第2章 ― 安全装置と呼ばれる少女たち
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
五時四十分。
朔夜は、一睡もしていなかった。
天井板の木目が、窓のカーテンの隙間から差し込む薄青い光のなかで、ゆっくりと浮かび上がってくる。節がひとつ、渦を巻くように黒ずんでいる。入寮した最初の夜に「目玉みたい」と思った、あの節だ。
今朝は、「おはよ」と言わなかった。
言えなかった。
目玉は、昨日と同じ場所から、同じように、朔夜を見下ろしている。何も言わず、何も責めず、ただ、そこにある。それが、いまの朔夜には、かえって堪えた。責めてくれたほうが、まだ楽だった。
吐く息が、白い。
十月の、北の山裾の夜明けは、石の床から冷えを吸い上げて、部屋の空気を、薄い氷のように張りつめさせている。毛布の外へ出した指先は、じんと痺れていた。けれど、その痺れを「好き」だとは、もう思えなかった。眠気の膜を剥がしてくれる冷たさのはずが、今朝は、眠っていない身体に、ただ、容赦なく染みるだけだった。
朔夜は、仰向けのまま、両手を握っては開いた。
一度。二度。三度。
関節が、ぱきりと鳴る。
その音が、昨日の、あの、ガラスの裂ける音と、重なった。
ぱき。
手が、止まった。
指が、握りかけの形のまま、宙で固まる。掌の内側に、あの、名前のない色の光が、まだ、薄く貼りついているような錯覚があった。見えるはずがない。見えるはずがないのに、目を凝らすと、爪の先が、ほんのり、紫がかって見える気がした。
(……気のせい)
(気のせい、気のせい)
唇の内側で、呟く。
呟いた声が、喉の奥でかさかさと鳴った。
足の裏が、ずきずきと脈打っている。昨夜、芹香が巻き直してくれた包帯の下で、細かな切り傷が、熱を持っていた。左の手首も、まだ、曲げるとぴりっと痛む。全身の筋肉が、濡れた砂袋のように重くて、ベッドの中に、身体のかたちのまま、沈み込んでいる。
横を向いた。
二段ベッドの下段。
同室の訓練生は、壁のほうを向いて、丸くなっていた。毛布を頭まで引き上げて、ぴくりとも動かない。寝息が、聞こえない。
起きているのだ。
朔夜が、毛布から手を出したときから。
ずっと、息を殺して、起きている。
朔夜は、それに、気づいていた。
気づいていて、声をかけなかった。かけられなかった。「おはよう」の三文字が、舌の上で、鉛のように、固まっていた。
昨日までは、この子が、寝ぼけ眼で「ん、もう朝……?」と呟くのを聞いて、笑っていたのに。
朔夜は、そっと、身体を起こした。
ベッドが、きし、と鳴る。
下段の毛布の山が、ほんの少しだけ、強張った。
朔夜は、息を止めて、床へ降りた。
素足の裏に、石の冷たさが、真っ直ぐに突き刺さる。包帯の布が、床の冷気を吸って、じわりと、傷に染みた。「っ」と、声が漏れそうになるのを、奥歯で噛み殺す。
爪先立ちで、扉へ向かった。
背中に、視線を、感じた気がした。
振り返らなかった。
*
廊下は、暗く、長い。
非常灯の緑がかった光が、床に落ちている。等間隔に並んだ扉が、歯の抜けた櫛のように、奥へ、奥へと続いている。昨日と、何も変わっていない廊下のはずだった。
けれど、朔夜には、昨日とは、まったく違うものに見えた。
扉の向こうに、誰かが、いる。
どの部屋にも、人がいる。眠っているのか、起きているのか、分からない。けれど、扉の向こうの気配が、廊下を歩く朔夜の背中を、一枚ずつ、じっと、通過させていく。
足音を、立てないように、歩いた。
立てないように、と思うほど、包帯の巻かれた足が、ぺたり、ぺたり、と、床を鳴らした。その音が、静まり返った廊下で、やけに大きく響く。
ある扉の前を通り過ぎたとき、中から、小さな衣擦れの音がした。
続いて、ごく小さな、息を呑む音。
朔夜は、足を止めなかった。
止めたら、扉が、開いてしまいそうな気がしたから。開いて、その向こうの誰かと、目が合ってしまいそうな気がしたから。
壁には、額装された訓示が、掛かっていた。
――『秩序は、美しさに先立つ』
朔夜は、その文字を、見上げなかった。
洗面所の扉を、押す。
蛍光灯のスイッチを、入れた。
ぱち、ぱち、と明滅して、青白い光が、タイル張りの壁を照らし出す。蛇口が、四つ。鏡が、四枚。昨日と、同じ配置。朔夜は、いちばん奥の蛇口の前へ、歩いていった。
蛇口をひねると、水が管の奥で、ごぼりと鳴った。
それから、勢いよく、流れ出す。
昨日までは、この音が、隣の部屋にまで響いていると、芹香に笑われていた。今朝は、水の勢いを、最大にはしなかった。半分ほどに、絞った。
両手で、受ける。
冷たい。
指の骨まで、凍みる。
その水を、顔に、押し当てた。
叩きつける力は、出なかった。ただ、冷たさに、顔を、ゆっくりと、沈めた。まぶたの裏が、じんと痛い。頬の皮膚が、きゅうっと縮む。それでも、眠っていない頭の芯は、ぼんやりと霞んだままだった。
顔を、上げる。
曇り気味の鏡の中に、少女がいた。
黒髪のボブカットは、昨夜、梳かすのを忘れて、あちこちが跳ねている。目の下に、青黒い隈が、くっきりと浮かんでいた。頬が、少しこけたように見える。唇が、乾いて、ひび割れている。
そして、瞳は。
琥珀色だった。
いつもの、陽だまりのような、あたたかな色。
朔夜は、その瞳を、じっと、見つめた。
見つめて、見つめて、見つめて――
そのいちばん奥に、昨日、見てしまった、一粒の残り火を、探した。
見つからなかった。
見つからなかったことに、ほっとして、同時に、ぞっとした。
いないのではない。
見えないだけだ。
昨日、自分に言い聞かせた言葉が、胸の中で、ゆっくりと、浮かび上がる。
『だったら、仲良く、するしかないよね』
『毎朝、鏡の中の自分に、「今日もよろしく」って言ってるのと、おんなじ』
『あの子にも、言わなきゃ』
朔夜は、息を吸った。
唇を、動かす。
「……今日も、よろしく」
声は、かすれて、小さかった。
鏡の中の少女も、同じ形に、唇を動かした。
朔夜は、その鏡に向かって、にっと、笑ってみせた。
口角を、持ち上げる。目を、細める。白い歯を、見せる。
笑顔は、作れた。
ちゃんと、作れた。
けれど、その笑顔は、昨日までの、陽だまりのような笑顔とは、どこかが、違った。頬の筋肉が、ほんの少しだけ、強張っている。目尻の皺が、ぎこちない。鏡の中の少女は、「笑っている」というより、「笑顔の形を、必死に守っている」ように見えた。
朔夜は、その自分から、目を逸らした。
逸らして、もう一度、水を、顔にかけた。
洗面所を出るとき、廊下の暗がりから、誰かの視線が、すっと、逃げていく気配があった。
朔夜は、気づかなかったふりをして、部屋へ戻った。
*
食堂は、広かった。
天井の高い、長方形の空間に、長い木のテーブルが、何列も並んでいる。窓には、朝の厨房の湯気が、白く、曇りを張っていた。味噌汁の匂い。炊きたての米の匂い。焼き魚の脂の匂い。昨日と同じ、朝の匂いだった。
昨日と、同じはずだった。
朔夜が、入口に、一歩、足を踏み入れた瞬間。
食堂の、音が、止まった。
完全に止まったわけでは、ない。食器の触れ合う音も、椅子の軋みも、遠くの厨房の水音も、まだ聞こえている。けれど、人の声だけが、ふっと、途切れた。さっきまで、あちこちのテーブルで交わされていた、朝の、ささやかなお喋りが、一斉に、息を潜めた。
朔夜は、入口で、立ち止まった。
見られている。
昨日の、道場の壁際の、三人の視線とは、まるで、違った。
あれは、「透明な膜」だった。
今日のこれは、膜ではない。
壁だ。
分厚い、冷たい、石の壁が、朔夜と食堂の間に、音もなく、せり上がっている。
視線は、朔夜を、見ていなかった。
見ないようにしている、という視線だった。誰もが、朔夜の頭の上、肩の横、足元のあたりを、ちらり、ちらりと、盗むように、掠めていく。真正面から、顔を見る者は、ひとりもいない。誰かの箸が、止まったまま、宙で、固まっていた。
朔夜は、にっこりと、笑った。
「おはようございますっ!」
声は、思ったよりも、うまく出た。
食堂に、その声が、響く。
返事は、なかった。
一拍。二拍。
それから、どこかの席から、小さな、小さな、「……おはよう」という声が、返ってきた。誰の声かは、分からなかった。分からないまま、すぐに、またすぐに、静けさが戻った。
朔夜は、そのまま、配膳台へ向かった。
トレイを、取る。
金属の、冷たい縁。
厨房の窓口に、湯気の向こうから、割烹着姿の調理員が、顔を覗かせた。四十がらみの、丸顔の女性だった。いつもは、「朔夜ちゃん、今日も早いねえ!」と、真っ先に声をかけてくれる人だった。
今朝の彼女は、朔夜と目が合うと、一瞬、笑顔の形を作りかけて、途中で、固まった。
「……おはようございます」
「あ、ああ……おはよう、橘さん」
呼び方が、変わっていた。
「朔夜ちゃん」から、「橘さん」へ。
たったそれだけの違いが、朔夜の胸の真ん中に、冷たい針となって、刺さった。
「焼き鮭、いただけますか?」
「ええ、ええ。……はい、どうぞ」
差し出された皿の上には、こんがりと焼けた鮭が、一切れ、載っていた。いつもより、少し、小さい。いや、そう見えるだけかもしれない。調理員の手が、皿を渡すとき、ほんの少し、震えていた。
「……ありがとうございます」
朔夜は、皿を受け取って、笑った。
笑って、ご飯と、味噌汁と、漬物を、順番に、トレイに載せた。味噌汁の椀から、湯気が立つ。その湯気が、朔夜の頬に、ふわりと触れた。温かい。けれど、胸の奥の冷たさは、少しも、溶けなかった。
トレイを持って、食堂の中を、見渡す。
長いテーブルの、いちばん端の席が、ぽつんと、空いていた。
いや。
空いている、というより、「空けられている」のだった。
その席の周りだけ、テーブルの両脇に、二席ずつ、誰も座っていない。まるで、見えない円が、床に描かれているかのように。その円の外側にだけ、少女たちが、ぎゅうぎゅうに詰まって座っている。
朔夜は、その空白に向かって、歩いていった。
歩く間、何十人もの視線が、朔夜の足元で、ぱっと逸れていく。
トレイを、置く。
椅子を、引く。
ぎい、と、木の脚が、床を擦った。
その小さな音が、食堂中に、聞こえるほど、大きく響いた。
腰を下ろす。
目の前に、湯気の立つ味噌汁。焼き鮭。白いご飯。朔夜は、手を合わせた。
「いただきます」
小さな声で、呟く。
箸を、取った。
鮭の身を、ほぐす。皮が、ぱりっと音を立てる。口へ運ぶ。塩気と、脂の甘みが、舌に広がった。
味が、しなかった。
いや、味は、している。確かに、鮭の味が、している。けれど、舌が、それを、遠くで感じているようだった。まるで、ガラスの向こうで、誰かが、食事をしているのを、眺めているかのように。
飲み込む。
喉が、ごくり、と鳴った。
その音を、隣のテーブルの誰かが、聞いたかもしれない。そう思った瞬間、朔夜は、咀嚼するのが、怖くなった。何をしても、音が出る。呼吸をしても、箸を置いても、椅子を軋ませても、すべてが、食堂中に、聞かれている。
そのとき。
近くのテーブルから、小さな、ひそひそ声が、流れてきた。
「……三人、らしいよ」
「え、本当に?」
「昨日の夜、技術部の人が、廊下で話してたの、聞いたって。……ひとりは、記録係の人で、あとの二人は」
「やめて、聞きたくない」
「だって、観測室の左半分が、ごっそり」
「やめてってば!」
ひそひそ声が、ぴたりと止まる。
朔夜は、箸を、止めていた。
鮭の身が、箸の先から、ぽろりと、皿へ、落ちた。
三人。
三人。
昨日、あの瞬間まで、確かに、そこに立っていた人たち。ガラスの向こうの、暗がりで、朔夜を見下ろしていた誰か。
名前も、顔も、知らない。
知らないまま、朔夜は、その人たちを、世界から、消した。
(……三人)
頭の中で、数字が、ごうん、と鳴った。
去年の夏の、数字も、重なる。
胸の空洞が、ずきん、と、痛んだ。
喉の奥から、何かが、込み上げてくる。吐き気に似た、熱い塊。朔夜は、ぎゅっと唇を結んで、それを、呑み込んだ。呑み込んだつもりでも、舌の奥に、酸っぱい味が、残った。
味噌汁の椀に、両手を添える。
温かい。
陶器の熱が、掌に、じんわりと染み込んでくる。その熱だけが、朔夜を、「いま、ここ」に、繋ぎとめていた。
――そのとき。
食堂の入口が、ふっと、静かになった。
先ほどの静けさとは、質が違う。さっきのは、「怖れ」の静けさだった。今度のは、「敬意」と「戸惑い」が、入り混じった静けさだった。
朔夜は、顔を上げた。
入口に、芹香が立っていた。
制服を、きちんと着込んでいる。襟元には、皺ひとつない。ほどけていた栗色の髪は、また、丁寧な三つ編みに結い直されて、肩から胸へ流れている。けれど、その制服の右袖の下から、白い包帯が、覗いていた。頬にも、小さな絆創膏が、二枚、貼られている。
食堂の少女たちの視線が、芹香の傷へ、吸い寄せられた。
それから、朔夜の席へ、移っていく。
視線が、語っていた。
――あの傷は、あの子が、つけたのだ。
そういう、無言の、結論だった。
芹香は、その視線の雨の中を、まっすぐに、歩いてきた。
背筋を伸ばして。顎を引いて。一歩一歩、床を踏む音が、ほとんど立たない。いつもの、迷いのない足取りで。
彼女は、トレイを、取った。
調理員に、柔らかく会釈をして、焼き鮭と、味噌汁と、ご飯を、受け取る。調理員が、慌てて、深く頭を下げ返した。
芹香は、トレイを持って、朔夜のほうへ、歩いてきた。
朔夜の、向かい側の席の前で、足を止める。
見えない円の、ど真ん中。
誰もが、避けている、その空白の、中。
「ここ、空いているかしら」
芹香は、穏やかに、微笑んで、言った。
声は、小さかった。けれど、静まり返った食堂に、澄んで、よく通った。
朔夜は、一瞬、言葉を失った。
それから、慌てて、頷く。
「あ、うん! 空いてる、空いてるよ、先輩!」
「ありがとう」
芹香は、トレイを置き、椅子を引いて、静かに腰を下ろした。
その瞬間、食堂のあちこちで、誰かが、息を呑む音が、した。
芹香は、構わなかった。
手を合わせて、「いただきます」と、小さく言う。それから、箸を取って、鮭の身を、丁寧に、ほぐし始めた。まるで、ここが、いつもの、朝の食堂であるかのように。まるで、周りの視線など、最初から、存在しないかのように。
「……先輩」
「なあに」
「腕、痛くない?」
「ええ。昨夜、あなたが、きれいに巻き直してくれたもの」
「でも、動かすと」
「平気よ。それより、朔夜ちゃん」
芹香の灰茶色の瞳が、朔夜の皿の上へ、ちらりと、移った。
「鮭、ほとんど、減っていないわね」
「……あ」
「食べなさい」
「でも、あんまり、味が」
「味がしなくても、食べるの。身体は、動かすための道具よ。燃料を入れなければ、動かないわ」
「……うん」
「いい子ね」
芹香は、自分の箸で、鮭の身を、一口分、摘まんだ。
そして、それを、朔夜の皿の上の、白いご飯の、ちょうど真ん中に、ぽんと載せた。
「はい。これ、一緒に」
「え、先輩の分」
「私の分は、まだ、あるわ。……ほら、あーん、まではしないから、自分で食べなさい」
「しないんだ……」
「してほしいの?」
「してほしくない! 絶対! 恥ずかしい!」
朔夜は、慌てて、箸を取った。
顔が、かっと、熱くなる。耳の先まで、赤い。
その様子を見て、芹香が、くすりと笑った。
本当に、小さな笑いだった。目尻を、ほんの少し下げただけの。けれど、その笑いは、食堂の、冷え切った空気を、ほんの少しだけ、揺らした。
朔夜は、ご飯の上の鮭を、口に運んだ。
咀嚼する。
塩気が、舌に広がる。
今度は、味が、した。
ちゃんと、した。
鮭の脂の、まろやかな甘み。ご飯の、ほのかな甘さ。それが、口の中で、混ざり合う。
「……おいしい」
「そう。よかった」
「……先輩」
「なあに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
芹香は、それ以上、何も言わなかった。
二人は、黙って、朝食を食べた。
食堂の少女たちは、遠巻きに、そんな二人を、眺めていた。
その視線には、昨日までにはなかった、新しい色が、混じっていた。
恐れ。
そして、「あの人は、よく、あんな隣に座れるな」という、畏怖にも似た、驚き。
世界を砕く少女の、すぐ隣で、微笑んで、鮭の身をほぐしている人。
それは、勇敢さというより、ほとんど、異常なものを見るような、目だった。
芹香は、その視線に、気づいていた。
気づいた上で、静かに、味噌汁を啜っていた。
*
椀が、空になりかけた頃。
食堂の入口で、硬い靴音が、鳴った。
こつ、こつ、こつ。
石の床を、規則正しく打つ、革靴の音。
朔夜は、その音の主を、顔を見る前に、悟った。
昨日の朝、道場の敷居の外で、足を揃えて立っていた、あの、灰色の制服の事務官だった。胸に、銀色の小さな徽章。黒革のファイルを、胸に抱えている。
彼女は、食堂の中へ、入ってこなかった。
敷居の、手前で、立ち止まった。
そして、よく通る、平坦な声で、言った。
「橘朔夜訓練生。一条芹香訓練生」
食堂の空気が、ぴんと、張りつめた。
「両名、〇八〇〇までに、本館上階、第三会議室へ出頭すること。……朝食は、そのまま、お済ませください」
朔夜は、箸を、置いた。
芹香も、静かに、箸を置く。
二人の視線が、テーブルの上で、交わった。
灰茶色の瞳が、朔夜を、見つめている。そこに、驚きは、なかった。ただ、深い、静かな、覚悟のような色が、揺れていた。
「……来たわね」
「うん」
「大丈夫よ。……行きましょう」
芹香は、ゆっくりと立ち上がった。
トレイを、返却口へ運ぶ。朔夜も、慌てて、後に続いた。味噌汁の椀に、まだ、少し、汁が残っていた。飲み干す余裕は、なかった。
食堂を出るとき、背中に、何十もの視線が、刺さるのを感じた。
朔夜は、振り返らなかった。
ただ、事務官の後ろに、芹香と並んで、歩いた。
*
本館は、寮舎とは、別の建物だった。
渡り廊下を抜けて、重い扉を、いくつもくぐった先。外壁は、灰色の石で組まれ、窓は、鉄格子に覆われている。中に入ると、空気が、変わった。
寮舎の、少女たちの暮らしの匂いが、消えた。
代わりに、紙と、インクと、床のワックスと、乾いた金属の匂いが、満ちている。廊下には、赤い絨毯が敷かれていた。厚くて、足音を、すべて、吸い込んでしまう。壁には、歴代の長官の肖像画が、等間隔に並んでいる。厳しい顔、厳しい顔、厳しい顔。画布の中の目が、通り過ぎる二人を、じっと、追ってくる。
階段を、上る。
一段、一段。
昨日、地下へ降りた階段とは、反対に。
けれど、朔夜には、この階段が、地下の階段よりも、ずっと、長く感じられた。踏み込むたびに、膝の裏の筋が、きしきしと鳴る。包帯を巻いた足の裏が、赤い絨毯の毛足に、ちくちくと刺された。
「……ねえ、先輩」
「なあに」
「会議室って、行ったことある?」
「一度だけ。入寮して、すぐの頃に」
「どんなとこ?」
「窓のない部屋よ。長い机が、ひとつ。椅子が、たくさん。……あまり、居心地は、よくないわ」
「そっか」
「ええ」
芹香は、それ以上、言わなかった。
けれど、朔夜は、気づいていた。
芹香の指が、制服の袖の下で、小さく、握り込まれていることに。
灰色の事務官が、階段の最上段で、足を止めた。
目の前に、重厚な木の扉が、あった。
黒く塗られた、磨き込まれた扉。真鍮の取っ手が、鈍く、光っている。扉の上に、小さなプレートが、掲げられていた。
『第三会議室』
事務官は、扉を、二度、ノックした。
こん、こん。
乾いた音が、廊下に、吸い込まれる。
「……入れ」
中から、低い声が、返ってきた。
朔夜は、その声を、知っていた。
昨日、ガラスの向こうから、スピーカー越しに聞こえた、あの、年配の、ゆっくりとした声。
事務官が、扉を、押し開けた。
そして、脇へ退き、二人に、先に入るよう、無言で促した。
朔夜は、息を吸った。
一度、芹香の顔を、ちらりと見る。
芹香は、小さく、頷いた。
朔夜は、足を、踏み入れた。
部屋は、芹香の言った通りだった。
窓が、ない。
壁は、濃い茶色の羽目板で覆われ、天井には、白い照明が、ひとつだけ、冷たく灯っている。部屋の中央に、黒い、長大なテーブルが、鎮座していた。その周りに、革張りの椅子が、十脚ほど。
そのうち、三脚だけが、埋まっていた。
テーブルの向こう側、中央に、あの男が、座っていた。
灰色の髪。窪んだ眼窩。濃い藍色の、仕立てのいい制服。胸に並ぶ、三つの金の徽章。額の傷には、小さな白いガーゼが、貼られている。
彼の左右に、もう二人。
右側には、五十がらみの、でっぷりと太った男。禿げた頭が、照明を鈍く反射している。丸い眼鏡の奥の、小さな目が、細められていた。
左側には、四十代の、痩せた女。黒髪を、きつく、後ろへ引っ詰めている。唇が薄く、頬骨が、鋭い。膝の上に、分厚い書類の束を載せていた。
そして、部屋の隅の壁際に、もう一人。
鬼塚教官が、立っていた。
濃紺の教官服。背筋を、まっすぐに伸ばし、両腕を後ろで組んでいる。銀縁の眼鏡の奥の目は、床の一点を、見つめていた。朔夜が入ってきたことに、気づいているはずなのに、視線を、上げなかった。
「橘朔夜、一条芹香。参りました」
芹香が、先に、口を開いた。
声は、澄んで、淀みがなかった。
朔夜も、慌てて、背筋を伸ばす。
「た、橘朔夜、参りましたっ」
「座りなさい」
灰色の髪の男が、言った。
朔夜と芹香は、テーブルの手前の、二脚の椅子に、並んで腰を下ろした。革の座面が、ひやりと、冷たい。足の裏の包帯が、床に擦れて、小さく、鳴った。
沈黙が、落ちた。
誰も、何も、言わない。
男は、テーブルの上に、両手を組んで、朔夜を、じっと見つめている。その視線は、昨日の、ガラス越しの視線と、同じだった。値踏みでも、畏怖でもない。決定を下した者の、静かな、冷たい、視線。
朔夜は、その視線に、笑顔で応えようとした。
口角が、持ち上がらなかった。
いつもの反射が、働かない。頬の筋肉が、凍りついたように、動かなかった。
「……まず」
男が、口を開いた。
「昨日の件について。我々の側の、認識を、伝えておく」
「……はい」
「観測室にいた職員、計十一名のうち、死亡が二名。行方不明が一名。重傷が三名。軽傷が四名。残る一名は、無傷」
淡々とした、数字の羅列だった。
朔夜の胸が、きゅうう、と、縮んだ。
隣で、芹香の指が、ぴくり、と動いた。
「行方不明の一名は、現在、捜索中だが、おそらく、発見は困難だろう。……君が、昨日、空間ごと、削り取ったのでね」
男は、そこで、言葉を、切った。
朔夜は、唇を、噛んだ。
噛んだ唇から、また、血の味がした。
「……ごめんなさい」
声が、勝手に、こぼれた。
「ごめんなさい。わたし、止めたかったんです。ほんとうに、止めたかったんです。でも」
「謝罪は、不要だ」
男は、冷たく、遮った。
「謝罪を、求めて、君をここへ呼んだのではない。……我々が、確認したいのは、事実だ」
「……事実」
「君の力は、君の意思では、制御できない。これは、昨日、証明された」
男は、朔夜の瞳を、真正面から、見据えた。
「そして、君の力は、この施設の防魔壁を、二十秒で、破壊した。第二測定場の防魔壁は、本部の最新技術の粋を集めた、最大級の防壁だ。それが、二十秒だ」
太った男が、小さく、鼻を鳴らした。
痩せた女が、膝の上の書類を、ぱらり、とめくった。
「……仮に、この寮舎の、居住区画で、同じことが起きたら」
男は、静かに、続けた。
「五百名の訓練生と、百二十名の職員が、一瞬で、消える。この国の、巫女の素質を持つ、若き人材の、およそ三割が、失われる計算だ」
朔夜は、目を、見開いた。
五百名。
百二十名。
食堂で、遠巻きに、朔夜を見ていた、あの少女たち。調理員の、丸顔の女性。同室の、毛布の中で、息を殺していた、あの子。
全員が。
一瞬で。
「…………」
声が、出なかった。
「我々は、その危険を、看過できない」
男は、そう言った。
それから、書類の束を、すっと、テーブルの上に、滑らせた。
紙が、黒い天板の上を、さらさらと、滑る音がした。
朔夜の目の前で、止まる。
表紙には、太い、黒い文字が、印字されていた。
――『特務観察派遣・辞令』
「読みなさい」
朔夜は、震える手で、その書類を、取り上げた。
紙の質感が、指の腹に、ざらりと、触れる。厚手の、上質な紙。端が、鋭く、折り目正しい。隣から、芹香が、そっと、その書類を、覗き込んだ。
文字を、目で、追う。
*
『辞令
橘朔夜訓練生を、本日付をもって、「特務観察対象」に指定する。
同訓練生は、通常の訓練課程を一時停止し、特務観察派遣として、下記の現場に赴き、実戦任務に従事するものとする。
任務地:旧・霧原ダム管理区画(第七類・怪異多発地帯)
任務内容:同区画内に潜む怪異個体の調査および排除
派遣期間:任務完遂まで(期限の定めなし)
随伴要員:一条芹香訓練生(魔導銃射手・抑制要員)
本任務における橘朔夜訓練生の処遇は、「特別待遇」に準ずる。
以上』
*
朔夜は、何度も、その文字を、読み返した。
特別待遇。
特務観察派遣。
実戦任務。
一語ずつ、意味は、分かる。けれど、それが、一つの文章として、頭の中に、入ってこなかった。
「……実戦、ですか」
「そうだ」
「わたしが、ですか」
「そうだ」
「でも、わたし、訓練生です。まだ、実戦に出たことは」
「だからこその、『特別待遇』だ」
男は、薄く、笑った。
笑った、のだと思う。唇の端が、ほんの、わずかに、持ち上がったから。けれど、その笑みは、少しも、温度を持っていなかった。
「通常、訓練生が、実戦に派遣されるまでには、三年を要する。卒業後の、各地の署への配属を経て、初めて、現場に立つ。……君は、その過程を、すべて、飛び越える」
「……はい」
「栄誉なことだ」
栄誉。
その言葉が、あまりにも、空虚に、響いた。
朔夜は、辞令の紙を、握る指に、力を込めた。紙が、くしゃり、と、小さく鳴った。
「霧原ダム、というのは」
芹香が、静かに、口を開いた。
「ええ。三年前に、旧体制の下で、閉鎖された施設ね。山間の、人里離れた、孤立した場所。……あの区画は、確か、第七類の指定で」
「ほう。よく知っているな、一条」
「第七類は、本来、正規の特務班が、十名以上の編成で、対処する等級です」
芹香の声は、平静だった。
平静すぎるほど、平静だった。
けれど、朔夜は、聞いていた。その声の底に、鋼のような、冷たい怒りが、沈んでいるのを。
「報告では」
男は、芹香の言葉を、聞き流すように、続けた。
「過去二か月間に、調査班が、三度、派遣された。全員、通信が、途絶している。生存の確認は、できていない」
痩せた女が、書類の一枚を、静かに、テーブルの上に、置いた。
そこには、六つの、顔写真が、並んでいた。
若い女たちの、笑顔の、写真。
その横に、赤いインクで、小さく、「消息不明」と、判が押されている。
朔夜は、その写真から、目を、逸らせなかった。
一番、左の少女は、笑っていた。
屈託なく、口を大きく開けて、笑っていた。丸い頬。八重歯。その笑顔が、昨日の朝、道場で、自分に向かって手を振っていた、同期の、誰かに、少しだけ、似ていた。
「……この人たちが」
「そうだ。……『処置』の対象は、彼女たちではない。怪異のほうだ。君は、それを、排除するのだ」
処置。
昨日、ガラスの向こうで、聞いた、あの、二文字。
朔夜は、悟った。
悟って、背筋が、凍った。
「処置は、追って、通達する」――あの言葉の、意味。
これだったのだ。
殺すのでも、閉じ込めるのでもない。
もっと、冷たい、合理的な、やり方。
(……私を、捨てるんだ)
頭の中で、その言葉が、ぽつりと、浮かんだ。
捨てる。
寮から、遠く離れた、山奥の、閉鎖されたダムへ。
十名以上の特務班が、全滅した、第七類の現場へ。
そこで、朔夜が、暴走して、あたり一帯を、消し飛ばしても、構わない。
そこで、朔夜が、怪異に、食い殺されて、帰ってこなくても、構わない。
どちらに、転んでも、この寮は、安全だ。
暴走のリスクは、遠くへ、運ばれる。
そして、もし、朔夜が、生きて帰ってきたなら。
そのときは、「実戦で、使える兵器」として、再評価される。
どちらに転んでも、組織は、損をしない。
完璧な、計算だった。
朔夜は、顔を、上げた。
灰色の髪の男の、窪んだ眼窩の奥の、小さな瞳を、じっと、見つめた。
そこに、悪意は、なかった。
憎しみも、ない。蔑みも、ない。
ただ、物を見る目が、あった。
使い道を、決めた、道具を見る目。
「……質問、して、いいですか」
朔夜の声は、掠れて、小さかった。
けれど、はっきりと、部屋に、響いた。
「許可する」
「わたしは、『特別待遇』に、なるんですよね。辞令に、書いてあります」
「そうだ」
「何が、特別なんですか」
部屋の空気が、ほんの少しだけ、揺れた。
太った男が、眼鏡の奥で、目を、細めた。痩せた女が、書類から、顔を上げた。壁際の鬼塚の指が、後ろで組んだ手の中で、ぴくり、と動いた。
灰色の髪の男は、数秒、黙っていた。
それから、ゆっくりと、答えた。
「まず、任務完遂までの、全寮制の規則の免除。外出、外泊の、自由。装備の、優先支給。そして」
男は、そこで、芹香のほうへ、視線を、移した。
「随伴要員として、一条芹香を、付ける。……君の、唯一の、『安全装置』だ」
安全装置。
その単語が、朔夜の耳に、冷たく、突き刺さった。
「彼女は、君の暴走を、止められる。昨日、実証された。魔導銃による、位相干渉。それが、君の力に、唯一、通用する」
男は、言葉を、続けた。
「したがって、この任務において、君と彼女は、『一組』として、運用される。兵器と、その、安全装置としてな」
「…………」
朔夜は、呼吸を、忘れた。
兵器と、安全装置。
人間では、ない。
少女でも、ない。
ただの、「組」。
部品の、組み合わせ。
朔夜の、隣で。
芹香が、動いた。
静かに、椅子から、立ち上がる。
ほんの少しだけ、前へ。テーブルの縁に、両手を、そっと置いて。
灰色の髪の男を、真っ直ぐに、見据えた。
「……参事官」
声は、凪いでいた。
凪いで、澄んで、それなのに、どこか、研ぎ澄まされた刃のような、鋭さを、帯びていた。
「ひとつ、確認させていただいても、よろしいでしょうか」
「許可しよう」
「私が、橘朔夜の、『安全装置』として、運用される。……それは、つまり」
芹香は、言葉を、選ぶように、一拍、置いた。
「彼女が、暴走したとき、私が、それを、止めなければならない。止められなかった場合は」
「……」
「彼女も、私も、現場ごと、消える。それが、組織の想定、ということで、間違いありませんか」
部屋に、沈黙が、落ちた。
長い、長い、沈黙だった。
太った男が、咳払いをした。痩せた女が、書類を、とん、と揃えた。
灰色の髪の男は、表情を、少しも、変えなかった。
「……聡明だな、一条」
「恐縮です」
「その理解で、間違いない」
男は、あっさりと、そう言った。
隠そうともしなかった。
「君たち二人が、あの現場で、全滅したとしても、組織の損失は、限定的だ。訓練生が二名。……それ以上でも、それ以下でもない」
朔夜の、視界が、ぐらり、と、揺れた。
訓練生が、二名。
それ以上でも、それ以下でも、ない。
十八年、生きてきた。
トンファーを握り、泥にまみれ、笑ってきた。
その全部が、「二名」という数字に、畳み込まれて、天秤の上に、載せられている。
芹香は、ゆっくりと、頷いた。
「理解いたしました」
「そうか」
「ただし」
芹香は、そこで、顔を、上げた。
灰茶色の瞳が、男の瞳を、正面から、受け止めた。
「ひとつだけ、申し上げます」
「何だね」
「私は、彼女を、止めます。何度でも」
声は、静かだった。
けれど、その静けさの底に、鋼のような、揺るぎない意志が、あった。
「彼女は、組織の兵器では、ありません。……私の、後輩です」
部屋の空気が、凍った。
太った男が、目を、丸くした。痩せた女が、薄い唇を、ほんのわずかに、吊り上げた。それは、笑みというより、嘲りに近かった。
壁際の鬼塚の肩が、ほんの少しだけ、震えた。
灰色の髪の男は、数秒、芹香の顔を、見つめていた。
それから、ふ、と、息を吐いた。
「……感傷だな」
「かもしれません」
「だが、感傷は、使える。……それが、君を、あの任務に適した、安全装置たらしめている」
男は、それ以上、芹香に、構わなかった。
視線を、朔夜に、戻す。
「出発は、本日、一四〇〇。装備の受領は、一〇〇〇から、装備課にて。……質問は」
朔夜は、首を、横に振った。
振った、というより、首が、勝手に、動いただけだった。
頭の中が、真っ白だった。
「……ありません」
「結構」
男は、立ち上がった。
椅子が、床を擦る、鈍い音。
他の二人も、それに倣う。
三人は、テーブルを回り込み、朔夜と芹香の脇を、通り過ぎていく。足音が、赤い絨毯に、吸い込まれる。
すれ違いざま。
灰色の髪の男が、朔夜の耳元で、ほとんど囁くように、言った。
「橘訓練生」
「……はい」
「生きて、帰ってきなさい」
朔夜は、顔を、上げた。
男の瞳が、すぐ近くにあった。
その瞳の奥に、ほんの一瞬、何かが、揺れた気がした。
労りではない。哀れみでも、ない。
――期待、だった。
冷たい、乾いた、「期待」。
君が、生きて帰ってきたら、私は、君を、最高の兵器として、使う。
そういう、期待。
男は、すぐに、顔を、背けた。
そして、扉を、出ていった。
太った男と、痩せた女が、後に続く。
扉が、ばたん、と閉まった。
残されたのは、朔夜と、芹香と、壁際の、鬼塚だけだった。
*
しばらく、誰も、動かなかった。
朔夜は、椅子に、座ったまま、辞令の紙を、握りしめていた。
紙は、もう、しわくちゃになっていた。指の汗で、インクが、滲み始めている。その滲んだ文字を、朔夜は、ぼんやりと、見つめていた。
特別待遇。
栄誉。
生きて、帰ってきなさい。
どの言葉も、薄く、軽く、空っぽだった。
「……朔夜ちゃん」
芹香の声が、すぐ隣で、聞こえた。
いつの間にか、芹香は、椅子に、座り直していた。朔夜の、肩に、そっと、手を置いている。その掌の温かさが、制服の布を通して、じわりと、染みてきた。
「……うん」
「大丈夫?」
「……だいじょうぶ、じゃ、ない、かも」
朔夜は、笑おうとした。
笑えなかった。
唇が、歪んで、目の縁が、じわりと熱くなった。それでも、涙は、こぼさなかった。こぼしたら、そのまま、崩れてしまいそうだったから。
「わたし、さ」
「ええ」
「捨てられるんだね」
芹香の指が、朔夜の肩を、ぎゅっと握った。
「……そうね」
否定しなかった。
誤魔化さなかった。
朔夜は、その誠実さが、嬉しくて、同時に、痛かった。
「先輩も、一緒に、捨てられるんだね」
「ええ」
「ごめんね」
「謝ることでは、ないわ」
「だって、先輩は、巻き込まれただけなのに」
「朔夜ちゃん」
芹香は、朔夜の、顔を、自分のほうへ、向けさせた。
両手で、頬を、そっと包み込んで。
灰茶色の瞳が、朔夜の瞳を、真っ直ぐに、覗き込んだ。
「私は、巻き込まれたのでは、ないわ。……自分で、選んだの」
「え?」
「昨日、あの測定場で、銃を、構えたとき。……私は、もう、決めていた。あなたの隣に、立つと。それが、どんな場所でも」
朔夜の目の縁から、一粒の涙が、ぽろり、と、こぼれた。
芹香の親指が、それを、そっと拭った。
「だから、安心して。……私は、あなたと、同じ場所に、行くわ」
「…………うん」
朔夜は、小さく、頷いた。
部屋の隅で、鬼塚が、静かに、動いた。
草履ではなく、革靴の足音が、絨毯の上を、ほとんど音もなく、近づいてくる。
朔夜は、顔を上げた。
鬼塚は、テーブルの端に、立っていた。
銀縁の眼鏡の奥の瞳が、朔夜を、見ていた。
初めて、真正面から。
逸らさずに。
「……橘」
「はい」
「私は、この辞令に、反対した」
朔夜は、目を見開いた。
芹香も、わずかに、眉を動かした。
「会議の場で、三度、反対した。……却下された。以上だ」
鬼塚の声は、低く、平坦だった。
けれど、その平坦さの奥に、必死に抑えつけた、何かが、あった。
「私が、お前に、できることは、少ない」
「教官……」
「ひとつ、だけ、言っておく」
鬼塚は、自分の、制服の胸ポケットから、小さな、金属の板を、取り出した。
掌に、載せる。
それは、手のひらに収まるほどの、銀色の、お守りのような、薄い札だった。表面には、細かな紋様が、びっしりと刻まれている。昨日、観測室の壁を覆っていた、防魔壁の紋様と、よく似ていた。
「これを、持っていけ」
鬼塚は、その札を、朔夜の掌に、押しつけた。
札は、冷たかった。
けれど、その冷たさの奥に、ほんのわずかな、人肌の温もりが、残っていた。ついさっきまで、鬼塚の胸ポケットの中で、体温を、吸っていたのだ。
「それは、私が、昔、使っていた、護符だ。……大した力は、ない。ただ、お前の力が、暴走しかけたとき、ほんの数秒だけ、流れを、鈍らせることができる」
「数秒……」
「数秒あれば、一条が、撃てる」
鬼塚の唇が、ほんのわずかに、動いた。
笑みの、できそこないのように。
「……死ぬな、橘」
その一言は、あまりにも、低く、小さかった。
朔夜は、札を、両手で、握りしめた。
冷たい金属が、掌に、食い込む。
「……はいっ」
声は、震えていた。
「ありがとうございます、鬼塚教官」
「礼は、要らん」
鬼塚は、ふいと、顔を背けた。
眼鏡が、照明を反射して、白く光る。
「それから、一条」
「はい」
「お前も、死ぬな」
「……善処いたします」
芹香が、静かに、微笑んだ。
鬼塚は、それ以上、何も言わなかった。
踵を返し、扉へ向かう。その背中は、まっすぐで、少しも、揺れなかった。けれど、朔夜には、その背中が、昨日の道場で見たときよりも、ずっと、強張っているように見えた。
扉が、閉まる。
静寂が、戻る。
朔夜は、掌の護符を、もう一度、見つめた。
小さな、銀色の札。
その冷たさが、胸の奥の、冷え切った場所へ、ゆっくりと、染み込んでいった。
(……近づきすぎるな、って、言ってたのに)
昨日の朝の、鬼塚の声が、蘇る。
あれは、突き放す言葉では、なかった。
守るための、言葉だったのだ。
近づきすぎれば、傷つく。
傷つけてしまう。
そして、自分も、傷つく。
それを知っていて、それでも、鬼塚は、朔夜に、この札を、渡してくれた。
朔夜は、その札を、制服の胸元に、そっと、仕舞い込んだ。
心臓の、真上。
ひやりとした金属が、肌に触れて、じんわりと、体温を、吸い始める。
*
装備課は、本館の、地階の、突き当たりにあった。
午前十時、きっかり。
重い鉄扉を押し開けると、中から、油と、革と、鋼の匂いが、むっと、溢れ出してきた。
広い。
天井の低い、倉庫のような空間に、金属製の棚が、何列も、整然と並んでいる。棚の上には、ありとあらゆる、武具が、種類ごとに、並べられていた。長柄の槍。大太刀。短刀。鎖。弓。それから、見たこともない、不気味な形の、鉤爪のようなもの。
壁際には、魔導銃の、ガラスケースが、ずらりと、並んでいる。銀色の銃身が、薄暗い照明を、鈍く反射していた。
奥から、白衣の中年の男が、のそのそと、現れた。
無精髭の、背の低い、ずんぐりとした男。眼鏡のレンズが、油で曇っている。袖を肘まで、まくり上げた腕は、火傷の痕と、細かな傷で、びっしりと覆われていた。
「ああ、あんたらか。……橘と、一条」
男は、書類を、ぺらぺらと、めくった。
「話は、聞いてる。特務観察。霧原ダム。……はあ、あそこか」
男は、ふう、と、重いため息をついた。
「あそこは、嫌なところだぞ。わしも、一度、備品の回収に行ったことがあるが」
「どんなところでしたか」
芹香が、尋ねた。
「水が、な」
「水?」
「ああ。……水が、流れる音が、するんだよ。ダムは、とっくに、水を抜いてあるのに。夜になると、ごうごうと、滝のような、水の音が、聞こえる。……気味が、悪くてなあ」
男は、肩を、すくめた。
「まあ、そんなことは、いい。装備を、見せよう。こっちへ来な」
男は、棚の間の通路を、先に歩いていった。
朔夜と芹香は、その後ろに、続く。
床は、コンクリート。足の裏の包帯が、ざらりと擦れる。棚の間を抜けるたびに、金属の冷たい匂いが、鼻の奥を、くすぐった。
通路の突き当たりに、一つの作業台が、あった。
その上に、二人分の装備が、既に、並べられていた。
「まず、橘のほう」
男は、台の上の、黒い、細長い革の包みを、手に取った。
「これは、あんたの、特注品だ。先月の、頭の測定のあと、上から、発注が来てな」
「え、わたしの……?」
「ああ。開けてみな」
朔夜は、その包みを、受け取った。
重い。
ずしり、と、腕に、沈む。
革の紐を、解く。
中から、現れたのは、一本の、戦鎚だった。
柄の長さは、八十センチほど。黒く塗られた鋼の柄に、握りの部分だけ、滑り止めの革が、巻かれている。先端には、拳ほどの大きさの、鋼の鎚頭。片側は、平らな打撃面。反対側は、鋭く尖った、鉤状の突起。
朔夜は、息を、呑んだ。
戦鎚。
朔夜が、好んで使う、もう一つの、近接武器。
トンファーと並んで、愛してやまない、泥臭い、肉弾の道具。
握りを、掌に収める。
革の巻き方が、朔夜の手の、大きさに、ぴたりと合っていた。重心の位置が、手の中で、見事に収まる。振ってみる。ひゅ、と、鋭い風切り音が、天井の低い空間に、響いた。
「……すごい」
思わず、声が、漏れた。
「いい、鎚だろう」
男は、少し、得意げに、鼻を鳴らした。
「鎚頭には、特殊な合金が、使ってある。ただの鋼じゃ、あんたの腕力と、遠心力に、耐えられんからな。……それと、柄のここ」
男は、鎚の柄の、中ほどを、指差した。
そこに、小さな、彫り込みが、あった。
細かな紋様。見覚えのある、防魔壁の、紋様に似ている。
「ここに、抑制の刻印が、入っている」
「抑制……」
「あんたの力が、暴走しかけたとき、この鎚が、魔力の、いくらかを、吸い取る。吸い取った魔力を、鎚頭に、流して、物理的な打撃力に、変換する。……要するに、魔法が、漏れる前に、鎚で、『殴って』、外へ逃がす、って仕組みだ」
朔夜は、鎚を、見つめた。
殴って、逃がす。
魔法ではなく、拳で。
鎚で。
朔夜が、大好きな、泥臭い、やり方で。
「……それって」
朔夜は、顔を、上げた。
「わたしが、鎚を、振るっていれば、暴走しにくい、ってこと?」
「理屈の上ではな」
男は、頷いた。
「あくまで、理屈だ。完全じゃ、ない。ただ……あんたが、一番、力を出しやすいやり方で、戦ってりゃ、力が、暴れにくい。それは、設計した奴らが、言ってたことだ」
朔夜の胸の奥が、きゅう、と、鳴った。
設計した、誰か。
朔夜が、体術と近接武器を、愛していることを、知っている人間が、いたのだ。
知った上で、この鎚を、作ってくれた。
(……ありがとう)
誰とも知れない、設計者に、心の中で、そっと、礼を言った。
「それから、もう一つ」
男は、台の上の、別の、小さな包みを、朔夜の前に、押しやった。
トンファーだった。
朔夜の、愛用の、樫のトンファーではない。もっと、細身で、鋼を芯に仕込んだ、新しい型。握りの部分に、同じ、抑制の刻印が、彫り込まれている。
「こっちは、予備だ。鎚が、使えない狭い場所で、な」
「……ありがとうございます」
「礼は、いらんよ。わしは、渡すだけだ」
男は、無愛想に言って、ぷいと、顔を背けた。
けれど、その耳の先が、ほんの少し、赤かった。
「それと、これを持っていきな。お守りみたいなもんだ」
男は、ぼろぼろの、茶色い革の、小袋を、台の上に、置いた。
「包帯と、止血剤と、痛み止めだ。……傷は、手当てしねえと、すぐに、化膿する。山の中は、そういうもんだ」
「……はい」
朔夜は、その袋を、受け取った。
袋の革は、柔らかく、使い込まれていた。何度も、誰かの腰に、結ばれてきたものだ。
その誰かが、生きて帰ってきたのか、そうでないのか。
朔夜は、聞かなかった。
「次は、一条だ」
男は、芹香のほうを、向いた。
台の上には、細長い、銀色の、金属製のケースが、置かれていた。
芹香は、ケースの留め金を、ぱちん、ぱちん、と、外した。
蓋が、開く。
中には、一丁の、魔導銃が、収められていた。
昨日、芹香が、構えていた、細身の、銀色の銃とは、違った。
もっと、長い。銃身が、一メートル近くある。黒く、艶消しの、無骨な、狙撃銃。銃床は、薄い木で、肩への当たりが柔らかくなるよう、革が、貼られていた。銃身の側面には、細かな、紋様が、びっしりと、彫り込まれている。
その横に、小さな、真鍮色の、筒が、並べられていた。
弾薬だ。
芹香は、その筒を、一本、摘まみ上げた。
掌の上で、転がす。
数を、数えた。
一、二、三。
たったの、三本だった。
「……これだけ、ですか」
「ああ」
男は、無表情に、答えた。
「位相干渉弾は、製造に手間がかかる。一発あたりのコストも桁違いだ。……上からは、三発までと、指示が出ている」
「…………」
芹香は、その三本の弾を、じっと、見つめていた。
朔夜も、その弾を、見つめた。
三発。
たった、三発。
それが、朔夜の暴走を、止める、唯一の手段。
三回までしか、朔夜は、暴走できない。
いや、三回の暴走に、耐えられるように、してくれた、と言うべきなのか。
否。
違う。
朔夜は、悟った。
三発の弾は、「保証」ではない。
「限度」だ。
三回、止めて、それでも、止まらなければ。
それは、「そこまで」、ということだ。
組織が、朔夜に、許した、命の回数。
「……了解しました」
芹香は、静かに、弾を、ケースに戻した。
かちゃり、と、小さな、金属の音。
その音が、朔夜の耳に、やけに、重く、残った。
芹香は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、銃身を、そっと、指先で、撫でた。
慈しむように。
あるいは、別れを告げるように。
*
――自室。
午前十一時を、少し回った頃。
窓から、斜めの陽光が、床に、四角い光を、落としている。
同室の少女は、いなかった。朔夜が、部屋に戻ったとき、二段ベッドの下段は、きれいに整えられて、空だった。毛布は、きちんと畳まれ、枕は、壁際に、立てかけられている。
机の上に、小さな、メモが、一枚、置かれていた。
『……ごめんなさい。気をつけて』
震えた、小さな、字だった。
朔夜は、そのメモを、じっと、見つめた。
それから、そっと、指で、撫でた。
紙の上の、インクの、わずかな、凹凸。
(……ううん)
(謝らなくて、いいのに)
唇の端が、ほんの少しだけ、持ち上がった。
持ち上げた笑みは、昨日までの、陽だまりのような笑顔では、なかった。もっと、小さくて、もっと、静かで、もっと、切ない笑みだった。
メモを、丁寧に、畳んで、制服の胸ポケットへ、仕舞う。
鬼塚の護符の、すぐ隣。
それから、準備を、始めた。
衣装箱を、開ける。
取り出したのは、黒い、厚手の、戦闘服だった。
訓練用の、伸縮素材のウェアとは、違う。もっと、重い。生地は、ごわごわと硬く、肘や膝の部分に、補強用の、黒い樹脂の板が、縫い込まれている。裏地には、薄い、銀糸のような、防魔繊維が、織り込まれている。
袖に、腕を、通す。
布が、肌に擦れて、ざらり、と音を立てた。
重い。
肩に、ずしりと、乗る。
けれど、その重みが、不思議と、悪くなかった。「これから、本当に、戦いに行くのだ」という、現実の重さが、布の重さと、重なっていた。
ボタンを、一つ、また一つ、留めていく。
指先が、冷たい。留めるたびに、爪が、ボタンの縁に、かちり、と当たる。
ベルトを、腰に、巻く。
革が、きゅっ、と締まる。
そこに小袋を、結ぶ。止血剤と包帯の入った、あの、ぼろぼろの革袋。
結び目を二重に、きつく、固めた。
ブーツを、履く。
足の裏の包帯の上から、硬い革が、踵を、包み込む。傷が、じんと痛んだ。けれど、紐を、きつく締め上げると、痛みが、ふっと、遠くなった。
そして。
最後に、戦鎚を、手に取った。
鋼の柄の、ひやりとした感触。
握りの革が、掌に、しっとりと、吸いつく。
腰の後ろの専用の金具に、鎚の柄を掛けた。かちり、と、小気味よい音。鎚の重みが、背中の下のほうに、どっしりと乗る。
トンファーは両腕の外側に、ベルトで固定した。
鋼の芯の入った、細身の棒。手首の内側に、冷たい金属が触れる。
全身を、鏡に、映した。
黒い戦闘服。
腰の鎚。両腕のトンファー。
小柄な身体が、武具の重みで、ほんの少しだけ、大きく、見えた。
黒髪のボブカットを、額のヘアバンドで、押さえる。琥珀色の瞳が、鏡の中から、こちらを、見返していた。
朔夜は鏡の中の少女に向かって言った。
「……今日も、よろしく」
声が、部屋に、小さく、響いた。
鏡の中の少女は、返事をしなかった。
ただ、朔夜と同じ顔で、じっとこちらを見つめていた。
琥珀色の瞳の、いちばん奥。
あの、一粒の、残り火が、ほんの、ほんの、わずかに、揺れた気がした。
――そう。
見ているのだ。
この子も。
これから、行く場所を。
朔夜は、その瞳に、にっと、笑いかけた。
「大丈夫。……一緒に、行こ」
返事は、なかった。
けれど、胸の奥の、空洞の、いちばん深いところで、何かが、ことり、と、小さく、身じろぎした気がした。
*
部屋の扉が、こん、こん、と、静かに、叩かれた。
「朔夜ちゃん。……入ってもいいかしら」
「うん、いいよ」
扉が、ゆっくりと、開いた。
芹香が、立っていた。
朔夜と、同じ、黒い戦闘服。けれど、その上から、細い革の胸当てを、重ねている。肩には、長い、狙撃銃が、ストラップで、斜めに、掛けられていた。腰のホルスターには、昨日の、細身の銀色の銃。そして、ベルトの脇に、小さな、弾薬の筒が、三本。
長い栗色の髪は、きりりと、高い位置で、一つに、結い上げられていた。いつもの緩い三つ編みでは、ない。戦場へ向かう人間の、髪だった。
頬の絆創膏は、貼り替えられている。
右袖の下の包帯は、丁寧に、巻き直されていた。
朔夜は、その姿を、じっと、見つめた。
見惚れた、というほうが、近かったかもしれない。
芹香はいつもの、優しい、お母さんのような人ではなかった。
戦場に立つ、一人の、射手だった。
灰茶色の瞳が、静かな、冷たい光を、宿している。唇は、まっすぐに、引き結ばれている。肩から下げた、長い銃の、黒い輪郭が、凛として、美しかった。
「……先輩」
「なあに」
「かっこいい」
芹香は、一瞬、目を、瞬いた。
それから、ふっと、口元を、緩めた。
「……ありがとう。あなたも」
「えっ、わたし?」
「ええ。……よく似合っているわ」
朔夜は、頬を、赤くした。
「ほんとに? 変じゃない?」
「変じゃないわ。……ただ」
「ただ?」
「ここが、少し、曲がっているわね」
芹香は、部屋に入ってきて、朔夜の襟元に、手を伸ばした。
戦闘服の硬い襟が、片側だけ、ほんの少し、内側に、折れ込んでいた。細い指が、それを、そっと引き出して、整える。
指先が朔夜の首筋に、軽く触れた。
温かい。
「はい。……これで、いいわ」
「ありがと」
「どういたしまして」
二人は、至近距離で、向かい合っていた。
朔夜の顔のすぐ近くに、芹香の顔がある。長い睫毛の、影。傷跡の残る頬。灰茶色の瞳の中に、小さな、朔夜の姿が、映っている。
「……先輩」
「ええ」
「こわい?」
芹香は、少しだけ、考えた。
それから、静かに、頷いた。
「ええ。……とても」
「そっか」
「あなたは?」
「うん。……こわい。すっごく」
「そう」
「でもね」
朔夜は、顔を上げた。
「先輩と、一緒だから、ちょっとだけ、こわくない」
「……朔夜ちゃん」
「ほんの、ちょっとだけ、だけどね」
朔夜は、にっと、笑った。
歯を見せて。
目を、細めて。
昨日までの笑顔とは、違った。今朝の鏡の前で見せた、ぎこちない笑顔とも、違った。
怖さを、怖いと認めた上で、それでも、笑う。
その覚悟が、頬の筋肉の、一本一本に、静かに、宿っていた。
芹香は、その笑顔を、しばらく、見つめていた。
それから、手を、伸ばした。
朔夜の、右手を、取る。
ごつごつとした、トンファーの握りだこの、ある、小さな手。
その手を、自分の両手で、包み込んだ。
「約束、覚えている?」
「うん」
「言ってみて」
「えっと」
朔夜は、少し、照れて、目を泳がせた。
「わたしが暴れたら、先輩が止める。何回でも」
「ええ」
「それでわたしは、先輩を、絶対、壊さない」
「ええ」
「……二人で、生きていく」
最後の言葉は、小さな声で、ぽつりと、こぼれた。
芹香は、柔らかく、微笑んだ。
微笑みながら、朔夜の手を、そっと、持ち上げた。
自分の、額に、当てる。
祈りのような、仕草だった。
「……ええ。二人で」
そのまま、数秒、二人は、動かなかった。
窓の外から、鳥の声が、聞こえてきた。
朝の、いつもの、鳥の声。
昨日と、同じ。
世界は、何も変わっていない。
変わったのは、二人だけだった。
やがて芹香は、朔夜の手を、そっと下ろした。
「……行きましょうか」
「うん」
朔夜は、頷いた。
机の上の、あの、小さなヘアバンドの、予備を一本、ポケットに突っ込む。それから部屋をぐるりと、見回した。
二段ベッド。畳まれた毛布。壁際の枕。
天井の渦を巻く、黒ずんだ節。
目玉のような、あの木目。
朔夜は、その目玉に、向かって、ひらひらと、手を振った。
「……行ってきます」
目玉は、何も、言わなかった。
けれど、ほんの一瞬、窓から差し込む陽光が、その節の中心を、金色にきらりと、照らした気がした。
朔夜は扉を閉めた。
かちゃり、と、小さな音が、廊下に、響いた。
*
寮舎の、玄関ホールは、がらんとしていた。
昼前の静かな時間。ほとんどの訓練生は、座学や、実技の、授業に出ている。
高い天井に二人の足音が、こつ、こつ、と、反響した。
大きな両開きのガラス扉の向こう。
前庭に、一台の黒い車が、停まっていた。
装甲車に近い、無骨な四輪駆動。
窓には黒いフィルム。
車体は、艶消しの黒。
ナンバープレートは、外されている。
運転席には、黒い制服の男が、背筋を伸ばして、座っていた。
迎えの車だ。
朔夜は、ガラス扉の前で、足を止めた。
外の、光が、まぶしい。
十月の、澄んだ空。山の稜線が、くっきりと、青い空に、浮かんでいる。
庭の銀杏の木が、黄金色に輝いていた。
風が吹いて、葉が、ひらひらと舞い落ちる。
綺麗だった。
あまりにも、綺麗だった。
この景色を、また、見られるのだろうか。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
すぐに頭を振る。
隣で芹香が、静かに待っていた。
朔夜は、ガラス扉の、取っ手に、手をかけた。
冷たい。
真鍮の取っ手が、掌に、ひやりと、染みる。
その冷たさが、これから足を踏み入れる世界の、冷たさと重なった。
――ふと。
背後から視線を感じた。
朔夜は振り返った。
玄関ホールの、奥。
中央階段の、踊り場に、誰かが、立っていた。
一人ではない。
二人、三人。
いつの間にか、何人もの訓練生が、そこに集まっていた。授業を抜け出してきたのか、制服のまま、ぞろぞろと。
階段の上から、手すりに寄りかかって、朔夜と芹香を、見下ろしている。
道場の壁際の、あの三人もいた。
昨日、「あんなに、普通の子なのにね」と呟いた、あの子が。
その子が手すりから、身を乗り出して、何かを言おうとしていた。
唇が動く。
声は、聞こえなかった。
けれど、朔夜には、その唇の形が、読めた。
――ご、め、ん。
――き、を、つ、け、て。
朔夜は、息を止めた。
それから、ゆっくりと、右手を、上げた。
昨日、廊下ですれ違った少女たちに、振っていたあの手と、同じ形で。
けれど今日の手は、指先まで、しっかりと力が入っていた。
ひらり、と、振る。
階段の上の少女は、目を、見開いた。
それから、おずおずと、自分の手を、持ち上げた。
小さく、振り返す。
隣の少女も、その隣の少女も、一人、また一人と、手を、持ち上げた。
誰も、声を出さなかった。
ただ、静かに、手を、振っていた。
ホールの、高い天井の下で、十数本の、白い手が、ゆらゆらと、揺れている。
その光景は、不思議なほど、美しく、そして、少しだけ、哀しかった。
朔夜の、喉の奥が、熱くなった。
熱いものが、込み上げてくる。
けれど、朔夜は、泣かなかった。
代わりに、とびきりの笑顔を、作った。
昨日までの、鏡の前の、ぎこちない笑顔ではなく。
胸の底から、湧き上がってきた、本物の笑顔を。
「いってきまーす!」
声が、ホールに、響いた。
明るく、澄んで、どこまでも、通る声だった。
階段の上の少女たちが、ほんの少し、笑った気がした。
朔夜は、ガラス扉を、押し開けた。
秋の、眩しい光と、冷たい風が、全身を、包み込んだ。
銀杏の葉が、ひらひらと、舞い落ちて、朔夜の肩に、一枚、止まった。
黄金色の、小さな、扇のような、葉。
朔夜は、それを、指で摘まんで、見つめた。
それから、そっと、胸ポケットに、挟んだ。
鬼塚の護符と、同室の少女の、メモの、隣に。
全部、持っていく。
ここでもらった、すべてを。
芹香が、隣に、並んだ。
肩から、銃を、掛け直して。
二人は、顔を、見合わせた。
言葉は、いらなかった。
同時に、一歩、前へ。
朔夜の、ブーツの底が、前庭の砂利を、ざり、と踏んだ。
黒い車の、後部座席の扉が、ゆっくりと、開いた。
内側から、冷たい、革と、機械油の匂いが、流れ出す。
その、暗い、車内を、朔夜は、真正面から、見据えた。
腰の後ろで、戦鎚が、どっしりと、重みを、主張している。
両腕の、トンファーが、手首の内側で、冷たく、光っている。
胸ポケットの中で、護符が、ひやりと、脈打つ。
隣に、芹香が、いる。
それだけで、十分だった。
朔夜は車のステップに、足を掛けた。
そのずっと、ずっと後ろで。
寮舎の、玄関ホールの、ガラス扉の、さらに奥。
階段の手すりの陰に、一人の女が、立っていた。
濃紺の、教官服。銀縁の、眼鏡。
鬼塚教官は、誰にも気づかれないまま、車に乗り込む二人の背中を、じっと、見つめていた。
眼鏡のレンズが、陽光を、一瞬だけ白く反射した。
その瞳が、ほんの少し、濡れているように見えたのは、おそらく、気のせいではなかった。
黒い車の、扉が、閉まった。
ばたん。
重い、鈍い音が、前庭に、響き渡った。
エンジンが、低く、唸り始める。
二人を乗せた、黒い鉄の箱が、ゆっくりと、砂利の上を、動き出した。
寮舎が後ろへ、遠ざかっていく。
銀杏の、黄金色が、遠ざかる。
――第2章 Part 2/4 へ続く
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