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第1章 ― 朔夜、あるいは壊れやすい朝3

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📅 公開日: 2026/10/26 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 8,876文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

瞼が、持ち上がる。

そう感じた次の瞬間、朔夜の世界から、色が一枚、剥がれ落ちた。

青白い杭の光も、灰色のコンクリートも、観測窓の向こうの暗がりも、すべてが、薄い膜の向こう側へ遠のいていく。代わりに、視界のいちばん奥、目の裏側のさらに裏側のあたりで、見たことのない色が、ゆっくりと滲み出してきた。

名前のない色だった。

赤でも、青でも、金でもない。どの色にも似ていて、どの色とも違う。強いて言えば、世界の継ぎ目の色だ。まぶたを閉じたときに見える闇の、そのずっと奥にある、まだ誰も名づけていない色。

「……あ」

朔夜の唇から、声とも息ともつかないものが、こぼれた。

足元の円盤が、鳴っていた。

いや、もう、鳴っているというような生易しいものではない。円盤は、悲鳴を上げていた。低い唸りが、いつの間にか、何オクターブも駆け上がって、耳の奥を直接ひっかく高い音に変わっている。きいいいいい、と、爪でガラスを引き裂くような音が、骨伝導のように頭蓋の内側から響いてくる。

朔夜は、両手で耳を覆った。

覆っても、音は、遮られない。

音は、外から来ていないからだ。

(……これ、私の、中から)

そう気づいた瞬間、胸の真ん中に、杭を打ち込まれたような衝撃が走った。

「――っ、ぐ」

息が詰まる。肋骨の内側で、何かが、ぎゅうう、と膨れ上がっていく。心臓ではない。肺でもない。もっと深い、もっと名前のない器官が、ぱんぱんに張りつめて、皮膚を内側から押し広げようとしている。

熱い。

いや、冷たい。

熱いのか冷たいのか、分からない。ただ、触れられるはずのないものに、触れられている感覚があった。身体の中心を、見えない指が、ゆっくりと、掴んでいる。

『数値、振り切れます!』

スピーカーの向こうで、誰かの声が裏返った。

『第五環、第六環、通電を待たずに反応しています! 杭が、杭が追いつきません!』

『出力を絞れ! 全環、遮断!』

『遮断、効きません! 制御信号が――空間の側から、拒否されています!』

『何だと』

『信号が届かないんです! 円の内側へ、何も、通らない!』

声が、遠い。

ガラスの向こうのやりとりが、水の中で聞く声のように、歪んで聞こえる。朔夜は、顔を上げた。上げようとした。首が、思うように動かなかった。重い。空気が、粘度を持って、全身にまとわりついている。

髪が、浮いていた。

ボブカットの黒髪が、風もないのに、一本一本、頭の周りで広がっている。まるで、水の中に沈んだ人間の髪のように、ゆらゆらと、上へ、上へと漂っていた。測定着の白い布が、肩口からふわりと持ち上がる。裾が、見えない流れに煽られて、はためく。

重力が、おかしい。

足は床を踏んでいるのに、身体の重さが、半分ほどになったような気がした。逆に、胸の奥だけが、鉛の塊を呑んだように、重い。

「朔夜ちゃん!」

芹香の声が、鋭く飛んできた。

その声だけが、水の底まで、まっすぐに届いた。

「息を止めないで! 吐いて! 全部、吐いて!」

「せ……んぱ……」

「吐くの! 今すぐ!」

朔夜は、言われるままに、息を吐いた。

肺の空気を、絞り出すように。ふううう、と、細く長く、吐き出す。白い息が、口から出た。出た途端、その白い息が、空中で、ぴたり、と静止した。

動かない。

吐き出した息が、朔夜の目の前、三十センチの位置で、霧の塊のまま、固まっている。

いや、違う。

固まっているのではない。

その空間だけ、時間の流れが、ひどく、遅くなっているのだ。

朔夜は、その白い塊を、じっと見つめた。

白い霧の表面が、ゆっくりと、ねじれていく。ねじれて、ひしゃげて、折り畳まれていく。まるで、見えない手に握りつぶされる紙のように。霧は、小さく、小さく、圧縮されて、ついに、針の先ほどの一点になった。

そして、その一点が、消えた。

ぱしゅ、と、微かな音を立てて。

何も、残らなかった。

煙も、霧も、空気の揺らぎさえも。

そこにあったはずの空間が、まるごと、世界から「なくなった」のだ。

朔夜の背筋を、氷の指が、ゆっくりと、撫で上げた。

(……やだ)

(やだ、やだ、やだ)

理解した。

理解してしまった。

いま、自分の周りで起きていることを。

去年の夏、第二演習場で、何が起きたのかを。

あのとき、見ないふりをした、あの光景が、いま、同じ形で、始まろうとしている。

「だめ……だめ、だめ、だめっ!」

朔夜は、叫んだ。

叫んだ声が、自分の耳に届く前に、空気の中で、ぐにゃりと歪んだ。

声が、折れ曲がる。

音が、波ではなく、ひしゃげた紙のように、空間の途中で、ぐしゃり、と潰れて、消えた。

両手を、握りしめる。

爪が、掌に食い込んだ。その痛みだけが、確かな「自分」の感覚だった。

(止まれ)

(止まって)

(私、壊したくない)

(お願い)

(誰も、傷つけたくないの)

心の中で、必死に叫ぶ。

けれど、身体の奥の、巨大な何かは、朔夜の声を、聞いていなかった。

聞いていない、というより、朔夜の声など、あまりにも小さすぎて、届いていなかった。蟻の囁きが、海嘯の轟きに届かないように。

瞼が、完全に、持ち上がった。

その、瞬間。

朔夜の足元の円盤が、音もなく、砕けた。

砕けた、と書くのは、正確ではない。

円盤は、割れもしなければ、弾け飛びもしなかった。ただ、そこにあったはずの金属の板が、一瞬、ぐにゃり、と二次元の絵のように薄く潰れ、それから、ぱり、と乾いた音を立てて、細かな粉になって、消えた。

粉は、床に落ちなかった。

落ちる前に、空間ごと、剥がれ落ちたのだ。

朔夜の足元に、黒い円が、ぽかり、と口を開けた。

床がない。

コンクリートの床が、直径五十センチの円形に、すっぱりと、なくなっていた。断面は、見えない。ただ、そこから下は、何もなかった。暗いわけでもない。光がないわけでもない。ただ、「ない」。見ようとしても、目が、そこに焦点を結べなかった。

朔夜は、その縁に、立っていた。

いや、浮いていた。

足が、床の高さから、わずかに、離れていた。

次の瞬間。

世界が、悲鳴を上げた。

*

音が、来た。

いや、音という言葉では、あまりにも足りない。

それは、空間そのものが、引き裂かれていく、「軋み」だった。

きぃいいいいいいいいいいいいいいいいん――

耳を裂く高周波が、測定場の隅々から、一斉に噴き上がった。壁の銀板が震え、床の杭が震え、天井の配管が震え、空気が震え、そして、観測窓の分厚いガラスが、びりびりと激しく共鳴した。

その音の中で、朔夜を取り囲む同心円の杭が、一本、また一本と、青白い光を失っていく。

失う、というより、消えていく。

外側の円から、順番に。

一本の杭が、ぴしり、と音を立てて、縦に、ひしゃげた。

金属の棒が、見えない巨大な指に摘まれたように、真ん中から細く括れ、くびれ、ねじ切れる。ねじ切れた先端は、床に落ちることなく、空中で、圧縮され、小さくなり、点になり、消えた。

二本目。三本目。

白い円の線が、波打った。

コンクリートの床に、ひび割れが、走る。

ひびは、朔夜の足元から、放射状に、八方へ、蜘蛛の巣のように広がっていく。ぴき、ぴき、ぴき、と、凍った湖の氷が割れるような音が、どこまでも、遠くまで、駆けていく。

ひびの内側から、光が漏れた。

白でも、青でもない。

さっき朔夜が見た、あの名前のない色。

継ぎ目の色の光が、床のひびから、脈打つように、にじみ出ている。その光に触れた金属は、融けるのではなく、「たわんで」、「ねじれて」、やがて、位置そのものが曖昧になって、消えていった。

朔夜は、動けなかった。

両手を、握りしめたまま。

足を、床のあった高さに、虚しく浮かせたまま。

目だけが、動いた。

見たくないのに、見えてしまった。

自分の、指先を。

握りしめた拳の隙間から、あの、名前のない色の光が、ちらちらと、洩れている。

光は、爪の先から、指の腹から、手首の血管に沿って、肘へ、肩へと、這い上がっていた。皮膚の下を、透けて流れる光の筋。それが、脈打つたびに、少しずつ、少しずつ、広がっていく。

「いや……」

声が、掠れる。

「いや……っ、止まって、お願い……!」

視界が、ぐにゃりと歪んだ。

世界が、朔夜の目の中で、二重に、三重に、割れて見える。

コンクリートの壁が、遠くなり、近くなり、遠くなる。

観測窓の向こうの人影が、ちぎれた絵のように、断片化して見える。

その、断片化した視界の中で、朔夜は、見た。

壁の銀板が、自分に向かって、ゆっくりと、「寄ってきている」のを。

違う。

壁が、近づいているのではない。

空間が、朔夜に向かって、たわんでいる。

すべてが、朔夜という一点に、吸い寄せられるように、傾いている。

壁の銀板に刻まれた、無数の紋様が、一斉に、赤く点灯した。

防魔壁の、最後の悲鳴だった。

刻まれた線が、一本ずつ、焼き切れていく。円の紋様が、くしゃり、と歪む。文字が、ばらばらに崩れて、蒸気のように、立ち昇る。

ぼん、ぼん、と、どこかで、爆ぜる音。

壁の一枚が、中央から、ぼこりと膨らんだ。

銀板が、内側から押されるように、風船のように、盛り上がる。

盛り上がった金属の表面に、亀裂が走る。

そして、その亀裂の隙間から、光が、噴き出した。

轟。

音が、遅れてやってきた。

衝撃が、先に、来た。

朔夜の身体が、見えない掌に、真正面から殴られたように、後ろへ吹き飛ばされかけた。けれど、身体は、動かなかった。動けなかった。朔夜自身が、衝撃の「中心」にいたからだ。嵐の目の中で、風だけが、周囲へ、周囲へと、奔流のように溢れ出していく。

髪が、爆ぜるように、舞い上がった。

測定着の布が、肩の留め具ごと、ばらばらと千切れ飛ぶ。白い布の断片が、空中で、ひらひらと舞いながら、ひとひらずつ、圧縮され、消えていく。

肌に、熱が、触れた。

皮膚が、じりじりと焼けるような感覚。目に見えない炎に炙られているような。けれど、焦げた匂いはしない。代わりに、鼻の奥を、鋭い、鋭すぎる匂いが貫いた。

オゾン。

雷のあとの空気のような、金属的な、甘ったるい刺激臭。それが、あまりにも濃い。息を吸うたびに、喉の粘膜が、焼けるように痛む。

「ぁ……っ、は……」

朔夜は、喘いだ。

喘いだ息が、白く凍って、消えた。

その視界の、右側から。

巨大な、音が、来た。

――ご、お、ん。

観測窓の、分厚い強化ガラスが、中央から、斜めに、一直線に、裂けた。

裂け目から、細かな破片が、雨のように、降り注ぐ。ガラスの破片は、床に届く前に、空中で、粉微塵に、さらに粉微塵に、砕けて、光の粒になって、消えていった。

ガラスの向こうの暗がりで、悲鳴が上がった。

*

『退避――退避しろ! 全員、観測室から出ろ!』

『出口が、出口がっ!』

『防壁が破られる、誰か、封鎖の――』

『だめだ、こんなものは想定外だ、想定の百倍だ!』

『数値が、数値が出ない! 計器が、読み取れません! 桁が、桁が足りない!』

『測定限界を、超過……いや、これは、測定限界という概念自体が……』

『黙れ! 緊急停止! 非常用の、あれを、あれを出せ!』

怒号が、悲鳴が、金属の軋みが、折り重なって、ひび割れたスピーカーから、ざらついて溢れ出す。技術者の一人が、床に尻餅をついて、這うように後ずさっていた。記録係の女が、書類を抱えたまま、扉に向かって駆け出し、途中で何かに足を取られて転倒した。

その混乱の中で、窓の際に立っていた、あの高官の男だけが、動かなかった。

灰色の髪。窪んだ眼窩。

彼は、裂けたガラスの向こうから、朔夜を、見下ろしていた。

その顔は、青ざめていた。

けれど、その瞳には、恐怖だけでなく、別のものが、確かに、宿っていた。

畏怖と、そして、ほとんど陶酔にも似た、何か。

「……これが」

男の唇が、動いた。

声は、騒音のなかに、掻き消されて、誰にも届かなかった。

「これが、『歩く戦術兵器』か」

彼の背後で、技術者が、泣き叫んでいた。

朔夜は、その声を、聞いていた。

聞こえてしまっていた。

聞こえてしまって、胸の奥が、ずきん、と、抉られた。

(……ああ)

(私、また)

(また、みんなを、怖がらせてる)

視界の端が、滲んだ。

熱いものが、頬を伝った。涙だった。涙は、頬を伝い落ちる途中で、空気に触れて、ほんの一瞬、きらりと光り、それから、ぷつり、と消えた。

笑いたいのに。

笑っていたいのに。

唇が、震えて、動かない。

(……ごめんなさい)

(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)

心の中で、何度も、繰り返す。

誰に謝っているのか、分からなかった。

観測窓の向こうの人たちか。道場の壁際で目を逸らした三人の訓練生か。眼鏡の奥で目を逸らした鬼塚教官か。それとも、床の木目に残る、何百人もの少女たちの汗と涙か。

あるいは、この世界、そのものか。

その謝罪を、押し流すように、また、衝撃が来た。

朔夜の足元の、黒い円が、広がった。

直径五十センチだった無の穴が、一メートル、二メートル、三メートルと、見る間に、拡大していく。縁にあったコンクリートの欠片が、ぼろぼろと崩れ、穴の中へ、音もなく、吸い込まれていく。吸い込まれた欠片は、闇の中で、さらに細かく、さらに、小さく、分解されて、消える。

床の白い円の線が、穴の縁で、ぷつりと途切れた。

穴は、止まらない。

二十メートルの円の、外縁へ向かって、這うように、広がっていく。

朔夜は、その中心にいた。

宙に浮いたまま。

髪を逆立て、瞳を見開き、全身から、あの名前のない光を、洩らしながら。

――瞳が、変わった。

朔夜自身には、見えない。

けれど、壁際の芹香には、見えていた。

琥珀色だったはずの、あたたかな、陽だまりのような瞳が、いま、色を変えていた。

虹彩の縁から、じわり、と、滲み出すように。

琥珀が、金に。

金が、白に。

白が、深い藍に。

藍が、紫に。

紫が、紅に。

色が、ひとつの色に、定まらない。

瞳の中で、あらゆる色が、渦を巻いて、流れていた。まるで、極彩色の万華鏡を、一つの小さな眼窩に、無理やり押し込めたかのように。虹彩の模様が、ほどけ、ねじれ、不可視の幾何学に変わっていく。

それは、美しかった。

あまりにも、美しすぎた。

見る者の目を灼き、魂を縛り、同時に、本能の底から、「逃げろ」という絶叫を引きずり出す、圧倒的な、美だった。

破壊のための、美。

世界を砕くものだけが、持つことを許される、色。

『……逃げろ……』

ガラスの向こうで、誰かが、呻いた。

『あれは、人間では……ない……』

『やめろ、見るな、目を合わせるな!』

『見るなと言ったって、目が、目が離せな――』

その声が、ふっつりと、途切れた。

声だけではない。

観測窓の向こうの、暗がりの、ちょうど左端の一角が、一瞬で、「なくなった」。

壁も、機材も、そこに立っていた誰かの影も。

切り取られたように、そこだけが、虚ろな、黒い空白になっていた。

朔夜は、見た。

見てしまった。

自分が放ったものが、人のいる場所へ、届いてしまったことを。

「…………あ」

喉が、凍りついた。

悲鳴が、出なかった。

悲鳴を出す力さえ、奪われた。

頭の中が、真っ白になる。真っ白の中に、去年の夏の光景が、ぱっと、閃光のように、蘇った。

第二演習場。

夏の盛り。蝉の声。

笑っていた同期の少女たち。

自分に向かって、手を振っていた、あの子。

次の瞬間、そこに、何もなくなっていた。

何も、なくなっていた。

蝉の声も。草の匂いも。あの子の手も。

ただ、巨大な、円い、虚無の窪みだけが、広がっていた。

(……やだ)

(やだ、やだ、やだ、やだ、やだ)

(あのときと、おんなじ)

(私、また、誰かを)

目の前の闇が、いっそう、深くなった。

魔力の奔流が、朔夜の胸を、内側から、引き裂こうとしていた。

どく、どく、どく、と、心臓が、割れ鐘のように鳴る。

その音が、空間の軋みと、完全に同調した。

朔夜は、悟った。

もう、自分の意思では、止められない。

次の一瞬で、この地下の測定場は、丸ごと、消える。

観測室も、技術者も、高官も。

壁際の、あの、人も。

「――――せ、んぱ、い」

朔夜は、唇を、動かした。

声にならない声で。

「逃げ、て」

それが、最後の、力だった。

*

芹香は、逃げなかった。

壁際から、一歩も、退かなかった。

灰茶色の瞳は、揺るぎなく、宙に浮かぶ朔夜を、見据えていた。

嵐のような衝撃波が、芹香の身体を、容赦なく、打ちつけている。三つ編みが、ほどけて、背後へ、千切れんばかりに、なびいている。黒い訓練着の袖が、衝撃で裂け、白い腕に、細い切り傷が、いくつも走っていた。頬にも、一筋、赤い線が、すうっと、浮かび上がっている。

それでも、芹香は、立っていた。

両足を、肩幅に開き。

重心を、低く落とし。

右手が、ホルスターから、魔導銃を、引き抜いた。

銀色の、細身の銃身。

本来、訓練用の、弾の込められていない銃のはずだった。けれど、その銃把を握る芹香の指は、迷いなく、薬室の脇の、小さな留め金を、弾いた。

かちり。

銃身の側面が、開く。

内側に隠されていた、本物の、魔導弾の弾倉が、せり出した。

――最初から。

芹香は、最初から、この日のために。

弾を、込めていたのだ。

「…………朔夜ちゃん」

芹香の声が、静かに、嵐の中を、渡った。

衝撃波に、掻き消されるはずの声が、不思議と、朔夜の耳へ、まっすぐに、届く。

「聞こえる?」

朔夜は、動かない唇で、返事をしようとした。

できなかった。

「聞こえなくても、いいわ。……聞いて」

芹香は、銃を、構えた。

両手で。肘を軽く曲げ、肩の力を抜いて。長い睫毛の下で、灰茶色の瞳が、まばたきもせず、銃口の先――朔夜の、胸の中心を、見据えた。

その構えは、あまりにも、静かだった。

嵐のなかで、そこだけが、凪いでいる。

「私は、あなたを、撃つわ」

空気が、凍った。

観測窓の向こうで、誰かが、息を呑んだ。

「撃つけれど、殺さない。あなたの身体は、一ミリも、傷つけない」

芹香の声は、揺れなかった。

「私が撃つのは、あなたの中の、『流れ』よ。魔力の、収束の、結び目。……そこを、一点だけ、解く」

銃口が、わずかに、動いた。

朔夜の胸の中心から、その、ほんの数ミリ左。

心臓の、真横。

そこに、あの名前のない光が、最も濃く、渦を巻いている場所が、あった。

「一度だけ。一発だけ。……失敗したら、あなたも、私も、ここにいる全員も、消える」

芹香は、ふっと、微笑んだ。

嵐の中で。

頬から血を流しながら。

母親のような、柔らかな、慈しみに満ちた、いつもの笑みで。

「だから、お願い。……朔夜ちゃん」

灰茶色の瞳が、細められた。

「笑って」

朔夜の、視界の、ど真ん中で。

芹香の、微笑みが、揺れた。

その瞬間、朔夜の、胸の奥の、巨大な何かが、ほんの一瞬だけ、動きを、止めた。

瞼が、半分だけ、下りた。

世界の継ぎ目の色が、わずかに、薄れた。

その、薄れた隙間に、聞こえた。

朝の、道場の、風の音が。

ひゅ。

ひゅ。

トンファーが、空を切る、あの、音が。

朔夜は、思い出した。

汗の匂い。蝋の匂い。畳の草の匂い。

足の裏に染みる、樫の床の、ひやりとした感触。

自分の拳が、相手の脇腹にめり込む、あの、鈍くて重い手応え。

殴って、殴られて、笑っていた、あの、泥臭い日々。

(……私、これが、好きなんだ)

(壊すことじゃない)

(砕くことじゃない)

(ただ、殴って、笑って、汗をかいて)

(そうして、生きていたいだけなんだ)

涙が、一粒、こぼれた。

その涙が、極彩色に染まった瞳の縁で、きらりと、琥珀色に光った。

ほんの、一瞬だけ。

ほんの、わずかに。

朔夜の、口角が、持ち上がった。

震える、不格好な、泣き笑いだった。

けれど、それは、確かに、「笑顔」だった。

芹香の瞳が、その笑みを、捉えた。

灰茶色の瞳の奥で、何かが、決壊しかけて、すぐに、堰き止められた。

「……ありがとう」

芹香の唇が、動いた。

声は、もう、聞こえなかった。

衝撃波が、さらに、勢いを増している。

床の黒い穴が、観測窓の下の壁まで、迫っていた。壁の銀板が、ばりばりと、ひしゃげて、剥がれていく。天井の蛍光灯が、一本、また一本と、弾けて、火花を散らす。配管が裂け、白い蒸気が、噴き出す。

その、すべてが崩れていく世界の、真ん中で。

芹香の指が、引き金に、かかった。

細く、長い、白い指。

いつも、朔夜の寝癖を、押さえてくれた指。

白湯のカップを、手渡してくれた指。

手首の痛みを、そっと確かめてくれた指。

その指が、ゆっくりと、引き金を、絞っていく。

――ぱん。

乾いた、小さな、銃声が。

世界が崩れ落ちていく轟音の中に、不思議なほど鮮明に、ひとつだけ、響いた。

銃口から、一筋の光が、放たれた。

細い、糸のような、純白の光。

嵐を、まっすぐに、貫いて。

朔夜の、胸の、わずか左へ。

吸い込まれていく。

朔夜の目が、大きく見開かれた。

極彩色の瞳が、白い光の糸を、映した。

その糸が、胸に触れる、直前。

時間が、完全に、止まったように見えた。

空中に、千切れた白い布の断片が、舞ったまま、止まっている。

ガラスの破片が、光の粒になる直前の形で、止まっている。

髪が、逆立ったまま、止まっている。

そして、朔夜の頬を伝う、涙の一粒が、顎の先で、落ちる寸前の形のまま、止まっていた。

その、静止した世界のなかで。

朔夜は、聞いた。

胸の奥の、巨大な何かが。

ほんの、わずかに。

眠たげに。

――笑った、ような気がした。

白い光が、胸に、触れた。

次の瞬間、世界のすべての音が、一度に、戻ってきた。

――第1章 Part 4/4 へ続く

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作者について

紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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