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第2章 ― 安全装置と呼ばれる少女たち2

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/26 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 18,496文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

車内は、革と機械油の匂いがした。

後部座席は、向かい合わせではなく、前向きの長いベンチシートだった。黒い合成革の座面は硬く、ところどころ、無数の誰かの体重で擦り切れて、艶を失っている。窓には黒いフィルムが貼られ、昼の光は、墨を溶かした水のように薄暗く濾されて、車内へ落ちていた。運転席との間には、肩の高さまでの、鉄の仕切り板。板の向こうで、黒い制服の背中が、微動だにせず、前を向いている。

エンジンの低い唸りが、座面を通して、尻の骨へ、じんと響いてくる。

朔夜は、背もたれに、背中を預けなかった。

腰の後ろに差した戦鎚の柄が、背もたれと背骨の間で、がちゃりと鳴るからだ。仕方なく、座面の前のほうへ浅く腰掛け、膝の上に、両手を置いた。両腕の外側に固定したトンファーの鋼が、手首の内側に、ひやりと触れている。

隣では、芹香が、長い狙撃銃を、膝の上に横たえて座っていた。

銃身の黒い艶消しの肌を、指先が、ゆっくりと、撫でている。一度、二度。銃床から、銃口の方向へ。それは、愛撫のようでもあり、点検のようでもあった。灰茶色の瞳は、膝の上の銃ではなく、黒いフィルムの向こうの、どこか遠くを見ている。

前庭の砂利を踏む音が、やがて、舗装路の、ざあああ、という滑らかな音に変わった。

寮舎の正門を、くぐったのだ。

重たい鉄の門扉が、背後で、閉まる気配がした。がらがらと、レールを走る、低い響き。それが、ばたん、と止まった瞬間、朔夜の胸の真ん中を、見えない蓋が、ぴたりと塞いだような気がした。

外の世界へ、出た。

けれど、「出た」という実感は、少しも、なかった。

むしろ、閉じ込められた、と思った。

この黒い鉄の箱ごと、どこか知らない場所へ、運ばれていく。窓の外の景色は、黒いフィルムの向こうで、色と形を失って、ぼんやりと、流れていくだけだった。

「……ねえ、先輩」

「なあに」

「予定、一四〇〇って、言ってなかったっけ」

声を出した途端、自分の声が、車内の空気に、妙に大きく、響いた。

芹香の指が、銃身の上で、ぴたりと、止まった。

「ええ。確かに、そう仰っていたわね」

「いま、まだ、お昼前だよね」

「十一時四十分」

「……早まった、のかな」

「そうね」

芹香は、淡々と、頷いた。

「理由は、おそらく、ひとつよ」

「……?」

「一刻も早く、あなたを、寮から離したいのでしょう。昨日の今日だもの。次に何かあれば、今度は、居住区画を、巻き込みかねない」

朔夜は、唇を、噛んだ。

噛んで、それから、すぐに、緩めた。

噛みしめる癖は、よくない。唇の内側が、昨日から、ずっと、ぼろぼろだった。

「……そっか」

「ええ」

「じゃあ、お昼ごはんも、ここで、食べるのかな」

声を、わざと、明るくした。

明るくした分だけ、空々しく響いたのが、自分でも分かった。

芹香は、ふっと、口元を、緩めた。

それから、自分の戦闘服の、脇のポケットに、手を入れた。取り出したのは、白い、小さな、紙の包みだった。

「はい」

「え?」

「あなたの分」

朔夜は、目を丸くして、それを、受け取った。

紙の包みは、ほんのりと、温かかった。掌に載せると、丸みを帯びた、柔らかな重みが、ある。包みの端から、ふわりと、海苔と、塩と、焼いた魚の脂の、香ばしい匂いが、立ち昇った。

「……おにぎり?」

「焼き鮭の。……さっき、玄関へ向かう途中で、厨房の方に、呼び止められたの。『これを、橘さんに』って」

「え」

「あなたが、朝、ほとんど食べられなかったのを、見ていらしたそうよ」

朔夜は、包みを、じっと見つめた。

紙は、薄い、白い、無地のもの。端が、少しだけ、よれている。急いで、包んだのだろう。折り目が、不揃いで、ところどころ、米粒が、紙の裏に、くっついていた。

丸顔の、割烹着の女性。

「橘さん」と、呼び方を、変えた人。

皿を渡すとき、手が、震えていた、あの人。

それでも。

それでも、あの人は、朔夜のために、握ってくれたのだ。

「…………」

喉の奥が、ぎゅうう、と、狭くなった。

朔夜は、包みを、両手で、そっと、包み込んだ。

温かい。

米の、ほのかな、体温。

紙の上から、掌に、じんわりと、染み込んでくる。

「……あったかい」

「ええ。握りたてよ」

「ちゃんと、握ってくれたんだ」

「ええ」

「わたしのこと、怖かったはずなのに」

「そうね」

芹香は、否定しなかった。

「怖かったのでしょうね。……それでも、あなたが、お腹を空かせているのは、知っていたのよ。人は、怖くても、他人のお腹の心配は、できるもの」

朔夜は、包みを、ゆっくりと、開いた。

紙が、かさ、と音を立てる。

中から、現れたのは、三角の、白いおにぎりだった。黒い海苔が、帯のように、巻かれている。握り方が、少し、いびつ。右の角が、ほんの少し、潰れている。けれど、表面に、きらきらと、塩の粒が、光っていた。

一口、齧る。

米の甘みが、口の中に、広がる。

続けて、塩気と、鮭の、脂のまろやかな旨み。

噛むたびに、米粒が、舌の上で、ほろほろと、解ける。

今度は、最初の一口から、ちゃんと、味が、した。

「……おいしい」

声が、震えた。

目の縁が、熱くなる。

朔夜は、俯いた。

俯いたまま、もう一口、齧った。

涙が、一粒、ぽとり、と、おにぎりの上に、落ちた。塩の粒の、隣に。涙の塩気と、米の塩気が、混ざる。

「泣きながら、食べるものでは、ないわよ」

「……だって」

「ええ。分かっているわ」

芹香の手が、朔夜の背中に、そっと、触れた。

掌の温かさが、戦闘服の硬い布を通して、じわりと、伝わってきた。その手が、ゆっくりと、背中を、上下に、撫でる。

「食べなさい。……全部、食べて」

「うん」

「それから、水も。……ほら」

芹香は、ポケットから、小さな金属の水筒を、取り出した。

蓋を、開けて、朔夜の手に、握らせる。

ぬるい、白湯だった。

朝、寮の廊下で、飲んだ、蜂蜜入りの、白湯と、同じ味が、した。

朔夜は、おにぎりを、最後の一粒まで、食べ尽くした。

紙を、丁寧に、畳む。

畳んだ紙を、胸ポケットへ、仕舞った。

護符の隣、同室の少女のメモの隣、銀杏の葉の、隣に。

(……全部、持っていく)

もう一度、そう、思った。

*

車は、街を、走っていた。

黒いフィルムの向こうに、ビルの影が、ぼんやりと、流れていく。信号待ちで、車体が、揺れて、止まる。窓の外を、人が、横切る気配。自転車のベルの音。どこかの店先の、スピーカーから流れる、軽快な音楽。

朔夜は、その音を、一つずつ、拾っていた。

日常の音。

平和な、午前の、音。

その日常の中を、世界を砕く少女と、その安全装置を乗せた、黒い鉄の箱が、静かに、通り過ぎていく。誰も、気づかない。誰も、窓の奥を、覗こうとしない。

朔夜は、フィルムの、端のほうの、ほんのわずかな隙間から、外を、盗み見た。

白い、横断歩道。

そこを渡る、小学生の、ランドセルの、赤。

笑い合って、手を繋いでいる、二人組。

(……あの子たちは)

(知らないんだ)

この世界の、裏側で、何が、起きているのかを。

巫女の素質を持つ者たちが、夜の闇と、化け物の爪の間に、立っていることを。

知らないまま、赤いランドセルを背負って、笑って、歩いている。

それで、いいのだと、朔夜は、思った。

そのために、自分たちは、いるのだ。

そう、思おうとした。

けれど、その思いの、すぐ隣に、別の言葉が、浮かんだ。

(……捨てられる、んだけどね、わたし)

その言葉を、朔夜は、そっと、胸の奥へ、押し戻した。

信号が、青に変わった。

車が、動き出す。

エンジンが、低く唸り、タイヤが、アスファルトを、擦る。ごお、と、風を切る音が、少しずつ、高くなっていった。

*

街が、消えた。

いつの間にか、というのが、正確な表現ではないかもしれない。

朔夜は、ずっと、窓の外の音を、聞いていた。聞いていたから、分かる。ひとつ、ひとつ、日常の音が、削ぎ落とされていくのを。

最初に、消えたのは、信号待ちの、ブレーキ音だった。

次に、店先の、音楽。

それから、人の声。自転車のベル。遠くの、工事の音。

代わりに、車体の底から、規則正しい、タイヤの唸りだけが、聞こえるようになった。車輪が、高速道路の、継ぎ目を、乗り越えるたびに、ことん、ことん、と、鈍い振動が、尻から背骨へ、這い上がってくる。

ことん。

ことん。

ことん。

その単調なリズムが、眠気に似た、重たい霞を、頭の奥に、ゆっくりと、広げていく。

朔夜は、頭を振って、その霞を、払った。

眠ってはいけない、と思った。

眠ってしまえば、また、あの、名前のない色の夢を、見てしまいそうだったから。

窓の外の光が、少しずつ、変わっていく。

黒いフィルムを透かして、ぼんやりと見える景色は、灰色から、くすんだ緑色へ。ビルの影が、森の影に、変わっていく。高速道路の、防音壁が、途切れて、その向こうに、紅葉し始めた山々が、連なって、見え隠れした。

気温が、少し、下がった。

車内の空気が、ひんやりと、肌に、触れる。朔夜は、戦闘服の袖口から、冷気が、忍び込んでくるのを、感じた。吐く息は、まだ、白くならない。けれど、鼻の頭が、ほんのり、冷たかった。

「……先輩」

「ええ」

「寒く、なってきたね」

「山に、入るもの。標高が上がれば、気温は、下がるわ」

「あとどのくらい、かかるのかな」

「地図では、二時間弱。……でも、あの山道は、地図通りには、いかないでしょうね」

芹香は、目を、閉じていた。

睫毛が、頬に、細い影を落としている。眠っているのでは、ない。呼吸が、一定のリズムで、深く、静かに、続いている。精神を、整えているのだ。狙撃手は、撃つ前に、心拍を、落とす。その準備を、いまから、始めている。

朔夜は、その横顔を、見つめた。

傷跡の残る頬。絆創膏。唇の端の、小さなかさぶた。

昨日、撃ってくれた、人。

三発しか、弾を与えられなかった、人。

その三発を、朔夜のために、使ってくれる、人。

(……先輩を、守りたい)

ふと、そう思った。

ふと、思って、それから、苦笑した。

(守られてる、のは、わたしのほうなのに)

朔夜は、膝の上の手を、握りしめた。

トンファーの鋼が、手首の内側に、冷たく、食い込む。

――守りたい。

その気持ちが、ほんの少しだけ、胸の空洞を、温めた。

*

高速道路を、降りた。

ウィンカーの、かち、かち、という音。車体が、大きく、左へ、傾く。ランプウェイの、緩やかなカーブを、下っていく。タイヤの音が、ざあ、という滑らかな音から、ごつごつとした、荒い音へ、変わった。

国道。

車線が、減る。信号の間隔が、延びる。道の両脇に、ぽつり、ぽつりと、民家が見える。瓦屋根の、古い農家。畑の、枯れかけた、トウモロコシの茎。軒先に吊るされた、干し柿の、橙色の、連なり。

朔夜は、フィルムの端から、それを、見ていた。

車は、さらに、進む。

民家の間隔が、広がっていく。

一軒、また一軒。畑が、荒れ地に変わる。荒れ地が、雑木林に変わる。看板が、立っている。

『この先 霧原ダム 通行注意』

白い文字は、風雨に晒されて、ほとんど、剥がれていた。

その看板を、通り過ぎたとき、車が、ぐっと、右へ、曲がった。

舗装が、途切れた。

タイヤが、砂利を、噛む。ざざざざ、と、荒々しい音が、車体の底から、這い上がってくる。車体が、がたがたと、揺れ始めた。座面が、尻を、突き上げる。朔夜は、座席の端の、取っ手を、掴んだ。

林道だ。

車窓の外の、木々が、急に、近くなった。

黒いフィルムの向こうで、無数の枝が、窓を、掠めていく。ざざ、ざざ、と、葉が、車体を、撫でる音。ときおり、太い枝が、屋根を、ごつん、と叩いた。その鈍い衝撃が、車内に、響き渡る。

空気が、湿ってきた。

どこからか、土と、腐葉土の、濃い匂いが、車内に、忍び込んでくる。換気口の、隙間から。それから、ほんのわずかに、苔と、冷たい水の、匂い。

「……湿ってきたね」

「ええ。……川が、近いのでしょう」

芹香が、目を、開けた。

灰茶色の瞳が、窓の外の、見えない景色を、見据える。

「ダムは、水を抜かれているはずよ。それでも、周辺の、地下水脈は、生きている。霧が、立ちやすい地形なのでしょうね」

「霧原、だもんね」

「ええ」

朔夜は、窓の外に、視線を、戻した。

木々の、緑が、いつの間にか、薄れていた。代わりに、白い、薄い、靄が、林の中に、ゆらゆらと、漂っている。車のヘッドライトが、いつの間にか、点いていた。白い光の筋が、靄の中に、ぼんやりと、溶けていく。

時刻は、まだ、午後の、早い時間のはずだった。

それなのに、あたりは、黄昏のように、薄暗かった。

――静かだった。

エンジンの音と、砂利の音以外、何も、聞こえない。

鳥の声が、しない。

虫の音も、しない。

風の音さえ、しない。

それは、自然の、静けさではなかった。

何かが、息を潜めている、静けさだった。

朔夜は、背筋が、ぞくり、と粟立つのを、感じた。

胸ポケットの中の、護符が、ひやり、と、冷たくなった気がした。

「……先輩」

「ええ。……感じているわ」

芹香の声は、低く、短かった。

狙撃銃を、膝の上で、静かに、握り直す。

指が、安全装置の、レバーに、触れた。

かちり、と、小さな金属の音が、車内に、響いた。

*

車が、止まった。

唐突だった。

エンジンの唸りが、一段、低くなって、それから、車体が、がくん、と、揺れて、動きを止めた。砂利の音が、消える。タイヤが、地面に、ぴたりと、食い込む。

静寂が、落ちた。

エンジンの、アイドリングの音だけが、低く、続いている。

運転席から、黒い制服の男が、ゆっくりと、こちらを、振り返った。

仕切り板の、小さな窓が、がらり、と、開く。

「到着、しました」

男の声は、平坦だった。

乾いた、紙のような声。

その瞳は、朔夜たちの顔を、見ていなかった。額のあたり、あるいは、肩のあたり。どこか、焦点を、ずらしている。

「ここが、旧・霧原ダム管理区画の、正面ゲートです」

「ありがとうございます」

芹香が、静かに、答えた。

「私どもが、降りたあとは」

「自分は、ここで、待機します。……ですが、ゲートの内側へは、入りません」

「入らない?」

「規則で、第七類の指定区域には、運転手は、立ち入れないことに、なっています」

男は、そこで、言葉を、切った。

それから、一枚の、小さな、金属の端末を、仕切り板の窓から、差し出した。

手のひらサイズの、黒い、角張った機械。表面に、小さな赤いランプが、ひとつ、点滅している。

「位置発信器です。……これを、お持ちください。本部で、常時、位置を、確認します」

「……了解しました」

芹香が、それを、受け取った。

重みを、確かめるように、掌で、軽く、弾ませる。

「それから、もうひとつ」

男は、声を、わずかに、落とした。

「通信は、ゲート内では、おそらく、繋がりません。……過去の調査班も、全員、ゲートを、越えた時点で、途絶しています」

「……存じております」

「回収の件ですが」

「ええ」

「…………」

男は、数秒、黙った。

バックミラーの中で、その目が、ほんのわずか、揺れた。

「自分は、回収の指示を、受けておりません」

朔夜は、息を、止めた。

芹香の指が、端末を、ぎゅっと握った。

「……つまり」

「任務が、完遂されたかどうかは、本部が、判断します。……自分は、ここで、定められた時間まで、待機し、その後は、帰還します」

「定められた時間とは」

「…………本日、日没まで」

日没まで。

朔夜は、窓の外の、薄暗い、靄の中を、見た。

いまは、午後、二時を、少し、回ったところ。

十月の、日没は、午後五時半頃。

三時間と、少し。

その間に、朔夜と芹香が、戻ってこなければ。

この車は、二人を置いて、走り去る。

それが、「回収の指示が、ない」ということの、意味だった。

「……分かりました」

芹香は、静かに、頷いた。

「ご丁寧に、ありがとうございます」

「……いえ」

男は、一瞬、何かを、言いかけた。

唇が、わずかに、動いた。

けれど、結局、何も、言わなかった。

仕切り板の窓が、がらり、と、閉じる。

そして、後部座席の扉の、ロックが、かちり、と、外れる音が、した。

「……行きましょう、朔夜ちゃん」

「うん」

朔夜は、頷いた。

扉の取っ手を、握る。

冷たい。

その冷たさを、掌に、焼きつけるように、強く、握った。

扉を、押し開ける。

外の空気が、流れ込んできた。

*

冷たい。

それが、第一の、感覚だった。

車内の、革と油の匂いが、一瞬で、吹き払われる。代わりに、鼻の奥へ、濃密な、湿った匂いが、流れ込んできた。

苔。

濡れた石。

腐りかけた落ち葉。

そして、その奥に、微かに混じる、鉄錆と、古い水の、淀んだ匂い。

吸い込むと、肺の底まで、冷気が染みた。吐く息が、白く、ふわりと、立ち昇る。十月の、午後二時のはずなのに、まるで、真冬の、早朝のような、冷え込みだった。

朔夜は、ブーツの底で、地面を、踏みしめた。

砂利が、ざり、と、鳴る。

足の裏の傷が、じんと、痛んだ。

けれど、その痛みが、「ここに、立っている」という、確かな、実感を、与えてくれた。

顔を上げる。

目の前に、ゲートが、そびえていた。

錆びた、鉄の、大きな門扉。高さは、三メートル近く。両開きの、観音扉。鉄の格子は、赤茶色に、変色して、ところどころ、塗装が、剥げ落ちている。蝶番の部分は、錆が、盛り上がって、こぶのように、固まっていた。

門扉には、太い鎖が、何重にも、巻かれていた。

その鎖の、中央に、大きな、南京錠が、ぶら下がっている。

錠は、開いていた。

ぱっくりと、口を、開けて。

鎖は、解かれ、地面に、蛇のように、垂れている。

「……開いてる」

朔夜は、小さく、呟いた。

「ええ。……過去の調査班が、開けたのでしょう」

「閉め直して、いかなかったんだね」

「閉める余裕が、なかったのかもしれないわ」

芹香の声は、静かだった。

その静けさが、かえって、不気味に、響いた。

門扉の脇に、錆びた看板が、斜めに、傾いて、立っていた。

白かったはずの地に、赤い文字が、書かれている。

『霧原ダム管理区画 関係者以外 立入禁止』

文字の上から、誰かが、爪で引っ掻いたような、細い傷が、無数に、走っていた。

朔夜は、その傷を、じっと、見つめた。

爪、にしては、幅が、広い。

それに、傷は、上から下へ、まっすぐではなく、斜めに、何本も、重なっていた。

「……これ」

「見ないほうが、いいわ」

「でも」

「いまは、まだ。……いまは、見るだけで、いい」

芹香は、そう言って、朔夜の肩を、そっと、押した。

その掌が、少し、冷たかった。

朔夜は、頷いた。

背後で、車の、エンジンの音が、聞こえた。

振り返ると、黒い車は、ゲートから、十メートルほど手前の、広場に、停まっていた。運転席の男は、前を向いたまま、微動だにしない。その背中が、やけに、小さく、見えた。

エンジンの低い唸りが、靄の中に、吸い込まれていく。

朔夜は、前を向いた。

錆びたゲートの、赤茶色の、肌。

その隙間から、向こう側の、闇が、覗いていた。

昼間なのに、暗い。

ゲートの向こうの空気が、こちら側より、さらに、濃く、重く、淀んでいる。靄が、地面に、這うように、漂っていた。白く、冷たく、ゆらゆらと。

芹香が、先に、動いた。

ゲートの、右側の門扉に、手をかける。

錆びた鉄が、ぎい、と、悲鳴を上げた。

低く、長く、軋む音。

その音が、靄の中に、吸い込まれて、一瞬、遠くで、反響した気がした。

門扉が、ゆっくりと、内側へ、開いていく。

鉄の匂いが、強く、鼻をついた。

錆の、赤い粉が、芹香の手袋に、べったりと、付着する。

隙間が、人ひとりが、通れる幅に、広がった。

芹香が、振り返った。

「……行くわよ」

「うん」

朔夜は、腰の後ろの、戦鎚の、柄に、手を、触れた。

鋼の、ひやりとした感触。

革の巻かれた握りが、掌に、吸いつくように、馴染む。

その、確かな重みが、朔夜の背骨を、まっすぐに、支えてくれた。

一歩。

ゲートの、敷居を、跨ぐ。

その瞬間だった。

――ごおおおおお。

音が、来た。

いや。

最初から、そこに、あったのかもしれない。

ゲートを越えた瞬間に、初めて、「聞こえるように」なったのかもしれない。

低く、重く、途切れることなく、どこまでも、続く、轟音。

水の音。

滝が、岩を、叩く音。

膨大な水量が、落差を、駆け下りていく、あの、圧倒的な、響き。

朔夜は、足を、止めた。

反射的に、辺りを、見回した。

靄の中に、見えるのは、赤茶色の、錆びた、鉄の柵と、苔むした、コンクリートの壁と、黒く、濡れた、雑木林の、影だけ。

水など、どこにも、ない。

滝など、どこにも、ない。

それなのに。

ごおおおおおお。

水の音は、止まない。

左右から、前から、後ろから、地面の下から、頭の上から。

あらゆる方向から、押し寄せてくる。

まるで、この区画全体が、巨大な滝壺の、底にでも、沈められているかのように。

「…………先輩」

「ええ」

「聞こえて、る?」

「ええ。……聞こえているわ」

芹香の声は、低く、押し殺されていた。

「これは、幻聴では、ないわ。少なくとも、私たち二人が、同時に、聞いている」

「……うん」

「装備課の方が、言っていたわね。『ダムは、水を抜いてあるのに、夜になると、滝のような音が、聞こえる』と」

「夜、って、言ってたよね」

「ええ」

「いま、昼間、だよね」

「……ええ」

芹香は、ゆっくりと、頷いた。

その目が、鋭く、細められる。

「つまり、あの方が、訪れた頃よりも、ここは、『進んで』いるのよ」

進んでいる。

その言葉の、意味を、朔夜は、悟った。

怪異の、侵食が、進んでいる。

夜にしか、聞こえなかった音が、昼間にも、聞こえるようになった。

夜の領域が、昼間を、食い始めている。

朔夜は、唾を、飲み込んだ。

喉が、ごくり、と、鳴った。

乾いた喉に、冷たい空気が、張りつく。

轟音の中で、自分の、嚥下の音だけが、やけに、鮮明に、聞こえた。

朔夜は、耳を、澄ました。

水の音の、向こう側に、もっと、別の、何かが、混じっていないかと。

水の音は、均一ではなかった。

よく、聞くと、ところどころ、ひずんでいる。波の、うねりのように、強くなったり、弱くなったりを、繰り返している。まるで、巨大な、何かの、呼吸のリズムのように。

ごおお、ごおおおお、ごおお、ごおおおお。

一定の、周期。

吸って、吐いて、吸って、吐いて。

朔夜の、背中の汗が、すうっと、冷えた。

水の音は、水の音では、ないのかもしれない。

これは、何か、大きなものの、息遣いだ。

そう、悟ってしまった瞬間、朔夜の全身の産毛が、一斉に、逆立った。

「……先輩」

「ええ」

「この音、息、してる」

「……そうね」

芹香は、否定しなかった。

「私にも、そう、聞こえる」

二人は、数秒、動けなかった。

ゲートの敷居の、すぐ内側で、肩を寄せ合って、立ち尽くしていた。

靄が、足元を、這う。

白く、冷たい、湿った指のように、ブーツの上から、足首に、絡みつく。

朔夜は、その靄を、見下ろした。

靄は、よく見ると、ただの水蒸気では、なかった。

ほんのわずかに、色を、帯びている。

薄い、ごく薄い、藍色。

それが、ゆらゆらと、地面から、立ち昇っている。

まるで、見えない水面から、立ち昇る、水の気配のように。

「……行こう、先輩」

朔夜は、顔を、上げた。

声は、思ったより、しっかり、出た。

「ここで、突っ立ってても、しょうがないもん」

「ええ」

「調べなきゃ。……消えた、人たちのこと」

芹香は、朔夜の横顔を、ちらりと、見た。

それから、小さく、微笑んだ。

「……ええ。そうね」

朔夜は、にっと、笑った。

歯を見せて。

轟音の中で、その笑顔は、小さく、頼りなかった。

けれど、確かに、そこに、あった。

二人は、並んで、歩き出した。

*

管理道路は、ゲートから、緩やかな、上り坂に、なっていた。

舗装は、ひび割れて、あちこちから、枯れ草が、生えている。アスファルトの割れ目に、黒い苔が、びっしりと、張りついていた。足を踏み出すたびに、ブーツの底が、ぬるり、と、滑りかけた。

道の両側は、雑木林だった。

葉の落ちた、黒い枝が、頭上に、網のように、広がっている。その隙間から、薄い、乳白色の空が、見え隠れする。幹の表面は、濡れて、黒く光っていた。幹に、苔が、緑色の、柔らかな毛皮のように、纏わりついている。

鳥は、いない。

虫も、いない。

風も、吹かない。

ただ、水の音だけが、休みなく、鳴り続けている。

朔夜は、戦鎚の柄を、握ったまま、慎重に、足を、運んだ。

一歩。

また、一歩。

靴底が、湿ったアスファルトを、踏みしめる。

ぬちゃ、ぬちゃ、と、粘ついた音。

その音が、水の轟音の中でも、不思議と、はっきり、聞こえた。

芹香は、すぐ後ろを、歩いていた。

狙撃銃を、肩から外して、両手で、構えている。銃口は、地面と、並行。足音が、ほとんど、しない。呼吸も、浅く、静かだった。朔夜は、背中に、その気配を、感じていた。

守られている、という、安心感。

そして、その安心感が、三発の弾の、重みの上に、成り立っていることの、重圧。

朔夜は、その二つを、同時に、背負って、歩いた。

「……ねえ、先輩」

「なあに」

「ここ、さ」

「ええ」

「なんで、三年前に、閉鎖されたんだっけ」

芹香は、数秒、黙っていた。

「……表向きは、老朽化。水害対策の、新しいダムが、下流に、完成したから、と」

「裏は?」

「記録には、載っていない。……でも」

「でも?」

「私が、調べた限りでは、閉鎖の、半年前に、この区画で、職員が、十二名、行方不明になっているわ」

朔夜は、足を、止めかけた。

慌てて、動かし続ける。

「……十二名」

「ええ。全員、同じ夜に」

「同じ夜に……」

「その夜、ダムは、満水だった。……そして、その翌朝、水位は、半分に、下がっていたそうよ」

朔夜の背筋が、ぞわり、と、粟立った。

「半分、って」

「ええ。一晩で、貯水量の半分が、消えた。放水の記録は、ない。決壊も、していない。……水が、ただ、『なくなった』の」

「…………」

「それから、一か月ごとに、水位は、下がり続けた。やがて、空になった。そして、ダムは、閉鎖された」

水が、なくなった。

水が、消えた。

どこへ。

朔夜は、頭の中で、昨日の、測定場の、あの、抉れた窪みを、思い浮かべた。

空間が、削り取られた、あの、鏡のような、断面。

(……違う)

すぐに、打ち消した。

あれは、自分が、やったことだ。

ここの水は、別の、何かが、消した。

けれど、「水を、消す」という、現象の、不気味な類似に、朔夜は、胸の奥を、ざわつかせずには、いられなかった。

「……先輩」

「ええ」

「ここにいるやつ、水を、食べてるのかな」

「…………」

芹香は、答えなかった。

答えない代わりに、銃を握る手に、わずかに、力を、込めた。

それが、肯定にも、否定にも、思えた。

*

坂道を、登りきった。

視界が、ふっと、開けた。

靄が、わずかに、薄れる。

目の前に、広大な、空間が、広がっていた。

谷だった。

左右を、切り立った山肌に、挟まれた、巨大な、窪地。

その、谷の、いちばん奥に。

コンクリートの、壁が、そびえていた。

ダムの、堤体。

高さは、百メートル近く、あるだろうか。灰色の、巨大な、アーチ状の壁が、谷を、まっすぐに、堰き止めている。表面は、長年の雨風で、黒ずみ、縦に、無数の、白い筋が、走っていた。雨水が、流れた痕だ。あるいは、水垢か、あるいは、別の、何かか。

朔夜は、息を、呑んだ。

壮大、という言葉では、足りない。

圧倒的、だった。

人間が、作ったはずの、巨大な、構造物が、それでも、何か、人間の、手には、負えないものの、墓標のように、見えた。

そして、その、手前。

堤体の、こちら側。

かつて、水を湛えていたはずの、広大な、貯水池の跡が、広がっていた。

水は、ない。

底が、見えている。

灰色の、ひび割れた、泥の、大地。

乾いた、泥の、亀裂が、蜘蛛の巣のように、縦横に、走っている。ところどころに、白い、石のような、塊が、転がっている。流木の、骨のような、残骸が、泥の上に、突き刺さっていた。

そこに、水など、一滴も、なかった。

それなのに。

ごおおおおおおおおおお。

水の音は、止まない。

むしろ、ここで、一段、大きくなった。

轟音が、谷の壁に、反響して、幾重にも、重なり合う。

まるで、乾いた泥の底の、さらに、その下から、巨大な、地下の大河が、うなりを上げて、流れているかのように。

朔夜は、思わず、一歩、後ずさった。

背中が、芹香の、胸に、当たった。

「……大丈夫」

芹香の声が、耳元で、囁いた。

「ここで、止まっては、だめ。……歩き続けて」

「うん」

「あちらに、建物が見えるでしょう」

芹香の指が、すっと、前方を、指した。

貯水池の、縁に、沿って。

堤体の、手前の、小高い、台地の上に。

小さな、灰色の、四角い、建物が、見えた。

二階建て。コンクリート造り。窓は、すべて、黒い、四角い穴に、なっている。ガラスは、割れて、枠だけが、残っていた。外壁は、一面に、緑の蔦に、覆われ、屋上には、錆びた、アンテナの、骨組みが、傾いて、立っていた。

管理事務所だ。

過去の、調査班が、拠点にしていたはずの、場所。

そして、おそらく、最後に、消息を、絶った場所。

「……あそこから、調べよう」

「ええ」

朔夜は、頷いた。

歩き出す。

貯水池の縁の、道を。

左側は、崖。右側は、乾いた、泥の、大地。

その、泥の、大地を、朔夜は、なるべく、見ないようにして、歩いた。

見ていると、目が、吸い込まれそうだった。

ひび割れた、灰色の、泥。

その亀裂の、奥の、暗闇に、何かが、潜んでいる。

そんな、気配が、あった。

一歩ごとに、水の音が、足の裏から、膝へ、腰へ、背骨へ、這い上がってくる。

骨が、震える。

内臓が、揺さぶられる。

全身が、巨大な、太鼓の、内側に、閉じ込められたような、感覚だった。

朔夜は、歯を、食いしばった。

戦鎚の柄を、強く、握りしめる。

握りしめた掌の中で、革が、きし、と、鳴った。

*

管理事務所の、入口は、半ば、開いていた。

鉄製の、ドア。蝶番が、片方、外れかけて、斜めに、傾いている。ドアノブは、錆びて、赤茶色に、変色していた。

朔夜は、ドアの、前で、立ち止まった。

そして、気づいた。

地面に。

コンクリートの、玄関先の、ひび割れた、床の上に。

足跡が、あった。

濡れた、足跡。

裸足の、足跡だった。

小さな、足。

指の形まで、はっきりと、分かる。五本の指が、湿った床に、くっきりと、印されている。

その足跡は、ドアの向こうから、外へ、続いていた。

そして、外の、乾いた泥の、大地の方へ、一歩、一歩、点々と、伸びている。

足跡は、濡れている。

まだ、乾いていない。

つい、さっき、ここを、誰かが、通ったかのように。

けれど、周りの地面は、どこも、乾いている。雨が、降った痕跡は、ない。水たまりも、ない。

朔夜は、息を、止めた。

ゆっくりと、その足跡を、目で、追った。

足跡は、貯水池の、乾いた、泥の、中へ、続いていた。

泥の上にも、くっきりと、残っている。

ひび割れの上を、まっすぐに、歩いていく、裸足の、小さな足跡。

その足跡は、遠く、遠く、泥の、大地の、真ん中あたりで、ふっつりと、途切れていた。

「……先輩」

「見えているわ」

「あれ、さ」

「ええ」

「……出て、いったんじゃ、なくて」

「ええ」

芹香の声は、ほとんど、囁きだった。

「たぶん、入ったのよ。……あの、泥の、真ん中へ」

「…………」

「そして、そこで、消えた」

朔夜は、唾を、飲み込んだ。

足跡の主は、事務所を、出て、乾いた大地の、真ん中まで、歩いていった。

そこで、何が、あったのか。

足跡が、途切れた場所に、何が、あるのか。

朔夜は、その方角を、じっと、見つめた。

ごおおお、ごおおおおおお。

水の音が、ひときわ、大きく、うねった。

その、うねりの中心が、あの、足跡の、途切れた、あたり。

そんな、気がした。

「……中、入ろう」

朔夜は、そう言った。

声は、小さく、掠れていた。

「外で、見てても、分かんない」

「ええ」

「先輩、後ろ、お願い」

「任せて」

朔夜は、ドアの、隙間に、手をかけた。

錆びた鉄が、ぎい、と、軋んだ。

力を込めて、押し開ける。

ドアが、ゆっくりと、内側へ、開いていく。

蝶番が、悲鳴を上げて、外れた。

ごと、と、鈍い音を立てて、ドアが、床に、倒れた。

埃が、舞い上がる。

白い、細かな粒子が、薄暗い、室内の空気の中で、きらきらと、舞った。

朔夜は、その、埃の、向こうを、見据えた。

事務所の、内部が、見えた。

*

暗い。

窓は、すべて、割れているのに、外の光は、ほとんど、入ってこなかった。外の靄が、濃すぎるのだ。室内は、薄青い、水の底のような、淡い、闇に、沈んでいた。

湿った、冷たい空気が、顔に、触れる。

カビの匂い。紙の腐る匂い。古い、水の匂い。

そして、その奥に、ほんの少し、混じる、別の、匂い。

甘い。

鉄の味のする、甘さ。

血、ではない。血は、もっと、生々しい。

これは、腐りかけた、花のような。あるいは、海の、底の、藻のような。

朔夜は、鼻を、鳴らした。

嫌な、匂いだった。

足を、踏み入れる。

ブーツの底が、床の、埃を、擦る。

ぱり、と、乾いた、何かを、踏む音が、した。

見下ろす。

割れた、ガラスの、破片だった。

床一面に、ガラスの破片が、散らばっている。窓が、内側から、割られたのか、外側から、割られたのか。破片の、散り方から、判断することは、できなかった。

部屋は、事務室だったらしい。

いくつもの、スチール製の、机が、並んでいる。ほとんどが、倒れ、引き出しが、飛び出し、書類が、床一面に、散乱していた。紙は、湿気で、ふやけて、どれも、ぶよぶよに、膨れ上がっている。インクが、滲んで、文字は、読めない。

壁の時計は、止まっていた。

針は、三時十二分を、指している。

午前か、午後かは、分からない。

いつの、三時十二分なのかも。

朔夜は、部屋の中を、ゆっくりと、見回した。

入口から、見て、右手の、壁際。

そこに、荷物が、積まれていた。

黒い、頑丈な、ナイロン製の、リュックが、四つ。

きちんと、壁際に、並べて、置かれている。

調査班の、荷物だ。

一つ、一つ、近づいて、見る。

リュックの、側面に、小さな、名札が、縫いつけられていた。

『九条』

『三枝』

『日向』

『霧島』

四つの、名前。

朔夜は、その名札を、一つ、一つ、指先で、そっと、なぞった。

――あの、写真の、顔の、どれが、どの名前なのか。

朔夜には、分からなかった。

けれど、一番、左の、屈託なく笑っていた、丸い頬の少女は、この中の、誰かだ。

荷物は、整然と、積まれていた。

慌てて、逃げた形跡は、ない。

むしろ、「ここに、置いて、行こう」と、静かに、決めた、そんな、整い方だった。

リュックの、上に、一冊の、手帳が、載っていた。

黒い、革の、表紙。端が、擦り切れている。

朔夜は、その手帳に、手を、伸ばした。

指先が、触れる直前、ためらった。

見てはいけない、気がした。

これは、誰かの、最後の、言葉かもしれない。

「……読んで、いいと思う?」

朔夜は、振り返らずに、尋ねた。

「ええ」

芹香の声が、背後から、答えた。

「彼女たちの、無念を、私たちが、受け継ぐために。……読みましょう」

朔夜は、頷いた。

手帳を、取り上げる。

表紙は、湿って、ぶよぶよと、柔らかかった。

開く。

紙が、ぺり、と、音を立てて、剥がれる。

最初の、ページは、任務の、概要だった。日付。人員。装備。

几帳面な、小さな字。

ページを、めくる。

調査の、記録が、淡々と、綴られていた。

気温。湿度。水音の、強さの、記録。

――『初日。ゲート通過後、水音を確認。強度:中。夜間に増大傾向』

――『二日目。水音、昼間にも確認。強度:中〜強。三枝が、軽い頭痛を訴える』

――『三日目。水音、周期性あり。約十二秒周期。呼吸に似る。日向が、「誰かに、名前を呼ばれた」と、証言』

朔夜の、指が、止まった。

名前を、呼ばれた。

その、一行を、じっと、見つめる。

ページを、めくる。

筆跡が、少しずつ、乱れ始めていた。

――『四日目。日向、行方不明。夜間、見張り中に、消失。足跡のみ、残存。裸足。事務所から、貯水池跡へ』

――『五日目。日向の、捜索を、継続。三枝、九条、同行。貯水池跡の、中央付近で、足跡、途絶』

――『五日目、夜。三枝、行方不明』

ページの、文字が、さらに、乱れる。

――『六日目。九条と、二人。通信、繋がらず。水音、昼夜を問わず、強度:最大。誰かが、呼んでいる。呼ばれている。皆の、声が、する』

――『六日目、夜。九条が、泣いている。「日向が、呼んでいる」と、言う。止められない』

――『七日目。九条、消失』

――『七日目。霧島、ひとり。ここに、記す。もし、これを、読む者が、いるならば』

そこで、ページの、文字が、大きく、揺れていた。

ペンの先が、紙に、食い込んだ跡が、あった。

――『水を、見てはいけない。水の、音に、応えては、いけない。名前を、呼ばれても』

――『絶対に』

最後の、一行は、そこで、途切れていた。

インクが、にじみ、紙が、破れている。

朔夜は、手帳を、閉じた。

指が、震えていた。

閉じた手帳を、胸の前で、ぎゅっと、握りしめる。

紙の湿った感触が、掌に、冷たく、張りつく。

「……先輩」

「ええ」

「呼ばれる、んだって」

「ええ」

「名前を」

「……ええ」

朔夜は、顔を、上げた。

芹香が、すぐ後ろに、立っていた。

灰茶色の瞳が、朔夜を、まっすぐに、見つめている。そこには、恐れが、あった。でも、それ以上に、揺るぎない、静かな、決意が、あった。

「朔夜ちゃん」

「うん」

「もし、私が、あなたの名前を、呼ばなかったら」

「え?」

「その声は、私じゃない」

朔夜は、息を、呑んだ。

「約束して。……もし、誰かが、私の声で、あなたを、呼んだとしても」

「…………」

「私が、呼ぶときは、必ず、こう言うわ。『朔夜ちゃん』と」

「うん」

「そして、必ず、あなたの、肩に、手を、置く。声だけで、応えては、だめ」

「……うん」

「手が、触れていなければ、それは、偽物よ」

朔夜は、頷いた。

強く、何度も。

「わたしも、そうする。……先輩を、呼ぶときは、必ず、触る」

「ええ」

「先輩」

「なあに」

「……手、貸して」

朔夜は、手帳を、ポケットに押し込んで、右手を、差し出した。

芹香は、きょとんとして、それから、小さく、笑った。

その手を、取る。

指と指が、絡む。

細くて、長くて、少し乾いて、温かい指。

朔夜の、ごつごつとした、握りだこの手を、芹香の、しなやかな手が、きゅっと、包み込んだ。

「……あったかい」

「あなたの手も」

「えへへ」

「なあに」

「先輩の手、いつも、あったかいよね」

「そう?」

「うん。……死んでも、忘れないや」

「縁起でもないことを、言わないの」

「はあい」

二人は、手を、繋いだまま、しばらく、立っていた。

水の音が、窓の外から、唸り続けている。

ごおおおお、ごおおおお。

十二秒周期の、呼吸。

朔夜は、心の中で、数えた。

一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二。

ごおおお。

ぴたり、と、合っていた。

手帳に、書かれていた通りだった。

*

事務所の、二階の、窓辺に、立っていた。

割れた、窓枠の、向こうに、貯水池の跡が、一望できた。

灰色の、ひび割れた、泥の大地。

その向こうに、巨大な、堤体の、壁。

靄は、いつの間にか、少し、薄れていた。その代わり、空が、橙色に、染まり始めている。日没が、近づいているのだ。

朔夜は、窓枠に、肘を、置いていた。

冷たい、コンクリートの縁が、肘の骨に、食い込む。

隣に、芹香が、立っていた。

狙撃銃を、窓枠に、固定して、スコープを、覗いている。貯水池の、中央付近を、ゆっくりと、舐めるように、走査している。

銃身の、先端が、わずかに、動くたびに、芹香の、呼吸が、浅く、止まる。

長い、長い、沈黙。

水の、轟音だけが、二人の間を、満たしている。

「……何か、見える?」

「いいえ」

芹香は、スコープから、目を、離さなかった。

「何も。……ただ、泥と、ひび割れだけ」

「あの、足跡の、途切れたところ、は?」

「何もないわ。……ただ」

「ただ?」

「泥の、色が、少し、違う」

「色?」

「ええ。他の場所は、灰色なのに、あの一帯だけ、わずかに、黒ずんでいる。……濡れているように、見えるわ」

朔夜は、目を、凝らした。

肉眼では、見えない。

ただ、泥の大地の、遠い、真ん中に、ほんの小さな、黒い、点が、あるような、気がした。

そこだけ、水が、染み出している。

乾いた大地の、底から。

まるで、見えない、泉が、そこで、湧いているかのように。

「……あそこが、巣、かな」

「たぶん」

「行かなきゃ、いけないよね」

「ええ。……でも、いまは、まだ、早いわ」

芹香は、ようやく、スコープから、目を、離した。

朔夜のほうを、向く。

灰茶色の瞳が、橙色の、夕陽を、受けて、静かに、揺れていた。

「日没までに、戻らなければ、あの車は、去る」

「うん」

「でも、私は、戻らないつもりよ」

朔夜は、目を、見開いた。

「え」

「あの車に、戻る意味は、ないわ。……戻ったところで、また、別の場所に、送られるだけ」

芹香は、静かに、続けた。

「それなら、ここで、やるべきことを、やり遂げる。……そして、自分たちの足で、帰る」

「……先輩」

「迎えが、なくても、いいの」

芹香は、微笑んだ。

「歩いて、帰れば、いいのよ。……二人で」

朔夜は、胸の奥が、じん、と、熱くなるのを、感じた。

その熱が、空洞を、ゆっくりと、満たしていく。

「……うん」

「ええ」

「歩いて、帰ろう。……ぜったい」

「ええ」

「それで、また、焼き鮭、食べよ」

「ふふ。……そうね」

「厨房の、おばさんにも、お礼、言わなきゃ」

「ええ」

「おにぎり、おいしかったですって」

「きっと、喜ぶわ」

朔夜は、窓の外に、視線を、戻した。

空の、橙色が、少しずつ、深く、赤くなっていく。

山の稜線が、黒い影になって、浮かび上がる。

谷の底に、闇が、じわじわと、溜まり始めていた。

水の音が、少しずつ、高く、なっていく。

ごおおお、ごおおおおお。

夜が、近い。

夜が来れば、あの音は、もっと、強くなる。

そして、あの、足跡の主は、また、歩き出すのかもしれない。

朔夜は、戦鎚の柄を、そっと、握った。

鋼の、冷たい感触。

革の、しっとりとした、吸いつき。

その重みが、掌に、返ってくる。

重い。

けれど、その重さが、朔夜を、ここに、繋ぎとめている。

「ねえ、先輩」

「なあに」

「わたし、さ」

「ええ」

「ほんとは、まだ、こわい」

「ええ」

「でも、前みたいに、怖くて、動けなくなる感じじゃ、ない」

「そう」

「なんか……足が、ちゃんと、地面に、ついてる感じ」

「……いいことよ」

「うん」

朔夜は、窓枠から、肘を、離した。

背筋を、ぐっと、伸ばす。

「だから、行けると思う。……初めての、実戦」

芹香は、朔夜の顔を、じっと、見つめた。

それから、ゆっくりと、頷いた。

「ええ。……私が、あなたの、背中を、守るわ」

「わたしは、先輩の、前を、守る」

「ふふ。……お願いね」

二人は、顔を、見合わせた。

そして、同時に、ふっと、笑った。

その、笑い声が、小さく、薄暗い事務所の中に、響いた。

水の轟音に、掻き消されそうな、か細い、笑い声。

けれど、確かに、そこに、あった。

――そのとき。

水の音が、止まった。

唐突に。

前触れもなく。

ごおおおお、ごおおお、ご――

そこで、ぷつり、と、途切れた。

完全な、無音。

朔夜の、耳が、ぎいん、と、鳴った。

轟音が、消えた、その反動で、鼓膜が、痛いほど、張りつめている。自分の呼吸の音。心臓の音。芹香の、衣擦れの音。すべてが、異様なほど、大きく、聞こえた。

窓の外の、空気が、動いていない。

靄も、止まっている。

世界が、息を、止めた。

「…………先輩」

「ええ」

芹香の声は、囁きにも、満たなかった。

「来るわ」

朔夜は、胸ポケットの、護符に、指を、触れた。

金属が、氷のように、冷たかった。

窓の外の、貯水池の、乾いた、泥の大地の、中央付近。

黒ずんだ、あの一点が。

ゆっくりと。

本当に、ゆっくりと。

――波打ち始めた。

乾いた泥の、上で。

水のない、大地の、上で。

波紋が、同心円状に、広がっていく。

一つ、また、一つ。

まるで、見えない水面に、巨大な、雫が、落ちているかのように。

そして、その波紋の、中心から。

何かが、ゆっくりと、立ち上がろうとしていた。

朔夜は、戦鎚を、引き抜いた。

ずる、と、鋼が、金具から、滑り出る音。

芹香が、狙撃銃の、ボルトを、引いた。

かちゃ、り。

薬室に、一発目の弾が、送り込まれる。

三発のうちの、一発目が。

夕陽が、山の稜線に、触れた。

赤い光が、谷の底を、血のように、染める。

朔夜の、琥珀色の瞳が、その光を、映して、燃えるように、輝いた。

そのいちばん奥の、一粒の残り火が、ちらり、と、応えるように、揺れた。

――第2章 Part 3/4 へ続く

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作者について

紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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