第3章 ― 凪の食卓と、白い影3
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
駅前の通りは、思っていたよりもずっと細かった。
両側に低い二階建ての商店が肩を寄せ合い、その庇の下を縫うように、細い歩道が続いている。
舗装は所々で剥げ、割れ目から枯れかけた雑草が顔を覗かせていた。
空は一面の薄鼠色で、雲の底が屋根のすぐ上まで降りてきているように感じられる。
風はなかった。
それなのに、通りの電線に結びつけられた白い紙の人形だけが、ひらひらと小さく揺れていた。
朔夜は、それを数えないようにして歩いた。
数えてしまえば、きっと目が離せなくなる。
右手に鞄を提げ、左手には芹香の指を握ったまま、朔夜は爪先で舗装の割れ目を避けるように進んだ。
通りには人の姿がちらほらとあった。
買い物籠を提げた老婆が、うつむき加減にゆっくりと歩いている。
自転車に乗った中年の男が、前だけを見つめて通り過ぎていく。
けれど誰一人として、空を見上げなかった。
誰一人として、電線の人形に目を向けなかった。
まるでそこに何もないかのように。
あるいは、何かがあることを知り尽くしているからこそ、決して見ようとしないのだと、朔夜には分かった。
「……みんな、見ないようにしてる」
「ええ」
芹香が低く答えた。
「慣れているのよ。この町の人たちは」
「慣れちゃうの」
「そうしなければ生きていけないもの」
朔夜は唇を噛んだ。
胸の奥に冷たい石がひとつ落ちる。
二つ目の角を曲がったとき、遠くに校舎が見えた。
白い三階建ての古い鉄筋コンクリート。
屋上に細い避雷針が一本、鼠色の空に突き刺さっている。
校門の脇には、写真で見た石碑が立っていた。
『灯宵県立高等学校』
近づくにつれて、チャイムの音が聞こえてきた。
ごおん、ごおん、と間延びした鐘のような音。
それは昼前の授業の合間を告げる、ごく普通の学校の音だった。
けれど、その普通さが、かえって朔夜の背筋を冷たくした。
*
職員室は、紙とコーヒーの匂いがした。
古い木の机が島のように並び、その上に積まれた書類の山が、天井の蛍光灯に白く照らされている。
窓際の棚には色褪せた表彰状の額と、埃を被った地球儀。
壁の時計は十時四十二分を指していた。
「いやあ、遠いところ大変だったでしょう」
朔夜たちを迎えたのは、四十がらみの小柄な男の教師だった。
眼鏡の奥の目が人懐っこく細められている。
けれど、その目の下には濃い隈が刻まれ、笑顔の端が少しだけ引き攣っていた。
「二年B組の担任の藤宮です。橘さんだね。よろしく」
「橘朔夜です! よろしくお願いします!」
朔夜は背筋を伸ばして頭を下げた。
声が思ったより大きく響いて、周囲の教師たちが一斉にこちらを見た。
その視線の中に、驚きと、わずかな憐れみのようなものが混じっているのを、朔夜は見逃さなかった。
「元気がいいなあ」
藤宮は笑った。
それから隣の芹香に視線を移した。
「一条さんは三年A組だね。担任の先生は今日はちょうど会議で外していて、後で紹介するよ」
「ありがとうございます」
芹香は静かに頭を下げた。
長い栗色の髪が、肩の上でさらりと揺れた。
「それで、あの」
藤宮は声を低くした。
「ご家庭の事情でこの時期に転校だと伺っています。大変でしたね」
「はい」
「うちの学校は、その、少し」
言葉を探すように唇を舐める。
「最近いろいろありまして。生徒たちも元気がないというか」
「分かっています」
芹香が穏やかに答えた。
「ご心配なく。私たちはあまり気にしませんから」
「……そうですか」
藤宮は少しだけほっとしたように肩を落とした。
それから机の引き出しから、二枚の薄い紙を取り出した。
「これが時間割と校内の地図です。橘さんは三時間目の途中からだけど、教室に行きましょうか」
「はい!」
「一条さんは、一度図書室を案内してもらったらどうでしょう。三年生の図書委員の子を呼んであるんです」
芹香の瞳が、ほんのわずかに動いた。
それが、潜入の最初の糸口を手に入れた瞬間の動きだと、朔夜には分かった。
「ありがとうございます。ぜひ」
「じゃあ一旦ここで別れて、放課後に校門で待ち合わせましょうか」
芹香が、朔夜に目を向けた。
小さく、本当に小さく頷く。
その視線が、確かに伝えてくれた。
大丈夫。
放課後にまた会える。
朔夜も、ほんの少しだけ顎を引いた。
大丈夫。
ちゃんとやれる。
胸ポケットの中で、お守りと護符が静かに重みを主張している。
朔夜は鞄の紐を握り直して、藤宮の背中について職員室を出た。
*
廊下は長かった。
リノリウムの床が、窓から差し込む薄い光を鈍く反射している。
装備課の男が言った通り、底が冷たい。
靴下を二重に履いた足の裏にまで、じわりと冷えが染みてきた。
壁には色褪せた掲示物が並んでいた。
文化祭のポスター。
部活動の勧誘。
交通安全の標語。
その端のほうに、白い紙が数枚貼られていた。
駅で見た『情報提供のお願い』と同じ文字。
けれどここに貼られているのは、全員が同じ制服を着た少女たちの顔だった。
朔夜は、歩きながらそれをちらりと見た。
笑顔の写真。
その一枚一枚が、まるでこちらを見つめ返してくるようだった。
教室の扉の前で、藤宮が立ち止まった。
「ここが二年B組です」
扉の上のプレートに、白いペンキで書かれた文字。
その向こうから、教師の声がかすかに漏れていた。
黒板にチョークが当たる乾いた音。
それから、ほとんど聞き取れないほど小さな、生徒たちの呼吸の気配。
「ちょっと待っててね」
藤宮は扉を静かに開けて、中へ入っていった。
朔夜は廊下に一人残された。
鞄を胸に抱え、深く息を吸う。
チョークの粉の匂い。
古い木の机の匂い。
消毒液のかすかな匂い。
その全部が鼻から肺へ染み込んでくる。
(……大丈夫)
(わたしはただの転校生)
(明るくて元気な、橘朔夜)
胸の中で言い聞かせて、唇の端をきゅっと持ち上げた。
扉が開いた。
「橘さん、どうぞ」
朔夜は一歩を踏み出した。
*
教室の空気は、水のように重かった。
三十近くの視線が、一斉にこちらを向いた。
窓際から廊下側まで、四列に並んだ机。
その全てに、紺のブレザーの生徒たちが座っている。
黒板の前に立つ朔夜を、二十数人の目がじっと見つめていた。
そして、その目に朔夜は気づいた。
恐れではない。
好奇でもない。
疲れだった。
どの顔にも、薄い灰色の膜が張りついているようだった。
目の下に隈。
肌の色が薄く、唇が乾いている。
眠れていないのだ。
夜な夜な窓の外から聞こえる子守唄に、怯えて眠れていないのだ。
「みんな、静かに」
藤宮が教壇に立って、手を叩いた。
「今日から二年B組に新しい仲間が増えます。橘朔夜さんです」
「橘朔夜です」
朔夜は声を張った。
自分でも驚くほど、明るい声が出た。
「遠いところから来ました。みなさん、よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げた。
黒髪のボブが前に揺れる。
顔を上げると、何人かの生徒が、ぽかんと口を開けていた。
その直後、どこかの席から、ぱち、ぱち、と小さな拍手が起きた。
おずおずとした、けれど確かな音だった。
それが少しずつ広がって、やがて教室全体にまばらな拍手が響いた。
朔夜は、胸の奥がふわりと軽くなるのを感じた。
(……よかった)
藤宮が微笑んで、教室の窓際を指差した。
「橘さんの席は、あそこにしましょう。窓際の後ろから二番目」
朔夜は頷いて、教卓の横を離れた。
通路を歩く。
両脇から視線が追ってくる。
その視線の中を、できるだけ軽やかに歩いた。
窓際の列の、後ろから二番目。
そこに、空いた机が一つあった。
その机を見た瞬間、朔夜の足がほんの一瞬だけ止まった。
きれいに拭かれた天板。
椅子はきちんと机の下に押し込まれている。
何の飾りもない。
花も、写真も、手紙も。
ただ、そこに、誰かが座っていた気配だけが、薄く漂っている。
その隣の席が、朔夜のために空けられていた。
「あ」
小さな声が、斜め前から聞こえた。
朔夜は顔を向けた。
窓際の席に、眼鏡をかけた小柄な少女が座っていた。
おさげの髪を肩の前に垂らし、膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。
「その席」
少女は唇を震わせた。
「あ、ごめんなさい。何でもない」
「ううん」
朔夜は首を横に振った。
それからゆっくりと隣の机に近づいて、椅子を引いた。
ぎい、と木の脚が床を擦る音。
それがやけに大きく教室に響いた。
腰を下ろす。
すぐ隣に、誰もいない机がある。
その天板の上を、窓から差し込む薄い光がぼんやりと照らしていた。
朔夜は、その机を見ないふりをして、鞄を机の横に掛けた。
けれど、ひしひしと伝わってくる。
見えない冷気のようなものが、隣の席から漂ってくる。
空席の冷たさ。
そこにいたはずの誰かの、抜け殻のような気配。
胸の奥の残り火が、ちりりと小さく疼いた。
(……ごめんね)
声に出さずに、そっと呟いた。
(必ず探すから)
「えーと、橘さんは教科書がまだだから、水瀬さんに見せてもらってください」
藤宮が言った。
「水瀬さん、お願いできますか」
「あ、はい」
隣の斜め前の少女が、慌てて頷いた。
おさげの髪が、ぴょこんと跳ねる。
藤宮は黒板に向き直って、授業を再開した。
チョークが黒板を叩く音が、教室に響き始める。
朔夜は椅子を水瀬の席のほうへそっと寄せた。
「よろしくね。わたし、朔夜」
小声で言った。
水瀬は眼鏡の奥の目をぱちぱちと瞬かせてから、おずおずと微笑んだ。
「水瀬ひよりです。よろしくお願いします」
「ひよりちゃん」
「あ、はい」
「かわいい名前」
「えっ」
ひよりは耳まで真っ赤になった。
それから慌てて教科書を机の中央に押し出した。
「あの、どうぞ。ここまだ習ってないとこだから」
「ありがとう」
朔夜は教科書を覗き込んだ。
古典の授業だった。
見慣れない文字が白い紙の上にびっしりと並んでいる。
読めないわけではない。
けれど、頭に入ってこなかった。
隣の空席の気配が、ずっと左の肩にのしかかっているからだ。
朔夜はそっと、横目で隣の机を見た。
きれいに拭かれた天板。
ほんの少しだけ傾いた椅子。
その机の右上の角に、小さな傷があった。
ペン先で彫ったような、細い線。
よく見ると、それは文字だった。
『夏目』
名前だ。
ここに座っていた少女の名前。
朔夜は、その細い文字をじっと見つめた。
指で、触れたくなった。
けれど堪えて、手を膝の上で握りしめた。
*
授業の合間の十分間は、教室がざわめいた。
ざわめいた、と言っても、朔夜の知っているどんな学校の休み時間とも違っていた。
声が低い。
笑い声がない。
誰もが小さな声で、隣の席の友人とぼそぼそと話している。
それでも、朔夜の周りには、少しずつ人が集まってきていた。
「橘さん、どこから来たの?」
「ねえ、前の学校って何部だったの?」
「髪、かわいいね。自分で切ってるの?」
好奇心というより、むしろ、何かを話したいという渇望のような質問だった。
誰かと喋っていないと、不安に押し潰されてしまう。
そんな切実さが、声の底に滲んでいた。
朔夜は、できるだけ明るく答えた。
遠くの山の学校から来たこと。
前の学校では体術部のようなことをやっていたこと。
髪は自分で切っていること。
その度に、ほうとため息のような相槌が返ってきた。
「すごーい」
「体術って、柔道とか?」
「そんなかんじ」
朔夜は、にっと笑った。
「でも、道場の床の匂いが一番好き」
「あ、分かる」
前の席の少女が、振り返って言った。
ショートカットで日焼けした肌をした、活発そうな子だった。
「あたしバスケ部なんだけど、体育館の床の匂い好きなんだよね。蝋の匂い」
「そうそう!蝋の!」
「あ、気が合う」
「あたし小早川あかね。あかねでいいよ」
「朔夜でいいよ!」
二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。
その笑い声に、周囲の生徒たちがほんの少しだけ頬を緩めた。
教室の空気が、ほんの少し、柔らかくなった。
朔夜は、胸の奥で小さく安堵の息を吐いた。
(……よかった。みんな、まだ笑える)
けれど。
その直後、あかねがふと真顔になって、朔夜の隣の空席にちらりと視線を投げた。
「……ごめんね、気味悪いよね」
「え」
「その席」
あかねは声を落とした。
「夏目さんの席なんだ。先月から来てなくて」
「……うん」
「先生も、片づけたほうがいいのかなって迷ってるみたいで」
「そっか」
「でも片づけたら、本当にいなくなったことになっちゃう気がして」
あかねは唇を噛んだ。
「あたしたち、誰も言い出せなくて」
その言葉に、教室中の空気がしんと静まった。
さっきまで笑っていた生徒たちの顔から、笑みがすっと消える。
誰もが視線を逸らして、机の上の何かを見つめていた。
朔夜は、ゆっくりと息を吸った。
それから、静かに口を開いた。
「いなくなったわけじゃないよ」
「え」
「ちゃんと帰ってくるよ」
「…………」
「だから、片づけなくていいと思う」
あかねの目が丸くなった。
「……そう、かな」
「うん」
「橘さん、なんで」
「分かんない」
朔夜は笑った。
「でもそう思う」
その一言が、教室に小さな波紋を広げた。
誰かが、すんと鼻をすすった。
別の誰かが、小さく頷いた。
あかねは、潤んだ瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「……ありがと」
「ううん」
「橘さんって、変わってるね」
「えー、そう?」
「いい意味でね」
あかねがようやく、小さく笑った。
そのとき、隣の席のひよりが、朔夜の袖をそっと引いた。
「あの」
「ん?」
「橘さん、お昼はどうするの?」
「あ、まだ考えてなかった」
「よかったら、一緒に食べませんか」
ひよりは顔を赤くして、ぎゅっと握った手を膝の上で震わせていた。
「友達いなくて、いつも一人で」
「…………」
「でも、橘さんなら、大丈夫かなって」
朔夜は胸がきゅっと締めつけられた。
「うん!一緒に食べよう!」
「ほんと?」
「ほんとほんと!あかねちゃんも一緒に!」
「え、あたしも?いいの?」
「もちろん!」
三人は顔を見合わせて、笑った。
教室の隅にだけ、小さな温もりが灯った。
*
昼休み。
屋上へ続く階段の踊り場に、小さな陽だまりがあった。
窓から差し込む薄い光が、床の一角だけをぼんやりと照らしている。
朔夜とひよりとあかねは、その陽だまりの中に三人で膝を並べて座っていた。
ひよりが広げた弁当箱の中には、小さな卵焼きと、きんぴらごぼうと、梅干しの載ったご飯が行儀よく並んでいた。
朔夜は、食堂の調理員に持たされた最後のおにぎりを、ありがたく頬張っていた。
塩気と鮭の脂の旨みが、口の中でほろりと解ける。
「おいしそう」
あかねが羨ましそうに覗き込んだ。
「ひとくち食べる?」
「いいの?やった」
「どうぞ」
朔夜はおにぎりを二つに割って、片方をあかねに差し出した。
あかねは目を輝かせてかぶりついた。
「……うまっ」
「でしょ」
「何これ、どこの店のやつ?」
「えっとね、寮の食堂のおばさんが作ってくれたの」
「いいなあ。こんなの毎日食べられるの?」
「うん。毎日おいしいよ」
ひよりがくすくすと笑った。
三人の間に、静かな温かさが広がった。
朔夜は、何気ない調子で口を開いた。
「ねえ、この町ってさ」
「うん」
「商店街のほうって、よく行くの?」
あかねの箸が、ぴたりと止まった。
ひよりの肩が、ほんの少しだけ強張った。
空気が、すっと冷えた。
「……行かないほうがいいよ」
あかねが、低い声で言った。
「橘さん、転校してきたばっかりだから知らないと思うけど」
「うん」
「あそこ、夕方になると変な声がするの」
「声」
「子守唄みたいな」
あかねは、梅干しの載ったご飯粒を箸の先でつつきながら続けた。
「昔はそんなことなかったんだよ。商店街、賑やかだったし。でもここ数か月で急に」
「急に」
「そう。で、行方不明の子たちも、みんな商店街に行ったことあるって」
「…………」
「だから先生たちも、放課後は寄り道しないようにって」
朔夜は、おにぎりの最後の一口を飲み込んだ。
そして、できるだけ軽い調子で聞いた。
「白鷺堂って、知ってる?」
その言葉が、陽だまりの中に落ちた瞬間。
ひよりの手から、箸がするりと滑り落ちた。
からん、と乾いた音が踊り場に響く。
ひよりは慌てて拾おうとして、指先が震えて、またつるりと取り落とした。
「あ、ごめ……」
「ひより」
あかねが小さく呼んだ。
ひよりの顔が真っ青になっていた。
眼鏡の奥の瞳に、ほとんど恐怖に近い色が滲んでいる。
「……橘さん、あそこには」
「うん」
「行っちゃだめ」
声が掠れていた。
「お願いだから」
「どうして?」
「あそこの、人形」
ひよりは唇を噛んだ。
肩が小さく震えている。
「売り物じゃないのに、お店の窓にずっと飾ってあるの」
「うん」
「誰も作ってるところを見たことがないの」
「…………」
「なのに、毎日、増えてるの」
あかねが、ひよりの背中をそっと撫でた。
「ひより、無理して話さなくていいよ」
「でも」
ひよりは、涙の滲んだ目で朔夜を見つめた。
「夏目さんも、あそこによく行ってたの」
朔夜の呼吸が止まった。
「絵が好きな子で、白鷺堂の便箋が好きだって、いつも言ってた」
「…………」
「あの店のおばあさんが、便箋の端に小さな絵を描いてくれるんだって」
ひよりの目から、ぽろりと涙が零れた。
「失踪する前の日にも、笑ってたの。『新しい便箋もらったんだ』って」
朔夜は、手を伸ばして、ひよりの冷たい手をそっと握った。
小さくて、細くて、震えている手だった。
「話してくれてありがとう」
「…………」
「怖かったよね」
「……うん」
「大丈夫だよ」
朔夜は、いつもの笑顔を作った。
けれどそれは、いつもよりもずっと静かな笑顔だった。
「わたしが探すから」
ひよりが顔を上げた。
「え」
「夏目さんのこと、みんなのこと、わたしが探す」
「橘さん、そんなこと」
「できるよ」
朔夜は、ひよりの手をぎゅっと握り直した。
「わたし、案外強いんだ」
あかねが、目を丸くして朔夜を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「……変わってるよ、ほんとに」
「えへへ」
「でも、なんか、信じたくなる」
「ありがと」
三人はしばらく、陽だまりの中で黙って座っていた。
窓の外では、薄鼠色の雲が、ゆっくりと流れていた。
*
五時間目は、自習だった。
教師が急用で出かけたらしく、藤宮が教室に顔を出して、プリントを配って去っていった。
静かな教室に、鉛筆が紙を擦る音だけがさらさらと響いている。
朔夜はプリントを前にして、鉛筆を握っていた。
けれど、一行も進まなかった。
隣の空席が、気になって仕方がなかった。
そっと、横目で見る。
夏目という少女の机。
天板に彫られた小さな名前。
その机の引き出しが、ほんの少しだけ、開いていた。
三センチほどの隙間。
そこから、白い紙の端が覗いている。
朔夜は、息を詰めた。
誰にも見られていないことを確かめてから、指先を伸ばして、引き出しの縁に触れた。
そっと引く。
きい、と木が鳴った。
中は、ほとんど空っぽだった。
教科書が数冊。
ペンケースが一つ。
そして、その奥に、手のひらほどの小さな便箋の束が、ひっそりと収まっていた。
薄い和紙のような、柔らかい手触りの便箋。
端に、細い墨の線で、小さな絵が描かれていた。
白い鷺が一羽。
その下に、小さな判子が押されていた。
『白鷺堂』
朔夜は、便箋の束を取り出して、一番上の一枚を見つめた。
何も書かれていない。
けれど、紙の表面にうっすらと、凹凸のようなものがあるのが見えた。
何かを書いた下の紙の跡だ。
朔夜はペンケースから、そっと芯の柔らかい鉛筆を取り出した。
便箋の上を、鉛筆の側面で軽く撫でる。
黒い粉が紙の表面に薄く載って、その凹凸が浮かび上がってきた。
文字だった。
誰かが震える手で何度も繰り返し書いた、小さな文字。
『ねんねんころりよ』
『ねんねんころりよ』
『ねんねんころりよ』
何十回も。
びっしりと便箋の端から端まで。
朔夜の背筋に、冷たい汗が一筋伝い落ちた。
その文字の列の一番下に、他とは違う筆跡で、別の言葉が書かれていた。
『おいで』
細い、優しい、けれど少しだけ歪んだ筆跡。
それは、少女の字ではなかった。
もっと年老いた、柔らかな、熟練した手の字だった。
その文字を見た瞬間だった。
教室の窓の外から、かすかな音が聞こえてきた。
ねんねん、ころりよ。
朔夜は、顔を上げた。
教室の空気が凍りついていた。
さっきまで鉛筆の音が響いていたのに、いつの間にか静寂が降りていた。
誰もペンを動かしていない。
誰もが固まったように、机の上の一点を見つめている。
窓の外から、子供の歌うような、細い、遠い声が、静かに流れ込んでいた。
おころりよ。
ぼうやは、よいこだ。
ひよりが、朔夜の袖をぎゅっと掴んだ。
指が痛いほど強く。
その手が震えていた。
「……だめ」
囁き声だった。
唇がほとんど動かない。
「聞こえても、顔を向けちゃだめ」
「…………」
「窓の外を見ないで」
朔夜は、頷いた。
首をほんの少しだけ動かして。
ひよりの手の上に、自分の手を重ねた。
冷たい。
氷のように冷たい手だった。
「大丈夫」
朔夜は囁いた。
「わたしがいる」
「……うん」
「ずっとここにいるから」
歌声が、少しずつ近づいてくる気がした。
窓の外の校庭の向こうから。
あるいは、校舎のすぐ裏から。
あるいは、もっと近くから。
窓ガラスを、風が叩いた。
そのたびに、がたり、と小さな音が鳴る。
朔夜は、机の上で便箋を静かに閉じた。
そして、そっと引き出しの奥へ戻した。
この便箋には何かがある。
いや、この便箋を書いた手に、何かがある。
胸の奥の残り火が、ちりりと小さく疼いた。
窓の外の歌が、次第に遠のいていく。
やがて、完全に消えた。
教室に、ほうと息を吐く音が重なって聞こえた。
何人かの生徒が、ゆっくりと身体の力を抜いた。
ひよりは、まだ朔夜の袖を握ったまま、震えていた。
「……ごめんなさい」
「ううん」
「怖くて」
「うん。分かってる」
朔夜は、ひよりの背中を優しく撫でた。
「夜は、窓を開けないでね」
ひよりが、掠れた声で言った。
「それだけは、絶対」
「うん。分かった」
朔夜は頷いた。
窓の外の灰色の空を、決して見ないようにして。
*
校門の石碑の前に、芹香は立っていた。
放課後の曇り空の下、制服姿の三年生が、静かに背筋を伸ばして待っている。
朔夜の姿を見つけると、灰茶色の瞳がふわりと柔らかく緩んだ。
「お疲れさま、朔夜ちゃん」
「先輩!」
朔夜は駆け寄った。
「どうだった?」
「ええ。収穫はあったわ」
芹香は小声で答えた。
「図書室でいろいろ聞けたの。後で詳しく話すわね」
「うん。わたしもあった」
「あら」
「教室の中で、夏目さんの机から」
朔夜は声を落として囁いた。
「白鷺堂の便箋が出てきたの」
芹香の瞳が鋭く光った。
「……やっぱり」
「ここに来る前に聞いてたことと、ぴったり合うよ」
「ええ。行きましょう」
「うん」
二人は並んで、校門を出た。
曇り空の下の道は、薄暗かった。
まだ午後四時を少し回ったばかりのはずなのに、すでに夕暮れのような色に染まっている。
駅へ向かう道を逸れて、北へ。
細い路地を抜け、古い電柱の並ぶ通りを進む。
その先に、あの巨大な鉄骨のアーチが見えてきた。
『灯宵銀座』
近づくほどに、そのアーチは大きく、高く、暗く見えた。
褪せた看板がいくつも吊るされている。
錆びた鉄骨の隙間から、薄い灰色の光が洩れていた。
アーチの下に、一歩、足を踏み入れた。
空気が変わった。
冷たい。
湿っている。
古い紙と墨と埃の匂いが、鼻の奥に絡みついてくる。
足音が反響した。
こつ、こつ、と二人分の靴音が、長いアーケードの奥へ吸い込まれていく。
左右に並ぶシャッターは、ほとんどが錆びて下りたままだった。
その錆びた鉄の表面に、白い紙が貼りついている。
人形だ。
一枚一枚、同じ高さに。
等間隔で。
シャッターの隙間にも。
軒先の看板の骨組みにも。
天蓋の鉄骨に渡された細い紐にも。
数え切れないほどの白い紙の人形が、風もないのにゆらゆらと揺れていた。
そのすべてに、笑顔が描かれている。
朔夜は、見ないようにして歩いた。
けれど視界の端に、いやでも入ってくる。
数百もの墨の笑顔が。
細い目が、弧を描く口が、全く同じ形で。
「……近づかないで」
芹香が囁いた。
「触れないで。見つめないで」
「うん」
「あれは目なのよ」
「え」
「この街の、目」
朔夜は、背中に冷たい汗を感じた。
見られている。
数百の、同じ顔に。
通りの奥から、人の気配がした。
ぼんやりとした薄暗がりの中に、小さな灯りが一つ、ぽつんと灯っている。
営業している店だった。
八百屋の軒先に、箱に積まれた蜜柑と大根と白菜が並んでいる。
その奥で、小柄な老婆が椅子に座って、うつらうつらと船を漕いでいた。
朔夜は、近づいた。
「こんにちは」
老婆の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
濁った目が、朔夜の顔を捉えた。
「……おや」
「あの、蜜柑ください」
「ああ、はいはい」
老婆はよろよろと立ち上がった。
皺だらけの手が、籠の中の蜜柑を一つ一つ確かめるように撫でる。
「学校の子かい」
「はい。転校してきたんです」
「そうかい。そりゃ大変なときに来たねえ」
「…………」
「ほれ、おまけだ」
老婆は蜜柑を三つ余分に袋に入れて、朔夜の手に押しつけた。
その掌が冷たかった。
けれど、握る力は不思議なほど強かった。
「ええか、お嬢ちゃん」
「はい」
「日が落ちる前に、ここを出るんだよ」
「…………」
「それからね」
老婆は声を潜めた。
「どんなことがあっても、紙の人形には触っちゃいけない」
「…………」
「呼ばれても、応えちゃいけない」
「はい」
「歌が聞こえても、顔を向けちゃいけない」
老婆の濁った目が、朔夜を真正面から見つめた。
そこには、嘘も誤魔化しもなかった。
ただ、長い年月を耐え抜いてきた者の、静かな恐怖と優しさが混じっていた。
「……ありがとうございます」
「いいんだよ」
老婆は、ふっと笑った。
その笑顔が、ひどく疲れて見えた。
「あんたらは若いから、きっとなんとかなるさ」
朔夜は、蜜柑の袋を胸に抱いて、深く頭を下げた。
それから、芹香とともに、アーケードの奥へと歩き出した。
*
白鷺堂は、アーケードの北の端にあった。
古い木造二階建て。
黒ずんだ格子の引き戸。
その上に、掠れた金文字で、店の名前が掲げられている。
『白鷺堂』
ガラスの窓には、墨で書かれた値札がいくつも貼られていた。
『便箋 一帖 三百円』
『半紙 百枚 五百円』
『筆 各種』
その窓の内側に、白い紙の人形が、ぎっしりと吊るされていた。
何十体も。
いや、何百体も。
窓の上から下まで、人形でびっしりと埋め尽くされている。
その全てが、笑っている。
その全てが、こちらを向いている。
朔夜は、立ち止まった。
息が詰まった。
胸ポケットの護符が、ひやりと冷たくなった。
「……ここだね」
「ええ」
芹香が静かに答えた。
彼女の指が、制服のスカートの内側のホルスターに、そっと触れた。
「入る前に、確認よ」
「うん」
「中で何を言われても、決して名前を教えないこと」
「うん」
「触れられたら、すぐに言って」
「分かった」
「いい?」
「うん」
芹香が、朔夜の目をまっすぐ見つめた。
その灰茶色の瞳の中に、小さな朔夜が映っていた。
「あなたの隣にいるわ」
「うん」
朔夜は、古びた引き戸の取っ手に手をかけた。
冷たい。
木の表面がざらりと指に擦れる。
深く息を吸った。
それから、ゆっくりと引いた。
引き戸は、重く、軋みながら、横へ滑った。
からから、からから、と古い木のレールを転がる音。
その奥から、紙と墨と糊と樟脳の匂いが、ふわりと溢れ出してきた。
鼻の奥がつんとする。
古い紙の、乾いた、甘い匂い。
店の中は、薄暗かった。
天井から吊るされた裸電球が、ぼんやりと黄色い光を落としている。
壁一面に、天井まで届く棚が並んでいた。
その棚に、和紙が、便箋が、半紙が、色紙が、何千枚も、きちんと積み重ねられている。
通路は狭く、人ひとり通るのがやっとだった。
その奥に、小さな帳場があった。
古い木のカウンターの向こうに、一人の老婆が座っていた。
白髪をきれいにまとめ、薄い鼠色の着物を着ている。
背筋はまっすぐで、小さな手が、膝の上で長い鋏を握っていた。
裁ち鋏。
銀色の刃が、裸電球の光を受けて鈍く光っている。
老婆は、手元の白い紙を、ゆっくりと切っていた。
しゃき。
しゃき。
しゃき。
鋏が紙を切る音が、静かな店内に規則正しく響く。
その音が、どこかで聞いたことのある旋律に、聞こえた。
ねんねん、ころりよ。
朔夜の背中を、冷たい汗が伝った。
「……いらっしゃい」
老婆が、顔を上げた。
優しい、柔らかい声だった。
皺だらけの顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。
けれど、その目は、濁っていた。
白く、薄い膜のようなものが、瞳の表面を覆っている。
見えているのか、見えていないのか、分からなかった。
「こんにちは」
朔夜は、できるだけ明るく言った。
「便箋が欲しくて来ました」
「ああ、そうかい」
老婆は、鋏を置いた。
ことり、と静かな音。
「学校のお嬢さんかね」
「はい。転校してきたばかりで」
「そりゃあ、大変だったでしょう」
老婆は、ゆっくりと立ち上がった。
その動きは、驚くほど滑らかだった。
背の曲がった年寄りの動きではなかった。
どこか、人形のような。
糸で吊られたような。
「どんな便箋がいいかねえ」
老婆は棚の間を歩きながら、指先で紙の背を撫でていく。
「桜の絵のもの。紅葉のもの。鳥のもの。うちの便箋は、一枚一枚に絵が入っとるんじゃ」
「あの」
朔夜は、一歩前に出た。
「鷺の絵が入ったものを」
老婆の指が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返る。
濁った目が、朔夜の顔を静かに見つめた。
「……ほう」
「友達が、あの便箋が好きだったって聞いて」
「友達」
「はい。夏目さんっていう」
その名前を口にした瞬間。
店の空気が、ひやりと凍った。
老婆の顔から、笑みがすうっと消えた。
けれどそれは、ほんの一瞬だった。
すぐにまた、柔らかな笑みが戻ってくる。
「夏目さん」
老婆は、優しく繰り返した。
「ああ、あの子ね」
「ご存知ですか」
「ええ、ええ。よく来てくれたよ」
老婆は目を細めた。
「絵が好きな、いい子でねえ。うちの便箋を、そりゃあ大事にしてくれてねえ」
「…………」
「いまはどこにいるんだろうねえ」
老婆は、窓の外に目をやった。
白い紙の人形が、一面に吊り下げられた窓の向こうに。
「きっと、元気にしているよ。みんな、一緒だからねえ」
「みんな?」
「ええ。みんな」
老婆は、にっこりと微笑んだ。
「ここにいる子はみんな、仲良しだからねえ」
朔夜の背筋が凍りついた。
隣で、芹香が静かに息を殺した。
老婆はまた棚の間を歩き始めた。
やがて、一束の便箋を手に取って、朔夜のもとへ戻ってきた。
薄い和紙の便箋。
端に、細い墨の線で、白い鷺が一羽描かれている。
「はい。これだよ」
「ありがとうございます」
朔夜は両手を差し出した。
老婆が便箋の束を、そっと朔夜の掌に載せた。
その指先が、朔夜の手のひらに触れた。
冷たい。
乾いた紙のような、ざらりとした感触。
その冷たさが、じわりと掌から腕へ這い上がってきた。
「……いいお嬢さんだねえ」
老婆が囁いた。
「あんたは、いい色をしている」
朔夜の呼吸が止まった。
「え」
「名前のない色だ」
老婆の濁った目が、朔夜の瞳を、じっと覗き込んでいる。
「きれいな色だよ。とても、とても、きれいな」
朔夜は、手を引こうとした。
けれど、老婆の指が、思いのほか強く朔夜の手首を掴んだ。
冷たい。
氷のように冷たい指だった。
「朔夜ちゃん」
芹香の声が響いた。
すぐ隣から。
肩に、温かい掌が触れた。
触れている。
その温もりが、朔夜の凍りつきかけた腕に、一気に血を巡らせた。
「手を離して」
芹香の声は、静かだった。
けれど、その声の底には、鋼のような怒りが沈んでいた。
「申し訳ありませんが、この子は」
「あらあら」
老婆は、ゆっくりと手を離した。
「ごめんなさいねえ。つい、嬉しくて」
「…………」
「若い子は、いいねえ。いい色を持っていて」
老婆は微笑んだ。
その笑顔が、ひどく、穏やかだった。
だからこそ、ひどく怖かった。
「便箋、いくらですか」
芹香が聞いた。
「三百円だよ」
朔夜は、慌てて鞄から小銭を取り出した。
震える指で、カウンターの上に硬貨を並べる。
老婆はそれを、皺だらけの手で一枚一枚撫でるように拾った。
「ありがとうねえ」
「いえ」
「また、来てね」
「…………」
「夜が来る前にね」
老婆は、にっこりと笑った。
「そろそろ、店を閉める時間だから」
*
店の外へ出たとき、朔夜の膝がかくんと折れそうになった。
芹香の腕が、すかさず朔夜の脇の下に入って、身体を支えた。
「大丈夫」
「うん」
「ゆっくり息をして」
「うん……」
朔夜は、白鷺堂の格子戸の前で、必死に呼吸を整えた。
肺の奥まで冷たい空気を吸い込む。
吐く。
もう一度。
胸の奥の残り火が、ちりちりと疼いている。
さっき、老婆が言った言葉が、頭の中で何度も反響した。
名前のない色。
あの老婆は、朔夜の中のものを、見ていた。
見透かしていた。
「先輩」
「ええ」
「あのおばあさん、人間じゃ、ないよね」
「……断言はできないわ」
芹香は、低く答えた。
「ただ、普通の人間の気配ではなかった」
「うん」
「そして、あの店の中で、鋏の音がずっと」
「うん」
「あれは、歌の拍子だった」
朔夜は、頷いた。
あの鋏の音。
しゃき、しゃき、しゃき。
ねんねん、ころりよ。
「戻ろう」
朔夜は、顔を上げた。
「今日はここまで。夜になる前に」
「ええ」
二人は、アーケードの出口に向かって歩き出した。
そのとき。
天蓋の鉄骨に吊るされた裸電球が、一つ、ぱちんと音を立てて点いた。
薄い、黄色い、頼りない灯り。
続いて、もう一つ。
ぱちん。
さらにもう一つ。
ぱちん、ぱちん、ぱちん。
アーケードの天井に沿って、等間隔に並んだ電球が、奥から順番に灯っていく。
その光が、通りに降り注いだ。
薄暗かった商店街が、ぼんやりと黄色く染まっていく。
朔夜は、立ち止まった。
足元に、影が伸びた。
自分の影。
芹香の影。
そして、その後ろに。
もう一つ。
もう二つ。
もう三つ。
無数の、小さな影が。
朔夜は、ゆっくりと、振り向いた。
アーケードの天蓋から。
シャッターの隙間から。
軒先の看板から。
白い紙の人形が、ひらひらと、一斉に落ち始めていた。
風はない。
それなのに、まるで雪のように、ゆっくりと舞い降りてくる。
数百。
数千。
どの人形も、笑っている。
どの人形も、朔夜のほうを向いている。
その細い墨の目が。
弧を描く口が。
全く同じ形で。
「……先輩」
「分かっているわ」
芹香が、スカートの内側から、細身の銀色の拳銃を抜いた。
かちり、と安全装置の外れる音。
朔夜は、鞄を足元に落として、中から折り畳んだ棒を二本、素早く掴み出した。
握りを捻る。
ぱきん、ぱきん。
節が伸びて、五十センチの鋼のトンファーが、朔夜の両手に収まった。
ずしりと、確かな重み。
冷たい鋼の感触が、掌に吸いつく。
通信機の髪留めが、耳の後ろでざざざと激しい雑音を立てた。
使えない。
やはり、この街では。
ねんねん、ころりよ。
歌が、聞こえてきた。
今度は遠くからではなかった。
アーケードのあらゆる方向から、同時に。
壁から。
床から。
天井から。
そして、舞い落ちる白い紙の人形の、ひとつひとつの口から。
おころりよ。
ぼうやは、よいこだ。
数百の声が、重なって、一つの歌になっていた。
それは、子供の声だった。
少女の声だった。
十四人の、少女たちの声だった。
朔夜の胸が、ぎゅうと締めつけられた。
その声の中に、どこか聞き覚えのある響きが混じっていた。
笑うとき、少し鼻にかかる声。
教室の机に彫られた小さな文字の、持ち主の声。
(……夏目さん)
歌声に、微かに、泣き声が混じっていた。
助けて。
そう聞こえた。
朔夜の瞳が、見開かれた。
「聞こえる?」
「ええ。聞こえているわ」
芹香の声は、凛として揺るがなかった。
「だめよ朔夜ちゃん。応えてはだめ」
「うん」
「あれは、呼び水よ」
「分かってる」
朔夜は、唇を噛んだ。
血の味が舌に広がった。
その痛みが、胸の奥の疼きを押し留めてくれた。
「でも」
「ええ」
「あの子たち、生きてるんだよね」
芹香は、答えなかった。
ただ、拳銃を構える手が、わずかに震えた。
その震えが、答えだった。
そのとき、通りの両側のシャッターが、一斉に鳴った。
がしゃん。
がしゃん、がしゃん、がしゃん。
錆びた鉄のシャッターが、ひとつ、またひとつと、勝手に巻き上がっていく。
鉄が軋む悲鳴のような音が、アーケード全体に響き渡る。
その奥に現れたのは、店舗の内部ではなかった。
白い。
真っ白な、紙の壁だった。
何層にも折り重なった、巨大な紙の襞が、シャッターの向こうに果てしなく続いている。
それが、ゆっくりと、ゆっくりと、折り畳まれていく。
ぱたん。
ぱたん。
ぱたん。
音を立てて、空間そのものが、折れていく。
朔夜は、息を呑んだ。
アーケードの天井が、斜めに傾いた。
壁が、内側へ迫り出した。
足元の舗装に、一本の細い線が走った。
折り目だ。
空間に、折り目がついている。
紙のように。
「……出口が」
芹香が、掠れた声で呟いた。
朔夜は、振り向いた。
さっき歩いてきたアーケードの入口。
灰色の空の見える、鉄骨のアーチ。
それが、遠かった。
いや、遠いのではない。
折られているのだ。
アーケードの中の空間が、紙のように折り畳まれて、入口が見る見るうちに遠ざかり、やがて、細い一本の筋になって、ぱたんと閉じた。
外の光が、消えた。
薄暗い黄色い電球の光だけが、折れ曲がった通路を、ぼんやりと照らしている。
閉じ込められた。
そう悟った瞬間、背後で、がらりと音がした。
朔夜は、反射的に振り返った。
白鷺堂の引き戸が、開いていた。
暗い店の奥から、小さな人影が、ゆっくりと歩み出てくる。
薄い鼠色の着物。
きれいにまとめた白髪。
手には、銀色の裁ち鋏。
老婆は、敷居のところで立ち止まった。
濁った白い目が、朔夜を、ゆっくりと見つめた。
その口元に、穏やかな、慈しむような笑みが浮かんでいた。
そして、老婆の唇が、静かに動いた。
「ねんねん、ころりよ」
その声は、数百の人形の歌声と、完全に重なっていた。
「おころりよ」
しゃき。
銀色の鋏が、薄暗い電球の光を受けて、白く光った。
朔夜は、両手のトンファーを、ぐっと握りしめた。
鋼の冷たさが、手首の内側に食い込む。
胸の奥の残り火が、波のように大きく揺れた。
けれど今度は、怖くなかった。
隣に、芹香がいる。
肩に、温かい掌が置かれている。
朔夜は、老婆の濁った目を、真正面から見返した。
「……やるよ、先輩」
「ええ」
「ここから、始まりだ」
「ええ。朔夜ちゃん」
芹香の指が、朔夜の肩をきゅっと握った。
「必ず、二人で帰るわよ」
「うん」
足元の折り目が、ぴしりと音を立てて、割れ始めた。
数千の紙の人形が、一斉に、舞い上がった。
――第3章 Part 4/4 へ続く
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。