第4章 ― 雨の境界と、片目の子2
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
足が泥に沈むたびに、膝の裏へ冷たいものが這い上がってきた。
ぬちゃり。
ぬちゃり。
靴底が地面を掴んで、引き剥がして、また踏み込む。
その単調な動きを、朔夜は呼吸と同じ拍子で繰り返していた。
吸って、二歩。
吐いて、二歩。
雨合羽の内側は、すでに汗と雨水でぐっしょりと濡れている。
フードの縁を叩く雨音が、ばらばらばらと鼓膜を震わせて、他の音をほとんど押し潰していた。
腕の中の子供は、驚くほど軽かった。
白銀の髪が頬に張りつき、冷たい額が朔夜の首筋に押しつけられている。
小さな両腕が、首にぎゅっと巻きついていた。
その腕が、ずっと震えている。
けれど、震えの奥に、かすかな温もりが宿り始めていることに、朔夜は気づいていた。
最初は氷のようだった肌が、触れ合っているうちに、少しずつ、ほんの少しずつ、人の体温に近づいていく。
(……生きてる)
胸の奥で、そっと呟いた。
(この子、ちゃんと、生きてる)
「朔夜ちゃん、左!」
芹香の声が、雨音を切り裂いて飛んだ。
朔夜は考えるより先に身体を右へ傾けた。
その直後、左の杉の幹の陰から、黒い細い影が、すうっと滑り出てきた。
足音はない。
泥を踏む気配もない。
ただ、そこに、いきなり、立っていた。
輪郭が雨に溶けるように揺らいでいる。
人の形をしているのに、頭の位置があまりにも高く、腕があまりにも長く、そして顔には、何もなかった。
目も、鼻も、口もない。
黒く塗り潰された曲面が、雨の灰色の景色の中で、そこだけ切り抜かれたように浮かんでいる。
その周囲では、雨が降っていなかった。
降っていないというより、雨粒がその影に触れた瞬間に、吸い込まれて消えているのだ。
ぽつり、と影の肩に落ちた雫が、波紋も残さず、音もなく、闇の中へ呑み込まれていく。
朔夜は、その光景に、背筋を凍らせた。
(……雨の、抜け殻)
直感が、そう囁いた。
この影は、雨の中にいるのではない。
雨そのものの、空っぽの部分なのだ。
影の長い腕が、ゆっくりと持ち上がった。
朔夜の頬へ、指先が伸びてくる。
「させない」
銃声が響いた。
ぱん。
乾いた、鋭い音。
背後から放たれた通常の魔導弾が、影の胸の中心を貫いた。
青白い光が弾けて、影の身体がぐにゃりと歪む。
けれど、それだけだった。
穴は、すぐに塞がった。
波紋のように揺れた黒い輪郭が、数秒で元の形に戻っていく。
「効かない」
芹香の声が、短く冷たく響いた。
「物理的な弾丸では、散らすのが精一杯ね」
「うん!」
朔夜は戦鎚の柄に手をかけかけて、すぐに離した。
腕の中の子供を抱えたまま、片手で振るうには重すぎる。
「走って!」
芹香が叫んだ。
「私が牽制するわ!」
「うん、お願い!」
朔夜は、影の脇をすり抜けて駆け出した。
背後で、連続した銃声が弾ける。
ぱん、ぱん、ぱん。
そのたびに、青白い光が雨の幕を照らして、影の輪郭を揺らがせる。
足音が、ぴたりと隣に並んだ。
芹香が追いついてきたのだ。
雨合羽のフードの下で、灰茶色の瞳が鋭く光っている。
肩の長い銃を構え直しながら、後ろ向きに走っている。
「数は」
「七つ、いえ、増えている」
「えっ」
「林の奥から、次々と」
朔夜は、横目で後ろを見た。
雨の靄の向こうに、黒い影の列が見えた。
最初は七つだった。
いまは、十を超えている。
杉の幹の陰から、岩の裏から、ぬかるんだ地面の窪みから、同じ形の影が、静かに、静かに、湧き出してくる。
どれも、無言だった。
どれも、顔がなかった。
そして、どれも、朔夜の腕の中の子供のほうへ、ゆっくりと、頭を傾けていた。
「……あの子を、探してる」
「ええ」
「連れ戻したいんだ」
「そう見えるわね」
芹香の声が、わずかに低くなった。
「でも、連れ戻したあとに何が起きるのかは、分からない」
朔夜は、腕の中の小さな身体を、ぎゅっと抱きしめた。
子供の唇が、首筋の近くで、微かに動いた。
「……おねえちゃん」
「うん」
「ぼく、かえりたく、ない」
「うん」
「あそこ、ひとり」
朔夜の胸が、きゅうと締めつけられた。
「分かってる」
囁いた。
「わたしが、ひとりにしないから」
子供の腕が、さらに強くしがみついてきた。
その小さな身体の奥から、微かな、けれど確かな鼓動が、とくとくと伝わってくる。
その鼓動が、朔夜自身の心臓の音と、いつの間にか重なっていた。
とく。
とく。
とく。
同じ拍で。
胸の奥の残り火が、ほんの少しだけ、温かく脈打った。
*
鳥居が、見えてきた。
雨の向こうに、赤い柱が、ぼんやりと滲んで立っている。
あと五十メートル。
四十メートル。
けれど、その手前の石段が、すでに黒く染まっていた。
黒い水が、石段の下から上へ、じわじわと這い上がっている。
艶やかな、油のような、深い闇の色をした水。
雨が降り注いでも、その水面には波紋ができなかった。
雨粒が、ただ吸い込まれていくだけ。
その黒い水が、鳥居の柱の根元を、ゆっくりと呑み込み始めている。
あの向こうの、乾いた砂利が、白く、遠く、まるで別の世界のように見えた。
「……出口が」
「ええ」
芹香の呼吸が、荒くなっている。
「このままでは、全部沈むわ」
「走りきれるかな」
「走るしかないわ」
朔夜は、奥歯を噛みしめて、足に力を込めた。
泥が飛ぶ。
雨が顔を叩く。
胸の奥の残り火が、ちりりと熱を帯びてきた。
その熱が、いつもの暴れ出す前触れではなく、まるで背中を押してくれる掌のように感じられた。
(……お願い)
心の中で、語りかけた。
(もう少しだけ、手を貸して)
石段まで、あと三十メートル。
そのとき。
前方の杉の幹の陰から、一つの影が、すっと現れた。
石段の手前、鳥居へ続く道の真ん中に。
朔夜たちの進路を塞ぐように、静かに立っている。
その背後に、もう一つ。
さらにもう一つ。
回り込まれたのだ。
追ってくる影たちだけではなかった。
最初から、前方にも、潜んでいた。
「囲まれた」
芹香が、短く呟いた。
前方に三つ。
後方に十以上。
左右の林の暗がりにも、黒い輪郭が、ぼんやりと揺れている。
朔夜は、足を止めた。
腕の中の子供が、怯えて、ぎゅっと目を閉じた。
その白銀の髪が、雨に濡れて朔夜の頬に張りついている。
「……ごめん」
朔夜は、囁いた。
「ちょっとだけ、ここに立ってて」
「え」
「大丈夫。すぐ戻る」
朔夜は、子供を、そっと地面に降ろそうとした。
けれど、子供は、朔夜の首にしがみついたまま、離れなかった。
「いや」
小さな声が、震えた。
「ひとり、いや」
「…………」
「はなさないで」
朔夜は、息を呑んだ。
子供の左の琥珀色の瞳が、雨の薄闇の中で、涙のように揺れていた。
右の銀青色の瞳は、深い水底のように、静かにこちらを見つめている。
朔夜は、降ろそうとした腕を、ゆっくりと戻した。
そして、子供の背中に、もう一方の手も回した。
「……うん」
「…………」
「離さないよ」
朔夜は、笑った。
雨に濡れた頬で。
震える唇で。
それでも、陽だまりのような笑顔で。
「じゃあ、一緒に行こう」
「いっしょ」
「うん。一緒に」
朔夜は、顔を上げた。
前方の影が、一歩、近づいてきた。
足音はない。
けれど、その接近に合わせて、空気がひやりと冷えていく。
雨の音が、遠のいていく。
その影の周囲だけ、世界から音が剥がれ落ちていく。
「朔夜ちゃん」
芹香の声が、すぐ隣で響いた。
「ボルトを引く時間が欲しいわ」
「位相干渉弾?」
「ええ。一発だけ、装填する」
「どのくらい」
「三秒」
朔夜は、頷いた。
「三秒、稼ぐ」
「お願い」
「うん」
朔夜は、右腕で子供を抱えたまま、左手で、腰の戦鎚を引き抜いた。
ずる、と鋼が金具から滑る音。
片手には、あまりにも重い。
けれど、その重みが、掌に確かな支えとして返ってきた。
革の巻かれた握りが、雨に濡れて、しっとりと吸いつく。
柄に刻まれた抑制の刻印が、ほんのり温かい。
「……いくよ」
朔夜は、泥を蹴った。
前方の影へ向かって。
戦鎚を、横薙ぎに振る。
鋼の鎚頭が、空気を切り裂く。
ごおっ。
影の胸のあたりを、まっすぐに叩いた。
けれど、手応えがなかった。
鎚頭は、影の身体を、すうっと通り抜けた。
まるで、水面に棒を振ったかのように。
「っ」
勢いが殺されずに、身体が泳いだ。
その隙を突いて、影の長い腕が、朔夜の肩へ、伸びてきた。
冷たい指先が、雨合羽の上から、触れた。
その瞬間。
世界が、白く、ぷつんと、途切れた。
*
音が、消えた。
雨音も。
泥の匂いも。
腕の中の子供の重みも。
全てが、遠い、遠い、水の底へ沈んでいく。
朔夜は、自分が何をしていたのか、一瞬、分からなくなった。
(……わたし)
(何を、してたんだっけ)
白い空白の中に、ぽつんと立っている。
誰かが、隣にいたはずだった。
温かい手を、握ってくれていた人が。
灰茶色の瞳をした。
栗色の髪をした。
(……あれ)
(名前)
胸の奥が、すうっと、冷えた。
(名前が、出てこない)
(あの人の、名前)
呼ぼうとして、喉が詰まった。
口の形だけが、空しく動く。
(せ……)
(せ、り)
(だめ、思い出せない)
恐怖が、背筋を駆け上がった。
名前を、奪われている。
この影に触れられた瞬間に、一番大切な言葉が、ごっそりと抜き取られていく。
朔夜は、必死に目を凝らした。
白い空白の向こうに、何かが見えた。
小さな、光。
琥珀色の。
あたたかな、陽だまりのような色の。
その光が、ゆっくりと、近づいてくる。
そして、その隣に、もう一つ。
淡い、銀青色の光が。
水底のように静かな、涼やかな色の。
二つの光が、重なった。
その中心から、声が聞こえた。
「……おねえちゃん」
小さな、震える声だった。
「おねえちゃん、きこえる?」
朔夜は、頷いた。
声が出なかったので、心の中で、必死に頷いた。
「ぼくの、め、みて」
二つの光が、朔夜の目の前で、大きく、大きく、広がった。
琥珀色。
銀青色。
その二つの色が、渦を巻いて、混じり合って、朔夜の胸の奥の、深い場所に流れ込んでくる。
そこに、あの子が、いた。
残り火。
名前のない色の、小さな、小さな、光。
その光が、二つの色に触れて、ぱあっと、輝いた。
(……あ)
思い出した。
白い空白が、一気に破れた。
雨音が、泥の匂いが、腕の中の重みが、全部、一斉に戻ってきた。
朔夜は、はっと目を見開いた。
「せ、芹香先輩!」
叫んでいた。
その名前が、舌の上で、鮮やかに蘇った。
「芹香先輩!」
「朔夜ちゃん!?」
隣で、芹香の鋭い声が返ってきた。
肩には、あの温かい掌が置かれていた。
触れている。
触れているのだ。
「大丈夫、ここにいるわ」
「うん、うん、いる、いるよね」
「ええ。落ち着いて」
朔夜は、荒く息を吐いた。
腕の中の子供が、朔夜の首に顔を埋めたまま、小さく震えている。
その右の銀青色の瞳が、うっすらと光を宿していた。
あの子が、呼び戻してくれたのだ。
朔夜の頬に、影の指先が触れそうな距離にあった。
冷気が、肌をなぞる。
けれど、その指は、もう触れてこなかった。
子供の瞳の光に、怯むように、ほんの少しだけ、動きを止めている。
「……ありがとう」
朔夜は、子供の耳元で囁いた。
「助けてくれて」
「…………」
「ごめんね。怖かったよね」
子供は、小さく首を振った。
「おねえちゃん、あったかい」
「え」
「ぼくのひかり、おねえちゃんの、なかに、ある」
朔夜は、目を瞬いた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
その温かさが、さっきよりも、ずっと強くなっている。
琥珀色と銀青色の二つの光が、まだ朔夜の中で、ゆらゆらと揺れていた。
「……共鳴、してる」
「きょうめい」
「うん。あなたの目と、わたしの中の子が」
朔夜は、戦鎚の柄を、握り直した。
その瞬間、鋼の柄に刻まれた刻印が、ふわりと光った。
淡い、琥珀色の光。
それから、すうっと、銀青色が混ざる。
二つの色が、刻印の細い線に沿って、静かに流れ始めた。
朔夜の腕を通して、柄から鎚頭へ。
鋼の鎚頭が、淡く、二色の光に染まっていく。
「……すごい」
声が漏れた。
「先輩、見て」
「見えているわ」
芹香の声が、わずかに震えた。
「それは」
「うん」
「あの子の力と、あなたの力が、手を取り合っている」
朔夜は、顔を上げた。
前方の影が、ゆっくりと、再び腕を持ち上げた。
けれど、さっきまでとは違う。
朔夜の恐怖は、もう、そこになかった。
「……今度は、通るよ」
囁いた。
戦鎚を、頭上に振りかぶった。
鎚頭が、二色の光を纏って、雨の薄闇の中で、静かに輝いている。
琥珀色。
銀青色。
その光が、ぽつぽつと降り注ぐ雨粒に触れて、細かな虹の粒になって弾けた。
「ごめんね」
朔夜は、影に向かって、小さく呟いた。
「あなたも、泣いてるのかもしれないけど」
「…………」
「いまは、通してもらうよ」
朔夜は、戦鎚を振り下ろした。
鎚頭が、影の肩口に触れた。
その瞬間。
音もなく、静かに、空間が軋んだ。
ぱき。
あの、ガラスの割れるような、微かな音。
影の黒い輪郭に、細い、白い亀裂が走った。
その亀裂が、ぐんぐんと広がって、影の全身を覆った。
そして、影は、内側から光を放って、ふわりと崩れた。
黒い輪郭が、無数の雨粒になって、はらはらと降り注ぐ。
ただの、冷たい雨水に戻って。
その水が、泥の地面に落ちて、ぱしゃりと小さな音を立てた。
「…………通った」
朔夜は、息を呑んだ。
戦鎚の鎚頭から、淡い光が、静かに薄れていく。
けれど、その手応えは、確かだった。
物理的な打撃ではなく。
破壊でもなく。
ただ、影が影であるための「境目」を、そっと、ほどいた感触。
「朔夜ちゃん、後ろ!」
芹香の叫びが響いた。
朔夜は、振り向いた。
後方から、十を超える影が、ゆっくりと、取り囲むように迫っていた。
その距離は、すでに十メートルを切っている。
「ボルト、完了」
芹香が、静かに告げた。
肩の長い銃から、かちゃり、と重い金属音が響いた。
薬室に、真鍮色の弾が、ゆっくりと送り込まれる。
位相干渉弾。
三発のうちの、一発目。
「撃つわ。どこを」
「先頭の影じゃなくて」
朔夜は、素早く、状況を見渡した。
影たちの列の中央に、一回り大きな影が立っていた。
他の影よりも背が高く、輪郭がより濃く、その周囲の雨が、より深く吸い込まれている。
その影を中心にして、他の影たちが、扇状に広がって追ってきている。
「あの、真ん中の」
「ええ。見えているわ」
「あれが、たぶん、指揮役」
「分かった」
芹香の指が、引き金にかかった。
灰茶色の瞳が、雨の薄闇の中で、鋭く、凪いだ。
「あの影の拍を、ずらす」
「うん」
「その間に、あなたは道を開いて」
「道」
「鳥居までの道を」
朔夜は、前方を見た。
黒い水が、石段の半ばまで、這い上がっていた。
その黒い水面を、戦鎚で割る。
そんなことが、できるだろうか。
胸の奥の残り火が、とくんと脈打った。
腕の中の子供が、朔夜の首に、そっと頬を寄せた。
「おねえちゃん、できる」
「え」
「ぼく、てつだう」
その小さな声が、あまりにも確信に満ちていて、朔夜は、思わず笑った。
「うん。じゃあ、お願い」
「うん」
「先輩」
「ええ」
「三、二、一で」
「ええ」
朔夜は、戦鎚を両手で握り直した。
子供は、朔夜の首に左腕を巻きつけたまま、右手をそっと戦鎚の柄に添えた。
その小さな手が、冷たく、けれど確かに、柄に触れた。
鋼の柄が、ぱっと、二色の光を放った。
「三」
芹香の声が、静かに響いた。
「二」
朔夜は、息を吸った。
肺の底まで、冷たい雨の空気を満たす。
「一」
銃声が、鳴った。
ぱん。
乾いた、小さな、けれど、世界のあらゆる音を一瞬で貫く音。
白い光の糸が、雨の幕を縫って、まっすぐに、影の列の中央へ飛んだ。
大きな影の胸を、貫く。
その瞬間、影たちの動きが、一斉に、乱れた。
足音のない足取りが、ずれる。
扇形の陣形が、ばらばらに崩れる。
黒い輪郭が、波打つように揺らいで、互いにぶつかり合って、動きを止めた。
その隙に、朔夜は、前へ踏み出した。
黒い水の、前に。
石段の下の、ぬかるんだ地面に。
戦鎚を、頭上に振り上げる。
鎚頭が、二色の光を纏って、ゆっくりと輝きを増していく。
その光が、朔夜の顔を、琥珀色と銀青色に染めた。
(……お願い)
(割って)
(雨を)
(境目を)
腕の中の子供が、朔夜の耳元で、囁いた。
「いまだよ」
朔夜は、戦鎚を振り下ろした。
黒い水面に。
鎚頭が、触れる。
音は、なかった。
衝撃も、なかった。
ただ、世界が、一瞬、ぴたりと静止した。
雨粒が、空中で止まる。
黒い水面が、波紋の形のまま、凍りつく。
そして。
ぱき。
小さな、澄んだ音が、一度だけ響いた。
黒い水面の中央に、細い一本の亀裂が走った。
その亀裂が、ぐんぐんと、左右へ、前方へ、広がっていく。
次の瞬間、雨が、割れた。
文字通り、雨の幕が、真ん中から、二つに裂けた。
黒い水が、左右へ退いていく。
降り注いでいた雨粒が、見えない壁に押し返されるように、道の両側へ、さあっと分かれていく。
その真ん中に。
乾いた、白い砂利の道が、まっすぐに、鳥居へ向かって、現れた。
幅は、およそ五メートル。
長さは、鳥居まで、二十メートルほど。
その道の両側に、雨の壁が、静かに聳えている。
まるで、海を二つに割った、古い物語のように。
「……道、できた」
朔夜は、息を呑んだ。
「できたわ」
芹香の声が、震えていた。
「行きましょう!」
「うん!」
二人は、乾いた砂利の道へ、駆け込んだ。
靴底が、乾いた石を踏む。
ざり、ざり、と、軽やかな音。
さっきまで、ぬかるみで重かった足が、嘘のように軽くなった。
雨の壁が、すぐ両脇を流れている。
冷たい水の匂いが、鼻をくすぐる。
けれど、一滴も、二人の上には落ちてこなかった。
「あと二十メートル!」
「十五!」
「十!」
朔夜は、子供を抱きしめて、全力で走った。
背後で、影たちの気配が、再び動き出した。
芹香の位相干渉弾で乱れた拍が、ゆっくりと、整い直されていく。
冷気が、背中を撫でる。
けれど、雨の壁の隙間は、影たちにとって、踏み込めない領域のようだった。
乾いた道の入口で、黒い影たちが、ぴたりと止まっていた。
その空っぽの顔が、道の向こうの朔夜たちを、じっと見つめている。
まるで、行かせたくない、と訴えるように。
けれど、その手は、伸びてこなかった。
「五!」
芹香が叫んだ。
「四!」
「三!」
朔夜は、鳥居の赤い柱が、目の前に迫るのを見た。
石段の上。
乾いた砂利。
その向こうに、杉林の隙間から差し込む、淡い、本物の光。
「二!」
「一!」
二人は、同時に、鳥居の下へ、跳び込んだ。
足が、石段を蹴る。
身体が、空中に浮く。
雨の壁の縁を、すり抜ける。
赤い柱の影を、通り抜ける。
そして。
着地した。
ざり、と砂利が鳴った。
その瞬間、雨音が、ぷつりと途切れた。
世界が、静かになった。
*
朔夜は、膝から崩れ落ちた。
砂利の上に、両膝をついて、荒い息を吐いた。
肺が、焼けるように熱い。
足が、笑っている。
腕の中の子供は、朔夜の首にしがみついたまま、動かなかった。
「……だいじょうぶ?」
朔夜は、掠れた声で尋ねた。
「…………」
返事がない。
朔夜の胸が、きゅうと縮んだ。
子供の顔を、そっと覗き込む。
白銀の髪が、濡れて顔に張りついている。
左右の異なる瞳が、閉じていた。
長い睫毛が、白い頬に、細い影を落としている。
胸が、微かに上下していた。
「……眠ってる」
芹香が、隣で静かに呟いた。
「疲れきったのね」
「うん」
朔夜は、子供の背中を、そっと撫でた。
小さな背中が、規則正しく、穏やかに上下している。
その温もりが、掌にじんわりと染みた。
最初は氷のように冷たかった身体が、いまは、はっきりと、人の子の温かさを宿している。
「よかった」
朔夜は、ほうと息を吐いた。
肩の力が抜けた。
芹香が、朔夜の隣に、どさりと膝をついた。
長い銃を砂利の上に置いて、両手で、朔夜の肩をぎゅっと掴んだ。
「朔夜ちゃん」
「うん」
「怪我は」
「ない、と思う」
「本当に?」
「うん。ちょっと、手がしびれてるだけ」
「見せて」
芹香は、朔夜の両手を取って、掌をひっくり返した。
冷え切った指先が、赤く腫れている。
爪の間に、泥が詰まっていた。
けれど、傷は、なかった。
芹香は、その手を、自分の両手で包み込んだ。
細くて長い指が、ゆっくりと、朔夜の冷えた掌を温めていく。
「……よかった」
芹香の声が、震えていた。
「本当に、よかった」
「先輩」
「名前を、呼ばれなかったから」
朔夜は、目を瞬いた。
「え」
「あなたが、影に触れられたとき」
芹香は、唇を噛んだ。
「あなたの目が、虚ろになった」
「…………」
「私の声も、届いていないようだった」
「うん」
「怖かったわ」
朔夜は、胸が締めつけられるのを感じた。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも、先輩の名前、一瞬、思い出せなくなっちゃって」
芹香の手が、ぴたりと止まった。
灰茶色の瞳が、大きく見開かれた。
「……思い、出せなく」
「うん。でも、この子が」
朔夜は、腕の中の子供を、そっと示した。
「この子の目が、わたしを、呼び戻してくれた」
芹香は、しばらく黙っていた。
雨の降り注ぐ鳥居の向こうを、静かに見つめている。
その瞳の奥に、複雑な光が、ゆらゆらと揺れていた。
「……そう」
「うん」
「それなら」
芹香は、小さく息を吐いた。
「この子は、あなたの、恩人ね」
「うん」
「大切にしなければ」
「うん」
朔夜は、笑った。
涙が、頬を伝っていた。
雨ではない。
温かい涙だった。
その直後。
「……先輩」
朔夜の声が、掠れた。
「ええ」
「あれ」
朔夜は、鳥居の向こうを、指さした。
雨の幕が、まだ降り注いでいる。
鳥居の内側の、灰色の世界。
そこに、黒い影たちが、立っていた。
十を超える空っぽの顔が、静かに、こちらを見つめている。
けれど、彼らは、鳥居を越えてこなかった。
結界の境界線の、手前で、ぴたりと止まっている。
「……越えられない」
「ええ」
「まだ」
芹香の声が、低く沈んだ。
「まだ、ね」
朔夜は、目を凝らした。
その視線の先で、鳥居の根元の石柱に張られた注連縄が、ぱちり、と音を立てて、また一本、千切れた。
ぱち。
ぱち、ぱち。
縄の繊維が、一本ずつ、ほどけていく。
結界の綻びが、見る見るうちに、広がっていく。
そして、鳥居の内側の雨が、ゆっくりと、ゆっくりと、外側へ、滲み出し始めた。
境界線の砂利の上に、ぽつり、と雫が落ちた。
ぽつり、ぽつり、ぽつり。
乾いていた白い砂利が、一粒ずつ、濡れた黒に染まっていく。
雨が、鳥居を越えたのだ。
「……先輩」
「ええ」
「境界が」
「動いている」
芹香は、立ち上がった。
長い銃を肩に掛け直して、朔夜の腕を引いた。
「立って。車まで下がるわよ」
「うん」
朔夜は、子供を抱いたまま、よろよろと立ち上がった。
足が、まだ笑っている。
けれど、腕の中の小さな温もりが、朔夜を前へ押してくれた。
二人は、砂利の道を、駆け足で戻り始めた。
背後で、雨音が、少しずつ、近づいてくる。
さあああ。
さあああ。
その音は、まるで、何かが、追いかけてくるような響きを帯びていた。
朔夜は、一度だけ、振り返った。
鳥居の向こうの雨の中で、黒い影たちが、静かに、静かに、こちらを見つめている。
そして、その最前列に、さっきの大きな影が、一歩、また一歩と、境界線へ近づいていた。
その空っぽの顔に、口はない。
けれど、朔夜には、聞こえた。
雨音の向こう側で。
遠く、微かに、囁くような声が。
――かえして。
――かえして。
――わたしたちの。
朔夜は、腕の中の子供を、ぎゅっと抱きしめた。
その小さな頭に、頬を寄せた。
「大丈夫」
囁いた。
「わたしが、ここにいる」
「…………」
「ひとりにしないよ」
眠っているはずの子供の唇が、微かに動いた気がした。
その左の琥珀色の瞼が、ほんの一瞬、ぴくりと震えた。
雨の降る谷に、風が吹き始めた。
その風の中に、湿った、冷たい、どこか懐かしい匂いが混じっていた。
遠くで、雷が、低く唸った。
結界の向こうの空が、どす黒く、渦を巻いている。
その下で、四十年間止まなかった雨が、いまや、世界を呑み込もうとするかのように、静かに、広がり始めていた。
――第4章 Part 3/4 へ続く
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