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第4章 ― 雨の境界と、片目の子4

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📅 公開日: 2026/10/27 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 16,082文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

本館最上階の作戦会議室には、窓があった。

これまで通されてきたどの部屋とも違う、広く冷たい空間だった。

天井は高く、壁一面が黒い硝子になっている。

その向こうに、夜の山並みが墨のように沈んでいた。

星はまだ見える。

けれど、遠い北の空だけが、星のない濃い闇に塗り潰されていた。

朔夜は、その闇を、扉の手前で一度だけ見つめた。

あの下で、雨が歩いているのだ。

「入りなさい」

低い声が、広い部屋の奥から響いた。

朔夜は、腕の中のあまねを抱え直した。

小さな身体は、毛布の中で静かに息をしている。

その左右の異なる瞳が、扉の向こうの暗がりを、じっと見据えていた。

「だいじょうぶ」

あまねが、囁いた。

「ぼく、こわくない」

「うん」

「おねえちゃんが、いるから」

「うん。ずっといるよ」

朔夜は、隣の芹香と視線を交わした。

芹香は、静かに頷いた。

その灰茶色の瞳には、霖ヶ谷の鳥居をくぐる直前と同じ、凪いだ決意の光があった。

二人は、並んで、会議室へ足を踏み入れた。

広い黒檀のテーブルが、部屋の中央に横たわっている。

その奥に、灰色の髪の参事官が座っていた。

左右には、丸眼鏡の太った男と、髪を引っ詰めた痩せた女。

そして、壁際の影に、濃紺の教官服の女が、背筋を伸ばして立っていた。

鬼塚教官だった。

眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ朔夜を捉えて、それから、あまねの顔へ、すっと移った。

その視線が、何かを確かめるように、ほんの少しだけ長く留まった。

「座りなさい」

参事官が言った。

朔夜は、あまねを抱いたまま、革張りの椅子に腰を下ろした。

座面が、ひやりと冷たい。

壁一面の硝子の向こうで、風が、杉の梢を鳴らしている。

「状況を述べる」

参事官は、テーブルの端のスイッチに指を触れた。

壁の一角に、大きな地図が浮かび上がった。

山間部の等高線。

その中心に、赤い円。

円は、霖ヶ谷を起点として、同心円状に広がり、麓の集落をすでに呑み込んでいる。

「雨域の拡大速度は、先ほどの報告から上方修正された」

参事官の声は、乾いていた。

「現在、毎時十五キロ。紫雲町までは、十六時間」

朔夜の胸が、ひやりと冷えた。

「寮舎への到達は、三十八時間後と試算される」

「…………」

「さらに」

参事官は、地図の一点を指した。

「本日の二十一時四十分、この敷地の上空に、観測不能の降水粒子を確認した。雨域本体の到達より、遥かに早い」

窓ガラスの外側に貼りついていた、あの黒い雫。

朔夜は、唇を結んだ。

「先遣、ということですね」

芹香が静かに言った。

「そうだ」

「あの影が、すでにこの敷地に」

「複数、侵入している可能性が高い」

部屋の空気が、ぴんと張りつめた。

丸眼鏡の太った男が、ふん、と鼻を鳴らした。

「結論は、単純です」

脂肪に埋もれた小さな目が、あまねを、冷たく見下ろした。

「その子供を、谷へ戻す」

朔夜の指先が、ぴくりと動いた。

「雨は、その子供が谷を離れたことで、広がり始めた。ならば、戻せば止まる」

「…………」

「合理的です」

「合理的」

朔夜は、低く繰り返した。

声が、自分でも驚くほど静かだった。

「それは、何を意味しますか」

「何をとは」

「あまねくんを、また、あの雨の中に」

「そうです」

丸眼鏡の男は、淡々と頷いた。

「彼は、四十年以上、そこにいた。再びいたところで、何も変わりません」

「変わります」

朔夜は、立ち上がっていた。

椅子が、ぎい、と床を擦った。

「この子は、ひとりで、ずっと」

「橘訓練生」

「ずっと、ひとりで、閉じ込められてたんです」

「分かっている」

引っ詰め髪の女が、薄い唇を開いた。

声は、氷のように平坦だった。

「計算を示します。一名と、二万三千名。さらに、寮舎の六百二十名。この比較に、感情を差し挟む余地はありません」

「…………」

「戻すことが、最も被害の少ない選択です」

朔夜は、拳を握りしめた。

爪が、掌に食い込んだ。

胸の奥の残り火が、ちりりと熱を帯びる。

けれど、その熱を、朔夜は、必死に抑え込んだ。

ここで怒れば、何も変わらない。

そのとき、芹香が、静かに口を開いた。

「少し、よろしいでしょうか」

「何だね、一条」

参事官が促した。

芹香は、立ち上がらなかった。

椅子に座ったまま、背筋をまっすぐに伸ばして、一同を見回した。

「いま仰った『戻す』という選択は、実行可能性の面で、大きな欠陥があります」

「ほう」

「この子の状態を、ご覧ください」

芹香は、あまねの顔へ、そっと手を添えた。

毛布の中の小さな顔を、会議室の照明の下へ向けさせる。

「左目の焦点が、定まっていません」

朔夜は、はっと息を呑んだ。

あまねの左の琥珀色の瞳が、確かに、ほんのわずかに、ぼやけていた。

まっすぐ前を見ているようで、その実、何も映していない。

右の銀青色の瞳だけが、淡く、強く、光を宿している。

「……あまねくん」

「うん」

あまねは、小さく頷いた。

「ごめんなさい。いわなかった」

「…………」

「ひだりのめ、もう、みえない」

朔夜の呼吸が、止まった。

「谷を、でるまえから、すこしずつ」

「…………」

「ぼく、つかれちゃったって、いったでしょ」

その声は、ひどく静かだった。

朔夜の目の奥が、熱くなった。

「……だから、出てきたの」

「うん」

「限界、だったから」

「うん」

あまねは、微笑んだ。

「かぎは、こわれかけてる」

部屋に、長い沈黙が落ちた。

硝子の向こうの風の音だけが、低く響いている。

芹香は、静かに続けた。

「この子を谷へ戻しても、鍵としての機能が回復する保証はありません」

「…………」

「むしろ、戻した直後に、鍵が完全に壊れる可能性のほうが高い」

「その場合、どうなる」

参事官が、短く尋ねた。

「扉が、完全に開きます。制御されないまま」

芹香の声は、凍てついた湖面のように静かだった。

「そのとき、雨域が止まる保証はなく、むしろ」

「むしろ」

「向こう側の全てが、一度に、こちらへ」

丸眼鏡の男の顔から、血の気が引いた。

引っ詰め髪の女の指が、書類の上で、ぴたりと止まった。

参事官は、無表情のまま、あまねの顔を、じっと見つめていた。

その窪んだ眼窩の奥の瞳が、微かに揺れていた。

「……では、どうする」

低い声が、問うた。

「他に、どんな選択肢がある」

沈黙。

誰も、答えなかった。

やがて、引っ詰め髪の女が、ゆっくりと、顔を上げた。

その視線が、朔夜のほうへ、静かに向けられた。

「ひとつだけ、ございます」

「…………」

「鍵の、代替です」

朔夜の背筋が、ぞくりと凍りついた。

「先ほどの、その子供の証言を信じるならば」

女は、淡々と続けた。

「橘訓練生の内にあるものは、向こう側の光の欠片だということになります」

「…………」

「つまり、彼女もまた、境目を持つ者」

「…………」

「鍵の役を、引き継ぐ資格がある」

朔夜は、息を止めた。

あまねの小さな手が、朔夜の袖を、ぎゅっと握った。

「お断りします」

芹香の声が、鋭く跳ねた。

初めて聞く、鋭さだった。

「それは、この子を犠牲にする代わりに、別の子を犠牲にするだけです」

「一条」

「同じです。何も変わりません」

「だが」

「お断りします」

芹香は、立ち上がっていた。

灰茶色の瞳が、まっすぐに引っ詰め髪の女を射抜いている。

その指が、腰の拳銃の近くで、わずかに震えていた。

「彼女は、あなた方の道具ではありません」

「…………」

「私の」

芹香は、そこで、一度、唇を噛んだ。

「私の、大切な後輩です」

会議室の空気が、凍りついた。

誰も、動かなかった。

朔夜は、その場に立ち尽くして、芹香の背中を見つめていた。

細い肩が、ほんのわずかに、震えている。

その震えが、芹香の恐怖であり、怒りであり、愛情であることが、痛いほど伝わってきた。

「……先輩」

朔夜は、そっと呼んだ。

「ありがとう」

「…………」

「でも」

朔夜は、一歩、前へ出た。

あまねを抱えたまま、テーブルの縁に、手を置いた。

「ひとつだけ、聞かせてください」

「何だね」

参事官が、応じた。

「もし、わたしが、鍵になったら」

「朔夜ちゃん」

芹香が、鋭く遮った。

「聞くだけです」

朔夜は、穏やかに言った。

「あまねくんは、解放されますか」

沈黙が落ちた。

参事官は、一度、目を閉じて、それから、静かに頷いた。

「理論上は、可能だ」

「あまねくんは、どうなりますか」

「普通の子供として、生きられる」

「…………」

朔夜は、あまねを、見下ろした。

琥珀色の左目。

銀青色の右目。

その二つの色が、揺れる灯りの中で、静かに、朔夜を見つめ返している。

(……普通の、子供)

学校に通って。

友達と笑って。

温かいご飯を食べて。

寒い夜には、布団に包まって。

朔夜は、胸が、きゅうと締めつけられるのを感じた。

その未来を、この子に、あげられるなら。

「……朔夜ちゃん」

芹香の声が、震えていた。

「やめなさい」

「…………」

「お願いだから」

「…………」

朔夜は、顔を上げて、芹香を見た。

灰茶色の瞳が、潤んでいた。

涙が、いまにも零れ落ちそうに、睫毛の縁で揺れている。

その表情を見た瞬間、朔夜の中で、何かが、すとんと落ちた。

(……あ)

(だめだ)

(これは、違う)

あの老婆の言葉が、蘇った。

寂しがるんだよ。

ひとりで眠るのが怖いって。

朔夜が鍵になれば、あまねは、普通の子供として生きられる。

けれど、その代わりに、朔夜が、ひとりになる。

雨の中で。

誰にも触れられることなく。

名前を呼んでくれる人もいないまま。

それは、あまねが、四十年間、味わってきた孤独と、同じだ。

その孤独を、別の誰かに、押しつけるだけだ。

「……やだ」

朔夜は、小さく、けれど、はっきりと言った。

「え」

「それは、いやです」

参事官の眉が、わずかに動いた。

「理由は」

「だって」

朔夜は、あまねの頭を、そっと撫でた。

「それは、ひとりにするのと、同じだもん」

「…………」

「誰かをひとりにして、誰かを助けるなんて」

朔夜の声が、少しずつ、強くなっていった。

「そんなの、助けるって、言わない」

あまねが、朔夜の胸に、顔を埋めた。

小さな肩が、震えていた。

朔夜は、その震えを、腕の中で、しっかりと抱きしめた。

「わたしは、扉を開きます」

会議室に、静寂が落ちた。

「ほどくんです」

朔夜は、続けた。

「閉じ込めるんじゃなくて」

「…………」

「あの白鷺堂のときみたいに」

「橘訓練生」

参事官が、低く言った。

「それは、前例のない試みだ」

「はい」

「成功する保証は」

「ありません」

「失敗したら、どうなる」

「…………」

朔夜は、一度、息を吸った。

「そのときは」

声が、ほんの少しだけ震えた。

「わたしが、責任を取ります」

「責任」

「はい」

朔夜は、参事官の目を、まっすぐに見返した。

琥珀色の瞳が、冷たい白い照明の下で、強く光った。

「でも、わたしは、失敗しません」

「どうして、そう言い切れる」

「だって」

朔夜は、にっと笑った。

涙の滲んだ目で。

「ひとりじゃ、ないから」

その一言に、芹香の肩が、ぴくりと震えた。

あまねが、顔を上げて、朔夜を見上げた。

そのとき。

――ウウウウウウ。

けたたましい音が、建物全体を震わせた。

非常ベルだった。

会議室の天井の赤いランプが、一斉に明滅を始めた。

窓の外の闇に、無数の光の粒が、ぽつぽつと、浮かび上がった。

朔夜は、はっと硝子の向こうを見た。

庭の芝生の上。

並木の枝。

屋根の瓦。

そのあらゆる場所に、黒い雫が、ぽつり、ぽつりと、降り注いでいた。

空は、晴れている。

星が瞬いている。

それなのに、黒い雨粒だけが、静かに、静かに、世界を濡らしていく。

「……来た」

あまねが、囁いた。

参事官が、立ち上がった。

椅子が、重く後ろへ倒れた。

「全館、警戒態勢。訓練生は、地下の特殊演習場へ避難」

低い、しかし、よく通る声だった。

「鬼塚」

「はい」

「避難誘導を」

「承知しました」

鬼塚が、壁際から、一歩、前へ出た。

その視線が、一瞬だけ、朔夜に向けられた。

「橘」

「はい」

「後で、お前に、見せたいものがある」

「え」

「いまは、行け」

鬼塚は、それだけ言って、踵を返した。

濃紺の背中が、扉の向こうへ消えていく。

参事官が、朔夜と芹香を、順番に見つめた。

「君たちの件は、後だ」

「…………」

「だが」

窪んだ眼窩の奥の瞳が、わずかに細められた。

「この敷地を守れ。それが、いまの任務だ」

「はい」

朔夜は、短く答えた。

「行こう、先輩」

「ええ」

芹香は、涙の滲んだ目を、手の甲で、素早く拭った。

「あなたの隣に、立つわ」

*

廊下は、赤い光に染まっていた。

非常ベルが、壁を震わせて鳴り響いている。

天井のランプが、くるくると回転して、赤い光の筋を、床に、壁に、走らせる。

その中を、朔夜は、あまねを抱いたまま、駆けた。

靴底が、リノリウムを叩く。

窓の外を、黒い雫が、斜めに流れていく。

ガラスに貼りついた雫が、細い指のような形に伸びて、ゆっくりと、表面を引っ掻いている。

きゅ。

きゅ、きゅ。

その音が、赤い光の中で、悪夢のように響いた。

「本館を出るわ」

芹香が、前を走りながら叫んだ。

「療養棟へ戻りましょう! あなたの鎚と、私の銃が」

「うん!」

渡り廊下の扉を、肩で押し開ける。

冷たい夜気が、顔に打ちつけた。

そして。

朔夜は、足を止めた。

目の前の庭が、黒く染まっていた。

芝生の一面に、黒い水たまりが、無数に広がっている。

その水面から。

細い、長い、黒い影が。

一本。

また一本。

静かに、立ち上がろうとしていた。

「……もう、こんなに」

「ええ」

芹香が、拳銃を抜いた。

かちり、と安全装置が外れる音。

「突っ切るわよ」

「うん!」

朔夜は、あまねを、芹香の背中へ預けようとした。

けれど、あまねは、朔夜の首から、離れなかった。

「だめ」

「あまねくん」

「ぼく、おねえちゃんの、そば」

「でも、危ない」

「だいじょうぶ」

あまねは、右手を、朔夜の頬へ当てた。

冷たく、小さな掌。

けれど、その奥に、確かな熱があった。

「ぼくの、ひかり、おねえちゃんの、ちからに、なる」

朔夜は、一瞬、迷った。

けれど、その右の銀青色の瞳の、揺るぎない光を見て、頷いた。

「……分かった」

「うん」

「しっかり、掴まってて」

「うん」

朔夜は、あまねを、背中へ回した。

小さな腕が、首にぎゅっと巻きつく。

その体温が、背中にじんわりと染みた。

芹香が、先に飛び出した。

銃声が、夜の庭に弾けた。

ぱん、ぱん、ぱん。

青白い光が、黒い影の群れを貫く。

影が、揺らぐ。

けれど、すぐに形を取り戻す。

朔夜は、その隙間を縫って、走った。

芝生を踏む。

黒い水たまりを、跳び越える。

靴底に、冷たい飛沫が跳ねた。

その飛沫が触れた靴の表面が、一瞬で、凍りついたように白く曇る。

「触れないで!」

芹香の声が飛ぶ。

「水たまりは、全部、あの影の口よ!」

「うん!」

朔夜は、地面を蹴って、跳んだ。

空中で、身体を捻る。

足元を、黒い手が、掠めていく。

着地。

次の水たまりへ、また跳ぶ。

十数メートル先に、旧療養棟の屋根が見えた。

縁側の障子から、橙色の灯りが漏れている。

けれど、その縁側の周囲にも、黒い水たまりが、静かに広がっていた。

「……あそこまで!」

「ええ!」

二人は、同時に、最後の跳躍をした。

縁側の板敷きに、どん、と着地する。

障子を、肩で押し開けた。

部屋の中は、石油ストーブの熱気で、ほんのりと温かかった。

その空気が、肌に触れた瞬間、朔夜は、ほうと息を吐いた。

壁際に、黒い革の包みと、長い狙撃銃が、立てかけられている。

「鎚!」

朔夜は、革の包みを、素早く掴んだ。

ずしりと重い。

紐を引き解いて、鋼の柄を、掌に収める。

革の巻かれた握りが、しっとりと吸いついた。

その重みが、背骨を、まっすぐに支えてくれた。

「ありがと、待っててくれて」

小さく呟く。

柄の刻印が、ほんのり温かく光った気がした。

芹香も、長い銃を肩に掛けた。

ボルトを引いて、薬室を確かめる。

かちゃり、と重い金属音。

「準備は?」

「できた」

「あまねくんは」

「ここにいる」

朔夜は、背中に張りついた小さな身体を、軽く揺すった。

「しっかり、掴まってるよ」

「うん」

「怖くない?」

「こわい」

あまねは、正直に答えた。

「でも、おねえちゃんと、いっしょだから、いい」

朔夜は、笑った。

その笑顔が、赤い光の揺らぐ障子の影の中で、柔らかく輝いた。

「じゃあ、行こう」

縁側へ、戻る。

そこで、朔夜は、足を止めた。

庭の中央に。

黒い水たまりから立ち上がった、数十の影が。

一斉に、こちらを向いていた。

顔のない、黒い曲面。

その全てが、朔夜の背中の、小さな子供へ向けられている。

そして、その中心に。

一際、大きな影が、立っていた。

霖ヶ谷で見た、あの指揮役の影。

その空っぽの顔が、静かに、朔夜を見下ろしていた。

雨のない夜の庭で、その周囲だけ、黒い雫が、音もなく降り続いていた。

ぽつ。

ぽつ、ぽつ。

その雫が、縁側の木板に落ちるたびに、そこから、小さな黒い染みが、じわりと広がっていく。

朔夜は、戦鎚を、両手で握り直した。

あまねの右手が、そっと戦鎚の柄に添えられた。

鋼の柄が、二色の光を、ふわりと灯した。

琥珀色。

銀青色。

その二つの光が、赤い非常灯の明滅の中で、静かに、きらめいた。

「……さあ」

朔夜は、囁いた。

「ここで、止める」

*

最初の一撃は、庭の中央を貫いた。

朔夜は、縁側から、一気に跳んだ。

戦鎚を、振りかぶる。

鎚頭が、二色の光を纏って、夜気を切り裂いた。

ごおっ。

先頭の影の肩口に、触れる。

ぱき。

あの、ガラスの割れるような、澄んだ音。

影の輪郭に、白い亀裂が走って、内側から光が溢れた。

影は、無数の雨粒になって、はらはらと崩れ落ちた。

けれど、その背後から、二つ目、三つ目の影が、静かに迫ってくる。

朔夜は、戦鎚を引き戻した。

身体を回して、遠心力を乗せる。

横薙ぎ。

ごっ。

二つ目の影が、光となって散った。

三つ目の影の長い腕が、朔夜の肩へ伸びてくる。

朔夜は、身体を沈めた。

腕が、頭の上を掠めていく。

その勢いのまま、足元から、戦鎚を振り上げた。

鎚頭が、影の顎のあたりを、下から突き上げる。

ぱき。

三つ目も、崩れた。

「いい調子よ!」

芹香の声が、背後から飛んできた。

銃声が、連続して響く。

朔夜の死角に回り込もうとした影を、一体ずつ、正確に、撃ち抜いていく。

青白い光が、夜の庭を、花火のように照らした。

その光の中で、朔夜は、戦鎚を振り続けた。

汗が、額を伝う。

背中に、あまねの重みが、しっかりと乗っている。

その温もりが、朔夜の疲れた腕に、新しい力を注いでくれた。

けれど、影の数は、減らなかった。

どれだけ砕いても、庭の黒い水たまりから、新しい影が、次々と立ち上がってくる。

十。

二十。

三十。

朔夜は、息を切らしながら、周囲を見回した。

「……きりが、ない」

「ええ」

芹香の声が、荒い息に紛れた。

「水たまりが、影の入口になっているわ。これを塞がなければ」

「塞ぐ、って」

「分からない。でも」

そのとき、庭の向こうから、悲鳴が聞こえた。

少女の声だった。

朔夜は、はっと顔を上げた。

本館の方角から、避難の列が、こちらへ流れてきていた。

訓練生たちだ。

寝間着のまま、あるいは制服のまま、教官に誘導されて、地下の演習場への通用口を目指している。

その列の途中に、黒い影が、割り込んでいた。

水たまりから現れた影が、避難の列の側面を、ゆっくりと撫でるように、近づいていく。

「あっ」

朔夜の呼吸が、止まった。

その列の一番後ろに。

小柄な、おさげの少女が、いた。

寝間着の袖を握りしめて、怯えた顔で、立ち尽くしている。

美月だった。

その背後に、黒い影が、音もなく、伸びていた。

「美月ちゃん!」

朔夜は、叫んだ。

美月が、振り向いた。

その瞬間、影の長い指が、美月の肩に、触れた。

「…………っ」

美月の目が、虚ろになった。

怯えた表情が、すうっと、抜け落ちていく。

ぼんやりと、空を見つめる。

「美月ちゃん!」

朔夜は、地面を蹴った。

戦鎚を腰に戻して、全力で駆け出す。

あまねが、背中で、しっかりと掴まっている。

芹香の銃声が、朔夜の進路を切り開いた。

ぱん、ぱん、ぱん。

影たちが、揺らぐ。

その隙間を、朔夜は、駆け抜けた。

美月のもとへ。

十メートル。

五メートル。

影の腕が、美月の肩から、頬へ、這い上がろうとしている。

「触らないで!」

朔夜は、戦鎚の鎚頭を、影の腕へ叩きつけた。

ぱき。

白い亀裂が走って、腕が砕け散る。

影が、ぐらりと揺らいだ。

朔夜は、その隙に、美月の肩を、両手で掴んだ。

触れている。

「美月ちゃん!」

「…………」

「わたし、朔夜! 橘朔夜だよ!」

「…………」

美月の瞳は、虚ろなままだった。

唇が、ぼんやりと開いている。

何も、映していない。

「朔夜だよ! 同じ部屋の!」

「…………」

「お守り、縫ってくれたでしょ!」

美月の睫毛が、ぴくりと震えた。

「朝ごはん、一緒に食べる約束したでしょ!」

「…………」

「美月ちゃん!」

朔夜の声が、震えた。

涙が、頬を伝った。

その涙が、美月の頬に、ぽとりと落ちた。

「……さ」

美月の唇が、微かに動いた。

「さ、く」

「うん!」

「さくや……ちゃん」

「うん! そう! 朔夜!」

美月の瞳に、光が戻った。

焦点が、ゆっくりと朔夜の顔に合う。

その瞳が、みるみる潤んで、大粒の涙が溢れた。

「……さくやちゃん」

「うん」

「こわかった」

「うん。もう大丈夫」

「わたし、いま、なにも、わからなくなって」

「うん。でも、思い出せたね」

朔夜は、美月を、ぎゅっと抱きしめた。

細い身体が、ぶるぶると震えている。

背後で、影たちが、じわりと迫っていた。

朔夜は、美月を抱いたまま、戦鎚を片手で振るった。

ごっ。

近づく影を、光に変える。

それでも、数が多すぎた。

避難の列が、乱れていた。

教官たちの怒号が、飛び交っている。

訓練生たちが、泣きながら、互いにしがみつき合っている。

その前に。

小さな影が、立ちはだかった。

竹刀を握りしめた、眼鏡の少女。

「みんな、下がって!」

佐伯だった。

震える声で、けれど、まっすぐに叫んでいる。

その隣に、中村と、高橋が、並んでいた。

三人の少女が、竹刀を構えて、影の前に立っている。

竹刀の先が、がたがたと震えていた。

けれど、一歩も、退かなかった。

「橘さんが、帰ってくるって、言ったんです!」

佐伯の声が、夜の庭に響いた。

「だから、私たちも、ここを守ります!」

朔夜の胸が、じんと熱くなった。

「佐伯さん!」

「橘さん!」

「ありがとう!」

朔夜は、笑った。

涙を流しながら。

「でも、その竹刀じゃ、影には効かないの!」

「えっ」

「触られたら、名前を取られちゃうから!」

「名前を」

「近づかないで!」

佐伯は、はっとして、竹刀を握りしめた。

けれど、退かなかった。

その背中に、中村と高橋が、寄り添った。

三人の少女が、避難の列を、背中に庇って立っている。

影の列が、ゆっくりと、迫ってきた。

十メートル。

五メートル。

そのとき、夜の庭に、凛とした声が、響き渡った。

「全員、止まれ」

低く、よく通る声だった。

朔夜は、顔を上げた。

庭の入口、渡り廊下の暗がりに、濃紺の教官服の影が、立っていた。

鬼塚教官だった。

その腕には、一冊の分厚い古びた本が、抱えられていた。

布で包まれた、擦り切れた、茶色い本。

鬼塚は、ゆっくりと、庭の中央へ歩み出た。

影たちが、ぴたりと動きを止めた。

顔のない黒い曲面が、一斉に、鬼塚のほうへ向けられる。

「……橘」

「はい!」

「見せたいものがあると、言ったな」

鬼塚は、抱えた本を、布から解いた。

古い、分厚い、台帳だった。

表紙には、黒い墨で、掠れた文字が書かれていた。

『霖ヶ谷 住民台帳』

「これは」

朔夜は、息を呑んだ。

「四十年前の、霖ヶ谷の」

「ああ」

鬼塚は、静かに頷いた。

その眼鏡の奥の瞳が、ひどく深く、穏やかだった。

「私の母は、あの谷の、生き残りだ」

「えっ」

芹香が、息を止めた。

「母は、当時、六歳だった。山崩れの夜、雨の中から、ひとり、助け出された」

鬼塚は、台帳の表紙を、そっと撫でた。

「母が、死ぬまで、手放さなかった」

「…………」

「そして、よく、話していた」

鬼塚の視線が、ゆっくりと、朔夜の背中へ移った。

あまねの顔へ。

「雨の中に、片目の違う子供がいたと」

あまねの瞳が、見開かれた。

「その子は、最後まで、村の者を庇って、雨の中に残ったと」

「…………」

「だから」

鬼塚の声が、わずかに震えた。

「あの子供を見たとき、私は、すぐに分かった」

「教官」

「母の言っていた子が、本当にいたのだと」

朔夜の目から、涙が溢れた。

「……だから、あのとき」

「ああ」

「あまねくんの顔を、じっと」

「見ていた」

鬼塚は、短く答えた。

それから、顔を上げて、影の群れを、まっすぐに見据えた。

その唇が、ゆっくりと開いた。

「……山本、ハツ」

低く、静かな声が、夜の庭に響いた。

影の一体が、ぴくりと動いた。

「山本、ハツ」

鬼塚は、もう一度、繰り返した。

「七十三歳。霖ヶ谷、二丁目、三番地」

影の黒い曲面に、細い、白い線が、一本、走った。

目のあたりに。

その線が、ゆっくりと、開いた。

涙の滲んだ、老いた、優しい目が、そこに現れた。

「…………あ」

影が、掠れた声を漏らした。

「わたし……は」

「あなたの、名前です」

鬼塚の声が、震えた。

「ずっと、呼ばれるのを、待っていた」

影の輪郭が、すうっと、柔らかく、人の形に近づいていく。

白髪を結った、小柄な老婆。

質素な割烹着。

その顔が、くしゃくしゃになって、涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。

「ああ……ああ……」

老婆は、両手で顔を覆った。

「思い出した……わたし……」

「はい」

「ハツ……ハツ……」

鬼塚は、台帳の頁をめくった。

その手が、かすかに震えていた。

「次。三島、清」

別の影が、動いた。

「三島、清。四十二歳。霖ヶ谷、一丁目、七番地」

影の顔に、また、白い線が走る。

今度は、男の顔だった。

髭を蓄えた、逞しい顔。

その目が、大きく見開かれて、それから、涙で歪んだ。

「清……そうだ……わしは、清だ……」

「次。川瀬、ミツ」

「川瀬、ミツ。二十八歳。霖ヶ谷、四丁目」

鬼塚は、一人ずつ、名前を呼んでいった。

低く、静かに、けれど、確かに。

その声が、夜の庭に、ひとつ、またひとつと、響くたびに。

黒い影が、ひとつ、またひとつと、人の姿を取り戻していく。

老人。

壮年の男。

若い母親。

幼い子供たち。

誰もが、泣いていた。

誰もが、自分の名前を、震える声で、繰り返していた。

朔夜は、その光景を、美月を抱いたまま、呆然と見つめていた。

「……名前」

呟いた。

「あまねくんが言ってたこと」

あまねが、背中で、小さく頷いた。

「うん」

「帰りたいだけって」

「うん」

「名前を、思い出したら」

「うん」

あまねの声が、震えていた。

「みんな、かえれる」

朔夜は、頷いた。

涙を、袖で拭った。

「先輩!」

「ええ!」

「みんなで、呼ぼう!」

「ええ!」

芹香が、銃を下ろして、駆け寄ってきた。

「台帳を、手分けして!」

「佐伯さん!」

朔夜は、叫んだ。

佐伯が、目を丸くして、振り向いた。

「は、はいっ!」

「名前、呼ぶの手伝って!」

「な、名前?」

「うん! 台帳の! 鬼塚教官のとこに行って!」

「わ、分かりました!」

佐伯は、竹刀を腰に挟んで、駆け出した。

中村と、高橋も、続く。

鬼塚は、驚いたように三人を見て、それから、わずかに、口元を緩めた。

「……頼む」

「はいっ!」

台帳が、四つに分けられた。

鬼塚が、前半を。

芹香が、中盤を。

佐伯たち三人が、後半を、一頁ずつ、受け持った。

そして、夜の庭に、名前を呼ぶ声が、重なって響き始めた。

「田村、吉蔵!」

「中谷、さち!」

「橋本、ゆき!」

「石田、健!」

朔夜も、美月の手を握ったまま、ひと頁を、受け取った。

古びた紙に、墨の細い字が、びっしりと並んでいる。

その一行ずつに、確かに、誰かの人生があった。

朔夜は、息を吸って、声を張り上げた。

「森下、トミ! 六十八歳!」

「…………」

「霖ヶ谷、五丁目、二番地!」

庭の隅で、一体の影が、ゆっくりと振り向いた。

「……トミ」

その輪郭が、柔らかく、解けていく。

白髪の小柄な女性が、そこに現れた。

皺だらけの顔が、涙でくしゃくしゃになっている。

「ああ……トミは……わたしだ……」

「はい」

朔夜は、涙を流しながら、笑った。

「お帰りなさい」

「…………」

「やっと、呼べました」

老婆は、両手を合わせて、深く、深く、頭を下げた。

庭中に、名前が、満ちていった。

四十年間、雨の底に沈んでいた名前たちが。

ひとつ、またひとつと、夜気の中に、解き放たれていく。

そして。

名前を取り戻した人々の身体から、淡い白い光が、立ち昇り始めた。

最初は、ほのかな粒だった。

それが、次第に、数を増して、庭一面を、ふわふわと漂い始める。

蛍のような。

雪のような。

優しい、静かな光の粒たち。

「……ありがとう」

誰かが、囁いた。

「ありがとう」

「ありがとうよ」

「ありがとう、お嬢ちゃん」

その声が、重なり合って、夜の庭に、柔らかく響いた。

朔夜は、その光景を、胸が張り裂けそうな思いで見つめていた。

「……でも」

芹香が、低く呟いた。

「帰る場所が」

「うん」

朔夜は、頷いた。

「ここは、もう、あの人たちの、家じゃない」

「ええ」

「どこに、帰ればいいんだろう」

そのとき。

背中のあまねが、そっと、朔夜の耳元で囁いた。

「おねえちゃん」

「うん」

「ぼくと、いっしょに、とびらを、あけよう」

朔夜は、はっと顔を上げた。

「いま」

「うん。ここで」

「ここで」

「ちいさく、ちいさく、あけるの」

あまねは、朔夜の背中から、そっと降りた。

小さな足が、芝生の上に、ぺたりと着いた。

その右手が、朔夜の左手を、きゅっと握った。

冷たく、小さな掌。

けれど、確かに、温かい。

「ぼくのひかりと、おねえちゃんのひかり」

「うん」

「ふたつ、あわせたら」

「うん」

「ちいさな、とびらが、つくれる」

朔夜は、戦鎚を、右手に握り直した。

あまねの手を、左手で、しっかりと握りしめた。

胸の奥の残り火が、とくん、とくん、と、静かに脈打っている。

その鼓動が、あまねの掌の鼓動と、完全に重なっていた。

「先輩」

「ええ」

「ちょっとだけ、見てて」

「見ているわ」

芹香の声が、静かに響いた。

「あなたの背中は、私が、守る」

朔夜は、笑った。

「うん」

そして、あまねと、顔を見合わせた。

琥珀色の瞳と、銀青色の瞳が、静かに、重なった。

「いくよ」

「うん」

朔夜は、戦鎚を、空へ向けて、掲げた。

鎚頭が、二色の光を、夜空へ放った。

琥珀色。

銀青色。

その光が、庭の中央の空間に、集まっていく。

渦を巻いて。

溶け合って。

やがて、空中に、ひとつの、小さな輪が、浮かび上がった。

淡く光る、円。

直径は、人がひとり、ようやく通り抜けられるほど。

その輪の内側に、見たことのない景色が、ぼんやりと映っていた。

どこまでも静かな、広大な水面。

夜明け前の空のような、淡い藍色の光。

その彼方に、ゆらゆらと揺れる、無数の小さな灯り。

「……あれ」

朔夜は、息を呑んだ。

「あれが、向こう側」

あまねが、静かに言った。

「さむいけど、あかるい、ばしょ」

「…………」

「みんなの、ふるさと」

光の粒となった人々が、輪へ向かって、ゆっくりと、昇っていく。

一人。

また一人。

老いた女性が、振り返って、深く頭を下げた。

髭の男が、涙を流しながら、手を振った。

幼い子供たちが、母親の手を握って、輪の中へ、そっと歩み入っていく。

その背中が、光の中へ、溶けていく。

「ありがとう」

「ありがとう」

「ありがとう」

囁きが、夜空に、遠く、遠く、響いていった。

朔夜は、涙で滲んだ視界で、その光景を、しっかりと見つめていた。

最後の一人が、輪の中へ消えたとき。

輪が、ふわりと、揺らいだ。

そして、すうっと、小さくなって、消えた。

庭に、静寂が、戻った。

黒い水たまりは、いつの間にか、ただの、夜露に濡れた芝生に戻っていた。

影の姿は、どこにもなかった。

朔夜は、へなへなと、芝生の上に膝をついた。

あまねも、隣で、ぺたんと座り込んだ。

「……できた」

朔夜は、呟いた。

「できたね」

「うん」

あまねは、にっこりと笑った。

その笑顔は、朔夜が見た中で、いちばん、澄み切っていた。

「おねえちゃん、ありがとう」

「こちらこそ」

朔夜は、あまねを、ぎゅっと抱きしめた。

小さな身体が、胸の中で、ほかほかと温かかった。

*

夜が、少しずつ、薄まっていった。

東の空が、わずかに青みを帯びてきた頃。

旧療養棟の縁側に、朔夜と芹香と、あまねが、並んで腰を下ろしていた。

縁側の板は、冷たく、夜露に湿っている。

けれど、三人の間の空気は、温かかった。

庭の向こうでは、避難から戻ってきた訓練生たちが、教官の指示で、荷物を運んでいる。

その喧騒が、遠く、穏やかに響いていた。

美月は、朔夜の隣で、ずっと手を握ったまま、眠そうに目をこすっている。

「……ごめんなさい」

「ううん」

「わたし、何も、できなくて」

「そんなことない」

朔夜は、美月の頭を、そっと撫でた。

「美月ちゃんが、名前を思い出してくれたから、わたしも、がんばれた」

「…………」

「ありがとう」

美月は、くしゃりと笑った。

その背後に、佐伯たち三人が、よろよろと歩いてきた。

竹刀を抱えて、汗と埃にまみれて、それでも、誇らしげな顔をしている。

「橘さん」

「お疲れさま」

「私たち、役に立てましたか」

「うん。すごく」

朔夜は、立ち上がって、佐伯の手を、両手で包んだ。

「名前、いっぱい呼んでくれて、ありがとう」

「いえ」

佐伯は、頬を真っ赤にして、俯いた。

「橘さんが、帰ってくるって、言ってくれたから」

「うん」

「だから、私たちも、ここにいたいって、思ったんです」

朔夜は、胸がじんと熱くなって、ただ、頷いた。

「……橘」

背後から、静かな声が、かかった。

振り返ると、鬼塚が、縁側の端に立っていた。

濃紺の教官服は、埃と夜露で汚れている。

眼鏡の奥の瞳は、赤く腫れていた。

その腕には、あの古びた台帳が、まだ抱えられていた。

「教官」

「…………」

「ありがとうございました」

朔夜は、深く頭を下げた。

「教官が、台帳を持っていてくれたから」

「礼は、要らん」

鬼塚は、短く答えた。

けれど、その声が、わずかに掠れていた。

「……母の名も、あった」

「え」

「呼べなかった」

鬼塚は、台帳の表紙を、静かに撫でた。

「母は、死んだ。この谷の外で」

「…………」

「だから、あの影たちの中には、いなかった」

「…………」

「だが、私は」

鬼塚は、一度、言葉を切った。

眼鏡を外して、指先で、目頭を押さえる。

「……母が、救えなかった人たちを、救えた」

その一言に、朔夜の目から、涙が、溢れた。

「はい」

「それだけで、十分だ」

鬼塚は、眼鏡を掛け直した。

その横顔に、朝焼けの最初の光が、淡く差した。

「橘」

「はい」

「行くのか」

「はい」

朔夜は、顔を上げた。

「あまねくんと、霖ヶ谷へ」

「…………」

「向こう側には、まだ、名前のない人たちが、たくさんいます」

「ああ」

「その人たちも、帰してあげたいんです」

鬼塚は、数秒、朔夜を見つめていた。

それから、台帳を、朔夜の腕の中へ、そっと押しつけた。

「持っていけ」

「えっ」

「必要になる」

「でも、これは、お母さんの」

「だから、だ」

鬼塚の唇が、ほんのわずかに、持ち上がった。

「母も、そうしろと、言うだろう」

朔夜は、台帳を、胸に抱きしめた。

古い紙の匂いと、墨の匂いが、ほんのりと立ち昇った。

その重みが、ずしりと、確かな実感として、腕に沈んだ。

「……はい」

「死ぬな」

「はい」

「全員で、帰ってこい」

「はいっ」

*

会議室の窓際に、参事官が、ひとり、立っていた。

東の空が、淡い薔薇色に染まり始めている。

その光が、広い黒硝子に、柔らかく反射していた。

朔夜と芹香は、扉の前で、足を止めた。

あまねの手を、二人で、片方ずつ握っている。

「……来たか」

参事官は、振り返らなかった。

窓の外の庭を、見下ろしている。

芝生の上には、まだ、淡い光の粒が、ほんのりと漂っていた。

「見ていた」

「…………」

「あの、庭で起きたことを」

参事官の声は、低く、静かだった。

「影が、人に戻った」

「はい」

「名前を呼ぶことで」

「はい」

「そして、小さな扉を、君たちは開いた」

「はい」

参事官は、ゆっくりと、振り返った。

その窪んだ眼窩の奥の瞳が、朝焼けの光を受けて、わずかに、柔らかく見えた。

「……理論上は、不可能だと考えていた」

「…………」

「鍵を開くとは、世界を壊すことだと」

「…………」

「だが、君たちは、そうではなかった」

参事官は、一歩、朔夜へ近づいた。

「橘訓練生」

「はい」

「君に、許可を与える」

朔夜の呼吸が、止まった。

「霖ヶ谷への、再突入」

「…………」

「期限は、本日の正午まで」

「正午」

「それまでに、扉を開き、雨を止められなければ」

参事官は、短く、息を吸った。

「本部は、谷を、閉鎖処置する」

「閉鎖、処置」

芹香が、低く繰り返した。

「谷ごと、焼却する」

その言葉が、朝焼けの静かな部屋に、冷たく響いた。

朔夜は、唇を結んだ。

あまねの手が、きゅっと、朔夜の指を握りしめた。

「……そこには」

「ああ」

「まだ、向こう側の人たちが」

「分かっている」

参事官の声が、ほんのわずかに、揺れた。

「だから、君たちに、この猶予を与える」

「…………」

「正午までに、結果を出しなさい」

「はい」

朔夜は、顔を上げた。

琥珀色の瞳が、朝焼けの光の中で、きらりと輝いた。

「必ず」

「…………」

「出します」

参事官は、朔夜の瞳を、じっと見つめた。

それから、ふっと、息を吐いた。

「……生きて、帰ってきなさい」

「はい」

朔夜は、にっと笑った。

「また、朝ごはん、食べに」

*

正門の前の石段に、朝の光が、静かに降り注いでいた。

銀杏の並木が、黄金色に輝いている。

夜露に濡れた葉が、一枚一枚、小さな宝石のように光っていた。

その下に、人影が、いくつも並んでいた。

佐伯。

中村。

高橋。

美月。

そして、道場で一緒に汗を流した、十数人の少女たち。

その後ろに、丸顔の調理員が、割烹着姿で、大きな包みを抱えて立っている。

詰所の窓から、白髪の老人が、顔を覗かせていた。

壁際の影には、濃紺の教官服の女が、背筋を伸ばして立っていた。

朔夜は、石段の上で、足を止めた。

胸が、いっぱいになった。

「……みんな」

「いってらっしゃい」

最初に声を上げたのは、美月だった。

震える声だった。

けれど、はっきりと、朝の空気に響いた。

「いってらっしゃい、朔夜ちゃん」

「…………」

「待ってる」

朔夜は、笑った。

涙が、頬を伝った。

「うん」

「ぜったい、帰ってきて」

「うん」

「ご飯、一緒に」

「うん!」

調理員が、大きな包みを、朔夜の腕に押しつけた。

「ほら、おにぎり! 三人分だよ!」

「おばさん」

「たんと食べて、たんと帰ってきな!」

「はいっ!」

佐伯が、竹刀を高く掲げた。

「素振り、百回、続けます!」

「うん!」

「橘さんが帰ってきたら、一本、取ります!」

「うん! 待ってる!」

十数本の竹刀が、朝日を受けて、きらきらと輝いた。

芹香が、朔夜の隣に並んだ。

肩には、長い狙撃銃。

腰には、細身の銀色の拳銃。

その手には、あまねの小さな手が、しっかりと握られている。

「準備は、いい?」

「うん」

「あまねくんも」

「うん」

あまねが、にっこりと笑った。

その左の琥珀色の瞳が、朝日を受けて、ほんのりと金色に輝いた。

右の銀青色の瞳が、静かに、遠い北の空を見据えている。

三人は、顔を見合わせた。

言葉は、いらなかった。

朔夜は、一歩、石段を降りた。

靴底が、砂利を、ざり、と踏んだ。

その音が、朝の空気の中で、澄んで響いた。

背後から、少女たちの声が、一斉に降ってきた。

「いってらっしゃい!」

朔夜は、振り返らなかった。

ただ、右手を、高く、空へ掲げた。

ひらり、と、手を振る。

その背中に、朝日が、金色に降り注いだ。

三つの影が、石畳の道に、長く伸びていく。

並んで。

重なって。

そして、その遥か北の空では。

どす黒い雲が、朝焼けの端を、静かに、侵食し始めていた。

雷が、遠く、低く、唸った。

けれど、朔夜は、怯まなかった。

胸の奥で、残り火が、穏やかに、強く、脈打っている。

隣には、芹香がいる。

手の中には、あまねの温もりがある。

背中には、みんなの祈りがある。

琥珀色の瞳が、まっすぐに、北の空を見据えた。

その瞳の奥に、ほんの一粒、名前のない色が、静かに煌めいた。

「……行こう」

朔夜は、囁いた。

「全部、ほどきに」

三人は、並んで、朝の道を、歩き出した。

迎えを待たずに。

誰の手も借りずに。

自分たちの足で。

その背中が、朝日の中へ、少しずつ、溶けていく。

そして、遠い、遠い、雨の彼方で。

扉が、静かに、息をした。

――第4章 了

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作者について

紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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