第2章 ― 安全装置と呼ばれる少女たち2
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
車内は、革と機械油の匂いがした。
後部座席は、向かい合わせではなく、前向きの長いベンチシートだった。黒い合成革の座面は硬く、ところどころ、無数の誰かの体重で擦り切れて、艶を失っている。窓には黒いフィルムが貼られ、昼の光は、墨を溶かした水のように薄暗く濾されて、車内へ落ちていた。運転席との間には、肩の高さまでの、鉄の仕切り板。板の向こうで、黒い制服の背中が、微動だにせず、前を向いている。
エンジンの低い唸りが、座面を通して、尻の骨へ、じんと響いてくる。
朔夜は、背もたれに、背中を預けなかった。
腰の後ろに差した戦鎚の柄が、背もたれと背骨の間で、がちゃりと鳴るからだ。仕方なく、座面の前のほうへ浅く腰掛け、膝の上に、両手を置いた。両腕の外側に固定したトンファーの鋼が、手首の内側に、ひやりと触れている。
隣では、芹香が、長い狙撃銃を、膝の上に横たえて座っていた。
銃身の黒い艶消しの肌を、指先が、ゆっくりと、撫でている。一度、二度。銃床から、銃口の方向へ。それは、愛撫のようでもあり、点検のようでもあった。灰茶色の瞳は、膝の上の銃ではなく、黒いフィルムの向こうの、どこか遠くを見ている。
前庭の砂利を踏む音が、やがて、舗装路の、ざあああ、という滑らかな音に変わった。
寮舎の正門を、くぐったのだ。
重たい鉄の門扉が、背後で、閉まる気配がした。がらがらと、レールを走る、低い響き。それが、ばたん、と止まった瞬間、朔夜の胸の真ん中を、見えない蓋が、ぴたりと塞いだような気がした。
外の世界へ、出た。
けれど、「出た」という実感は、少しも、なかった。
むしろ、閉じ込められた、と思った。
この黒い鉄の箱ごと、どこか知らない場所へ、運ばれていく。窓の外の景色は、黒いフィルムの向こうで、色と形を失って、ぼんやりと、流れていくだけだった。
「……ねえ、先輩」
「なあに」
「予定、一四〇〇って、言ってなかったっけ」
声を出した途端、自分の声が、車内の空気に、妙に大きく、響いた。
芹香の指が、銃身の上で、ぴたりと、止まった。
「ええ。確かに、そう仰っていたわね」
「いま、まだ、お昼前だよね」
「十一時四十分」
「……早まった、のかな」
「そうね」
芹香は、淡々と、頷いた。
「理由は、おそらく、ひとつよ」
「……?」
「一刻も早く、あなたを、寮から離したいのでしょう。昨日の今日だもの。次に何かあれば、今度は、居住区画を、巻き込みかねない」
朔夜は、唇を、噛んだ。
噛んで、それから、すぐに、緩めた。
噛みしめる癖は、よくない。唇の内側が、昨日から、ずっと、ぼろぼろだった。
「……そっか」
「ええ」
「じゃあ、お昼ごはんも、ここで、食べるのかな」
声を、わざと、明るくした。
明るくした分だけ、空々しく響いたのが、自分でも分かった。
芹香は、ふっと、口元を、緩めた。
それから、自分の戦闘服の、脇のポケットに、手を入れた。取り出したのは、白い、小さな、紙の包みだった。
「はい」
「え?」
「あなたの分」
朔夜は、目を丸くして、それを、受け取った。
紙の包みは、ほんのりと、温かかった。掌に載せると、丸みを帯びた、柔らかな重みが、ある。包みの端から、ふわりと、海苔と、塩と、焼いた魚の脂の、香ばしい匂いが、立ち昇った。
「……おにぎり?」
「焼き鮭の。……さっき、玄関へ向かう途中で、厨房の方に、呼び止められたの。『これを、橘さんに』って」
「え」
「あなたが、朝、ほとんど食べられなかったのを、見ていらしたそうよ」
朔夜は、包みを、じっと見つめた。
紙は、薄い、白い、無地のもの。端が、少しだけ、よれている。急いで、包んだのだろう。折り目が、不揃いで、ところどころ、米粒が、紙の裏に、くっついていた。
丸顔の、割烹着の女性。
「橘さん」と、呼び方を、変えた人。
皿を渡すとき、手が、震えていた、あの人。
それでも。
それでも、あの人は、朔夜のために、握ってくれたのだ。
「…………」
喉の奥が、ぎゅうう、と、狭くなった。
朔夜は、包みを、両手で、そっと、包み込んだ。
温かい。
米の、ほのかな、体温。
紙の上から、掌に、じんわりと、染み込んでくる。
「……あったかい」
「ええ。握りたてよ」
「ちゃんと、握ってくれたんだ」
「ええ」
「わたしのこと、怖かったはずなのに」
「そうね」
芹香は、否定しなかった。
「怖かったのでしょうね。……それでも、あなたが、お腹を空かせているのは、知っていたのよ。人は、怖くても、他人のお腹の心配は、できるもの」
朔夜は、包みを、ゆっくりと、開いた。
紙が、かさ、と音を立てる。
中から、現れたのは、三角の、白いおにぎりだった。黒い海苔が、帯のように、巻かれている。握り方が、少し、いびつ。右の角が、ほんの少し、潰れている。けれど、表面に、きらきらと、塩の粒が、光っていた。
一口、齧る。
米の甘みが、口の中に、広がる。
続けて、塩気と、鮭の、脂のまろやかな旨み。
噛むたびに、米粒が、舌の上で、ほろほろと、解ける。
今度は、最初の一口から、ちゃんと、味が、した。
「……おいしい」
声が、震えた。
目の縁が、熱くなる。
朔夜は、俯いた。
俯いたまま、もう一口、齧った。
涙が、一粒、ぽとり、と、おにぎりの上に、落ちた。塩の粒の、隣に。涙の塩気と、米の塩気が、混ざる。
「泣きながら、食べるものでは、ないわよ」
「……だって」
「ええ。分かっているわ」
芹香の手が、朔夜の背中に、そっと、触れた。
掌の温かさが、戦闘服の硬い布を通して、じわりと、伝わってきた。その手が、ゆっくりと、背中を、上下に、撫でる。
「食べなさい。……全部、食べて」
「うん」
「それから、水も。……ほら」
芹香は、ポケットから、小さな金属の水筒を、取り出した。
蓋を、開けて、朔夜の手に、握らせる。
ぬるい、白湯だった。
朝、寮の廊下で、飲んだ、蜂蜜入りの、白湯と、同じ味が、した。
朔夜は、おにぎりを、最後の一粒まで、食べ尽くした。
紙を、丁寧に、畳む。
畳んだ紙を、胸ポケットへ、仕舞った。
護符の隣、同室の少女のメモの隣、銀杏の葉の、隣に。
(……全部、持っていく)
もう一度、そう、思った。
*
車は、街を、走っていた。
黒いフィルムの向こうに、ビルの影が、ぼんやりと、流れていく。信号待ちで、車体が、揺れて、止まる。窓の外を、人が、横切る気配。自転車のベルの音。どこかの店先の、スピーカーから流れる、軽快な音楽。
朔夜は、その音を、一つずつ、拾っていた。
日常の音。
平和な、午前の、音。
その日常の中を、世界を砕く少女と、その安全装置を乗せた、黒い鉄の箱が、静かに、通り過ぎていく。誰も、気づかない。誰も、窓の奥を、覗こうとしない。
朔夜は、フィルムの、端のほうの、ほんのわずかな隙間から、外を、盗み見た。
白い、横断歩道。
そこを渡る、小学生の、ランドセルの、赤。
笑い合って、手を繋いでいる、二人組。
(……あの子たちは)
(知らないんだ)
この世界の、裏側で、何が、起きているのかを。
巫女の素質を持つ者たちが、夜の闇と、化け物の爪の間に、立っていることを。
知らないまま、赤いランドセルを背負って、笑って、歩いている。
それで、いいのだと、朔夜は、思った。
そのために、自分たちは、いるのだ。
そう、思おうとした。
けれど、その思いの、すぐ隣に、別の言葉が、浮かんだ。
(……捨てられる、んだけどね、わたし)
その言葉を、朔夜は、そっと、胸の奥へ、押し戻した。
信号が、青に変わった。
車が、動き出す。
エンジンが、低く唸り、タイヤが、アスファルトを、擦る。ごお、と、風を切る音が、少しずつ、高くなっていった。
*
街が、消えた。
いつの間にか、というのが、正確な表現ではないかもしれない。
朔夜は、ずっと、窓の外の音を、聞いていた。聞いていたから、分かる。ひとつ、ひとつ、日常の音が、削ぎ落とされていくのを。
最初に、消えたのは、信号待ちの、ブレーキ音だった。
次に、店先の、音楽。
それから、人の声。自転車のベル。遠くの、工事の音。
代わりに、車体の底から、規則正しい、タイヤの唸りだけが、聞こえるようになった。車輪が、高速道路の、継ぎ目を、乗り越えるたびに、ことん、ことん、と、鈍い振動が、尻から背骨へ、這い上がってくる。
ことん。
ことん。
ことん。
その単調なリズムが、眠気に似た、重たい霞を、頭の奥に、ゆっくりと、広げていく。
朔夜は、頭を振って、その霞を、払った。
眠ってはいけない、と思った。
眠ってしまえば、また、あの、名前のない色の夢を、見てしまいそうだったから。
窓の外の光が、少しずつ、変わっていく。
黒いフィルムを透かして、ぼんやりと見える景色は、灰色から、くすんだ緑色へ。ビルの影が、森の影に、変わっていく。高速道路の、防音壁が、途切れて、その向こうに、紅葉し始めた山々が、連なって、見え隠れした。
気温が、少し、下がった。
車内の空気が、ひんやりと、肌に、触れる。朔夜は、戦闘服の袖口から、冷気が、忍び込んでくるのを、感じた。吐く息は、まだ、白くならない。けれど、鼻の頭が、ほんのり、冷たかった。
「……先輩」
「ええ」
「寒く、なってきたね」
「山に、入るもの。標高が上がれば、気温は、下がるわ」
「あとどのくらい、かかるのかな」
「地図では、二時間弱。……でも、あの山道は、地図通りには、いかないでしょうね」
芹香は、目を、閉じていた。
睫毛が、頬に、細い影を落としている。眠っているのでは、ない。呼吸が、一定のリズムで、深く、静かに、続いている。精神を、整えているのだ。狙撃手は、撃つ前に、心拍を、落とす。その準備を、いまから、始めている。
朔夜は、その横顔を、見つめた。
傷跡の残る頬。絆創膏。唇の端の、小さなかさぶた。
昨日、撃ってくれた、人。
三発しか、弾を与えられなかった、人。
その三発を、朔夜のために、使ってくれる、人。
(……先輩を、守りたい)
ふと、そう思った。
ふと、思って、それから、苦笑した。
(守られてる、のは、わたしのほうなのに)
朔夜は、膝の上の手を、握りしめた。
トンファーの鋼が、手首の内側に、冷たく、食い込む。
――守りたい。
その気持ちが、ほんの少しだけ、胸の空洞を、温めた。
*
高速道路を、降りた。
ウィンカーの、かち、かち、という音。車体が、大きく、左へ、傾く。ランプウェイの、緩やかなカーブを、下っていく。タイヤの音が、ざあ、という滑らかな音から、ごつごつとした、荒い音へ、変わった。
国道。
車線が、減る。信号の間隔が、延びる。道の両脇に、ぽつり、ぽつりと、民家が見える。瓦屋根の、古い農家。畑の、枯れかけた、トウモロコシの茎。軒先に吊るされた、干し柿の、橙色の、連なり。
朔夜は、フィルムの端から、それを、見ていた。
車は、さらに、進む。
民家の間隔が、広がっていく。
一軒、また一軒。畑が、荒れ地に変わる。荒れ地が、雑木林に変わる。看板が、立っている。
『この先 霧原ダム 通行注意』
白い文字は、風雨に晒されて、ほとんど、剥がれていた。
その看板を、通り過ぎたとき、車が、ぐっと、右へ、曲がった。
舗装が、途切れた。
タイヤが、砂利を、噛む。ざざざざ、と、荒々しい音が、車体の底から、這い上がってくる。車体が、がたがたと、揺れ始めた。座面が、尻を、突き上げる。朔夜は、座席の端の、取っ手を、掴んだ。
林道だ。
車窓の外の、木々が、急に、近くなった。
黒いフィルムの向こうで、無数の枝が、窓を、掠めていく。ざざ、ざざ、と、葉が、車体を、撫でる音。ときおり、太い枝が、屋根を、ごつん、と叩いた。その鈍い衝撃が、車内に、響き渡る。
空気が、湿ってきた。
どこからか、土と、腐葉土の、濃い匂いが、車内に、忍び込んでくる。換気口の、隙間から。それから、ほんのわずかに、苔と、冷たい水の、匂い。
「……湿ってきたね」
「ええ。……川が、近いのでしょう」
芹香が、目を、開けた。
灰茶色の瞳が、窓の外の、見えない景色を、見据える。
「ダムは、水を抜かれているはずよ。それでも、周辺の、地下水脈は、生きている。霧が、立ちやすい地形なのでしょうね」
「霧原、だもんね」
「ええ」
朔夜は、窓の外に、視線を、戻した。
木々の、緑が、いつの間にか、薄れていた。代わりに、白い、薄い、靄が、林の中に、ゆらゆらと、漂っている。車のヘッドライトが、いつの間にか、点いていた。白い光の筋が、靄の中に、ぼんやりと、溶けていく。
時刻は、まだ、午後の、早い時間のはずだった。
それなのに、あたりは、黄昏のように、薄暗かった。
――静かだった。
エンジンの音と、砂利の音以外、何も、聞こえない。
鳥の声が、しない。
虫の音も、しない。
風の音さえ、しない。
それは、自然の、静けさではなかった。
何かが、息を潜めている、静けさだった。
朔夜は、背筋が、ぞくり、と粟立つのを、感じた。
胸ポケットの中の、護符が、ひやり、と、冷たくなった気がした。
「……先輩」
「ええ。……感じているわ」
芹香の声は、低く、短かった。
狙撃銃を、膝の上で、静かに、握り直す。
指が、安全装置の、レバーに、触れた。
かちり、と、小さな金属の音が、車内に、響いた。
*
車が、止まった。
唐突だった。
エンジンの唸りが、一段、低くなって、それから、車体が、がくん、と、揺れて、動きを止めた。砂利の音が、消える。タイヤが、地面に、ぴたりと、食い込む。
静寂が、落ちた。
エンジンの、アイドリングの音だけが、低く、続いている。
運転席から、黒い制服の男が、ゆっくりと、こちらを、振り返った。
仕切り板の、小さな窓が、がらり、と、開く。
「到着、しました」
男の声は、平坦だった。
乾いた、紙のような声。
その瞳は、朔夜たちの顔を、見ていなかった。額のあたり、あるいは、肩のあたり。どこか、焦点を、ずらしている。
「ここが、旧・霧原ダム管理区画の、正面ゲートです」
「ありがとうございます」
芹香が、静かに、答えた。
「私どもが、降りたあとは」
「自分は、ここで、待機します。……ですが、ゲートの内側へは、入りません」
「入らない?」
「規則で、第七類の指定区域には、運転手は、立ち入れないことに、なっています」
男は、そこで、言葉を、切った。
それから、一枚の、小さな、金属の端末を、仕切り板の窓から、差し出した。
手のひらサイズの、黒い、角張った機械。表面に、小さな赤いランプが、ひとつ、点滅している。
「位置発信器です。……これを、お持ちください。本部で、常時、位置を、確認します」
「……了解しました」
芹香が、それを、受け取った。
重みを、確かめるように、掌で、軽く、弾ませる。
「それから、もうひとつ」
男は、声を、わずかに、落とした。
「通信は、ゲート内では、おそらく、繋がりません。……過去の調査班も、全員、ゲートを、越えた時点で、途絶しています」
「……存じております」
「回収の件ですが」
「ええ」
「…………」
男は、数秒、黙った。
バックミラーの中で、その目が、ほんのわずか、揺れた。
「自分は、回収の指示を、受けておりません」
朔夜は、息を、止めた。
芹香の指が、端末を、ぎゅっと握った。
「……つまり」
「任務が、完遂されたかどうかは、本部が、判断します。……自分は、ここで、定められた時間まで、待機し、その後は、帰還します」
「定められた時間とは」
「…………本日、日没まで」
日没まで。
朔夜は、窓の外の、薄暗い、靄の中を、見た。
いまは、午後、二時を、少し、回ったところ。
十月の、日没は、午後五時半頃。
三時間と、少し。
その間に、朔夜と芹香が、戻ってこなければ。
この車は、二人を置いて、走り去る。
それが、「回収の指示が、ない」ということの、意味だった。
「……分かりました」
芹香は、静かに、頷いた。
「ご丁寧に、ありがとうございます」
「……いえ」
男は、一瞬、何かを、言いかけた。
唇が、わずかに、動いた。
けれど、結局、何も、言わなかった。
仕切り板の窓が、がらり、と、閉じる。
そして、後部座席の扉の、ロックが、かちり、と、外れる音が、した。
「……行きましょう、朔夜ちゃん」
「うん」
朔夜は、頷いた。
扉の取っ手を、握る。
冷たい。
その冷たさを、掌に、焼きつけるように、強く、握った。
扉を、押し開ける。
外の空気が、流れ込んできた。
*
冷たい。
それが、第一の、感覚だった。
車内の、革と油の匂いが、一瞬で、吹き払われる。代わりに、鼻の奥へ、濃密な、湿った匂いが、流れ込んできた。
苔。
濡れた石。
腐りかけた落ち葉。
そして、その奥に、微かに混じる、鉄錆と、古い水の、淀んだ匂い。
吸い込むと、肺の底まで、冷気が染みた。吐く息が、白く、ふわりと、立ち昇る。十月の、午後二時のはずなのに、まるで、真冬の、早朝のような、冷え込みだった。
朔夜は、ブーツの底で、地面を、踏みしめた。
砂利が、ざり、と、鳴る。
足の裏の傷が、じんと、痛んだ。
けれど、その痛みが、「ここに、立っている」という、確かな、実感を、与えてくれた。
顔を上げる。
目の前に、ゲートが、そびえていた。
錆びた、鉄の、大きな門扉。高さは、三メートル近く。両開きの、観音扉。鉄の格子は、赤茶色に、変色して、ところどころ、塗装が、剥げ落ちている。蝶番の部分は、錆が、盛り上がって、こぶのように、固まっていた。
門扉には、太い鎖が、何重にも、巻かれていた。
その鎖の、中央に、大きな、南京錠が、ぶら下がっている。
錠は、開いていた。
ぱっくりと、口を、開けて。
鎖は、解かれ、地面に、蛇のように、垂れている。
「……開いてる」
朔夜は、小さく、呟いた。
「ええ。……過去の調査班が、開けたのでしょう」
「閉め直して、いかなかったんだね」
「閉める余裕が、なかったのかもしれないわ」
芹香の声は、静かだった。
その静けさが、かえって、不気味に、響いた。
門扉の脇に、錆びた看板が、斜めに、傾いて、立っていた。
白かったはずの地に、赤い文字が、書かれている。
『霧原ダム管理区画 関係者以外 立入禁止』
文字の上から、誰かが、爪で引っ掻いたような、細い傷が、無数に、走っていた。
朔夜は、その傷を、じっと、見つめた。
爪、にしては、幅が、広い。
それに、傷は、上から下へ、まっすぐではなく、斜めに、何本も、重なっていた。
「……これ」
「見ないほうが、いいわ」
「でも」
「いまは、まだ。……いまは、見るだけで、いい」
芹香は、そう言って、朔夜の肩を、そっと、押した。
その掌が、少し、冷たかった。
朔夜は、頷いた。
背後で、車の、エンジンの音が、聞こえた。
振り返ると、黒い車は、ゲートから、十メートルほど手前の、広場に、停まっていた。運転席の男は、前を向いたまま、微動だにしない。その背中が、やけに、小さく、見えた。
エンジンの低い唸りが、靄の中に、吸い込まれていく。
朔夜は、前を向いた。
錆びたゲートの、赤茶色の、肌。
その隙間から、向こう側の、闇が、覗いていた。
昼間なのに、暗い。
ゲートの向こうの空気が、こちら側より、さらに、濃く、重く、淀んでいる。靄が、地面に、這うように、漂っていた。白く、冷たく、ゆらゆらと。
芹香が、先に、動いた。
ゲートの、右側の門扉に、手をかける。
錆びた鉄が、ぎい、と、悲鳴を上げた。
低く、長く、軋む音。
その音が、靄の中に、吸い込まれて、一瞬、遠くで、反響した気がした。
門扉が、ゆっくりと、内側へ、開いていく。
鉄の匂いが、強く、鼻をついた。
錆の、赤い粉が、芹香の手袋に、べったりと、付着する。
隙間が、人ひとりが、通れる幅に、広がった。
芹香が、振り返った。
「……行くわよ」
「うん」
朔夜は、腰の後ろの、戦鎚の、柄に、手を、触れた。
鋼の、ひやりとした感触。
革の巻かれた握りが、掌に、吸いつくように、馴染む。
その、確かな重みが、朔夜の背骨を、まっすぐに、支えてくれた。
一歩。
ゲートの、敷居を、跨ぐ。
その瞬間だった。
――ごおおおおお。
音が、来た。
いや。
最初から、そこに、あったのかもしれない。
ゲートを越えた瞬間に、初めて、「聞こえるように」なったのかもしれない。
低く、重く、途切れることなく、どこまでも、続く、轟音。
水の音。
滝が、岩を、叩く音。
膨大な水量が、落差を、駆け下りていく、あの、圧倒的な、響き。
朔夜は、足を、止めた。
反射的に、辺りを、見回した。
靄の中に、見えるのは、赤茶色の、錆びた、鉄の柵と、苔むした、コンクリートの壁と、黒く、濡れた、雑木林の、影だけ。
水など、どこにも、ない。
滝など、どこにも、ない。
それなのに。
ごおおおおおお。
水の音は、止まない。
左右から、前から、後ろから、地面の下から、頭の上から。
あらゆる方向から、押し寄せてくる。
まるで、この区画全体が、巨大な滝壺の、底にでも、沈められているかのように。
「…………先輩」
「ええ」
「聞こえて、る?」
「ええ。……聞こえているわ」
芹香の声は、低く、押し殺されていた。
「これは、幻聴では、ないわ。少なくとも、私たち二人が、同時に、聞いている」
「……うん」
「装備課の方が、言っていたわね。『ダムは、水を抜いてあるのに、夜になると、滝のような音が、聞こえる』と」
「夜、って、言ってたよね」
「ええ」
「いま、昼間、だよね」
「……ええ」
芹香は、ゆっくりと、頷いた。
その目が、鋭く、細められる。
「つまり、あの方が、訪れた頃よりも、ここは、『進んで』いるのよ」
進んでいる。
その言葉の、意味を、朔夜は、悟った。
怪異の、侵食が、進んでいる。
夜にしか、聞こえなかった音が、昼間にも、聞こえるようになった。
夜の領域が、昼間を、食い始めている。
朔夜は、唾を、飲み込んだ。
喉が、ごくり、と、鳴った。
乾いた喉に、冷たい空気が、張りつく。
轟音の中で、自分の、嚥下の音だけが、やけに、鮮明に、聞こえた。
朔夜は、耳を、澄ました。
水の音の、向こう側に、もっと、別の、何かが、混じっていないかと。
水の音は、均一ではなかった。
よく、聞くと、ところどころ、ひずんでいる。波の、うねりのように、強くなったり、弱くなったりを、繰り返している。まるで、巨大な、何かの、呼吸のリズムのように。
ごおお、ごおおおお、ごおお、ごおおおお。
一定の、周期。
吸って、吐いて、吸って、吐いて。
朔夜の、背中の汗が、すうっと、冷えた。
水の音は、水の音では、ないのかもしれない。
これは、何か、大きなものの、息遣いだ。
そう、悟ってしまった瞬間、朔夜の全身の産毛が、一斉に、逆立った。
「……先輩」
「ええ」
「この音、息、してる」
「……そうね」
芹香は、否定しなかった。
「私にも、そう、聞こえる」
二人は、数秒、動けなかった。
ゲートの敷居の、すぐ内側で、肩を寄せ合って、立ち尽くしていた。
靄が、足元を、這う。
白く、冷たい、湿った指のように、ブーツの上から、足首に、絡みつく。
朔夜は、その靄を、見下ろした。
靄は、よく見ると、ただの水蒸気では、なかった。
ほんのわずかに、色を、帯びている。
薄い、ごく薄い、藍色。
それが、ゆらゆらと、地面から、立ち昇っている。
まるで、見えない水面から、立ち昇る、水の気配のように。
「……行こう、先輩」
朔夜は、顔を、上げた。
声は、思ったより、しっかり、出た。
「ここで、突っ立ってても、しょうがないもん」
「ええ」
「調べなきゃ。……消えた、人たちのこと」
芹香は、朔夜の横顔を、ちらりと、見た。
それから、小さく、微笑んだ。
「……ええ。そうね」
朔夜は、にっと、笑った。
歯を見せて。
轟音の中で、その笑顔は、小さく、頼りなかった。
けれど、確かに、そこに、あった。
二人は、並んで、歩き出した。
*
管理道路は、ゲートから、緩やかな、上り坂に、なっていた。
舗装は、ひび割れて、あちこちから、枯れ草が、生えている。アスファルトの割れ目に、黒い苔が、びっしりと、張りついていた。足を踏み出すたびに、ブーツの底が、ぬるり、と、滑りかけた。
道の両側は、雑木林だった。
葉の落ちた、黒い枝が、頭上に、網のように、広がっている。その隙間から、薄い、乳白色の空が、見え隠れする。幹の表面は、濡れて、黒く光っていた。幹に、苔が、緑色の、柔らかな毛皮のように、纏わりついている。
鳥は、いない。
虫も、いない。
風も、吹かない。
ただ、水の音だけが、休みなく、鳴り続けている。
朔夜は、戦鎚の柄を、握ったまま、慎重に、足を、運んだ。
一歩。
また、一歩。
靴底が、湿ったアスファルトを、踏みしめる。
ぬちゃ、ぬちゃ、と、粘ついた音。
その音が、水の轟音の中でも、不思議と、はっきり、聞こえた。
芹香は、すぐ後ろを、歩いていた。
狙撃銃を、肩から外して、両手で、構えている。銃口は、地面と、並行。足音が、ほとんど、しない。呼吸も、浅く、静かだった。朔夜は、背中に、その気配を、感じていた。
守られている、という、安心感。
そして、その安心感が、三発の弾の、重みの上に、成り立っていることの、重圧。
朔夜は、その二つを、同時に、背負って、歩いた。
「……ねえ、先輩」
「なあに」
「ここ、さ」
「ええ」
「なんで、三年前に、閉鎖されたんだっけ」
芹香は、数秒、黙っていた。
「……表向きは、老朽化。水害対策の、新しいダムが、下流に、完成したから、と」
「裏は?」
「記録には、載っていない。……でも」
「でも?」
「私が、調べた限りでは、閉鎖の、半年前に、この区画で、職員が、十二名、行方不明になっているわ」
朔夜は、足を、止めかけた。
慌てて、動かし続ける。
「……十二名」
「ええ。全員、同じ夜に」
「同じ夜に……」
「その夜、ダムは、満水だった。……そして、その翌朝、水位は、半分に、下がっていたそうよ」
朔夜の背筋が、ぞわり、と、粟立った。
「半分、って」
「ええ。一晩で、貯水量の半分が、消えた。放水の記録は、ない。決壊も、していない。……水が、ただ、『なくなった』の」
「…………」
「それから、一か月ごとに、水位は、下がり続けた。やがて、空になった。そして、ダムは、閉鎖された」
水が、なくなった。
水が、消えた。
どこへ。
朔夜は、頭の中で、昨日の、測定場の、あの、抉れた窪みを、思い浮かべた。
空間が、削り取られた、あの、鏡のような、断面。
(……違う)
すぐに、打ち消した。
あれは、自分が、やったことだ。
ここの水は、別の、何かが、消した。
けれど、「水を、消す」という、現象の、不気味な類似に、朔夜は、胸の奥を、ざわつかせずには、いられなかった。
「……先輩」
「ええ」
「ここにいるやつ、水を、食べてるのかな」
「…………」
芹香は、答えなかった。
答えない代わりに、銃を握る手に、わずかに、力を、込めた。
それが、肯定にも、否定にも、思えた。
*
坂道を、登りきった。
視界が、ふっと、開けた。
靄が、わずかに、薄れる。
目の前に、広大な、空間が、広がっていた。
谷だった。
左右を、切り立った山肌に、挟まれた、巨大な、窪地。
その、谷の、いちばん奥に。
コンクリートの、壁が、そびえていた。
ダムの、堤体。
高さは、百メートル近く、あるだろうか。灰色の、巨大な、アーチ状の壁が、谷を、まっすぐに、堰き止めている。表面は、長年の雨風で、黒ずみ、縦に、無数の、白い筋が、走っていた。雨水が、流れた痕だ。あるいは、水垢か、あるいは、別の、何かか。
朔夜は、息を、呑んだ。
壮大、という言葉では、足りない。
圧倒的、だった。
人間が、作ったはずの、巨大な、構造物が、それでも、何か、人間の、手には、負えないものの、墓標のように、見えた。
そして、その、手前。
堤体の、こちら側。
かつて、水を湛えていたはずの、広大な、貯水池の跡が、広がっていた。
水は、ない。
底が、見えている。
灰色の、ひび割れた、泥の、大地。
乾いた、泥の、亀裂が、蜘蛛の巣のように、縦横に、走っている。ところどころに、白い、石のような、塊が、転がっている。流木の、骨のような、残骸が、泥の上に、突き刺さっていた。
そこに、水など、一滴も、なかった。
それなのに。
ごおおおおおおおおおお。
水の音は、止まない。
むしろ、ここで、一段、大きくなった。
轟音が、谷の壁に、反響して、幾重にも、重なり合う。
まるで、乾いた泥の底の、さらに、その下から、巨大な、地下の大河が、うなりを上げて、流れているかのように。
朔夜は、思わず、一歩、後ずさった。
背中が、芹香の、胸に、当たった。
「……大丈夫」
芹香の声が、耳元で、囁いた。
「ここで、止まっては、だめ。……歩き続けて」
「うん」
「あちらに、建物が見えるでしょう」
芹香の指が、すっと、前方を、指した。
貯水池の、縁に、沿って。
堤体の、手前の、小高い、台地の上に。
小さな、灰色の、四角い、建物が、見えた。
二階建て。コンクリート造り。窓は、すべて、黒い、四角い穴に、なっている。ガラスは、割れて、枠だけが、残っていた。外壁は、一面に、緑の蔦に、覆われ、屋上には、錆びた、アンテナの、骨組みが、傾いて、立っていた。
管理事務所だ。
過去の、調査班が、拠点にしていたはずの、場所。
そして、おそらく、最後に、消息を、絶った場所。
「……あそこから、調べよう」
「ええ」
朔夜は、頷いた。
歩き出す。
貯水池の縁の、道を。
左側は、崖。右側は、乾いた、泥の、大地。
その、泥の、大地を、朔夜は、なるべく、見ないようにして、歩いた。
見ていると、目が、吸い込まれそうだった。
ひび割れた、灰色の、泥。
その亀裂の、奥の、暗闇に、何かが、潜んでいる。
そんな、気配が、あった。
一歩ごとに、水の音が、足の裏から、膝へ、腰へ、背骨へ、這い上がってくる。
骨が、震える。
内臓が、揺さぶられる。
全身が、巨大な、太鼓の、内側に、閉じ込められたような、感覚だった。
朔夜は、歯を、食いしばった。
戦鎚の柄を、強く、握りしめる。
握りしめた掌の中で、革が、きし、と、鳴った。
*
管理事務所の、入口は、半ば、開いていた。
鉄製の、ドア。蝶番が、片方、外れかけて、斜めに、傾いている。ドアノブは、錆びて、赤茶色に、変色していた。
朔夜は、ドアの、前で、立ち止まった。
そして、気づいた。
地面に。
コンクリートの、玄関先の、ひび割れた、床の上に。
足跡が、あった。
濡れた、足跡。
裸足の、足跡だった。
小さな、足。
指の形まで、はっきりと、分かる。五本の指が、湿った床に、くっきりと、印されている。
その足跡は、ドアの向こうから、外へ、続いていた。
そして、外の、乾いた泥の、大地の方へ、一歩、一歩、点々と、伸びている。
足跡は、濡れている。
まだ、乾いていない。
つい、さっき、ここを、誰かが、通ったかのように。
けれど、周りの地面は、どこも、乾いている。雨が、降った痕跡は、ない。水たまりも、ない。
朔夜は、息を、止めた。
ゆっくりと、その足跡を、目で、追った。
足跡は、貯水池の、乾いた、泥の、中へ、続いていた。
泥の上にも、くっきりと、残っている。
ひび割れの上を、まっすぐに、歩いていく、裸足の、小さな足跡。
その足跡は、遠く、遠く、泥の、大地の、真ん中あたりで、ふっつりと、途切れていた。
「……先輩」
「見えているわ」
「あれ、さ」
「ええ」
「……出て、いったんじゃ、なくて」
「ええ」
芹香の声は、ほとんど、囁きだった。
「たぶん、入ったのよ。……あの、泥の、真ん中へ」
「…………」
「そして、そこで、消えた」
朔夜は、唾を、飲み込んだ。
足跡の主は、事務所を、出て、乾いた大地の、真ん中まで、歩いていった。
そこで、何が、あったのか。
足跡が、途切れた場所に、何が、あるのか。
朔夜は、その方角を、じっと、見つめた。
ごおおお、ごおおおおおお。
水の音が、ひときわ、大きく、うねった。
その、うねりの中心が、あの、足跡の、途切れた、あたり。
そんな、気がした。
「……中、入ろう」
朔夜は、そう言った。
声は、小さく、掠れていた。
「外で、見てても、分かんない」
「ええ」
「先輩、後ろ、お願い」
「任せて」
朔夜は、ドアの、隙間に、手をかけた。
錆びた鉄が、ぎい、と、軋んだ。
力を込めて、押し開ける。
ドアが、ゆっくりと、内側へ、開いていく。
蝶番が、悲鳴を上げて、外れた。
ごと、と、鈍い音を立てて、ドアが、床に、倒れた。
埃が、舞い上がる。
白い、細かな粒子が、薄暗い、室内の空気の中で、きらきらと、舞った。
朔夜は、その、埃の、向こうを、見据えた。
事務所の、内部が、見えた。
*
暗い。
窓は、すべて、割れているのに、外の光は、ほとんど、入ってこなかった。外の靄が、濃すぎるのだ。室内は、薄青い、水の底のような、淡い、闇に、沈んでいた。
湿った、冷たい空気が、顔に、触れる。
カビの匂い。紙の腐る匂い。古い、水の匂い。
そして、その奥に、ほんの少し、混じる、別の、匂い。
甘い。
鉄の味のする、甘さ。
血、ではない。血は、もっと、生々しい。
これは、腐りかけた、花のような。あるいは、海の、底の、藻のような。
朔夜は、鼻を、鳴らした。
嫌な、匂いだった。
足を、踏み入れる。
ブーツの底が、床の、埃を、擦る。
ぱり、と、乾いた、何かを、踏む音が、した。
見下ろす。
割れた、ガラスの、破片だった。
床一面に、ガラスの破片が、散らばっている。窓が、内側から、割られたのか、外側から、割られたのか。破片の、散り方から、判断することは、できなかった。
部屋は、事務室だったらしい。
いくつもの、スチール製の、机が、並んでいる。ほとんどが、倒れ、引き出しが、飛び出し、書類が、床一面に、散乱していた。紙は、湿気で、ふやけて、どれも、ぶよぶよに、膨れ上がっている。インクが、滲んで、文字は、読めない。
壁の時計は、止まっていた。
針は、三時十二分を、指している。
午前か、午後かは、分からない。
いつの、三時十二分なのかも。
朔夜は、部屋の中を、ゆっくりと、見回した。
入口から、見て、右手の、壁際。
そこに、荷物が、積まれていた。
黒い、頑丈な、ナイロン製の、リュックが、四つ。
きちんと、壁際に、並べて、置かれている。
調査班の、荷物だ。
一つ、一つ、近づいて、見る。
リュックの、側面に、小さな、名札が、縫いつけられていた。
『九条』
『三枝』
『日向』
『霧島』
四つの、名前。
朔夜は、その名札を、一つ、一つ、指先で、そっと、なぞった。
――あの、写真の、顔の、どれが、どの名前なのか。
朔夜には、分からなかった。
けれど、一番、左の、屈託なく笑っていた、丸い頬の少女は、この中の、誰かだ。
荷物は、整然と、積まれていた。
慌てて、逃げた形跡は、ない。
むしろ、「ここに、置いて、行こう」と、静かに、決めた、そんな、整い方だった。
リュックの、上に、一冊の、手帳が、載っていた。
黒い、革の、表紙。端が、擦り切れている。
朔夜は、その手帳に、手を、伸ばした。
指先が、触れる直前、ためらった。
見てはいけない、気がした。
これは、誰かの、最後の、言葉かもしれない。
「……読んで、いいと思う?」
朔夜は、振り返らずに、尋ねた。
「ええ」
芹香の声が、背後から、答えた。
「彼女たちの、無念を、私たちが、受け継ぐために。……読みましょう」
朔夜は、頷いた。
手帳を、取り上げる。
表紙は、湿って、ぶよぶよと、柔らかかった。
開く。
紙が、ぺり、と、音を立てて、剥がれる。
最初の、ページは、任務の、概要だった。日付。人員。装備。
几帳面な、小さな字。
ページを、めくる。
調査の、記録が、淡々と、綴られていた。
気温。湿度。水音の、強さの、記録。
――『初日。ゲート通過後、水音を確認。強度:中。夜間に増大傾向』
――『二日目。水音、昼間にも確認。強度:中〜強。三枝が、軽い頭痛を訴える』
――『三日目。水音、周期性あり。約十二秒周期。呼吸に似る。日向が、「誰かに、名前を呼ばれた」と、証言』
朔夜の、指が、止まった。
名前を、呼ばれた。
その、一行を、じっと、見つめる。
ページを、めくる。
筆跡が、少しずつ、乱れ始めていた。
――『四日目。日向、行方不明。夜間、見張り中に、消失。足跡のみ、残存。裸足。事務所から、貯水池跡へ』
――『五日目。日向の、捜索を、継続。三枝、九条、同行。貯水池跡の、中央付近で、足跡、途絶』
――『五日目、夜。三枝、行方不明』
ページの、文字が、さらに、乱れる。
――『六日目。九条と、二人。通信、繋がらず。水音、昼夜を問わず、強度:最大。誰かが、呼んでいる。呼ばれている。皆の、声が、する』
――『六日目、夜。九条が、泣いている。「日向が、呼んでいる」と、言う。止められない』
――『七日目。九条、消失』
――『七日目。霧島、ひとり。ここに、記す。もし、これを、読む者が、いるならば』
そこで、ページの、文字が、大きく、揺れていた。
ペンの先が、紙に、食い込んだ跡が、あった。
――『水を、見てはいけない。水の、音に、応えては、いけない。名前を、呼ばれても』
――『絶対に』
最後の、一行は、そこで、途切れていた。
インクが、にじみ、紙が、破れている。
朔夜は、手帳を、閉じた。
指が、震えていた。
閉じた手帳を、胸の前で、ぎゅっと、握りしめる。
紙の湿った感触が、掌に、冷たく、張りつく。
「……先輩」
「ええ」
「呼ばれる、んだって」
「ええ」
「名前を」
「……ええ」
朔夜は、顔を、上げた。
芹香が、すぐ後ろに、立っていた。
灰茶色の瞳が、朔夜を、まっすぐに、見つめている。そこには、恐れが、あった。でも、それ以上に、揺るぎない、静かな、決意が、あった。
「朔夜ちゃん」
「うん」
「もし、私が、あなたの名前を、呼ばなかったら」
「え?」
「その声は、私じゃない」
朔夜は、息を、呑んだ。
「約束して。……もし、誰かが、私の声で、あなたを、呼んだとしても」
「…………」
「私が、呼ぶときは、必ず、こう言うわ。『朔夜ちゃん』と」
「うん」
「そして、必ず、あなたの、肩に、手を、置く。声だけで、応えては、だめ」
「……うん」
「手が、触れていなければ、それは、偽物よ」
朔夜は、頷いた。
強く、何度も。
「わたしも、そうする。……先輩を、呼ぶときは、必ず、触る」
「ええ」
「先輩」
「なあに」
「……手、貸して」
朔夜は、手帳を、ポケットに押し込んで、右手を、差し出した。
芹香は、きょとんとして、それから、小さく、笑った。
その手を、取る。
指と指が、絡む。
細くて、長くて、少し乾いて、温かい指。
朔夜の、ごつごつとした、握りだこの手を、芹香の、しなやかな手が、きゅっと、包み込んだ。
「……あったかい」
「あなたの手も」
「えへへ」
「なあに」
「先輩の手、いつも、あったかいよね」
「そう?」
「うん。……死んでも、忘れないや」
「縁起でもないことを、言わないの」
「はあい」
二人は、手を、繋いだまま、しばらく、立っていた。
水の音が、窓の外から、唸り続けている。
ごおおおお、ごおおおお。
十二秒周期の、呼吸。
朔夜は、心の中で、数えた。
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二。
ごおおお。
ぴたり、と、合っていた。
手帳に、書かれていた通りだった。
*
事務所の、二階の、窓辺に、立っていた。
割れた、窓枠の、向こうに、貯水池の跡が、一望できた。
灰色の、ひび割れた、泥の大地。
その向こうに、巨大な、堤体の、壁。
靄は、いつの間にか、少し、薄れていた。その代わり、空が、橙色に、染まり始めている。日没が、近づいているのだ。
朔夜は、窓枠に、肘を、置いていた。
冷たい、コンクリートの縁が、肘の骨に、食い込む。
隣に、芹香が、立っていた。
狙撃銃を、窓枠に、固定して、スコープを、覗いている。貯水池の、中央付近を、ゆっくりと、舐めるように、走査している。
銃身の、先端が、わずかに、動くたびに、芹香の、呼吸が、浅く、止まる。
長い、長い、沈黙。
水の、轟音だけが、二人の間を、満たしている。
「……何か、見える?」
「いいえ」
芹香は、スコープから、目を、離さなかった。
「何も。……ただ、泥と、ひび割れだけ」
「あの、足跡の、途切れたところ、は?」
「何もないわ。……ただ」
「ただ?」
「泥の、色が、少し、違う」
「色?」
「ええ。他の場所は、灰色なのに、あの一帯だけ、わずかに、黒ずんでいる。……濡れているように、見えるわ」
朔夜は、目を、凝らした。
肉眼では、見えない。
ただ、泥の大地の、遠い、真ん中に、ほんの小さな、黒い、点が、あるような、気がした。
そこだけ、水が、染み出している。
乾いた大地の、底から。
まるで、見えない、泉が、そこで、湧いているかのように。
「……あそこが、巣、かな」
「たぶん」
「行かなきゃ、いけないよね」
「ええ。……でも、いまは、まだ、早いわ」
芹香は、ようやく、スコープから、目を、離した。
朔夜のほうを、向く。
灰茶色の瞳が、橙色の、夕陽を、受けて、静かに、揺れていた。
「日没までに、戻らなければ、あの車は、去る」
「うん」
「でも、私は、戻らないつもりよ」
朔夜は、目を、見開いた。
「え」
「あの車に、戻る意味は、ないわ。……戻ったところで、また、別の場所に、送られるだけ」
芹香は、静かに、続けた。
「それなら、ここで、やるべきことを、やり遂げる。……そして、自分たちの足で、帰る」
「……先輩」
「迎えが、なくても、いいの」
芹香は、微笑んだ。
「歩いて、帰れば、いいのよ。……二人で」
朔夜は、胸の奥が、じん、と、熱くなるのを、感じた。
その熱が、空洞を、ゆっくりと、満たしていく。
「……うん」
「ええ」
「歩いて、帰ろう。……ぜったい」
「ええ」
「それで、また、焼き鮭、食べよ」
「ふふ。……そうね」
「厨房の、おばさんにも、お礼、言わなきゃ」
「ええ」
「おにぎり、おいしかったですって」
「きっと、喜ぶわ」
朔夜は、窓の外に、視線を、戻した。
空の、橙色が、少しずつ、深く、赤くなっていく。
山の稜線が、黒い影になって、浮かび上がる。
谷の底に、闇が、じわじわと、溜まり始めていた。
水の音が、少しずつ、高く、なっていく。
ごおおお、ごおおおおお。
夜が、近い。
夜が来れば、あの音は、もっと、強くなる。
そして、あの、足跡の主は、また、歩き出すのかもしれない。
朔夜は、戦鎚の柄を、そっと、握った。
鋼の、冷たい感触。
革の、しっとりとした、吸いつき。
その重みが、掌に、返ってくる。
重い。
けれど、その重さが、朔夜を、ここに、繋ぎとめている。
「ねえ、先輩」
「なあに」
「わたし、さ」
「ええ」
「ほんとは、まだ、こわい」
「ええ」
「でも、前みたいに、怖くて、動けなくなる感じじゃ、ない」
「そう」
「なんか……足が、ちゃんと、地面に、ついてる感じ」
「……いいことよ」
「うん」
朔夜は、窓枠から、肘を、離した。
背筋を、ぐっと、伸ばす。
「だから、行けると思う。……初めての、実戦」
芹香は、朔夜の顔を、じっと、見つめた。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「ええ。……私が、あなたの、背中を、守るわ」
「わたしは、先輩の、前を、守る」
「ふふ。……お願いね」
二人は、顔を、見合わせた。
そして、同時に、ふっと、笑った。
その、笑い声が、小さく、薄暗い事務所の中に、響いた。
水の轟音に、掻き消されそうな、か細い、笑い声。
けれど、確かに、そこに、あった。
――そのとき。
水の音が、止まった。
唐突に。
前触れもなく。
ごおおおお、ごおおお、ご――
そこで、ぷつり、と、途切れた。
完全な、無音。
朔夜の、耳が、ぎいん、と、鳴った。
轟音が、消えた、その反動で、鼓膜が、痛いほど、張りつめている。自分の呼吸の音。心臓の音。芹香の、衣擦れの音。すべてが、異様なほど、大きく、聞こえた。
窓の外の、空気が、動いていない。
靄も、止まっている。
世界が、息を、止めた。
「…………先輩」
「ええ」
芹香の声は、囁きにも、満たなかった。
「来るわ」
朔夜は、胸ポケットの、護符に、指を、触れた。
金属が、氷のように、冷たかった。
窓の外の、貯水池の、乾いた、泥の大地の、中央付近。
黒ずんだ、あの一点が。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
――波打ち始めた。
乾いた泥の、上で。
水のない、大地の、上で。
波紋が、同心円状に、広がっていく。
一つ、また、一つ。
まるで、見えない水面に、巨大な、雫が、落ちているかのように。
そして、その波紋の、中心から。
何かが、ゆっくりと、立ち上がろうとしていた。
朔夜は、戦鎚を、引き抜いた。
ずる、と、鋼が、金具から、滑り出る音。
芹香が、狙撃銃の、ボルトを、引いた。
かちゃ、り。
薬室に、一発目の弾が、送り込まれる。
三発のうちの、一発目が。
夕陽が、山の稜線に、触れた。
赤い光が、谷の底を、血のように、染める。
朔夜の、琥珀色の瞳が、その光を、映して、燃えるように、輝いた。
そのいちばん奥の、一粒の残り火が、ちらり、と、応えるように、揺れた。
――第2章 Part 3/4 へ続く
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