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第3章 ― 凪の食卓と、白い影4

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📅 公開日: 2026/10/27 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 12,763文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

最初の一枚が、頬を掠めた。

熱い。

そう感じた次の瞬間に、頬の皮膚が薄く裂けて、温かいものが顎のほうへ伝い落ちた。

紙だった。

ただの白い紙の人形が、剃刀のような鋭さで朔夜の顔をなぞって通り過ぎたのだ。

朔夜は反射的に右のトンファーを振った。

鋼の棒身が、舞い上がる白い群れの中心を横薙ぎに叩く。

ぱん、と乾いた破裂音がして、十数枚の人形が一度に弾け飛んだ。

けれど次の瞬間には、その倍の数が左右から押し寄せてくる。

数千の笑顔が、潮のように通路を埋め尽くしていた。

「朔夜ちゃん、右!」

芹香の声が鋭く飛んだ。

朔夜は考えるより先に身体を右へ沈めた。

頭の上を、白い刃の束が唸りを上げて通り過ぎていく。

その直後、銃声が連続して通路に響いた。

ぱん、ぱん、ぱん。

芹香の細身の銀色の拳銃が、薄暗い黄色い光の中で小さく火を噴いている。

通常の魔導弾だった。

弾丸が人形の群れに突き刺さるたびに、白い紙が青白い光を放って燃え上がり、ひらひらと黒い灰になって落ちていく。

その灰が舞う中を、朔夜は踏み込んだ。

左のトンファーで一枚を受け流し、右の肘で一枚を叩き落とし、膝を折って身体を回しながら足元に殺到する群れを鋼の棒で薙ぎ払う。

泥臭い。

泥臭くて、地味で、無様なほどに必死な動きだった。

けれど朔夜の身体は、その動きを誰よりも深く知っていた。

打って、いなして、潜って、また打つ。

手首の内側に冷たい鋼が食い込み、腕の骨に確かな反動が響くたびに、胸の奥の恐怖がほんの少しずつ薄れていく。

「背中、お願い!」

「任せて!」

朔夜が叫ぶと、芹香の背中がすぐ後ろに寄り添った。

制服越しに、体温が伝わってくる。

規則正しい鼓動が、背骨を通して響いてくる。

落ち着いている。

いつもと同じリズムだった。

その音が朔夜の呼吸を、ゆっくりと整えてくれた。

二人は背中合わせに立ったまま、迫り来る白い嵐を迎え撃った。

トンファーが空を切る。

銃声が弾ける。

紙の灰が舞い、血の混じった汗が頬を伝い、冷たい空気が肺を焼いた。

けれど、人形の数は減らなかった。

どれだけ叩き落としても、天蓋から、シャッターの奥から、折り畳まれた壁の襞の隙間から、新しい白が際限なく湧き出してくる。

「きりがない」

朔夜は歯を食いしばった。

「根っこを断たないと」

「ええ」

芹香が短く答えた。

銃声の合間の息遣いが、わずかに荒くなっている。

「あの老婆よ」

朔夜は、視線を通路の奥へ向けた。

白鷺堂の敷居の上に、薄い鼠色の着物の小さな影が立っていた。

白髪をきれいにまとめ、背筋をまっすぐに伸ばして、手には長い裁ち鋏を握っている。

その唇が、ゆっくりと動いていた。

ねんねん、ころりよ。

おころりよ。

老婆の声が、数百の人形の歌声と完全に重なって、アーケード全体を満たしている。

あの声が、この空間を作っているのだ。

朔夜は直感した。

歌が、折り目をつけている。

その歌を止めなければ、いくら人形を砕いても同じことだ。

「先輩」

「ええ」

「わたしが行く」

「無茶よ」

「でも他にないよ」

朔夜は笑った。

頬の傷から流れた血が、口の端に伝って、鉄の味が舌に広がった。

「道を作って。三秒だけ」

芹香は一瞬だけ息を詰めた。

それから、短く頷いた。

「三秒」

「うん」

「……行きなさい」

銃声が、変わった。

連射だった。

芹香の指が引き金を絞るたびに、青白い光の弾が正面の人形の群れを貫いて、道が一筋、裂けるように開いていく。

その白い灰の道の奥に、老婆の小さな姿がくっきりと浮かび上がった。

朔夜は、床を蹴った。

*

走る。

靴底が舗装を叩く。

人形の灰が頬に当たる。

視界の両側で、白い群れが壁のように迫っている。

その壁が閉じる前に、朔夜は一気に十メートルを駆け抜けた。

老婆との距離が、見る間に縮まっていく。

五メートル。

三メートル。

老婆は、動かなかった。

ただ、濁った白い目で、朔夜を静かに見つめていた。

その口元に、穏やかな笑みが浮かんでいる。

そして、鋏を持つ手が、ゆっくりと持ち上がった。

しゃき。

銀色の刃が、空を切った。

何もない空間を、ただ一度、閉じた。

その瞬間だった。

朔夜の足元の舗装に、一本の細い線が走った。

折り目だ。

見えない紙に、見えない手が鋭く爪を立てたように。

床が、くの字に折れた。

朔夜の身体が、斜めに傾いた。

足の裏の地面が、急に壁になる。

「っ!」

朔夜は咄嗟に身体を捻って、折れた舗装の斜面に両足を叩きつけた。

靴底が壁を蹴る。

そのまま壁を駆け上がるように、勢いを殺さずに前へ走った。

天地が回る。

左右が入れ替わる。

足元に見えていた舗装が、いつの間にか頭上に移動して、天蓋の裸電球が足の下で揺れていた。

(……折られてる)

(この街ごと、折られてる)

けれど朔夜は止まらなかった。

壁を走り、天井を蹴り、折れ曲がった空間を泥臭く這うように、老婆のいる敷居へ向かって。

老婆が、また鋏を動かした。

しゃき。

今度は、朔夜の真正面の空間が、ぱくりと二つに裂けた。

白い断面が現れる。

その向こうは、何もなかった。

ただ、真っ白な、紙の裏側のような、果てしない空白だけが広がっている。

あそこに落ちれば、戻れない。

直感がそう告げていた。

朔夜は、右のトンファーを逆手に持ち替えた。

腕に沿って鋼の棒身を伏せ、肘を前に出す。

そして、裂け目の縁を、肩で擦るようにして、紙一重で通り抜けた。

ざあっ、と布の裂ける音がした。

制服の肩口が、断面に触れて千切れたのだ。

冷たい空気が、素肌を舐めた。

けれど痛みは感じなかった。

次の一歩で、朔夜は老婆の懐に潜り込んでいた。

目の前に、皺だらけの穏やかな顔があった。

濁った白い目が、朔夜の瞳をまっすぐに覗き込んでいる。

間近で見ると、その目の奥に、何かが揺れていた。

涙だった。

乾ききって、もう流れることのない涙の跡のような、細い光の線。

「……いい子だねえ」

老婆が、囁いた。

「そんなに必死に走って」

「…………」

「怪我をしているじゃないか」

朔夜は、動けなかった。

トンファーを握る手が、止まった。

頬の傷から血が流れているのを、この老婆は本当に心配しているような目をしていた。

「痛かったろう」

「…………」

「こっちへおいで。休ませてあげるよ」

声が、あまりにも優しかった。

あまりにも、純粋だった。

だから、朔夜は気づいてしまった。

(……この人)

(悪意が、ない)

老婆の瞳の奥にあるのは、ただの寂しさだった。

何十年も何十年も、埋められないまま胸の奥に溜まり続けた、深い深い孤独の色だった。

「おばあさん」

朔夜は、囁いた。

「あなたも泣いてるんだね」

老婆の笑みが、ほんのわずかに揺らいだ。

「……泣いてなんか、いないよ」

「泣いてるよ」

「わたしゃ、ただ」

老婆の手が、ゆっくりと上がった。

指先が、自分の帯の間へ伸びる。

そこから、一枚の古い紙の人形を取り出した。

他のどの人形とも違っていた。

黄ばんで、端が擦り切れて、墨の線が薄れかけている。

けれど、その笑顔だけは、他の人形たちの機械のような笑顔とは違っていた。

どこか不器用に、一生懸命に笑おうとしているような、ぎこちない笑顔。

子供が描いたような。

「……ゆりがね」

老婆は、人形を胸に抱きしめた。

「寂しがるんだよ」

「…………」

「ひとりで眠るのが怖いって」

老婆の声が、少しずつ震え始めた。

「だから、お友達を呼んであげたんだ」

「お友達」

「ええ。たくさん」

老婆は、にっこりと微笑んだ。

その笑顔の下で、白い目から、細い涙がひと筋、頬の皺をつたって落ちた。

「みんな、いい子ばかりでねえ」

朔夜は、唇を結んだ。

胸が張り裂けそうだった。

この老婆は、悪い怪異ではない。

何十年も前に亡くした小さな娘の面影に縋り続けて、いつの間にか、それを何か別のものに変えられてしまった人なのだ。

「……おばあさん」

「なんだい」

「ゆりちゃんは、もう寝ていいんだよ」

老婆の肩が、ぴくりと震えた。

「だって、もう、ずっと前から」

「やめなさい」

「ずっと前に、眠ったんでしょう」

「やめなさい!」

老婆の声が、初めて鋭く跳ね上がった。

白い目が、かっと見開かれた。

その瞬間、朔夜の背中に、刃のような悪寒が走った。

しゃきん。

鋏が、閉じた。

朔夜の頭上の空間が、紙のように切り裂かれた。

見上げる間もなかった。

天蓋が、折れた。

巨大な鉄骨の天井が、ぐしゃりと畳み込まれて、朔夜の頭上へ崩れ落ちてくる。

「朔夜ちゃん!」

芹香の叫びが聞こえた。

けれど、その声は、不意にぷつりと途切れた。

朔夜は、必死に身体を翻した。

崩れ落ちる鉄骨の影が視界を覆う。

寸前で、朔夜は前方へ転がった。

背中の布を、冷たい風が撫でていく。

どおん、と轟音が背後で炸裂した。

舗装が割れ、塵が舞い上がり、世界が白く霞んだ。

咳き込みながら、朔夜は顔を上げた。

「先輩!?」

呼んだ。

返事がなかった。

振り返る。

さっきまで芹香が立っていたはずの通路の中ほどに、誰もいなかった。

ただ、白い紙の襞が、何重にも折り重なって、巨大な壁のように通路を塞いでいた。

その壁の向こうに、ぼんやりと人影が透けて見えた。

灰茶色の瞳。

栗色の髪。

芹香だった。

折り重なった紙の層の、向こう側に閉じ込められている。

銀色の拳銃を構えたまま、何かを叫んでいる。

けれど声は、まったく聞こえなかった。

朔夜の胸が、凍りついた。

「先輩っ!」

駆け寄って、トンファーで紙の壁を叩いた。

ごっ。

鈍い音。

けれど壁は、びくともしなかった。

何枚もの紙が、鉄のように堅く重なっている。

「先輩!先輩!」

叫びながら、何度も何度も叩きつけた。

腕が痺れる。

手首が悲鳴を上げる。

けれど壁の向こうの芹香は、遠かった。

紙一枚の隔たりなのに、まるで世界の反対側にいるように。

「……あらあら」

背後で、老婆の声がした。

「そんなに慌てなくても」

朔夜は、振り返った。

老婆が、鋏を握ったまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。

その後ろで、数千の人形が、ひらひらと舞っていた。

「あの子も、すぐにこっちへ来るよ」

「…………」

「みんなで一緒に、眠ろうねえ」

老婆の濁った目が、ほんの少しだけ、悲しげに細められた。

「そうすれば、もう、寂しくないからねえ」

朔夜は、トンファーをだらりと下げた。

指先が冷たかった。

胸の奥が、きゅうと縮んだ。

壁の向こうの芹香が遠い。

肩に触れてくれた温もりが、いまはない。

(……触れてなきゃ)

(触れてなきゃ、偽物)

その約束が、頭の中で何度も響いた。

(先輩は、本物)

(あの壁の向こうにいるのは、本物の先輩)

(だから)

朔夜は、顔を上げた。

老婆の目を、まっすぐに見つめた。

「おばあさん」

「なんだい」

「ごめんね」

「…………?」

「ちょっとだけ、うるさくするね」

朔夜は、胸の奥に向かって、そっと語りかけた。

「ねえ」

深い、深い場所に。

「お願い」

声に出さずに、ただ、心の中で。

「ちょっとだけ貸して」

胸の奥の残り火が、ことりと揺れた。

「壊したいんじゃないの」

視界の縁が、藍色に滲んでいく。

「ほどきたいの」

瞳の奥が熱くなる。

琥珀の色が、金に、白に、藍に、静かに滲み出していく。

「紙の折り目を」

朔夜は、両手のトンファーを握り直した。

「ほどきたいの」

その瞬間、鋼の棒身が、淡く光り始めた。

名前のない色の光が、握りから棒身へ、棒身から先端へと、静かに流れていく。

暴れない。

溢れない。

ただ、細い一本の糸のように、ゆっくりと、穏やかに。

朔夜は、左のトンファーを、紙の壁の中央に押し当てた。

そこに、かすかに、一本の筋が見えた。

折り目だ。

何重にも重なった紙の層の、いちばん最初の折れ目。

そのすべての紙の襞が、そこから始まっている。

朔夜は息を吸った。

肺の底まで冷たい空気を満たして、それをゆっくりと吐く。

「……今日も、よろしく」

囁いた。

胸の奥で、何かが静かに頷いた。

朔夜は、トンファーの先端を、折り目の筋に沿って、すうっと滑らせた。

音は、なかった。

紙を切る音も。

空気が裂ける音も。

ただ、ほんのわずかな囁きのような、ほどける気配だけが響いた。

ぱら、と。

折り目が、ほどけた。

紙の壁の中央に、一本の細い光の筋が走った。

その筋が、左右へ、上下へ、静かに広がっていく。

重なっていた紙の層が、一枚、また一枚と、解かれていく。

折り畳まれていたものが、元の形を思い出すように。

そして、壁が開いた。

その向こうに、銀色の拳銃を構えた芹香が、息を切らして立っていた。

長い栗色の髪が乱れ、頬に細い切り傷がいくつも走っている。

灰茶色の瞳が、朔夜を見て大きく見開かれた。

「……朔夜ちゃん」

「先輩!」

朔夜は、飛び込むように駆け寄った。

その肩に、手を置く。

触れる。

触れている。

温かい。

「本物」

「ええ」

「ほんとに本物」

「ええ、本物よ」

芹香の腕が、ぎゅっと朔夜の背中に回された。

細い腕が震えていた。

「……よかった」

「うん」

「怖かったわ」

「うん。わたしも」

「でも、あなたの声は聞こえていたの」

「え」

「壁の向こうで、ずっと、あなたが私を呼ぶ声が」

芹香は、朔夜の肩に顔を埋めたまま、囁いた。

「だから、信じていられた」

朔夜の目から、涙が一粒こぼれた。

けれど、その涙は温かかった。

「先輩」

「ええ」

「あとちょっとだけ、手伝って」

「何をすればいいの」

「あのおばあさんを、止める」

朔夜は、老婆のほうへ向き直った。

老婆は、数歩離れた場所に立っていた。

濁った目を大きく見開いて、信じられないものを見るように、朔夜の手のトンファーを見つめている。

「……どうして」

老婆が、掠れた声で呟いた。

「どうして、折り目を」

「ほどいたの」

朔夜は静かに答えた。

「あなたの折り目、わたしにはほどけるみたい」

「…………」

「だから、みんな、帰してあげる」

「だめ」

老婆の顔が、苦しげに歪んだ。

「だめだよ。みんなが行ってしまう。ゆりが、また一人になってしまう」

「ゆりちゃんも、一緒に眠れるよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

朔夜は、一歩前に出た。

「ゆりちゃんは、ずっとあなたのそばにいたんでしょう」

「…………」

「でも、みんなを連れてきたら、ゆりちゃんは、本当に喜ぶ?」

老婆の白い目が、大きく揺れた。

その手に抱かれた古い人形の笑顔が、一瞬だけ、ほんの少しだけ、哀しげに歪んだように見えた。

「……やめて」

「ゆりちゃんは、きっと」

「やめて、やめて、やめなさい!」

老婆の叫びが、アーケードを震わせた。

数千の人形が、一斉に朔夜と芹香へ向かって殺到した。

白い嵐が、頭上から降り注ぐ。

けれど、それより早く。

芹香が、動いた。

細身の銀色の拳銃を、まっすぐに構える。

その銃口が向けられていたのは、人形の群れではなかった。

老婆の、右手。

握られた裁ち鋏の、柄のあたり。

「朔夜ちゃん」

「うん」

「一発だけ、使うわ」

「うん」

「彼女の鋏の拍子を、乱す」

「拍子」

「歌と鋏が同期している。その位相を、ずらす」

芹香の声は、静かだった。

けれど、その指先に、一切の迷いがなかった。

「そうすれば、折り目は、勝手に緩む」

「分かった」

朔夜は、頷いた。

「合図は」

「あなたの『今』で」

「うん」

朔夜は、老婆の握る鋏を、じっと見つめた。

しゃき。

しゃき。

ねんねん、ころりよ。

その拍子が、頭の中に流れ込んでくる。

三拍子。

一、二、三。

一、二、三。

老婆の鋏が、また閉じようとしている。

一。

二。

三。

「……今!」

朔夜が叫んだ。

その瞬間、芹香の引き金が絞られた。

ぱん。

乾いた、小さな音。

けれど、その音は他のどの銃声とも違っていた。

銃口から放たれたのは、白い光の糸だった。

細い、細い、一本の糸。

それが、人形の嵐の間を縫って、真っ直ぐに、老婆の鋏の柄に突き刺さった。

位相干渉弾。

残りの二発のうちの、一発目。

鋏の銀色の刃が、ぱきりと、軋んだ。

老婆の動きが、ぴたりと止まった。

そして。

歌が、乱れた。

ねんねん、ころ、り、よ。

数千の人形の口から流れていた歌が、ずれた。

拍が、合わない。

誰かが早く、誰かが遅く、ばらばらに、不協和音となって空間に溢れ出す。

折り畳まれていた通路が、ぎしぎしと軋み始めた。

天蓋が、きしむ。

壁が、波打つ。

数千の人形が、動きを失って、ひらひらと力なく舞い落ち始めた。

「今よ、朔夜ちゃん!」

「うん!」

朔夜は、駆け出した。

老婆のほうへ。

けれど、老婆の身体を傷つけるためではなかった。

朔夜が見ていたのは、老婆の背後の空間。

白鷺堂の敷居の上、薄暗い店内へ続く暗がりの真ん中に、ひときわ太い、一本の折り目が走っていた。

この街のすべての折り目の、根元。

その筋が、今、拍を失って、ゆらゆらと不安定に揺れている。

朔夜は老婆の脇をすり抜けた。

老婆の手が、反射的に朔夜の袖を掴もうとした。

けれど、その手は、空を切った。

「待って!」

老婆の叫び声が背中に刺さる。

けれど朔夜は止まらなかった。

敷居を跨ぐ。

暗い店内。

紙と墨と糊の匂い。

その真ん中の空間に、白く細い光の線が、天井から床へ、すうっと走っていた。

朔夜は、両手のトンファーを、その線の両側に添えた。

胸の奥の残り火が、穏やかに、温かく、全身に広がっていく。

瞳の奥で、金と白と藍と紫と紅の渦が、静かに回っている。

「……ごめんね」

朔夜は、囁いた。

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

老婆に。

ゆりに。

夏目に。

消えた十四人の少女たちに。

「いま、帰してあげる」

トンファーの先端を、光の線に、そっと触れさせた。

静かだった。

世界が、静かになった。

数千の人形の舞う音も。

軋む鉄骨の悲鳴も。

老婆の泣き声も。

芹香の銃声の余韻も。

全てが、遠くへ引いていった。

ただ、朔夜の指先に、ひとつの感触だけが残った。

紙の折り目が、ゆっくりと、ほどけていく感触。

ぱら。

ぱら、ぱら。

白い光が、線から面へ、面から空間へ、波のように広がっていく。

折り畳まれていた通路が、一枚ずつ開く。

天蓋が元の高さに戻る。

壁が元の位置に退いていく。

舗装が平らになる。

シャッターの奥の白い襞が、解けて、薄い光の粒になって舞い上がる。

そして。

その光の粒の中から。

人影が、ひとつ、またひとつ、静かに降りてきた。

紺のブレザー。

臙脂色のリボン。

チェックのスカート。

髪を肩に垂らした少女たちが、眠るように目を閉じたまま、ふわりと宙に浮かんでいる。

一人。

二人。

三人。

十人。

十四人。

全員が、柔らかな白い光に包まれて、ゆっくりと通りの舗装へ降ろされていく。

朔夜は、息を呑んで、その光景を見つめていた。

涙が頬を伝った。

温かい涙だった。

最後の一人が降りてきたとき、朔夜は駆け寄って、その身体を両腕で受け止めた。

ショートカットの、日焼けした肌の少女。

胸が、微かに上下している。

首筋に指を当てると、細い脈が、確かに打っていた。

「……生きてる」

声が震えた。

「みんな、生きてる」

その少女の睫毛が、ふるりと震えた。

ゆっくりと瞼が持ち上がる。

焦点の合わない茶色い瞳が、薄暗い黄色い電球の光を映して、ぼんやりと朔夜の顔を見上げた。

「……ん……」

「大丈夫」

朔夜は、囁いた。

「もう終わったよ」

「……ここ……」

「商店街。夏目さん、だよね」

少女の瞳が、わずかに見開かれた。

「……なんで……名前……」

「ひよりちゃんがね、教えてくれたの」

朔夜は、にっこりと笑った。

「あなたの友達が、ずっと待ってるよ」

夏目の目から、ぽろりと涙が零れた。

唇が震えて、声にならない声が漏れた。

「……ひより……」

「うん」

「……ひよ、り……」

「帰ろう。一緒に」

夏目は、小さく、小さく頷いた。

朔夜は、その細い肩をぎゅっと抱きしめた。

*

白鷺堂の敷居の前で、老婆が膝をついていた。

銀色の鋏は、手から落ちて、舗装の上に転がっている。

刃の根元に、細かなひびが入っていた。

その横に、古い黄ばんだ紙の人形が、ぽとりと落ちていた。

老婆は、その人形を、震える両手でそっと拾い上げた。

胸に抱きしめて、背中を丸めて、肩を小さく震わせていた。

「……ゆり」

声が、掠れていた。

「ゆり、ごめんね……」

「…………」

「寂しかったんだよねえ……ばあちゃんが、寂しかったんだよねえ……」

朔夜は、夏目を芹香に預けて、老婆のそばへ、ゆっくりと歩いた。

膝をついて、その隣に座った。

老婆の背中は、小さかった。

驚くほど、小さくて、薄かった。

「おばあさん」

「…………」

「ゆりちゃんは、もう十分、お友達と遊んだよ」

老婆の肩が、小さく揺れた。

「だから、もう、ゆっくり眠らせてあげよう」

「……でも」

「大丈夫」

朔夜は、老婆の手に、そっと自分の手を重ねた。

冷たかった。

けれど、先ほどのような氷の冷たさではなく、ただ、長い年月に疲れた人の冷たさだった。

「あなたが泣いてるのを、ゆりちゃんは、ずっと見てたんだと思う」

「…………」

「だからね」

朔夜は、囁いた。

「今度は、あなたが、ゆりちゃんに、おやすみって言ってあげて」

老婆の白く濁った目から、大粒の涙が、ぽろぽろと溢れた。

「……ゆり」

「…………」

「おやすみ」

「…………」

「ゆっくり、おやすみ」

老婆の腕の中で、古い人形が、ふわりと、淡く光った。

黄ばんだ紙の端から、細い光の粒が静かに零れ始める。

それがゆっくりと、天蓋の高みへ昇っていく。

一粒。

また一粒。

やがて人形は、光の粒の集まりになって、ふっと、夕暮れの空気の中に溶けた。

最後に、一羽の白い鳥が、老婆の腕の中から飛び立った。

鷺だった。

真っ白な、美しい鷺が、長い翼を静かに広げて、アーケードの天蓋を抜け、灰色の曇り空へ、高く、高く、昇っていく。

その姿が、遠く、小さく、白い点になって、雲の切れ間に吸い込まれていった。

老婆は、その空をいつまでも見上げていた。

濁っていた白い目から、すうっと霧が晴れていった。

そこにあったのは、ただの、穏やかな老女の瞳だった。

「……ありがとうねえ」

老婆は、朔夜の手を、ぎゅっと握った。

「ありがとう」

「いえ」

「あの子が、やっと、眠れたよ」

老婆の唇が、小さく震えた。

そして、その身体から、ふっと力が抜けた。

朔夜は、慌てて老婆を抱きとめた。

軽かった。

驚くほど、軽かった。

「おばあさん?」

「…………」

「おばあさん、しっかり」

老婆は、静かに微笑んだまま、目を閉じていた。

胸が、規則正しく、穏やかに上下している。

眠っているのだ。

何十年ぶりかの、深い、安らかな眠りに。

朔夜は、ほうと息を吐いた。

肩の力が抜けた。

全身から、ずるずると力が抜けていく。

膝ががくんと折れて、そのまま舗装に座り込みそうになったとき、横から温かい腕が支えてくれた。

「朔夜ちゃん」

芹香だった。

制服はあちこち裂け、髪は乱れ、頬には新しい傷がいくつもある。

けれど、灰茶色の瞳は、澄み切って、穏やかに輝いていた。

「よく、やったわね」

「……うん」

「ほどけたのね」

「うん」

朔夜は、へへ、と力なく笑った。

「あの子、ちゃんと、手を貸してくれたよ」

「そう」

「壊さなかったよ」

「ええ。見ていたわ」

芹香の瞳が、潤んだ。

「あなたは、本当に」

「ん」

「誇らしい子ね」

朔夜は、顔を赤くして俯いた。

その背中を、芹香の掌が、ゆっくりと撫でた。

耳の後ろで、通信機の髪留めが、ざざ、と短く雑音を立てた。

それから、聞き慣れた事務官の声が、細く、小さく、響いた。

『……こちら本部。応答を。橘訓練生、一条訓練生』

朔夜は、目を見開いた。

芹香が、髪留めを指先で押さえた。

「こちら一条。応答します」

『位置の確認ができません。状況を……いや、いま、信号を回復しました』

事務官の声が、わずかに上擦っていた。

『ご無事ですか』

「はい。二名とも無事です」

『失踪者は』

「十四名、全員生存を確認しました」

通信機の向こうで、息を呑む音がした。

『…………全員』

「はい。意識は朦朧としていますが、命に別状はありません」

『……了解しました。後始末班を急行させます』

「お願いがあります」

芹香の声が、凛と響いた。

「現場に残っている老女は、被害者です」

『被害者』

「怪異に取り憑かれていた依代で、本人の意思ではありませんでした。処置の対象ではなく、保護の対象としてください」

沈黙が落ちた。

数秒。

朔夜は、息を詰めて、その沈黙を聞いていた。

やがて、事務官の声が、静かに返ってきた。

『……了解しました。保護対象として、上に申し送ります』

「ありがとうございます」

『それから』

声が、ほんの少しだけ、低くなった。

『お疲れさまでした』

朔夜は、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。

通信が、ぷつりと切れた。

アーケードの天蓋の裸電球が、一つ、また一つと、静かに消えていく。

代わりに、頭上の鉄骨の隙間から、薄い夕暮れの橙色の光が、斜めに差し込み始めた。

曇り空の裂け目から、細い夕陽が、顔を覗かせていた。

商店街の舗装に、十四人の少女たちが、静かに横たわっている。

その上に、橙色の光が優しく降り注いでいた。

風が吹いた。

どこからか、ひらひらと、最後の白い紙が一枚、舞い落ちてきた。

人形ではなかった。

ただの、白い、何も描かれていない、小さな紙切れだった。

朔夜はそれを指先で摘まんで、じっと見つめた。

それから、そっと、胸ポケットに仕舞った。

お守りが、また一つ増えた。

*

寮の食堂の灯りは、落とされていた。

深夜の、静まり返った空間に、窓から差し込む月光だけが、長いテーブルの上に白い筋を落としている。

朔夜と芹香は、裏口から音を立てないように入ってきて、厨房の前で足を止めた。

そこに、ぽつんと、一つの盆が置かれていた。

白い布巾が掛けられている。

布巾の上に、小さな紙片が載っていた。

『おかえり。冷めてるけど、食べな。 —— 厨房より』

朔夜は、布巾をそっと持ち上げた。

皿の上に、焼き鮭が、ふっくらと二切れ。

その隣に、卵焼き。

大根おろし。

きゅうりの漬物。

そして、小さなおにぎりが、二つ。

どれも、すっかり冷めていた。

けれど、朔夜の目には、湯気が見えた気がした。

「……おばさん」

声が詰まった。

「待っててくれたんだ」

「ええ」

「こんな夜中まで」

「きっと、遅くまで残って、用意してくれたのね」

芹香の声が、柔らかく震えていた。

二人は、月光の降り注ぐ食堂の端の席に、並んで腰を下ろした。

盆を挟んで、向かい合う。

「いただきます」

「いただきます」

小さな声で、手を合わせた。

朔夜は、冷めたおにぎりを一口、齧った。

米は少し硬くなっていた。

けれど、塩気が優しく染みて、鮭の脂の旨みが、舌の上でほろりと解けた。

「……おいしい」

「ええ」

「冷めてても、おいしいね」

「ええ。とても」

二人は、黙って食べた。

窓の外で、夜風が木の葉を揺らす音がした。

遠くの山で、梟が一声、低く鳴いた。

朔夜は、卵焼きを口に運びながら、ふと呟いた。

「ねえ、先輩」

「なあに」

「ひよりちゃん、きっと喜ぶよね」

「ええ」

「夏目さんが帰ってきたら」

「そうね。きっと」

「教室の席、片づけなくてよかったなって」

「ふふ。ええ」

芹香は、箸を置いて、朔夜を見つめた。

月光が、その横顔を柔らかく縁取っている。

傷だらけの頬。

乱れた髪。

けれど、その灰茶色の瞳は、深い安らぎの色をしていた。

「朔夜ちゃん」

「うん」

「今日、あなたは」

芹香は、言葉を探すように、少し間を置いた。

「あの老婆にも、救いを与えたわね」

「え」

「普通なら、倒すところよ」

「…………」

「でも、あなたは、ほどくことを選んだ」

朔夜は、少し照れて、頬を掻いた。

「だって、倒すだけじゃ、泣いてる人は泣きっぱなしだもん」

「…………」

「泣いてる人には、おやすみって言ってあげたほうが、いいと思う」

芹香の目が、静かに潤んだ。

「……そうね」

「でしょ」

「ええ。そうよ」

芹香は、ふっと、柔らかく笑った。

その笑顔が、月光の中で、ひどく美しかった。

食事を終えて、二人は食器を厨房の流しに運んで、水で洗った。

蛇口から出る冷たい水が、指先をひやりと撫でた。

洗い終えた皿を、布巾で拭いて、棚に戻す。

「こうしておけば、おばさん、びっくりするかな」

「ふふ。きっと喜ぶわ」

二人は小さく笑い合って、食堂を後にした。

*

部屋の扉を、そっと開けた。

暗い室内に、窓から細い月光が差し込んでいる。

二段ベッドの下段で、美月が毛布にくるまって、静かに寝息を立てていた。

朔夜は、音を立てないように、そっと扉を閉めた。

机の上に、一枚の紙が載っていた。

『おかえりなさい。朝ごはん、約束だよ。 —— 美月』

朔夜は、その文字をじっと見つめた。

それから、胸ポケットから、小さな桃色のお守りを取り出して、机の上に並べた。

護符。

銀杏の葉。

おにぎりの包み紙。

白い、何も描かれていない小さな紙切れ。

そして、美月のメモ。

どれも、朔夜が持ち帰ったものだった。

窓の外から、月の光が、それらの小さな品々を、優しく照らしている。

朔夜は、椅子に腰を下ろして、鞄の底から、白鷺堂の便箋の束を取り出した。

端に細い墨で、白い鷺の絵が描かれている。

その一枚を机に広げて、鉛筆を握った。

何を書こうかと、少し迷って、それから、ゆっくりと文字を綴り始めた。

『ひよりちゃんへ

約束、守ったよ。

夏目さんは、ちゃんと帰ってくるよ。

もし、夏目さんが帰ってきたら、一緒にお弁当食べてあげてね。

わたしは、また遠くへ行かなくちゃいけないけど、ひよりちゃんのことは、ずっと忘れないよ。

窓は、夜に開けちゃだめだよ。

でも、もう、大丈夫だと思う。

朔夜』

書き終えて、朔夜は、便箋を丁寧に折り畳んだ。

封筒の代わりに、白い紙切れで包んで、小さく結ぶ。

「後始末班の人に頼めば、届けてくれるかな」

「ええ。私からお願いしておくわ」

背後から、芹香の声がした。

いつの間にか、彼女は朔夜の隣に立って、その手紙を見つめていた。

「優しい手紙ね」

「えへへ」

「きっと、ひよりさんは、大切にするわ」

「うん」

朔夜は、手紙を鞄の仕切りにそっと仕舞った。

それから、窓辺へ歩いていって、カーテンを少しだけ開けた。

夜空に、無数の星が瞬いていた。

昨夜、霧原の山道で見たのと同じ、満天の星。

その下に、寮舎の黒い瓦屋根が、静かに広がっている。

遠くの山の稜線が、淡い藍色の空に溶けている。

静かな夜だった。

どこまでも、穏やかで、優しい夜だった。

「ねえ先輩」

「なあに」

「今日、怖かったね」

「ええ」

「でも、ちゃんと帰ってこられたね」

「ええ」

「先輩がいてくれたから」

「あなたがいてくれたからよ」

朔夜は、振り返って、芹香の顔を見上げた。

月光の中で、芹香が静かに微笑んでいた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

「また、明日から、よろしくね」

「ええ。こちらこそ」

二人は、小さく笑い合った。

芹香が、朔夜の頭に、そっと手を置いた。

跳ねた寝癖を、掌でふわりと押さえる。

「さあ、休みましょう」

「うん」

「明日は、五時四十分に起きるのでしょう?」

「え」

「佐伯さんたちとの約束があるでしょう」

朔夜は目を丸くして、それから、ぱあっと顔を輝かせた。

「あ、そうだ!朝練!」

「ええ。素振りの成果を、見てあげないとね」

「うん!」

朔夜は、ベッドの上段によじ登った。

毛布を引き寄せて、枕に頭を預ける。

天井の木目が、月光の中で、ぼんやりと浮かび上がっていた。

節が一つ、渦を巻くように黒ずんでいる。

目玉のような、あの節。

朔夜は、その目玉に向かって、小さく手を振った。

「ただいま」

目玉は、何も言わなかった。

けれど、月の光が、その節の中心を、ほんの少しだけ、きらりと照らした気がした。

胸の奥で、残り火が、ことりと穏やかに瞬いた。

朔夜は、目を閉じた。

「……おやすみ」

囁いた声は、誰に向けたものだったのか、自分でも分からなかった。

芹香に。

美月に。

天井の目玉に。

胸の奥の、あの子に。

そして、遠い街で静かに眠りについたであろう、十四人の少女たちと、一人の老女と、小さな「ゆり」に。

窓の外で、夜風がそっと木の葉を揺らした。

その音は、どこか、優しい子守唄のように聞こえた。

けれど、もう怖くなかった。

その歌は、誰かを連れ去るためのものではなく、ただ、眠りへ導くための、温かな調べだった。

寮舎の遥か上空を、一羽の白い鳥が、静かに、静かに、月の光の中を渡っていった。

――第3章 了

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紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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