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第3章 ― 凪の食卓と、白い影2

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📅 公開日: 2026/10/27 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 16,263文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

装備課の鉄扉は、昨日と同じ重さで開いた。

油と革と鋼の匂いが、むっと溢れ出してくる。

天井の低い倉庫のような空間に、金属の棚が整然と並んでいる。

その一番奥の作業台の前で、白衣の背の低い男が背中を丸めて何かを削っていた。

しゅり、しゅり、と砥石の上を鋼が滑る音がする。

無精髭の横顔に、油で曇った眼鏡がずり落ちかけていた。

「おじさん」

朔夜が声をかけると、男の手がぴたりと止まった。

ゆっくりと振り返る。

眼鏡の奥の小さな目が、朔夜の顔と、芹香の顔と、それから二人の足元を順番に確かめた。

それから、ふん、と鼻を鳴らした。

「……生きとったか」

「はいっ」

「足は二本ついとるな」

「ついてます」

「結構」

男は砥石を作業台に置いて、袖で額の汗を拭った。

ぶっきらぼうな言い方だったが、その耳の先が昨日と同じようにほんのり赤い。

「鎚はどうだった」

「すごかったです」

朔夜は両手を広げて、大きく身振りをつけた。

「最初は抜けなくなっちゃって、でも刻印がちゃんと光って、最後は一点だけぴたって止まって」

「ほう」

「すっごくいい鎚でした。ありがとうございます」

「……礼はいらんと言っただろう」

そう言いながら、男は台の下から古びた帳面を引っ張り出して、ぱらぱらとめくった。

鉛筆で何かをさらさらと書きつける。

「刻印の摩耗を後で見せな。あれだけ魔力を吸ったなら、彫りが焼けとるはずだ」

「はい」

「それで今日来たのは新しい装備の件だろう」

「はい。街へ潜入するので」

「聞いとる」

男はのそりと立ち上がって、棚の間の通路へ歩き出した。

「ついてきな。今回は鎚も銃も持ち込めんと聞いた。だから全部、作り直しだ」

通路の突き当たりの作業台に、二人分の品がすでに並べられていた。

一つは、薄い紺色の布を何重にも巻いた細長い包み。

もう一つは、黒い革の小さなケース。

男はまず布の包みを朔夜の前に押しやった。

「開けてみな」

朔夜は紐を解いた。

布がはらりとほどけて、中から現れたのは二本の短い棒だった。

昨日まで握っていた樫のトンファーでも、鋼の芯が入った予備のものでもない。

もっと細い。

長さは三十センチほどで、握りの部分が外側に突き出す代わりに、棒身の中ほどにごく小さな突起が一つあるだけだった。

「これ、トンファーですか」

「そうだ。ただし三つに分かれる」

男は棒の一本を取って、中ほどを軽く捻った。

かちり、と小気味よい音がして、棒がいくつかの節に分かれた。

節と節の間を繋ぐ細い鋼の芯が見える。

「畳めば鞄の仕切り板の裏に入る。広げりゃ五十センチの本物になる。握りは捻れば飛び出す」

「へえええ」

朔夜は目を丸くして棒を受け取った。

指先で節を一つずつ確かめる。

冷たい鋼の感触の下に、確かな手応えがあった。

試しに握りを捻ると、側面からぱきんと握りが突き出して、掌にぴたりと収まった。

「すごい」

「いいか。学校の廊下でこいつを振り回すなよ」

「はいっ」

「教室でもだ」

「はいっ」

「何かあったとき以外はだ」

「はいっ!」

朔夜は勢いよく頷いた。

男は呆れたように首を振って、それから革のケースを芹香のほうへ滑らせた。

「あんたのはこれだ」

芹香がケースの留め金を外す。

蓋が開くと、中には昨日まで腰のホルスターにあった細身の銀色の拳銃が、黒いスポンジの窪みに収まっていた。

その横に真鍮色の小さな筒が二本、並んでいる。

芹香の指が、ほんのわずかに止まった。

「これは」

「あんたのライフルに残った位相干渉弾だ。二発。それを拳銃用に詰め替えてある」

「詰め替え」

「ああ。特注だ」

男は無表情に答えた。

けれど眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬だけ、芹香から逸れた。

「ただし射程はライフルの半分以下だ。反動は倍になる。外せば手首が持っていかれる」

「…………」

「文句があるなら上に言いな」

「いいえ」

芹香は静かに首を振った。

「ありがとうございます。これだけでも十分です」

「……そうかい」

男は短く答えて、台の端の小さな袋を二つ引き寄せた。

「それからこいつだ」

袋の口を開けると、中から小さな金属の飾りが零れ出た。

一つは、薄いピンク色の石をあしらった髪留め。

もう一つは、紺の布地に銀の刺繍が入った校章のバッジだった。

「髪留めは通信機だ。耳の後ろに挿しとけば骨を伝って声が届く。バッジの裏には位置発信器が入っとる」

「かわいい」

朔夜は髪留めを摘まんで光にかざした。

薄いピンクの石が、天井の白い照明を受けて柔らかく光った。

「すごい、ほんとにアクセサリーみたい」

「そう見えなきゃ意味がないからな」

男は頬を掻いた。

「ただし街の電波は妙なんだと聞いとる。使えんときは使えん。当てにしすぎるな」

「はい」

「それから」

男は少しだけ言葉を探すように唇を舐めた。

「これは装備じゃない。わしからの余計な世話だ」

台の下から、小さな紙袋を取り出す。

朔夜の前に置いた。

「開けてみな」

朔夜は袋の口を開いた。

中には、湿布と、新しい包帯と、小さな丸い缶が入っていた。

蓋を開けると、ほのかに薬草の匂いがする軟膏が詰まっている。

「足の裏の傷だ。昨日の朝からずっと歩いとったろう」

「え」

「顔を見りゃ分かる。歩き方も妙だ」

「…………」

「そいつを塗って、靴下を二重に履け。街の学校は廊下がリノリウムで底が冷えるからな」

朔夜は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

「……ありがとうございます」

「礼はいらんと言っとる」

「でも嬉しいです」

「…………」

男は黙って、ぷいと顔を背けた。

「早く行きな。制服の採寸が済んどらんと明日に間に合わん」

「あ、はいっ!」

朔夜は袋を胸に抱きしめて、勢いよく頭を下げた。

芹香も隣で丁寧に礼をした。

背を向けた男の肩が、ほんの少しだけ、笑うように揺れたのを、朔夜は見た。

*

制服が置かれていたのは、本館地下の小さな更衣室だった。

灰色の壁に囲まれた狭い部屋で、ハンガーラックに二着ずつ同じ形の服が吊るされている。

朔夜はその前で、足を止めた。

深い紺色のブレザー。

胸ポケットには、銀糸で縫い取られた小さな校章。

白い開襟のシャツ。

臙脂色のリボン。

膝丈の、紺と緑のチェックのプリーツスカート。

隣に並んで、紺のハイソックスと黒いローファー。

昨日まで袖を通してきた黒い戦闘服とも、寮の訓練服とも、まるで違う世界の布だった。

「……わあ」

思わず声が漏れた。

「これが、高校の制服」

「ええ」

芹香が隣で静かに頷いた。

「着たことがないの?」

「ないよ。わたし、小さい頃からずっとこの組織だもん」

「そうだったわね」

「だから制服っていったらこの訓練服しかなくて」

朔夜は、ブレザーの袖にそっと指を触れた。

ウールの柔らかな手触りが、指の腹に優しく沈んだ。

訓練服の硬い生地とは、まるで違う。

「ふわふわしてる」

「ふふ。着てみなさい」

「うん」

朔夜は訓練服を脱いだ。

肩から袖を抜くと、冷たい空気が肌に触れて、ほんの少し鳥肌が立った。

それから、ハンガーから白いシャツを外して袖を通す。

糊のきいた布が、肌にさらりと触れた。

洗い立ての石鹸の匂いがかすかに鼻をくすぐる。

ボタンを一つずつ留めていく。

指先が少しだけ不器用に動いて、二つ目のボタンを掛け違えた。

「あ、ずれてる」

「貸してごらんなさい」

芹香の手が伸びてきて、朔夜の胸元のボタンを外して、掛け直してくれた。

細い指が器用に動く。

爪の先がシャツの布を撫でる感触が、くすぐったかった。

「はい。これでいいわ」

「ありがとう」

次にスカートを手に取る。

腰に当てて、ホックを留める。

膝のあたりで布がひらりと揺れて、朔夜は思わず足をばたつかせた。

「うわ、足がすうすうする」

「ええ。慣れないでしょう」

「訓練服はパンツだったから」

「歩くときは大股にならないようにね」

「はあい」

ハイソックスに足を通す。

装備課の男にもらった軟膏を足の裏の傷に塗ってから、その上に一枚、柔らかい靴下を重ねて、それから紺のハイソックスを引き上げた。

足首をぎゅっと包む感触が、なんだか心地よかった。

ブレザーを羽織る。

肩から背中にかけて、ウールの重みがふわりと乗る。

鏡の前に立った。

壁にかかった小さな楕円の鏡の中に、見慣れない少女が立っていた。

黒髪のボブカット。

額にヘアバンドはない。

琥珀色の瞳が、いつもより少し大きく見えた。

紺のブレザーの襟元から白いシャツの襟が覗き、胸元がまだ何も結ばれずにぽっかりと空いている。

「……だれ、これ」

「あなたよ」

芹香がくすくす笑った。

「リボンがまだね。こちらを向いて」

朔夜は言われるままに芹香のほうへ向き直った。

臙脂色のリボンを手に取った芹香が、朔夜の襟元にそれを回す。

細い指がリボンの両端を持って、くるりと結び目を作る。

その動きが、まるで魔法のように滑らかだった。

朔夜は息を詰めて、芹香の顔をじっと見つめていた。

すぐ近くに長い睫毛の影がある。

石鹸と乾いた紙の匂いが、ふわりと漂ってくる。

「じっとしていて」

「うん」

「……はい。できたわ」

芹香が一歩下がって朔夜の全身を眺めた。

灰茶色の瞳がゆっくりと細められた。

「……よく似合っているわ」

「ほんと?」

「ええ。可愛い」

朔夜の頬がかっと熱くなった。

「か、可愛いとか言われると照れる」

「あら。事実を言ったまでよ」

「もう」

朔夜は頬を両手で押さえた。

その仕草を見て、芹香が声を立てて笑った。

「先輩は?」

「私はこれから着るわ」

「見せて見せて」

「ふふ。待っていなさい」

芹香はハンガーから自分の制服を取って、衝立の陰へ消えた。

衣擦れの音がしばらく続く。

朔夜は鏡の前でくるりと一回転してみた。

スカートの裾がふわりと広がる。

もう一回転。

今度は少し勢いをつけて、ブレザーの裾が舞い上がった。

「わあ」

思わず声が出た。

「なんか、楽しい」

「声が聞こえているわよ」

衝立の向こうから芹香の笑い声が聞こえた。

「お待たせ」

衝立の陰から芹香が姿を現した。

朔夜は息を呑んだ。

同じ紺のブレザー。

同じチェックのスカート。

けれど芹香が着ると、それはまるで別の服のように見えた。

背筋がすっと伸びて、長い栗色の髪が肩に流れている。

臙脂色のリボンは朔夜のものより少しだけ落ち着いた位置で結ばれていて、その襟元の白いシャツが凛とした品の良さを際立たせていた。

三年生の先輩。

そう言われても誰も疑わないだろう。

「……先輩」

「なあに」

「きれい」

声が自然と零れた。

「すごくきれい」

芹香は頬をわずかに赤らめて、視線を逸らした。

「ありがとう。……少し照れるわね」

「でしょ」

「ええ。仕返しをされたわ」

二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。

更衣室の狭い空間に、二人の笑い声が柔らかく響いた。

*

寮の自室に戻ったとき、窓から差し込む午後の光が床に四角い模様を描いていた。

朔夜は制服のまま、ベッドの縁にぽすんと腰を下ろした。

二段ベッドの下段は昨日からそのままになっている。

同室の少女の姿はなかった。

机の上には昨日と同じ場所にメモが置かれていたが、その横に今朝は小さな紙袋が一つ増えていた。

「……あれ」

朔夜は袋を手に取った。

軽い。

口を開けると、中から小さな布の袋が出てきた。

手のひらに載るほどの、薄い桃色の布で縫われたお守りだった。

縫い目が少しがたがたしていて、端の糸がほつれている。

袋の口を縛る紐は、不揃いな長さで結ばれていた。

その裏に、鉛筆でごく小さな字が書かれている。

『おかえりなさい。いってらっしゃい。 —— 美月』

朔夜は、指先が震えるのを感じた。

昨日のメモは「ごめんなさい。気をつけて」だった。

今朝のそれは、もっと温かい。

「美月ちゃん」

初めてその名前を口に出した。

同室の少女の名前を、朔夜は入寮してからずっと知っていたはずなのに、こんなふうに声に出して呼んだのは初めてな気がした。

胸の奥がじんわりと熱い。

朔夜はお守りを両手で包んで、胸にそっと押し当てた。

「ありがとう」

呟いて、お守りを制服の胸ポケットに仕舞った。

護符の隣、銀杏の葉の隣、おにぎりの包み紙の隣に。

「あら」

背後から声がかかった。

芹香が扉の隙間から顔を覗かせていた。

「入ってもいい?」

「うん、どうぞ」

芹香は静かに部屋に入って、机の上に抱えていた資料の束を広げた。

大きな地図と、ホチキスで留められた書類と、数枚の写真。

「作戦会議をしましょうか」

「あ、うん」

朔夜はベッドから降りて、床にぺたりと座った。

芹香もその隣に膝を折って、地図を二人の間に広げた。

紙の端が少しだけ丸まって、蛍光灯の光を受けて白く光っている。

地図の中央に、赤いペンで丸が一つ描かれていた。

その丸の内側に、細い道が格子状に走っている。

「ここが灯宵銀座。駅から北へ徒歩十分ほどのアーケード商店街」

芹香の指が地図の上をゆっくりと辿った。

「全長はおよそ四百メートル。両側にシャッターの下りた店舗が二百軒近く並んでいるわ」

「二百軒」

「そのうち営業しているのは三十軒ほど」

「ほとんど空き家だ」

「ええ。三年前から急速に寂れたそうよ」

芹香の指が、商店街の北の端で止まった。

「そして、ここ」

小さな四角が一つ描かれている。

「白鷺堂。古い文具店ね」

「ぶんぐてん」

「ええ。紙と筆と便箋を扱う店。創業は明治にまで遡るという話よ」

「へえ」

「失踪した少女たちの友人の証言を、資料から拾ってみたの」

芹香は書類のページをめくった。

「十四人のうち、少なくとも八人が、失踪の前の週にこの店に立ち寄っているわ」

朔夜は顔を上げた。

「紙の人形」

「ええ」

「紙を扱う店」

「そう。偶然とは思えない」

芹香の声は低く静かだった。

「ただし店主は高齢の女性で、三年前に夫を亡くして以来ひっそりと店を続けているだけだそうよ。調査員の報告では特に不審な点は見つかっていない」

「それでも怪しいよね」

「ええ。でも決めつけてはだめ」

芹香は朔夜をまっすぐ見つめた。

「あの店が原因なのか、あるいはあの店に何かが憑いているのか、もしくはあの店は単に入口にすぎないのか。そこはまだ分からないわ」

「うん」

「だから学校側から調べましょう」

芹香は別の写真を一枚、地図の上に載せた。

白い校舎の写真だった。

三階建ての古い鉄筋コンクリート。

屋上に細い避雷針が立っている。

校門の脇に、くすんだ色の石碑が立っていた。

『灯宵県立高等学校』

「二学年と三学年に生徒が集中しているの。失踪した九人のうち六人が二年生、三人が三年生」

「あ、だから」

「ええ。あなたが二年、私が三年として編入するわ」

「え」

朔夜は目を瞬いた。

「わたしが二年生で、先輩が三年生」

「そうよ」

「……じゃあ、わたしのほうが年下ってこと」

「設定上はね」

芹香は口元を緩めた。

「実際はあなたは十八歳だけれど、十七歳として編入するの」

「えー」

「いやなの?」

「いやじゃないけど」

朔夜は頬を掻いた。

「先輩を先輩って呼べるのは変わらないから、ちょっと嬉しいかも」

「ふふ。そう」

「でもクラスは別なんだね」

「ええ。二年B組に朔夜ちゃん、三年A組に私。その配置が一番、情報を集めやすいと判断されたの」

芹香は書類の別の頁を指でなぞった。

「失踪した六人の二年生のうち四人が同じクラスの出身よ。あなたはその教室に潜り込むことになる」

「同じクラス」

「ええ」

「その子たちの席は?」

「空席になっているそうよ」

朔夜の胸がきゅうと縮んだ。

空席。

四つの空っぽの机が、教室の窓際に並んでいる。

その隣に座る自分を、朔夜は頭の中に思い浮かべた。

「……やだな」

小さく呟いた。

「ええ」

「友達になる前に、その子たちの席の隣に座るんだ」

「そうね」

「ちゃんと探してあげなきゃ」

「ええ」

芹香は静かに頷いて、書類の束を閉じた。

「いい? ここからが大切な約束事よ」

「うん」

「まず潜入中の私たちは、あくまで普通の転校生」

「うん」

「訓練服も、組織の名前も、怪異のことも、一切口にしてはいけない」

「うん」

「そして」

芹香は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。

「もし一般の生徒が怪異に触れそうになったら、彼女たちを守ること。それが最優先事項になるわ」

「守る」

「ええ。たとえ私たちが傷ついても」

朔夜は唇を結んだ。

昨日の食堂で、あの調理員が涙を流した顔が頭に浮かぶ。

怖かったと言っていたのに、おにぎりを握ってくれた。

日常に生きる人々は、怖くても誰かのお腹の心配をする。

その人たちが暮らしている世界を、朔夜たちは守っている。

「うん。分かった」

「それからもう一つ」

「うん」

「目撃された場合の対処よ」

芹香の声がほんの少し低くなった。

「怪異を見てしまった一般人には、後始末班が記憶の処置を行うことになっている」

「…………」

「でも記憶操作が完全に効くとは限らない。そのときは」

そこで芹香は言葉を止めた。

朔夜は、続きを聞かなくても分かった。

昨日の最初の日に、鬼塚教官が言いかけたこと。

この組織の暗部。

口封じ。

「……させないよ」

朔夜は小さく、けれどはっきりと言った。

「え」

「見られないようにする」

「朔夜ちゃん」

「誰にも見られないように、わたしが先に倒す」

「…………」

「それでもし見られちゃったら」

朔夜は拳をぎゅっと握りしめた。

「わたしがその子を守る。後始末班が来ても、渡さない」

芹香の瞳が、わずかに揺れた。

驚きと、危うさと、それから愛しさのようなものが、その灰茶色の奥でゆっくりと混じり合った。

「……そんなことを言ってはだめよ」

「どうして」

「組織に逆らうことになるわ」

「うん」

「それはあなた自身を危険に晒すことよ」

「分かってる」

朔夜は顔を上げた。

琥珀色の瞳が、午後の光を受けて強く光った。

「でもわたしは、誰かを守るために戦鎚を握ってるんだもん」

「…………」

「誰かの記憶を消すために握ってるわけじゃない」

芹香はしばらく黙っていた。

窓の外から、遠くで鳥の声が聞こえた。

やがて、芹香はふっと息を吐いた。

「……あなたは本当に」

「うん?」

「厄介な子ね」

「えー!」

「いい意味でよ」

芹香は小さく笑って、朔夜の頭にそっと手を置いた。

掌が髪の上でふわりと温かい。

「約束するわ。そのときは、私も一緒にあなたの隣で戦う」

「先輩」

「ただし無茶はしないこと」

「うん」

「私より先に死なないこと」

「それは先輩もだよ」

「ええ。お互いにね」

二人は顔を見合わせて、静かに笑った。

*

作戦の確認が終わった頃には、窓の外の光が橙色に傾き始めていた。

朔夜はベッドの上で足を投げ出して、装備課でもらった軟膏を足の裏に塗っていた。

指先で薬草の匂いのする軟膏を伸ばす。

ひんやりとした感触が傷にじんわりと染みた。

「痛い?」

「ちょっとだけ」

「貸してごらんなさい」

芹香が隣に腰を下ろして、朔夜の足を自分の膝に載せた。

傷だらけの足の裏を丁寧に見る。

「ひどい水ぶくれね。よく歩いたわね」

「えへへ」

「笑い事ではないのよ」

芹香は呆れた声で言いながら、清潔なガーゼを軟膏に添えて、足の裏にそっと当てた。

包帯を巻く手つきが、驚くほど優しい。

くるり、くるりと指が動く。

朔夜は、その旋毛を見下ろしながら、ふと呟いた。

「……先輩の手って、魔法みたい」

「あら」

「痛いのがどっかいっちゃう」

「それは気のせいよ」

「気のせいでもいいの」

「…………」

芹香は小さく笑った。

「ありがとう。あなたに言われると、本当にそんな気がしてくるわ」

「でしょ」

「ふふ」

包帯の端をきゅっと結んで、芹香は朔夜の足をそっとベッドの上に戻した。

窓から差し込む橙色の光が、二人の影を壁に長く伸ばしている。

その影が重なったり離れたりしながら、ゆらゆらと揺れた。

「ねえ先輩」

「なあに」

「ちょっと行きたいところがあるんだ」

「どこ?」

「道場」

「あら」

「佐伯さんたちに、朝練のこと謝りに」

朔夜は頬を掻いた。

「明日の朝は出発だから、行けなくなっちゃったんだよね」

「そうね」

「約束破ったみたいで、やだなって」

「分かったわ。一緒に行きましょう」

「ありがと」

二人は靴下を履き直して、廊下へ出た。

*

道場の引き戸を開けると、夕暮れの橙色の光が床板に長く伸びていた。

樫の床が飴色に輝いている。

蝋の匂いと、汗の匂いと、畳の草の匂い。

あの朝と変わらない、道場の匂いだった。

壁際に、三つの人影があった。

竹刀を握った佐伯と、中村と、高橋。

三人は夕方の自主練習をしていたのだろう。

額に汗を滲ませて、床の上で素振りを繰り返している。

朔夜たちの姿に気づいて、三人が手を止めた。

「橘さん!」

佐伯が竹刀を下ろして駆け寄ってきた。

「どうしたんですか、こんな時間に」

「あのね」

朔夜は胸の前で両手を合わせた。

「ごめん! 明日の朝練、行けなくなっちゃった」

「え」

「急に任務が入って、明日の朝六時に出発なんだ」

「…………」

三人の顔が、ほんの少しだけ曇った。

けれど佐伯はすぐに首を横に振った。

「大丈夫です」

「え」

「謝らないでください」

佐伯は竹刀を握り直して、まっすぐに朔夜を見つめた。

「橘さんが任務に行くのは分かってます」

「…………」

「だから、帰ってきたらにしましょう」

「帰ってきたら」

「はい。それまで私たち、毎日素振りを百回やります」

「百回」

「ね、中村、高橋」

「うん」

「百回やるよ」

中村と高橋が力強く頷いた。

朔夜の胸が、じんと熱くなった。

「……ありがとう」

声が震えた。

「でも無理しないでね」

「無理じゃないです」

「うん」

「橘さんが帰ってきたとき、少しは強くなってたいんです」

佐伯の眼鏡の奥の瞳が、夕陽を受けてきらきらと光っていた。

「だから待ってます」

朔夜は何度も頷いた。

それから、ぎゅっと佐伯の手を握った。

竹刀を握っていた手は、汗で少し湿っていて、けれど驚くほど温かかった。

「帰ってくるね」

「はい」

「ぜったい」

「約束ですよ」

「約束!」

隣で芹香が静かに微笑んでいた。

夕陽が道場の高窓から斜めに差し込んで、床の木目の一本一本を金色に染めている。

その光の中で四人の少女の影が、長く重なって揺れていた。

「それじゃ、わたしたちはこれで」

「いってらっしゃい、橘さん」

「いってらっしゃい、一条先輩」

三人の声が、揃って道場に響いた。

朔夜は振り返って、大きく手を振った。

「いってきます!」

その声が高い天井に昇って、夕暮れの空気の中へ吸い込まれていった。

*

その夜、朔夜は二段ベッドの上段で目を閉じていた。

同室の美月は下段のベッドで静かに寝息を立てている。

夕食の後、部屋に戻ってきた美月は、扉の前で長い間立ち尽くしていた。

おずおずと入ってきて、朔夜と目が合うと、唇を震わせた。

朔夜が先に言った。

「おかえり」

美月は、息を詰めて、それから泣き笑いの顔になった。

「……ただいま」

その一言を交わしてから、二人は少しだけ話した。

お守りのお礼を言うと、美月は耳まで赤くなって俯いた。

手縫いが下手でごめんなさい、と言う声が小さくて、朔夜は笑って首を横に振った。

世界でいちばん温かいお守りだと思う、と言ったら、美月の目から涙が零れた。

それから二人はそれぞれのベッドに入って、おやすみを言った。

闇の中に美月の穏やかな寝息が聞こえる。

朔夜は天井の木目をじっと見つめていた。

節がひとつ、渦を巻くように黒ずんでいる。

目玉のような、あの節。

窓のカーテンの隙間から、細い月光が差し込んでいた。

その光が節の中心を、ほんの少しだけ銀色に照らしている。

「……明日、行ってくるね」

小さく呟いた。

目玉は何も答えなかった。

けれど朔夜には、その節が静かに頷いてくれたような気がした。

胸の奥の残り火が、穏やかに温かく瞬いている。

「おやすみ」

そう呟いて、朔夜は目を閉じた。

*

四時五十分。

起床の鐘より先に、朔夜は目を覚ました。

窓の外はまだ濃い藍色の闇だった。

吐く息が白い。

十月の終わりの夜明け前の冷え込みが、部屋の空気を薄い氷のように張りつめさせている。

朔夜は毛布を跳ね上げた。

「ひゃっ」

小さな声が漏れる。

けれどその声が、もうおかしくて、一人で笑ってしまった。

素足で石の床に降りる。

ひやりと冷たい。

足の裏の包帯の下の傷が、じんと痛んだ。

けれど痛みよりも、これから始まる一日への高鳴りのほうが大きかった。

洗面所へ向かう。

蛇口をひねる。

水が管の奥でごぼりと鳴ってから、勢いよく流れ出した。

両手で受ける。

冷たい。

指の骨まで凍みる。

その水を顔に叩きつけた。

「ぷはあっ!」

頬が熱くなる。

まぶたの裏で小さな火花が散る。

顔を上げると、曇った鏡の中に少女がいた。

黒髪のボブカットが寝癖で右側だけ跳ねている。

琥珀色の瞳が、薄暗い洗面所の中でほのかに明るく光っていた。

「今日もよろしく」

鏡の少女に向かって、にっと笑った。

そして、胸に手を当てて、小さく続けた。

「あなたも、今日もよろしくね」

胸の奥でことりと何かが頷いた気がした。

廊下の壁に掛かった額の前を通る。

『秩序は、美しさに先立つ』

朔夜は、その文字を見上げて、ふふ、と小さく笑った。

まだよく分からない。

けれど、分からないままでもいいのだと思えるようになった。

部屋に戻って制服に袖を通す。

白いシャツ。

紺のブレザー。

チェックのスカート。

首元に臙脂色のリボンを結ぶ。

昨日芹香に教わった通りに、指で輪を作って、くるりと通して、きゅっと引く。

「……できた」

少し歪んでいたけれど、悪くない。

鏡の前でくるりと回る。

学生鞄を手に取る。

ずしりと重い。

中には教科書の代わりに折り畳んだトンファーと、着替えと、通信機の髪留めと、書類が詰まっていた。

肩に掛けると、革のストラップが肩に食い込んだ。

最後に、ベッドの下段を振り返った。

美月が毛布にくるまって、小さく丸くなっている。

朔夜は音を立てないように近づいて、その枕元に小さな紙を置いた。

『いってきます。かえってきたら、いっしょに朝ごはん食べよう。 —— 朔夜』

それから天井の目玉に向かって、ひらりと手を振った。

「いってきます」

扉をそっと閉じた。

*

玄関ホールには、淡い朝の光が高窓から静かに差し込んでいた。

芹香がすでに立っていた。

同じ紺のブレザー。

同じチェックのスカート。

長い栗色の髪は緩い三つ編みにして、肩から前へ流している。

肩にはトンファーと同じく、学生鞄が掛けられていた。

その横顔が、薄い光の中でひどく穏やかに見えた。

「おはよう、朔夜ちゃん」

「おはよう、先輩」

「寝癖が跳ねているわ」

「え、直したのに」

「直っていないわ。じっとしていて」

芹香の手がふわりと朔夜の髪を撫でた。

跳ねた毛先を丁寧に押さえつける。

その仕草が、ずっと前から変わらず優しかった。

「はい。これで大丈夫」

「ありがと」

「行きましょうか」

「うん」

二人は並んで、玄関のガラス扉を押した。

朝の冷気が頬を撫でた。

前庭の銀杏の木が、薄明かりの中で黄金色に輝いている。

砂利を踏む音がざりざりと響く。

その先の正門の脇の詰所に、灯りが一つ灯っていた。

白髪の老人が窓から顔を覗かせて、静かに頭を下げた。

朔夜も深く頭を下げた。

潜り戸の向こうの石段の途中、銀杏の並木の陰に、一つの人影が立っていた。

濃紺の教官服。

銀縁の眼鏡。

鬼塚教官だった。

朔夜は立ち止まった。

鬼塚は何も言わずに、じっとこちらを見ていた。

眼鏡の奥の瞳が、朝の光を受けて、ほんの少しだけ柔らかく見えた。

朔夜は、制服の胸ポケットにそっと手を当てた。

護符。

お守り。

銀杏の葉。

包み紙。

その全部を、胸の上から確かめるように。

それから、鬼塚に向かって、深く頭を下げた。

顔を上げると、鬼塚がごくわずかに、本当にごくわずかに、頷いたのが見えた。

それだけで十分だった。

朔夜は笑った。

「いってきます」

声に出さずに唇だけで言った。

鬼塚の口の端が、ほんの少し持ち上がった気がした。

*

始発列車は、がらんとしていた。

山裾の小さな無人駅のホールには、二人のほかに誰もいなかった。

古びた木の長椅子。

壁に貼られた色褪せた時刻表。

自動販売機の青白い光だけが、朝の薄闇の中で、ぽつんと灯っていた。

ホームに出ると、冷たい風が頬を撫でた。

線路の向こうに、靄に霞む山の稜線が見える。

空はまだ淡い灰色で、その縁にうっすらと橙色が滲み始めていた。

ごとん、ごとん、と遠くから音が近づいてくる。

白と緑の二両編成の古い電車が、ゆっくりとホームに滑り込んできた。

扉が開く。

ぷしゅう、と空気の抜ける音。

朔夜は一歩を踏み出した。

電車の床がかすかに揺れる。

車内は温かく、古い座席の埃っぽい匂いがした。

青いビロード張りのボックス席が、向かい合わせに並んでいる。

その一番奥の窓際の席に、朔夜は鞄を放り出して座り込んだ。

「わあ、窓際だ」

「ええ」

「先輩どうぞどうぞ」

「あら、窓際は譲ってくれるの?」

「だって先輩の隣が一番安心だから」

「ふふ」

芹香は朔夜の向かいの席に腰を下ろした。

鞄を膝に載せて、背筋をすっと伸ばす。

その姿が、制服のおかげで本当に高校生に見えた。

「それにしても」

芹香が小さく笑った。

「なんだか修学旅行みたいね」

「え」

「制服で、鞄を持って、二人で電車に乗って」

「あ、ほんとだ」

朔夜は目を輝かせた。

「わたし、修学旅行って行ったことないけど」

「私もよ」

「じゃあこれが初めてだね」

「そうなるわね」

「やった」

朔夜は窓に額を寄せて、ガラスの向こうの景色を覗き込んだ。

電車がゆっくりと動き出す。

ごとん、ごとん、とレールの継ぎ目を踏む音が、足元から座席へ伝わってきた。

ホームの白い柱が後ろへ流れていく。

駅舎の黄色い灯りが小さくなっていく。

その向こうに、寮舎のある山裾がうっすらと見えた。

黒い瓦屋根。

苔むした外壁。

朝靄の中にぼんやりと沈んでいる、懐かしい輪郭。

「……行ってきます」

もう一度、小さく呟いた。

電車が速度を上げる。

寮舎が靄の向こうへ遠ざかっていった。

*

最初の三十分は、窓の外が山と畑ばかりだった。

枯れかけた稲の切り株が、灰茶色の田んぼにずらりと並んでいる。

その上を朝霧がゆらゆらと流れていた。

ところどころに藁を積み上げた丸い山が立っている。

朔夜はその一つ一つを目で追った。

「先輩、あれ何?」

「藁塚ね」

「わらづか」

「稲を刈ったあとの藁を乾燥させて、積んでおくのよ」

「へえ。かわいい」

「ふふ」

芹香は膝の上の時刻表に目を落としながら、答えた。

電車が小さな川の鉄橋を渡る。

ごおおん、と車輪が鳴り、窓の外の景色が一瞬だけ開けた。

水面が朝日を受けて銀色に光っている。

その上を白い鳥が一羽、低く飛んでいった。

「あ、サギだ」

「よく知っているわね」

「訓練中に何回か見たことあるから」

朔夜は得意げに胸を張った。

それから、鞄の中から小さな布の包みを取り出した。

「先輩、お腹すかない?」

「あら」

「これ、食堂のおばさんが渡してくれたんだ」

朝、出発前に玄関で呼び止められたのだ。

丸顔の調理員が割烹着の袖で顔を拭いながら、二つの包みを押しつけてきた。

道中で食べなさい、と。

朔夜は包みを一つ芹香に差し出した。

「はい」

「ありがとう」

二人で同時に包みを開いた。

中には、焼き鮭のおにぎりが二つずつ、ふっくらと並んでいた。

ほんのりと温かい。

窓から差し込む朝の光が、米の表面で白く光っている。

「いただきます」

「いただきます」

同時に齧った。

塩気と、鮭の脂の旨みが、口の中でほろりと解ける。

「……おいしい」

「ええ」

「やっぱり、おばさんのおにぎり最高」

「ええ。本当に」

朔夜は窓の外の景色を眺めながら、二つ目のおにぎりも一気に平らげた。

茶色い田んぼの上を、朝霧がゆっくりと流れていく。

それはどこか、遠足のような、柔らかな光景だった。

「ねえ先輩」

「なあに」

「じゃんけんしよう」

「え」

「勝ったほうが次の駅で飲み物買いに行くの」

「……子供みたい」

「だって修学旅行だもん」

「ふふ。分かったわ」

「じゃんけん、ぽん!」

「あ」

朔夜はチョキを出していた。

芹香はパーだった。

「勝った!」

「負けたわね」

「やった!先輩は次の駅でお茶お願いね!」

「はいはい」

「わたしあったかいのがいい!」

「分かったわ」

芹香は呆れた顔で、けれど口元をほころばせた。

電車が揺れる。

窓の外の景色がゆるやかに流れていく。

*

二つ目の乗り換え駅は、大きな駅だった。

ホームが何本も並び、屋根の鉄骨が高い。

朝のラッシュの終わりかけの時間で、サラリーマンや学生がまばらに行き交っている。

朔夜は、電車を降りた瞬間に、ぱちぱちと目を瞬いた。

「わあ、人がいっぱい」

「ええ。少しだけ慣れないとね」

「うん」

朔夜は鞄の紐をぎゅっと握りしめた。

人の気配に包まれて歩くのは、寮の外では初めてに近い経験だった。

肩が触れそうになる距離ですれ違う人々の足音。

話し声。

駅のスピーカーから流れるアナウンス。

立ち食いそばの店から漂ってくる出汁の匂い。

そのすべてが生き生きと押し寄せてきて、朔夜の胸をどきどきさせた。

「先輩、あのそば屋さんいい匂い」

「さっきおにぎりを食べたばかりでしょう」

「でも匂いが」

「後でね」

「はあい」

芹香は自動販売機の前で足を止めた。

小銭を入れて、あったかいお茶のペットボトルを二本、取り出す。

朔夜はそのペットボトルを両手で受け取った。

掌にじんわりと温もりが染みる。

「ありがと」

「ええ」

「あったかい」

「ふふ」

二人は次の電車のホームへ階段を上っていった。

その途中の掲示板の前で、朔夜の足がふと止まった。

駅の通路の壁に、一面のポスターが貼られていた。

学校の文化祭。

観光地の紅葉。

献血のお願い。

そのポスターの端のほうに、白い紙が数枚、並んで貼られている。

『情報提供のお願い』

太い黒い文字。

その下に、少女の写真が並んでいた。

笑顔の、制服姿の少女たち。

写真の横に、名前と、年齢と、失踪の日付が印字されている。

朔夜は息を呑んだ。

資料で見たあの顔だった。

十四人のうちの何人か。

一番左の少女は、ショートカットで笑っていた。

その横の少女はリボンを結んで少し恥ずかしそうに微笑んでいる。

その隣は眼鏡の奥の目を細めて。

「……先輩」

「ええ」

芹香が隣で静かに立ち止まった。

「この駅まで貼られているのね」

「うん」

「ご家族が必死に探しているのでしょう」

朔夜はポスターの前でじっと立っていた。

写真の中の少女たちは、みんな笑っていた。

白い紙の人形のあの笑顔とは違う。

ちゃんと一人一人、違う笑顔だった。

その違いが、朔夜の胸にとても大切なことのように響いた。

「……みんな、違う顔で笑ってる」

「ええ」

「あの人形とは、全然違う」

「そうね」

「絶対に、見つけるよ」

朔夜は、小さく、けれど強く呟いた。

芹香は何も言わずに、そっと朔夜の肩に手を置いた。

触れた温もりが、制服越しに静かに伝わってきた。

「行きましょう」

「うん」

二人はポスターの前から歩き出した。

次の電車に乗る頃には、朝の光がすっかり白く眩しくなっていた。

*

電車は特急に変わった。

座席が柔らかく、窓が大きい。

車窓の景色はいつの間にか、山から平野へと開けていた。

遠くに薄青い山脈が横たわっている。

その手前に、広い田園と、点在する集落と、細い川の蛇行が見渡せる。

朔夜は窓に頬をくっつけて、その景色を食い入るように見つめていた。

「すごい、広い」

「ええ」

「先輩、世界ってこんなに広かったんだね」

「そうね」

「なんだか、不思議」

朔夜は呟いた。

胸の奥が、ふわふわと軽くなる。

あの谷の底の乾いた泥の大地も。

あの地下の測定場の冷たいコンクリートの床も。

この広い空の下の、小さな一点にすぎない。

そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。

電車の揺れが、ゆりかごのように心地いい。

瞼が少しずつ重くなってきた。

昨夜はあまり眠れなかった。

朝早く起きて、おにぎりを食べて、それから緊張が解けたのかもしれない。

朔夜の頭が、こくり、と傾いた。

「眠ってもいいわよ」

芹香の声が、遠くで聞こえた。

「着いたら起こしてあげる」

「……ん……」

「ほら、肩を貸してあげる」

「……いいの」

「ええ」

朔夜は向かいの席から、いつの間にか芹香の隣に移動していた。

肩にこつんと頭を預ける。

芹香の肩は細くて、けれど温かかった。

石鹸と乾いた紙の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。

「……あったかい」

「ええ」

「先輩の肩……」

「おやすみなさい」

「……おやすみ……」

朔夜は目を閉じた。

電車のリズムが、全身を静かに揺らしている。

夢の中で、白い紙の人形が一つ、窓辺で揺れた気がした。

けれど、その夢はすぐに、温かい肩の感触の中へ溶けていった。

*

誰かに肩を揺すられて、朔夜は目を覚ました。

「朔夜ちゃん」

「……ん」

「着いたわよ」

「……あ」

朔夜は慌てて目を擦った。

窓の外の景色が、さっきまでとは違っていた。

青空がどんよりと薄い灰色に曇っている。

遠くの山の稜線が、白い靄に溶け込んでぼんやりとかすんでいる。

町並みが近づいていた。

低い瓦屋根が密集して、その合間に細い路地が縦横に走っている。

古びた電柱が並び、電線が空を蜘蛛の巣のように覆っていた。

「……ここが」

「ええ。灯宵」

朔夜は窓に顔を近づけた。

町は、静かだった。

電車がゆっくりと駅のホームに滑り込んでいく。

ホームは小さく、屋根も低い。

駅名の看板が、風雨に晒されて褪せている。

『灯宵』

その文字の横に、小さな提灯の絵が描かれていた。

赤く丸い、白い紙の提灯。

朔夜はそれを見て、胸の奥がかすかにざわついた。

白い紙。

電車が止まる。

扉が開いた。

ぷしゅう、と空気の抜ける音。

ホームに降り立った瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。

昼間のはずなのに、どこか薄暗い。

空気が湿っている。

苔と、古い紙と、墨の匂いが、かすかに混じっていた。

「…………」

朔夜は思わず立ち止まった。

ホームには、誰もいなかった。

降りたのは朔夜と芹香の二人だけ。

他の乗客は一人もいない。

駅員の姿もない。

自動販売機が一台、青白い光を放っているだけだった。

「先輩」

「ええ」

芹香の声が、ほんの少し低くなった。

「静かすぎるわね」

「うん」

「こんな時間に、駅に誰もいないなんて」

「……うん」

朔夜は鞄の紐をぎゅっと握りしめた。

胸ポケットの護符が、ひやりと冷たくなった気がした。

二人は並んで、ホームの階段を降りた。

小さな改札を抜ける。

無人の改札口の脇に、色褪せた掲示板が立っていた。

その隅に、一枚の紙が画鋲で留められている。

白い紙。

手のひらほどの大きさの、人の形に切り抜かれた紙。

その顔には、墨で丸い顔が描かれていた。

細い目。

弧を描く口。

笑っている。

朔夜は息を止めた。

資料の写真と全く同じ笑顔だった。

「……先輩」

「ええ。見えているわ」

芹香の手が、そっと朔夜の肩に触れた。

触れている。

触れているのだ。

その温もりが、朔夜の凍りかけた呼吸をゆっくりと溶かしてくれた。

「近づかないで」

「うん」

「まだ何も触れてはだめよ」

「うん」

二人はその人形を横目に見ながら、駅舎の外へ出た。

駅前の小さなロータリーが、曇り空の下に広がっている。

バス停が一つ。

古びた屋根の下に、色褪せた時刻表。

その柱に、また一つ、白い紙の人形が結びつけられていた。

揺れている。

風はないのに。

朔夜はその人形の顔を、ちらりと見た。

笑っている。

さっきの人形と同じ顔で。

その細い目が、ほんの一瞬だけ、こちらを向いた気がした。

朔夜は、反射的に目を逸らした。

背中を冷たい汗が一筋、伝い落ちた。

「…………」

「見てはだめ」

芹香が低く囁いた。

「目を合わせないで」

「……うん」

「大丈夫。私がいるわ」

「うん」

朔夜は、芹香の手を探して握った。

細くて長くて少し乾いていて温かい指。

その指がぎゅっと握り返してくれた。

それだけで、足元がしっかりと地面に着いた気がした。

駅前の通りの向こうに、遠く、灰色の巨大なものが見えた。

建物の隙間から覗く、錆びた鉄骨のアーチ。

褪せた看板がいくつも吊るされた、長い長い天蓋。

その入口の上に、色褪せた文字がかろうじて読み取れた。

『灯宵銀座』

アーチの奥は薄暗かった。

昼間なのに、まるで夕暮れの底のように。

その暗がりの中に、数え切れないほどの白い影が、ひらひらと揺れていた。

風もないのに。

朔夜は、その影から目を離せなかった。

白い紙の人形たちが、一斉に、こちらを向いた気がした。

笑顔のまま。

何百もの同じ笑顔が。

――そのとき。

背後から、小さな声がした。

どこからか、子供の歌うような、細い、遠い声。

ぼんやりと、柔らかく、まるで子守唄のように。

ねんねん、ころりよ。

朔夜の背筋が凍りついた。

芹香の手が、強く朔夜の手を握り締めた。

「聞こえる?」

「うん」

「応えないで」

「うん」

「歌を聞いても、決して応えてはだめ」

「うん……分かってる」

朔夜は、唇を噛みしめた。

胸の奥の残り火が、ちりりと小さく疼いた。

新しい夜の気配を嗅ぎ取って。

静かな町の曇り空の下に、白い紙の笑顔だけが、いつまでも揺れていた。

――第3章 Part 3/4 へ続く

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作者について

紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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