第2章 ― 安全装置と呼ばれる少女たち3
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
音のない世界というものを朔夜は生まれて初めて知った。
道場の静けさとも地下の測定場の静けさとも違う。あれらには必ず何かが息づいていた。樫の床板の軋みや蛍光灯の唸りや壁の向こうの人の気配が薄い膜のように静寂の裏側に貼りついていた。いま窓の外に広がっているのは違う。音そのものが谷ごと引き抜かれてどこか遠くへ捨てられたような完全な空白だった。
自分の心臓の音がやけに大きい。
肺に空気を送り込むたびに喉の奥で擦れる微かな音まで耳の中でがりがりと響いた。隣に立つ芹香の衣擦れや銃のボルトに指が触れる金属の囁きまでが見えない糸を伝って鼓膜に直接届いてくる。
朔夜は戦鎚の柄を握り直した。
革の巻かれた握りが掌の汗を吸ってじっとりと重くなっている。鋼の冷たさはその革の下からなお指の骨へ這い上がってきた。冷たいというより凍てつくという言葉のほうが近い。ついさっきまで頬を撫でていた谷の冷気とは明らかに質の違う冷え方が窓枠から壁から床のコンクリートからじわじわと染み出して二階の事務室の空気を内側から凍らせていく。
吐く息が白くなった。
十月の午後の山間とはいえ数分前までは白くならなかった息がいまは唇を離れた瞬間に霧の塊となって窓の外へ流れ出し夕陽の赤を吸ってほんのりと血の色に染まった。
窓枠の向こうで貯水池跡の乾いた泥の大地が波打っている。
波打つという言葉は正確ではないかもしれない。大地そのものが水面に変わりつつあるのだ。ひび割れた灰色の泥が中央の黒ずんだ一点を中心にして静かに艶を帯びていく。乾いたものが濡れていくのではなく最初から濡れていたものが乾いた振りをやめていくような不気味な変化だった。亀裂の網の目が一本また一本と黒い光沢に呑み込まれて消えていき同心円の波紋だけが音もなく外へ外へと広がっていく。
波紋が泥の縁に達するたびに足元のコンクリートがほんのわずかに震えた。
音はない。
震えだけがある。
朔夜は喉の奥が干上がっていくのを感じて唾を飲み込もうとしたが飲み込むものがなかった。
「先輩」
声は自分でも驚くほど小さくなった。
「ええ」
芹香の返事はそれよりさらに小さかった。
スコープを覗く灰茶色の瞳は瞬きをしていない。窓枠に固定された銃身はぴくりとも動かず夕陽を受けた黒い艶消しの表面に赤い光の筋が一本だけ走っていた。芹香の呼吸は浅く長く極限まで静かに整えられている。狙撃手が引き金を引く直前に心拍を落とすあの凪の中に彼女はすでに沈んでいた。
「中心の泥が盛り上がっているわ」
「見える」
「高さは……まだ三メートルほど」
「三メートル」
「上へ伸びているの。ゆっくりと」
朔夜は目を凝らした。
肉眼でも見えた。
黒く艶めく泥の中心から何かが静かに立ち上がっている。最初は水柱のように見えたがすぐに違うと分かった。水柱は重力に引かれて崩れるものだ。それは崩れなかった。上へ上へと伸びながらもその輪郭は絹のように滑らかに保たれ内側から押し上げる何かの意志に従って整然と形を作っていく。
四メートル。
五メートル。
夕陽がその表面に触れて赤い光が滑った。
透けている。
黒いのは泥の艶が移っていただけで立ち上がるものそのものは氷のように半透明だった。その内側に薄い藍色の靄が水槽の中の墨のようにゆるやかに渦を巻いている。藍色は昼間ゲートを越えたとき足元を這っていたあの靄と同じ色だった。
朔夜の背筋を冷たい指がなぞった。
――あれが靄の正体だ。
この谷に満ちていた水の気配はあのものが吐き出していた息だったのだ。
「まだ撃たないで」
芹香が囁いた。
誰に向けたのでもない自分自身への言葉のように聞こえた。
「形を見極めるわ」
立ち上がるものは七メートルを超えた頃にようやくその全貌を現し始めた。
人の形をしていた。
ただし人の形をしているというだけだ。
長い裾を引いた女の姿に見えた。濡れた衣のような襞が足元から腰へ腰から胸へとなだらかに重なって落ちている。肩は細く首は長くしなだれていた。けれどその頭部には顔がなかった。目も鼻も口も耳もなくただ滑らかな卵形の曲面が夕陽を映して鈍く光っているだけだった。
そしてその頭から。
長い長い髪が流れていた。
髪は水だった。
いやそれは水の形をした何かだった。頭部から肩へ背中へ地面へ向かって滝のように流れ落ちながらしかしその流れは途中で泥の大地に触れるはるか手前で逆流して再び頭上へ昇っていく。昇った水はまた髪となって落ちる。終わりのない循環が女の背後に巨大な環を描いていた。
その環が回転するたびに。
ごおお。
音が来た。
朔夜は思わず窓枠から手を離しかけた。
水音が戻ってきたのだ。ただしさっきまでのように谷全体から押し寄せるものではなかった。あの女の髪から流れ落ちる水音だけが聞こえている。他のすべてが静まり返った世界の中でただ一つの音源として彼女の髪だけが轟いている。
水音を支配する存在。
手帳の最後の頁で霧島という誰かが震える字で記していた言葉が頭の中に響いた。
――水を見てはいけない。水の音に応えてはいけない。
朔夜は反射的に目を逸らそうとした。
逸らせなかった。
女の胸のあたりに。
半透明の身体の内側に影が浮かんでいた。
最初は藍色の靄の濃淡に見えた。けれど目が慣れるにつれて朔夜はそれが何であるかを理解してしまった。
人だ。
人影が水の中に浮かんでいる。
一人ではなかった。胸のあたりに二人腹のあたりに一人そして裾の襞の奥にさらに何人も。全員が戦闘服に似た黒い服を着て手足を力なく広げ髪を水中の藻のようにゆらめかせて漂っていた。顔は見えない。けれどそのうちの一人が胸の前で両手を祈るように組んでいるのがはっきりと分かった。
調査班。
手帳に記された四つの名前。九条。三枝。日向。霧島。
全員がそこにいる。
あの透明な身体の内側に静かに閉じ込められている。
「…………」
朔夜は声を出せなかった。
掌の中の戦鎚の柄がぎしりと鳴った。握りしめすぎて革が悲鳴を上げたのだ。
「生きているのかしら」
芹香がスコープを覗いたまま呟いた。
声は凪いでいたがその底に鋼の冷たさが沈んでいた。
「分からないわ。けれど一つだけ確かなことがある」
「何」
「彼女たちはまだ形を保っている。溶かされてはいないということよ」
朔夜は唇を噛んだ。
噛んだ唇の傷がまた開いて鉄の味が舌に広がった。
溶かされていない。
ならば助けられるかもしれない。
そう考えた途端に胸の空洞がきゅうと縮んで同時にそこへ熱いものが流れ込んできた。恐怖とは別の何かだった。怒りに似ていたし祈りにも似ていた。朔夜はその熱を握りしめた戦鎚へ流し込むように指に力を込めた。
――そのとき。
女の足元で何かが動いた。
裾の襞のさらに下泥の大地に接するあたりから小さな人影が歩み出てきたのだ。
子供ではない。
小柄な少女だった。
調査班の黒い戦闘服を着ている。袖は破れ膝には泥が染みている。髪は短く肩の上で切り揃えられていた。顔は伏せられていて見えない。裸足だった。
その足が黒く艶めく泥の上を静かに歩いている。
一歩ごとに足の下で波紋が広がった。
朔夜は気づいた。
事務所の入口で見たあの濡れた足跡。裸足の小さな足跡。
あれはこの少女のものだ。
少女は女の足元から数歩進み出てぴたりと立ち止まった。
顔がゆっくりと上がる。
窓のほうへ。
二階の割れた窓枠の向こうに立つ朔夜と芹香のほうへ。
夕陽が少女の顔に当たった。
丸い頬があった。
八重歯が覗いていた。
辞令に添えられた六枚の写真の一番左で屈託なく笑っていたあの少女だった。
いま彼女は笑っていなかった。
瞳は焦点を失い白く濁って水面のように揺れていた。そして唇だけが動いていた。ゆっくりと丁寧に何かの言葉を形作るように。
声が届いた。
空気を震わせたのではない。耳の奥へ直接滑り込んでくる声だった。水を通して聞こえる声のように丸く歪んで遠くそれでいて耳元で囁かれているかのように近い。
『――朔夜ちゃん』
朔夜の全身が凍りついた。
その声を朔夜は誰よりもよく知っていた。
低く落ち着いていて耳の奥にすとんと落ちる声。毎朝白湯のカップを差し出してくれる声。寝癖を直してくれるときに「じっとしていて」と囁く声。
芹香の声だった。
『朔夜ちゃん。こっちへいらっしゃい』
「…………っ」
『もう大丈夫よ。怖くないわ。みんなここにいるの』
少女の唇が動くたびに芹香の声が響く。穏やかで優しくあの母親のような慈しみに満ちた響きで。
『痛い思いは何もしなくていいの。ただこちらへ来ればいいのよ』
朔夜の足が半歩前へ出ていた。
窓枠の縁に爪先が触れる。
二階の高さの空気が眼下の乾いた泥の大地に向かってぽっかりと口を開けている。その向こうから愛しい声が呼んでいる。行かなくてはいけない気がした。あの声に応えなければ取り返しのつかないことになる気がした。
膝が勝手に曲がる。
重心が前へ傾く。
その瞬間だった。
右手を強く握られた。
細く長くて少し乾いていて温かい指が朔夜の掌の骨を軋むほどの力で捕まえている。
「朔夜ちゃん」
声が来た。
すぐ隣から。
窓の外の声とは違う。水を通していない乾いた空気を震わせるそのままの声。少し掠れて少し震えて必死に平静を保とうとしている声。
「私はここよ」
朔夜ははっと息を吸った。
視界が一気に晴れた。
窓の外の少女の唇はまだ動いていた。同じ声が同じ言葉を繰り返している。
『朔夜ちゃん。こっちへ』
けれど朔夜の右手は確かに握られていた。
肩にはもう一つの掌が置かれていた。
触れている。
触れているのだ。
「……先輩」
「ええ」
「触ってる」
「ええ。触れているわ」
「あれは偽物」
「そうよ」
芹香の指がさらに強く朔夜の手を握った。
その温もりが氷の底に差し込んだ一条の光のように朔夜の凍りついた全身へゆっくりと染み渡っていく。
「約束したでしょう」
「うん」
「手が触れていなければ偽物だと」
「覚えてる」
「いい子ね」
芹香の声はほんの少しだけ笑っていた。
そしてその笑みの端に安堵の震えが滲んでいるのを朔夜は聞き逃さなかった。
朔夜は爪先を窓枠から引き戻した。
踵が床を踏む。
コンクリートの冷たさが靴底を通して足の裏の傷へじんと染みた。その痛みが何よりも確かな現実の感触として朔夜を地面へ繋ぎ止めた。
「ありがと先輩」
「どういたしまして」
「危なかった」
「ええ」
「今の本当に危なかった」
「私の声を使うなんて悪趣味ね」
芹香の声に冷たい怒りが籠もった。
窓の外でスコープの十字線が静かに動いた。
水の女の頭部へ。
顔のない滑らかな卵形の曲面へ。
「撃つわ」
「待って」
朔夜は反射的に言った。
「待って先輩。まだ」
「なぜ」
「あの子」
朔夜は泥の上に立つ少女を見つめた。
白く濁った瞳。動く唇。芹香の声。
「あの子は多分もう人じゃない」
「ええ」
「でも身体は多分本物だよね。あの身体は日向さんの」
「……そうね」
「撃ったら」
「ええ」
芹香は短く答えた。
その沈黙の意味を朔夜は理解した。
弾は三発しかない。
しかも位相干渉弾は朔夜を止めるための唯一の手段だ。ここで怪異に使えば残りは二発になる。そしてその一発が調査班の誰かの身体を貫くかもしれない。
朔夜は戦鎚を肩へ担ぎ直した。
鋼の柄が肩の骨にずしりと食い込む。
「私が行く」
「朔夜ちゃん」
「私が殴って確かめる」
朔夜は芹香の目を見た。
灰茶色の瞳の中に二つの小さな自分の姿が映っている。琥珀色の瞳の少女が必死に笑顔を作ろうとしている。
「近づいて殴って弾き出して中の人たちが無事なのかどうか確かめる。先輩はその間見てて。撃つのは本当にだめだと思ったときだけにして」
「危険よ」
「分かってる」
「あれに触れたら取り込まれるかもしれない」
「かもね」
「それでも」
「それでも」
朔夜は笑った。
歯を見せて。
頬の筋肉が強張るのを無理やり押し上げて。
「だって私はそういうやり方しか知らないもん」
芹香は数秒黙っていた。
スコープから目を離して朔夜の顔をまっすぐ見た。
夕陽が横顔を染めている。傷跡の残る頬の上を赤い光が滑っていく。
「あなたって人は」
「えへへ」
「本当に」
芹香は小さく息を吐いた。
呆れとも諦めとも慈しみともつかない長い息だった。
「……分かったわ」
「いいの」
「止めても聞かないでしょう」
「聞かないね」
「だから条件を一つだけ」
「うん」
「三十秒」
芹香は指を一本立てた。
「三十秒で戻ってきなさい。それ以上は待たない。三十秒経っても戻らなければ私は撃つわ。誰が中にいても」
「…………」
「あなたを失うよりずっとましだから」
朔夜は唇を結んだ。
その言葉の重さが胸の奥に沈んでいく。
三十秒。
たった三十秒。
その間に怪異の身体へ近づき打撃を入れ中の人影を確かめて戻る。
簡単ではない。
けれど朔夜は頷いた。
「三十秒」
「ええ」
「数えて」
「数えているわ」
芹香は朔夜の手をもう一度ぎゅっと握りしめてから静かに離した。
離れた指先の温もりが空気に触れてすうっと冷えていく。
朔夜はそれを掌の中に握り込んだ。
閉じた拳の中に温もりを閉じ込めるように。
*
窓枠に足をかける。
割れたガラスの破片が靴底の下でぱきりと砕けた。
眼下に乾いた泥の大地が広がっている。二階の高さは地面まで六メートル近くあるだろうか。落ちれば足の裏の傷が悲鳴を上げるだろう。けれど朔夜は迷わなかった。
背後で芹香の声が囁いた。
「朔夜ちゃん」
「うん」
「名前を呼ばれても振り向かないで」
「うん」
「私が呼ぶときは必ず触れるから」
「うん」
「いってらっしゃい」
朔夜は振り向かずに頷いた。
戦鎚を右肩に担ぎ左手を窓枠に添えて膝を深く折る。
太腿の筋肉が弦のように張りつめた。
息を吸う。
肺の底まで冷気が満ちる。
吐く。
白い息が夕陽の中へ溶けていく。
もう一度吸う。
朝の道場で聞いたあの風の音が耳の奥でひゅと鳴った。
――跳んだ。
空気が全身を撫でて通り過ぎる。
髪が逆立つ。耳元で風が唸る。ほんの一瞬だけ時間が引き伸ばされたように世界がゆっくりと流れた。眼下の泥の大地が近づいてくる。黒く艶めく水面のような泥の表面に自分の影が小さく映っていた。
着地。
膝を折って衝撃を殺す。
足の裏の傷がじんと焼けるように痛んだ。けれど泥は思ったよりも柔らかくなくむしろ硬い氷のような感触で朔夜の体重を受け止めた。
立ち上がる。
戦鎚を構える。
目の前に水の女がそびえていた。
近い。
窓から見ていたときよりもはるかに大きい。見上げると首が痛くなるほどの高みに顔のない卵形の頭部が夕空を背負って静止している。その髪から流れ落ちる水の轟音が全身を打ちのめすように降り注いでいた。
ごおおおおお。
音の圧が肌に突き刺さる。
内臓が震える。骨が共鳴する。視界の端がちらちらと白く瞬いた。
そして冷気。
女の身体から放たれる冷気は谷の冷気とも事務室の冷気ともまるで別物だった。肌に触れた瞬間に皮膚の下の血管がきんと凍りつくような感覚があった。戦闘服の布を貫いて直接骨の髄へ染み込んでくる。朔夜は奥歯を噛みしめて足の指に力を込めた。
少女が目の前にいた。
五メートルの距離で立ち止まっている。
白く濁った瞳が朔夜を見つめていた。
唇が動く。
『朔夜ちゃん』
芹香の声。
『こっちへ』
朔夜は答えなかった。
戦鎚の柄を握りしめたままじっと少女の瞳を見返した。
白く濁った奥に何かが見えた気がした。
ほんの微かな揺らぎ。
水面に落ちた雫のような。
助けて。
そう言っているように見えた。
朔夜は唇の内側を噛んだ。
「……待っててね」
小さな声で呟いた。
「必ず出してあげるから」
少女の唇が止まった。
ほんの一瞬。
白い瞳の奥の揺らぎがふっと強まった。
次の瞬間。
水の女が動いた。
顔のない頭部がゆっくりと下がる。朔夜のほうへ。長い首が優雅な弧を描いて曲がり滑らかな卵形の曲面が朔夜の目の前三メートルの距離まで降りてきた。
そこに顔はなかった。
けれど朔夜は見られていると感じた。
目がないのに。
すべてを見透かすような視線が皮膚の一枚下を撫でている。
その視線が胸の奥へ。
空洞の底へ。
そこに眠る何かへ。
届いた。
どくん。
朔夜の心臓が一際大きく跳ねた。
胸の奥の暗い底で何かが身じろぎした。
名前のない色の残り火。
昨日の測定場で眠たげに笑ったあの存在が目覚めかけている。
視界の端が藍色に滲んだ。
瞳の奥が熱い。
熱いと同時に冷たい。
朔夜は反射的に胸ポケットの護符へ左手を押し当てた。
金属板が掌の下でひやりと脈打った。
その冷たさが熱を鈍らせる。
「……お願い」
唇の内側で呟く。
「まだ出てこないで」
残り火が揺れた。
嬉しそうに。
あるいは懐かしそうに。
水の女の頭部が朔夜の胸元へさらに近づく。
まるでそこに自分と同じ種類のものが眠っているのを嗅ぎ分けたかのように。
顔のない曲面が朔夜の胸に触れそうな距離で止まった。
冷気が胸を貫く。
朔夜は戦鎚を振り上げた。
手首が悲鳴を上げた。昨日痛めた左の手首がぴりと鋭く痛んだ。けれどその痛みを無視して腰を捻り肩を入れ鋼の鎚頭を全力で水の女の頭部へ叩きつけた。
手応えがあった。
ごっ。
鈍く重い確かな衝撃が柄を通って腕の骨へ駆け上がってくる。
ずっとずっと探していた感触だった。
殴った。
殴れた。
鎚頭が水の女の卵形の頭部に深々とめり込みそこから無数の亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていく。透明な表面が白く濁り内側の藍色の靄が激しく渦を巻き始めた。
轟音が止んだ。
ほんの一瞬。
水の女が静止した。
そして。
――笑った。
顔がないのに。
口がないのに。
確かに笑ったのだ。
亀裂の入った頭部の曲面が内側から割れて一本の線のように細い裂け目が走りそこから甘く湿った冷たい息が吹き出した。
朔夜は戦鎚を引こうとした。
引けなかった。
鎚頭が水の女の頭部にがっちりと食い込んだまま抜けない。透明な表面が柄を伝って朔夜の手のほうへじわじわと這い上がってくる。革の巻かれた握りを濡らし指の関節を濡らし手首へ向かって。
冷たい。
氷のように冷たい。
そして冷たさの奥に懐かしい温もりがあった。
母の腕のような。
湯船の底のような。
ずっと昔どこかで知っていたような安らぎが朔夜の指先から腕へ静かに染み込んでくる。
『朔夜ちゃん』
声が聞こえた。
今度は芹香の声ではなかった。
もっと遠く深く古い声。
誰とも知れない無数の声が重なり合って一つの響きとなって朔夜の名前を呼んでいる。
『おいで』
『おいで』
『ここは静かよ』
『何も怖くないわ』
『壊さなくていいのよ』
朔夜の瞳が見開かれた。
壊さなくていい。
その一言が胸の空洞の底に針のように突き刺さった。
壊したくない。
笑っていたい。
ずっとそう願ってきた。
その願いの一番奥の柔らかい場所をこの声は正確に撫でている。
手首まで冷たさが這い上がってきた。
肘が痺れる。
腕の感覚が遠のいていく。
朔夜は歯を食いしばった。
視界の端で藍色の光が揺れている。自分の瞳から漏れているのだと気づいたときにはもう遅かった。琥珀色が滲んでいく。金に白に藍に。極彩色の渦が瞳の底からゆっくりと湧き上がってくる。
戦鎚の鎚頭が震えた。
柄に刻まれた抑制の刻印が熱を帯びて淡く光り始めた。
吸っている。
朔夜の中から滲み出す魔力を鎚が懸命に吸い取っている。
けれど追いつかない。
吸い取る速さを漏れ出す奔流が上回っている。
空間が震えた。
朔夜の周囲の空気がぐにゃりと歪み泥の大地に細い亀裂が走る。
その亀裂の内側から名前のない色の光が滲み出した。
「だめ」
朔夜は掠れた声で呟いた。
「だめ今は」
そのとき。
背後から声が届いた。
水を通していない乾いた真っ直ぐな声。
「朔夜ちゃん!」
窓の上から叫んでいる。
声は震えていた。
震えながら一切の迷いなく響き渡った。
「二十秒!」
朔夜ははっと目を見開いた。
そうだ。
三十秒。
約束した。
戻らなければ撃つと。
「二十秒よ! 戻って!」
朔夜は柄を握る手に残った最後の力を込めた。
左の手首の痛みが閃光のように走る。その痛みが凍りかけた腕に感覚を取り戻させた。
「……っ、ぁあああああっ!」
叫んだ。
喉の奥から腹の底から絞り出すように叫んだ。
全身の筋肉を総動員して戦鎚を引き抜く。
ぬちゃりと粘つく音を立てて鎚頭が水の女の頭部から抜けた。
透明な表面が名残惜しそうに柄へ纏わりつく。それを振り払うように朔夜は後ろへ跳んだ。
泥の大地を蹴る。
空中で一回転して着地する。
距離を取る。
十メートル。
十五メートル。
水の女は動かなかった。
亀裂の入った頭部をゆっくりと元の位置へ戻しながらただ静かに朔夜を見送っている。
顔のない顔で。
まだ笑っているような気配で。
朔夜は荒い息を吐いた。
白い息が夕陽の中へ立ち昇る。
戦鎚の柄を見下ろした。
刻印が淡い光を放ちながら少しずつ元の黒い鋼の色へ戻っていく。指先にまだ水の冷たさが残っていた。感覚の薄れかけた右手を何度も握って開いて掌の血を巡らせる。
「……ふう」
肩で息をしながら窓を見上げた。
二階の窓枠にスコープの光がちらりと反射した。
芹香が見ている。
その視線を朔夜ははっきりと感じた。
親指を立てて見せる。
無事だと。
窓の奥で芹香が小さく頷いた気がした。
そして朔夜は水の女へ向き直った。
女の頭部の亀裂が閉じ始めていた。
透明な表面が内側から滑らかに癒えていく。藍色の靄が傷口を塞ぐように渦を巻き数秒のうちにそこには最初と同じ顔のない卵形の曲面が戻っていた。
殴って傷つけられた。
けれど効いてはいない。
朔夜は戦鎚を構え直した。
鎚頭の先から水滴が一滴ぽたりと泥に落ちた。
落ちた場所で黒い波紋が広がった。
そのとき。
水の女の長い髪の環が回転を速めた。
ごおおおお。
轟音が再び谷全体を満たす。
少女の影が泥の上で崩れた。
白く濁った瞳が最後に朔夜を見つめてそのまま液体のようにほどけて水の女の足元へ吸い込まれていく。唇だけが最後まで動いていた。
声はもう届かなかった。
けれど朔夜には唇の形が読めた。
――ご、め、ん、ね。
朔夜は歯を食いしばった。
涙が滲んだ。
けれど瞬きをして振り払った。
泣くのは後でいい。
いまはやるべきことがある。
戦鎚を握る手に力を込める。
左右の腕のトンファーが手首の内側で冷たい鋼の感触を返してくる。
腰の後ろの金具では予備の重みがどっしりと主張している。
胸ポケットの中では護符が小さく脈打っている。
そして頭上の二階の窓には。
狙撃銃を構えた芹香がいる。
たった三発の弾を握りしめてそれでも一歩も退かずに自分を見守ってくれている人が。
朔夜は顔を上げた。
水の女がゆっくりとこちらへ歩き出していた。
長い裾が泥の上を滑る。
一歩ごとに大地が波打つ。
十二秒周期の呼吸に合わせて。
ごおお。
ごおおおお。
朔夜は戦鎚を頭上に振りかぶった。
夕陽が鎚頭に反射して一瞬だけ金色に燃えた。
その光の向こうで窓際の芹香が一度だけ静かに頷くのが見えた。
言葉はなかった。
けれど朔夜には聞こえた。
――いってらっしゃい。
――私がここにいるわ。
朔夜は笑った。
泣き腫らした目でひび割れた唇で。
昨日までのどの笑顔とも違う戦場に立つ一人の少女の笑顔で。
「いくよ」
小さく呟いた。
誰にともなく。
胸の奥で眠たげに瞼を持ち上げかけている何かに向かって。
そして窓の上の大切な人に向かって。
「初めての実戦だ」
爪先で泥を蹴った。
水の轟音の中へ。
夕陽に染まった黒い水面のような大地の上を。
朔夜は真っ直ぐに駆け出した。
――第2章 Part 4/4 へ続く
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