第3章 ― 凪の食卓と、白い影
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
東の空が白み始めていた。
夜の底に沈んでいた山々の稜線が、一本ずつ墨を薄めたような藍色の線として浮かび上がってくる。
その線の上に細い橙色の光が滲んで、空気そのものがゆっくりと呼吸を始めたように感じられた。
朔夜は足を止めずに歩いていた。
止めようとしても止まらないほど、足がもう勝手に前へ出るようになっていたからだ。
ブーツの底が国道の舗装を踏むたびに、足の裏の傷が鈍く脈打つ。
靴の中で包帯が湿って擦れ、水ぶくれがいくつも潰れているのが分かった。
それなのに痛みは遠かった。
痛いというより、重たい温かさのようなものが足首から膝へゆっくりと上がってくる。
夜通し歩いた距離を、朔夜はもう数えるのをやめていた。
林道を下り、名も知らない川沿いの道を辿り、星の下で何度も道を間違えかけては芹香に袖を引かれて戻った。
その間ずっと二人は他愛ない話をしていた。
好きな食べ物のこと。
寮の食堂の味噌汁は具が日によって違うこと。
芹香が子供の頃に読んだ本の話。
朔夜が初めてトンファーを握った日の話。
話しているうちに山道は坂道ではなく、ただ続いていく一本の細い帯のように思えてきた。
「先輩」
「なあに」
「足、ある?」
「あるわよ。ちゃんと二本」
「よかった。わたしのは感覚ないから」
「それは良くないわね」
芹香は小さく笑った。
その笑い声が明け方の冷たい空気の中でふわりと白く揺れた。
隣を歩く彼女の顔を朔夜はちらりと見上げた。
頬の絆創膏は夜露でふやけて端が捲れている。
結い上げていた髪はほとんどほどけ、栗色の毛先が肩の上で朝の光を受けて淡く透けていた。
狙撃銃のストラップが肩に食い込んで、その上に朝露が小さな粒となって光っている。
けれど歩き方は少しも崩れていなかった。
背筋はまっすぐに伸び、足音は相変わらずほとんど立たない。
ただ瞼の下にうっすらと影が落ちて、それが彼女の疲れを静かに物語っていた。
「先輩も、疲れてるでしょ」
「ええ。とても」
「だよね」
「でも不思議と嫌な疲れではないの」
芹香は前を向いたまま言った。
「身体の芯に重たい熱が残っているような感じ。昔、初めて長い距離を走り切ったときに似ているわ」
「あ、分かる」
朔夜は大きく頷いた。
「ぽかぽかするよね。足は痛いのに」
「ええ」
「なんか、ちゃんと生きてるって感じ」
「……ええ」
芹香の声がほんの少しだけ柔らかくなった。
道の先に見慣れた景色が現れ始めた。
遠くの山裾に黒い瓦屋根が見える。
苔むした外壁と、重たい石の門柱と、その向こうに聳える灰色の本館の影。
寮舎だ。
朝靄の中にぼんやりと沈んでいるその姿が、朔夜の目にはなぜかひどく懐かしく映った。
たった一日離れていただけなのに。
出発のとき、あの玄関ホールのガラス扉をくぐりながら、もう二度と見られないかもしれないと思ったのに。
「……帰ってきた」
唇から零れた声は自分でも驚くほど小さかった。
「ええ」
「帰ってきたよ先輩」
「ええ。帰ってきたわ」
二人は並んで最後の坂を上り始めた。
坂の両脇に銀杏の並木が続いていた。
金色の葉がまだ夜露を含んだまま朝の光を受けて、一枚一枚が小さなランプのように輝いている。
風が吹くと葉が音もなく舞い落ちて、朔夜の肩に一枚、芹香の髪に一枚、ふわりと止まった。
朔夜はその葉を摘まんで胸ポケットに仕舞った。
護符の隣、おにぎりの包み紙の隣に。
また一枚、お守りが増えた。
*
正門の前で足が止まった。
重たい鉄の門扉は閉ざされていた。
その脇の小さな詰所に灯りが一つ灯っている。
窓の向こうで白髪の老人が椅子に座って船を漕いでいた。
寮舎の門衛だ。
朔夜が入寮した日から変わらずそこに座っている小柄な老人で、いつも湯呑みを両手で抱えて朝の訓練生たちに「おはよう」と声をかけてくれる人だった。
朔夜は詰所の窓を軽く叩いた。
こん、こん。
老人の肩がびくりと跳ねた。
濁った目がゆっくりと開いて窓の外の二人を見た。
最初はぼんやりとした視線だった。
けれど次の瞬間、その瞳が大きく見開かれた。
「……お、おお」
老人は椅子を蹴るように立ち上がった。
詰所の扉が勢いよく開いて、老人が転がるように飛び出してくる。
「橘さん……一条さん……」
「おはようございます」
朔夜はにっこり笑った。
「ただいま戻りました」
「…………」
老人は口を開けたまま言葉を失っていた。
皺だらけの手が震えながら朔夜の泥だらけの袖に伸びて、触れる寸前で止まった。
「生きて……」
「はい」
「生きとったんか……」
「はいっ」
「……おお……おお、よかった……」
老人の目から涙が溢れた。
乾いた頬の皺をつたって朝の光にきらりと光る。
朔夜は少し慌てた。
「あの、泣かないでください。わたし全然元気ですから」
「元気なわけがあるか、そんな泥だらけで……」
「あはは。泥は洗えば落ちます」
「馬鹿もん」
老人は袖で目を拭った。
「昨夜は本館が大騒ぎだったんじゃ。車が戻って来て調査班の子らが担ぎ込まれて……あんたら二人の姿だけが見えんと言うて」
「あ」
「歩いて帰る、と運転手が言伝てを寄越したと聞いてな」
「はい、そうです」
「あの山から歩いて」
「はい」
「…………」
老人は朔夜と芹香の顔を代わる代わる見つめた。
それから深く深く頭を下げた。
「お帰りなさい」
その声が朝の空気の中にしんと染みた。
朔夜は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「ただいま」
もう一度言った。
芹香も隣で丁寧に頭を下げた。
「ただいま戻りました」
老人は慌てて詰所に駆け込み、鍵束を掴んで戻ってきた。
重たい門扉の脇の小さな潜り戸を開ける。
ぎい、と古い蝶番が鳴った。
その音が朔夜の耳には何よりも優しい迎えの声に聞こえた。
「さあ、入りなされ入りなされ。寒かったじゃろう」
「ありがとうございます」
潜り戸をくぐる。
砂利の庭が足元に広がった。
ざり、と靴底が鳴る。
その音は昨日の朝この庭を出ていったときと少しも変わらなかった。
けれど踏みしめる自分の足は、確かに昨日とは違っていた。
*
前庭を横切る途中で鐘が鳴った。
ごおん。
低くて長い音が山裾の朝の空気を震わせた。
起床の鐘だ。
六時。
寮舎の窓に次々と灯りがともっていく。
二階の窓が一つ。
三階の窓がまた一つ。
カーテンが開き、寝ぼけ眼の訓練生たちが窓辺に顔を出す。
その視線が前庭を歩く二つの影に気づいて止まった。
朔夜は顔を上げた。
窓の中の少女たちがこちらを見ている。
昨日までなら目を逸らされていた。
けれど今朝は違った。
誰も逸らさなかった。
じっと見つめていた。
驚きと戸惑いと、それから何か言葉にならないものが混じった目で。
窓ガラスの向こうで唇が動いて隣の誰かに何かを囁いたのが見えた。
別の窓では少女が口元を手で覆って立ち尽くしている。
朔夜はそれらの視線に気づかないふりをしなかった。
顔を上げたまま、ゆっくりと手を振った。
ひらり、と。
窓の中の少女の一人がおずおずと手を挙げた。
小さく振り返す。
それを見た隣の窓の少女も手を振った。
波紋のように手が広がっていく。
朔夜は笑った。
胸の底からふわりと上がってくる、無理のない笑顔だった。
「先輩見て」
「ええ」
「みんな手振ってくれてる」
「ええ。見ているわ」
芹香の声が少し震えていた。
朔夜はそれ以上何も言わずに歩き続けた。
玄関ホールの大きなガラス扉が近づいてくる。
昨日の朝、ここを出ていくときには何十本もの白い手が階段の手すりで揺れていた。
今朝は誰もいない。
ホールは薄暗く、高い天井の下に朝の光がまだ届いていなかった。
扉の取っ手に朔夜は手をかけた。
冷たい。
真鍮の感触が掌に染みる。
押す。
扉が重たく開いた。
ひやりとした空気が顔を撫でた。
石と洗剤と古い木の匂い。
寮舎の朝の匂いだった。
胸いっぱいに吸い込んだ。
肺の奥まで染みるその匂いに朔夜は思わず目を閉じた。
「……ただいま」
誰にともなく呟いた。
その声が高い天井に吸い込まれていく。
そのとき。
中央階段の踊り場から、声がした。
「橘」
朔夜は目を開けた。
階段の中ほどに一人の女が立っていた。
濃紺の教官服。
銀縁の眼鏡。
背筋はまっすぐに伸びているのに、制服の肩にいつもはない皺が寄っていた。
襟元がわずかに乱れ、髪も一筋だけ耳の横に落ちている。
眼鏡のレンズの奥の目の縁が赤かった。
鬼塚教官だった。
朔夜は息を呑んだ。
昨日の朝ここを出るとき、玄関ホールの奥の暗がりに誰かが立っていたような気がした。
あれは気のせいではなかったのだ。
そしてこの人は昨夜ずっと。
「……鬼塚教官」
声が震えた。
鬼塚は階段をゆっくりと降りてきた。
一段。
また一段。
靴音がほとんど立たない。
けれどその足取りがいつもより少しだけ重いのを朔夜は見逃さなかった。
最後の一段を降りたところで鬼塚は足を止めた。
朔夜の前、二メートルほどの距離で。
昨日の道場で三メートル手前で止まったときよりも、ほんの少しだけ近い。
眼鏡の奥の瞳が朔夜の足元から腰へ肩へ顔へと静かに這い上がっていく。
泥にまみれたブーツ。
裂けた戦闘服の肩口。
ひび割れた唇の端に乾いた血の跡。
戦鎚の柄を握る指の関節の赤い擦り傷。
その一つ一つを確かめるように見て、それから朔夜の瞳へ視線が戻った。
数秒の沈黙があった。
朝の光が高窓から細く差し込んで、床に白い筋を落としている。
その光の中で舞う埃が二人の間でゆらゆらと揺れていた。
「…………」
鬼塚は何も言わなかった。
ただ眼鏡の奥の目がほんの少しだけ細められた。
朔夜はその目を真正面から見返した。
言葉はなかった。
けれど言葉がなくても伝わるものがあった。
よく帰ってきた。
そう言っているのだと朔夜には分かった。
朔夜は胸ポケットに手を入れて、冷たい金属の札を取り出した。
銀色の薄い護符を掌に載せて差し出す。
「これ、お返しします」
鬼塚の視線が護符に落ちた。
「結局使いませんでした」
「……そうか」
「でもずっと胸ポケットの中にあって」
朔夜は少し笑った。
「冷たくて、それが何だか安心しました」
鬼塚の眉がわずかに動いた。
「持っていろ」
低い声だった。
「え」
「まだお前のものだ」
「でも」
「また使う日が来る」
鬼塚は護符を朔夜の掌ごと自分の手で包み込んだ。
その手は驚くほど冷たかった。
夜通し窓辺に立っていた人の手だった。
「…………」
朔夜は何か言おうとして言葉にならなかった。
鬼塚の手が離れた。
護符は朔夜の掌に残った。
冷たい金属のその奥にほんのかすかな温もりが宿っていた。
「報告は受けている」
鬼塚は言った。
声はいつもの平坦なものに戻っていた。
「調査班の六名は全員生存。本部の医療班に収容された」
「はい」
「第七類の怪異は消滅」
「はい」
「お前たち二人は訓練生の身で」
そこで言葉が途切れた。
鬼塚は唇を結んで目を伏せた。
眼鏡のレンズが朝の光を反射して一瞬白く光った。
「……よく、やった」
その一言は掠れて、ほとんど吐息のようだった。
朔夜の視界がじわりと滲んだ。
「はいっ」
声が裏返った。
「ありがとうございます」
鬼塚は顔を背けた。
「礼は要らんと言った」
「でも嬉しいです」
「…………」
「教官にそう言ってもらえるのが一番嬉しいです」
鬼塚の肩がほんの少しだけ震えた。
けれど振り返らなかった。
そのまま視線を芹香へ移した。
「一条」
「はい」
「お前も」
「はい」
「…………生きて帰ったな」
芹香は静かに微笑んだ。
「善処すると申し上げました」
鬼塚の口の端が、ごくわずかに、本当にごくわずかに持ち上がった。
それは笑みとは呼べないほど小さな動きだった。
けれどそれを見た瞬間、朔夜の胸の奥で何かがことりと温かく鳴った。
「風呂に入れ」
鬼塚は踵を返した。
「泥だらけで食堂に入られては調理員が困る」
「はいっ」
「朝食は残さず食べろ」
「はいっ」
「それから」
階段の一段目に足をかけたところで鬼塚は立ち止まった。
背中を向けたまま、低く言った。
「〇九〇〇に本館へ出頭しろ。呼び出しが来ている」
朔夜の背筋がひやりと冷えた。
「……はい」
「内容は私も聞かされていない」
「分かりました」
「ただ」
鬼塚は一瞬だけ言葉を探した。
「お前たちが帰ってきたことで、向こうの出方が少し変わるかもしれん」
「変わる、って」
「いい方にか悪い方にかは分からん」
それ以上は何も言わず、鬼塚は階段を上っていった。
まっすぐな背中が踊り場の陰に消えていく。
朔夜はその背中が見えなくなるまでじっと見つめていた。
階段の上から小さな声が降ってきた気がした。
おかえり。
そう聞こえたのは朔夜の願望だったかもしれない。
けれど朔夜は小さく頷いて、聞こえなかった声に答えた。
「ただいま」
*
大浴場の湯気は白くて温かくて少し甘い匂いがした。
石鹸と檜の香りが混じり合っている。
高い天井から水滴がぽとりぽとりと落ちて、湯面に小さな波紋を描いていた。
朝の早い時間の浴場は誰もいなかった。
広い洗い場に朔夜と芹香の二人きり。
朔夜は木の椅子に腰かけて、蛇口から出る湯を桶に受けた。
頭からゆっくりと被る。
熱い。
最初は肌が驚いて縮んだ。
けれど次の瞬間、全身の毛穴がじわりと開いて凍りついていた骨の芯まで熱が染み込んでいった。
「あ……あああ……」
声が漏れた。
自分でも情けないと思うほど気の抜けた声だった。
泥が髪から流れ落ちていく。
黒い水が足元の排水口へ渦を巻いて消える。
昨日の泥。
水の女の足元の冷たい泥。
あの谷の三年分の時間がお湯に溶けて流れていくような気がした。
石鹸を泡立てて腕を洗う。
細かな擦り傷に泡が染みてぴりぴりと痛んだ。
けれどその痛みがかえって心地よかった。
「痛い」
「我慢なさい」
隣の椅子で芹香が髪を洗いながら言った。
「傷は洗わないと膿むのよ」
「分かってるよ。でも痛いんだもん」
「ふふ。子供みたいね」
「だって子供だもん」
「十八歳は子供ではないわ」
「先輩の前では子供だよ」
芹香の手が一瞬止まった。
それから髪を流しながら小さく笑った。
「それは困ったわね。お母さん役が辞められないわ」
「辞めなくていいよ」
「あら」
「ずっとお母さんでいて」
「…………」
湯気の向こうで芹香の横顔が柔らかく緩んだ。
朔夜は背中を洗おうとして腕が届かないことに気づいた。
「先輩ごめん背中」
「ええ。ちょうだい」
芹香は泡のついたタオルを受け取った。
細い指が朔夜の肩甲骨のあたりをゆっくりと擦る。
温かくて力加減が絶妙で、朔夜は思わず目を閉じた。
「……先輩の手、気持ちいい」
「ありがとう」
「昨日もおとといも、ずっと先輩に助けてもらってばっかりだ」
「そんなことはないわ」
「あるよ」
「あなたも私を助けてくれているもの」
「え、どこが」
「たくさんあるわ」
芹香はタオルを動かしながら静かに言った。
「あなたが笑っていると私も呼吸が楽になる。あなたが前を向いていると私も前を向ける」
「…………」
「それはとても大きなことよ」
朔夜は何も言えなくなった。
湯気が顔を撫でていく。
目の端がじんわりと熱い。
それが湯気のせいなのか涙のせいなのか、もう分からなかった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「じゃあ次わたしが先輩の背中」
「いいわよ」
「約束だったもんね」
「何の?」
「手当てするって」
芹香は小さく目を瞬いた。
「あら覚えていたの」
「当たり前だよ」
朔夜はタオルを受け取って、芹香の背中に回った。
白い背中だった。
肩甲骨のあたりから腰にかけてしなやかな筋肉の線が浮かんでいる。
その上に細い切り傷がいくつも走っていた。
昨日の測定場で自分が刻んだものと霧原ダムで負った新しいもの。
朔夜はタオルをそっと当てた。
「痛くない?」
「ええ」
「嘘だ」
「少しだけよ」
「やっぱり」
朔夜は泡を優しく滑らせた。
傷の上を避けるように、慎重に、まるで壊れ物を洗うように。
「……ごめんね」
「なぜ謝るの」
「だってこの傷」
「あなたのせいではないわ」
「でも」
「朔夜ちゃん」
芹香は振り向かずに言った。
「この傷は私が選んだものよ」
「…………」
「あなたの隣に立つと決めた日から、傷は覚悟の一部だった」
朔夜は唇を結んだ。
胸の奥が熱くて重くて、そして温かかった。
「だから謝らないで。代わりに笑ってちょうだい」
「……うん」
朔夜は大きく息を吸った。
それからわざと明るい声を出した。
「じゃあ先輩の背中ごしごし洗うよ!」
「優しくね」
「はあい!」
湯気の中に二人の笑い声が小さく響いた。
湯船に浸かったとき、朔夜は思わず声を上げた。
「ふあああああ」
「静かに」
「無理だよこんなの」
肩までお湯に沈むと全身の筋肉がほぐれて骨がとろけるようだった。
足の裏の傷がじんじんと熱を持つ。
左手首の疼きがゆるやかに和らいでいく。
指先の感覚が少しずつ戻ってくる。
芹香も隣で目を閉じて深く息を吐いた。
「……生き返るわね」
「うん」
「温泉みたい」
「行ったことある?」
「一度だけ。子供の頃に」
「いいなあ。わたしないんだ」
「いつか行きましょうか」
「え」
「全部終わったら」
朔夜は湯の中でぱしゃりと水を跳ねさせた。
「行く!絶対行く!」
「ふふ」
「約束ね」
「ええ。約束」
二人は並んで湯船の縁に頭を預けた。
高窓から差し込む朝の光が湯気の中で白く揺れている。
遠くの厨房から味噌汁の匂いがうっすらと漂ってきた。
朔夜のお腹がぐうと鳴った。
「聞こえたわよ」
「もういいよ聞こえても」
「ふふふ」
笑い声が天井に溶けていった。
*
食堂の入口に立ったとき、朔夜は一度だけ息を整えた。
昨日の朝ここに立ったときは食堂の音が一斉に止まった。
見えない壁が自分と食堂の間にせり上がっていた。
今朝はどうだろう。
扉の隙間から漏れてくる音を聞く。
食器の触れ合う音。
椅子の軋み。
遠くの厨房の水音。
そしてざわめき。
人の声が確かに流れている。
昨日のような静寂ではなかった。
朔夜は隣の芹香を見た。
芹香は静かに頷いた。
制服に着替えた彼女は昨日の朝と同じようにきちんと襟を正して、栗色の髪を緩い三つ編みにまとめている。
右袖の下の包帯は朔夜が巻き直したものだった。
朔夜も同じ訓練服に着替えていた。
足の裏の包帯の上から靴下を履いて、その上からいつもの訓練靴を履いている。
額にはヘアバンド。
腰にはトンファーを差している。
昨日までと同じ格好のはずなのに、どこかが違う気がした。
「行きましょう」
「うん」
朔夜は食堂の扉を押した。
その瞬間、ざわめきが変わった。
止まったのではない。
波が寄せるように音がうねった。
「あ」
「橘さんだ」
「本当に帰ってきてる」
「歩いて?あの山から?」
「第七類を二人で……」
ひそひそとした声が食堂の端から端へ流れていく。
昨日と同じ囁き声のはずなのに、そこに含まれる色が違っていた。
恐れだけではない。
戸惑いと驚きと、それから明らかに畏敬に近い何かが混じっている。
朔夜は食堂の中を見渡した。
長い木のテーブルに少女たちが座っている。
その視線が一斉にこちらを向いていた。
けれど昨日のように慌てて逸らす者は少なかった。
目が合うと小さく会釈をする者もいた。
目が合って頬を赤らめる者もいた。
あるいは慌てて箸を取り落として顔を真っ赤にする一年生もいた。
朔夜は思わず笑ってしまった。
「おはようございます!」
声が食堂に響いた。
一拍の間があった。
それから。
「おはよう」
「おはよう橘さん」
「おはよう一条先輩」
あちこちから返事が返ってきた。
小さな声が多かった。
けれどはっきりと聞こえた。
昨日はたった一つしか返らなかった挨拶が、今朝は十も二十も重なって返ってきた。
朔夜の胸の奥がぎゅっと熱くなった。
「……ありがとう」
小さく呟いてから配膳台へ向かう。
トレイを取る。
金属の冷たい縁が指に触れる。
厨房の窓口の向こうから湯気が立ち昇っていた。
その湯気の中から丸顔の女性が顔を覗かせた。
割烹着姿の調理員。
昨日の朝は「橘さん」と呼び方を変えた人。
皿を渡すときに手が震えていた人。
おにぎりを握ってくれた人。
朔夜は窓口の前で足を止めた。
調理員の目が朔夜の顔をまっすぐに捉えた。
大きく見開かれた瞳がみるみるうちに潤んでいく。
「…………」
唇が震えた。
何か言おうとして言葉が出てこない。
朔夜はにっこり笑った。
「おはようございます」
「あ、ああ……」
「昨日はおにぎりありがとうございました」
「…………」
「すごくおいしかったです」
調理員の目から涙が溢れた。
ぽろりと頬を伝って割烹着の袖に落ちる。
「そう……そうかい……」
声が掠れて震えていた。
「おいしかったかい……」
「はい。本当に」
「よかった……よかったよ……」
調理員は割烹着の袖で顔を覆った。
肩が小さく震えている。
朔夜は慌てて両手を振った。
「あの、泣かないでください。わたしが泣かせたみたいで」
「違う、違うんだよ」
調理員は涙を拭いながら顔を上げた。
丸い頬が真っ赤になっている。
「あんたが……あんたが生きて帰ってきてくれたのが嬉しくてね……」
「…………」
「怖かったんだよ。昨日のことが。あんたのことがじゃない。あんたの背負ってるものが」
「…………」
「でもね」
調理員は鼻をすすった。
「あんたは毎朝『おはようございます』って言ってくれたろう。いつも元気よく」
「はい」
「あたしゃそれが嬉しくてね。毎日楽しみにしてたんだ」
「…………」
「だから昨日あんな風に目を逸らしちまったのが、情けなくて」
「そんな」
「ごめんよ朔夜ちゃん」
朔夜の呼吸が止まった。
朔夜ちゃん。
昨日の朝は「橘さん」だった。
それが今朝は朔夜ちゃんに戻っている。
胸の奥で何かが堰を切ったように熱いものが溢れた。
目の縁がじんと痛くなる。
けれど今度は涙をこぼさなかった。
代わりに満面の笑みを作った。
「謝らないでください」
「でも」
「わたしこそいつも美味しいごはんありがとうございます」
「…………」
「だからこれからもよろしくお願いします」
調理員は何度も何度も頷いた。
それから急に腕まくりをして厨房の奥へ引っ込んだ。
数十秒後、盆を抱えて戻ってくる。
「はいこれ!」
「え」
「焼き鮭!今朝は特大だよ!」
皿の上には昨日の倍はありそうな鮭の切り身が載っていた。
脂が艶やかに光って、皮がぱりっと焼けている。
その隣に卵焼きが三切れ。
大根おろし。
ほうれん草の胡麻和え。
湯気の立つ味噌汁の椀には豆腐と葱がたっぷり浮かんでいる。
「こ、こんなに」
「いいんだよ食べな!山ほど食べな!」
「でも他の人が」
「他の子らにも同じだけ出してるよ!あんたのだけ特別じゃない!」
調理員は涙の跡の残る顔で豪快に笑った。
「ただね気持ちだけは特別さ」
朔夜は両手で盆を受け取った。
ずしりと重い。
湯気が顔にふわりとかかる。
味噌の甘い香りと鮭の脂の香ばしい匂い。
胸の奥がまた熱くなった。
「……ありがとうございます」
「いいから早く席につきな!冷めちまうよ!」
「はいっ」
朔夜は盆を持ったまま振り返った。
芹香が隣でくすくすと笑っていた。
「よかったわね」
「うん」
「大盛りね」
「全部食べるもん」
「ええ。残さずに」
二人は並んで食堂の中へ歩き出した。
昨日は見えない円が朔夜の周りに描かれていた。
その円の内側は空白で、誰も座ろうとしなかった。
今朝その円は小さくなっていた。
完全に消えたわけではない。
いちばん端の席の両脇二席ずつはまだ空いている。
けれど昨日は五席分空いていたはずの余白が、今朝は三席分に縮んでいた。
その外側に座る少女たちの何人かがちらちらとこちらを窺っている。
声をかけようとして勇気が出ないという顔だった。
朔夜は端の席に盆を置いた。
椅子を引く。
ぎい、と木の脚が床を擦る。
芹香がその向かいに腰を下ろした。
昨日と同じ配置。
けれど空気は昨日とまるで違っていた。
「いただきます」
「いただきます」
二人は手を合わせた。
朔夜は箸を取って鮭の身をほぐした。
皮がぱりっと音を立てる。
口へ運ぶ。
塩気と脂の甘みが舌の上でじゅわりと広がった。
昨日は味がしなかった。
その前の日も飲み込むだけで精一杯だった。
今朝は違う。
ちゃんと味がする。
鮭の旨みが身体の奥の奥まで染み渡っていく。
「……おいしい」
声が漏れた。
「ええ」
「おいしい……」
「よかったわね」
「うん」
朔夜は味噌汁の椀を両手で包んだ。
温かい。
陶器の熱が掌に染みてくる。
一口啜ると味噌の優しい甘みと豆腐のなめらかさ、葱のほんのりとした辛みが喉を下りて胸の真ん中に落ちた。
全身の細胞がほどけていくような感覚があった。
卵焼きを頬張る。
ふんわりと甘くて、出汁の香りが鼻に抜ける。
ご飯を口いっぱいに詰め込む。
米の一粒一粒が舌の上で甘く解ける。
朔夜は夢中で食べた。
箸が止まらなかった。
昨日までほとんど喉を通らなかった食事が、今朝はまるで砂漠で水を飲むように身体に吸い込まれていく。
「ふふ」
向かいで芹香が小さく笑った。
「そんなに急がなくても」
「だってお腹空いてたんだもん」
「ええ。分かっているわ」
「先輩も食べて」
「ええ」
芹香は箸を取って鮭を一口摘まんだ。
ゆっくりと咀嚼して目を細める。
「……おいしいわね」
「でしょ」
「ええ。とても」
二人は黙って食べた。
けれどその沈黙は昨日の沈黙とはまるで違っていた。
穏やかで温かくて、お互いの存在がそこにあるだけで満ち足りている静けさ。
食堂のざわめきが背景で優しく揺れている。
遠くの席から誰かの笑い声が聞こえた。
箸が器に触れる軽い音。
窓の外では朝の光が白く眩しく溢れている。
朔夜は大根おろしを鮭に載せて口に運んだ。
さっぱりとした辛みが脂を洗い流して、舌の上に新しい味が広がる。
「……幸せだなあ」
思わず呟いた。
「ええ」
「こんな朝がまた来るなんて思わなかった」
「そうね」
「先輩」
「なあに」
「帰ってきてよかったね」
芹香は箸を止めて朔夜を見つめた。
灰茶色の瞳が柔らかく揺れている。
それから静かに微笑んだ。
「ええ。本当に」
*
食事が半ばまで進んだとき、足音が近づいてきた。
テーブルの横で止まる。
朔夜は顔を上げた。
三人の訓練生が立っていた。
昨日の道場の壁際の三人。
竹刀を握ったまま朔夜から一番遠い場所に陣取って、小さな声で囁き合っていたあの子たち。
その中の一人が前に出ていた。
小柄で眼鏡をかけた少女。
あのとき「あんなに普通の子なのにね」と呟いた子だった。
彼女は両手で小さな湯呑みを持っていた。
湯気が立っている。
「……あの」
声が震えていた。
朔夜は箸を置いた。
「うん?」
「これ」
少女は湯呑みをテーブルにそっと置いた。
「お茶です。熱いほうじ茶」
「え」
「昨日ご飯が喉を通らないって聞いたから」
「…………」
「でも今朝はたくさん食べてるのを見て」
少女の頬が赤くなった。
「ちょっとだけ温かいものを足したくて」
朔夜は湯呑みを見つめた。
白い陶器の縁から香ばしい匂いが立ち昇っている。
手に取ると掌にじんわりと温もりが染みた。
「……ありがとう」
「いえ」
「すごく嬉しい」
「…………」
少女は唇を噛んだ。
それから意を決したように顔を上げた。
「橘さん」
「はい」
「昨日の朝」
「うん」
「私たち道場であなたの隣を避けました」
朔夜は目を瞬いた。
「あー」
「ごめんなさい」
少女は深く頭を下げた。
後ろの二人も慌てて頭を下げる。
「怖かったんです。噂を聞いていて」
「うん」
「でも橘さんはあんなに明るく誘ってくれたのに」
「…………」
「私たちは断ってしまって」
朔夜は少し考えた。
それから穏やかに笑った。
「いいよ」
「え」
「全然気にしてないよ」
「でも」
「怖いのは当たり前だもん」
朔夜は湯呑みを両手で包んだ。
「わたしだって自分の中のものが怖いし」
少女が目を丸くした。
「だからね」
朔夜はにっと笑った。
「その代わり今日の朝練一緒にやらない?」
「え」
「打ち込み」
「…………」
「あの誘いまだ有効だよ」
三人の少女は顔を見合わせた。
その視線の交差の中に昨日とは違う色が滲んでいた。
恐れはまだある。
けれどその奥にほんの少しの勇気が灯っている。
「……いいんですか」
「うん」
「私たち弱いですよ」
「関係ないよ」
「橘さんの足手まといに」
「ならないよ」
朔夜は首を横に振った。
「一緒に汗かくのが楽しいんだもん」
少女の目が潤んだ。
眼鏡の奥で瞬きをして、それから小さく頷いた。
「……はい。ぜひ」
「やった」
「あ、あの」
「なあに」
「私、佐伯といいます」
「佐伯さん」
「はい。こっちが」
佐伯は後ろの二人を示した。
「中村と、高橋です」
「中村さん、高橋さん」
「よ、よろしくお願いします!」
二人が声を揃えて頭を下げた。
朔夜は思わず吹き出した。
「そんな固くならなくていいよ」
「でも」
「友達になろう」
その一言に三人の目がまたも潤んだ。
芹香がテーブルの向かいで静かに微笑んでいた。
その瞳には温かい光が宿っていた。
誇らしげで、少し切なげで、けれど満ち足りた光だった。
「じゃあ明日の朝五時四十分に道場で」
「は、はい!」
「遅れないでね」
「はい!」
「先輩も来るよ」
「え」
「ね?」
芹香はくすりと笑った。
「ええ。朔夜ちゃんが朝練で張り切りすぎないように見張る役でね」
「えー!」
「あなたは一時間も二時間も打ち込みを続けるでしょう」
「そんなことないもん」
「あるのよ」
佐伯たち三人は顔を見合わせて、それから声を立てて笑った。
小さな、けれど確かな笑い声だった。
朔夜はその笑い声を聞きながら胸の奥でそっと思った。
一つずつだ。
一歩ずつでいい。
壊れかけた壁を一枚ずつ取り払っていく。
そうやって少しずつ世界は変わっていくのかもしれない。
そのとき。
食堂の入口で、硬い靴音が鳴った。
こつ、こつ、こつ。
石の床を規則正しく打つ革靴の音。
朔夜は笑顔のまま振り返った。
灰色の制服の事務官が敷居の手前に立っていた。
銀色の小さな徽章。
黒革のファイルを胸に抱えている。
昨日の朝と同じ立ち姿。
けれどその目が朔夜の顔を一瞬だけ捉えて、すぐに逸らされた。
ほんの少し、口元が揺れた気がした。
「橘朔夜訓練生。一条芹香訓練生」
食堂のざわめきがすうっと引いた。
「〇九〇〇までに本館上階、第三会議室へ出頭を」
「はい」
「…………」
事務官は一度唇を結んでから、小さな声で付け加えた。
「ご無事で何よりでした」
朔夜は目を瞬いた。
事務官はそれ以上何も言わずに踵を返した。
靴音が遠ざかっていく。
朔夜は隣の芹香と顔を見合わせた。
「今のって」
「ええ」
「あの人が」
「ええ。変わったわね」
朔夜は胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
昨日の朝は顔さえ見てくれなかった人が、今朝は声をかけてくれた。
小さな変化。
けれど確かな変化だった。
「でも」
芹香が静かに言った。
「呼び出しの内容は分からないわ」
「うん」
「油断はしないでおきましょう」
「うん」
朔夜は残りのご飯を大きく頬張った。
それから味噌汁を一気に飲み干し、ほうじ茶の湯呑みを両手で包んだ。
温かい。
香ばしい香りが鼻に抜ける。
「ごちそうさまでした!」
声を張り上げて手を合わせた。
厨房の窓口から丸顔の調理員が笑顔で手を振った。
朔夜も大きく手を振り返した。
*
本館の赤い絨毯は昨日と同じ厚さで足音を吸い込んでいた。
壁に並ぶ歴代の長官の肖像画も昨日と同じ厳しい顔でこちらを見下ろしている。
朔夜は階段を上りながら昨日との違いを数えていた。
足の裏の痛みは同じ。
手首の疼きも同じ。
けれど心臓の鼓動が昨日よりずっと静かだった。
胸の奥の空洞が少しだけ小さくなった気がした。
その空洞の底で名前のない色の残り火が穏やかに温かく瞬いている。
昨日までは怖かった。
けれど今朝は不思議と寄り添うように感じられた。
「ねえ先輩」
「なあに」
「今日の呼び出し何だと思う」
「そうね」
芹香は少し考えてから答えた。
「悪い話ではないと思いたいけれど」
「うん」
「組織が私たちを再評価したのは確かでしょうね」
「再評価」
「ええ。第七類を二人で片付けたのだから」
「でもそれって」
朔夜は唇を噛んだ。
「また危ないところに行かされるってことじゃ」
「…………」
「だよね」
「ええ。おそらくは」
芹香の声は静かだった。
「けれど私たちはもう知っているわ」
「何を?」
「どんな場所に行っても自分の足で帰ってこられるということを」
朔夜は目を瞬いた。
それからふっと笑った。
「そうだね」
「ええ」
「帰ってくればいいんだ」
「そう」
「何度でも」
「ええ。何度でも」
扉が見えてきた。
黒く磨き込まれた木の扉。
真鍮の取っ手。
『第三会議室』
事務官が先に立って二度ノックした。
こん、こん。
「……入れ」
聞き覚えのある低い声が返ってきた。
事務官が扉を押し開ける。
朔夜は息を吸って一歩を踏み出した。
窓のない部屋。
濃い茶色の羽目板。
天井に一つだけ灯る冷たい白い照明。
中央に長大な黒いテーブル。
その向こう側に灰色の髪の男が座っていた。
昨日と同じ濃い藍色の制服。
胸に並ぶ三つの金の徽章。
額の傷のガーゼはもう外されていた。
その左右には昨日と同じ太った男と痩せた女。
朔夜と芹香が席につくのを待ってから、灰色の髪の男はゆっくりと口を開いた。
「無事で何よりだ」
その言葉はあまりにも淡々としていた。
労りでも歓迎でもない。
ただの事実の確認として発せられた響きだった。
「六名の生存を確認した。霧原の怪異は消滅。区画の水脈も回復した」
「はい」
「想定外の結果だ」
「…………」
「我々の計算では君たち二人がそこから戻る確率は限りなく低かった」
その言い方に芹香の指がわずかに強張った。
けれど表情は微動だにしなかった。
「だが君たちは戻った」
男の窪んだ眼窩の奥の瞳が朔夜をまっすぐに見据えた。
「しかも暴走することなく」
「…………」
「戦鎚の抑制刻印が機能した。そして君自身が魔力を制御した」
朔夜は目を瞬いた。
制御した。
その単語が胸の奥にことりと落ちる。
「報告書によれば」
男は書類を一枚手に取った。
「君は怪異の核に対して魔力を局所的に収束させて放った。結果として半径三十センチの空間のみが破砕され周囲への被害はゼロ」
「…………」
「これは前例のない精度だ」
朔夜は何も言えなかった。
男の唇の端が、昨日と同じ笑みに似た別のものを形作った。
「我々は君という兵器の評価を改める必要がある」
兵器。
その二文字が冷たく朔夜の耳に刺さった。
けれど昨日のように胸が凍ることはなかった。
朔夜はゆっくりと顔を上げて男を見返した。
「わたしは兵器じゃありません」
声は静かだった。
けれどはっきりと部屋に響いた。
太った男が眼鏡の奥で目を細めた。
痩せた女が薄い唇をわずかに吊り上げた。
灰色の髪の男は数秒朔夜を見つめていた。
それからふっと息を吐いた。
「……そうかもしれんな」
「え」
「だが我々にとって君は兵器だ」
「…………」
「そして同時に」
男は書類をテーブルに置いた。
「最も信頼に足る現場要員でもある」
朔夜は目を丸くした。
隣で芹香が微かに息を呑む気配がした。
「次の任務を伝える」
男は懐から黒い封筒を取り出して、テーブルの上を滑らせた。
紙が黒い天板の上をさらさらと滑る。
朔夜の目の前で止まった。
表紙には赤い判が押されていた。
『特務観察派遣・第二号』
「今回は山奥ではない」
男は言った。
「街だ」
「…………街」
「人口およそ三万二千の地方都市。その外れの旧商店街」
男は書類の一枚を朔夜の方へ押しやった。
白黒の写真だった。
古いアーケードの入口。
錆びた鉄骨の天蓋に褪せた看板がいくつも吊るされている。
『灯宵銀座』
と読めた。
シャッターの下りた店が両脇にずらりと並んでいる。
人影はない。
けれど写真の中のすべての窓にそれが吊り下げられていた。
白い紙の人形。
人の形に切り抜かれた小さな紙が、一つ一つの窓辺に数え切れないほど連なって揺れている。
その全てに顔が描かれていた。
墨で描かれた丸い顔。
細い目。
弧を描く口。
笑っている。
同じ笑顔で。
どれもこれも寸分違わず。
朔夜の背筋にぞくりと冷たいものが這い上がった。
「ここ二か月で十四名が行方不明になっている」
男の声は平坦だった。
「うち九名が十八歳未満の少女だ」
「…………」
「失踪者の家族は全員が同じ証言をする。夜更けに窓の外から子守唄のような声が聞こえたと」
「…………」
「そして翌朝失踪者の部屋の窓辺に白い紙の人形が一つ吊るされている」
写真の中の笑顔が朔夜の目の奥に焼きついた。
「今回の現場は人の暮らす街だ」
男は静かに続けた。
「一般人に目撃されてはならない。魔力の痕跡を残してもならない。……分かるな」
朔夜は唇を噛んだ。
分かっている。
空間を砕く力は街では使えない。
使えば人が死ぬ。
それは霧原のときとは比べものにならないほどの重さで。
「だから君たちは潜入する」
「潜入……」
「表の身分は転校生だ。市内の県立高校に二名同時に編入する」
朔夜は目を瞬いた。
隣で芹香が驚いたように眉を上げた。
「高校、ですか」
「そうだ。失踪者の多くが同じ高校の生徒だった」
男は淡々と告げた。
「制服も身分証も用意してある。装備は目立たぬ形に偽装する」
「…………」
「戦鎚も狙撃銃も持ち込めない。携行を許されるのはトンファーと拳銃のみ」
朔夜は思わず小さく笑ってしまった。
「……トンファー」
「不満か」
「いえ」
朔夜は首を横に振った。
胸の奥で何かが静かに弾んだ。
体術。
近接武器。
隠密。
大好きなものばかりだ。
派手な術ではなく拳と脚で。
こっそりと潜り込んで、泥臭く事件を追う。
(……それ、わたしの一番得意なやつじゃん)
口に出さずに笑みを噛み殺した。
「それから位相干渉弾について」
男の声が少しだけ低くなった。
「残りは二発のままだ」
芹香の指がぴくりと動いた。
「補充は今回の結果次第とする」
「…………了解しました」
芹香が静かに答えた。
その声に滲んだ冷たい怒りを朔夜は聞き逃さなかった。
けれど芹香はそれ以上何も言わなかった。
「出発は明朝〇六〇〇」
男は立ち上がった。
「今日一日は準備に充てなさい」
「…………はい」
「橘訓練生」
「はい」
「今回も生きて帰ってきなさい」
昨日と同じ言葉だった。
けれど響きが違った。
昨日は冷たい期待だった。
今日の声の底には、ほんのかすかに、人間の温度に似たものが滲んでいる気がした。
朔夜は小さく頷いた。
「はい。帰ってきます」
男は踵を返した。
太った男と痩せた女が後に続く。
扉が閉まる。
静寂が戻った。
朔夜は黒い封筒をじっと見つめていた。
その中に収められた写真の白い人形たちの笑顔が頭の中で何度も揺れた。
「……先輩」
「ええ」
「これ、ちょっと変だね」
「ええ。とても」
芹香は写真を一枚手に取った。
灰茶色の瞳が細められる。
「人形の顔が全て同じ」
「うん」
「手描きなら必ずばらつきが出るはずなのに」
「…………」
「まるで一つの型から写し取ったように」
朔夜の背筋が再びぞくりと冷えた。
窓の外から子守唄が聞こえる。
笑顔の人形が窓辺に揺れる。
少女たちが夜のうちに連れ去られる。
その街の夜の底で何かが静かに口を開けて待っている。
朔夜は封筒を胸に抱いて立ち上がった。
「準備しなきゃ」
「ええ」
「制服ってどんなのかな」
「ふふ。気になるの」
「だって高校の制服着たことないもん」
「あら」
芹香は小さく笑った。
「きっと似合うわ」
「ほんと?」
「ええ。あなたは何を着ても似合うのよ」
「えへへ」
朔夜は頬を掻いて笑った。
その笑顔の奥で、胸の底の残り火がことりと小さく身じろぎした。
まるで新しい夜の気配を嗅ぎ取ったように。
窓のない会議室の冷たい白い照明の下で、二人の少女は静かに顔を見合わせた。
次の舞台は夕暮れの商店街。
白い影の揺れる街。
――第3章 Part 2/4 へ続く
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