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第1章 ― 朔夜、あるいは壊れやすい朝4

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/26 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 12,693文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

音が、戻ってきた。

最初に聞こえたのは、水の滴る音だった。

ぽた。

ぽた、ぽた。

裂けた配管から、白い蒸気に混じって、錆の味のする水が、床に落ちている。その一滴一滴が、コンクリートの上で弾ける音が、がらんどうになった空間に、ひどくはっきりと響いていた。

次に、火花の音。ぱち、ぱち、と、断線した蛍光灯の残骸が、ためらうように、青白い光をひとつ、ふたつ、吐き出している。

それから、遠くで崩れる破片の音。からん、と、乾いた金属の欠片が、どこかの段差を転げ落ちて、止まった。

そして、自分の、心臓の音。

とく。

とく。

とく。

朔夜は、それを、聞いていた。

聞こえている、と気づくまでに、ずいぶんと時間がかかった気がした。実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。けれど、朔夜の感覚のなかでは、世界が割れて、ほどけて、もう一度縫い合わされるまでの間に、ひとつの季節が通り過ぎたような気がした。

身体が、軽い。

いや、違う。

軽いのではなく、「何もない」のだった。

さっきまで、胸の奥に詰まっていた、あの巨大な、名前のないものが、すっぽりと抜け落ちている。そこにあったはずの重みが消えて、がらんとした空洞だけが、冷たい風を通している。

足の裏に、床の感触が戻ってきた。

ひやり、と、硬く、冷たい。

いつの間にか、浮いていた身体が、降りていたのだ。素足の指が、ひび割れたコンクリートの縁を、掴んでいる。けれど、膝に、力が入らない。脹脛が、笑っている。糸の切れた操り人形のように、身体の芯から、支えというものが、すとんと抜けていった。

「――あ」

朔夜の口から、小さな息が、こぼれた。

世界が、ゆっくりと、傾いていく。

天井の、断線した配管が、視界の上のほうへ流れていく。裂けた銀板の、剥き出しになった断面が、きらりと光った。その光が、ひどく遠い。

倒れる、と思った。

硬いコンクリートの床に、背中から、叩きつけられる、と。

けれど、その衝撃は、来なかった。

代わりに、温かいものが、朔夜の背中を、受け止めていた。

「……っ、朔夜ちゃん」

低く、掠れた、聞き慣れた声。

腕が、朔夜の背中と膝の裏へ、しっかりと回されていた。細くて、しなやかで、けれど、決して緩まない腕。身体を支える力が、ぐ、と強くなる。朔夜の頭が、柔らかな肩口に、ことり、と預けられた。

芹香だった。

その匂いを、朔夜は、真っ先に嗅ぎ分けた。

石鹸と、乾いた紙。書庫の匂い。

そこに、いまは、焦げた火薬の匂いと、鉄錆のような血の匂いが、混じっている。それでも、その奥に、確かに、いつもの芹香の匂いがあった。朔夜の鼻の奥が、つんと痛んだ。

「……せん、ぱい」

「ええ」

「わたし……」

「ええ。……もう、大丈夫」

芹香の声は、息が上がって、少しだけ、震えていた。

朔夜は、顔を上げようとした。

上げようとして、まぶたが、鉛のように重いことに気づいた。視界が、ぼんやりと霞んでいる。涙が、まだ、まつ毛に引っかかっていた。瞬きをすると、その雫が、頬を伝って、冷たく落ちた。

冷たい。

あれほど熱かったはずの涙が、いまは、氷のように冷たい。

頬を伝う筋が、肌の上で、すうっと冷えて、顎の先から、芹香の腕の上へ、ぽとり、と滴った。

「あ……ごめん、先輩の、服……」

「いいの。そんなこと」

「……腕、血が」

「かすり傷よ。見た目ほど、深くないわ」

「うそ」

「嘘じゃないわ。……朔夜ちゃんこそ、どこか、痛くない? 息は、苦しくない?」

朔夜は、ゆっくりと、自分の身体の内側に、意識を向けた。

痛み、というものは、なかった。

ただ、身体の隅々が、重く、濡れた綿のように、くたくたに疲れ果てている。指一本動かすのにも、山を一つ越えるような気力がいる。胸の中の空洞が、ひりひりと、擦り切れたように痛んだ。

「……疲れた」

「ええ」

「すごく、疲れた」

「そうでしょうね。……いいわ。喋らなくて。目を閉じていて」

朔夜は、首を、小さく、横に振った。

「……やだ」

「朔夜ちゃん」

「目を閉じたら、また、見えちゃいそうで」

声が、小さく、割れた。

芹香の腕が、わずかに、きつくなった。

朔夜は、うっすらと、まぶたを持ち上げた。

目の前に、芹香の顔があった。

三つ編みは、すっかりほどけて、栗色の髪が、肩に、頬に、乱れて張りついていた。額にも頬にも、細い切り傷が、いくつも走っている。唇の端が切れて、血が、一筋、顎へ伝っていた。

それなのに、その灰茶色の瞳は、あまりにも静かで、あまりにも、優しかった。

朔夜を映した瞳が、ふっと、緩む。

「……戻ったわね」

「え?」

「瞳。……琥珀色に、戻ったわ」

朔夜は、思わず、自分の目元に、指を伸ばした。

指先が、震えて、うまく届かない。芹香の手が、そっと、その手首を取った。

「ほら。見て」

芹香は、腰のホルスターの、小さな金属の留め具を、指で弾いた。つややかな銀の板が、朔夜の目の前に、かざされる。そこに、ぼやけた少女の顔が、映った。

髪が、ぐしゃぐしゃに乱れている。頬が、涙と埃で、汚れている。唇が、青ざめている。

そして、瞳は。

琥珀色だった。

いつもの、あたたかな、陽だまりのような色。

けれど、その奥の奥のほうで、ほんの一粒だけ、まだ、あの名前のない色の残り火が、ちらり、と瞬いたのを、朔夜は、見てしまった。

見てしまって、すぐに、目を逸らした。

「……よかった」

掠れた声で、呟く。

「よかった。……ちゃんと、戻ってる」

「ええ」

「ねえ、先輩」

「なあに」

「……みんな、は?」

芹香の睫毛が、わずかに、動いた。

それは、ほんの、ひとかけらの沈黙だった。

けれど、朔夜には、その沈黙の重さが、胸の真ん中に、石のように落ちてくるのが分かった。

「……観測室の、左端が」

「うん」

「崩れたわ。数人、巻き込まれたかもしれない」

「…………」

「でも、まだ、分からない。壁の向こう側へ、完全に消えたのか、それとも、あの辺りの空間が、ただ、歪んだだけなのか。……確かめる前に、判断はできないわ」

朔夜は、唇を、噛んだ。

噛んだ唇から、血の味がした。鉄の味。さっき、芹香の頬に見た赤と、同じ色の味。

「……わたし」

「朔夜ちゃん」

「また、やっちゃった」

「…………」

「やっちゃったんだ。……みんな、怖がってたのに。止めたかったのに。止まらなくて」

「朔夜ちゃん」

「ごめん、なさい」

声が、ぷつりと、途切れた。

朔夜の目から、また、涙が、溢れた。

今度は、止まらなかった。ぽろぽろと、頬を滑り落ちて、芹香の胸元に、小さな染みを、いくつも作っていく。肩が、勝手に、震え出した。喉が、ひくひくと、引き攣れる。

笑おうとした。

笑わなきゃ、と思った。

笑って、「大丈夫だよ」と言わなきゃ、と。

けれど、唇は、言うことを聞かなかった。口角は、持ち上がる前に、ぐしゃりと崩れた。笑顔を作る筋肉が、いつの間にか、どこかで、切れてしまったかのように。

「……ごめん、せんぱい」

「謝らなくて、いいのよ」

「だって」

「謝らなくて、いいの」

芹香は、朔夜の頭を、ぎゅうと、胸に抱き寄せた。

柔らかな腕のなかで、朔夜の頬が、芹香の鎖骨に、押しつけられる。心臓の音が、聞こえた。

とく。

とく。

とく。

朝、道場で聞いた、あの、落ち着いたリズム。

一度も乱れない、同じ拍。

いや、違う。

今は、ほんの少しだけ、速い。

芹香の鼓動も、確かに、速かった。

いつもは完璧に凪いでいる、その音が、いまは、わずかに乱れている。必死に、平静を装っている心臓の、必死さが、その音から、伝わってきた。

「……先輩の、音」

「ええ」

「ちょっと、速い」

「……聞こえちゃった?」

「うん。……こわかった?」

芹香は、答えなかった。

答えない代わりに、朔夜の背中に回した腕に、ほんの少しだけ、力を込めた。それが、答えだった。

「……こわかったわ」

やがて、ぽつり、と、芹香は言った。

「とても。……あなたを、撃つなんて」

「……うん」

「何度、頭の中で、練習したか分からない。何度やっても、指が、震えたわ」

「うん」

「それでも、撃つしかなかった。あなたを失うより、ずっと、マシだったから」

朔夜は、芹香の肩に、顔を埋めたまま、小さく頷いた。

その肩の布が、涙で、湿っていく。

「……ありがとう、先輩」

「いいえ」

「撃ってくれて、ありがとう」

「……ええ」

芹香の声が、ほんの少し、震えた。

それが、泣いているせいなのか、笑っているせいなのか、朔夜には、分からなかった。分からないまま、二人は、崩れた床の真ん中で、しばらく、動かなかった。

水の滴る音だけが、ぽた、ぽた、と、続いていた。

*

空気が、冷えていく。

暴走の熱が引いたあとの測定場は、驚くほど、静かに、冷えきっていった。

鼻をつくのは、焦げたコンクリートの匂いだった。炭のような、石を焼いたような、乾いた、粉っぽい匂い。そこに、裂けた配管から漏れる蒸気の、湿った鉄の匂いが混じっている。そして、そのすべての底に、あの、甘ったるいオゾンの刺激臭が、薄く、しつこく、残っていた。

吸うたびに、喉の奥が、ひりひりと痛んだ。

朔夜は、芹香の腕の中から、ゆっくりと、顔を上げた。

そして、見た。

自分が、作り出したものを。

同心円の床は、もう、円の形をしていなかった。

中心から外側へ、大きく抉れた窪みが、すり鉢状に広がっている。直径は、二十メートル近く。その縁の、ほんの数メートル外側に、芹香が立っていた壁際が、辛うじて、残っている。窪みの内側は、きれいに、削り取られていた。断面が、鏡のように滑らかで、薄く、あの名前のない光の残滓が、ゆらゆらと、陽炎のように漂っている。

金属の杭は、一本も、残っていなかった。

壁の銀板は、半分以上が、剥がれ落ち、あるいは、ひしゃげて、その下のコンクリートを、むき出しにしている。刻まれた紋様は、大半が、焼き切れて、黒い煤の筋に変わっていた。天井からは、断線したケーブルが、蛇のように垂れ下がり、時折、ぱち、と火花を散らしている。

そして、観測窓。

厚い強化ガラスは、中央から無数のひびが走り、いまにも崩れそうな、白い蜘蛛の巣になっていた。その向こうの暗がりが、ところどころ、ぽっかりと、虚ろに欠けている。特に、左端。壁そのものが、ごっそりと、なくなっていた。

その欠けた縁から、白い埃が、ふわり、ふわり、と、静かに、舞い落ちてくる。

朔夜は、その光景から、目を逸らしたかった。

逸らせなかった。

逸らしてはいけない、と思った。

これが、自分だ。

これが、自分の中にいる、「もの」の、正体だ。

そう、目に、焼きつけなければならない、と。

(……笑って生きたいなんて)

(そんなの、私が、言っていいことなのかな)

ふっと、そんな考えが、胸をよぎった。

その考えを、芹香の腕の温かさが、辛うじて、押し留めていた。

――そのとき。

頭上から、視線が、降ってきた。

朔夜は、顔を上げた。

ひびだらけの観測窓の向こうに、人影が、残っていた。

先ほどまでの、十人以上の影は、いまは、ほとんど、いない。逃げたのか、倒れたのか、それとも、消えたのか。残っているのは、三つの影だけだった。

一つは、窓の際に、崩れかけの機器にしがみつくようにして、立つ、若い技術者だった。顔は、蒼白で、唇が、がたがたと震えている。眼鏡が、片方のレンズだけ、割れていた。その瞳は、朔夜を見ていたが、焦点が合っていない。恐怖が、瞳孔の奥で、凍りついている。

一つは、その隣で、床に膝をつき、胸を押さえて、荒い息を吐いている、年配の女だった。白衣の袖に、血が滲んでいる。ガラスの破片で、切ったのだろう。

そして、もう一つ。

窓の中央に、変わらず、立っている影があった。

灰色の髪。窪んだ眼窩。胸に並ぶ、三つの金の徽章。

高官の男だった。

彼は、一歩も、動いていなかった。

制服の肩に、白い埃が、薄く、積もっている。額に、細い血の筋が、一本、走っていた。その顔は、まだ、青ざめている。けれど、先ほどまでの、畏怖と陶酔のような色は、もう、そこにはなかった。

代わりに、そこにあったのは。

冷たい、澄んだ、「計算」の色だった。

彼の視線が、朔夜の上に、降りてくる。

朔夜は、その視線を、受け止めた。

受け止めて、そして、悟った。

さっきまでの視線とは、決定的に、何かが、変わっている。

値踏み、ではない。

もう、値踏みは、終わったのだ。

いまの視線は、決定を下す者の、それだった。

男の唇が、ゆっくりと、動いた。

スピーカーは、すでに、死んでいる。音は、ひび割れたガラスを透かして、くぐもって、かすかに、届いた。

「……記録を、取れ」

隣で、技術者が、びくりと肩を震わせた。

「で、ですが、機器は、すべて」

「手書きでいい。数値は、要らん。……起きたことを、見たままに、記せ」

「は……はい」

年配の女が、血のついた手で、懐から、小さな手帳を取り出した。ペンを握る指が、震えている。それでも、彼女は、書き始めた。

男は、その様子を、横目で、一瞥した。

それから、また、窓の下の朔夜へ、視線を戻す。

「……適合率、測定不能。出力、観測限界の外。制御、不可」

淡々と、独り言のように、呟く。

「ただし、外部からの、収束介入には、応じた」

彼の視線が、ほんの一瞬、芹香の手の中の、銀色の銃へ、移った。

「……一条芹香。魔導銃による、精密な、位相干渉。……面白い」

面白い。

その言葉が、冷たく、朔夜の肌に、触れた。

芹香の腕が、わずかに、強張った。

朔夜の背中を支える掌が、ぎゅ、と、布を握りしめる。

「あの……」

朔夜は、掠れた声で、窓に向かって、呼びかけた。

「あの、ごめんなさい。わたし、人が……」

男は、答えなかった。

答えないまま、ゆっくりと、窓から、一歩、下がった。

暗がりが、その姿を、呑み込んでいく。

最後に、彼の声だけが、ガラスの裂け目から、ほんの少しだけ、漏れた。

「……処置は、追って、通達する」

処置。

その二文字が、朔夜の鼓膜に、冷たい針のように、刺さった。

処置。

この組織が、秘密を守るために、何をしてきたか。目撃者に、何をしてきたか。口を滑らせた者に、何があったか。

朔夜は、知っている。

知った上で、ここにいる。

そう、思っていた。

けれど、「処置」という言葉の矛先が、自分自身へ向けられる可能性を、本当の意味で、考えたことは、なかったのかもしれない。

唇が、乾いた。

舌で舐めようとして、舌まで、乾いていることに気づいた。

足元の、断面の鏡のような窪みに、天井の火花が、ちらりと映った。その小さな光が、朔夜の足元で、ゆらり、と、揺れて、消えた。

窓の向こうの暗がりは、もう、何も、映していなかった。

いや。

まだ、誰かが、立っている。

暗がりの奥の、さらに奥。割れたガラスの影に、もうひとつの、細い影が。

眼鏡の縁だけが、一瞬、白く光った。

朔夜は、息を呑んだ。

(……鬼塚、教官?)

確かめる前に、その影は、すっと、闇の中へ、溶けて消えた。

*

「……立てる?」

芹香が、耳元で、囁いた。

朔夜は、少しだけ、考えた。

考えて、頷いた。

「うん。……たぶん」

「無理は、しなくていいの」

「だいじょうぶ。……あの、ここ、早く、出たい」

芹香は、何も言わずに、頷いた。

ゆっくりと、朔夜の身体を、床へ、降ろす。

素足が、コンクリートに触れた。

冷たい。

その冷たさが、膝まで駆け上がって、がくん、と、また、膝が折れそうになる。芹香の腕が、すかさず、脇の下へ入って、朔夜の身体を、支え直した。

「こう。……私に、寄りかかって」

「うん」

「足は、無理に、前に出さなくていいわ。引きずっても、いいの」

「……うん」

「ゆっくり、ね」

芹香は、朔夜の左腕を、自分の肩へ回させた。

右手は、朔夜の腰に添えて。左手には、まだ、魔導銃を握ったまま。その銃を、いつもの革のホルスターに、静かに、収める。かちり、と小さな音が、静寂のなかで、やけに大きく響いた。

二人は、歩き出した。

一歩。

朔夜の足が、ずるり、と床を擦った。

二歩。

芹香の歩幅が、朔夜に、合わせられる。

三歩。

窪みの縁を、慎重に、迂回していく。ひび割れたコンクリートの欠片が、足の裏に、ちくりと刺さった。その痛みが、むしろ、ありがたかった。痛いということは、ここに、自分の足が、ちゃんとある、ということだから。

更衣室の扉が、見えた。

半分、ひしゃげて、斜めに傾いている。

芹香が、片手で、その扉を押し開けた。

中は、無事だった。

ベンチも、ロッカーも、壁も。ただ、天井から、細かな埃が、ぱらぱらと降ってくるだけ。

そして、ベンチの上には、二本の、樫の棒が、転がっていた。

トンファー。

朔夜は、その二本を、見つめた。

ここだけ、何も、壊れていなかった。

朝、置いていったままの形で。

ごつ、と、鈍い音を立てて転がった、あのままの位置で。

まるで、朔夜の帰りを、待っていたかのように。

「……ああ」

朔夜の唇から、力のない声が、漏れた。

「いたんだ。……おまたせ」

芹香が、朔夜をベンチに座らせた。

朔夜は、震える手を伸ばして、トンファーの一本を、取った。

握る。

掌に、馴染んだ樫の重みが、返ってくる。木肌の、ざらりとした傷。いつ、どこで、誰と打ち合って付いたのかも、大抵、覚えている傷。握りの黒ずんだ艶。指の形に合わせて、すり減った、窪み。

その感触が、ゆっくりと、掌から、手首へ、腕へ、胸へと、染み込んでいった。

空洞だった胸の奥に、ぽつり、と、小さな温かさが、灯る。

朔夜は、そのトンファーを、ぎゅっと、胸に抱きしめた。

抱きしめて、肩を丸めて、顔を、棒の木肌に、押しつけた。

汗と、蝋と、樫の匂いが、した。

道場の匂い。

朝の、匂い。

「……大丈夫」

小さく、呟く。

「大丈夫、大丈夫。……まだ、私、ここにいる」

芹香が、膝をついて、朔夜の足元へ、しゃがみ込んだ。

汚れた素足を、自分の手で、そっと、拭う。いつの間にか、ポケットから取り出していた白いハンカチが、埃と、煤と、細かな血の筋を、ひとつずつ、拭い取っていく。朔夜の足の裏は、小さな切り傷で、赤く、にじんでいた。

「……先輩、ハンカチ、汚れちゃう」

「洗えば、いいわ」

「でも」

「いいの。……少し、じっとしていて」

芹香は、淡々と、朔夜の足に、応急の布を巻いていく。

その手つきは、いつもと、まったく、変わらなかった。

丁寧で、穏やかで、迷いがなかった。

まるで、ここが、地下の崩れた測定場ではなく、寮の自室のベッドの脇であるかのように。まるで、さっき、世界が壊れかけたことなど、なかったかのように。

朔夜は、その旋毛を、見下ろしていた。

栗色の髪の、ほどけた毛先が、肩の上で揺れている。傷だらけの白い頬に、睫毛の影が落ちている。その横顔が、あまりにも、あたたかくて。

朔夜は、思わず、口を開いていた。

「……ねえ、先輩」

「なあに」

「わたし、ここに、いていいのかな」

芹香の手が、止まった。

ほんの、一瞬。

それから、また、ゆっくりと、布の端を、結び留める。

「どうして、そんなことを、聞くの?」

「だって」

朔夜は、トンファーを抱きしめる腕に、力を込めた。

「わたし、また、人を……」

「まだ、決まったわけじゃないわ」

「でも、きっと」

「朔夜ちゃん」

芹香が、顔を上げた。

灰茶色の瞳が、朔夜を、まっすぐに、見つめた。

血と埃にまみれた、傷だらけの顔で。

それでも、その瞳は、静かに、揺るぎなく、輝いていた。

「あなたが、ここにいていいかどうかは、私が、決めることではないわ。……あの人たちが、決めることでも、ない」

「……」

「あなたが、決めるの」

「わたし、が?」

「ええ」

芹香は、結び終えた布の上から、朔夜の足を、そっと、両手で包み込んだ。

「あなたが、どう生きたいか。それだけが、答えよ」

朔夜は、答えられなかった。

唇が、震える。

喉の奥が、熱くなる。

どう生きたいか。

そんなこと、改めて、聞かれたことは、なかった。

ただ、毎日を、必死に、笑って、殴って、汗をかいて、過ごしてきた。それが、答えだと、思っていた。けれど、いま、問われているのは、もっと、深い場所の話だった。

壊すかもしれない、化け物の自分で。

それでも、生きていくのか。

生きていて、いいのか。

「……わたし、ね」

やがて、朔夜は、ぽつり、と、口を開いた。

「ほんとうは、殴りたいだけなんだ」

「ええ」

「トンファー持って、道場で、みんなと、ぶつかって。痛いなって、笑って。汗かいて、ごはん食べて。……それだけで、よかったの」

「知っているわ」

「でも、そうじゃ、ないんだよね。わたしの中に、もう一つ、いて」

「ええ」

「それも、わたし、なんだよね」

声が、細く、揺れた。

「いなくなって、くれたら、いいのに。ずっと、そう思ってた。……でも、さっき、分かったの」

「何を?」

「いなくならない。ずっと、いる。わたしが、死ぬまで」

芹香の瞳が、わずかに、見開かれた。

朔夜は、その瞳を、見返して、少しだけ、笑った。

泣き腫らした目で。

頬に、涙の筋を残したまま。

それは、さっきの、崩れた笑みとは、違った。

不格好で、でも、どこか、腹を据えたような、静かな笑みだった。

「だったら、仲良く、するしかないよね」

「……朔夜ちゃん」

「だって、一生、一緒なんだもん。毎朝、洗面所で、顔洗って、鏡の中の自分に、『今日もよろしく』って言ってるのと、おんなじ。……あの子にも、言わなきゃ」

「あの子」

「うん。わたしの中の、あの子」

朔夜は、自分の胸の真ん中を、拳で、とん、と叩いた。

「『今日もよろしく』って」

芹香は、しばらく、何も言わなかった。

ただ、朔夜の顔を、じっと、見つめていた。

それから、ふ、と、吐息のような笑みを、こぼした。

その笑みは、いつもの、柔らかな笑みとは、少しだけ、違っていた。目尻が、ほんのり、赤く染まっている。睫毛が、濡れて、光っている。

「……あなたって、本当に」

「ん?」

「どうして、そんなふうに、強いの」

「えー、強くないよ。さっきまで、めそめそ泣いてたし」

「そういうことでは、ないわ」

芹香は、首を横に振った。

それから、朔夜の両手を、トンファーごと、自分の両手で、包み込んだ。

「朔夜ちゃん」

「うん」

「私は、あなたの隣に、います」

静かな声だった。

けれど、その一言には、石を穿つような、重さがあった。

「あなたが、世界の敵になっても。あの人たちが、どんな『処置』を、決めても。……私は、あなたの隣に、立ちます」

「先輩……」

「私の銃は、あなたを、止めるためにある。そして、あなたを、守るためにも、ある。その両方を、私が、引き受けるわ」

「それ、先輩が、すごく、しんどくない?」

「いいえ」

芹香は、微笑んだ。

傷だらけの顔で、血の滲む唇で、穏やかに。

「私は、あなたの、『お母さん』ですもの」

「……聞き飽きたって、言ったくせに」

「言ったわね」

二人は、顔を見合わせた。

そして、同時に、ふふ、と笑った。

かすかな、笑い声だった。

崩れかけた地下の、埃の舞う更衣室で、二人の少女の笑い声が、小さく、小さく、響いた。

「……約束、してくれる?」

朔夜が、言った。

「何を?」

「わたし、頑張って、仲良くするから。あの子と。……もし、また、暴れちゃったら」

「ええ」

「また、止めて」

「ええ」

「何回でも」

「ええ。何回でも」

「……それで、わたし、先輩のこと、絶対、壊さないから」

芹香の瞳が、揺れた。

その揺れが、ひとしずく、涙になって、頬の傷の上を、静かに、伝い落ちた。

「……ええ。約束するわ」

芹香は、朔夜の額に、自分の額を、こつん、と、そっと、当てた。

「私たち、二人で、生きていきましょう」

「……うん」

「どんなに、重たい世界でも」

「うんっ」

「あなたが笑っていられるように、私が、隣にいる。私が笑っていられるように、あなたが、隣にいてくれる。……それで、十分よ」

朔夜は、頷いた。

額と額が、触れ合っている。

互いの吐息が、混じり合って、小さな、白い雲になって、二人の間で、ふわりと溶けた。

*

階段を、上る。

一段、一段。

B3から、B2へ。

朔夜は、芹香の肩に、片腕を預けたまま、重たい足を、引きずるように、持ち上げていた。足の裏の布が、コンクリートの段を踏むたびに、じわりと、傷が痛む。けれど、その痛みも、いまは、ありがたかった。

左手に、トンファーを、二本とも、握っている。

もう、腰の後ろには、差さなかった。握ったまま、離したくなかった。

手すりに、右手を滑らせる。

金属の冷たさ。塗装の剥げたところの、ざらつき。

さっきと、同じ手すりだ。

同じ、階段。同じ、青白い蛍光灯。同じ、錆と、オゾンの匂い。

それなのに、まったく、違う場所のように感じられた。

朔夜が、変わったのだ。

降りてくるときの自分は、ここが、重たい世界の入口であることを、薄々、知りながら、見ないふりをしていた。いまの自分は、その重さを、正面から見つめてしまった。見つめて、それでも、上り階段を、一歩ずつ、上っている。

B2。

白いペンキの数字が、また、通り過ぎる。

「……ねえ、先輩」

「なあに」

「朝ごはん、食べられるかな」

芹香が、きょとんと、目を瞬いた。

それから、ふっと、吹き出した。

「……あなたって、人は」

「だって、お腹、空いたんだもん」

「あんなことがあった直後に」

「あんなことがあったから、だよ。たぶん」

朔夜は、むくれたように言った。けれど、その頬は、わずかに、緩んでいた。

「身体、すごく、空っぽなんだ。何か、入れないと、また、ふらふらして、倒れちゃいそう」

「そうね。……確かに、道理だわ」

「焼き鮭、残ってるかな」

「事務官の方が、測定後に支給、と仰っていたから、おそらく、別に用意されるのでしょうけれど」

「えー、冷めてるやつ、やだなあ」

「文句を言わないの」

「はあい」

二人の声が、狭い階段に、小さく、反響する。

その声が、まだ、確かに、「日常」の音を、保っていることが、朔夜には、不思議で、嬉しかった。

B1。

最後の踊り場を、折り返す。

目の前に、灰色の鉄の扉が、あった。

朝、閂が引き抜かれた扉。

朔夜は、認識票を、端末にかざした。

ぴ。

重い電子音のあと、がちん、と、閂の外れる音が、連なった。

一つ。二つ。三つ。四つ。五つ。

扉が、ゆっくりと、内側へ、開いていく。

その隙間から、光が、差し込んできた。

白く、柔らかく、そして、あたたかい光。

朝の光だ。

朔夜は、思わず、目を細めた。

冷えきっていた頬に、その光が、じわり、と触れる。長い間、暗闇にいた肌に、陽の熱が、染み込んでいく。まつ毛に残っていた涙の名残が、光を受けて、きらりと、七色に滲んだ。

同時に、匂いが、来た。

味噌汁の匂い。炊きたての米の匂い。焼き魚の、香ばしい脂の匂い。

食堂から流れてくる、朝の匂いだ。

朔夜の腹が、きゅう、と、大きく鳴った。

「……聞こえたわよ」

「もう、いいよ、聞こえても!」

朔夜は、顔を赤くして、笑った。

今度の笑いは、頬の筋肉ではなく、お腹の底から、自然に、湧き上がってきた。ぷっ、と、息が漏れて、肩が揺れる。その笑いが、止まらなくなって、朔夜は、芹香の肩に、額を押し当てて、くすくすと、笑い続けた。

芹香も、つられて、笑った。

二人は、扉の前で、傷だらけのまま、泥だらけのまま、しばらく、笑っていた。

扉の外へ、足を、踏み出す。

廊下の石の床は、朝の陽に、ほんのりと、温まっていた。

窓から、斜めに、金色の光が、いくつも差し込んでいる。その光の筋の中を、細かな埃が、きらきらと、舞っていた。朝の、いつもの廊下。いつもの、寮舎。いつもの、世界。

その世界の中を、朔夜は、一歩、また一歩と、歩いていく。

ふと、立ち止まった。

廊下の壁に、あの額が、掛かっていた。

――『秩序は、美しさに先立つ』

初代長官の、墨痕の太い、文字。

朔夜は、その文字を、じっと、見上げた。

今朝は、よく分からなかった。

秩序と美しさと、どっちが先でも、別にいいじゃないか、と。

いまも、やっぱり、よく分からない。

けれど、ほんの少しだけ、分かった気がした。

秩序は、壊れやすい。

美しさも、壊れやすい。

壊れやすいものを、壊れやすいまま、それでも、守ろうとする誰かの手が、あって。

そのために、先に、立ち上がる誰かが、いて。

そういう、ことなのかも、しれない。

(……なんて。私に、難しいことは、わかんないけどね)

心の中で、肩をすくめる。

隣で、芹香が、静かに、待ってくれていた。

「どうしたの?」

「ううん。なんでもない」

朔夜は、首を振って、芹香を、見上げた。

見上げた先で、芹香の顔に、朝の光が、柔らかく、当たっていた。

傷だらけの頬。ほどけた髪。血の滲む唇。

それでも、その顔は、朔夜が知る、世界でいちばん、安心できる顔だった。

「先輩」

「なあに」

「今日も、よろしく」

芹香は、きょとんとして、それから、目を細めた。

「……ええ。こちらこそ」

「あ、そうだ。もうひとつ」

「なあに?」

「あとで、手当て、わたしがやるからね。先輩の、腕と、ほっぺた」

「いいわよ、そんな」

「やる!」

「……困った子ね」

「だって、お母さんのこと、ほっとけないもん」

芹香は、堪えきれずに、くつくつと、笑った。

その笑い声が、朝の廊下に、澄んで、響く。

朔夜は、握ったトンファーの、握りの黒ずんだ艶を、親指で、そっと、撫でた。

胸の奥の、空洞が、まだ、ひりひりと痛んでいる。

恐怖も、後悔も、消えてはいない。

窓の向こうから降ってきた、あの、冷たい「処置」の二文字は、これから先、朔夜の背中に、影のように、ついて回るのだろう。上の人たちは、朔夜を、決して、ただの少女として、見てはくれない。道場の壁際の三人の目は、これからも、遠いままかもしれない。

それでも。

それでも、朔夜は、顔を上げた。

朝の光の中で、琥珀色の瞳が、きらりと、輝く。

そこには、まだ、あの名前のない色の残り火が、ほんの一粒、潜んでいる。それも、含めて。

全部、含めて、朔夜は、笑った。

にっと、歯を見せて。

屈託なく、太陽のように。

けれど、その笑顔は、今朝の、洗面所の鏡の前で見せた笑顔とは、少し、違っていた。

重たいものを、軽く持つ、笑顔ではなく。

重たいものを、重たいと知った上で、それでも、持ち上げて、歩いていく。

そういう人間の、笑顔だった。

「さあ、行こっ、先輩!」

「ええ。……走らないでね、廊下は」

「走らないってば!」

言った端から、朔夜の足は、半歩、前へ、弾んでいた。

慌てて、踵に力を込める。

背後で、芹香が、くすりと笑った。

二人の足音が、朝の廊下に、重なって、遠ざかっていく。

ことん、ことん、と、軽く。

そして、その、ずっと、ずっと、下で。

崩れた測定場の、剥き出しになった断面の奥底で。

誰にも、見られないまま。

鏡のように滑らかな虚無の底が、ほんの一瞬だけ、脈打つように、淡く、光った。

眠る獣の、寝返りのように。

あるいは、まだ開ききらない瞼の、かすかな、揺れのように。

光は、すぐに、消えた。

朝の鐘が、遠くで、鳴り始めた。

――第1章 了

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作者について

紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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