第1章 ― 朔夜、あるいは壊れやすい朝4
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
音が、戻ってきた。
最初に聞こえたのは、水の滴る音だった。
ぽた。
ぽた、ぽた。
裂けた配管から、白い蒸気に混じって、錆の味のする水が、床に落ちている。その一滴一滴が、コンクリートの上で弾ける音が、がらんどうになった空間に、ひどくはっきりと響いていた。
次に、火花の音。ぱち、ぱち、と、断線した蛍光灯の残骸が、ためらうように、青白い光をひとつ、ふたつ、吐き出している。
それから、遠くで崩れる破片の音。からん、と、乾いた金属の欠片が、どこかの段差を転げ落ちて、止まった。
そして、自分の、心臓の音。
とく。
とく。
とく。
朔夜は、それを、聞いていた。
聞こえている、と気づくまでに、ずいぶんと時間がかかった気がした。実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。けれど、朔夜の感覚のなかでは、世界が割れて、ほどけて、もう一度縫い合わされるまでの間に、ひとつの季節が通り過ぎたような気がした。
身体が、軽い。
いや、違う。
軽いのではなく、「何もない」のだった。
さっきまで、胸の奥に詰まっていた、あの巨大な、名前のないものが、すっぽりと抜け落ちている。そこにあったはずの重みが消えて、がらんとした空洞だけが、冷たい風を通している。
足の裏に、床の感触が戻ってきた。
ひやり、と、硬く、冷たい。
いつの間にか、浮いていた身体が、降りていたのだ。素足の指が、ひび割れたコンクリートの縁を、掴んでいる。けれど、膝に、力が入らない。脹脛が、笑っている。糸の切れた操り人形のように、身体の芯から、支えというものが、すとんと抜けていった。
「――あ」
朔夜の口から、小さな息が、こぼれた。
世界が、ゆっくりと、傾いていく。
天井の、断線した配管が、視界の上のほうへ流れていく。裂けた銀板の、剥き出しになった断面が、きらりと光った。その光が、ひどく遠い。
倒れる、と思った。
硬いコンクリートの床に、背中から、叩きつけられる、と。
けれど、その衝撃は、来なかった。
代わりに、温かいものが、朔夜の背中を、受け止めていた。
「……っ、朔夜ちゃん」
低く、掠れた、聞き慣れた声。
腕が、朔夜の背中と膝の裏へ、しっかりと回されていた。細くて、しなやかで、けれど、決して緩まない腕。身体を支える力が、ぐ、と強くなる。朔夜の頭が、柔らかな肩口に、ことり、と預けられた。
芹香だった。
その匂いを、朔夜は、真っ先に嗅ぎ分けた。
石鹸と、乾いた紙。書庫の匂い。
そこに、いまは、焦げた火薬の匂いと、鉄錆のような血の匂いが、混じっている。それでも、その奥に、確かに、いつもの芹香の匂いがあった。朔夜の鼻の奥が、つんと痛んだ。
「……せん、ぱい」
「ええ」
「わたし……」
「ええ。……もう、大丈夫」
芹香の声は、息が上がって、少しだけ、震えていた。
朔夜は、顔を上げようとした。
上げようとして、まぶたが、鉛のように重いことに気づいた。視界が、ぼんやりと霞んでいる。涙が、まだ、まつ毛に引っかかっていた。瞬きをすると、その雫が、頬を伝って、冷たく落ちた。
冷たい。
あれほど熱かったはずの涙が、いまは、氷のように冷たい。
頬を伝う筋が、肌の上で、すうっと冷えて、顎の先から、芹香の腕の上へ、ぽとり、と滴った。
「あ……ごめん、先輩の、服……」
「いいの。そんなこと」
「……腕、血が」
「かすり傷よ。見た目ほど、深くないわ」
「うそ」
「嘘じゃないわ。……朔夜ちゃんこそ、どこか、痛くない? 息は、苦しくない?」
朔夜は、ゆっくりと、自分の身体の内側に、意識を向けた。
痛み、というものは、なかった。
ただ、身体の隅々が、重く、濡れた綿のように、くたくたに疲れ果てている。指一本動かすのにも、山を一つ越えるような気力がいる。胸の中の空洞が、ひりひりと、擦り切れたように痛んだ。
「……疲れた」
「ええ」
「すごく、疲れた」
「そうでしょうね。……いいわ。喋らなくて。目を閉じていて」
朔夜は、首を、小さく、横に振った。
「……やだ」
「朔夜ちゃん」
「目を閉じたら、また、見えちゃいそうで」
声が、小さく、割れた。
芹香の腕が、わずかに、きつくなった。
朔夜は、うっすらと、まぶたを持ち上げた。
目の前に、芹香の顔があった。
三つ編みは、すっかりほどけて、栗色の髪が、肩に、頬に、乱れて張りついていた。額にも頬にも、細い切り傷が、いくつも走っている。唇の端が切れて、血が、一筋、顎へ伝っていた。
それなのに、その灰茶色の瞳は、あまりにも静かで、あまりにも、優しかった。
朔夜を映した瞳が、ふっと、緩む。
「……戻ったわね」
「え?」
「瞳。……琥珀色に、戻ったわ」
朔夜は、思わず、自分の目元に、指を伸ばした。
指先が、震えて、うまく届かない。芹香の手が、そっと、その手首を取った。
「ほら。見て」
芹香は、腰のホルスターの、小さな金属の留め具を、指で弾いた。つややかな銀の板が、朔夜の目の前に、かざされる。そこに、ぼやけた少女の顔が、映った。
髪が、ぐしゃぐしゃに乱れている。頬が、涙と埃で、汚れている。唇が、青ざめている。
そして、瞳は。
琥珀色だった。
いつもの、あたたかな、陽だまりのような色。
けれど、その奥の奥のほうで、ほんの一粒だけ、まだ、あの名前のない色の残り火が、ちらり、と瞬いたのを、朔夜は、見てしまった。
見てしまって、すぐに、目を逸らした。
「……よかった」
掠れた声で、呟く。
「よかった。……ちゃんと、戻ってる」
「ええ」
「ねえ、先輩」
「なあに」
「……みんな、は?」
芹香の睫毛が、わずかに、動いた。
それは、ほんの、ひとかけらの沈黙だった。
けれど、朔夜には、その沈黙の重さが、胸の真ん中に、石のように落ちてくるのが分かった。
「……観測室の、左端が」
「うん」
「崩れたわ。数人、巻き込まれたかもしれない」
「…………」
「でも、まだ、分からない。壁の向こう側へ、完全に消えたのか、それとも、あの辺りの空間が、ただ、歪んだだけなのか。……確かめる前に、判断はできないわ」
朔夜は、唇を、噛んだ。
噛んだ唇から、血の味がした。鉄の味。さっき、芹香の頬に見た赤と、同じ色の味。
「……わたし」
「朔夜ちゃん」
「また、やっちゃった」
「…………」
「やっちゃったんだ。……みんな、怖がってたのに。止めたかったのに。止まらなくて」
「朔夜ちゃん」
「ごめん、なさい」
声が、ぷつりと、途切れた。
朔夜の目から、また、涙が、溢れた。
今度は、止まらなかった。ぽろぽろと、頬を滑り落ちて、芹香の胸元に、小さな染みを、いくつも作っていく。肩が、勝手に、震え出した。喉が、ひくひくと、引き攣れる。
笑おうとした。
笑わなきゃ、と思った。
笑って、「大丈夫だよ」と言わなきゃ、と。
けれど、唇は、言うことを聞かなかった。口角は、持ち上がる前に、ぐしゃりと崩れた。笑顔を作る筋肉が、いつの間にか、どこかで、切れてしまったかのように。
「……ごめん、せんぱい」
「謝らなくて、いいのよ」
「だって」
「謝らなくて、いいの」
芹香は、朔夜の頭を、ぎゅうと、胸に抱き寄せた。
柔らかな腕のなかで、朔夜の頬が、芹香の鎖骨に、押しつけられる。心臓の音が、聞こえた。
とく。
とく。
とく。
朝、道場で聞いた、あの、落ち着いたリズム。
一度も乱れない、同じ拍。
いや、違う。
今は、ほんの少しだけ、速い。
芹香の鼓動も、確かに、速かった。
いつもは完璧に凪いでいる、その音が、いまは、わずかに乱れている。必死に、平静を装っている心臓の、必死さが、その音から、伝わってきた。
「……先輩の、音」
「ええ」
「ちょっと、速い」
「……聞こえちゃった?」
「うん。……こわかった?」
芹香は、答えなかった。
答えない代わりに、朔夜の背中に回した腕に、ほんの少しだけ、力を込めた。それが、答えだった。
「……こわかったわ」
やがて、ぽつり、と、芹香は言った。
「とても。……あなたを、撃つなんて」
「……うん」
「何度、頭の中で、練習したか分からない。何度やっても、指が、震えたわ」
「うん」
「それでも、撃つしかなかった。あなたを失うより、ずっと、マシだったから」
朔夜は、芹香の肩に、顔を埋めたまま、小さく頷いた。
その肩の布が、涙で、湿っていく。
「……ありがとう、先輩」
「いいえ」
「撃ってくれて、ありがとう」
「……ええ」
芹香の声が、ほんの少し、震えた。
それが、泣いているせいなのか、笑っているせいなのか、朔夜には、分からなかった。分からないまま、二人は、崩れた床の真ん中で、しばらく、動かなかった。
水の滴る音だけが、ぽた、ぽた、と、続いていた。
*
空気が、冷えていく。
暴走の熱が引いたあとの測定場は、驚くほど、静かに、冷えきっていった。
鼻をつくのは、焦げたコンクリートの匂いだった。炭のような、石を焼いたような、乾いた、粉っぽい匂い。そこに、裂けた配管から漏れる蒸気の、湿った鉄の匂いが混じっている。そして、そのすべての底に、あの、甘ったるいオゾンの刺激臭が、薄く、しつこく、残っていた。
吸うたびに、喉の奥が、ひりひりと痛んだ。
朔夜は、芹香の腕の中から、ゆっくりと、顔を上げた。
そして、見た。
自分が、作り出したものを。
同心円の床は、もう、円の形をしていなかった。
中心から外側へ、大きく抉れた窪みが、すり鉢状に広がっている。直径は、二十メートル近く。その縁の、ほんの数メートル外側に、芹香が立っていた壁際が、辛うじて、残っている。窪みの内側は、きれいに、削り取られていた。断面が、鏡のように滑らかで、薄く、あの名前のない光の残滓が、ゆらゆらと、陽炎のように漂っている。
金属の杭は、一本も、残っていなかった。
壁の銀板は、半分以上が、剥がれ落ち、あるいは、ひしゃげて、その下のコンクリートを、むき出しにしている。刻まれた紋様は、大半が、焼き切れて、黒い煤の筋に変わっていた。天井からは、断線したケーブルが、蛇のように垂れ下がり、時折、ぱち、と火花を散らしている。
そして、観測窓。
厚い強化ガラスは、中央から無数のひびが走り、いまにも崩れそうな、白い蜘蛛の巣になっていた。その向こうの暗がりが、ところどころ、ぽっかりと、虚ろに欠けている。特に、左端。壁そのものが、ごっそりと、なくなっていた。
その欠けた縁から、白い埃が、ふわり、ふわり、と、静かに、舞い落ちてくる。
朔夜は、その光景から、目を逸らしたかった。
逸らせなかった。
逸らしてはいけない、と思った。
これが、自分だ。
これが、自分の中にいる、「もの」の、正体だ。
そう、目に、焼きつけなければならない、と。
(……笑って生きたいなんて)
(そんなの、私が、言っていいことなのかな)
ふっと、そんな考えが、胸をよぎった。
その考えを、芹香の腕の温かさが、辛うじて、押し留めていた。
――そのとき。
頭上から、視線が、降ってきた。
朔夜は、顔を上げた。
ひびだらけの観測窓の向こうに、人影が、残っていた。
先ほどまでの、十人以上の影は、いまは、ほとんど、いない。逃げたのか、倒れたのか、それとも、消えたのか。残っているのは、三つの影だけだった。
一つは、窓の際に、崩れかけの機器にしがみつくようにして、立つ、若い技術者だった。顔は、蒼白で、唇が、がたがたと震えている。眼鏡が、片方のレンズだけ、割れていた。その瞳は、朔夜を見ていたが、焦点が合っていない。恐怖が、瞳孔の奥で、凍りついている。
一つは、その隣で、床に膝をつき、胸を押さえて、荒い息を吐いている、年配の女だった。白衣の袖に、血が滲んでいる。ガラスの破片で、切ったのだろう。
そして、もう一つ。
窓の中央に、変わらず、立っている影があった。
灰色の髪。窪んだ眼窩。胸に並ぶ、三つの金の徽章。
高官の男だった。
彼は、一歩も、動いていなかった。
制服の肩に、白い埃が、薄く、積もっている。額に、細い血の筋が、一本、走っていた。その顔は、まだ、青ざめている。けれど、先ほどまでの、畏怖と陶酔のような色は、もう、そこにはなかった。
代わりに、そこにあったのは。
冷たい、澄んだ、「計算」の色だった。
彼の視線が、朔夜の上に、降りてくる。
朔夜は、その視線を、受け止めた。
受け止めて、そして、悟った。
さっきまでの視線とは、決定的に、何かが、変わっている。
値踏み、ではない。
もう、値踏みは、終わったのだ。
いまの視線は、決定を下す者の、それだった。
男の唇が、ゆっくりと、動いた。
スピーカーは、すでに、死んでいる。音は、ひび割れたガラスを透かして、くぐもって、かすかに、届いた。
「……記録を、取れ」
隣で、技術者が、びくりと肩を震わせた。
「で、ですが、機器は、すべて」
「手書きでいい。数値は、要らん。……起きたことを、見たままに、記せ」
「は……はい」
年配の女が、血のついた手で、懐から、小さな手帳を取り出した。ペンを握る指が、震えている。それでも、彼女は、書き始めた。
男は、その様子を、横目で、一瞥した。
それから、また、窓の下の朔夜へ、視線を戻す。
「……適合率、測定不能。出力、観測限界の外。制御、不可」
淡々と、独り言のように、呟く。
「ただし、外部からの、収束介入には、応じた」
彼の視線が、ほんの一瞬、芹香の手の中の、銀色の銃へ、移った。
「……一条芹香。魔導銃による、精密な、位相干渉。……面白い」
面白い。
その言葉が、冷たく、朔夜の肌に、触れた。
芹香の腕が、わずかに、強張った。
朔夜の背中を支える掌が、ぎゅ、と、布を握りしめる。
「あの……」
朔夜は、掠れた声で、窓に向かって、呼びかけた。
「あの、ごめんなさい。わたし、人が……」
男は、答えなかった。
答えないまま、ゆっくりと、窓から、一歩、下がった。
暗がりが、その姿を、呑み込んでいく。
最後に、彼の声だけが、ガラスの裂け目から、ほんの少しだけ、漏れた。
「……処置は、追って、通達する」
処置。
その二文字が、朔夜の鼓膜に、冷たい針のように、刺さった。
処置。
この組織が、秘密を守るために、何をしてきたか。目撃者に、何をしてきたか。口を滑らせた者に、何があったか。
朔夜は、知っている。
知った上で、ここにいる。
そう、思っていた。
けれど、「処置」という言葉の矛先が、自分自身へ向けられる可能性を、本当の意味で、考えたことは、なかったのかもしれない。
唇が、乾いた。
舌で舐めようとして、舌まで、乾いていることに気づいた。
足元の、断面の鏡のような窪みに、天井の火花が、ちらりと映った。その小さな光が、朔夜の足元で、ゆらり、と、揺れて、消えた。
窓の向こうの暗がりは、もう、何も、映していなかった。
いや。
まだ、誰かが、立っている。
暗がりの奥の、さらに奥。割れたガラスの影に、もうひとつの、細い影が。
眼鏡の縁だけが、一瞬、白く光った。
朔夜は、息を呑んだ。
(……鬼塚、教官?)
確かめる前に、その影は、すっと、闇の中へ、溶けて消えた。
*
「……立てる?」
芹香が、耳元で、囁いた。
朔夜は、少しだけ、考えた。
考えて、頷いた。
「うん。……たぶん」
「無理は、しなくていいの」
「だいじょうぶ。……あの、ここ、早く、出たい」
芹香は、何も言わずに、頷いた。
ゆっくりと、朔夜の身体を、床へ、降ろす。
素足が、コンクリートに触れた。
冷たい。
その冷たさが、膝まで駆け上がって、がくん、と、また、膝が折れそうになる。芹香の腕が、すかさず、脇の下へ入って、朔夜の身体を、支え直した。
「こう。……私に、寄りかかって」
「うん」
「足は、無理に、前に出さなくていいわ。引きずっても、いいの」
「……うん」
「ゆっくり、ね」
芹香は、朔夜の左腕を、自分の肩へ回させた。
右手は、朔夜の腰に添えて。左手には、まだ、魔導銃を握ったまま。その銃を、いつもの革のホルスターに、静かに、収める。かちり、と小さな音が、静寂のなかで、やけに大きく響いた。
二人は、歩き出した。
一歩。
朔夜の足が、ずるり、と床を擦った。
二歩。
芹香の歩幅が、朔夜に、合わせられる。
三歩。
窪みの縁を、慎重に、迂回していく。ひび割れたコンクリートの欠片が、足の裏に、ちくりと刺さった。その痛みが、むしろ、ありがたかった。痛いということは、ここに、自分の足が、ちゃんとある、ということだから。
更衣室の扉が、見えた。
半分、ひしゃげて、斜めに傾いている。
芹香が、片手で、その扉を押し開けた。
中は、無事だった。
ベンチも、ロッカーも、壁も。ただ、天井から、細かな埃が、ぱらぱらと降ってくるだけ。
そして、ベンチの上には、二本の、樫の棒が、転がっていた。
トンファー。
朔夜は、その二本を、見つめた。
ここだけ、何も、壊れていなかった。
朝、置いていったままの形で。
ごつ、と、鈍い音を立てて転がった、あのままの位置で。
まるで、朔夜の帰りを、待っていたかのように。
「……ああ」
朔夜の唇から、力のない声が、漏れた。
「いたんだ。……おまたせ」
芹香が、朔夜をベンチに座らせた。
朔夜は、震える手を伸ばして、トンファーの一本を、取った。
握る。
掌に、馴染んだ樫の重みが、返ってくる。木肌の、ざらりとした傷。いつ、どこで、誰と打ち合って付いたのかも、大抵、覚えている傷。握りの黒ずんだ艶。指の形に合わせて、すり減った、窪み。
その感触が、ゆっくりと、掌から、手首へ、腕へ、胸へと、染み込んでいった。
空洞だった胸の奥に、ぽつり、と、小さな温かさが、灯る。
朔夜は、そのトンファーを、ぎゅっと、胸に抱きしめた。
抱きしめて、肩を丸めて、顔を、棒の木肌に、押しつけた。
汗と、蝋と、樫の匂いが、した。
道場の匂い。
朝の、匂い。
「……大丈夫」
小さく、呟く。
「大丈夫、大丈夫。……まだ、私、ここにいる」
芹香が、膝をついて、朔夜の足元へ、しゃがみ込んだ。
汚れた素足を、自分の手で、そっと、拭う。いつの間にか、ポケットから取り出していた白いハンカチが、埃と、煤と、細かな血の筋を、ひとつずつ、拭い取っていく。朔夜の足の裏は、小さな切り傷で、赤く、にじんでいた。
「……先輩、ハンカチ、汚れちゃう」
「洗えば、いいわ」
「でも」
「いいの。……少し、じっとしていて」
芹香は、淡々と、朔夜の足に、応急の布を巻いていく。
その手つきは、いつもと、まったく、変わらなかった。
丁寧で、穏やかで、迷いがなかった。
まるで、ここが、地下の崩れた測定場ではなく、寮の自室のベッドの脇であるかのように。まるで、さっき、世界が壊れかけたことなど、なかったかのように。
朔夜は、その旋毛を、見下ろしていた。
栗色の髪の、ほどけた毛先が、肩の上で揺れている。傷だらけの白い頬に、睫毛の影が落ちている。その横顔が、あまりにも、あたたかくて。
朔夜は、思わず、口を開いていた。
「……ねえ、先輩」
「なあに」
「わたし、ここに、いていいのかな」
芹香の手が、止まった。
ほんの、一瞬。
それから、また、ゆっくりと、布の端を、結び留める。
「どうして、そんなことを、聞くの?」
「だって」
朔夜は、トンファーを抱きしめる腕に、力を込めた。
「わたし、また、人を……」
「まだ、決まったわけじゃないわ」
「でも、きっと」
「朔夜ちゃん」
芹香が、顔を上げた。
灰茶色の瞳が、朔夜を、まっすぐに、見つめた。
血と埃にまみれた、傷だらけの顔で。
それでも、その瞳は、静かに、揺るぎなく、輝いていた。
「あなたが、ここにいていいかどうかは、私が、決めることではないわ。……あの人たちが、決めることでも、ない」
「……」
「あなたが、決めるの」
「わたし、が?」
「ええ」
芹香は、結び終えた布の上から、朔夜の足を、そっと、両手で包み込んだ。
「あなたが、どう生きたいか。それだけが、答えよ」
朔夜は、答えられなかった。
唇が、震える。
喉の奥が、熱くなる。
どう生きたいか。
そんなこと、改めて、聞かれたことは、なかった。
ただ、毎日を、必死に、笑って、殴って、汗をかいて、過ごしてきた。それが、答えだと、思っていた。けれど、いま、問われているのは、もっと、深い場所の話だった。
壊すかもしれない、化け物の自分で。
それでも、生きていくのか。
生きていて、いいのか。
「……わたし、ね」
やがて、朔夜は、ぽつり、と、口を開いた。
「ほんとうは、殴りたいだけなんだ」
「ええ」
「トンファー持って、道場で、みんなと、ぶつかって。痛いなって、笑って。汗かいて、ごはん食べて。……それだけで、よかったの」
「知っているわ」
「でも、そうじゃ、ないんだよね。わたしの中に、もう一つ、いて」
「ええ」
「それも、わたし、なんだよね」
声が、細く、揺れた。
「いなくなって、くれたら、いいのに。ずっと、そう思ってた。……でも、さっき、分かったの」
「何を?」
「いなくならない。ずっと、いる。わたしが、死ぬまで」
芹香の瞳が、わずかに、見開かれた。
朔夜は、その瞳を、見返して、少しだけ、笑った。
泣き腫らした目で。
頬に、涙の筋を残したまま。
それは、さっきの、崩れた笑みとは、違った。
不格好で、でも、どこか、腹を据えたような、静かな笑みだった。
「だったら、仲良く、するしかないよね」
「……朔夜ちゃん」
「だって、一生、一緒なんだもん。毎朝、洗面所で、顔洗って、鏡の中の自分に、『今日もよろしく』って言ってるのと、おんなじ。……あの子にも、言わなきゃ」
「あの子」
「うん。わたしの中の、あの子」
朔夜は、自分の胸の真ん中を、拳で、とん、と叩いた。
「『今日もよろしく』って」
芹香は、しばらく、何も言わなかった。
ただ、朔夜の顔を、じっと、見つめていた。
それから、ふ、と、吐息のような笑みを、こぼした。
その笑みは、いつもの、柔らかな笑みとは、少しだけ、違っていた。目尻が、ほんのり、赤く染まっている。睫毛が、濡れて、光っている。
「……あなたって、本当に」
「ん?」
「どうして、そんなふうに、強いの」
「えー、強くないよ。さっきまで、めそめそ泣いてたし」
「そういうことでは、ないわ」
芹香は、首を横に振った。
それから、朔夜の両手を、トンファーごと、自分の両手で、包み込んだ。
「朔夜ちゃん」
「うん」
「私は、あなたの隣に、います」
静かな声だった。
けれど、その一言には、石を穿つような、重さがあった。
「あなたが、世界の敵になっても。あの人たちが、どんな『処置』を、決めても。……私は、あなたの隣に、立ちます」
「先輩……」
「私の銃は、あなたを、止めるためにある。そして、あなたを、守るためにも、ある。その両方を、私が、引き受けるわ」
「それ、先輩が、すごく、しんどくない?」
「いいえ」
芹香は、微笑んだ。
傷だらけの顔で、血の滲む唇で、穏やかに。
「私は、あなたの、『お母さん』ですもの」
「……聞き飽きたって、言ったくせに」
「言ったわね」
二人は、顔を見合わせた。
そして、同時に、ふふ、と笑った。
かすかな、笑い声だった。
崩れかけた地下の、埃の舞う更衣室で、二人の少女の笑い声が、小さく、小さく、響いた。
「……約束、してくれる?」
朔夜が、言った。
「何を?」
「わたし、頑張って、仲良くするから。あの子と。……もし、また、暴れちゃったら」
「ええ」
「また、止めて」
「ええ」
「何回でも」
「ええ。何回でも」
「……それで、わたし、先輩のこと、絶対、壊さないから」
芹香の瞳が、揺れた。
その揺れが、ひとしずく、涙になって、頬の傷の上を、静かに、伝い落ちた。
「……ええ。約束するわ」
芹香は、朔夜の額に、自分の額を、こつん、と、そっと、当てた。
「私たち、二人で、生きていきましょう」
「……うん」
「どんなに、重たい世界でも」
「うんっ」
「あなたが笑っていられるように、私が、隣にいる。私が笑っていられるように、あなたが、隣にいてくれる。……それで、十分よ」
朔夜は、頷いた。
額と額が、触れ合っている。
互いの吐息が、混じり合って、小さな、白い雲になって、二人の間で、ふわりと溶けた。
*
階段を、上る。
一段、一段。
B3から、B2へ。
朔夜は、芹香の肩に、片腕を預けたまま、重たい足を、引きずるように、持ち上げていた。足の裏の布が、コンクリートの段を踏むたびに、じわりと、傷が痛む。けれど、その痛みも、いまは、ありがたかった。
左手に、トンファーを、二本とも、握っている。
もう、腰の後ろには、差さなかった。握ったまま、離したくなかった。
手すりに、右手を滑らせる。
金属の冷たさ。塗装の剥げたところの、ざらつき。
さっきと、同じ手すりだ。
同じ、階段。同じ、青白い蛍光灯。同じ、錆と、オゾンの匂い。
それなのに、まったく、違う場所のように感じられた。
朔夜が、変わったのだ。
降りてくるときの自分は、ここが、重たい世界の入口であることを、薄々、知りながら、見ないふりをしていた。いまの自分は、その重さを、正面から見つめてしまった。見つめて、それでも、上り階段を、一歩ずつ、上っている。
B2。
白いペンキの数字が、また、通り過ぎる。
「……ねえ、先輩」
「なあに」
「朝ごはん、食べられるかな」
芹香が、きょとんと、目を瞬いた。
それから、ふっと、吹き出した。
「……あなたって、人は」
「だって、お腹、空いたんだもん」
「あんなことがあった直後に」
「あんなことがあったから、だよ。たぶん」
朔夜は、むくれたように言った。けれど、その頬は、わずかに、緩んでいた。
「身体、すごく、空っぽなんだ。何か、入れないと、また、ふらふらして、倒れちゃいそう」
「そうね。……確かに、道理だわ」
「焼き鮭、残ってるかな」
「事務官の方が、測定後に支給、と仰っていたから、おそらく、別に用意されるのでしょうけれど」
「えー、冷めてるやつ、やだなあ」
「文句を言わないの」
「はあい」
二人の声が、狭い階段に、小さく、反響する。
その声が、まだ、確かに、「日常」の音を、保っていることが、朔夜には、不思議で、嬉しかった。
B1。
最後の踊り場を、折り返す。
目の前に、灰色の鉄の扉が、あった。
朝、閂が引き抜かれた扉。
朔夜は、認識票を、端末にかざした。
ぴ。
重い電子音のあと、がちん、と、閂の外れる音が、連なった。
一つ。二つ。三つ。四つ。五つ。
扉が、ゆっくりと、内側へ、開いていく。
その隙間から、光が、差し込んできた。
白く、柔らかく、そして、あたたかい光。
朝の光だ。
朔夜は、思わず、目を細めた。
冷えきっていた頬に、その光が、じわり、と触れる。長い間、暗闇にいた肌に、陽の熱が、染み込んでいく。まつ毛に残っていた涙の名残が、光を受けて、きらりと、七色に滲んだ。
同時に、匂いが、来た。
味噌汁の匂い。炊きたての米の匂い。焼き魚の、香ばしい脂の匂い。
食堂から流れてくる、朝の匂いだ。
朔夜の腹が、きゅう、と、大きく鳴った。
「……聞こえたわよ」
「もう、いいよ、聞こえても!」
朔夜は、顔を赤くして、笑った。
今度の笑いは、頬の筋肉ではなく、お腹の底から、自然に、湧き上がってきた。ぷっ、と、息が漏れて、肩が揺れる。その笑いが、止まらなくなって、朔夜は、芹香の肩に、額を押し当てて、くすくすと、笑い続けた。
芹香も、つられて、笑った。
二人は、扉の前で、傷だらけのまま、泥だらけのまま、しばらく、笑っていた。
扉の外へ、足を、踏み出す。
廊下の石の床は、朝の陽に、ほんのりと、温まっていた。
窓から、斜めに、金色の光が、いくつも差し込んでいる。その光の筋の中を、細かな埃が、きらきらと、舞っていた。朝の、いつもの廊下。いつもの、寮舎。いつもの、世界。
その世界の中を、朔夜は、一歩、また一歩と、歩いていく。
ふと、立ち止まった。
廊下の壁に、あの額が、掛かっていた。
――『秩序は、美しさに先立つ』
初代長官の、墨痕の太い、文字。
朔夜は、その文字を、じっと、見上げた。
今朝は、よく分からなかった。
秩序と美しさと、どっちが先でも、別にいいじゃないか、と。
いまも、やっぱり、よく分からない。
けれど、ほんの少しだけ、分かった気がした。
秩序は、壊れやすい。
美しさも、壊れやすい。
壊れやすいものを、壊れやすいまま、それでも、守ろうとする誰かの手が、あって。
そのために、先に、立ち上がる誰かが、いて。
そういう、ことなのかも、しれない。
(……なんて。私に、難しいことは、わかんないけどね)
心の中で、肩をすくめる。
隣で、芹香が、静かに、待ってくれていた。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
朔夜は、首を振って、芹香を、見上げた。
見上げた先で、芹香の顔に、朝の光が、柔らかく、当たっていた。
傷だらけの頬。ほどけた髪。血の滲む唇。
それでも、その顔は、朔夜が知る、世界でいちばん、安心できる顔だった。
「先輩」
「なあに」
「今日も、よろしく」
芹香は、きょとんとして、それから、目を細めた。
「……ええ。こちらこそ」
「あ、そうだ。もうひとつ」
「なあに?」
「あとで、手当て、わたしがやるからね。先輩の、腕と、ほっぺた」
「いいわよ、そんな」
「やる!」
「……困った子ね」
「だって、お母さんのこと、ほっとけないもん」
芹香は、堪えきれずに、くつくつと、笑った。
その笑い声が、朝の廊下に、澄んで、響く。
朔夜は、握ったトンファーの、握りの黒ずんだ艶を、親指で、そっと、撫でた。
胸の奥の、空洞が、まだ、ひりひりと痛んでいる。
恐怖も、後悔も、消えてはいない。
窓の向こうから降ってきた、あの、冷たい「処置」の二文字は、これから先、朔夜の背中に、影のように、ついて回るのだろう。上の人たちは、朔夜を、決して、ただの少女として、見てはくれない。道場の壁際の三人の目は、これからも、遠いままかもしれない。
それでも。
それでも、朔夜は、顔を上げた。
朝の光の中で、琥珀色の瞳が、きらりと、輝く。
そこには、まだ、あの名前のない色の残り火が、ほんの一粒、潜んでいる。それも、含めて。
全部、含めて、朔夜は、笑った。
にっと、歯を見せて。
屈託なく、太陽のように。
けれど、その笑顔は、今朝の、洗面所の鏡の前で見せた笑顔とは、少し、違っていた。
重たいものを、軽く持つ、笑顔ではなく。
重たいものを、重たいと知った上で、それでも、持ち上げて、歩いていく。
そういう人間の、笑顔だった。
「さあ、行こっ、先輩!」
「ええ。……走らないでね、廊下は」
「走らないってば!」
言った端から、朔夜の足は、半歩、前へ、弾んでいた。
慌てて、踵に力を込める。
背後で、芹香が、くすりと笑った。
二人の足音が、朝の廊下に、重なって、遠ざかっていく。
ことん、ことん、と、軽く。
そして、その、ずっと、ずっと、下で。
崩れた測定場の、剥き出しになった断面の奥底で。
誰にも、見られないまま。
鏡のように滑らかな虚無の底が、ほんの一瞬だけ、脈打つように、淡く、光った。
眠る獣の、寝返りのように。
あるいは、まだ開ききらない瞼の、かすかな、揺れのように。
光は、すぐに、消えた。
朝の鐘が、遠くで、鳴り始めた。
――第1章 了
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