第1章 ― 朔夜、あるいは壊れやすい朝3
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
瞼が、持ち上がる。
そう感じた次の瞬間、朔夜の世界から、色が一枚、剥がれ落ちた。
青白い杭の光も、灰色のコンクリートも、観測窓の向こうの暗がりも、すべてが、薄い膜の向こう側へ遠のいていく。代わりに、視界のいちばん奥、目の裏側のさらに裏側のあたりで、見たことのない色が、ゆっくりと滲み出してきた。
名前のない色だった。
赤でも、青でも、金でもない。どの色にも似ていて、どの色とも違う。強いて言えば、世界の継ぎ目の色だ。まぶたを閉じたときに見える闇の、そのずっと奥にある、まだ誰も名づけていない色。
「……あ」
朔夜の唇から、声とも息ともつかないものが、こぼれた。
足元の円盤が、鳴っていた。
いや、もう、鳴っているというような生易しいものではない。円盤は、悲鳴を上げていた。低い唸りが、いつの間にか、何オクターブも駆け上がって、耳の奥を直接ひっかく高い音に変わっている。きいいいいい、と、爪でガラスを引き裂くような音が、骨伝導のように頭蓋の内側から響いてくる。
朔夜は、両手で耳を覆った。
覆っても、音は、遮られない。
音は、外から来ていないからだ。
(……これ、私の、中から)
そう気づいた瞬間、胸の真ん中に、杭を打ち込まれたような衝撃が走った。
「――っ、ぐ」
息が詰まる。肋骨の内側で、何かが、ぎゅうう、と膨れ上がっていく。心臓ではない。肺でもない。もっと深い、もっと名前のない器官が、ぱんぱんに張りつめて、皮膚を内側から押し広げようとしている。
熱い。
いや、冷たい。
熱いのか冷たいのか、分からない。ただ、触れられるはずのないものに、触れられている感覚があった。身体の中心を、見えない指が、ゆっくりと、掴んでいる。
『数値、振り切れます!』
スピーカーの向こうで、誰かの声が裏返った。
『第五環、第六環、通電を待たずに反応しています! 杭が、杭が追いつきません!』
『出力を絞れ! 全環、遮断!』
『遮断、効きません! 制御信号が――空間の側から、拒否されています!』
『何だと』
『信号が届かないんです! 円の内側へ、何も、通らない!』
声が、遠い。
ガラスの向こうのやりとりが、水の中で聞く声のように、歪んで聞こえる。朔夜は、顔を上げた。上げようとした。首が、思うように動かなかった。重い。空気が、粘度を持って、全身にまとわりついている。
髪が、浮いていた。
ボブカットの黒髪が、風もないのに、一本一本、頭の周りで広がっている。まるで、水の中に沈んだ人間の髪のように、ゆらゆらと、上へ、上へと漂っていた。測定着の白い布が、肩口からふわりと持ち上がる。裾が、見えない流れに煽られて、はためく。
重力が、おかしい。
足は床を踏んでいるのに、身体の重さが、半分ほどになったような気がした。逆に、胸の奥だけが、鉛の塊を呑んだように、重い。
「朔夜ちゃん!」
芹香の声が、鋭く飛んできた。
その声だけが、水の底まで、まっすぐに届いた。
「息を止めないで! 吐いて! 全部、吐いて!」
「せ……んぱ……」
「吐くの! 今すぐ!」
朔夜は、言われるままに、息を吐いた。
肺の空気を、絞り出すように。ふううう、と、細く長く、吐き出す。白い息が、口から出た。出た途端、その白い息が、空中で、ぴたり、と静止した。
動かない。
吐き出した息が、朔夜の目の前、三十センチの位置で、霧の塊のまま、固まっている。
いや、違う。
固まっているのではない。
その空間だけ、時間の流れが、ひどく、遅くなっているのだ。
朔夜は、その白い塊を、じっと見つめた。
白い霧の表面が、ゆっくりと、ねじれていく。ねじれて、ひしゃげて、折り畳まれていく。まるで、見えない手に握りつぶされる紙のように。霧は、小さく、小さく、圧縮されて、ついに、針の先ほどの一点になった。
そして、その一点が、消えた。
ぱしゅ、と、微かな音を立てて。
何も、残らなかった。
煙も、霧も、空気の揺らぎさえも。
そこにあったはずの空間が、まるごと、世界から「なくなった」のだ。
朔夜の背筋を、氷の指が、ゆっくりと、撫で上げた。
(……やだ)
(やだ、やだ、やだ)
理解した。
理解してしまった。
いま、自分の周りで起きていることを。
去年の夏、第二演習場で、何が起きたのかを。
あのとき、見ないふりをした、あの光景が、いま、同じ形で、始まろうとしている。
「だめ……だめ、だめ、だめっ!」
朔夜は、叫んだ。
叫んだ声が、自分の耳に届く前に、空気の中で、ぐにゃりと歪んだ。
声が、折れ曲がる。
音が、波ではなく、ひしゃげた紙のように、空間の途中で、ぐしゃり、と潰れて、消えた。
両手を、握りしめる。
爪が、掌に食い込んだ。その痛みだけが、確かな「自分」の感覚だった。
(止まれ)
(止まって)
(私、壊したくない)
(お願い)
(誰も、傷つけたくないの)
心の中で、必死に叫ぶ。
けれど、身体の奥の、巨大な何かは、朔夜の声を、聞いていなかった。
聞いていない、というより、朔夜の声など、あまりにも小さすぎて、届いていなかった。蟻の囁きが、海嘯の轟きに届かないように。
瞼が、完全に、持ち上がった。
その、瞬間。
朔夜の足元の円盤が、音もなく、砕けた。
砕けた、と書くのは、正確ではない。
円盤は、割れもしなければ、弾け飛びもしなかった。ただ、そこにあったはずの金属の板が、一瞬、ぐにゃり、と二次元の絵のように薄く潰れ、それから、ぱり、と乾いた音を立てて、細かな粉になって、消えた。
粉は、床に落ちなかった。
落ちる前に、空間ごと、剥がれ落ちたのだ。
朔夜の足元に、黒い円が、ぽかり、と口を開けた。
床がない。
コンクリートの床が、直径五十センチの円形に、すっぱりと、なくなっていた。断面は、見えない。ただ、そこから下は、何もなかった。暗いわけでもない。光がないわけでもない。ただ、「ない」。見ようとしても、目が、そこに焦点を結べなかった。
朔夜は、その縁に、立っていた。
いや、浮いていた。
足が、床の高さから、わずかに、離れていた。
次の瞬間。
世界が、悲鳴を上げた。
*
音が、来た。
いや、音という言葉では、あまりにも足りない。
それは、空間そのものが、引き裂かれていく、「軋み」だった。
きぃいいいいいいいいいいいいいいいいん――
耳を裂く高周波が、測定場の隅々から、一斉に噴き上がった。壁の銀板が震え、床の杭が震え、天井の配管が震え、空気が震え、そして、観測窓の分厚いガラスが、びりびりと激しく共鳴した。
その音の中で、朔夜を取り囲む同心円の杭が、一本、また一本と、青白い光を失っていく。
失う、というより、消えていく。
外側の円から、順番に。
一本の杭が、ぴしり、と音を立てて、縦に、ひしゃげた。
金属の棒が、見えない巨大な指に摘まれたように、真ん中から細く括れ、くびれ、ねじ切れる。ねじ切れた先端は、床に落ちることなく、空中で、圧縮され、小さくなり、点になり、消えた。
二本目。三本目。
白い円の線が、波打った。
コンクリートの床に、ひび割れが、走る。
ひびは、朔夜の足元から、放射状に、八方へ、蜘蛛の巣のように広がっていく。ぴき、ぴき、ぴき、と、凍った湖の氷が割れるような音が、どこまでも、遠くまで、駆けていく。
ひびの内側から、光が漏れた。
白でも、青でもない。
さっき朔夜が見た、あの名前のない色。
継ぎ目の色の光が、床のひびから、脈打つように、にじみ出ている。その光に触れた金属は、融けるのではなく、「たわんで」、「ねじれて」、やがて、位置そのものが曖昧になって、消えていった。
朔夜は、動けなかった。
両手を、握りしめたまま。
足を、床のあった高さに、虚しく浮かせたまま。
目だけが、動いた。
見たくないのに、見えてしまった。
自分の、指先を。
握りしめた拳の隙間から、あの、名前のない色の光が、ちらちらと、洩れている。
光は、爪の先から、指の腹から、手首の血管に沿って、肘へ、肩へと、這い上がっていた。皮膚の下を、透けて流れる光の筋。それが、脈打つたびに、少しずつ、少しずつ、広がっていく。
「いや……」
声が、掠れる。
「いや……っ、止まって、お願い……!」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
世界が、朔夜の目の中で、二重に、三重に、割れて見える。
コンクリートの壁が、遠くなり、近くなり、遠くなる。
観測窓の向こうの人影が、ちぎれた絵のように、断片化して見える。
その、断片化した視界の中で、朔夜は、見た。
壁の銀板が、自分に向かって、ゆっくりと、「寄ってきている」のを。
違う。
壁が、近づいているのではない。
空間が、朔夜に向かって、たわんでいる。
すべてが、朔夜という一点に、吸い寄せられるように、傾いている。
壁の銀板に刻まれた、無数の紋様が、一斉に、赤く点灯した。
防魔壁の、最後の悲鳴だった。
刻まれた線が、一本ずつ、焼き切れていく。円の紋様が、くしゃり、と歪む。文字が、ばらばらに崩れて、蒸気のように、立ち昇る。
ぼん、ぼん、と、どこかで、爆ぜる音。
壁の一枚が、中央から、ぼこりと膨らんだ。
銀板が、内側から押されるように、風船のように、盛り上がる。
盛り上がった金属の表面に、亀裂が走る。
そして、その亀裂の隙間から、光が、噴き出した。
轟。
音が、遅れてやってきた。
衝撃が、先に、来た。
朔夜の身体が、見えない掌に、真正面から殴られたように、後ろへ吹き飛ばされかけた。けれど、身体は、動かなかった。動けなかった。朔夜自身が、衝撃の「中心」にいたからだ。嵐の目の中で、風だけが、周囲へ、周囲へと、奔流のように溢れ出していく。
髪が、爆ぜるように、舞い上がった。
測定着の布が、肩の留め具ごと、ばらばらと千切れ飛ぶ。白い布の断片が、空中で、ひらひらと舞いながら、ひとひらずつ、圧縮され、消えていく。
肌に、熱が、触れた。
皮膚が、じりじりと焼けるような感覚。目に見えない炎に炙られているような。けれど、焦げた匂いはしない。代わりに、鼻の奥を、鋭い、鋭すぎる匂いが貫いた。
オゾン。
雷のあとの空気のような、金属的な、甘ったるい刺激臭。それが、あまりにも濃い。息を吸うたびに、喉の粘膜が、焼けるように痛む。
「ぁ……っ、は……」
朔夜は、喘いだ。
喘いだ息が、白く凍って、消えた。
その視界の、右側から。
巨大な、音が、来た。
――ご、お、ん。
観測窓の、分厚い強化ガラスが、中央から、斜めに、一直線に、裂けた。
裂け目から、細かな破片が、雨のように、降り注ぐ。ガラスの破片は、床に届く前に、空中で、粉微塵に、さらに粉微塵に、砕けて、光の粒になって、消えていった。
ガラスの向こうの暗がりで、悲鳴が上がった。
*
『退避――退避しろ! 全員、観測室から出ろ!』
『出口が、出口がっ!』
『防壁が破られる、誰か、封鎖の――』
『だめだ、こんなものは想定外だ、想定の百倍だ!』
『数値が、数値が出ない! 計器が、読み取れません! 桁が、桁が足りない!』
『測定限界を、超過……いや、これは、測定限界という概念自体が……』
『黙れ! 緊急停止! 非常用の、あれを、あれを出せ!』
怒号が、悲鳴が、金属の軋みが、折り重なって、ひび割れたスピーカーから、ざらついて溢れ出す。技術者の一人が、床に尻餅をついて、這うように後ずさっていた。記録係の女が、書類を抱えたまま、扉に向かって駆け出し、途中で何かに足を取られて転倒した。
その混乱の中で、窓の際に立っていた、あの高官の男だけが、動かなかった。
灰色の髪。窪んだ眼窩。
彼は、裂けたガラスの向こうから、朔夜を、見下ろしていた。
その顔は、青ざめていた。
けれど、その瞳には、恐怖だけでなく、別のものが、確かに、宿っていた。
畏怖と、そして、ほとんど陶酔にも似た、何か。
「……これが」
男の唇が、動いた。
声は、騒音のなかに、掻き消されて、誰にも届かなかった。
「これが、『歩く戦術兵器』か」
彼の背後で、技術者が、泣き叫んでいた。
朔夜は、その声を、聞いていた。
聞こえてしまっていた。
聞こえてしまって、胸の奥が、ずきん、と、抉られた。
(……ああ)
(私、また)
(また、みんなを、怖がらせてる)
視界の端が、滲んだ。
熱いものが、頬を伝った。涙だった。涙は、頬を伝い落ちる途中で、空気に触れて、ほんの一瞬、きらりと光り、それから、ぷつり、と消えた。
笑いたいのに。
笑っていたいのに。
唇が、震えて、動かない。
(……ごめんなさい)
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
心の中で、何度も、繰り返す。
誰に謝っているのか、分からなかった。
観測窓の向こうの人たちか。道場の壁際で目を逸らした三人の訓練生か。眼鏡の奥で目を逸らした鬼塚教官か。それとも、床の木目に残る、何百人もの少女たちの汗と涙か。
あるいは、この世界、そのものか。
その謝罪を、押し流すように、また、衝撃が来た。
朔夜の足元の、黒い円が、広がった。
直径五十センチだった無の穴が、一メートル、二メートル、三メートルと、見る間に、拡大していく。縁にあったコンクリートの欠片が、ぼろぼろと崩れ、穴の中へ、音もなく、吸い込まれていく。吸い込まれた欠片は、闇の中で、さらに細かく、さらに、小さく、分解されて、消える。
床の白い円の線が、穴の縁で、ぷつりと途切れた。
穴は、止まらない。
二十メートルの円の、外縁へ向かって、這うように、広がっていく。
朔夜は、その中心にいた。
宙に浮いたまま。
髪を逆立て、瞳を見開き、全身から、あの名前のない光を、洩らしながら。
――瞳が、変わった。
朔夜自身には、見えない。
けれど、壁際の芹香には、見えていた。
琥珀色だったはずの、あたたかな、陽だまりのような瞳が、いま、色を変えていた。
虹彩の縁から、じわり、と、滲み出すように。
琥珀が、金に。
金が、白に。
白が、深い藍に。
藍が、紫に。
紫が、紅に。
色が、ひとつの色に、定まらない。
瞳の中で、あらゆる色が、渦を巻いて、流れていた。まるで、極彩色の万華鏡を、一つの小さな眼窩に、無理やり押し込めたかのように。虹彩の模様が、ほどけ、ねじれ、不可視の幾何学に変わっていく。
それは、美しかった。
あまりにも、美しすぎた。
見る者の目を灼き、魂を縛り、同時に、本能の底から、「逃げろ」という絶叫を引きずり出す、圧倒的な、美だった。
破壊のための、美。
世界を砕くものだけが、持つことを許される、色。
『……逃げろ……』
ガラスの向こうで、誰かが、呻いた。
『あれは、人間では……ない……』
『やめろ、見るな、目を合わせるな!』
『見るなと言ったって、目が、目が離せな――』
その声が、ふっつりと、途切れた。
声だけではない。
観測窓の向こうの、暗がりの、ちょうど左端の一角が、一瞬で、「なくなった」。
壁も、機材も、そこに立っていた誰かの影も。
切り取られたように、そこだけが、虚ろな、黒い空白になっていた。
朔夜は、見た。
見てしまった。
自分が放ったものが、人のいる場所へ、届いてしまったことを。
「…………あ」
喉が、凍りついた。
悲鳴が、出なかった。
悲鳴を出す力さえ、奪われた。
頭の中が、真っ白になる。真っ白の中に、去年の夏の光景が、ぱっと、閃光のように、蘇った。
第二演習場。
夏の盛り。蝉の声。
笑っていた同期の少女たち。
自分に向かって、手を振っていた、あの子。
次の瞬間、そこに、何もなくなっていた。
何も、なくなっていた。
蝉の声も。草の匂いも。あの子の手も。
ただ、巨大な、円い、虚無の窪みだけが、広がっていた。
(……やだ)
(やだ、やだ、やだ、やだ、やだ)
(あのときと、おんなじ)
(私、また、誰かを)
目の前の闇が、いっそう、深くなった。
魔力の奔流が、朔夜の胸を、内側から、引き裂こうとしていた。
どく、どく、どく、と、心臓が、割れ鐘のように鳴る。
その音が、空間の軋みと、完全に同調した。
朔夜は、悟った。
もう、自分の意思では、止められない。
次の一瞬で、この地下の測定場は、丸ごと、消える。
観測室も、技術者も、高官も。
壁際の、あの、人も。
「――――せ、んぱ、い」
朔夜は、唇を、動かした。
声にならない声で。
「逃げ、て」
それが、最後の、力だった。
*
芹香は、逃げなかった。
壁際から、一歩も、退かなかった。
灰茶色の瞳は、揺るぎなく、宙に浮かぶ朔夜を、見据えていた。
嵐のような衝撃波が、芹香の身体を、容赦なく、打ちつけている。三つ編みが、ほどけて、背後へ、千切れんばかりに、なびいている。黒い訓練着の袖が、衝撃で裂け、白い腕に、細い切り傷が、いくつも走っていた。頬にも、一筋、赤い線が、すうっと、浮かび上がっている。
それでも、芹香は、立っていた。
両足を、肩幅に開き。
重心を、低く落とし。
右手が、ホルスターから、魔導銃を、引き抜いた。
銀色の、細身の銃身。
本来、訓練用の、弾の込められていない銃のはずだった。けれど、その銃把を握る芹香の指は、迷いなく、薬室の脇の、小さな留め金を、弾いた。
かちり。
銃身の側面が、開く。
内側に隠されていた、本物の、魔導弾の弾倉が、せり出した。
――最初から。
芹香は、最初から、この日のために。
弾を、込めていたのだ。
「…………朔夜ちゃん」
芹香の声が、静かに、嵐の中を、渡った。
衝撃波に、掻き消されるはずの声が、不思議と、朔夜の耳へ、まっすぐに、届く。
「聞こえる?」
朔夜は、動かない唇で、返事をしようとした。
できなかった。
「聞こえなくても、いいわ。……聞いて」
芹香は、銃を、構えた。
両手で。肘を軽く曲げ、肩の力を抜いて。長い睫毛の下で、灰茶色の瞳が、まばたきもせず、銃口の先――朔夜の、胸の中心を、見据えた。
その構えは、あまりにも、静かだった。
嵐のなかで、そこだけが、凪いでいる。
「私は、あなたを、撃つわ」
空気が、凍った。
観測窓の向こうで、誰かが、息を呑んだ。
「撃つけれど、殺さない。あなたの身体は、一ミリも、傷つけない」
芹香の声は、揺れなかった。
「私が撃つのは、あなたの中の、『流れ』よ。魔力の、収束の、結び目。……そこを、一点だけ、解く」
銃口が、わずかに、動いた。
朔夜の胸の中心から、その、ほんの数ミリ左。
心臓の、真横。
そこに、あの名前のない光が、最も濃く、渦を巻いている場所が、あった。
「一度だけ。一発だけ。……失敗したら、あなたも、私も、ここにいる全員も、消える」
芹香は、ふっと、微笑んだ。
嵐の中で。
頬から血を流しながら。
母親のような、柔らかな、慈しみに満ちた、いつもの笑みで。
「だから、お願い。……朔夜ちゃん」
灰茶色の瞳が、細められた。
「笑って」
朔夜の、視界の、ど真ん中で。
芹香の、微笑みが、揺れた。
その瞬間、朔夜の、胸の奥の、巨大な何かが、ほんの一瞬だけ、動きを、止めた。
瞼が、半分だけ、下りた。
世界の継ぎ目の色が、わずかに、薄れた。
その、薄れた隙間に、聞こえた。
朝の、道場の、風の音が。
ひゅ。
ひゅ。
トンファーが、空を切る、あの、音が。
朔夜は、思い出した。
汗の匂い。蝋の匂い。畳の草の匂い。
足の裏に染みる、樫の床の、ひやりとした感触。
自分の拳が、相手の脇腹にめり込む、あの、鈍くて重い手応え。
殴って、殴られて、笑っていた、あの、泥臭い日々。
(……私、これが、好きなんだ)
(壊すことじゃない)
(砕くことじゃない)
(ただ、殴って、笑って、汗をかいて)
(そうして、生きていたいだけなんだ)
涙が、一粒、こぼれた。
その涙が、極彩色に染まった瞳の縁で、きらりと、琥珀色に光った。
ほんの、一瞬だけ。
ほんの、わずかに。
朔夜の、口角が、持ち上がった。
震える、不格好な、泣き笑いだった。
けれど、それは、確かに、「笑顔」だった。
芹香の瞳が、その笑みを、捉えた。
灰茶色の瞳の奥で、何かが、決壊しかけて、すぐに、堰き止められた。
「……ありがとう」
芹香の唇が、動いた。
声は、もう、聞こえなかった。
衝撃波が、さらに、勢いを増している。
床の黒い穴が、観測窓の下の壁まで、迫っていた。壁の銀板が、ばりばりと、ひしゃげて、剥がれていく。天井の蛍光灯が、一本、また一本と、弾けて、火花を散らす。配管が裂け、白い蒸気が、噴き出す。
その、すべてが崩れていく世界の、真ん中で。
芹香の指が、引き金に、かかった。
細く、長い、白い指。
いつも、朔夜の寝癖を、押さえてくれた指。
白湯のカップを、手渡してくれた指。
手首の痛みを、そっと確かめてくれた指。
その指が、ゆっくりと、引き金を、絞っていく。
――ぱん。
乾いた、小さな、銃声が。
世界が崩れ落ちていく轟音の中に、不思議なほど鮮明に、ひとつだけ、響いた。
銃口から、一筋の光が、放たれた。
細い、糸のような、純白の光。
嵐を、まっすぐに、貫いて。
朔夜の、胸の、わずか左へ。
吸い込まれていく。
朔夜の目が、大きく見開かれた。
極彩色の瞳が、白い光の糸を、映した。
その糸が、胸に触れる、直前。
時間が、完全に、止まったように見えた。
空中に、千切れた白い布の断片が、舞ったまま、止まっている。
ガラスの破片が、光の粒になる直前の形で、止まっている。
髪が、逆立ったまま、止まっている。
そして、朔夜の頬を伝う、涙の一粒が、顎の先で、落ちる寸前の形のまま、止まっていた。
その、静止した世界のなかで。
朔夜は、聞いた。
胸の奥の、巨大な何かが。
ほんの、わずかに。
眠たげに。
――笑った、ような気がした。
白い光が、胸に、触れた。
次の瞬間、世界のすべての音が、一度に、戻ってきた。
――第1章 Part 4/4 へ続く
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