第4章 ― 雨の境界と、片目の子3
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
砂利を蹴る足音が、背後の雨音に追いつかれそうになっていた。
さあああ。
さあああ。
それは鳥居の内側で降り続けていたあの重たい雨とは、少しだけ質の違う音だった。
もっと軽く、もっと静かで、そして何かを探すように、地面の上をゆっくりと這っている。
朔夜は振り返らなかった。
振り返れば、足が止まってしまいそうだったからだ。
腕の中の子供は、眠ったまま朔夜の首に顔を埋めている。
濡れた白銀の髪が頬に触れるたびに、冷たい雫が襟の内側へ伝い落ちた。
けれど、その身体は確かに温かくなってきていた。
小さな胸が、とくとくと鼓動を刻んでいる。
その拍が、朔夜自身の心臓の音と、いつの間にか完全に重なっていた。
「朔夜ちゃん、あと少しよ」
隣を走る芹香が、息を弾ませながら言った。
長い銃を背に回し、片手で朔夜の肘を支えている。
灰茶色の瞳が、前方の杉林の切れ間を鋭く見据えていた。
その切れ間の向こうに、黒い車体が見えた。
エンジンがかかっている。
白い排気が、冷えた空気の中でゆらゆらと立ち昇っていた。
運転席の扉が、勢いよく開いた。
黒い制服の男が、車から飛び出してきた。
蒼白な顔で、こちらへ駆け寄ってくる。
「ご無事ですか!」
「ええ!」
芹香が叫び返した。
「後部座席を開けて! すぐに出します!」
「は、はい!」
男は転がるように車へ戻って、後部座席の扉を引き開けた。
朔夜は、子供を抱えたまま、シートへ滑り込んだ。
革の座面が、ひやりと冷たい。
続いて芹香が、反対側から飛び込んでくる。
扉が、ばたんと閉まった。
その音が、外の世界を一瞬で遮断した。
「出します!」
運転席の男が叫んで、アクセルを踏み込んだ。
エンジンが唸りを上げる。
車体ががくんと後ろへ引かれ、砂利を蹴って、狭い山道を急発進した。
朔夜は、身体を座席に押しつけられながら、後ろの窓へ顔を向けた。
鳥居が、遠ざかっていく。
その手前の石段が、黒く染まっていた。
そして、その黒い染みが、砂利の広場へ、ゆっくりと、けれど確実に、広がり始めていた。
雨が、鳥居を越えて、外の世界へ這い出してきている。
白かった砂利が、一粒ずつ、濡れた黒へ変わっていく。
その縁が、車を追いかけるように、じわじわと近づいてくる。
「……追ってきてる」
「ええ」
芹香の声が、低く沈んだ。
「走る速度は、人が歩く程度。でも、確実に」
「止まらないの」
「いまは、止められないわね」
朔夜は、唇を結んだ。
胸に抱いた子供の背中を、そっと撫でた。
「大丈夫」
囁いた。
「ちゃんと、離れていくから」
その言葉は、子供に向けたものだったのか、自分に向けたものだったのか、朔夜にも分からなかった。
*
山道は、曲がりくねっていた。
車体が左右に大きく振られるたびに、朔夜の肩が扉に当たった。
窓の外を、杉の幹が黒い線になって流れていく。
雨は、まだ降り続けていた。
けれど、さっきまでの滝のような雨ではなかった。
フロントガラスを叩く雫は、細かく、静かで、ワイパーが動くたびに、きゅ、きゅ、と小さな音を立てた。
車内は、冷えていた。
エンジンの熱気がまだ回りきっていない。
吐く息が白い。
窓ガラスの内側に、細かな水滴が、うっすらと貼りついていた。
「子供を」
芹香が、座席の下から、銀色の薄い毛布を引き出した。
「温めましょう。濡れた服のままでは、体温が持っていかれるわ」
「うん」
朔夜は、子供の身体を、そっと膝の上に横たえた。
白い薄い着物は、雨に濡れて肌に貼りついていた。
その布の下の身体が、驚くほど細かった。
肋骨の形が、布越しにはっきりと分かる。
小さな足は、泥にまみれて、爪の先が紫色になっていた。
朔夜は、胸が締めつけられるのを感じた。
「……ひどい」
「ええ」
「こんな小さい子が、ずっと」
「…………」
「あの雨の中で、ひとりで」
芹香は、何も言わなかった。
ただ、銀色の毛布を広げて、子供の身体を、丁寧に包み込んだ。
その手つきが、いつもよりもさらに優しかった。
足の先まで、すっぽりと。
濡れた髪を、柔らかなタオルで拭う。
頬の泥を、指先でそっと落とす。
そのたびに、子供の睫毛が、ふるりと震えた。
けれど、目は開かなかった。
深い、深い眠りの底に、沈んでいるようだった。
「体温は」
「低いわ。でも、さっきよりは、上がってきている」
芹香は、子供の額に手を当てた。
「不思議ね」
「え」
「あなたの腕に触れている部分から、順番に温まっている」
朔夜は、目を瞬いた。
膝の上の子供の小さな手が、いつの間にか朔夜の指を握りしめていた。
眠っているはずなのに、離さない。
その小さな掌が、じんわりと熱を帯び始めている。
「……ほんとだ」
「あなたの残り火が、この子を温めているのかもしれない」
「そんな」
「分からないけれど」
芹香は、そっと微笑んだ。
「少なくとも、この子は、あなたのそばにいると、安心するのでしょう」
朔夜は、子供の顔を見下ろした。
白い、透き通るような肌。
薄い唇。
長い睫毛が、頬に細い影を落としている。
その寝顔は、驚くほど穏やかで、そして、驚くほど幼かった。
「……ねえ、先輩」
「なあに」
「この子、何歳なんだろう」
「見た目は七、八歳ね」
「でも」
朔夜は、声を落とした。
「四十年間、雨が止まなかったって」
「ええ」
「この子、もっと昔から、あの谷にいたのかな」
芹香は、答えなかった。
車が、大きく揺れた。
カーブを曲がるたびに、遠心力が身体を傾ける。
朔夜は、子供の頭を、腕でしっかりと支えた。
窓の外を、ちらりと見る。
雨は、少しずつ、細くなっていた。
車は、山を下っている。
あの谷から、離れている。
後ろの窓の向こうに、あの黒い染みは、もう見えなかった。
けれど、空の彼方に、どす黒い雲が、ゆっくりと渦を巻いている。
その下で、何かが、まだ、動いている気がした。
「通信が、回復したわ」
芹香が、耳の後ろに指を当てた。
髪留めの通信機から、細い雑音が漏れている。
「こちら一条。応答を」
雑音の向こうから、事務官の声が返ってきた。
『こちら本部。ご無事ですか』
声が、いつもよりも、わずかに早口だった。
『位置信号が途絶していました。状況を』
「二名とも無事です。保護対象を一名確保しました」
『保護対象』
「ええ。子供です」
通信の向こうで、息を呑む気配がした。
『……確保、できたのですか』
「はい。意識はありませんが、生命に別状はありません」
『了解しました。直ちに、参事官に』
「その前に」
芹香の声が、凛と鋭くなった。
「結界の状況を。私たちが鳥居を越えた直後から、雨が外へ滲み出しています」
沈黙が落ちた。
数秒の、重たい間。
それから、事務官の声が、ほんの少しだけ、低く返ってきた。
『……こちらでも、観測しています』
「速度は」
『現在、解析中です。ただ』
「ただ?」
『予想を、大幅に上回っています』
朔夜は、息を詰めた。
『詳細は、帰還後に、参事官からご説明があります。まず、寮の方へ』
「寮、ですか」
『はい。ただし、ご一行は、旧療養棟へ向かってください』
「旧療養棟」
『本館の裏手にある、別棟です。保護対象の収容用に、準備を整えました』
「分かりました」
通信が、ぷつりと切れた。
芹香は、朔夜のほうを向いた。
その灰茶色の瞳に、微かな翳りが宿っていた。
「聞こえた?」
「うん」
「状況は、悪いわね」
「うん」
朔夜は、子供を抱きしめる腕に、力を込めた。
「でも、この子は、守るよ」
「ええ」
「何があっても」
「ええ。分かっているわ」
芹香は、朔夜の肩に、そっと手を置いた。
触れた温もりが、冷えた背中に、じんわりと染みた。
「私も、一緒よ」
*
寮舎の正門に着いたとき、日はすっかり傾いていた。
西の空が、深い橙色から、濃い紫へ、ゆっくりと移ろい始めている。
銀杏の並木が、夕闇の中で、黄金色の影を長く引いていた。
車が、砂利の庭を、静かに進んでいく。
朔夜は、窓の外をじっと見つめていた。
見慣れた景色が、ひどく懐かしく映った。
けれど、その懐かしさの奥に、微かな不安が忍び込んでいた。
空が、どこか、重い。
雲が、低く垂れ込めている。
風が、湿っている。
まだ雨は降っていないのに、空気のどこかに、あの谷の匂いが、うっすらと混じっているような気がした。
「……着いたわ」
車が止まった。
運転席の男が、静かに振り返った。
「到着しました」
「ありがとうございます」
芹香が、深く頭を下げた。
「回収まで、お待ちいただいて」
「いえ」
男は、少しだけ目を伏せた。
「……お子様を、お大事に」
その一言に、朔夜は胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
朔夜は、子供を毛布ごと抱え直した。
扉を押し開ける。
夕暮れの冷たい風が、頬を撫でた。
砂利の上に降り立つと、ざり、と靴底が鳴った。
その音が、ひどく優しく響いた。
正門の脇の詰所の窓から、白髪の老人が、顔を覗かせていた。
朔夜たちの姿を見て、深く頭を下げる。
その目が、朔夜の腕の中の毛布の塊に、ちらりと向いた。
何も言わず、ただ、静かに、もう一度、頭を下げた。
朔夜は、小さく会釈を返した。
その直後、玄関の方角から、足音が近づいてきた。
こつ、こつ、こつ。
規則正しい、静かな革靴の音。
朔夜は、顔を上げた。
濃紺の教官服。
銀縁の眼鏡。
鬼塚教官が、夕闇の中に立っていた。
その手には、大きな厚手の毛布が、抱えられていた。
眼鏡の奥の瞳が、朔夜の腕の中を、まっすぐに見つめている。
「……それが、保護対象か」
「はい」
朔夜は、毛布の端を、そっとめくった。
白銀の髪。
閉じた睫毛。
安らかな寝顔。
鬼塚の呼吸が、ほんの一瞬、止まった。
眼鏡のレンズが、夕陽の残光を受けて、白く光った。
「…………」
「教官?」
「……いや」
鬼塚は、短く答えた。
けれど、その視線は、子供の顔から、離れなかった。
何かを、探しているような。
何かを、思い出そうとしているような目だった。
「顔を、よく見せてくれ」
朔夜は、頷いて、毛布の端を、もう少し広げた。
子供の瞼が、ふるりと震えた。
けれど、開かなかった。
閉じた瞼の下で、左右の瞳が、微かに動いているのが、分かった。
「……そうか」
鬼塚の声が、ほんの少しだけ、掠れた。
「分かった」
「教官、この子のこと」
「何も知らん」
即答だった。
けれど、その響きが、ほんの少しだけ、固かった。
「ただ」
鬼塚は、そこで言葉を切って、毛布を、朔夜の腕の上から、静かに重ねた。
「温めてやれ」
「はい」
「旧療養棟は、こちらだ」
鬼塚は、踵を返して、歩き出した。
その背中は、いつもと同じように、まっすぐだった。
けれど、肩の線が、ほんの少しだけ、強張っているように見えた。
朔夜は、芹香と顔を見合わせた。
芹香は、小さく首を傾げた。
けれど、何も言わずに、鬼塚の後に続いた。
*
旧療養棟は、本館の裏手の、杉木立に囲まれた場所にあった。
平屋建ての古い木造の建物。
屋根の瓦は黒ずみ、軒下の柱には細い蔦が絡んでいる。
その縁側の障子に、橙色の灯りが、ぼんやりと滲んでいた。
玄関の戸を、鬼塚が引き開けた。
廊下に、木の香りと、畳の乾いた匂いと、そして、ほんのりと薬草の匂いが、漂っていた。
「ここだ」
鬼塚が、廊下の奥の部屋の障子を、静かに開けた。
八畳の和室だった。
畳が新しく替えられている。
部屋の隅に、小さな石油ストーブが置かれて、その上で、鉄の薬缶が、しゅんしゅんと湯気を立てていた。
壁際に、白い布団が敷かれている。
厚くて、ふかふかした、ほんのり日向の匂いのする布団。
その枕元に、小さな盆が置かれていた。
白い湯呑み。
脱脂綿。
体温計。
そして、折り畳まれた、柔らかな白い寝間着。
誰かが、慌てて、けれど丁寧に、用意してくれたのだと、朔夜には一目で分かった。
「……ありがとうございます」
「礼は、要らん」
鬼塚は、障子の脇に立ったまま、短く答えた。
「医務官が、後で診に来る。それまで、休ませておけ」
「はい」
朔夜は、子供を布団の上に、そっと横たえた。
毛布を解いて、濡れた白い着物を、慎重に脱がせる。
芹香が、隣で寝間着を広げて、手際よく着せ替えていった。
小さな腕。
細い脚。
肋骨の浮いた胸。
そのどこにも、傷はなかった。
けれど、背中の肩甲骨のあたりに、薄い、銀青色の線が、一本、斜めに走っていた。
痣のような。
刺青のような。
細い、細い、水の流れのような線。
朔夜は、それを見つめて、息を呑んだ。
「……これ」
「ええ」
芹香が、低く答えた。
「見たことのない紋様ね」
「うん」
「でも、どこか」
「うん」
朔夜は、自分の胸に、そっと手を当てた。
胸の奥の残り火が、その線を見た瞬間、ことりと、静かに脈打った。
懐かしいものを、見つけたときのように。
寝間着を着せ終えると、子供は布団の中で、小さく身じろぎをした。
白銀の髪が、枕の上に、ふわりと広がる。
その寝顔は、相変わらず穏やかで、そして、驚くほど、儚かった。
「……よく眠っているわ」
「うん」
「そっとしておきましょう」
芹香が、掛け布団を、子供の肩まで引き上げた。
朔夜は、布団の脇に、どさりと座り込んだ。
膝が、がくがくと笑っている。
全身から、力が抜けていく。
「……疲れた」
「ええ」
「ほんとに、疲れた」
「少し、休みなさい」
「でも、この子が」
「私が見ているわ」
「でも」
「朔夜ちゃん」
芹香は、朔夜の隣に腰を下ろして、その肩を、そっと引き寄せた。
「あなたの手も、足も、ぼろぼろよ」
「…………」
「少しだけ、目を閉じて」
朔夜は、迷った。
けれど、芹香の肩の温もりに、抗えなかった。
頭が、こてんと、傾く。
「……ちょっとだけ」
「ええ」
「この子が起きたら、すぐ、起こして」
「ええ。約束するわ」
朔夜は、目を閉じた。
石油ストーブの熱が、頬をほんのりと温めている。
薬缶の湯気が、しゅんしゅんと小さな音を立てている。
障子の向こうで、風が、杉の枝を鳴らしていた。
その全てが、遠く、遠く、霞んでいった。
*
肩を、そっと揺すられた。
「朔夜ちゃん」
「……ん」
「起きて」
「…………」
「あの子が」
その一言で、朔夜は跳ね起きた。
「あっ」
目の前に、芹香の顔があった。
灰茶色の瞳が、静かに朔夜を見つめている。
その後ろで、障子が、橙色から、深い藍色へ変わっていた。
夜になっていたのだ。
「どのくらい」
「一時間ほどよ」
「ごめん、寝ちゃった」
「いいのよ。それより」
芹香が、視線を、布団のほうへ向けた。
朔夜は、慌てて振り返った。
布団の中で、子供が、目を開けていた。
白銀の髪が、枕の上に広がっている。
その顔が、ゆっくりと、天井から、こちらへ向けられた。
左の琥珀色の瞳。
右の銀青色の瞳。
二つの異なる色が、石油ストーブの橙色の灯りの中で、静かに、揺れていた。
「…………」
朔夜は、息を止めた。
子供の唇が、微かに動いた。
「……おねえちゃん」
「うん」
朔夜は、這うように布団の脇へ寄って、その小さな手を、両手で握った。
温かかった。
さっきまで氷のようだった指が、いまは、ほんのりと、人の子の温もりを帯びている。
「ここ、わたしたちの家だよ」
「いえ」
「うん。あったかいでしょ」
子供は、ゆっくりと、視線を巡らせた。
天井の木目。
薬缶の湯気。
障子の灯り。
隣に座る、芹香の顔。
それから、また、朔夜の顔へ。
「……あめ、ない」
「うん。雨、ないよ」
「ここ、あめ、ふってない」
「うん。いまは、降ってない」
子供の瞳が、ふっと潤んだ。
左の琥珀色の目から、涙がひと筋、頬を伝って、枕に染みていく。
「……あったかい」
「うん」
「ぼく、ひさしぶり」
「え」
「あったかいの」
朔夜の胸が、きゅうと締めつけられた。
「そっか」
声が、震えた。
「それは、よかった」
「…………」
「何か、食べる?お腹、空いてない?」
子供は、少し考えるように、目を瞬いた。
「……おなか」
「うん」
「すいた、かも」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
朔夜が立ち上がろうとしたとき、廊下から、障子をそっと叩く音がした。
こん、こん。
「失礼するよ」
聞き覚えのある、温かい声。
障子が、すうっと開いた。
湯気の向こうに、割烹着姿の、丸顔の女性が立っていた。
調理員だった。
その手には、大きな盆が、しっかりと抱えられていた。
盆の上に、小さな土鍋が一つ。
ほかほかと白い湯気を立てている。
「おばさん!」
「あらあら、起きたのかい」
調理員は、目尻を下げて、部屋の中へ入ってきた。
「鬼塚教官から聞いたんだよ。お子さんがいるって」
「あ、はい」
「だからね、子供には、あったかいもんが一番だと思ってね」
調理員は、土鍋を布団の脇の小さな卓の上に置いた。
蓋を、そっと開ける。
ふわり、と柔らかな湯気が立ち昇った。
卵粥だった。
白いお米が、とろとろに煮込まれて、その上に、黄金色の卵が、ふんわりと広がっている。
ほんのり、出汁と、生姜と、ごま油の香りがした。
「わあ……」
朔夜は、思わず声を漏らした。
子供の鼻が、ひくひくと動いた。
「いい匂いでしょ」
「…………」
「これ、おばちゃんが、特別に作ったんだよ」
調理員は、小さな匙で、お粥を一口分すくった。
ふうふうと息を吹きかけて、冷ましてから、子供の口元へ運ぶ。
「ほら、あーん」
子供は、不思議そうに、調理員の顔を見つめた。
それから、おずおずと、口を開けた。
匙が、そっと差し入れられる。
子供の口が、ゆっくりと、動いた。
もぐ、もぐ。
「…………」
その左右の異なる瞳が、大きく、大きく、見開かれた。
「……おいし」
「でしょう」
「おいしい」
「そうかいそうかい、よかったよかった」
調理員は、目を潤ませて、笑った。
「たんとお食べ」
子供は、もう一口、もう一口と、夢中で粥を口に運んだ。
その頬が、少しずつ、薔薇色に染まっていく。
血色が、戻ってきている。
朔夜は、その光景を見つめながら、胸の奥が、じんと温かくなるのを感じた。
芹香も、隣で、静かに微笑んでいた。
その目が、うっすらと、潤んでいた。
やがて、土鍋が空になった頃、子供は、ほうと息を吐いて、ぱたりと布団に沈んだ。
「おなかいっぱい」
「よかったねえ」
調理員は、鍋を片づけながら、朔夜に目配せをした。
「朔夜ちゃん、あんたも食べな」
「え」
「廊下に、おにぎり置いてあるから」
「あ」
朔夜は、頬を赤くした。
「ありがとうございます」
「食べるもん食べて、ちゃんと寝るんだよ」
「はいっ」
調理員は、にっこりと笑って、部屋を出ていった。
障子が、静かに閉まる。
部屋に、また、静けさが戻った。
石油ストーブの薬缶が、しゅんしゅんと鳴っている。
布団の中の子供が、天井を見つめたまま、小さく呟いた。
「……あのひと、あったかい」
「うん」
「おねえちゃんたちの、まわり、みんな、あったかい」
朔夜は、笑った。
「そうだね」
「ぼく、ここ、すき」
「よかった」
朔夜は、子供の枕元に、膝を寄せた。
それから、そっと、尋ねた。
「ねえ」
「……なあに」
「お名前、聞いてもいい?」
子供の瞳が、ゆらりと揺れた。
左の琥珀色。
右の銀青色。
その二つの色が、石油ストーブの灯りの中で、静かに、きらめいた。
「……なまえ」
「うん」
「ぼくの」
「うん」
子供は、しばらく、黙っていた。
障子の向こうで、風が、杉の枝を鳴らしている。
遠くで、梟が、低く鳴いた。
やがて、小さな唇が、ゆっくりと、動いた。
「……あまね」
「あまね」
朔夜は、その音を、そっと繰り返した。
「あまねくん? ちゃん?」
「どっちでも、いい」
「そっか」
「ぼく、どっちでもない、っていわれた」
「…………」
「むこうがわのこ、だから」
朔夜の呼吸が、止まった。
芹香が、はっと顔を上げた。
「むこうがわ」
「うん」
あまねは、天井を見つめたまま、静かに頷いた。
「あめの、むこうがわ」
*
部屋の空気が、ひやりと冷えた。
石油ストーブの熱が、急に、遠くなったような気がした。
朔夜は、あまねの小さな手を、ぎゅっと握りしめた。
「……教えてくれる?」
「…………」
「あまねくんのこと」
「…………」
「雨の、向こう側のこと」
あまねは、ゆっくりと、朔夜のほうへ顔を向けた。
琥珀色と銀青色の二つの瞳が、朔夜を、まっすぐに見つめた。
「おねえちゃんは、きいても、こわがらない?」
「うん」
「ぼくのこと、きらいにならない?」
「ならないよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
朔夜は、にっと笑った。
「だって、もう、大好きだもん」
あまねの目が、ぱちぱちと瞬いた。
それから、小さく、くすぐったそうに、笑った。
初めて見る、子供らしい、柔らかな笑顔だった。
「……じゃあ、はなす」
「うん」
「あのね」
あまねは、天井に視線を戻した。
「あめは、あめじゃないの」
「うん」
「あれは、むこうがわの、なみだ」
朔夜は、息を呑んだ。
「涙」
「そう。むこうがわの、せかいが、ずっと、ずっと、ないてる」
「…………」
「むかし、むかし、すごくむかし」
あまねの声は、小さく、けれど、はっきりと、部屋に響いた。
「むこうがわの、せかいは、おおきな、うみの、なかに、しずんだの」
「しずんだ」
「うん。みんな、いたのに。まちも、ひとも、うたも、ぜんぶ」
「…………」
「でも、みんな、まだ、そこにいる」
あまねの左の瞳が、遠くを見るように、揺れた。
「しずんだままで、ずっと、まってる」
「待ってる、って」
「かえりたいの」
朔夜の胸が、ぎゅうと締めつけられた。
あの、黒い影たち。
顔のない、空っぽの影たち。
――かえして。
――かえして。
「……あの影は」
「あれが、そのひとたち」
あまねは、静かに答えた。
「むこうがわの、みんな」
「…………」
「こっちに、かえりたいだけ」
「でも」
芹香が、低く口を開いた。
「彼らに触れられたとき、朔夜ちゃんは、名前を、失いかけたわ」
「うん」
あまねは、小さく頷いた。
「あのひとたち、じぶんの、なまえを、わすれちゃったから」
「…………」
「だれかの、なまえを、とって、かえろうとする」
「それは」
朔夜は、唇を結んだ。
「悪気は、ないんだね」
「うん」
「ただ、帰りたくて」
「うん」
「でも、帰り方が、分からなくて」
「うん」
朔夜は、目を閉じた。
胸の奥が、ひどく痛かった。
あの空っぽの顔の奥にあった、四十年、いや、それよりずっと長い、深い孤独を、思った。
「それで」
芹香が、静かに続けた。
「あなたは、何を」
「ぼくは」
あまねは、自分の胸に、そっと小さな手を当てた。
「かぎ」
「鍵」
「うん。ぼくは、あめのとびらの、かぎ」
朔夜と芹香は、顔を見合わせた。
あまねは、天井を見つめたまま、ゆっくりと続けた。
「こっちとむこうは、ほんとうは、つながってたの」
「うん」
「でも、そのつながりは、こわれやすいから」
「うん」
「ずっとまえに、ぼくの、おかあさんの、おかあさんの、そのまたおかあさんが」
「うん」
「ひとりの、こどもを、とびらの、いりぐちに、おいたの」
朔夜の心臓が、とくんと鳴った。
「その子の、からだの、なかに、とびらを、とじこめた」
「閉じ込めた」
「うん。からだの、ひだりがわと、みぎがわで」
あまねは、自分の両目を、指でそっと触れた。
「ひだりのめは、こっちがわ」
琥珀色の瞳が、柔らかく揺れた。
「みぎのめは、むこうがわ」
銀青色の瞳が、静かに光った。
「ふたつを、つなぐのが、ぼく」
「…………」
「だから、ぼくが、あめのなかに、いるかぎり、とびらは、とじてる」
朔夜の呼吸が、止まった。
「……じゃあ」
「うん」
「あまねくんは、四十年間、ずっと」
「もっと」
あまねは、静かに首を振った。
「ぼくは、さいしょの、かぎじゃ、ないから」
「…………」
「まえの、かぎが、ねむって、そのつぎに、ぼくが、うまれたの」
「何年前」
「わからない」
あまねは、小さく笑った。
「あめのなかは、じかんが、ながれないから」
朔夜の目の奥が、熱くなった。
ずっと、ずっと、ひとりで。
雨の中で。
誰にも触れられることなく。
名前を呼んでくれる人もいないまま。
それでも、扉を閉じ続けて。
「……ごめんね」
朔夜の声が、震えた。
「ごめんね、気づいてあげられなくて」
「おねえちゃんが、あやまること、ない」
あまねは、朔夜の手を、きゅっと握り返した。
「だって、おねえちゃん、きてくれた」
「…………」
「ぼくが、よんだから」
朔夜は、目を瞬いた。
「呼んだ」
「うん」
「わたしを」
「うん」
あまねの右の銀青色の瞳が、静かに光った。
「ぼく、ずっと、さがしてたの」
「何を」
「おなじ、においのひと」
朔夜の胸の奥の残り火が、どくんと、大きく脈打った。
「あのね」
あまねは、ゆっくりと、朔夜の胸を指差した。
「おねえちゃんのなかの、ひかり」
「…………」
「あれ、むこうがわの、ひかり」
「えっ」
朔夜は、思わず、自分の胸を押さえた。
芹香が、はっと息を呑んだ。
「ずっと、ずっと、まえに」
あまねは、静かに続けた。
「むこうがわの、ひかりの、かけらが、こっちに、おちてきたの」
「…………」
「それは、あかちゃんの、からだの、なかに、はいった」
「赤ちゃん」
「うん」
「それが」
「おねえちゃん」
朔夜の頭が、真っ白になった。
世界が、ぐらりと、傾いた気がした。
胸の奥で、あの子が、ことりと、静かに、頷いた気がした。
「……わたし」
声が、掠れた。
「わたしの中の、あの子は」
「うん」
「向こう側の」
「うん」
「かけら」
「そう」
あまねは、にっこりと、笑った。
その笑顔が、あまりにも優しくて、朔夜は、泣きそうになった。
「だから、おねえちゃんは、ぼくと、おなじ」
「…………」
「さかいめを、もつひと」
朔夜は、言葉を失っていた。
空間破砕系。
世界を砕く、桁違いの魔力。
ずっと、自分の中の、恐ろしい怪物だと思っていた。
けれど、それが。
向こう側の、光の欠片だったなんて。
「……そんな」
「こわい?」
あまねが、心配そうに尋ねた。
朔夜は、首を振った。
涙が、頬を伝った。
「ううん」
「…………」
「怖くない」
「ほんと?」
「ほんと」
朔夜は、自分の胸に手を当てた。
その奥で、あの子が、ことりと、動いた。
「むしろ」
「…………」
「ちょっとだけ、嬉しい」
「うれしい」
「うん。だって」
朔夜は、笑った。
涙を流しながら。
「あの子は、ずっと、ひとりで、わたしの中にいたんだね」
「…………」
「寂しかったよね」
胸の奥の残り火が、ほんの少しだけ、温かく、揺れた。
あまねが、小さく笑った。
「おねえちゃん、やさしい」
「えへへ」
「だから、ぼくの、かぎを、わたしても、いいと、おもった」
「え」
朔夜の顔が、はっと上がった。
「渡す、って」
「うん」
あまねは、静かに言った。
「ぼく、もう、つかれちゃった」
「…………」
「ずっと、ひとりで、あめのなかに、いて」
「…………」
「こんど、おねえちゃんと、いっしょに、とびらを、あけたい」
「開ける」
芹香が、低く繰り返した。
「扉を、開く、と?」
「うん」
あまねは、芹香のほうへ顔を向けた。
「あめのむこうの、みんなを、かえしてあげたい」
「…………」
「それが、ほんとうの、りゆう」
部屋の空気が、ひりひりと張りつめた。
朔夜は、あまねの顔を、じっと見つめた。
琥珀色と銀青色の二つの瞳。
その奥に、四十年を超える、深い、深い、孤独の底から、ほのかな希望の光が、揺れていた。
「……あまねくん」
「うん」
「それって、危なくないの」
「あぶないよ」
あまねは、正直に答えた。
「とびらを、あけたら、むこうがわの、みんなが、いっぺんに、こっちに、くる」
「…………」
「でも、あけなかったら、あめは、どんどん、ひろがる」
「どういうこと」
「ぼくが、かぎをはなれたから」
あまねは、小さく、目を伏せた。
「とびらが、ゆるんでる」
朔夜は、息を呑んだ。
「それって」
「あまねくんが、谷を出たから」
「うん」
「結界が、弱まった」
「うん」
あまねは、ぎゅっと唇を噛んだ。
「ごめんなさい」
「…………」
「でも、ぼく、もう、ひとりで、とじてるのは、いやだった」
その小さな声が、あまりにも切実で、朔夜は、胸が張り裂けそうになった。
朔夜は、あまねの頭を、そっと撫でた。
白銀の髪が、柔らかく指に絡んだ。
「謝らなくていいよ」
「…………」
「あまねくんは、悪くない」
「でも」
「ひとりで頑張ってきたんだから」
あまねの瞳が、潤んだ。
涙が、ぽろりと零れた。
朔夜は、その涙を、指先でそっと拭った。
「一緒に、考えよう」
「…………」
「どうしたら、みんなが幸せになれるか」
「…………うん」
あまねは、朔夜の手に、頬を擦りつけた。
その温もりが、掌にじんわりと染みた。
「おねえちゃん」
「なあに」
「ありがとう」
*
障子が、がらりと開いた。
芹香が、はっと顔を上げた。
朔夜も、振り返った。
廊下の暗がりに、灰色の制服の事務官が、立っていた。
その顔が、蒼白だった。
息が、荒い。
走ってきたのだろう。
髪が乱れて、額に汗が滲んでいる。
「申し訳ありません、緊急です」
「どうしましたか」
芹香が、静かに立ち上がった。
事務官は、一度、喉を鳴らして、それから、早口に告げた。
「結界の綻びが、拡大しました」
「…………」
「霖ヶ谷の雨域が、現在、谷の外へ、毎時およそ十二キロの速度で拡大中です」
朔夜の血の気が、すっと引いた。
「十二キロ」
「はい。このままの速度では」
事務官は、手元のメモに目を落とした。
「下流の集落が、すでに雨域に入りました。住民の避難を、現在、実施中です」
「…………」
「さらに、麓の紫雲町まで、約十八時間」
「紫雲町」
芹香が、低く呟いた。
「人口は」
「約二万三千人です」
その数字が、部屋に、重たく落ちた。
朔夜は、拳を握りしめた。
「それから」
事務官は、声を落とした。
「この寮舎に到達するまでは、およそ四十時間と試算されています」
「四十時間」
「はい」
朔夜は、息を呑んだ。
五百人の訓練生。
百二十人の職員。
あの、食堂の湯気。
道場の蝋の匂い。
佐伯たちの素振りの音。
美月の、おずおずとした笑顔。
調理員の、丸い顔。
全てが。
雨に呑まれる。
「…………参事官は」
「会議室で、お待ちです」
事務官は、一度、あまねの寝ている布団に視線を向けた。
その瞳が、わずかに揺れた。
「……ご同行を、お願いします。保護対象も、可能であれば」
「待ってください」
芹香が、鋭く遮った。
「その子は、いま、目を覚ましたばかりです。連れ出すのは」
「いえ」
あまねが、布団の中から、小さく声を上げた。
「ぼく、いく」
「あまねくん」
「ぼくの、はなしを、みんなに、したほうが、いい」
あまねは、ゆっくりと、上体を起こした。
白銀の髪が、肩から零れ落ちる。
その小さな身体が、ふらりと揺れた。
朔夜は、慌ててその背中を支えた。
「無理しないで」
「だいじょうぶ」
あまねは、にっこりと笑った。
「おねえちゃんが、いるから」
朔夜は、胸が熱くなった。
「……うん」
「じゃあ、一緒に行こう」
朔夜は、あまねを、毛布ごと、そっと抱き上げた。
軽かった。
けれど、その腕の中に、世界の重みが、確かに収まっている気がした。
「芹香先輩」
「ええ」
「行こう」
「ええ」
芹香は、静かに頷いた。
その灰茶色の瞳に、確かな決意の光が宿っていた。
三人は、障子を抜けて、廊下へ出た。
事務官が先に立って、足早に歩き出す。
廊下の窓の外は、深い夜だった。
杉木立の黒い影が、風に揺れている。
その枝の間から、星が、ひとつ、ふたつと、瞬いていた。
けれど、その星の向こうの空の端に、どす黒い雲の縁が、ゆっくりと、近づいてきている気がした。
朔夜は、あまねを抱いたまま、廊下を歩きながら、窓ガラスに、ちらりと視線を向けた。
その瞬間。
窓ガラスの外側に、何かが、貼りついているのが見えた。
小さな、黒い、一粒の雫。
雨ではなかった。
空はまだ晴れている。
その雫は、ガラスの外側に、ぴたりと止まって、一滴も流れ落ちなかった。
まるで、そこから、こちらを覗いているかのように。
朔夜の腕の中で、あまねが、小さく息を呑んだ。
その右の銀青色の瞳が、窓の雫を、じっと見つめている。
「……きた」
「え」
「ひとつ、さきに」
あまねの唇が、微かに震えた。
「あのひとたち、もう、ここまで」
朔夜は、窓の雫を、見つめた。
黒い雫は、ガラスの上で、ほんの少しだけ、形を変えた。
細く、長く、人の指のように。
そして、ゆっくりと、ガラスの表面を、一度だけ、なぞった。
きゅ、と、小さな、水の擦れる音が、した。
朔夜は、あまねを抱く腕に、力を込めた。
廊下の先で、事務官が、足を止めて、振り返った。
「どうされましたか」
「……いえ」
朔夜は、首を振った。
けれど、その目は、窓の雫から、離れなかった。
雫は、いつの間にか、消えていた。
ガラスの外側には、ただ、静かな夜の闇が、広がっているだけだった。
けれど、朔夜には、分かっていた。
あれは、始まりだ。
雨が、近づいている。
――第4章 Part 4/4 へ続く
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