第2章 ― 安全装置と呼ばれる少女たち4
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
泥が足首まで沈んだ。
それは土の感触ではなかった。
乾いているはずの大地が踏み込んだ瞬間に氷水のような冷たさで靴底を呑み込み、ブーツの縁から染み入って足の裏の傷を直接舐めた。
朔夜は奥歯を噛みしめて、その冷たさごと次の一歩を蹴り出した。
ぬちゃりと粘つく音がして泥が脛に絡みつく。
それを力ずくで引き剥がしながら走る。
水の女との距離は二十メートル。
十五メートル。
十メートル。
近づくほどに髪の環が回る轟音が骨の内側まで入り込んできて、肋骨の一本一本が太鼓の皮のように震えた。
視界の端で夕陽が山の稜線に半分沈み、谷全体が血を溶かしたような赤に染まっていく。
その赤の中で半透明の巨体が静かにこちらへ首を傾けた。
顔のない曲面に朔夜の姿が小さく歪んで映っている。
次の瞬間、髪が落ちた。
頭上で循環していた水の環の一部が千切れ、無数の細い筋となって槍のように降り注いできたのだ。
朔夜は反射的に左へ跳んだ。
さっきまで立っていた場所に水の槍が突き刺さり、泥が爆ぜて黒い飛沫が顔に降りかかる。
冷たい。
そして口の中に入った一滴が信じられないほど甘かった。
腐りかけた花の蜜のような、鉄の味を含んだ甘さが舌の奥にべったりと貼りつく。
吐き出そうとして朔夜は咳き込んだ。
その隙を狙うように二本目、三本目の槍が弧を描いて襲いかかる。
戦鎚を横薙ぎに振るった。
鋼の鎚頭が水の筋を真正面から叩き潰し、鈍い手応えと共に飛沫が四方へ散った。
衝撃が手首を駆け上がって昨日痛めた左の腱がぴりりと悲鳴を上げる。
けれど痛みはむしろ朔夜の頭を澄ませた。
「まだ、いける」
唇の内側で呟いて、泥を蹴る。
四本目が右肩を掠めた。
戦闘服の布が裂け、冷たい水が肌に触れた瞬間に皮膚の下で血がきんと凍る。
朔夜は歯を食いしばったまま体を捻り、その勢いを殺さずに戦鎚を下から振り上げた。
ごっ。
鎚頭が水の槍の根元を打ち抜いた。
千切れた水がただの水に戻って泥の上へばしゃりと落ちる。
その手応えが朔夜の胸の底に懐かしい熱を灯した。
殴れている。
この感触を朔夜はずっと探していた。
汗をかいて息を切らして痣を作ってそれでも前へ出る。
派手な術など要らない。
拳と鋼が届いたという確かな実感だけがこの身体を生きていると思わせてくれる。
水の女との距離が五メートルを切った。
その巨体は近くで見ると山そのものだった。
濡れた衣の襞が崖の岩肌のように連なり、見上げれば夕空を背負った卵形の頭部が遥か高みで揺れている。
足元から立ち昇る冷気が朔夜の全身を包んだ。
吐く息が凍って睫毛に霜が降りる。
視界がうっすらと白くなる。
それでも朔夜は戦鎚を肩に担いで最後の三歩を踏み込んだ。
「らあああっ!」
喉の奥から叫びが迸った。
腰を落として全身を弓のように撓め、右足で泥を踏み抜いて跳ぶ。
鎚頭が夕陽を弾いて金色の弧を描いた。
狙いは足元。
衣の襞の最も太い部分、女の身体を地面に繋ぎ止めている根のような箇所。
ごおおんっ。
腕の骨が軋むほどの衝撃が走った。
水の女の巨体がぐらりと傾いだ。
透明な表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、内側の藍色の靄が激しく渦を巻く。
朔夜はその勢いのまま鎚を引いて二撃目を叩き込もうとした。
けれど鎚が抜けなかった。
またしても。
透明な表面が鎚頭に吸いつくように纏わりついて、まるで巨大な口がそれを咥え込んでいるかのように離さない。
冷たさが柄を伝って這い上がってくる。
指から手首へ。
手首から肘へ。
昨日と同じだ。
あの懐かしい温もりが氷の底から手招きをしている。
『おいで』
声が聞こえた。
『壊さなくていいのよ』
朔夜は目を閉じかけた。
その瞬間、窓の上から鋭い声が降ってきた。
「朔夜ちゃん!」
水を通さない乾いた真っ直ぐな声だった。
「聞こえる?」
「聞こえる!」
朔夜は叫び返した。
声が喉の奥でひび割れた。
「先輩!」
「頭を押さえて!」
「え?」
「あなたが最初に作った亀裂よ。あの首の付け根に走った筋を狙えるわ」
芹香の声は一切の震えを帯びていなかった。
「ただし動かれたら当たらない。一秒だけ頭を止めて」
朔夜は顔を上げた。
水の女の卵形の頭部が朔夜の頭上でゆっくりと傾いている。
最初の一撃で刻まれた亀裂が首の付け根からまだ薄く光って走っていた。
あの亀裂の先に何があるのか朔夜には分からない。
けれど芹香には見えているのだ。
スコープの十字線の向こうに。
朔夜は息を吸った。
肺の底まで冷気が満ちる。
そして鎚の柄から手を離さないまま、全身の力を足の裏に集めた。
「やるよ」
「ええ」
「ぜったい動かさないから」
「信じているわ」
その一言が朔夜の背骨をまっすぐに貫いた。
信じている。
たったそれだけの言葉が昨日の地下で聞いた「おまじない」よりも深く胸の空洞を満たしていく。
朔夜は戦鎚を握ったまま跳び上がった。
水の女の頭部へ向かって。
足元の泥を蹴り襞の凹凸に爪先を引っかけ、トンファーの鋼を腕の外側で滑らせながら巨体の表面を駆け上がる。
冷気が顔を打つ。
指先の感覚がどんどん薄れていく。
それでも鎚の柄だけは離さなかった。
三メートル。
四メートル。
水の女の長い首の根元に朔夜の爪先がかかった。
目の前に卵形の滑らかな曲面がある。
そこに顔はなかった。
けれど亀裂の奥でちらりと瞬くものが見えた。
小さな黒い光。
心臓のように脈打つ暗い球体が透明な首の内側のさらに奥、胸の中心あたりに浮かんでいる。
核だ。
藍色の靄がその球体を中心にして渦を巻き、胸の周囲には人影が静かに漂っている。
あの球体がすべての根源なのだと朔夜は直感した。
「見えた!」
叫ぶ。
「胸の真ん中に黒いのがある!」
「見えているわ」
芹香の声が答えた。
「そのまま動かないで」
朔夜は左腕のトンファーを引き抜いて水の女の首の亀裂へ差し込んだ。
鋼の芯が透明な表面に食い込む。
ぎり、と手首が悲鳴を上げる。
けれど腕に全体重を預けて頭部を固定した。
水の女が身を捩った。
首が大きく揺れる。
髪の環が唸りを上げて回転を速め、水の槍が四方から朔夜の背中へ殺到しようとする。
朔夜は目を閉じなかった。
瞼を閉じれば何かが見えてしまいそうだったから。
ただ歯を食いしばって腕に力を込めた。
三。
二。
「一」
芹香の声が囁いた。
銃声が谷に轟いた。
ぱん。
乾いた小さな音だった。
けれどその音が水の轟音を一瞬だけ切り裂いて世界の全てを静止させた。
朔夜の耳元を白い光の糸が掠めた。
髪の毛一本分の距離。
熱が頬を撫でて通り過ぎる。
光は亀裂へ吸い込まれて首の内側を一直線に貫いた。
位相干渉弾。
三発のうちの一発目。
その白い糸が胸の奥の黒い球体に触れた瞬間に何かが解けた。
水の女の全身がびくりと痙攣した。
藍色の靄が悲鳴を上げるように乱れ髪の環の回転が軋みながら鈍っていく。
そして胸の中心。
黒い球体の表面に細い白い亀裂が走った。
「今よ!」
芹香が叫んだ。
「朔夜ちゃん!」
「うん!」
朔夜はトンファーを手放して両手で戦鎚を握り直した。
足場を蹴る。
首の根元から胸へ向かって滑り降りるように駆け下りる。
水の女の透明な身体の内側がすぐ目の前に迫った。
藍色の靄。
漂う人影。
その中心に脈打つ黒い球体。
朔夜は初めて近くでその姿を見た。
球体は黒くなかった。
深い深い水の底の色だった。
どこまでも吸い込まれそうな静かな藍。
その表面に走る白い亀裂から微かな光が漏れ出している。
そしてその球体の周囲に漂う人影の顔がはっきりと見えた。
目を閉じている。
唇が薄く開いている。
髪が水の中でふわりと揺れている。
写真で見たあの笑顔の少女たちが眠るように浮かんでいた。
生きている。
胸がかすかに上下している。
朔夜は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「いま出してあげる」
囁いた。
「もう少しだけ待ってて」
戦鎚を頭上に振り上げる。
鎚頭を球体の亀裂へ叩き込む。
それだけでいい。
それだけで終わる。
けれど朔夜は気づいていた。
胸の奥で何かがゆっくりと目を覚まそうとしていることに。
視界の縁が藍色に滲んでいる。
瞳の奥が熱い。
指の先から名前のない光が漏れ始めている。
この核を砕くには普通の打撃では足りないかもしれない。
位相干渉弾の亀裂は入ったがあの球体は水の女のすべてを支えているのだ。
鎚だけでは弾かれるかもしれない。
そのとき朔夜の頭に昨日の言葉が蘇った。
『だったら、仲良く、するしかないよね』
あの子に今日もよろしくと言わなきゃ。
朔夜は息を吸った。
胸の奥の空洞の底で眠たげに瞼を持ち上げかけている何かに向かって。
小さく優しく語りかけた。
「ねえ」
声に出して呟く。
「ちょっとだけ貸して」
残り火が揺れた。
「ほんの少しでいいの」
朔夜の瞳の中で琥珀の色が滲んだ。
金に白に藍に。
極彩色の渦が瞳の底から湧き上がってくる。
昨日と同じ色。
けれど昨日とは違った。
朔夜は逃げなかった。
押し返さなかった。
ただその光の流れに自分の手を重ねるように静かに受け止めた。
「壊したいんじゃないの」
囁く。
「助けたいの」
胸の奥の何かがことりと頷いた気がした。
その瞬間、戦鎚の柄に刻まれた抑制の刻印が眩い光を放った。
鋼の柄が脈打つ。
朔夜の腕を通って流れ込んでくる魔力が刻印に吸い取られて一本の細い光の筋となって鎚頭へ流れていく。
暴れない。
溢れない。
ただ静かに一点へ集まっていく。
鎚頭が名前のない色に染まった。
朔夜は目を見開いた。
世界がゆっくりと流れ始めた。
水の女の透明な身体も揺れる髪も漂う人影も黒い球体の脈動も全てがスローモーションのように鮮明に見えた。
朔夜は戦鎚を振り下ろした。
ごっ。
鎚頭が球体の亀裂に触れた。
音はなかった。
衝撃もなかった。
ただ球体の表面を中心にして空間が静かに軋んだ。
ぱき。
ガラスが割れるときのあの微かな音が一度だけ響いた。
そして次の瞬間、球体がそのまま内側へ崩れ落ちるように消えた。
砕けたのではない。
削り取られたのだ。
鎚頭が触れた一点を中心にして直径三十センチほどの空間がきれいにえぐり取られ、それ以外のものは何も傷つかなかった。
藍色の靄が悲鳴を上げた。
水の女の全身が内側から白く輝き始める。
透明な身体に細かな亀裂が網の目のように走り、髪の環が回転を止めて、轟音が途切れた。
そして。
世界が静かになった。
朔夜は水の女の胸の前で宙に浮いたまま戦鎚を振り抜いた姿勢で止まっていた。
鼻の奥からつうと生温かいものが垂れてくる。
鉄の味が舌に広がった。
血だった。
けれどその血の味が不思議と心地よかった。
生きている。
自分はまだここにいる。
そして暴れなかった。
あの子は朔夜の隣でそっと手を貸してくれた。
「……ありがと」
小さく呟いた。
胸の奥で何かが満足げに目を閉じる気配がした。
その直後、水の女の巨体が崩れた。
*
崩れる。
という言葉では足りなかった。
あれは解放だった。
水の女の透明な身体が白い光を放ちながら無数の水滴となって空へ舞い上がった。
数え切れない雫が夕陽を受けて赤く金色に橙色に煌めいた。
それが雨のように降り注ぐ。
乾いた泥の大地へ。
ひび割れた灰色の地面へ。
三年間一滴の水も受け入れなかった大地に初めて雨が降った。
ぱたぱたぱたぱたと小さく優しい音を立てて。
朔夜は宙から落下していた。
戦鎚を握ったまま背中から。
ぐるりと視界が回って夕空が見えた。
茜色に染まる雲の隙間で一番星がちらりと瞬いていた。
落ちる。
泥に叩きつけられる。
そう覚悟した瞬間だった。
何かが朔夜の身体を受け止めた。
柔らかく冷たく、それでいて確かな腕。
いや腕ではない。
水だった。
崩れた水の女の最後の一部が大きな掌のような形となって朔夜の身体をそっと包み込んでいた。
そして降り注ぐ雫の中から人影がいくつも降りてくる。
黒い戦闘服の少女たち。
髪を濡らし目を閉じたまま、水の掌に抱かれて一人また一人と泥の大地へ静かに横たえられていく。
六人。
九条、三枝、日向、霧島、それから名も知らない二人。
全員が胸を微かに上下させていた。
朔夜は水の掌の上で身体を起こした。
唇が震えた。
「……生きてる」
声が掠れた。
「みんな生きてる」
水の掌が朔夜を泥の上へ優しく降ろした。
その瞬間、朔夜は気づいた。
雫の雨の中に淡い光の粒が混じっていることに。
白くて小さくてふわふわとした光。
それが少女たちの周囲を静かに漂いながらゆっくりと夕空へ昇っていく。
一つ。
二つ。
三つ。
数えきれないほどの光が。
その光の一つが朔夜の頬に触れた。
微かに温かかった。
そして耳元で小さな囁きがした。
ありがとう。
誰の声かは分からなかった。
けれどその声は穏やかで長い長い眠りから覚めたような安らぎに満ちていた。
三年前に消えた十二人の職員。
この谷の水と共に飲み込まれて、ずっと暗い水の底で帰る場所を失っていた人たちの声だった。
朔夜は目を閉じた。
涙が頬を伝った。
今度の涙は冷たくなかった。
温かかった。
「……おやすみなさい」
囁いた。
「もう大丈夫だよ」
光の粒が夕空へ溶けていく。
最後の一つが消えたとき、谷に静寂が降りた。
けれどそれは昼間に聞いたあの不気味な無音ではなかった。
優しい静けさだった。
風が吹いた。
草の匂いがした。
どこかで虫が一匹鳴き始めた。
そしてその音に混じって。
さらさらさらと。
小さな水の音が聞こえてきた。
朔夜は目を開けた。
泥の大地の中央。
さっきまで水の女が立っていた場所から細い一筋の流れが湧き出していた。
それは小さな小さな小川だった。
幅は五十センチにも満たない。
けれど透き通った本物の水が夕陽を映してきらきらと輝きながらひび割れた泥の上を這うように流れていく。
三年ぶりに戻ってきた水。
谷が返してもらった水。
朔夜はその流れを見つめながらゆっくりと立ち上がろうとした。
足に力が入らなかった。
膝ががくんと折れる。
倒れかけた身体を誰かの腕が受け止めた。
「朔夜ちゃん」
声が聞こえた。
すぐ耳元で。
肩に温かい掌が置かれている。
触れている。
触れているのだ。
「……先輩」
「ええ」
芹香の声は息が上がって震えていた。
二階の窓から駆け降りてきたのだろう。
髪が乱れ頬が赤く胸が大きく上下していた。
それでも彼女の腕は一切の揺らぎなく朔夜の身体を支えていた。
「触れているわ」
「うん」
「本物よ」
「うん」
「私よ」
「うん……うん……っ」
朔夜は芹香の胸に顔を埋めた。
石鹸と乾いた紙の匂い。
そこに硝煙の匂いが混じっている。
「先輩」
「なあに」
「撃ってくれた」
「ええ」
「ありがと」
「どういたしまして」
芹香の手が朔夜の背中をゆっくりと撫でた。
「あなたこそ」
「え?」
「暴れなかったわね」
朔夜は顔を上げた。
灰茶色の瞳が涙に濡れて夕陽を映してきらきらと輝いていた。
「……うん」
「ちゃんと仲良くできたのね」
「えへへ」
朔夜は笑った。
鼻血の跡の残る顔で泥だらけの頬で。
けれどその笑顔は昨日までのどの笑顔よりも柔らかかった。
「貸して、って言ったら貸してくれた」
「そう」
「ほんのちょっとだけ」
「ええ」
「今日もよろしくって」
芹香の目から涙が一粒こぼれた。
その涙を朔夜は指の腹でそっと拭った。
「泣かないで先輩」
「泣いていないわ」
「泣いてるよ」
「……少しだけね」
二人は顔を見合わせて小さく笑った。
雫の雨はもう上がっていた。
空は茜色から群青へと移ろい始めている。
*
倒れた六人の少女たちの傍らに二人は膝をついた。
まず朔夜が日向と思われる丸い頬の少女の首筋に指を当てた。
脈がある。
細いけれど確かに規則正しく打っている。
肌が氷のように冷たいが震えがあり唇がうっすらと動いていた。
「息してる」
「こちらもよ」
芹香が隣で霧島と呼ばれていた少女の手首を握っていた。
「脈は弱いけれど安定しているわ」
「低体温かな」
「ええ。早く暖めなければいけない」
芹香は腰のポーチから銀色の薄い毛布を取り出した。
朔夜も革の小袋を開いて包帯と止血剤を探した。
装備課の無愛想な男の言葉が耳に蘇った。
傷は手当てしねえとすぐに化膿する。
山の中はそういうもんだ。
「ありがとうおじさん」
朔夜は小さく呟いた。
それから一人ずつ丁寧に濡れた髪を拭い毛布を掛けていく。
六人全員に。
そのとき日向の睫毛がふるりと震えた。
ゆっくりと瞼が持ち上がる。
最初は焦点が合わず白く濁っていた。
けれど数秒の後その瞳に琥珀に近い茶色が戻ってきた。
唇が微かに動く。
「……あ……」
掠れた声だった。
朔夜はその手を両手で握った。
「大丈夫」
「……ここ……は……」
「もう終わったよ」
「……お、わ……った……?」
「うん。助けに来たの」
日向の瞳が朔夜の顔を捉えた。
数秒ぼんやりと見つめ、それから唇が震えて涙が一筋こめかみへ伝い落ちた。
「……こわか……った……」
「うん」
「ずっと……こえが……よんでて……」
「うん。聞こえてたよね」
「……なまえ……」
「もう呼ばないよ」
朔夜は日向の冷たい手をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫。私がここにいる」
日向の瞳が何度か瞬きをした。
それから小さく小さく微笑んだ。
「……あり……がとう……」
その一言に朔夜の胸の奥で何かが静かに解けた。
「どういたしまして」
声が震えた。
それでも笑顔を作った。
作ろうとしなくても自然に頬が持ち上がった。
日向の隣で他の少女たちも一人また一人と目を開けていく。
三枝。
九条。
霧島。
名前も知らない二人。
全員が混乱し震え涙を流していた。
けれど全員が生きていた。
芹香が静かに全員の顔を見回した。
「聞いてください」
穏やかで凛とした声だった。
「あなたたちは助かりました。怪異は消滅しました。これから私たちが皆を安全な場所へ連れて帰ります」
少女たちは顔を見合わせた。
そのうちの一人霧島が震える唇を開いた。
「……あなたたち……は……」
「橘朔夜と一条芹香です」
「訓練……生……?」
「はい」
「……そんな……あんな化け物に……」
「ええ。でももう大丈夫です」
芹香は柔らかく微笑んだ。
「立てますか?」
霧島は首を横に振りかけて止めた。
それから歯を食いしばってゆっくりと上体を起こした。
「……立ちます」
「無理はしないで」
「いいえ立ちます」
霧島の声は掠れていたが確かな意志を帯びていた。
「私たちは調査班です。自分の足で帰らなければ……仲間に顔向けできません」
芹香の目がわずかに揺れた。
それから静かに頷いた。
「分かりました。では肩を貸します」
朔夜も隣で立ち上がった。
「みんなでゆっくり行こう」
日向が朔夜の手を握ったまま顔を上げた。
「……いっしょに……いっても……いいですか……」
「もちろん」
朔夜は笑った。
「だって一緒に帰るんだもん」
*
夕陽が最後の光を山の端に残して沈んでいった。
谷に藍色の闇が降りていく。
けれど怖くなかった。
頭上に星が出始めている。
小さな流れのせせらぎが足元の泥の上でさらさらと歌っている。
二人の少女と六人の調査班は互いに肩を貸し合い腕を絡めながら一列になって貯水池跡の縁の道を歩き始めた。
先頭は芹香だった。
狙撃銃を肩に掛け両手で霧島の腕を支えている。
その後ろに三枝と九条が二人で寄り添い、名も知らない二人の少女が互いに腰を抱いて続く。
そして最後尾に朔夜がいた。
日向を背中に負って。
小柄な朔夜の背中に日向の身体は驚くほど軽かった。
三年の間水の底で時間を止められていた身体は紙のように薄く腕にかかる重みはほとんど感じられなかった。
けれど首筋にかかる冷たい吐息と微かな鼓動が背中にしっかりと響いている。
朔夜は一歩ずつ踏みしめるように歩いた。
足の裏の傷がじんと痛む。
左の手首がぴりぴりと疼く。
鼻の奥にはまだ血の味が残っている。
全身の筋肉が濡れた砂袋のように重い。
けれど不思議と足は止まらなかった。
背中の温もりが朔夜を前へ前へと押してくれていた。
「ねえ」
日向が朔夜の耳元で囁いた。
「なあに」
「あなたの名前……聞いてもいい?」
「朔夜」
「さくや……」
「うん。橘朔夜」
「きれいな名前」
「えへへ。ありがと」
「私は日向」
「うん知ってる」
「え?」
「手帳に書いてあったから」
日向の腕が朔夜の首にぎゅっと巻きついた。
「……読んだの?」
「うん」
「恥ずかしい。字が汚かったでしょう」
「ううん。ちゃんと読めたよ」
朔夜は前を向いたまま答えた。
「おかげでみんなを見つけられた」
日向は何も言わなかった。
ただ朔夜の肩にそっと額を押し当てた。
濡れた感触が戦闘服の布に滲んでいく。
朔夜は気づかないふりをして歩き続けた。
道の途中で管理事務所の前を通り過ぎた。
壊れたドアが玄関先に倒れている。
その傍らに積まれた四つのリュックを芹香が足を止めて見つめた。
「持っていきましょう」
「うん」
「これはあなたたちの大切なものだから」
霧島が小さく頷いた。
朔夜は日向を背負ったまま身を屈めて空いている片手でリュックを一つ掴んだ。
芹香も一つ持った。
三枝と九条がそれぞれ一つずつ肩に掛けた。
最後に事務所の窓を振り返る。
二階の割れた窓枠の向こうに夕闇が静かに溜まっていた。
朔夜はそこに向かって小さく頭を下げた。
ここにいた全ての人たちへ。
行ってきますではなく。
さよならでもなく。
ただありがとうの気持ちを込めて。
*
ゲートが見えてきた。
錆びた鉄の大きな門扉が薄闇の中で赤茶色の輪郭を浮かべている。
その向こうに黒い車が停まっていた。
ヘッドライトが白い光の筋を靄の中へ伸ばしている。
朔夜は目を凝らした。
車はまだそこにいた。
日没はとうに過ぎているはずなのに。
エンジンは低く唸り続けている。
運転席の男は仕切り板の向こうでこちらを向いていた。
ゲートの敷居を越えたところで芹香が足を止めた。
振り返って調査班の少女たちの顔を見回す。
「もう少しです」
「……はい」
「頑張りましょう」
七人の少女たちは小さく頷いて門扉をくぐった。
錆びた鉄がぎいと鳴る。
その音が朔夜の耳に不思議と優しく響いた。
ゲートを抜けた先の広場の砂利を踏む音がざりざりと夜の谷に広がった。
運転席の扉が開いた。
黒い制服の男が車から降りてきた。
彼は一歩二歩とこちらへ近づき、ヘッドライトの光の中で立ち止まった。
その顔が初めてはっきりと見えた。
四十代半ばの疲れた顔だった。
眉間に深い皺が刻まれ目の下に濃い隈がある。
けれどその目は大きく見開かれて朔夜たちの姿を呆然と見つめていた。
「…………」
唇が震えている。
何かを言おうとして言葉にならない。
芹香が静かに口を開いた。
「怪異は消滅しました」
「……」
「調査班の六名を保護しています。全員生存」
男の目から涙が一筋こぼれた。
彼は慌ててそれを拳で拭った。
「……ほ、本当に……」
「ええ」
「六名……全員……」
「はい」
男は膝から崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
両手で顔を覆い肩を震わせた。
「……すまない……」
絞り出すような声だった。
「回収の指示は……ないと……言ったのに……」
芹香は静かに首を横に振った。
「いいえ」
「だが……」
「あなたは待っていてくださいました」
男が顔を上げた。
濡れた瞳に困惑が浮かんでいる。
「日没までと言われていたのに」
「……自分は……」
男は言葉を探して唇を噛んだ。
「日没を過ぎても待つなとは言われていませんでしたので……」
その言い訳があまりにも不器用で、朔夜は思わず小さく吹き出した。
日向が背中でくすくすと笑った。
それにつられて少女たちが一人また一人と小さな笑い声を漏らした。
疲れ切って震えて泥だらけで。
それでも笑った。
男も泣きながら笑った。
「……乗ってください」
立ち上がって後部座席の扉を開ける。
「全員乗れます。毛布も暖房も用意しています」
「ありがとうございます」
芹香が丁寧に頭を下げた。
調査班の少女たちが一人ずつ車の中へ支えられながら乗り込んでいく。
朔夜も日向を背負ったまま車の扉の前に立った。
けれどそこで足を止めた。
「……朔夜ちゃん?」
芹香が振り返った。
朔夜は日向を静かに座席へ降ろした。
毛布を肩に掛けてやる。
それから運転席の男に向き直って頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……え」
「待っててくれて」
男は目を瞬いた。
「でも私たち、乗らないでいいですか」
「え?」
「歩いて帰りたいんです」
朔夜は顔を上げて笑った。
「日向さんたちはお願いします。早く暖めてあげてください。私たちは自分の足で帰ります」
「しかし……この山道を……」
「大丈夫です」
芹香が隣に並んだ。
「私たちには迎えを待つ必要がありません」
彼女は朔夜の横顔をちらりと見て微笑んだ。
「そうでしょう朔夜ちゃん」
「うん」
朔夜は頷いた。
「帰り道は自分たちで決めたいんです」
男は朔夜と芹香の顔を交互に見つめた。
それから深くゆっくりと頭を下げた。
「……分かりました」
声が震えていた。
「調査班の皆さんは自分が責任を持って本部の医療班へ送り届けます」
「お願いします」
「それから……」
男は顔を上げて二人を見た。
その瞳の奥に初めて人間の温かさが灯っていた。
「ご武運を」
朔夜は敬礼のまねごとをして見せた。
「はいっ!」
後部座席の窓から日向が顔を覗かせた。
「朔夜さん!」
「なあに」
「また会えますか?」
朔夜は少しだけ考えた。
それから大きく手を振った。
「会えるよ!」
「約束ですよ!」
「約束!」
車のエンジンが唸った。
黒い車体がゆっくりと砂利の上を動き出す。
テールランプの赤い光が夜の闇に溶けていく。
窓から身を乗り出した日向の手がいつまでも振られていた。
朔夜は見えなくなるまで手を振り続けた。
やがて車の音が遠くの山の向こうへ消えていった。
静寂が降りた。
けれどそれは寂しい静寂ではなかった。
虫の声と風の音と遠くのせせらぎが夜の谷を優しく満たしていた。
朔夜は振っていた手をゆっくりと下ろした。
隣で芹香が静かに立っていた。
二人の間を涼しい夜風が吹き抜ける。
見上げると満天の星が広がっていた。
いくつもの星が瞬いている。
天の川が淡く夜空を横切っていた。
朔夜は思わず息を呑んだ。
「……きれい」
「ええ」
「寮から見える空とは全然違う」
「山の上だもの」
「うん」
朔夜はしばらくその星空を見上げていた。
首が痛くなるほど長く。
それから隣の芹香に視線を移した。
星明かりの下で芹香の横顔が柔らかく浮かんでいる。
傷だらけの頬。
乱れた髪。
けれど灰茶色の瞳は静かに星を映して輝いていた。
「先輩」
「なあに」
「歩ける?」
芹香はくすりと笑った。
「あなたこそ」
「わたしは歩ける」
「足の傷は」
「痛いけど平気」
「嘘ばかり」
「ほんとだよ」
朔夜は胸を張った。
「だって先輩が隣にいるもん」
芹香は目を細めた。
それから肩に掛けた銃を直しながら小さく頷いた。
「では帰りましょうか」
「うん」
「寮まで何キロあるかしら」
「分かんない」
「ふふ。きっと長いわよ」
「いいよ」
朔夜は笑った。
「ゆっくり行こ」
二人は並んで歩き出した。
砂利を踏む足音がざりざりと夜道に響く。
一歩。
また一歩。
二つの足音が重なったり少しずれたり、また重なったりしながら林道を下っていく。
靴底が踏みしめる地面は冷たく湿っていた。
足の裏の傷はじんじんと痛んだ。
けれどその痛みはこの足で歩いているという確かな証だった。
しばらく歩いたところで朔夜は立ち止まって後ろを振り返った。
闇の中に霧原ダムの堤体が黒い影となって聳えている。
その手前の貯水池跡に細い銀色の筋が星明かりを受けて微かに光っていた。
小さな小さな流れ。
三年ぶりに戻ってきた水。
さらさらと静かに歌っている。
もう轟音は聞こえなかった。
あの悪夢のような水音はどこにもなかった。
朔夜は目を閉じてその小さなせせらぎにしばらく耳を傾けた。
そしてゆっくりと目を開けた。
胸の奥の空洞はまだひりひりと痛んでいる。
恐怖も後悔も消えてはいない。
組織が自分たちを捨てようとしたこともこれから先どんな任務が待っているかも何ひとつ変わってはいない。
三発のうちの一発を使ったことで残りは二発になった。
それが何を意味するのか朔夜は分かっている。
けれど。
それでも。
朔夜は胸ポケットにそっと手を当てた。
鬼塚の護符。
同室の少女のメモ。
銀杏の葉。
おにぎりの包み紙。
そして今日新しく加わったもの。
日向がくれた「ありがとう」の言葉。
全部持っている。
どれも失わずに済んだ。
朔夜は顔を上げた。
星空の下で琥珀色の瞳がきらりと輝く。
その奥の一番深いところであの一粒の残り火が穏やかに温かく瞬いていた。
もう怖くなかった。
「ねえ先輩」
「なあに」
「わたしさ」
「ええ」
「やっぱり体術が好き」
芹香は驚いたように目を瞬いてそれから声を立てて笑った。
「知っているわ」
「トンファーも戦鎚も大好き」
「ええ」
「殴ったら殴り返されて痛くて汗かいて」
「ええ」
「それでも笑えるのが一番好き」
「ええ。あなたはそういう人よ」
「でもね」
朔夜は星空を見上げたまま続けた。
「あの子のことも少しだけ好きになれそう」
「……そう」
「怖いけど」
「ええ」
「でも一緒に生きてくんだもん」
「ええ」
「だったら仲良くしたほうがいいよね」
芹香は何も言わなかった。
ただ朔夜の肩にそっと手を置いた。
触れる。
確かに触れる。
その温もりが戦闘服の布を通して肌にじんわりと染みていく。
「朔夜ちゃん」
「うん」
「あなたは本当に強い子ね」
「えー」
朔夜は照れて頬を掻いた。
「強くないよ。泣いてばっかりだし」
「そういう強さではないの」
「じゃあどういう?」
「……泣いても笑える強さよ」
朔夜は目を丸くした。
それからふっと笑顔になった。
大きくて明るくて陽だまりのような。
けれどもう無理に作った笑顔ではなかった。
重たい世界を重たいと知った上で、それでも前へ進む少女の、本当の笑顔だった。
「じゃあ行こう先輩」
「ええ」
「寮まで競争!」
「走らないの」
「走らないってば!」
言った端から朔夜の足は半歩跳ねていた。
慌てて踵に力を込めて早歩きに変える。
背後で芹香がくつくつと笑った。
その笑い声が夜の林道に澄んで響いた。
夜風が頬を撫でて通り過ぎていく。
虫の声が足元で優しく歌っている。
頭上で星々が静かに瞬いている。
二人の影が星明かりの下で並んで長く伸びていた。
その影はやがて曲がり角の向こうへ溶けていった。
こつこつと軽やかな足音だけを残して。
迎えを待たずに。
誰の手も借りずに。
自分たちの足で。
遥か遠く寮舎の窓に小さな灯りが一つだけ灯っていた。
眼鏡の奥で瞳を濡らした女が誰にも告げず夜明けまで窓辺に立ち続けていることを朔夜はまだ知らない。
ただ今は星の下を歩いている。
笑って。
並んで。
生きて。
――第2章 了
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