第4章 ― 雨の境界と、片目の子
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
五時四十分。
起床の鐘が鳴る二十分前に、朔夜は目を覚ました。
天井の木目が、カーテンの隙間から差し込む薄青い光の中で、ゆっくりと浮かび上がってくる。
節がひとつ、渦を巻くように黒ずんでいる。
目玉のような、あの節。
朔夜は仰向けのまま、口の中だけで言った。
「おはよ」
目玉は今朝も何も言わなかった。
けれど、その沈黙はもう冷たくなかった。
吐く息が白い。
十月の終わりの夜明け前は、石の床から冷えを吸い上げて、部屋の空気を薄い氷のように張りつめさせている。
毛布の外へ出した指先がじんと痺れた。
その痺れが、眠気の膜を一枚ずつ剥がしてくれるのが心地よかった。
両手を握っては開く。
一度、二度、三度。
指の関節がぱきりと鳴った。
その小さな音は、もうガラスの裂ける音を連れてこなかった。
左の手首にはまだ鈍い疼きが残っている。
足の裏の傷も、じんわりと熱を持っている。
けれど身体の芯には、昨夜の眠りが深く染み込んでいた。
夢は見なかった。
白い紙の人形も、子守唄も、折り畳まれた街も、眠りの中までは追ってこなかった。
朔夜は毛布を跳ね上げた。
「ひゃっ」
冷気が全身に噛みつく。
その声が自分でもおかしくて、小さく笑ってしまった。
二段ベッドの下段では、美月が毛布にくるまって丸くなっている。
寝息は規則正しく穏やかだった。
もう息を殺してはいない。
朔夜は音を立てないように床へ降りた。
素足の裏に石の冷たさが突き刺さる。
ひやり、を通り越して、じん、と来る。
その痛いほどの冷たさが踵から脹脛へ、膝へ、背骨へと駆け上がっていく。
眠気が完全に蒸発した。
廊下は暗く、長かった。
非常灯の緑がかった光が床に落ちている。
等間隔に並んだ扉の向こうから、眠る人々の気配がかすかに伝わってきた。
昨日までなら、その気配に背中を撫でられるたびに息が詰まった。
今朝は違った。
扉の向こうの誰かが寝返りを打つ衣擦れの音が、ただの朝の音として耳に届いた。
洗面所の蛇口をひねる。
水が管の奥でごぼりと鳴ってから、勢いよく流れ出した。
両手で受けて、顔に叩きつける。
「ぷはあっ!」
頬が熱くなる。
まぶたの裏で小さな火花が散る。
顔を上げると、曇り気味の鏡の中に少女がいた。
黒髪のボブカットが寝癖で右側だけ跳ねている。
目の下の隈は、昨日より薄くなっていた。
琥珀色の瞳が、薄暗い洗面所の中でほのかに明るく光っている。
朔夜は鏡に向かって、にっと笑った。
「今日もよろしく」
それから胸にそっと手を当てて、小さく続けた。
「あなたも、今日もよろしくね」
胸の奥で、あの子がことりと頷いた気がした。
*
道場の引き戸は、重く、低く唸りながら横へ滑った。
その途端に、匂いが来た。
長年染み込んだ汗の酸っぱさ。
樫の床板に擦り込まれた蝋の、重たく甘い匂い。
畳の乾いた草の匂い。
そこに、もうひとつ、新しい匂いが混じっていた。
まだ温かい、人の熱気の匂い。
朔夜は、足を止めた。
道場の中は、がらんとしていなかった。
薄青い朝の光が高窓から斜めに差し込んで、床板に長い影を作っている。
その光の中で、人影がいくつも動いていた。
ひゅ。
ひゅ。
ひゅ。
竹刀が空を切る音が、規則正しく、いくつも重なって響いている。
壁際に、少女たちが並んで素振りをしていた。
佐伯。
中村。
高橋。
その隣に、見知らぬ顔が並んでいる。
四人。
五人。
数えようとして、朔夜は途中でやめた。
十人近くいたのだ。
昨日の夕方、道場で手を振ってくれたのは三人だけだった。
その三人の後ろに、いつの間にか、七人が増えていた。
「あ、橘さん!」
最初に気づいたのは佐伯だった。
竹刀を下ろして、眼鏡の奥の目を大きく見開く。
その声に、十人の少女たちが一斉に振り向いた。
額に汗を滲ませて、頬を赤く染めて、胸を上下させている。
朔夜は、思わず口をぽかんと開けた。
「……え、みんな」
「おはようございます!」
十人の声が、揃って道場に響いた。
高い天井に反射して、わあんと広がる。
朔夜は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「おはよう!」
声が裏返った。
それがおかしくて、十人が一斉に笑った。
「なんでこんなに」
「佐伯さんが声をかけてくれたんです」
一人の小柄な少女が、照れ臭そうに手を挙げた。
「昨日の夜、食堂で。橘さんが帰ってきたから、一緒に朝練しない?って」
「私は中村さんに」
「私は高橋さんに」
少女たちが次々に口を開いた。
朔夜は、その顔を一人ずつ見回した。
食堂で遠巻きに見ていた子。
廊下の角で目を逸らした子。
窓から手を振り返してくれた子。
みんな、頬を赤くして、少しだけ恥ずかしそうに、けれどまっすぐに朔夜を見つめていた。
「……ありがとう」
声が震えた。
「すごく、嬉しい」
「あの」
佐伯が一歩前に出た。
竹刀を両手で握りしめて、頬を真っ赤に染めている。
「約束の、素振り百回、毎日やりました」
「え、昨日の夕方から?」
「はい。昨日の夜と、今朝の分で」
「えええ、すごい」
「見てください」
佐伯は両手を差し出した。
掌には、赤く腫れた水ぶくれがいくつも並んでいた。
潰れかけたものもある。
朔夜は、その手をそっと両手で包んだ。
「痛かったでしょ」
「はい。でも」
佐伯は、へへ、と笑った。
「橘さんの手と同じだなって、ちょっと嬉しかったんです」
朔夜の呼吸が止まった。
自分の掌を見下ろす。
トンファーの握りだこで硬くなった、ごつごつとした小さな手。
あれを、嬉しいと言ってくれる人がいる。
「……ありがとう」
もう一度、小さく言った。
「その手、大事にしてね」
「はいっ」
「あとで軟膏塗ってあげる。装備課のおじさんにもらったやつ、すごく効くんだ」
「いいんですか」
「もちろん」
朔夜は、にっと笑った。
「それじゃ、始めよっか」
「はい!」
十人の声が、また揃った。
*
最初に教えたのは、足の運びだった。
「竹刀を振る前にね、床を踏むの」
朔夜は道場の中央に立って、素足の指で樫の床板を踏み締めた。
冷たい。
蝋の滑らかな手触りの下に、木目の凹凸が足裏に染みてくる。
「ほら、足の指でぎゅって掴む感じ。床と友達になる感じ」
「床と、友達」
「そう」
「…………」
十人が一斉に足元を見つめた。
靴下を脱いだ素足の指が、床の上で、ぎこちなく動き始める。
くすくす笑う声が聞こえた。
高橋が足の指をぐにぐにと動かして、バランスを崩してよろめいた。
「わ、わ」
「大丈夫大丈夫」
朔夜は笑いながら、高橋の背中をそっと支えた。
「最初はみんなそうなるよ」
「橘さんは、どうしてそんなにぶれないんですか」
「えーとね」
朔夜は少し考えた。
「ぶれないんじゃなくて、ぶれても戻ってくるのが速いだけ」
「戻ってくる」
「うん。倒れそうになったら、どっちに倒れそうか、身体が教えてくれるから」
「…………」
「その方向に一歩出せば、立ってられる」
高橋が目を丸くした。
「それ、人生みたいですね」
「え、そう?」
朔夜は思わず吹き出した。
「いいこと言うね」
「え、あ、そんなつもりじゃ」
「いやいや、ほんとにそう思う」
朔夜はくすくすと笑い続けた。
道場の中に、柔らかな笑い声が広がっていく。
「じゃあみんな、足を肩幅に開いて」
「はい」
「膝を少しだけ曲げて」
「はい」
「息を吐きながら、竹刀を振り上げて」
「はい」
「吐ききったところで、ひゅっと下ろす」
十本の竹刀が、不揃いな動きで空を切った。
ひゅ。
ひゅ、ひゅ。
ひゅうう。
音がばらばらだった。
けれど、その不揃いな音が、朝の道場の冷えた空気を、少しずつ温めていくのが分かった。
「そうそう、いい感じ」
朔夜は、列の間を歩きながら、一人ずつ肩や肘の位置を直していった。
「中村さん、肘がちょっと外に出てる」
「は、はい」
「ここ、脇を締める感じ」
「こうですか」
「そう!かっこいい」
「かっこ……」
中村が耳まで赤くなった。
その様子を、壁際の影から静かに見つめている人がいた。
芹香だった。
紺の訓練服に着替えた彼女は、道場の隅の壁に背を預けて、腕を組んでいた。
栗色の髪は緩い三つ編みにして、肩の前へ流している。
灰茶色の瞳が、朝の光の中で穏やかに細められていた。
朔夜と目が合うと、芹香は唇の端をほんの少しだけ持ち上げた。
見守っている。
その視線が、背中にじんわりと温かかった。
やがて芹香はゆっくりと壁から離れて、列のほうへ歩いてきた。
「少し、よろしいかしら」
「あ、一条先輩」
少女たちが慌てて姿勢を正した。
芹香は微笑んで、手を軽く振った。
「楽にして。呼吸の話を少しだけ」
「呼吸」
「ええ。打ち込みの前に、息を整える方法を一つ」
芹香は高橋の背後に立って、そっとその肩に手を置いた。
「吸うときは、お腹に空気を溜めるイメージで」
「はい」
「吐くときは、細く長く。糸を吐くように」
「…………」
「そのとき、心臓の音を聞いて」
高橋は目を閉じた。
芹香の掌が、背中をゆっくりと上下に撫でる。
「どう?」
「……なんだか、落ち着きます」
「でしょう」
「はい」
「それが、狙う前の呼吸よ」
芹香は静かに言った。
「あなたが誰かを守りたいと思ったとき、一番先に整えなければいけないのは、自分の心臓なの」
高橋の目が、ゆっくりと開いた。
その瞳が、尊敬の色を浮かべて芹香を見上げていた。
朔夜は、その光景を眺めながら、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
(……先輩、やっぱり、お母さんだ)
声には出さずに笑った。
*
打ち込みの時間になった。
朔夜は、腰の後ろから二本のトンファーを引き抜いた。
装備課の男が作ってくれた細身の鋼のものではなく、入寮のときから握り続けてきた、あの樫のトンファー。
握りの黒ずんだ艶。
木肌に走る無数の傷。
掌に吸いつくような、慣れ親しんだ重み。
「じゃあ、佐伯さん、一本いってみよう」
「は、はいっ」
佐伯が竹刀を構えた。
眼鏡の奥の目が、緊張で小刻みに揺れている。
朔夜は、トンファーを逆手に持って、腕に沿わせて構えた。
足幅を肩より少し広く。
膝をわずかに折って。
「いつでもいいよ」
「いきます!」
佐伯が、一歩を踏み込んだ。
竹刀が頭上から振り下ろされる。
ひゅっ。
まだ荒い。
けれど、足の運びは確かに昨日より安定していた。
朔夜は、半歩、左へ滑った。
右腕のトンファーで、竹刀の側面を受ける。
ぱん、と小気味よい音。
受けるのではなく、いなす。
棒の側面を刃筋に添わせて、力を横へ逃がす。
佐伯の竹刀が、朔夜の肩の横を空振りして流れていった。
「わっ」
「いいよ、もう一回」
「はいっ」
二本目。
三本目。
四本目。
そのたびに、朔夜は少しずつ速度を上げていった。
ぱん、ぱん、と、乾いた打撃音が道場に響く。
その音が、いつの間にか、朝の静寂の中で一つのリズムになっていた。
打って、いなして、潜って、また打つ。
汗が額を伝う。
頬が火照る。
足の裏の傷がじんと疼く。
けれど、それすらも心地よかった。
佐伯の竹刀が、ふっと朔夜の脇腹を掠めた。
かすかな手応えが、トンファーの棒身を伝って返ってくる。
「あ」
佐伯が目を丸くした。
「当たった」
「うん、当たったね」
朔夜はにっと笑った。
「すごい、今の、ちゃんと入ってたよ」
「ほんとですか」
「ほんとほんと。もう一回やってみよ」
「はいっ!」
佐伯の瞳が、きらきらと輝いた。
その輝きが、朝の光の中で、まるで小さな星のように見えた。
周りの少女たちが、歓声を上げた。
「佐伯さんすごい!」
「橘さんに当てた!」
「次わたし!」
「私も!」
朔夜は、笑いながら両手を広げた。
「順番ね、順番!」
「はーい!」
その賑やかな声が、道場の高い天井に昇って、朝の空気の中へ溶けていった。
汗の匂いが濃くなる。
蝋と、木と、人の熱の匂いが混じり合って、身体の隅々まで染み込んでくる。
朔夜は、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
(……ああ)
(好きだなあ、これ)
昨日、地下の測定場で震えていた自分が、遠い夢のように思えた。
あの冷たいコンクリートの床の上で、世界を壊す恐怖に怯えていた少女と、いまここで汗をかいて笑っている少女が、同じ人間だとは思えなかった。
けれど、同じなのだ。
あの子がいて。
この子がいて。
どちらも、橘朔夜。
胸の奥で、残り火が、穏やかに、温かく瞬いた。
*
引き戸が、ごろごろと開いた。
道場の空気が、ふっと張りつめた。
少女たちが一斉に動きを止めた。
入口に、濃紺の教官服の影が立っていた。
銀縁の眼鏡。
背筋をまっすぐに伸ばし、両腕を後ろで組んでいる。
鬼塚教官だった。
「…………」
誰も、声を出さなかった。
十人の少女たちが、その場でぴたりと固まっている。
鬼塚は、草履を脱いで、床板を踏んだ。
音がない。
その歩き方には、いつも通りの静けさがあった。
けれど、朔夜は気づいた。
三メートルの距離で止まらなかった。
鬼塚は、そのまま歩みを進めて、朔夜の前、一メートルほどの位置で足を止めた。
「おはようございます、鬼塚教官」
「……ああ」
眼鏡の奥の瞳が、朔夜の顔をじっと見つめた。
それから、手元のトンファーへ。
それから、床の上で息を弾ませている少女たちへ。
「朝から、賑やかだな」
「す、すみません」
「責めてはいない」
鬼塚は、短く言った。
「……いい声だ」
朔夜は、目を丸くした。
少女たちも、はっとしたように鬼塚の顔を見上げた。
「橘」
「はいっ」
「左手首は」
「もう、平気です」
「ならいい」
鬼塚は、ほんの少しだけ、頷いた。
それから、佐伯の前に歩み寄った。
「お前」
「は、はいっ」
「握りが浅い」
「え」
「貸してみろ」
鬼塚は、佐伯の竹刀に手を伸ばした。
その指が、佐伯の掌の上から竹刀の柄を包み込む。
「ここだ。小指と薬指で締める」
「は、はい」
「人差し指と親指は、添えるだけ」
「…………」
「そうだ。振ってみろ」
佐伯が竹刀を振った。
ひゅっ。
さっきよりも鋭い、澄んだ音が響いた。
佐伯の目が大きく見開かれた。
「……すごい」
「基本だ」
鬼塚は、それだけ言って、手を離した。
けれど、その唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。
道場の隅で、芹香が静かに微笑んでいる。
朔夜は、胸が熱くなって、思わず鼻の奥がつんとした。
(……教官)
(先輩)
(みんな)
この場所が、あったかい。
昨日までは、冷たい水の底のようだった道場が。
いまは、朝の陽だまりのように。
そのとき。
鬼塚が、くるりと朔夜のほうへ向き直った。
眼鏡の奥の瞳が、ほんの少しだけ、硬くなった。
「橘、一条」
「はい」
「ええ」
「朝食のあと、本館に出頭しろ。本部から召集が来ている」
朔夜の心臓が、とくんと鳴った。
「……また、ですか」
「ああ」
鬼塚は、一瞬だけ目を伏せた。
「今度は、前触れなしだ」
道場の空気が、ひやりと冷えた。
少女たちの顔から、笑みがすっと消えた。
佐伯が、竹刀を握りしめた。
朔夜は、その手を見て、にっと笑った。
「大丈夫」
「橘さん」
「わたし、帰ってくるよ」
「…………」
「また朝練しよ。ちゃんと百回、続けててね」
佐伯の目が潤んだ。
けれど、すぐに、力強く頷いた。
「はいっ」
「約束」
「約束です」
鬼塚は、そのやりとりをじっと見つめていた。
何も言わずに、背を向ける。
引き戸の前で、ふと立ち止まった。
背中越しに、低く、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「……行ってこい」
朔夜は、深く頭を下げた。
「はいっ。行ってきます」
*
食堂の窓は、朝の厨房の湯気で白く曇っていた。
味噌汁の匂い。
炊きたての米の匂い。
焼き魚の脂の香ばしい匂い。
朔夜は、配膳台でトレイを受け取りながら、厨房の窓口に向かって声をかけた。
「おばさん、昨夜はごちそうさまでした!」
湯気の向こうから、丸顔の調理員が顔を覗かせた。
「あら、朔夜ちゃん!食べてくれたのかい」
「はい!冷めててもすごくおいしかったです!」
「そうかいそうかい。よかったよかった」
調理員は、目尻を下げて、満面の笑みを浮かべた。
「ほら、今朝もたんと食べな!」
「ありがとうございます!」
朔夜は、大盛りの皿を載せたトレイを抱えて、食堂の中を見渡した。
長いテーブルの端の席。
そこに、小さな人影が一つ座っていた。
美月だった。
同室の、あの少女。
お守りを縫ってくれた子。
朝ごはんの約束をした相手。
美月は、トレイの前でぎゅっと両手を握りしめて、朔夜の姿を見つけると、ぱっと顔を上げた。
「あ、あの」
「おはよう、美月ちゃん!」
朔夜は、真っ直ぐに歩いていって、向かいの席に腰を下ろした。
「約束、守ったよ」
「……うん」
美月の目が、うるうると潤んだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
二人は、小さく笑い合った。
芹香も、トレイを持って現れて、朔夜の隣に腰を下ろした。
「相席、よろしいかしら」
「あ、は、はい、もちろんです」
美月が慌てて背筋を伸ばした。
三人で、手を合わせる。
「いただきます」
朔夜は、焼き鮭の身をほぐして、口に運んだ。
脂の甘みが、舌の上でほろりと解ける。
「おいしい」
「ええ」
「美月ちゃんも食べて」
「う、うん」
美月は、おずおずと箸を取った。
それから、一口、味噌汁を啜って、ほうと息を吐いた。
「……あったかい」
「でしょ」
「うん」
三人は、黙々と食べた。
けれど、その沈黙は、温かかった。
食堂のあちこちから、朝の穏やかなざわめきが聞こえてくる。
食器の触れ合う音。
小さな笑い声。
窓の外で、鳥が一声鳴いた。
朔夜は、焼き鮭を頬張りながら、ふと周りを見回した。
昨日の朝は、見えない円が自分の周りに描かれていた。
今朝、その円は、どこにもなかった。
隣のテーブルの少女が、ちらりとこちらを見て、にこりと笑った。
朔夜も笑い返した。
その向こうの席でも、誰かが小さく手を挙げた。
朝練に来ていた子だった。
(……よかった)
胸の底で、そっと呟いた。
(ちゃんと、広がってる)
そのとき。
食堂の入口に、足音が響いた。
こつ、こつ、こつ。
硬い革靴の音。
朔夜は、箸を止めた。
灰色の制服の事務官が、敷居の手前に立っていた。
胸の銀色の徽章。
黒革のファイル。
けれど、今朝の彼女は、いつもより顔色が蒼白だった。
「橘朔夜訓練生。一条芹香訓練生」
声が、わずかに上擦っていた。
「大変申し訳ありません。朝食の途中ですが」
「いえ」
芹香が静かに箸を置いた。
「〇八〇〇まで、と伺っておりましたが」
「状況が変わりました。いますぐ、第三会議室へ」
事務官の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……雨が、降り始めたそうです」
朔夜は、首を傾げた。
雨?
窓の外の空は、朝焼けに染まって、雲一つなく澄んでいた。
けれど、事務官の顔は、冗談を言っているものではなかった。
「分かりました」
朔夜は立ち上がった。
トレイを美月のほうへ寄せて、その肩に手を置く。
「美月ちゃん、ごめん。残りの鮭、食べといて」
「え、でも」
「帰ってきたらまた一緒に食べよ」
美月は、唇を震わせて、それから、強く頷いた。
「うん。待ってる」
「ありがと」
朔夜は笑って、芹香と並んで食堂を出た。
背中に、美月の視線が、ずっと追ってきていた。
*
第三会議室の空気は、昨日までとは違っていた。
窓のない、濃い茶色の羽目板の部屋。
天井に一つだけ灯る、冷たい白い照明。
長い黒いテーブルの向こうに、灰色の髪の参事官が座っていた。
けれど、その傍らに、いつもの二人はいなかった。
太った男も、痩せた女も。
代わりに、壁一面に、大きな地図が貼り出されていた。
等高線が細かく走る、山間部の地図。
その中央に、赤いペンで大きな円が描かれている。
「座りなさい」
参事官の声は、低く、短かった。
朔夜と芹香は、席についた。
革の座面が冷たい。
「まず、先日の件について」
参事官は、書類を一枚、手に取った。
「灯宵銀座の失踪者十四名、全員の生存を確認した。現在、本部の医療班で経過観察中だ」
「はい」
「老女の依代は保護対象とした。記憶処置は行わず、特別養護施設へ移送する」
朔夜は、息を呑んだ。
芹香の指が、ぴくりと動いた。
「……ありがとうございます」
芹香の声が、わずかに震えた。
「礼は要らん。合理的な判断だ」
参事官は、書類をテーブルに置いた。
「それから、これを」
黒い小さな箱が、朔夜の前に滑らされた。
蓋を開けると、中に真鍮色の筒が三本、並んでいた。
位相干渉弾。
「補充した。残り一発と合わせて、計三発」
朔夜は、顔を上げた。
「三発」
「結果に対する評価だ」
淡々とした声だった。
けれど、その響きの底に、ほんのわずかな何かが滲んでいた。
芹香は、箱を受け取って、静かに頭を下げた。
「それから」
参事官の視線が、朔夜に向いた。
「君が書いた手紙は、後始末班が責任を持って届ける」
朔夜の目が、大きく見開かれた。
「え、あの」
「報告書に添付されていた。内容は確認していない」
「…………」
「届けさせる」
朔夜の胸が、じんと熱くなった。
「ありがとうございます」
声が震えた。
参事官は、それ以上何も言わずに、壁の地図のほうへ視線を向けた。
「本題に入る」
長い指が、赤い円の中心を指した。
「特殊警戒地域第四号。通称、霖ヶ谷」
「ながめがや」
朔夜は、小さく繰り返した。
「ここは四十年前に、山崩れで全村が閉鎖された区域だ。公式には無人地帯とされている」
「…………」
「だが実際は、結界によって隔離された、異境の境界だ」
「異境の」
「この谷には、四十年間、一度も雨が止んだことがない」
朔夜は、息を詰めた。
「結界の内側では、常に雨が降り続けている。そして、その雨の中に、人の理屈では測れないものが棲んでいる」
参事官の声は、淡々としていた。
けれど、その窪んだ眼窩の奥の瞳が、地図の赤い円をじっと見据えていた。
「結界は、三十年前に本部が張り直した。以来、年に一度の巡回で維持されてきた」
「…………」
「だが、ここ一週間で、結界の観測値が異常を示している」
「異常」
「綻びだ」
参事官は、地図の上の円の縁に、指先を滑らせた。
「境界の石が三つ、ひとりでに倒れている。内側の雨が、結界の外へ、滲み出し始めている」
朔夜の背筋が、ひやりと冷えた。
「先遣の巡回班が、昨日、現地に入った。二名」
「…………」
「そのうち一名が、通信を残して消息を絶った」
芹香の瞳が、わずかに細められた。
「最後の通信は?」
参事官は、書類の端に挟まれた小さな紙片を取り出した。
「文面だ」
テーブルの上に置かれたそれを、朔夜は覗き込んだ。
走り書きの文字だった。
『雨の中に、子供がいる。裸足。ひとりで。』
『声をかけたが、反応なし。』
『目が』
そこで、文字が途切れていた。
「目が」
朔夜は、呟いた。
「目が、どうしたんですか」
「不明だ」
参事官は短く答えた。
「通信は、そこで切れた」
沈黙が落ちた。
朔夜は、紙片の最後の「が」の一文字を見つめていた。
震えた線。
途中で断ち切られた筆跡。
その先に、何を見たのか。
「今回の任務は」
参事官が、静かに続けた。
「境界の石の再確認と、結界の綻びの調査。可能であれば、その子供の確保」
「確保」
朔夜は、顔を上げた。
「保護、ではなく」
「人間か、そうでないか、判断がつかない」
「…………」
「怪異が子供の姿を取っている可能性が高い」
「でも」
「分かっている」
参事官は、朔夜の言葉を遮った。
「確保が不可能な場合は」
「…………」
「処置を行う」
その二文字が、朔夜の耳に冷たく刺さった。
芹香が、息を詰める気配がした。
朔夜は、唇を結んだ。
胸の奥の残り火が、ちりりと小さく疼いた。
「……処置、というのは」
「言わずとも分かるだろう」
「いいえ」
朔夜は、顔を上げた。
「分かりません」
参事官の眉が、わずかに動いた。
「橘訓練生」
「わたし、子供かもしれない相手を、確認もしないで処置するなんて、できません」
「…………」
「まず会って、話して、それから決めます」
「それは、危険だ」
「分かってます」
「前任の巡回班は、そうやって消えたのかもしれない」
「それでも」
朔夜は、まっすぐに参事官の目を見返した。
琥珀色の瞳が、冷たい白い照明の下で、強く光った。
「わたしは、そうします」
会議室に、長い沈黙が落ちた。
参事官は、朔夜の瞳を、じっと見つめていた。
その窪んだ眼窩の奥で、何かが、ゆっくりと揺れている。
やがて、彼は、ふっと息を吐いた。
「……君は、本当に」
「はい」
「厄介な兵器だな」
「兵器じゃありません」
「そうだったな」
参事官の口元が、昨日と同じ、笑みに似た別のものを形作った。
けれど、そこには、ほんのわずかな、人間の温度に似たものが滲んでいる気がした。
「最終判断は、現場の君たちに委ねる」
「…………」
「ただし、結果の責任も、君たちが負う」
「はい」
「一条」
「はい」
「彼女を頼む」
芹香は、静かに頷いた。
「承知しております。それが私の役目です」
「安全装置としてか」
「いいえ」
芹香は、柔らかく微笑んだ。
「後輩を守る、先輩としてです」
参事官は、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、目を細めた。
「出発は、一時間後。装備課で、雨具と戦鎚を受け取りなさい」
「戦鎚」
朔夜の目が輝いた。
「使えるんですか」
「今回は、街ではない。人目はない」
「やった」
「ただし」
参事官は、指を一本立てた。
「結界の内側では、魔力の挙動が不安定になる。君の力が、いつもより強く出る可能性がある」
「…………」
「十分に注意しなさい」
朔夜は、頷いた。
胸ポケットの護符に、そっと指を触れる。
冷たい金属の感触が、掌に静かに染みた。
「分かりました」
「では、行きなさい」
「はい」
朔夜は立ち上がった。
芹香も、隣で静かに席を立つ。
二人が扉に向かったとき、背中越しに、参事官の声が聞こえた。
「橘訓練生」
「はい」
「生きて、帰ってきなさい」
朔夜は、振り返った。
参事官は、地図のほうを向いたまま、動かなかった。
けれど、その背中が、ほんの少しだけ、前の二回よりも柔らかく見えた。
「はい。帰ってきます」
朔夜は、にっと笑った。
「また、朝ごはん食べに」
*
車は、山道を登っていた。
黒い四輪駆動の車体が、濡れた砂利を踏みしめて、ごつごつと揺れる。
窓の外の景色は、いつの間にか、灰色の薄闇に沈んでいた。
雨が降っていたのだ。
最初は、ぽつり、ぽつりと窓ガラスを叩く小さな雫だった。
やがて、それが細かな線になって、ざあああと車体の屋根を叩き始めた。
朔夜は、窓に額を寄せて、外の景色を覗き込んだ。
黒い木々が、雨に濡れて、艶やかに光っている。
幹の表面を、水の筋がつうと伝い落ちていく。
その向こうに、白い靄が、地面から立ち昇っていた。
「……すごい雨」
「ええ」
芹香が、隣で静かに頷いた。
肩には長い狙撃銃。
腰には細身の銀色の拳銃。
朔夜の膝の上には、黒い革の包みが置かれていた。
戦鎚。
ずしりと重い、あの感触が、膝に沈んでいる。
黒い雨合羽の袖が、窓ガラスの冷気を吸って、しっとりと冷たい。
装備課の男は、無愛想に雨具を押しつけてきた。
『結界の内側の雨は、ただの雨じゃねえ。肌を濡らしたら、すぐ拭け。長く触れてると、体温が持っていかれる』
その言葉が、頭の中で何度も反響している。
「ねえ先輩」
「なあに」
「雨、好き?」
「……そうね」
芹香は、少し考えてから答えた。
「嫌いではないわ。音が落ち着くもの」
「わたしも」
朔夜は、窓の外を見つめながら、続けた。
「でも、この雨は、なんか、違う」
「ええ」
「冷たいっていうか、寂しいっていうか」
「…………」
「誰かを呼んでるみたいな」
芹香は、答えなかった。
ただ、膝の上の銃を握る手に、わずかに力を込めた。
その指先が、小さく震えていた。
「先輩」
「ええ」
「手」
朔夜は、右手を差し出した。
芹香は、一瞬きょとんとして、それから、ふっと微笑んだ。
その手を、取る。
細くて長くて少し乾いて、温かい指。
その温もりが、冷えた掌にじんわりと染みていく。
「あったかい」
「あなたの手も」
「えへへ」
運転席の男は、仕切り板の向こうで、微動だにせず前を向いていた。
その背中が、前回の男と同じように、何も語らなかった。
けれど、バックミラーの中の瞳が、一瞬だけ、こちらを見た気がした。
車が、止まった。
エンジンの唸りが、ふっと低くなって、止む。
静寂が落ちた。
屋根を叩く雨音だけが、ざあああと、途切れずに響いている。
「到着、しました」
男の声は、平坦だった。
「これより先は、徒歩でお願いします」
「ありがとうございます」
芹香が静かに頭を下げた。
「回収は」
「……定刻に、ここで待機します」
男は、一瞬だけ言葉を探した。
「ですが、日没を過ぎても、待ちます」
朔夜は、目を瞬いた。
芹香も、わずかに眉を上げた。
男は、バックミラーの中から、ほんの少しだけ、視線を逸らした。
「……霧原の件を、聞きましたので」
朔夜は、胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「いえ」
扉のロックが、かちりと外れた。
朔夜は、戦鎚の包みを抱えて、扉を押し開けた。
冷たい風と、雨の匂いが、一気に流れ込んできた。
*
雨は、見えない壁のようだった。
車を降りて、数十メートル歩いた先に、それは立っていた。
細い山道の途中。
左右を深い杉林に挟まれた、石段の上に。
古びた、苔むした石の鳥居が、雨に濡れて立っていた。
その手前の地面は、乾いていた。
砂利が白く、杉の葉が風に揺れている。
けれど、鳥居の向こうは。
滝のような雨が、降っていた。
灰色の、重たい、途切れることのない雨が、鳥居の内側の空間を、まるで巨大な水のカーテンのように、静かに、けれど猛然と満たしている。
その境界が、鳥居の柱の線でぴたりと分かれていた。
こちら側は晴れ。
向こう側は雨。
朔夜は、その光景に、息を呑んだ。
「……境界」
「ええ」
芹香が、低く答えた。
鳥居の根元の石柱に、細い注連縄が張られていた。
その縄が、ところどころ、ちぎれて、雨に濡れて垂れ下がっている。
結界の綻びだ。
「境界の石は、この先に十二基」
芹香が、手元の地図を広げた。
「そのうち三基が倒れている。まず確認しましょう」
「うん」
「雨具は」
「着てる」
「フードも」
「かぶる」
朔夜は、黒い雨合羽のフードを引き上げた。
黒髪のボブが、フードの内側にすっぽりと収まる。
戦鎚の包みを解いて、鋼の柄を握り直した。
革の巻かれた握りが、掌にしっとりと吸いつく。
その重みが、ずしりと腕に響いた。
芹香も、雨合羽のフードを深くかぶった。
銃を背に回して、拳銃を腰に収める。
二人は、顔を見合わせた。
「いい?」
「うん」
「何があっても」
「手を離さない」
「ええ」
朔夜は、芹香の手を、ぎゅっと握った。
そして、一歩を踏み出した。
鳥居の下を、くぐる。
その瞬間。
雨が、降ってきた。
いや。
雨の中に、入った。
頭上から、重たい水が叩きつけられた。
フードを打つ雨音が、ばらばらばらと激しく鼓膜を震わせる。
肩が、雨に押される。
雨合羽の表面を、水の筋が滝のように流れ落ちていく。
空気が、変わった。
冷たい。
湿っている。
そして、どこか、苔と、古い土と、錆の混じった、不思議な匂いがした。
朔夜は、顔を上げた。
灰色の空が、遠かった。
雨粒の向こうに、黒い杉の木々が、ぼんやりと霞んで立っている。
足元の地面は、すでにぬかるんでいた。
靴底が、ぬちゃり、と泥を踏む。
水たまりが、無数に広がっている。
その水面に、雨の波紋が、ぽつぽつと重なって、揺れていた。
「……すごい」
声が、雨音にかき消された。
芹香が、朔夜の耳元に顔を寄せて叫んだ。
「聞こえる?」
「聞こえる!」
「はぐれないで!」
「うん!」
二人は、手を繋いだまま、ぬかるんだ石段を下り始めた。
*
最初の境界の石は、石段を下りきった先の、小さな祠の脇にあった。
高さ一メートルほどの、細長い石柱。
表面には、苔がびっしりと生えて、その下に、薄れた文字が刻まれている。
『一』
朔夜は、その石に近づいて、雨合羽の袖で苔を拭った。
石は、倒れていなかった。
しっかりと地面に立っている。
けれど、その根元の土が、わずかに黒ずんでいた。
湿っているというより、濡れて光っている。
まるで、そこから、何かが滲み出しているかのように。
「異常なし、かな」
「いいえ」
芹香が、隣にしゃがみ込んで、石の根元に指を触れた。
「温かいわ」
「え」
「この石」
朔夜も、指を触れた。
確かに、石の表面が、ほんのりと温かかった。
雨に濡れて冷え切っているはずなのに。
「……生きてるみたい」
「ええ」
「この石、何かを閉じ込めてるのかな」
「その何かが、動き始めている」
芹香の声が、低く沈んだ。
二人は立ち上がって、次の石を目指した。
二基目、三基目。
どれも、倒れてはいなかったが、根元が黒く濡れ、ほんのりと温かかった。
四基目の石は、倒れていた。
林の中の、小さな空き地。
その中央に、石柱が、雨に打たれて横たわっている。
その周囲の地面が、広い範囲で、黒く染まっていた。
泥ではない。
黒く、艶やかな、水のような何かが、じわじわと地面に染み出している。
朔夜は、戦鎚を握る手に力を込めた。
「ここから、漏れてる」
「ええ」
「何が」
「分からないわ」
芹香が、石の周囲を慎重に歩いた。
銃口を地面に向けたまま、一歩ずつ。
「でも、これは」
「うん」
「普通じゃない」
朔夜は、石のそばにしゃがんで、黒い染みに、指先をそっと近づけた。
触れる寸前で、止めた。
触れてはいけない。
そんな直感が、背筋を凍らせた。
「先輩」
「ええ」
「これ、追っていけるかな」
芹香は、黒い染みの流れを目で追った。
染みは、空き地の端から、細い筋となって、林の奥へ続いていた。
雨の中で、艶やかに光る一本の黒い線。
まるで、何かが引きずった跡のように。
「追いましょう」
「うん」
「ただし、慎重に」
「分かってる」
二人は、手を繋いだまま、黒い筋に沿って、林の奥へ進み始めた。
雨音が、ざあああと耳を満たしている。
足元の泥が、ぬちゃり、ぬちゃり、と鳴る。
木々の間を、白い靄が漂っている。
その靄の中を、二人の影が、ぼんやりと滲んで進んでいく。
どれほど歩いただろうか。
雨のせいで、時間の感覚が曖昧になっていた。
肩が冷たい。
手が悴んでいる。
けれど、芹香の指だけが、変わらずに温かかった。
その温もりを頼りに、朔夜は歩き続けた。
やがて、前方の靄の向こうに、ぼんやりと、何かが見えた。
石だった。
古い、苔むした、丸い石。
人の背丈ほどの。
いや、違う。
それは、地蔵だった。
雨に濡れた石の地蔵が、道の脇に一体、ぽつんと立っている。
首には、色褪せた赤い前掛けが掛けられていた。
その足元に。
何かが、座っていた。
朔夜は、足を止めた。
芹香の手が、強く握り返してきた。
靄の中に、小さな影が、ぼんやりと浮かんでいる。
地蔵の足元の、苔むした石段に、膝を抱えて座っている。
白い、薄い着物のようなものを着ていた。
雨に濡れて、肌に貼りついている。
裸足だった。
小さな足が、泥にまみれている。
髪は、白に近い銀色で、雨に濡れて肩に張りついていた。
子供だ。
七歳か、八歳か。
細い、壊れそうな体つきの。
朔夜は、息を止めた。
『雨の中に、子供がいる。裸足。ひとりで。』
あの走り書きが、頭の中で鮮明に蘇った。
「……いた」
囁きが、雨音に溶けた。
「先輩」
「ええ。見えているわ」
「どうする」
「そっと」
芹香の声は、静かだった。
「驚かせないで。ゆっくり」
「うん」
朔夜は、戦鎚を腰の金具に掛けた。
両手を空にして、子供のほうへ、ゆっくりと歩み寄った。
一歩。
また一歩。
雨が、フードを叩く。
ぬかるんだ泥が、靴底に絡みつく。
子供は、動かなかった。
膝を抱えたまま、うつむいている。
白銀の髪が、雨に濡れて、顔を隠していた。
三メートルの距離まで近づいたとき、朔夜は、そっと声をかけた。
「こんにちは」
子供の肩が、ぴくりと震えた。
「雨、冷たいよね。そこにいたら風邪ひいちゃうよ」
子供は、答えなかった。
「わたし、朔夜っていうの。隣の人は、芹香先輩」
「…………」
「怖くないよ。何もしないから」
朔夜は、その場にしゃがみ込んだ。
目線を、子供の高さに合わせる。
雨が、背中を叩いている。
泥が、膝を濡らしている。
けれど、そんなことは、どうでもよかった。
「ねえ」
朔夜は、囁いた。
「顔、見せてくれる?」
長い沈黙が落ちた。
雨音だけが、ざあああと続いている。
やがて。
子供が、ゆっくりと、顔を上げた。
濡れた白銀の髪の隙間から、小さな顔が覗いた。
白い、透き通るような肌。
薄い唇。
そして。
目が、あった。
朔夜は、息を呑んだ。
左右で、色が違っていた。
左の瞳は、琥珀色だった。
あたたかな、陽だまりのような、あの色。
朔夜自身の瞳と、まったく同じ色。
そして、右の瞳は。
淡い、淡い、銀青色だった。
雨空のような。
水底のような。
どこまでも深く、静かで、そして、どこか寂しげな色。
オッドアイ。
その二つの異なる色が、雨の薄闇の中で、微かに光を宿して、朔夜をじっと見つめていた。
朔夜の胸の奥で、残り火が、どくん、と大きく跳ねた。
まるで、長い間探していた何かを見つけたように。
あるいは、懐かしい誰かの名前を、呼ばれたように。
「…………」
子供の唇が、微かに動いた。
雨音に紛れて、ほとんど聞こえないほどの、小さな声だった。
「……おねえちゃん」
朔夜は、目を見開いた。
「……おなじ、におい」
「え」
「おねえちゃんから、おなじ、におい、する」
子供の左の琥珀色の瞳が、ゆらりと揺れた。
「あれ、と、おなじ」
朔夜の背筋が、ぞくりと凍りついた。
「あれ?」
「…………」
「あれって、何?」
子供は、答えなかった。
ただ、その小さな指が、ゆっくりと持ち上がった。
朔夜の背後を、指差している。
朔夜は、反射的に振り返った。
芹香が、すぐ後ろに立っていた。
その後ろの、雨の靄の向こう。
林の奥の、暗がりの中に。
何かが、立っていた。
長い、細い、黒い影が。
人の形をしていた。
けれど、人よりもずっと背が高く、ずっと細く、そして、輪郭が、雨に溶けるように揺らいでいる。
顔が、見えなかった。
ただ、そこに、立っている。
雨の中で。
雨に濡れることなく。
その周囲だけ、雨粒が、ぽっかりと避けるように、降っていなかった。
「先輩」
朔夜の声が、掠れた。
「後ろ」
芹香が、ゆっくりと振り返った。
灰茶色の瞳が、細く、鋭くなる。
その手が、腰の拳銃にそっと触れた。
「……動かないで」
「うん」
「刺激してはだめ」
影が、動いた。
一歩。
足音は、なかった。
泥を踏む音も、雨を割る音もなく、ただ、すうっと、こちらへ滑るように。
その後ろに、もう一つ。
さらにもう一つ。
林の奥の暗がりから、同じ形の影が、一つ、また一つと、静かに現れ始めた。
三つ。
五つ。
七つ。
黒く細い影の列が、雨の中で、無言のまま、こちらへ向かってくる。
「……何、これ」
「分からないわ」
芹香の声は、冷たく研ぎ澄まされていた。
「でも、囲まれつつあるわ」
その瞬間だった。
朔夜の袖を、小さな手が、きゅっと掴んだ。
冷たい。
氷のように冷たい指だった。
けれど、確かな感触があった。
触れている。
触れているのだ。
朔夜は、振り向いた。
子供が、朔夜の袖を握りしめていた。
白銀の髪が雨に濡れて、顔に張りついている。
左右の異なる瞳が、怯えたように揺れていた。
「……あれ、くる」
「うん」
「つかまる」
「うん」
「つかまったら」
子供の唇が、震えた。
「ひとりに、なる」
朔夜の胸が、きゅうと締めつけられた。
ひとり。
その言葉が、あの白鷺堂の老婆の言葉と、重なった。
寂しがるんだよ。
ひとりで眠るのが怖いって。
「大丈夫」
朔夜は、子供の冷たい手を、両手で包み込んだ。
「わたしが、ひとりにしないよ」
「…………」
「触れてるから、本物でしょ」
子供の瞳が、ほんの少し、見開かれた。
「ほんもの」
「うん。わたしも、あなたも、本物」
朔夜は、にっと笑った。
雨に濡れた頬で。
震える唇で。
それでも、陽だまりのような笑顔で。
「先輩、この子、連れて行く」
「ええ」
芹香は、迷わなかった。
「そう言うと思っていたわ」
「ごめん」
「謝らないで」
芹香の瞳が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
「朔夜ちゃんの選択を、信じるわ」
影が、五メートルの距離まで迫っていた。
雨が、避けている。
その空間だけ、音が消えている。
朔夜は、子供を抱き上げた。
軽かった。
驚くほど、軽くて、冷たかった。
小さな両腕が、朔夜の首に、ぎゅっとしがみついてくる。
濡れた白銀の髪が、頬に触れた。
「しっかり、掴まってて」
「…………うん」
「先輩、道は」
「来た道を戻るわ。ただし」
芹香は、地図を雨合羽の内側に仕舞って、背中から長い銃を引き抜いた。
「追いつかれる前に、あの鳥居まで」
「分かった」
「走れる?」
「走る」
朔夜は、戦鎚の柄を片手で握り直した。
子供を抱えたまま、泥を蹴って、駆け出した。
雨が、顔を叩く。
泥が、脛に跳ねる。
背後で、芹香の足音が、ぴたりと並走してくる。
影たちが、動き出した気配がした。
音はない。
けれど、背筋を撫でる冷気が、一気に濃くなった。
背後から、無数の見えない手が、ゆっくりと伸びてくるような感覚。
雨音の向こうで、何かが、囁いた。
――かえして。
朔夜の足が、一瞬だけ、止まりかけた。
腕の中の子供が、ぎゅっとしがみついてきた。
「……きいちゃ、だめ」
「うん」
「こたえちゃ、だめ」
「分かってる」
朔夜は、歯を食いしばって、前を見た。
雨の向こうに、鳥居の赤い柱が、ぼんやりと見え始めていた。
あそこまで。
あそこまで行けば。
けれど、その鳥居の前の地面が、さっきとは違っていた。
黒く、艶やかに光っている。
あの染みが。
地面全体に、広がっていた。
黒い水が、鳥居の石段を、ゆっくりと呑み込んでいる。
「……先輩」
「ええ。見えているわ」
「出口が」
「閉じかけている」
芹香の声が、わずかに震えた。
背後の影が、すぐそこまで迫っていた。
前方の出口が、黒い水に呑まれていく。
朔夜は、腕の中の子供を、さらに強く抱きしめた。
その小さな身体が、冷たく、震えている。
胸の奥の残り火が、ちりりと、疼いた。
まるで、この子と、呼応するように。
その共鳴が、どんどん強くなっていく。
雨の降る谷に、琥珀色と銀青色の二つの光が、ほんの一瞬、同時に瞬いた気がした。
――第4章 Part 2/4 へ続く
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