朔夜の腹が、きゅう、と鳴いた。
「……あ」
「聞こえたわよ」
「聞こえた!? 小さかったのに!」
「私、耳はいいの」
芹香が、くすくすと笑った。朔夜も、つられて笑った。笑いながら、食堂へ続く廊下を、横目に見て、通り過ぎた。味噌汁の匂いが、背中へ流れて、薄れていく。
その先に、扉があった。
中央階段の裏手、食堂とも書庫とも反対側の、突き当たり。
何の表示もない、灰色の鉄の扉。表向きの寮舎の見取り図には、載っていない。ここに扉があることを、この寮に暮らす大半の訓練生は、知らない。
扉の脇に、小さな端末が埋め込まれていた。
朔夜は、首から下げていた認識票を、襟元から引き出した。細い鎖の先で、銀色の小さな板が、きらりと光る。端末の窪みに、それを近づけた。
ぴ、と、短い電子音が鳴った。
続けて、扉の奥で、重たい何かが外れる音がした。
がちん。
がちん、がちん、がちん。
一つ、二つ、三つ、四つ。鉄の閂が、順番に引き抜かれていく音が、壁を伝って、足の裏へ響いてくる。五つ目の音のあと、少し間が空いて、扉が、ゆっくりと、内側へ開いた。
冷気が、溢れ出した。
寮舎の朝の冷たさとは、違う冷たさだった。
これは、地面の底から這い上がってくる冷たさだ。長い間、日の光を知らなかった空気の冷たさ。湿り気を含んでいるのに、どこか乾いて、ほんのりと金属の味がする。鼻の奥に、つんと、錆とオゾンの匂いが刺さった。
朔夜は、思わず、鼻を鳴らした。
「……うう、毎回、思うけど、この匂い苦手」
「慣れるしかないわね」
「慣れないよ。道場の匂いは好きなのになあ」
「あちらは人の匂い。こちらは、機械の匂いだもの」
芹香が、先に足を踏み入れた。
扉の向こうは、細い階段だった。
コンクリートむき出しの壁。天井には、一定の間隔で、白い蛍光灯が埋め込まれている。その光は、青みがかっていて、冷たく、影をほとんど作らなかった。階段は、まっすぐ、下へ、下へと、伸びている。
朔夜も、続いた。
背後で、扉が閉まる。
がちん、がちん、がちん、がちん。
閂が、再び、嵌まっていく。その音を聞きながら、朔夜は、ほんの少しだけ、息を詰めた。
最後の、がちん、が鳴ったとき、地上の朝が、完全に、途切れた。
*
一段、下りる。
靴底が、コンクリートを踏む。ごつ、と鈍い音が、狭い階段に反響して、上へも下へも、吸い込まれていく。
二段。三段。
手すりに、指を滑らせた。金属の冷たさが、掌にまとわりつく。塗装が剥げた箇所に、指先が引っかかる。そのざらついた感触を、朔夜は、何度も、何度も、確かめるように撫でた。
踊り場がある。
折り返して、さらに下へ。
壁に、番号が書かれていた。
『B1』
白いペンキで、事務的に、無愛想に。
その数字を通り過ぎるとき、空気が、一段、重くなったのが、はっきりと分かった。
耳の奥が、わずかに、塞がる。気圧のせいだ、と頭では分かっている。けれど、それだけではない気がした。壁の中に、床の下に、見えない何かが、じわじわと沈殿している。そんな感じがした。
「朔夜ちゃん」
前を歩く芹香が、振り返らずに言った。
「息、止まっているわよ」
「え、あっ」
「深く吸って、吐いて。……一、二、三」
「……うん」
朔夜は、言われるまま、息を吸った。
冷たい空気が、肺に流れ込む。錆の匂いがした。吐く息は、白い。白い息が、蛍光灯の青い光のなかで、ゆらりと立ち昇って、消えた。
一段ずつ、下りる。
芹香の背中が、すぐ前にある。黒い訓練着の肩甲骨のあたりが、歩くたびに、わずかに動く。三つ編みの先が、背中を叩く。その規則的な動きを、朔夜は、じっと目で追っていた。
追っていると、不思議と、足が軽くなる。
「ねえ、先輩」
「なあに」
「測定って、今日で何回目だっけ」
「七十三回目よ」
即答だった。
朔夜は、目を丸くした。
「……数えてるの?」
「ええ。毎回、後ろで見ているもの」
「そっか。……七十三回、かあ」
「ええ」
「その間、毎回、数字が違ったよね」
「そうね。毎回、少しずつ」
「上がってる?」
芹香の足が、一瞬だけ、止まった。
本当に、一瞬だった。靴底が、コンクリートの上で、かすかに擦れる音がしただけだ。それから、また、何事もなかったかのように、下り始める。
「……上下はあるわ。波のようなものよ。測定器の較正も、その日の体調も、影響するから」
「そっか」
「ええ」
「……うん」
朔夜は、それ以上、聞かなかった。
聞かなかったのは、芹香が、答えを濁したことに気づいたからだ。そして、芹香が、濁すことを選んだ理由も、うっすらと、分かっていたからだ。
B2。
白いペンキの数字が、また、通り過ぎる。
空気が、さらに、重くなる。
耳鳴りが、始まっていた。きいん、と細い音が、頭蓋の奥で鳴っている。地下のどこかで、巨大な機械が低く唸っている。その唸りは、音というより、振動だった。壁を通して、床を通して、足の裏から、膝の骨へ、じわりと這い上がってくる。
朔夜は、トンファーの握りを、ぎゅっと握った。
木の感触が、掌に返ってくる。
それが、命綱のように思えた。
「……ねえ、先輩」
「ええ」
「今日、何も、起きないよね」
声が、思ったよりも、小さく出た。
階段の途中で、芹香が、足を止めた。
ゆっくりと、振り返る。
青い蛍光灯の光が、芹香の顔の半分を、白く染めていた。もう半分は、影のなかにある。灰茶色の瞳が、朔夜を、まっすぐに見ていた。
一段、上。
芹香のほうが、朔夜よりも、頭ひとつ分、高い位置にいた。
その高みから、芹香は、手を伸ばした。
掌が、朔夜の頬に触れる。
温かい。
汗がまだ引ききっていない頬に、乾いた、細い指の感触が、触れた。親指が、目の下を、そっと撫でる。
「大丈夫」
声は、低く、静かで、揺らぎがなかった。
「何が起きても、私が、いるわ」
「……うん」
「私の銃は、あなたのためにあるの。それを、忘れないで」
「うん」
「それから、もうひとつ」
「なに?」
「何か起きたら、あなたは、悪くない」
朔夜は、息を呑んだ。
芹香の瞳は、揺れていなかった。
まるで、これから先に起こり得る何かを、すべて知っているかのように。あるいは、すべてを覚悟しているかのように。
「……先輩」
「なあに」
「それ、何か起きる前提で言ってない?」
「いいえ」
芹香は、ふ、と笑った。
柔らかい笑みだった。けれど、その笑みの奥に、朔夜は、見つけてしまった。ほんの、かすかな、ひび割れのようなものを。
「ただの、おまじないよ。……さあ、行きましょう。遅れてしまうわ」
芹香の手が、頬から離れていく。
指先が離れた場所に、冷気が、すっと触れた。
朔夜は、その場所を、自分の手で、そっと覆った。
まだ、温かい。
それから、顔を上げて、できるだけ明るく、笑った。
「うんっ。行こ!」
*
B3。
階段が、終わった。
目の前に、廊下があった。
幅は、人が二人並んで歩けるほど。天井は低く、剥き出しの配管が、何本も走っている。壁は、灰色のコンクリートの上に、さらに、鈍い銀色の板が貼られていた。板の表面には、細かな紋様が、びっしりと刻まれている。
防魔壁。
古い術式を刻んだ金属板だ。魔力の漏出を防ぎ、同時に、外部からの干渉を遮断する。この地下階層のすべてが、この板で覆われている、と聞いたことがあった。朔夜は、その壁の紋様を、じっと見つめた。
線。円。三角。見たことのない文字。
どれも、細く、鋭く、冷たく、そして、どこか、怯えている。
(……私を、閉じ込めるための壁、かな)
ふと、そう思った。
すぐに、頭を振る。
(違う違う。私だけのためじゃないよ。他の人の測定だって、ここでやってるんだから)
そう思い直した。
けれど、思い直したあとで、ふと気づいた。
この廊下で、他の訓練生とすれ違ったことが、一度もない。
廊下は、まっすぐ、奥へ伸びている。
青白い蛍光灯が、一定の間隔で、天井に並んでいる。その光の下を、二人の足音だけが、ごつ、ごつ、と歩いていく。靴底がコンクリートを叩くたびに、その音が、壁の銀板に跳ね返って、わずかに歪んで返ってくる。
空気が、乾いている。
唇が、ぴりぴりと乾いて、舌で舐めた。塩の味がした。さっきの汗の名残だ。
廊下の両脇に、扉が並んでいた。
すべて、同じ、灰色の鉄の扉。扉の脇には、プレートが貼られている。『資料保管室』『整備室』『第一測定場』。第一測定場の扉の小窓からは、薄暗い光が漏れていた。誰かが、中で作業している気配がある。かすかに、金属を打つ音が聞こえる。
朔夜は、その扉を、通り過ぎた。
『第二測定場』は、もっと奥にある。
それは、朔夜が、入寮したその日から、「橘朔夜専用」と呼ばれている場所だった。
廊下の突き当たりに、扉が、見えてきた。
他の扉とは、明らかに違う。
大きい。厚い。扉の面には、幾重にも重ねられた、封印の紋様が、赤黒い塗料で描かれている。円の中に円。その円の周囲に、また、円。その間を、びっしりと埋める、細かな文字。扉の四隅には、鈍く光る、鉄の楔が打ち込まれていた。
朔夜は、足を止めた。
扉の前で、ほんの少しだけ、息を整えた。
心臓が、とく、とく、と早い。
ここへ来るたびに、そうなのだ。何度来ても、慣れない。扉の前に立つと、身体の奥の、ずっと奥の、自分でも触れたことのない場所が、きゅうう、と縮こまる。
「……朔夜ちゃん」
「だいじょうぶ。……ちょっと、深呼吸」
「ええ」
「すう。……はあ」
吸って、吐く。
吸って、吐く。
三度、繰り返したとき、扉の脇のスピーカーが、ざり、と雑音を立てた。
『――橘朔夜訓練生、および一条芹香訓練生。認識票を』
無機質な男の声だった。
感情が、どこにもない。ただ、手順を読み上げているだけの声。スピーカーの向こうに、顔があるのか、ないのか、それすら分からないほどに、平たい声だった。
朔夜は、認識票を、扉の端末にかざした。
ぴ。
芹香も、同じように、かざす。
ぴ。
『確認。……第二測定場、封印解除』
間があった。
それから、扉の内側で、何かが、動き始めた。
ごごごご、と、低い地鳴りのような音。壁が、震えている。足の裏が、振動を拾う。扉の面を覆う封印の紋様が、一本ずつ、赤く、淡く、光り始めた。円が、一つ、また一つと、順に灯っていく。その赤い光が、廊下の灰色の壁に反射して、朔夜の顔を、不気味に照らした。
楔が、一本、抜けた。
がきん、と金属の悲鳴。
二本目。三本目。四本目。
最後の楔が抜けたとき、扉が、ゆっくりと、手前へ動き出した。
重い。
あまりにも、重い。
扉は、床を擦りながら、じりじりと、開いていく。厚さは、二十センチ以上あるだろう。その断面が、鈍い灰色の鋼で、中に、さらに、何かの層が挟まれているのが、見えた。
隙間から、冷たい光が、洩れた。
白い、強い、無慈悲な光。
朔夜は、目を細めた。
それから、中へ、足を踏み入れた。
*
広い。
それが、第一印象だった。
学校の体育館ほどの空間が、地下の底に、ぽかりと口を開けている。天井は高く、十メートル以上あるだろう。壁も、床も、天井も、すべてが、灰色のコンクリートで固められ、その上に、例の銀板が、隙間なく貼り詰められていた。
床には、何も、ない。
ただ、がらんとした、平らな灰色の面が、広がっている。その中央に、白い線で、大きな円が描かれていた。直径、二十メートルほど。円の内側には、さらに、同心円状に、何重にも線が引かれている。その線の上に、等間隔で、金属の杭が打ち込まれていた。
空気が、重い。
肺に吸い込むと、鉄の粉を呑んだような、ざらつく感触がした。耳鳴りが、いっそう強くなる。きいん、きいん、と、頭蓋骨の内側で、鋭い音が反響している。
朔夜は、円の外縁で、立ち止まった。
そして、見上げた。
壁の高い位置に、ガラスの窓が、一列に並んでいた。
観測室。
幅の広い、横長の窓が、円を見下ろすように、取り囲んでいる。窓の向こうは、暗い。照明を落としているのか、中の様子は、ぼんやりとしか見えなかった。けれど、その暗がりの中に、人影が、いくつも立っていた。
十人。いや、もっと。
黒い影が、ガラスの向こうに、並んでいる。
朔夜は、その影が、こちらを見ていることを、感じた。
見ている、という言葉では、足りない。
窓ガラスの向こうから、無数の視線が、一本ずつ、針のように伸びてきて、朔夜の肌に、突き刺さる。額。頬。喉。肩。腕。腰。膝。まるで、肉の一片、骨の一本、その奥の、魂の形までを、秤にかけて、値踏みしているような。
皮膚が、ぞわり、と粟立った。
朔夜は、自分の腕を、そっと撫でた。
汗が引いて、肌が、冷たい。けれど、それは、寒さのせいだけではなかった。
「……今日は、人が多いね」
「ええ」
隣に立つ芹香が、低く答えた。
芹香の視線は、窓のほうを、見上げていた。表情は、動いていない。けれど、その瞳が、窓の向こうの人影を、一つずつ、静かに数えているのが、朔夜には分かった。
「技術部が四人。記録係が二人。……それから」
芹香は、そこで、言葉を切った。
窓の中央、ひときわ大きな影が、立っていた。
他の影よりも、わずかに前へ出ている。背が高く、肩幅が広く、両手を後ろに組んでいる。顔は、暗がりに沈んで見えない。けれど、その輪郭の、微動だにしない佇まいが、他の誰よりも、重たい圧を放っていた。
「……高官が、三人。うち一人は、本部からね」
「本部……」
朔夜は、小さく、繰り返した。
本部。この寮舎のずっと上、この組織の頭にあたる場所。滅多に、地方の寮に降りてくることはない。朔夜は、本部の人間を、これまで、入寮の日に、一度だけしか見たことがなかった。
そのときも、窓の向こうだった。
今日と同じ、ガラスの向こうの、暗がりの中の、影だった。
『橘訓練生』
スピーカーが、鳴った。
先ほどの男の声とは、違う。もっと年配で、もっと低くて、もっと、ゆっくりとした声だった。
『本日の測定は、通常の適合率計測に加え、術式反応の長時間観察を行う。指示があるまで、円の中心にて待機すること』
「はいっ!」
朔夜は、背筋を伸ばして、大きく返事をした。
声が、広大な空間に、わあん、と反響した。
その反響が消えるまでの、ほんの数秒間、誰も、何も言わなかった。窓の向こうの影が、わずかに、動いた。誰かが、隣の誰かに、何かを囁いたようにも見えた。
朔夜は、その沈黙を、胸のなかで、ぎゅっと握りしめた。
(……大丈夫。いつもと、おんなじ)
笑顔を、作った。
それは、頬の筋肉で作る、反射のような笑顔だった。口角を上げ、目を細め、白い歯を見せる。誰に見せるでもなく、窓の向こうの暗がりに向かって、朔夜は、にっこりと、笑ってみせた。
返ってくる反応は、なかった。
ただ、無数の視線が、その笑顔の上を、冷たく滑っていった。
*
「その前に、測定着ね」
芹香が、小声で言った。
「あちらの更衣室で、着替えてきなさい。私は、ここで待っているわ」
「うん。……先輩は、どこに立つの?」
「あの壁際の、観測用の位置。円の外よ」
「そっか」
「何かあれば、すぐに、声を」
「うん」
朔夜は、頷いて、円の脇にある小さな扉へ向かった。
更衣室は、狭かった。
コンクリートの壁に囲まれた、二畳ほどの空間。ベンチが一つ。ロッカーが一つ。その上に、畳まれた白い布が、置かれていた。
測定着だ。
手に取る。布は、薄く、軽く、驚くほど、手触りがない。まるで、紙のようだった。広げてみると、袖も裾もない、ごく簡素な作りで、肩のところに、金属の小さな留め具がいくつも縫い込まれている。胸元には、「T-017」という番号が、小さく、黒く、刺繍されていた。
朔夜は、自分のウェアを、ゆっくりと脱いだ。
汗で湿った布が、肌から剥がれていく。ひやり、と、冷気が背中に触れた。さっきまで火照っていた身体が、一気に冷めていく。鳥肌が、腕から肩へ、駆け上がる。
トンファーを、ベンチの上に置いた。
木の棒が、ごと、と鈍い音を立てて、ベンチの座面に転がった。
朔夜は、その二本を、しばらく、見下ろしていた。
これは、持ち込めない。
測定場に、武器は、持ち込めない決まりになっている。測定中、手に持てるのは、何もない。素手だけだ。
(……ごめんね)
声に出さずに、トンファーに、謝った。
変な話だ、と自分でも思う。木の棒に、謝るなんて。けれど、この棒は、朔夜にとって、ただの道具ではなかった。幼い頃から、この棒と共に、泥にまみれ、痣を作り、笑ってきた。この棒を握っているときだけ、朔夜は、自分が、何者であるかを、疑わずにいられた。
橘朔夜。体術とトンファーが好きな、ただの、十八歳の女の子。
そう、思っていられた。
測定着に、袖を通す。
布が、肌に張りついた。薄い。あまりにも薄い。身体の線が、そのまま、布越しに浮かび上がる。肩の留め具を、一つ、二つ、と留めていく。金属が、かちり、かちり、と鳴る。
最後の留め具を留めたとき、朔夜は、壁の、小さな鏡を見た。
白い布をまとった、少女が、そこにいた。
黒髪のボブカット。汗に濡れて、頬に張りついている。琥珀色の瞳が、鏡の中から、こちらを見返していた。いつもより、少しだけ、大きく見えた。いつもより、少しだけ、頼りなく見えた。
朔夜は、鏡に向かって、にっと笑った。
「……よしっ」
笑顔は、ちゃんと、作れた。
それなのに、鏡の中の少女の瞳は、笑っていなかった。
朔夜は、その瞳から、そっと、目を逸らした。
逸らした先で、自分の手が、小刻みに、震えているのが、見えた。
ぎゅっと、握りしめる。
震えは、止まらない。
(……なんで)
(なんで、こんなに、怖いんだろ)
理由は、分かっている。
朔夜は、ずっと、見ないふりをしてきた。けれど、本当は、分かっている。自分の身体の奥に、何か、自分ではないものが、眠っている。それが、時折、ほんの少し、寝返りを打つ。そのたびに、世界が、きしむ。
去年の、夏。
第二演習場の、あの日。
思い出しかけて、朔夜は、頭を、強く振った。
「違う、違う。思い出さない。今は、測定」
声に出して、言った。
小さく、短く、呟いた声が、狭い更衣室のコンクリートに、鈍く吸われて、消えた。
朔夜は、ベンチの上のトンファーを、最後に、もう一度だけ、見た。
それから、扉を押して、出ていった。
*
測定場に戻ると、芹香が、壁際に立っていた。
白い円の外、観測窓の真下。腰のホルスターの上に、片手を、そっと置いている。その姿勢は、静かで、揺るぎがなかった。長い三つ編みが、肩から胸へ流れ落ちている。
朔夜に気づくと、芹香は、小さく頷いた。
それだけの仕草だった。
けれど、その頷きの中に、「ここにいるわ」という、声にならない言葉が、確かに、含まれていた。
朔夜も、頷き返した。
そして、円の中へ、足を踏み入れた。
素足だった。
コンクリートの床が、足の裏に、容赦なく冷たさを押しつけてくる。道場の板の冷たさとは、まったく違う。ここには、「受け止める」ものが、何もない。ただ、硬く、冷たく、平たい。足指の一本一本が、その無機質さに、拒まれているような気がした。
同心円の線を、一つ、また一つと、跨いでいく。
白い線の上に、打ち込まれた金属の杭が、並んでいる。近づくと、杭の頭に、小さな石が埋め込まれているのが分かった。青白い、半透明の石。その内側で、何か、細い光が、ゆらゆらと揺れている。
朔夜は、その石に、触れないように、そっと避けて歩いた。
十歩。二十歩。
床の冷たさが、足首へ、脹脛へと、這い上がってくる。
円の中心に、辿り着いた。
そこには、小さな、黒い金属の円盤が、床に埋め込まれていた。直径、五十センチほど。表面には、複雑な幾何学模様が、刻まれている。朔夜は、その円盤の上に、両足を、揃えて立った。
足裏に、微かな、振動を感じた。
円盤が、わずかに、震えている。
まるで、眠っている獣の、喉の奥の唸りのように。
朔夜は、顔を上げた。
十メートル上方の、観測窓。
暗がりの中の、いくつもの影。
その影の中の、一人が、動いた。
窓の際まで、すっと、歩み出てきた。
顔が、ようやく、見えた。
五十代半ばの、男だった。
灰色の髪を、きれいに撫でつけている。顎の線が、鋭く、頬の肉が薄い。眼窩は深く窪み、その奥に、小さく、冷たい光を宿した目が、収まっている。濃い藍色の、仕立てのいい制服。胸元には、金色の徽章が、三つ並んでいた。
本部の、高官だ。
男は、窓の向こうから、朔夜を、見下ろした。
その視線は、これまで朔夜が受けてきた、あらゆる視線とは、違った。恐れでも、戸惑いでも、好奇心でもない。
値踏み。
いや、それよりも、もっと、乾いたもの。
道具を、見る目だった。
切れ味を確かめる前の、刃物を見る目。あるいは、使い方次第では、持ち主の手さえも斬り落としかねない、危険な刃物を、慎重に眺める目。
朔夜は、その視線を、真正面から、受け止めた。
受け止めて、にっこりと笑った。
「おはようございます!」
声が、広い空間に、響いた。
男の眉が、ほんのわずかに、動いた。
唇の端が、かすかに、動いた。笑みではなかった。笑みに似た、何か別のものだった。
『……元気だな、橘訓練生』
スピーカー越しの声は、先ほどの年配の声と同じだった。
「はいっ! 元気だけが取り柄ですっ!」
『結構。……その元気が、最後まで続くことを、期待する』
続くことを、期待する。
その言い回しが、胸のどこかに、小さく、引っかかった。
けれど、朔夜は、笑顔のまま、頷いた。
「頑張りますっ!」
声は、明るかった。
明るくなければ、いけなかった。
明るさは、朔夜の、鎧だった。
本当は、体術だけで、いい。トンファーだけで、いい。誰かを殴って、殴られて、汗をかいて、笑っていたい。派手な術なんて、いらない。空間を砕く力なんて、いらない。
そう言えたら、どんなに楽だろう。
けれど、朔夜は、知っていた。
それを言った瞬間、この窓の向こうの、無数の視線が、何を結論づけるのかを。「厄介者」の、さらに先の言葉が、どんな形をしているのかを。
だから、笑う。
笑って、頷いて、「頑張ります」と答える。
それが、朔夜にとって、ここで生き延びる、唯一の方法だった。
窓の向こうで、技術者の一人が、卓上の何かを、操作した。
『計測機器、起動。……同心円第一環、通電』
足元で、ぶん、と低い唸りが鳴った。
円盤が、震えを増す。
床に打ち込まれた金属の杭が、一本ずつ、青白い光を放ち始めた。最も外側の円から、順番に。ぱち、ぱち、ぱち、と、静電気が弾けるような乾いた音が、空間のあちこちで鳴る。
『第二環、通電』
光が、一段、内側へ寄ってくる。
朔夜の肌に、ちくちくと、細かな刺激が走った。空気が、帯電しているのだ。腕の産毛が、一本残らず、逆立っている。髪の毛が、わずかに、浮き上がる感覚があった。
『第三環、通電』
耳鳴りが、いっそう、強くなる。
きいいいいん、と、頭蓋骨が、軋む。
朔夜は、目を閉じなかった。
目を閉じれば、自分の内側を、見てしまいそうだったから。
視線を、前へ、まっすぐに向けた。
その視線の先に、壁際に立つ、芹香がいた。
芹香の唇が、動いた。
声は、聞こえない。
けれど、朔夜には、その唇の形が、はっきりと読めた。
――だいじょうぶ。
朔夜は、微かに、頷いた。
胸の奥の、きゅうう、と縮こまっていた何かが、ほんの少しだけ、緩んだ。
『第四環、通電。……適合率測定、開始』
床の杭が、一斉に、まばゆく輝いた。
青白い光が、円の中心へ向かって、収束していく。朔夜の足元の円盤が、低く、深く、唸り始める。足裏から、振動が、膝へ、腰へ、背骨へ、這い上がってきた。
全身の細胞が、ざわめいている。
肺が、冷たい。
心臓が、速い。
とく、とく、とく、とく。
その鼓動が、円盤の唸りと、少しずつ、同調していく。
朔夜は、気づいた。
自分の鼓動と、機械の唸りが、同じリズムで脈打っていることに。
(……あれ)
おかしい。
機械が、朔夜に、合わせているのか。
それとも、朔夜が、機械に、引きずられているのか。
どちらなのか、分からない。
視界の端が、ほんの少し、白んだ。
髪が、ふわり、と持ち上がった。風もないのに。
窓の向こうで、技術者の誰かが、短く、息を呑む気配がした。
『……数値、上昇。想定より、早い』
『第五環、まだ通電していません。第四環の時点で、すでに――』
『落ち着け。続行』
『しかし』
『続行だ』
マイクが切り替わる前の、小さなざわめき。朔夜の耳は、昔から、そういうものを拾ってしまう。拾ってしまって、聞こえなかったふりをするのが、上手くなった。
朔夜は、笑顔を、保っていた。
口角を上げたまま。
けれど、その笑顔の下で、奥歯が、ぎり、と軋んでいた。
(……だいじょうぶ)
(だいじょうぶ、だいじょうぶ)
呪文のように、繰り返す。
足元の円盤が、ひときわ大きく、唸った。
その瞬間、朔夜は、見た。
自分の目の前の空間が、ほんの、一ミリ。
ごく、わずかに。
たわんだのを。
光が、屈折したのだ。まるで、水面に、小石を落としたときのように。空気の中に、見えない波紋が、広がった。朔夜の前方、一メートルほどの位置で、白い円の線が、わずかに、ゆがんで見えた。
ぱき。
どこかで、小さな音が、鳴った。
ガラスにひびが入るときの、あの、かすかな音。
朔夜は、反射的に、背後を振り返った。
壁際の芹香が、すでに、ホルスターから手を離して、一歩、前へ踏み出していた。
灰茶色の瞳が、朔夜の足元を、鋭く見据えている。
観測窓の向こうの、高官の男の唇が、動いた。
声は、スピーカーを通さずに、ガラス越しに、くぐもって、聞こえてきた。
「――始まるぞ」
朔夜の足元で、円盤が、ひときわ高く、鳴った。
天井の蛍光灯が、ちかり、と明滅した。
すべての音が、一瞬、止んだ。
耳鳴りも。機械の唸りも。杭の放電も。
無音。
朔夜の鼓動だけが、その静寂のなかで、どくん、と、大きく、鳴り響いた。
そして、朔夜は、感じた。
自分の、身体の、いちばん深いところで。
何か、とても大きなものが、ゆっくりと、瞼を、持ち上げるのを。
――第1章 Part 3/4 へ続く
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